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8月, 2012の投稿を表示しています

クセナキス:オペラ《オレステイア》 @サントリーホール 大ホール

オペラ『オレステイア』3部作(ギリシャ語上演 字幕付き)(1992) 「アガメムノーン」「供養する女たち」「慈しみの女神たち」 原作:アイスキュロス(紀元前525-456) 作曲:ヤニス・クセナキス(1922-2001) 【出演】 バリトン=松平 敬、打楽器=池上英樹、合唱=東京混声合唱団(合唱指揮=山田 茂)、児童合唱=東京少年少女合唱隊(合唱指揮=長谷川久恵)、 演出=ラ・フラ・デルス・バウス、舞台監督=小栗哲家 音響=有馬純寿、演奏=東京シンフォニエッタ、指揮=山田和樹 サントリー芸術財団主催の夏の現代音楽フェスティバル「サマーフェスティバル」、ここ数年は毎年複数公演を観にいっていましたが今年は祝祭の最後を飾るビッグイベント、クセナキスのオペラ公演だけ聴きにいけました。すでにTwitterなどでほとんど絶賛の嵐が吹き荒れきった感はありますが、とにかくすごかったですね。「伝説を立ち会ってしまったなあ、これは……」という公演でした。 そもそも音楽とはなにか、と終演後に考えさせられる衝撃的な祝祭性は、論理性によってなにかを伝える芸術ではなく、古代的な ミメーシス の芸術の姿を想起させ、こうした意味で、古代ギリシャ演劇を「全体演劇」として現代にリプロダクトするようなクセナキスのコンセプトが見事に再現されていた、と思います。一言で言ってしまえば、最後にアレをやられてしまうと、否が応でも感動してしまうよね、ということなのですが……(他のものに喩えると『崖の上のポニョ』の序盤とか、ブルックナーの交響曲の最終楽章だとか……もう何かが溢れてしまう感じでヤラれるだろ、と)。 ラ・フラ・デルス・バウスによる演出は「日本っぽい諸々の要素を取り入れつつ、基本的には劇団四季とヒーローショー」という感じでしたけれども、自然に目が潤みました……。「クール・ジャパン(笑)」みたいな痛さはありましたけれども。ただ、頭にスカイツリーのっけてみたり、Twitterの投稿を投影してニコニコ動画のようなコメントの弾幕を出してみたり、なんかもう無茶苦茶だよ! という感じでありながら、終演後にアイスキュロスの原作について教わると「なるほど、意外にギリシャ演劇のルールが参照されてたりするのか」と感心させられる面もあって、単にヤンチャな外人野郎ではないのか、と思いました。 出演者も制作

最近買っていた新譜

Swing Lo Magellan posted with amazlet at 12.08.27 Dirty Projectors Domino (2012-07-10) 売り上げランキング: 1145 Amazon.co.jp で詳細を見る ニューヨークの現代音楽グループ、Bang On A Canの新作にも参加していた デイヴ・ロングストレスのバンド、Dirty Projectorsのセカンド・アルバム。視聴して「うーん、これはどうだろう、好きかな? イマイチピンとこないけども、買ってみたら好きになるかな?」と思って購入にいたったのだが、人は見た目が9割! 第一印象はなかなか覆らず! っていう感じで、全然ダメだった。むしろ、聴けば聴くほど、自分が嫌いなUSインディーのすべてがここに凝縮されているのでは!? という気さえしてくる。 この曲は好きです。他の曲は聴いてて、もっと骨太なロックが聴きたいゾェ〜、とか思って、Black CrowsとかWilcoとか、もう腹の底からロックなバンドに思いを馳せるのだった。 SONGISM posted with amazlet at 12.08.27 insect taboo Headz (2012-08-20) 売り上げランキング: 7736 Amazon.co.jp で詳細を見る 虫博士率いる伝説のバンド、インセクト・タブーがついにCDをリリース。2009年、突然のライヴ活動再開からちょいちょいライヴを観にいっていますが、今回のアルバムで初めて聴く楽曲もあり、虫博士の詩の世界をいつでも堪能できるのが嬉しい。最近気がつくと「ソビエトレンポー」や「レーニン数え歌」を口ずさんでいます。NHKの「みんなのうた」で流れるぐらいの名曲が揃っている……!

ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論』(1)

パサージュ論 (岩波現代文庫) posted with amazlet at 12.08.26 W・ベンヤミン 今村 仁司 三島 憲一 岩波書店 売り上げランキング: 149172 Amazon.co.jp で詳細を見る 来月またパリへ旅行にいくので、それに備えて(?)ベンヤミンの『パサージュ論』を読み始める。全5巻、まとまった論考が収録されているのは、この第1巻での「パリ — 19世紀の首都」のみで、それ以外はすべてさまざまなテーマにしたがって未完の「パサージュ論」のための膨大なメモや引用などをまとめた、というなかなかの奇書であって、ベンヤミンの主著でもなんでもない、ビートルズのアンソロジー以下の品物といっていいのだが面白い。 『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』 の感想にも書いたとおり、私はベンヤミンを「出来事の一回性と記憶、そして記憶のなかにある出来事への憧憬とその反復について書き続けたエッセイスト」として読んでいて、一見難解に思える衒学的な近代都市論・文化批評も、ベルリンからでてきた小難しいことを考えがちの批評家が「花の都」に取り付かれてしまって書き始めたモノ、つまり「おのぼりさん」の文章として読むと、親しみが湧いてくるのだった。現代の日本で喩えるならば、東北の片田舎からでてきた人が初めて渋谷を訪れ、センター街やパルコの広告都市感に圧倒されてしまった感じ……と勝手に思っており、ベンヤミンが、資本主義の弁証法的運動! 物神化された商品によるファンタジー! とか言うのも「おのぼりズム」と「マルクス主義へののぼせ」なのでは、と感じる。 いやみったらしいことを承知で書くと『パサージュ論』で言われていることは、実際にパリに行って、パリを観てみないと感じられないものだと思う。前述の喩えから言えば、パリを渋谷に読み替えて『パサージュ論』を読むことは不可能だし、ギャラリー・ラファイエットを新宿の伊勢丹と比べることもあまり意味がない。街なかのどこで写真を撮っても絵はがきのようにできあがってしまう街に自分がいた、という実感(=おのぼりズム)が「遊歩者(フラヌール)の視線」を理解させるのだ。 知っている通りや建物の名前が喚起するイメージは「はやく旅行にいきたい!」という気持ちを刺

一日でジョン・カサヴェテスの映画を4本観た

オープニング・ナイト(1977) ラヴ・ストリームス(1984) こわれゆく女(1974) チャイニーズ・ブッキーを殺した男(1976) 以上を観ました(@吉祥寺バウスシアター)。一本が2時間以上あるのでこの日10時間近く劇場の椅子に座っていたことになる。シネフィルな学生ならまだしも、シネフィルな学生ですらなかった私には、ちょっとタフな映画体験でした。3本目の途中からお尻が痛くなりました。でも、映画はどれも素晴らしくて、お世辞でも何でもなく、一瞬もつまらない瞬間がなかったです。連続して観ることで気づくこともあったし、一日素晴らしい映画の世界にどっぷりと浸れる、というのは大変贅沢なことだと思います。ジョン・カサヴェテスはとてもカッコ良い。 オープニング・ナイト オープニング・ナイト HDリマスター版 [DVD] posted with amazlet at 12.08.25 Happinet(SB)(D) (2009-11-20) 売り上げランキング: 100361 Amazon.co.jp で詳細を見る ジーナ・ローランズが老いを感じ始めた女優が、自分に与えられた「老い始めた女性」の役をどうこなすのか。若さを失っていることを認めたくない気持ちと、プロフェッショナルな女優として役を演じることへの意識との葛藤が、なかばスポ根ドラマのように展開されているのが面白かったです。特に後半は「舞台の幕は果たして無事に開くのか!?」ととてもハラハラさせられましたし、冒頭の交通事故のシーンにえげつなく心を掴まれてしまいました。事故によって若さが目の前で(象徴的に)奪われてしまう光景は、主人公の女優にくっきりと傷をつけてしまう。女優の傷つけられた内面は、舞台上で放たれるセリフとリンクし、それが女優の気持ちなのか、それとも役のセリフなのか、はっきりと判別がつかない。「脚本にそう書いてあるから、読んでいるだけです」という見せかけがあるからこそ、強く本当の気持ちがセリフのなかに表現されてしまうようにも思われて、グッときました。ジーナ・ローランズが泥酔している演技も、真に迫っていて良かったです(あ、年に一度ぐらいあんな感じになるな! とか思う)。 ラヴ・ストリームス ジーナ・ローランズが夫と娘しか情熱を注ぐものがないのに、その

