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9月, 2014の投稿を表示しています

Aphex Twin / Syro

Syro [輸入盤CD] (WARPCD247) posted with amazlet at 14.09.28 Aphex Twin エイフェックス・ツイン Warp Records (2014-09-24) 売り上げランキング: 1,600 Amazon.co.jpで詳細を見る Aphex Twin、13年ぶりのニュー・アルバムを聴く。リチャード・D・ジェイムス個人の活動としては、AFX名義でのリリースがあったりしたわけだが、それでも久しぶりである(沈黙を守っているあいだに『コイツ、実はリチャード・D・ジェイムスの覆面名義なのでは?』みたいなのもあった気もするが、一瞬で忘れ去られた気がする)。13年のあいだに音楽シーンも変わったし、音楽との触れ方も変わってしまったけれど、そうした変化にリチャード・D・ジェイムスという人は、特別な応答をせずに音楽制作をおこなっていたのが確認できるような内容。強調された低音の音圧だけが、ものすごく今っぽい。決してエポック・メイキングな作品ではないけれど、良いアルバムだと思った。ピアノを弾いている曲の背景に鳥の鳴き声が混入していたりして、そこにこのミュージシャンのおかれた環境を強く感じたりもした(意図的につけたした音なのかもしれないけれど)。まるで、シベリウスのような音楽家になりつつあるのではないか……。

ロンドンからケンブリッジへ

ロンドンからケンブリッジまでは、キングス・クロス駅から直通電車が走っている。キングス・クロス駅は、映画『ハリー・ポッター』の有名なシーンでも使用されている場所だそうだが、わたしは映画を観ていないのでよくわからない。 駅のホームはビニール・ハウス状に張り巡らされた鉄骨にガラス張りの屋根。自然光の入り方がとても気持ちよい建物である。イギリスの電車は地下鉄も含めて、以前に乗ったことがあるフランスのものと比べてずっとキレイに利用されていた。パリ中心部からヴェルサイユまで走る電車のなかなどゴミだらけで、窓なんかもキズや落書きだらけだった。 電車がキングス・クロス駅を出発し、20分、30分ほど過ぎたところですでにこういう風景が広がっている。日本でいうなら上野から大宮まで来たあたりだろうか、それほどの距離で(行ったことないけれど)北海道のような景色に出会える、というのはなかなかの衝撃で、外国に来た……という感じがした。電車のスピードがとても速く(そして結構揺れる)どんどん見えるものが変わっていくが、基本的には牧草地、畑、牧草地、畑……。馬、羊、牛……など。ほどよく退屈な風景が移り変わっていく様子は、とても良かった。 乗車時間50分ほどでケンブリッジ駅に到着する。日本で言ったら上野から宇都宮にきた感じか。駅構内にはファストフード店がいくつもあり、そのどれもが美味しそうだった。改札の外には、スーパーがある。それ以外は駅周辺にはなにもない。 街の中心部はバスで5分ほど。バスはもちろん、あのThe Smithsの大名曲「There Is A Light That Never Goes Out」で歌われるダブルデッカー・バスである。 バスの車窓からはところどころに古い教会などが見える。持っていた観光ガイドには詳細が書いてなかったが、中心部以外はなにもない、かと思いきや、ブランド品のお店やレストラン、ファストフード店などが並んでいて、歩いても良かったかもしれない。たぶん、駅から30分ぐらい歩けば、中心部には着くだろう。 バス停を降りてすぐに、RPG的な街並みが広がっている。ただ単に古い街並みならヨーロッパの街のどこにでもあると思うけれど、ケンブリッジにはケンブリッジなりの色合いがあるように思った。もちろん、ここも観光地になっているし(観光地と超一

宋美玄 『少女はセックスをどこで学ぶのか』

少女はセックスをどこで学ぶのか (一般書) posted with amazlet at 14.09.24 宋 美玄 徳間書店 売り上げランキング: 99,402 Amazon.co.jpで詳細を見る 読んだ。

伊丹十三 『再び女たちよ!』

再び女たちよ! (新潮文庫) posted with amazlet at 14.09.23 伊丹 十三 新潮社 売り上げランキング: 127,168 Amazon.co.jpで詳細を見る これまで読んだ伊丹十三のエッセイ集のなかでは、これが一番笑ったかもしれない。

