アンソニー・グラフトン 『テクストの擁護者たち: 近代ヨーロッパにおける人文学の誕生』

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テクストの擁護者たち: 近代ヨーロッパにおける人文学の誕生 (bibliotheca hermetica 叢書)
アンソニー グラフトン
勁草書房
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翻訳作業のお手伝いをしたアンソニー・グラフトンの『テクストの擁護者たち』を読み終える。本書の内容については、すでに原書を紹介したときにもあらかた書いてしまったが、改めてどんな本なのか紹介しておこう。

本書はルネサンスから近代という長い時間軸のなかで当時の知識人たちがどんな風にテクストを読んだり、肯定したりしたのか、という知の営みの歴史を扱っている。そこで登場するのは、たとえば、デカルトだとかスピノザだとか、西洋思想史界のスーパー・スター的な人物たちではない(第7章で扱われているケプラーが例外か)。「歴史」のなかでほとんど無視されてきたような、知識人たちである。そうした忘れられた知識人たちによって、文献学やテクスト校訂の技術が培われ、現代にまで引き継がれる礎を作られたのだ……というのが、本書のおおまかなストーリーになるだろう。

特筆すべきなのは、グラフトンの歴史記述の方法だ。これは本書巻末に寄せられた監訳者による文章でも触れられているけれど、グラフトンはこの仕事を「非合理から合理性へとむかう単線的な発展」としては描いていないし、また忘れられた知識人のなかから「本当は、この人が重要なんだ!」と(無理やりたとえるならば、昭和プロ野球史から榎本喜八 = 最強バッター説を唱えるようなやり方で)新たなスーパー・スターを発掘するような仕事でもない。そういうわかりやすい記述ではないのだ。

第1章からそう。ここでは冒頭からルネサンス期のイタリアでおこった論争が紹介されている。「古代のテクストは、今を生きる人がキケロのように優れた弁論家になるための模範として読まれるべきだ!(だから、古代のテクストが書かれた歴史的状況はあんまり重要じゃない)」という学者たちのグループと「いや、そのテクストが書かれた背景を理解しないと、そのテクストを本当に読んだことにならないのでは!?」という学者たちのグループの争いだ。

単線的な発展として歴史を描こうとすると、すぐに「どちらのグループのほうが優れていて、生き残ったのか」という話になりがちだ。しかし、そうじゃない。簡単にラベリングして、勝ち負けは決められないのだ。古代のテクストから教訓を抽出する読み方をしていたグループが、テクストの歴史性を重要視するグループによって考えられたテクストの読み方の技術を使用することで、テクストをよく理解できるようになり、さらに深い教訓を引き出した、という例がわかりやすいだろう。敵対したグループのように見えるものが相互に関連しあっている。

だから、読み方には気をつけなくてはいけないのだ。各章ではそれぞれメインとなる登場人物がいる。ポリツィアーノ、スカリゲル、カゾボン、ラ・ペイレール……ついつい読者は、彼らがどれだけスゴいことをやっていたのか、というストーリーを期待してしまう。しかし、そういうストーリーを期待させておきながら、グラフトンは、メインとなる登場人物の業績を媒介として、彼らの生きた時代、もう少し言葉を補うと「彼らが生きた時代の知的な環境」を描き出そうとしているのだ。そこではむしろ、個々の人物が脇役になる。

そうした記述が、本書の歯切れの悪さのようなものを生んでいることも確かだ(だれもが、榎本喜八は王や長島、野村よりスゴかったんだ! というストーリーのほうがわかりやすくて楽しんで読めるわけで)。

また、第1章の15世紀のイタリアから最後の第9章の19世紀のドイツまでテクスト研究の技術は脈々と受け継がれていくことはわかる。しかし、各章の登場人物が持っているものを次の章の登場人物が引き継いで……という系譜が描かれているわけではない。それも「長い話をしてたけど、結局、なんだったの?」という感想を抱かせるかもしれない。「よくわからない人が、ゴチャゴチャ、いろいろとやっていました。で?」という感想で終わってしまうかもしれない。でも、時代って、そういうものじゃん、とも思う。ゴチャゴチャしている。そこが面白い。

ただ「ゴチャゴチャしているのが面白い」……とはいえ、第4章の「スカリゲルの年代学」は読んでいて気絶するほどツラい記述が続く(一番の難所かもしれない)。なのでツラくなったらケプラーがでてくる第7章や、ラ・ペイレールがでてくる第8章を読んで気分転換をすると良いと思います。とくにキャッチーなのは第7章。第1章を読んだら、第7章を読む、というのが良いのかもしれない。

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