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ロベルト・ボラーニョ 『野生の探偵たち』

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チリ生まれの小説家、ロベルト・ボラーニョの長編を読む。70年代のメキシコにおける前衛詩人のグループを描いた青春群像劇……として読むこともできるのだが、読む人によって小説の内容の理解が大きく異なるんじゃないか。

3部構成の1部と3部は、詩人を目指している若者の日記という形式で書かれているのだが、メインとなっている2部は、前衛詩人グループのリーダー格だった2人の詩人(うち、ひとりはボラーニョ自身の人格が投影されている)について総勢50人を超える人物がインタヴューに応えているという形式になっている。物語の主人公はたしかにリーダー格の2人なのだが、彼らは常にだれかの語りのなかでしか登場しない。なにか物語の中心がぽっかりと空位になっているのだが、空位だからこそ、逆説的に中心の存在が際立つようである。で、小説のなかにはタイトルにある「探偵」はでてこない。読者自身が探偵のように、物語の謎を追うようなしかけになっている。

Wikipedia(英語版)のボラーニョのページによれば、本作がコルタサルの『石蹴り遊び』と比較されているというのだが、それも納得(あとキューバのホセ・リマという作家の『楽園』の比較対象にあげられている。ホセ・リマの小説は翻訳がない)。『石蹴り遊び』のように断片がバラバラに散りばめられているのではなく、時間の流れは直線的に進んで行くので『野生の探偵たち』のほうがかなり読みやすい。ただ、なにせ50人以上の語りだから、語りの種類は一辺倒でなく、かなり多様だ(インタヴュイーのなかには、主人公そっちのけで奇妙な半生を語りだす人物もいたりして)。そういう語りが咲き乱れっぷりがすでに面白い。全体としても面白い小説だし、全体を作るひとつひとつのパーツも面白いのだ。

スゴい作家だとは聞いていたが、小説はこんな風に書けるのか(こんな小説の読ませ方があるのか)と魂消るような作品であった。

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