尹雄大 『体の知性を取り戻す』

体の知性を取り戻す (講談社現代新書) posted with amazlet at 14.09.22 尹 雄大 講談社 売り上げランキング: 573 Amazon.co.jpで詳細を見る 尹雄大(ユン・ウンデ)さんの新著を読む。氏の著作では 韓氏意拳という武術について書かれたもの がとても印象に残っている。基本の型や技を持たない、その特異な武術における身体技法の記述は、非体系的な体系とでも呼ぶべきものだ。本書『体の知性を取り戻す』にも韓氏意拳の修練によって著者が得た、身体的感覚は取り込まれている。一読してわかるのは、著者が徹底して、近代的な規律や教育といったミシェル・フーコーが指摘するような規律訓練型権力に対して、息苦しさを感じていることだ。その拘束性は、学校で教えられる姿勢からはじまり、理想化された「正しい動き」を目指すさまざまなスポーツや武道の訓練にも存在している。 そうしたものは、ある程度の画一化された身体を生産するだろう。しかし、その拘束性は歪みを生み、「ある程度の」のその先へ向かえない。かつてキックボクシングを練習していた著者はこのように綴っている。 おかげでそれなりの強さも得られたが、かわりに心身の隙間に恐怖が入り込むようになった。というのは、この強さは競技の範囲においてしか通用しないことを知っていたからだ。いざというときに起こりえるのは常にルールの外のことだから、そのことに怯えるようになった。 息苦しさを伴う近代的な身体は、身体を縛るルールから放り出されるとたちまち役に立たなくなってしまう。このルールは、社会のルールにも通じる。社会で生活するうえで、我々はまるでゲームのごときルールに沿って、規律化されながら生きることに慣れすぎてしまっている。「早起きをして朝仕事をしろ」、「TOEICの高得点を目指せ」、「年に1つずつ新しいプログラミング言語に挑戦しろ」……などなど。著者の表現を借りればまるでライフハックが社会を生きるための「必殺技を会得する要領で」考えられている。しかし、ルールが外れた瞬間に、TOEIC950点のスコアは昇竜拳ではなくなり、弱パンチほどにも役にたたなくなることは容易に想像がつく。 もちろん、そこで著者は「TOEIC950点をとれ? お前それサバンナでも同じ事言えんの?」式の提唱

平賀さち枝とHomecomings / 白い光の朝に

白い光の朝に posted with amazlet at 14.09.22 平賀さち枝とホームカミングス 平賀さち枝 Homecomings SPACE SHOWER MUSIC (2014-09-10) 売り上げランキング: 11,665 Amazon.co.jpで詳細を見る 今年の夏に一番聴いた音楽は、NegiccoかHomecomingsのどちらかに違いない。どちらもわたしの心のソフトな部分にグッサリと刺さる大変エモーショナルな音楽だったのだが、その温度が冷めきらないうちにこうして新譜が聴けるのはありがたいことである。しかも、平賀さち枝とのコラボレーション、というではないか。リリースを楽しみにしていた一枚である。ともあれ、この平賀さち枝さんという女性歌手、これまでYoutubeでその歌声を聴いたり、インタヴューを興味深く読んだり、姿形を認識していたりした人ではあったのだが、実際に音源を買って聴くのはこれが初めてだった。 (平賀さち枝 / 江ノ島) 2012年に発売された彼女のアルバム『23歳』に収録されている「江ノ島」のPVがある。素朴な感じのお嬢さん(平賀さんご本人映像)がリュックサックを背負い、電車のなかでお菓子を食べたりする愛くるしい感じの映像である。彼女を敬して遠ざけるきっかけとはまさにこの映像だ。なんか、ちょっとあざとい、というか、ちょっとじゃねーよ、犯罪的なあざとさだ、と思ってしまったのだ。これは平賀さち枝さんご本人のせいではなく「こういう幼児的な、無垢な感じで売りましょう。新世代のフォークの歌姫的な感じでひとつよろしく」的なものがあったに違いない、と推測するのだが、それは違うんじゃないか、こんな、白痴めいた23歳がいるわけねーだろ、と思ったゆえに、長らく「気になるけど、ちゃんと聴かない歌手」として意識に留まり続けることになる。 いや、そんなことはどうだって良いんだ。この新譜が最高なのだから。4曲入り、1曲は平賀さち枝とHomecomingsによる共作のタイトル曲、2曲はそれぞれ平賀さち枝とHomecomingsによる単独名義での曲、残りはタイトル曲のやけのはらによるリミックス(このリミックスについては、なくても良かった、と思う)。一聴して、平賀さち枝の歌声に、参ってしまうのである。60

