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1月, 2016の投稿を表示しています

金井壽宏 『リーダーシップ入門』

リーダーシップ入門 (日経文庫) posted with amazlet at 16.01.30 金井 寿宏 日本経済新聞社 売り上げランキング: 19,757 Amazon.co.jpで詳細を見る たまには仕事関係の本を。 先日読んだブログ記事 「実際に読んで選んだマネジャーのための100冊」 から一冊選んで読んでみた。「この本を読めば、たちどころに組織の中でリーダーシップを発揮できるようになる!」ような魔法の本ではない。そもそも、そういう本は存在しない。だが、本書は二重の意味で優れた本だと思う。ひとつは研究によって見出されたリーダーシップに関する「理論」や、実務家(有名企業の偉い人)が実践の中から見出して言語化した「持論」に触れられる教科書としての意味合い。もうひとつは(というか本書は、こちらのほうを狙って書かれているのだけれど)自分でリーダーシップを身につけて実践するための勉強法を指南するテクストとしての意味合い。よくこの手のヒューマンスキル系の研修を受けると「ちょっとグループで(隣の人と)話し合ってみてください」とか講師にやらされるけれど、ああいうのがエクササイズとして収録されていて、能動的な学習を促す作りとなっている。大変勉強になりました。 仕事をするうえでどうやったら、うまくチームが機能するか。会社員ももうすぐ10年目になるわけだから、それなりに考えることはあるけども、こういう本をきっかけにそれこそ自分の「持論」として言語化することができそうである。それは理論的な枠組みの中の言葉でなくても内省が大事。

『集英社ギャラリー「世界の文学」(12) ドイツ3・中央・東欧・イタリア』

ドイツ3・中欧・東欧・イタリア/集英社ギャラリー「世界の文学」〈12〉 posted with amazlet at 16.01.30 フランツ・カフカ 集英社 売り上げランキング: 629,011 Amazon.co.jpで詳細を見る こういう選集モノって高価だし、重いし、扱いにくい部分があるんだが、集英社から出ている「世界の文学」シリーズでもこの巻はなかなか良い。ドイツに中欧・東欧にイタリアってどんな雑な組み合わせだよ、という感じであるのだが、こんな内容が収録されている。 カフカ 変身 流刑地にて 田舎医者 断食芸人 巣穴 判決 ムージル 三人の女 ゴンブローヴィッチ フィルディドゥルケ シュルツ 肉桂色の店 クンデラ 存在の耐えられない軽さ モラヴィア 侮蔑 パヴェーゼ 短編集 カフカ、ゴンブローヴィッチ、シュルツの本はすでに読んだことがあったが、これだけ入ってて古本屋で1000円以下で売ってたりするのだから、見つけたら買いでしょう。各作家に関する情報も巻末に詳しく載っているのも良い。そして、こういうコンピレーション本に入ってなかったらモラヴィアなんか読むことなかっただろう、と思った。 そう、このなかでモラヴィアの『侮蔑』(新訳だと『軽蔑』になっている小説。未見だがゴダールが映画化している)がめちゃくちゃ良かった。ものすごく雑に言ってしまうと、現代イタリア最強のNTR小説。若い夫婦の夫の視点で綴られているんだけれども、なんか個人的な経験をギンギンに喚起しまくって、読んでいて本当にツラくなる部分もある。「最近、なんだか妻の様子がおかしいぞ(なんか俺やったっけな……?)」というちょっとしたギクシャクが、夫婦の関係を最終的にメタメタに壊してしまう。 主人公の夫がまたメタクソに鈍感で、その鈍感力も相まって妻に対して「もしかして昔のあのことで怒っているんだろう!」と原因を追求しようとするのね。でも、それが的外れだったりして「え、違うの……なんなの……」と煩悶するんです。これが、もうさ、読んでてツラかった。それ一番やっちゃいけない問い詰め方じゃん、とも思うし、問い詰めたい気持ちもわかる。付き合っている女性とギクシャクしたことがある男性は、みん

