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御厨貴(編) 『近現代日本を史料で読む: 「大久保利通日記」から「富田メモ」まで』

高校時代、日本史の授業をいい加減にやり過ごしてしまったため……という言い訳をするわけではないですが、日本の近現代史についてはよくわかってない私です。が、この本は面白く読みました。政治家や軍人、役人の日記という史料を用いて、歴史的事件の裏側になにがあったのか、また歴史的人物の人となりがどのようなものであったのかを追っていくオムニバス。扱われている人物のなかには、最初から自分の日記が後世の史料として扱われるであろうことを意識して日記を書いている人もいれば(アルファダイアラーみたいなものですかね。その代表が原敬)、死後に日記が発見され、その重要性から日記を公開された「意図せざる日記作家」もいる。後者のなかには、妻を何年ぶりに抱いた、とか赤裸々と言いましょうか、生々しい記録を残している人もいて、これを読む歴史家が半笑いになるのが想像できたりもする。

公文書には、公的に記された出来事の数々が記されている。その一方で、本書で取り上げられている私文書には、公に開かれたスタティックな歴史から削ぎ落とされる、生きた歴史の源が眠っているように思いました。本書の「はしがき」にもありますが、こうしたテキストを読み解くことによって、例えば「維新の元勲を旧知か友人のごとく論評する」こともできるようになる。テキストの向こう側にいるはずの人間を想定して、読み解いていくのは、テキスト読みとして基本的と思われる真摯な態度のひとつでしょう。

昔の日本人の文書ですからコンピューターなんかありません。元々の史料はすべて手書きで、モノによれば字が汚すぎて判読できない……というのもある。そうした困難を乗り越えて研究が進められているわけですが、本書を読むと、なぜ、彼ら研究者がわざわざ、読めない・判らない、の非常にアクセシビリティの惹きつけられるかが少し理解できるような気もします。その理由はとてもシンプルで、単に面白いから、なんでしょうけれど、そうした点でも、本書は単なる歴史読み物、ではなく、歴史家・歴史研究者が日々、どういったテキストを相手にどういう仕事をしているのかを明かすモノです。

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