スラヴォイ・ジジェク 『ラカンはこう読め!』

ラカンはこう読め! posted with amazlet at 14.09.21 スラヴォイ・ジジェク 紀伊國屋書店 売り上げランキング: 61,344 Amazon.co.jpで詳細を見る スラヴォイ・ジジェクによるラカン入門書読む。原題は「How to read Lacan」で、そのまんま「ラカンの読み方」ということなのだが、ジジェク曰く「ラカンを理解する最良の方法は、ラカンのように世界を読み解くこと」とのことであり、通常考えられるような入門書とは違った体裁の本である。「大文字の他者」だとか、そうしたラカン用語に関する説明はほとんどないため、本書の帯に記載された「訳者あとがき」からの引用——「この『ラカンはこう読め!』は、これまでに出た最良のラカン入門書であると断言してもよかろう」——を信じてしまうと「サギだ」ということになりそうだ。本書に適切なタイトルは『ラカン で こう読め!』だろう。実際には、ラカン入門のふりをしたジジェクによる批評本である。 以前 ジジェクの別な本を読んだとき にも思ったけれども、こういう本がどういう風に受容されているのかはよくわからない。現代社会に面白いほどハマりすぎる分析や警句は多いものの、現実の政治や社会をリードするものではないし、ジジェクの批判(というよりも皮肉がたっぷりこめられた読解)の対象となる人々に彼の言葉が届いたとき、不快以外のなにを残すのだろうか、と思う。たとえば、ジジェクは、ラカンによる言語の「二重の運動」について説明する際、こんな小噺をだしてくる。 ここに一組の夫婦がいる。彼らは浮気をしてもいいということを暗黙のうちに認め合っている。もしいきなり夫が、進行中の浮気について赤裸々に告白したら、当然ながら妻はパニックに陥るだろう。「もしただの浮気だったら、どうしてわざわざ話すの? ただの浮気じゃないんでしょ?」 ある言明のメッセージが事実を伝えるだけでなく、象徴的なメッセージとともに伝えられる。これ自体はとても普通のことだが、陰謀論者はこのうち後者のメッセージの読み取りが過剰であり、社会病質的である。しかし、社会病質者、という言葉を投げられた陰謀論者は、それすらも陰謀の一種として理解するだろう。現代の快楽主義的禁欲主義の氾濫の指摘だとかめちゃくちゃ面白いんですけどね

The Vacant Lots / Departure

Departure posted with amazlet at 14.09.20 Vacant Lots Sonic Cathedral (2014-07-01) 売り上げランキング: 95,737 Amazon.co.jpで詳細を見る アメリカの2人組サイケ・バンド、The Vacant Lotsのデビュー盤を聴く。なにやら、ソニックブームや、アラン・ヴェガ大先生とも絡みのあるバンドらしいのだが(本作のミックスもソニックブーム)、まずYoutubeで試聴した「6 AM」という楽曲のあまりのSuicide感に「これを買わないでどうする……!」と思った。8曲38分のアルバム全体を聴いてみると、こういうハチャメチャに「Ghost Rider」な曲ばかりではなく、もっと広がりがあって、ガレージから生まれた純正調のサイケデリック・ロックという感じがした。彼ら自身、自分たちの音楽を「2 Chords 1 Drone 3 Drums」と極めて潔い表現で語っているのだが、決して単調なものではない。初期のRolling Stonesほどの勢いも持ちつつ、「Sister Ray」やLiaisons Dangereusesまでさまざまなダークな音楽を想起させながら、あっという間に聴き終わってしまった。なかなか衝撃的な出会い。 Temples といい、最近、サイケ方面が盛り上がっているのか、もしかして……。 (The Vacant Lots / 6 AM)