梅原猛 『梅原猛著作集(4) 地獄の思想』

梅原猛著作集〈4〉地獄の思想 (1981年) posted with amazlet at 16.01.23 梅原 猛 集英社 売り上げランキング: 629,611 Amazon.co.jpで詳細を見る むかーし、ブックオフで投げ売られていた梅原猛の本を読了。この著作集には 『地獄の思想』 と 『古典の発見』 という日本文学を扱った著作が収録されている。わたし、この著者についてこれまでよく知らずにいて、2011年に大きな地震があったとき、政府から有識者としてなんかの会議に呼ばれていた(この会議、果たしてどういう成果をあげたんだろうか? 福島出身の芥川賞作家のお坊さんとかも参加していたが)ぐらいだから、なんか日本の思想界の偉い人なんだろう、立派な業績もあって、とか勝手に思っていたんだが、実は「大先生」系の人なのね。 『地獄の思想』では、仏教の思想を勝手に3つに分類し、そのうちの「地獄の思想」が日本文学の根底をなしている! という観点から、源氏物語や平家物語などなどを読み解いていく試みがなされている。この地獄の思想ってどんなものか、っていうと、人間が生きてるなかで出会う苦しいことを誇張した形で表現したものなんだ、という。地獄にはこんな苦しみがある。でも、それって日常の延長線上にある苦しみだよね、と。で、源氏物語や平家物語とかには、そういう苦しみが描かれているんだ、と。近代以降は、宮沢賢治とか太宰のなかに、この地獄の思想が見事に表現されているとかさ。 でも、そんなこと言ったらさ、文学なんかだいたい日常の延長線上にあるじゃんね、とわたしは思ったんである。そしたら、別に日本文学だけじゃなくて全文学が地獄の思想じゃんねー。 「もともと自分は西洋哲学をやっていて、日本文学は専門じゃない。けど好きなんで、専門家にはできない自由な読解でちょっと書いてみたよ」的なことを書いていて、なんか「昔は洋食やってた人がラーメン作ってます」みたいなテイストであると思った。能や短歌、俳句など自分がよく知らない日本の芸能や文学に関して、少し興味をもつきっかけにはなったけれども、この人の読解で、なるほど、みたいなものはあんまりなく、なんでこんな人がたくさん本を書いて出せるの? という不思議ばかりが高まる。

鈴木宣明 『図説 ローマ教皇』

図説 ローマ教皇 (ふくろうの本) posted with amazlet at 16.01.20 鈴木 宣明 河出書房新社 売り上げランキング: 537,633 Amazon.co.jpで詳細を見る 昔、近所のスーパーのワゴンセールかなんかで購入した積読本を消化。同じシリーズで 『馬の博物誌』 は良い本だったのだが、こちらはかなりアレ。日本のカトリックの大学の偉い先生が書いていらっしゃるのだけれど、一般向けにお話しする気がまったくないのでは。難しい言葉がわかるカトリックの方ぐらいにしか通じないんじゃないか……と思う(編集者も困ったんじゃないか)。Amazonのレビューにもそう言った意見が書いてあるが、気持ちがわかる。とはいえ、バチカンに総本山を置くローマ・カトリック教会の組織概要であったり、そもそも、教皇ってなにする人よ、っていう話であったり、列福や列聖の仕組みなど、ちょいちょい勉強になった。が、あんまり図説である意味はない……。2001年に刊行されていて、当時の教皇はヨハネ・パウロ2世、その頃、テレビでヨハネ・パウロ2世の露出が多かった記憶があるけれども、その注目にあやかろうとしたのか……?

