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細野晋司・山下淳弘・仲俣暁生・濱野智史・山内宏泰・福川芳郎・鹿島茂 『グラビア美少女の時代』

グラビア美少女の時代 (集英社新書)
細野 晋司
集英社 (2013-07-17)
売り上げランキング: 148,899

細野晋司は集英社の『週刊ヤングジャンプ』のアイドル・グラビアを長年担当してきた写真家で、本書は彼の仕事のうち、現在は女優として主に活躍している(元)アイドルたちの写真をピックアップし、かつ、様々な論者による「グラビア論」を併載したもの。ここでの「グラビア写真」という括りは、写真週刊誌に載るようなセミヌードであったり、過激な水着のような扇情的なエロスは排除していて、あくまで「美少女グラビア」というジャンルについての評論集となっている。広い意味で、アイドル評論本のひとつ、とも言えるかもしれない。積極的にこうしたジャンルの本に手を出してきたわけではないのだが『グラビア美少女の時代』というタイトルは、かつてヨグ原ヨグ太郎氏が書いたアイドル批評「風林火山の如く女を語れ!」を彷彿とさせたので思わず手に取った。

同世代の人間として、いまだにこの文章の秀逸ぶりは色褪せていないように思われる(ので、ヨグ原さんにはまたインターネットで文章を書いてもらいたいな、と勝手に願っている)。

映画監督の山下淳弘、編集者の仲俣暁生、評論家の濱野智史、ライターの山内宏泰、ギャラリストの福川芳郎、そしてフランス文学者の鹿島茂まで動員し、かなり多角的に「美少女グラビア」が考察されている本書を、わたしはなかなか楽しく読んだ。山下が「少女のどういう表情を切り取るのか」を語れば、仲俣は「グラビア写真史」をまとめてみせる。山内はグラビアの被写体論や写真家論を提示すれば、福川は「グラビア写真はアートとなりえるか」という問題提起をしてみせる。おおむねどの論者も「美少女グラビアは単にエロ目的ではなく、日本の雑誌文化独特のジャンルである」という論調なのだが、鹿島茂は精神分析や人類学を駆使して「なんだかんだ言って、これもエロだろ」的に言い切っていて爽快だ。

さて、ここまで濱野智史の文章についてはノー・タッチできたが、収録された文章のなかで「これはちょっとな……」と思ってしまったのは唯一、彼のものだった。「アイドルと写真、そのメディア論的考察」というその文章をものすごく乱暴に要約すると(1)ヤングジャンプのグラビアは美少女たちとの関係性や日常をバーチャルに体験させるメディアだった(単なるエロじゃない)。しかし、現代のアイドルたちは(2)SNSの流行によって日常を自ら発信しはじめているし、(3)握手会などによって直接的な関係性を得られるのだ。よって、(4)もはやかつてのヤングジャンプ的グラビアは価値をもちづらくなっているのだ、と(仮想じゃなく、直接触れ合えるのだ、握手権がついているCDを買ったりすれば。そっちのほうが良いだろう、常識的に考えて!)……ということになる。

しかしながら、濱野が「ネット時代のアイドルカルチャーが持つ『闇の部分』」と呼ぶ、アイドルが発信する情報を監視し、怪しげな動き(たとえば『アイドルに交際相手がいるのでは?』という疑惑)があれば細かく調べ上げ、あるいは妄想し、クロなら全力で炎上・潰しにかかるアイドル・ファンたちの存在は不気味である。もっともそういうファンがネット時代に急増したわけではないだろう。問題はインターネットによってそうしたファンたちが互いに繋がることで、脅威化したことだと思う。しかも、そういうファンたちは全く自分の手を汚さずに、匿名で、アイドルを制裁できるのである。

ただ、そうしたファンたちの営みを彼は糾弾するわけではない。「それはどれだけ『気持ちの悪い』営みにはたから見えたとしても、この欲望の巨大な運動を止めることは、もはや不可能なように思える」と、その邪悪さをまるで仕方のないものとして認めているのだ。「気持ち悪い」というその自覚を、繰り返すだけになってしまうけれど、はっきり言って最低に最低で、最高に気持ち悪い。アイドルが、仮想から現実へ、アクセス不可能からアクセス可能と変化しても(つまり『会いにいける』ということだ)、邪悪な感じにしかなっていなくて、インターネットは地獄だ! と思う。

あとヤングジャンプ的グラビアの価値が落ちはじめているのだとしたら、グラビアにでているAKBの人たちは、単なる性的な対象(商品)としてそこにでていることになってしまう気がするのだが、そこは良いのか?

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