村上春樹を英語で読みなおす 『ダンス・ダンス・ダンス(Dance Dance Dance)』

Dance Dance Dance posted with amazlet at 14.09.19 Haruki Murakami Vintage 売り上げランキング: 511 Amazon.co.jpで詳細を見る こないだのロンドン旅行の帰りのことだ。行きの飛行機のなかでも気づいていたのだが、帰りの飛行機で読む本がないのが問題だった。道中の半分は酒を飲んで寝ているとはいえ、12時間弱のあいだに読む雑誌か本が必要だった。そんなときにヒースロー空港の本屋で村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の英訳が売っているのを見つけた(海外にいくと本当に村上春樹の翻訳はよく見かける。日本で言うとダン・ブラウン……とまではいかないが、それなりの人気海外ミステリーの邦訳みたいなかたちで売っている。世界的な人気は嘘ではないのだ、と翻訳されたものが平積みになっているのを見るたびに思う)。ちょうど、今年は 『羊をめぐる冒険』 を読みなおしていて、この作品も読みなおしたいと思っていたところだった。英語で読みなおすのも悪くなかろう、と思って、このペーパーバックを掴んでレジに持っていった。 文庫では上下の2冊にわかれているが、英訳のペーパーバックは1冊400ページ弱、それなりのヴォリュームがある本だが、面白くて一気に読んでしまった。Alfred Birnbaumの訳が良かったのかもしれない。もちろん日本語で内容を知っていたこともあるけれど、こんなに英語がスラスラと読める経験はこれまでになく、村上春樹が書く文章のリーダビリティーは、この英語版でも失われていなかった。ここ最近、わずかながら翻訳に関わっていることもあり(英語 → 日本語と、英語 ← 日本語という矢印の違いがあるとはいえ)「翻訳ってこんな風にやっても良いんだ」と勉強になる部分もあった。 たとえば「村上春樹の『やれやれ』」はこんな風に訳される。以下は、大雪の日に、主人公がユキを託されるシーン。 「やれやれ」と僕は言った。それから僕はふと思いついたことを口に出してみた。「ねえ、その子ひょっとして髪が長くて、ロック歌手のトレーナーを着て、ウォークマンを聴いていない、いつも?」 「そうよ。何だ、ちゃんと知ってるんじゃない」 「やれやれ」と僕は言った。 (講談社文庫版 上巻 P.199)

U2 / Songs Of Innocence

ソングス・オブ・イノセンス posted with amazlet at 14.09.17 U2 ユニバーサル ミュージック (2014-10-22) 売り上げランキング: 1,858 Amazon.co.jpで詳細を見る iTunesのユーザーになかば強制的に配信されるというかつてない形式で無料配布されているU2の新譜を聴く。有識者のあいだでは「こんな風にしたらアルバムの売り上げが下がるに決まっているだろう」という意見もあるようだけれども、最近の大物ロックバンドの収益は完全に大規模なライヴ・ツアーが中心になっているそうだから、アルバムの売り上げなんかほとんど気にしていないのだろう。むしろ、これをプロモーションにライヴ動員数の増員を……というのがあるのかもしれない。とはいえ、U2というバンドの知名度は 日本のみならず 、 世界的にも「誰だよ?」と騒ぎになる 事象を確認できるほどのものになっているのは驚きで、これはロック・ミュージックというジャンルの凋落と、誰も本気で音楽なんか聴いていないんじゃないか、という寂しさを味わわせてくれる。Cold Playは知っているが、U2は知らない、みたいな人も多そうな気がする(これはPolysicsは知ってるけど、Devoは知らない、みたいな関係に近い、か?)。 しかし、自分自身、U2の新譜をちゃんと聴くのが久しぶりだったりするのだ。前作はリリースの存在自体認識していなかったし、さらに前の『How to Dismantle an Atomic Bomb』は10年前だと言う。「Vertigo」のiPodのCMが10年前かよ……と驚きしかないが、本作はソリッドでかつ、音がギュッと固く詰まった優れたロックンロール・アルバムだと思う。プロデュースはDanger Mouse。とにかく音が今のロック・バンドっぽくなっている。相変わらずジ・エッジはあのディレイを使ったギター・プレイをしているが、ジャギジャギの鋭いギター・リフを繰り出していてテンションがあがるし、それからアダム・クレイトンのベースがこれまでになく印象的だ。Franz Ferdinandかよ、New Orderかよ、みたいにグイグイとベースが曲を引っ張っていく。なんだ、カッコ良いじゃないかよ、と安心して聴いてしまうのだった。リード・シン