村上春樹 『女のいない男たち』

女のいない男たち posted with amazlet at 16.01.19 村上 春樹 文藝春秋 (2014-04-18) 売り上げランキング: 5,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 村上春樹の最新短編集を読む。中身はいつもの村上春樹の小説、という感じであって、ゆるぎないのだが(特に、現実世界の裏側で、よくわからない回路がつながっていて、現実世界になにかをおこしている……らしいのだが、その回路が一体なにを意味しているのかはぼんやりしていて、その意味のぼんやり感、もしかしたらまったく意味なんかない、含みしかない、んだけれどもグッと読まされてしまう感じ)おお、こういう書き方もできるんだ、村上春樹って……と驚かされる部分が多々あり、面白かった。短編ではいろんなことを試している、と作家自身が語っていた気がするけれど、どの短編も語り口がかなり異なっているように思う。それは人によっては微妙な差異かもしれないし、ひょっとすると気づかれないかもしれないけれども。 収録されているなかでは「木野」が一番気に入った。日本の昔話とか怪談とかに、関係をもった女の正体が蛇でお坊さんを呪い殺そうとする……みたいな話があったと思うんだが、なんかそういう雰囲気を醸し出している村上春樹の作品のなかでは異色なんじゃないか、という話である。しかも、後半になって急に怪談めいてきて、終わりのほうなんか、Jホラーが苦手なわたしとしては、怖いな、怖いなぁ、と稲川淳二の心の声で読むことになってしまった。で、この作品の中にさ、こういう表現がでてくるんすよ。 しかしその夜、女は明らかに男に - 現実的には木野に - 抱かれることを強く求めていた。彼女の目は奥行きを欠き、瞳だけが妙に膨らんでいた。 これ読んだ瞬間、ブハハハ、そんなわけあるかい! と心のなかの上田晋也が肛門みたいな顔をして全力で突っ込んだね。瞳だけが妙に膨らむなんかあるかぁ? ないでしょ! でも、その非現実的な表現がさ、ちゃんと表現になって読ませちゃうのが、この作家のスゴいところだと思って、また感心してしまったんですよね……と書いている間に、は、もしかして、これって瞳が大きくなっていることを示す表現であって、虫刺されのあとみたいに瞳だけが盛り上がっているような目を想像しているのは、も

平山昇 『初詣の社会史: 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム』

初詣の社会史: 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム posted with amazlet at 16.01.18 平山 昇 東京大学出版会 売り上げランキング: 310,987 Amazon.co.jpで詳細を見る 新年の伝統行事として親しまれている「初詣」。古来から日本人は初詣をしてきた……ようなイメージを持っている人が多いだろうし、日本人として育ったなら初詣にいくのは当たり前でしょ? ぐらいに思っている人は多そうだ。 そういう行事が実は近代以降の「創られた伝統」、つまりはコンビニなどによる恵方巻ブームや、製菓メーカーによるヴァレンタインチョコレート、とそんなにレヴェルが変わっていない、というのはショッキングな話であるし「そんなハズはない! ウチでは先祖代々、新年には初詣をしてきたんだ!」と怒り出す人さえいるかもしれない。しかし、歴史家たちの調査によれば、初詣という言葉が一般的になるのは明治時代以降の話、それまでそういう風習は日本に見られなかった。 この「初詣 = 創られた伝統」説の指摘は、本書の著者が初めて行ったわけではなく、20年前に別な歴史家が指摘している。しかし、これまでの研究者が「初詣を明治以降のナショナリズムのからみで、権力が上から創出したもの」としていたのに対して、著者は「そんなに上から創ったものが簡単に広まるものなのか」という疑問を呈する。だが、実際にその創られた伝統は広まってしまった。それは、なんで? この理由を明らかにするために、著者は鉄道会社がおこなった宣伝などに目を向ける。明治時代の鉄道会社が利用促進を促すために「新年は郊外のありがたい神社にお参りしましょう!」というプロモーションをおこなったのがきっかけで、初詣は広まった、というのである。 それだけだと鉄道会社だって大きな資本( ≒ 権力)だし、上から創ったものがそんな簡単に広まるものなの? という疑問に戻ってきてしまうのだけれども、本書は、初詣の前に存在していた新年の風習が、鉄道会社のプロモーションによって再編成されていったことを明らかにすることで、その疑問への逆戻りを回避している。 初詣以前には、恵方詣という風習があった。これは新年にその年の縁起が良い方向の神社を参拝する、という風習で縁起モノ好きな下町の人たちに馴染みがあるも

