平山昇 『初詣の社会史: 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム』

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初詣の社会史: 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム
平山 昇
東京大学出版会
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新年の伝統行事として親しまれている「初詣」。古来から日本人は初詣をしてきた……ようなイメージを持っている人が多いだろうし、日本人として育ったなら初詣にいくのは当たり前でしょ? ぐらいに思っている人は多そうだ。

そういう行事が実は近代以降の「創られた伝統」、つまりはコンビニなどによる恵方巻ブームや、製菓メーカーによるヴァレンタインチョコレート、とそんなにレヴェルが変わっていない、というのはショッキングな話であるし「そんなハズはない! ウチでは先祖代々、新年には初詣をしてきたんだ!」と怒り出す人さえいるかもしれない。しかし、歴史家たちの調査によれば、初詣という言葉が一般的になるのは明治時代以降の話、それまでそういう風習は日本に見られなかった。

この「初詣 = 創られた伝統」説の指摘は、本書の著者が初めて行ったわけではなく、20年前に別な歴史家が指摘している。しかし、これまでの研究者が「初詣を明治以降のナショナリズムのからみで、権力が上から創出したもの」としていたのに対して、著者は「そんなに上から創ったものが簡単に広まるものなのか」という疑問を呈する。だが、実際にその創られた伝統は広まってしまった。それは、なんで? この理由を明らかにするために、著者は鉄道会社がおこなった宣伝などに目を向ける。明治時代の鉄道会社が利用促進を促すために「新年は郊外のありがたい神社にお参りしましょう!」というプロモーションをおこなったのがきっかけで、初詣は広まった、というのである。

それだけだと鉄道会社だって大きな資本( ≒ 権力)だし、上から創ったものがそんな簡単に広まるものなの? という疑問に戻ってきてしまうのだけれども、本書は、初詣の前に存在していた新年の風習が、鉄道会社のプロモーションによって再編成されていったことを明らかにすることで、その疑問への逆戻りを回避している。

初詣以前には、恵方詣という風習があった。これは新年にその年の縁起が良い方向の神社を参拝する、という風習で縁起モノ好きな下町の人たちに馴染みがあるものだったらしい。この恵方詣、もともとは自分の家から縁起が良い方向に、ということだったのだが、鉄道会社がプロモーションで「東京から見て恵方は川崎大師です!」とか言って、東京の人々を郊外散策を含めたレジャー(鉄道会社としては鉄道の利用促進)として恵方詣をダイナミックに読み替えてしまうのである。

しかし、恵方は5年周期でしかやってこないので、恵方詣キャンペーンは毎年は使えない。なので、川崎大師なり成田山なりが東京から見て恵方に当たらない年は「初詣」というあまり馴染みのない言葉を使って「お正月といえば川崎大師に初詣!」みたいな形でプロモーションをおこなっていたんだって。もう、毎年オリンピックみたいなものであるが、結局、そういうのが初詣を成立させたのだ。

面白いのは、当時の上流階級はこういうガヤガヤした新興の習慣をあんまり快く思ってなかった、ということだ。これはアレだな、まるで今のハロウィーンのような感じで、ウェーイ、とか言ってるの嫌だなぁ、ってことだと思うんだけれども(なにしろ、初詣なんかお屠蘇気分だし)、今はそうじゃないでしょ。今は金持ちも知識人も初詣に当たり前の顔をして行っている。今の初詣は、社会階層に関係なく行くものになっている。

下々の人のレジャーだったものが万遍なく行き渡ったこの変化には、強くナショナリズムが関わっていると本書は指摘する。この分析が大変面白くてですね、それまで初詣なんかバカにしていた階層から「やっぱり正月といったら初詣にいかなきゃ、国民にあらず!!」みたいなことを言い出すヤツがでてくるんである。こないだ覚えた言葉を使うなら、ここにループ効果が見出せる。下の階層で流行った初詣が、上の階層で意味を読み替えられて、再度下に放流され、初詣は一大国民行事になったのだ。

いや、これ、スゴい本だと思いますね。初詣からここまで話を広げますか、っていう感じだし、めちゃくちゃ面白かった。引用されている初詣やナショナリズムをめぐる当時の新聞記事もイチイチ面白くて(なかには、なんかハチャメチャな意見も含まれている)、著者がそうしたハチャメチャな記録の味わいを楽しんでいる感じもして良かったです。

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