スタニスワフ・レム 『ソラリスの陽のもとに』

ソラリスの陽のもとに (ハヤカワ文庫 SF 237) posted with amazlet at 14.09.16 スタニスワフ・レム 早川書房 売り上げランキング: 25,970 Amazon.co.jpで詳細を見る 遅めの夏期休暇をもらってロンドンに遊びに出かけていたのだが、その行きの飛行機のなかで、長いこと積ん読になっていたSFの古典を読み終えた。ほとんどSFを通過しなかった読書遍歴をもつわたしなので、この本も出会うのが遅すぎたのかもしれないが、毎度ながら(いや、そんなに数を読んでいないか……)SFの古典を読むたびに「苦手……」と思ってしまうばかりである。なんか全然楽しみ方がわからないんですよね。惑星ソラリスの研究史が続く箇所なんかは面白く読んだのだけれども、それは科学史のテクストを読んでいるのと感覚がほとんど同じであって、それなら科学史のテクストを普通に読んでいた方が楽しい、と思われてしまう。「未知の生物との接触によって、人間はあれこれ挑戦的なことをされてる感じがするが、実は未知なる生物には意図はなんか一切なかった」というお話が、人類中心主義 anthropocentrism 的なものの見方をひっくり返してしまうのも理解できる。ただ、それが語り継がれるべき不朽の衝撃力をいまも持ちえているのかどうか。『E.T.』みたいに「異星人と通じてしまった、ミラクルだね!」みたいな話って「「異星人と地球人は、コミュニケーション不可能(あるいは、コミュニケーションの基盤が違いすぎて、ほとんど無理)」という前提があるからこそ、話として成立するわけで。だから『ソラリス』を読まなくても、ここで書かれている問題提起とか思考実験的な部分ってすでにみんな通過しているような気がするんだよ。

三浦靭郎(編) 『音楽の冗談』

音楽の冗談 (音楽選書) posted with amazlet at 14.09.08 三浦 靭郎 音楽之友社 売り上げランキング: 1,489,348 Amazon.co.jpで詳細を見る 高校・大学に通っていた頃、図書館で雑誌『音楽の友』を暇つぶしによく読んだ。いまでは書店で見かけても手を取ることがなくなってしまったが、わたしが読んでいた頃の古今東西の音楽家ジョークのコーナーがあって(いまもあるのかな)、ちょっとした楽しみだった。本書『音楽の冗談』もまたは『音楽の友』に連載されていた音楽家ジョークのコーナーをまとめたもの。昭和47年から8年間つづいていた連載だったらしいが、もちろん、わたしが読んでいた『音楽の友』を読んでいた時期とかぶっているわけではない(というか自分が読んでいたものの詳細が定かではないのだが)。嘘とも誠とも言えないくだらない話が満載なのだが「ああ、この作曲家ならありえるかもしれない……」という感じでクスリと笑える。 たとえばリヒャルト・シュトラウスとストラヴィンスキーが登場するこんな話がある。 ベルリンでの《ペトルーシュカ》の初演のあとで、リヒャルト・シュトラウスはストラヴィンスキーのお祝いを言った。 「ですがね、文句を言いたいことが、ひとつあるんですよ、ストラヴィンスキーさん」と、そのあとでシュトラウスは付け加えた、「なぜあなたは、ピアニシモで始めるんです。いいですか、あれはいけません——経験をつんだ老人の忠告はお聞きなさい。あなたは聴衆をまずぎょっとさせなければいけません——どかんと、ひとつやって。そうすれば、そのあとは、あなたがどこへ行こうと、なにをしようと、みんなはあなたについてくるものですよ」  あるいはバックハウスについては、 82歳のバックハウスが、ヴィーンの音楽祭で、ヴィーン・フィルと共演したとき、聴衆からばかりでなく、楽団の全員からも、嵐のような拍手喝采をうけた。 ちょっととまどったような顔でそれを受けたあと、バックハウスは言った。 「わたしは、いまふたたび、わたしの一生の出発点に立ち戻ってきた。わたしが12歳ではじめて舞台に立ったとき、人々は言ったものだった。あの年にしては大したものだと。きょうもまた、人々は同じことを言っている」  これで笑うためには、リヒャル