ルネサンス期の哲学概念

The Cambridge History of Renaissance Philosophy posted with amazlet at 16.01.16 Cambridge University Press 売り上げランキング: 874,636 Amazon.co.jpで詳細を見る 引き続き『The Cambridge History of Renaissance Philosophy』を読む。3本目の論考は Cesare Vasoli による「The Renaissance concept of philosophy」。ルネサンス期の哲学についてかなりざっくりとした大枠をあたえてくれるもの。これからルネサンスの頃の哲学や思想を勉強してみたい、という人にはぴったりと言えるだろう。内容についてはかなり教科書的だし、扱われている人物も有名な人ばかり。論考の前半部分に書かれている、どうしてこの時代にグレコ=ローマンな古典に注目が集まったり、新しい文化がはじまったのか、という話が勉強になった。 そこには 出版が急速に産業として発展したこと や、そもそもアラビア世界で保存されていたギリシャの文献が西ヨーロッパに入ってきた背景もあるのだけれど、中世と言われる時代に支配的だった教会権力と、新たに生まれてきた市民たちのあいだで、知の世界における権力闘争みたいなものがあったんだな、と思う。こないだ読んだ 『哲学の歴史』第3巻 に書いてあったと思うのだが、中世において、自分の生まれた身分からランクアップ(立身出世)しようと思うなら、教会に入って必死で勉強して、偉くなるぐらいしか方法がなかった。だから、知の世界においても神学が最重要だったのは当然であろう。 しかし、13世紀後半から14世紀前半になると、商売で儲けて成り上がっていく人がでてくる。彼らにとっては別に神学にとか重要じゃなかったし、そもそも神学が難しくなりすぎて、手に負えないよ、ということになってくる。そんなことやって、なにになるんだ、と。で、代わりに求められるようになったのは、法律であったり、あるいは医学であったり、という実学的なものであり、さらには歴史とか文学とか生きるための道徳だとか文学的なものに目が向けられた。つまりは、難しいことじゃなく、役立つことや楽しいこと

菊地成孔 『レクイエムの名手: 菊地成孔追悼文集』

レクイエムの名手 菊地成孔追悼文集 posted with amazlet at 16.01.15 菊地 成孔 亜紀書房 売り上げランキング: 18,641 Amazon.co.jpで詳細を見る ジャズ・ミュージシャン、菊地成孔による追悼文集を読む。今晩たまたま、音楽好きの会社の人と飲んでいて「デヴィッド・ボウイが亡くなってさ、この喪失感ってなんだろね、こんな感じって今までなかったんだけれど」という話をしていたんだけれども、そういう気持ちをわたしもものすごく共有していて、それで、こういう文章が読みたくなったのだ。ほとんどの文章がインターネット上に公開された文章を初出としていて、おそるべきことにそのほとんどをオンタイムで読んでいたのだった。だからこそ、読んでいて思い出すのは、ああこの人が死んだ時には、こんなことがあったっけ……ということであり、同じ著者によるコラム集 『時事ネタ嫌い』 よりも時事コラムみたいに読めてしまった……。

ロード・ダンセイニ 『最後の夢の物語』

最後の夢の物語 (河出文庫) posted with amazlet at 16.01.14 ロード・ダンセイニ 河出書房新社 売り上げランキング: 534,068 Amazon.co.jpで詳細を見る これぞ、優雅な物語というか、もう、こうした物語は作り得ないんじゃないか、と思われる。毒にも薬にもならない幻想的な小噺の集積、と言ってしまうとこの短編集の評価を貶めることになるかもしれない。想像力は豊かだが、読み続けるうちに作者ダンセイニの現生との隔絶感、というか、余裕があるからこそのシニカルな視線みたいなものが感じられてくる。だからこそ、これを受け入れるかどうかが、ある種の、豊かさの指標、のように思われてならない。貧しい社会においてダンセイニの物語は、単なる幻想、単なる嫌味、としてしか映らないかもしれない。

