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佐々木信綱(編) 『新訓 万葉集』(上)

新訓 万葉集〈上巻〉 (ワイド版 岩波文庫)

岩波書店
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あの、小説とか映画とかにでてくる人でやたらと博識な人っているじゃないですか。なんかあるとすぐシェイクスピアとか聖書の言葉を口にするキャラね。最近思ったのは、結局わたしはああいう人物に憧れてるんじゃないか、ってことで。そういうわけだから、教養らしきものは一通り揃えておきたいな、と考えるわけです。『万葉集』にはこんな歌がある……とかさ、言いたいですよね。たぶん鬱陶しいことこのうえないけども、こういうみんなが名前を知ってるし、ちょっとだけ触れたことはある、みたいな本もカヴァーしている人って、面白いと思うんですよ。

で、『万葉集』ですよ。だれもが知っている日本最古の歌集。なかなか面白いじゃないですか。自然が綺麗だな〜、とか、あなたのことをずっと考えてるんですよ〜、とか、あなたが死んで悲しいです〜、とか、そういう気持ちを詠った歌が収められている。なかでも、恋愛がらみの歌はどれも面白くて、日本人って昔から、会いたくて会いたくて震えてたりしたんじゃないか、って思うのだった。ありつつも君をば待たむ打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに、とかね。髪に霜が降りるまであなたのことを待ってます、ですよ。さらに、恋ひ恋ひて逢へる時だに愛しき言尽してよ長くと思はば、なんか最高ですよ。会ってる時ぐらいは、愛してるって言ってよ、ってなんか初期の椎名林檎みたいじゃないですか。

こういう恋愛がらみの歌は、だれかがだれかにプライベートで送ったものらしいのだけれども、どうしてそれが1200年以上経って残ってしまったのか。歌を詠んだ本人は、こうして後世に自分の気持ちが伝えられていることに、あの世で恥ずかしい思いをしていないのか心配だ。歌集の成立に関する事情が全然わからないのだが、思いを歌にして伝える、っていう文化のまだるっこしさは、改めて興味深いものだな、とは思う。今はほら、すぐ伝えちゃうでしょう。直接的な言葉で。LINEとかメールとかでさ。なかには、LINEでポエムを送りつける内向きなやんちゃさを持っている人もいるだろうけれど。

その表現もルール無用じゃない、というところがまた、面白く感じられるのだな。五七調という形式もそうだけれども、言葉の選択にあたっては枕詞というのがある。これはみんな学校で習っているハズだが、わたしは古文と漢文の時間はずっと睡眠時間に充てていたので、全然覚えていなかった。ざっと例をあげると「ひさかたの」といったら「天」だし、「ぬばたまの」といったら「夜」だし、「うつせみの」といったら「人」だ。「あをによし」といったら「奈良」だし、「しろたへの」といったら「袖」だ。

この関係はもちろん一意に決まるわけではないけども、ルールを守っていると気持ち良い感じがする。「ぬばたま! 来た!!」とか思う。そういうゲーム的なコミュニケーション、どこかにあっても良いのにな。「可愛い」とか「ヤバい」とか、なににでも紐づく言葉じゃなくて、限定された言葉にしかくっ付かない言葉って面白いと思う。「ぬばたまの髪はアリだけど、ぬばたまのゴマとは言わないよね。ゴマは黒いけどぬばたま感ないわ」みたいな。

なお、わたしが読んだ岩波文庫の佐々木信綱編集版は、現代語訳がついてません。けど、そんなに難しくないし、読めないものは「別に読まなくていいもの」と割り切って読み飛ばせば良いと思う。気になるものはネットで検索すれば、訳が出てくるし。こういう本は、そういういい加減な読み方をドンドンしていかないと一生読まないで終わる。下巻まだ手に入ってないので、そのうち読む。

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