牧野雅子 『刑事司法とジェンダー』

刑事司法とジェンダー posted with amazlet at 14.09.07 牧野 雅子 インパクト出版会 売り上げランキング: 149,460 Amazon.co.jpで詳細を見る 性暴力はどのように裁かれるのか、というシリアスな問題を、法律史・政策史の整理から、実際に起きた連続レイプ事件加害者への取材や裁判分析などから論じた本。最近Web上で話題を呼んだ記事 「どぶろっくと痴漢の関係」 でも「名著」として紹介されているが、スゴい本だと思った。刑事司法のシステムが性を取り扱うときの、男性中心に構築されている「型」に含まれた問題の大きさを痛感させられる偉業である。 たとえばひとつの問題として、刑事司法において、性暴力はおよそ「性欲という本能の過剰(あるいは抑圧)によって発生する、自然現象」のように扱われていることが指摘されている。その固定観念によって捜査や裁判は進められ、なんの疑問も差し込まれない。「性欲の過剰/抑圧によって発生した暴力」というわかりやすい物語の強さは、取調室や裁判所の外側にも影響していく。そして、こうした物語が暴力が発生した、本当の理由を隠蔽してしまう。著者が指摘するように、刑事司法は「犯罪の原因究明」を目的としているわけではない。そこで動機や原因が問われるのは、それが量刑に影響を与えるからである。それゆえ「それらしい物語」が「真の原因」に代替することはとくに問題とされない。原因究明の作業は、刑事司法が独占的に担っているにも関わらず、である。 真の原因には触れられないまま作動し続ける刑事司法のシステムの空虚さは端的に恐ろしいし、加害者を矯正する/更生させる手だてもまるで見当違いにしてしまうリスクを高めている。そうしたシステムの改善のためにも、本書がバカ売れして、たくさん読まれると良いと思った。ちょうど、新しく就任した法務大臣の発言でも、性犯罪に対する処罰が注目されていることだし……。

Jean-Luc Godard / Un film comme les autres(ありきたりの映画)

ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団 Blu-ray BOX (初回限定生産) posted with amazlet at 14.09.06 IVC,Ltd.(VC)(D) (2012-05-31) 売り上げランキング: 47,839 Amazon.co.jpで詳細を見る 7月に買ったゴダールのジガ・ヴェルトフ集団BOXを全然見ていなかったことに気づき、ようやく2枚目の『ありきたりの映画』(1968)を観た。正確に言えば 『ウィークエンド』 を観たあとにすぐ観ようとしてたのだが、あまりのツラい内容に途中で爆睡してしまい、2度目のチャレンジでようやく見終えたのだった。世の中には、ゴダールは難解だ、という伝説めいた評価があり、それに対してこれまで、自分はあまりピンと来ていなかったが、これは「難解」と言って良い作品だと思う。いや、むしろ、この映画を「難解だ」と評価することによって「映画の価値を否定するわけではないが……(わたしにはちょっと……)」的な留保ができる。そうした意味では「難解」というラベリングの便利さと、なんにも言ってなさを実感できる作品ではあるのだが、いや、もっとズバリ「退屈である」と言ったらどうなのか、と思わなくもない。 1968年5月のいわゆる五月革命についての映画なのだが、画面にあらわれるのは、郊外の団地風の建物を背景にした草むらのなかで語り合う、工員と大学生たち(ひとりだけ女性)の背中とか足とかで、彼らはひたすら煙草を吸いながら、革命について語り合っている。そこに五月革命の白黒ニュース映像が挿入され、彼らの語りを邪魔するかのように、さまざまな革命のテクスト(毛沢東とかマルクスとかゲバラのテクストらしいがまったく断りはない)の朗読が入り込む。議論は、噛み合うわけでも、大きな結論や決定に到達するわけではない。なにか、大学の映画研究会の人が録る実存的な(!)映画の悪い(良い?)見本みたいな感じもするし、このダルさは『アワーミュージック』の講演シーンのダルさにも通ずる気がする。1968年の問題の語りは「デジタルカメラは映画を救うか」という問いに対して沈黙するゴダールの姿と同様に、そのシリアスさが伝わらず、まるでまったく会話に加われない108分の飲み会に参加しているような具合の映画だった。 ぶっち

Anthony Grafton 『Defenders of the Text: The Traditions of Scholarship in an Age of Science, 1450-1800』