谷川健一 『青銅の神の足跡』

青銅の神の足跡 (小学館ライブラリー) posted with amazlet at 16.01.09 谷川 健一 小学館 売り上げランキング: 440,367 Amazon.co.jpで詳細を見る 2013年に亡くなった民俗学者、谷川健一の著作について話題になることは多くない(漫画家の諸星大二郎が相当元ネタにしているのに関わらず)。以下はこのブログで紹介した谷川の著作。  谷川健一『魔の系譜』   谷川健一 『古代史ノオト』  谷川健一 『沖縄 辺境の時間と空間』    この『青銅の神の足跡』では、日本の神々は皆、近代の民俗学者(というか柳田國男)によって「農耕神」として読まれてしまっている、本当はそうじゃないハズだ! と神話の読み替えに挑戦がおこなわれている。たしかに古代人にとって農作物の収穫に関わる天候は重要なのもだろう、しかし、古代の日本に金属器が流入したことによって、飛躍的に生産性が高まったことがあるはず、よって、農耕神ではなく、金属神が崇められた時代があったハズなのでは、というわけである。 農耕神以前には、金属神がいたはずなのだ。こうしたショッキング(?)とも言える解釈を、神話や民話と地名や苗字をいろいろ結びつけて、それっぽく見せていく、というお仕事。ポイント、ポイントで面白いんだけれども、しかし、読んでると結構飽きる……。フレイザーの『金枝篇』がもっている退屈さと同様の優雅な著作であるな……。

アレクサンドル・プーシキン 『エヴゲーニイ・オネーギン』

完訳 エヴゲーニイ・オネーギン posted with amazlet at 16.01.08 アレクサンドル・セルゲーヴィチ プーシキン 群像社 売り上げランキング: 354,736 Amazon.co.jpで詳細を見る 井筒俊彦が「プーシキンを読んだらロシア文学がたちどころにわかるんや!」と書いていた ので代表作である『エヴゲーニイ・オネーギン』を読んでみた。訳は小澤政雄による韻文訳(もともとこの作品は韻文で書かれた小説なのだ)、かつ、断章やプーシキンによって削除された部分まで含めて初めて訳した「完訳版」。「現代の韻文」(とは、なにか、という問題はさておき。そして訳者が大正生まれの先生なので『おきゃんな』とか、とても現代の言葉には思えない言葉も選ばれている)に置換されたこのプーシキンは、非常にリズミカルに読み進めることができるので「韻文って読みにくいのでは?」と心配な方もご安心。 ナボーコフによる訳注(この作品には、彼が膨大な注をつけた英訳が存在する。日本における人気を考えると、そのうち、ナボーコフ英訳版からの日本語訳『エヴゲーニイ・オネーギン』も出るんじゃないか)も含めて過去の注釈を参照しつつ、うざったくならない程度に施された訳注は、この作品が書かれた19世紀前半のロシアの社会や文化について、そしてプーシキンが参照していたフランスやドイツの文学についても教えてくれる。 で、すげー、面白かったんですよ。ストーリーは一言で言えば、メロドラマ、なんだが( あらすじはWikipediaをご覧ください )、主人公のオネーギンに恋するタチヤーナが、田舎の文学少女みたいな設定で。本のなかのカッコ良い男性に恋焦がれてて、いわば、腐女子、あるいは女ドン・キホーテになっている。で、オネーギンを一目見て「ああ、これがわたしの白馬の王子様なんだわ!」的な感じになってしまう。この流れがサイコー。 そういう話をね、プーシキンはめっちゃ面白く書くんですよ。なにこれ、プーシキン、ってロシア文学の源流とか言って、結構ぶっ飛んでるじゃん、と。物語そっちのけで作者のプーシキン自身がこの作品を書いた背景を説明しだしたり、自分の気持ちを吐露してみたりするんだ。あるいは、小説内の登場人物が書いた手紙や詩をメタフィクション的に入れ込んでみたり。こうし