Defenders of the Text: The Traditions of Scholarship in an Age of Science, 1450-1800 posted with amazlet at 14.09.03 Anthony Grafton Harvard University Press 売り上げランキング: 103,650 Amazon.co.jpで詳細を見る (書影は白黒でちょっとカッコ良いが、実物はグフ・カスタム的な微妙な色なので注意。 2015年9月追記: 装丁にはどうやら2パターンあるらしく、白黒の表紙と、グフ・カスタム的な微妙な色の2種類を確認した) アンソニー・グラフトンの主著『Defenders of the Text(テクストの擁護者たち)』を読み終える。すでに ヒロ・ヒライさんのサイトでお知らせがでている ように本書はすでに邦訳の予定がある。なんでそんな本をわざわざ原書で読んでいたかというと、こちらの訳稿チェック作業にわたしが関わっているからなのだった。 インタヴューを読む とわかるのだが、グラフトンはかなり生産的な人である。「フルタイムで書いてるときは、午前中だけで3500ワード書く日が週に4日あるよ(つまり、週約15000ワード)」とか彼は語る。このインタヴュイーによれば、1日に1000ワードで「普通の作家」だそうだから、通常の3倍からそれ以上の執筆量となる。 こういうマニアックともいえる人物が書く文章に、クセがないわけがない。文章自体が長過ぎるとか、極端に難しい言葉が頻出するとかではないのだが、彼一流の諧謔や皮肉、比喩表現が適宜投げ込まれてくる。これがなんとも日本語にしにくい。グラフトン的にはくすぐりをいれてきているに違いないのだが、日本語にすると思いっきりスベってしまう。彼の筆が走りまくっている勢いをどうにか日本語化すべく翻訳者の方もかなり苦労されているようだ。しかし、その甲斐あって翻訳はかなり上手くいっているのでは、と作業協力者的には思う(まだ作業途中だけれど)。 さて、本書の内容についても簡単に紹介しておこう。グラフトンはここで、ルネサンス期から初期近代の人文主義者たちがどのようにテクストをあつかったのかを描こうとしている。どんな風に読んだのか、どんな風

ローレンス・M・プリンチペ 『科学革命』

科学革命 (サイエンス・パレット) posted with amazlet at 14.09.02 丸善出版 売り上げランキング: 85,088 Amazon.co.jpで詳細を見る まずは翻訳者のひとり、山田俊弘氏に御礼を(ご恵投ありがとうございました)。 本書は主に16・17世紀の科学史をとりあげている。この時期は初期近代と呼ばれ、歴史的に重要な発見が数々おこなわれた時代であり、我々が生きる現代に続く時代として、またガリレオが裁判にかけられ、コペルニクスが地球と太陽をぐるりと入れ替え、ニュートンが落ちたリンゴを見て閃いた時代として一般的にも知られている。本書のタイトルにも用いられている「科学革命」という言葉は、そうした天才たちがつくった、迷信に満ちた過去から「現代」が颯爽とテイクオフするきっかけ、として理解されているだろうか。 本書は描いた科学史はまったく違っている。記述は、8世紀からはじまり、中世・ルネサンスの知識人たちの精神的基盤が説明される。一般的な(そして誤解をおおく孕んだ)歴史理解によれば、初期近代の天才たちは、それまでの「古い世界」を軒並み否定し、迷信に頼らないという意味での理性的な「新しい世界」を切り開いた、とでもされるだろう。それはガリレオが「宗教という根拠のない抑圧と戦った科学者」として描かれるファンタジーにも象徴されている。天才たちは、あたかも我々と同じ世界を生きた人物でもあるかのように振る舞っているのだ。 しかし、実際の天才たちは、我々からすれば驚くほど迷信に満ちた世界に生き、そしてその世界を信じていた。たとえば、コペルニクスの説を支持していたケプラーの研究の動機は、その説が「科学的に正しいから」ではなく、神学的な調和への欲求によるものだ。コペルニクスの体系によれば、天にある惑星は6つしかない。7つの惑星ならそれは世界のなかのさまざまな7(1週間の日数、7つの音階……)と調和するのに、どうして惑星は6つなのか。ケプラーの探求は、こうした世界の不調和に対する調律だったとも言えるかもしれない。 ケプラーの例は、科学革命の闘士たちが、古い世界を捨てた人物ではないことをわかりやすく示している。一般的な科学革命のイメージは、こうして矯正される。しかもそれは、中世・ルネサンスと現代のあいだに「