中川純男(編) 『哲学の歴史〈第3巻〉神との対話: 中世 信仰と知の調和』

哲学の歴史〈第3巻〉神との対話―中世 信仰と知の調和 posted with amazlet at 16.01.06 中央公論新社 売り上げランキング: 444,407 Amazon.co.jpで詳細を見る かねてから読もう読もうと思っていた本。中世哲学に関する概説書は、すでに 講談社選書メチエの『西洋哲学史』の2巻 を読んでいたが、こちらのほうがまだ初学者向けのものと言えるかも。どちらの本も通史的にストーリーを描くものではなく、論考のアンソロジーだけれども、講談社のほうがテーマごとの論考なのに対して、こっちは基本的には人物ごと(重要人物に関しては人物のテーマごと)に論考がわかれている。 総論としては、中世という時代は、神学とアリストテレスに代表されるギリシャ哲学をうまいこと総合しようとした人がいろいろといたんだよ、という感じ。どの論考もこの大きなテーマを共有していると言えよう。これは西洋のキリスト教徒に限った話ではなく、イスラームの世界でも同じ。本書で大きくフィーチャーされているのは、アヴィセンナ(イブン・シーナー)とアヴェロエス(イブン・ルシュド)だけだが、彼らもまたイスラーム教神学とギリシャ哲学のマッシュアップをやろうとしていたのである(そして彼らが一生懸命ギリシャ哲学の注解をおこなったおかげで、ヨーロッパでもギリシャ哲学の受容が促された)。 このあたりのポイントをつかんでおかないと、扱っている時代のスパンが1400年ぐらいあり「どこが歴史なのか」と迷ってしまいそうである。あと、アリストテレスの形而上学・自然学の基本的な部分がわかっていないと普遍論争あたりの議論って全然意味わかんないよな、という風に改めて思った(なお、本書のオッカムの章では、オッカムとドゥンス・スコトゥスとの論争が極めてコンパクトにまとめられていて、すごくわかった気になった)。 昨年までルネサンス・初期近代の関連の本を読んできたけれども、今年はちょっと中世強化期間といきたい。 今回、中世まで遡ってみて「西洋哲学って結局、ずっとアリストテレスのターンなんじゃん」と思ったが、ふと、中世とルネサンスとでアリストテレスの運用局面が全然違うんだな、と気がつく。この本のテーマが神学や認識論に偏っているからそう思えただけなのかもしれないが、中世では

山本義隆 『磁力と重力の発見』

磁力と重力の発見〈1〉古代・中世 posted with amazlet at 16.01.02 山本 義隆 みすず書房 売り上げランキング: 45,832 Amazon.co.jpで詳細を見る 磁力と重力の発見〈2〉ルネサンス posted with amazlet at 16.01.02 山本 義隆 みすず書房 売り上げランキング: 58,404 Amazon.co.jpで詳細を見る 磁力と重力の発見〈3〉近代の始まり posted with amazlet at 16.01.02 山本 義隆 みすず書房 売り上げランキング: 57,264 Amazon.co.jpで詳細を見る 古代ギリシャから初期近代までの科学史を「磁力」と「重力」をキーワードに読み直した大作。これを面白く読むには、1巻で詳述され、また初期近代まで支配的だったアリストテレス主義的な自然学の世界観をしっかりと理解しておく必要があるだろう。 簡単に振り返るならば、アリストテレス主義の世界観においては、モノに力を伝える、モノを動かすには、モノとモノとの接触が必要とされる、だからこそ、磁石のように接触していないのに鉄を引き寄せるものは、非常に不思議なものと受け取られていた。なぜ、接触していないのに力が働くのか。この謎を昔の人は、いろんな方法で説明しようとした。たとえば、磁石には細かい穴が空いていて、その穴が鉄を吸い寄せるような流れを生んでいる。だから、鉄を引きつけるのだ、みたいに。 こうした理解は、ルネサンス期に自然魔術が隆盛することで風向きが変わる。自然魔術においては、そうした不思議な磁石の力を、自然の「隠れた力」というマジック・ワードによって包括して理解してしまう。磁石の遠隔的に力を発生させる様子も隠れた力のおかげ。これによりモノは接触によってしか動かないというアリストテレス主義的な世界観の乗り越えがおこなわれる。 もちろん、これは説明の放棄とも言える。磁石が鉄を引きつけるのは、なんだかよくわからない「隠れた力」の作用である、というのは説明しているようで、なんの説明にもなっていない。しかし、説明を放棄することによって、一旦その力の働きを認め、今度は伝聞