アレクサンドル・ソクーロフ / モーツァルト・レクイエム

『ファウスト』 の前に上映されていたので観ました。これはなんだろうか……。サンクトペテルブルクの室内オケと合唱団がモーツァルトの《レクイエム》を演奏しているのを、ひたすら撮影した作品。合唱団はみな修道士のような意匠を着て、ステージを歩き回ったりしながら歌う、という謎の演出が。そして、曲間などの静かな部分では、鳥の鳴き声が入ってたり、マイクの近くにある椅子がミシミシ言う音が異様に目立っていたり、と音楽映画としてはかなり雑に思えました。演奏も別に上手くないし……。「N響アワー」のほうがすごいのでは。

アレクサンドル・ソクーロフ / ファウスト

アレクサンドル・ソクーロフの『ファウスト』を観ました。これは彼が取り組んできた「権力者」四部作の最終作にあたる映画だそう。ヒトラー、レーニン、ヒロヒトときて、最後にファウスト。四部作では一つ前の『太陽』しか観ていませんが、それとはまったくテイストが違うごっついザ・文芸映画でした。なんかすごかった。 タイトル・ショットの際、但し書きとして「ゲーテの原作から自由に翻案」とでてきましたが、おおむね原作の第一部を映画化している、といってよいのでしょう。私が原作を読んだのはずいぶん前だったため、中身をほとんど覚えていなかったんですけれども「原作がどんな風に映像化されているか」を確認するための映画ではありませんし、正直、原作を読んでなくても平気。個人的には原作よりもむしろ、15-16世紀のヨーロッパの雰囲気であるとか、あるいは哲学とかの知識を持っていたほうが楽しんでみれるのでは、と思いました。 映画は基本的にファウストと誰かの対話劇として進むんですが、冒頭から異様にガヤガヤしていて情報量が多く、画面上には二人しかいなくてもポリフォニー感というかカーニヴァル感があって、とても字幕に情報が乗りきっていませんし、セリフで状況を丁寧に説明してくれる訳でもない。説明されていない情報は、観客が教養として持っているしかない。当時の外科医の地位であるとか(ファウストの父親が外科医で登場)、また当時の哲学者がどのような存在であったのか、とか、ホムンクルスってなに? とかね。 ただし、そういうのも別に必須ではありません。実際、一緒に観にいった人はゲーテも読んでないし、映画の背景的知識もなかったけれど「つまらない瞬間がなかった」と言っていました。これはぎっしりとした密度を緊張感を保ちながら最初から終盤まで保持して、終盤で解放するような構成のおかげだったのかも。 原作を暴力的にまとめてしまえば 勉強ばっかりしてきた非リアのおっさんが、悪魔と契約して、リア充へ。 美少女とデキちゃったりするんだけど、調子に乗ったおっさんは結構ろくでなしになってたので美少女は殺されちゃう(ここまでが第一部)。 凹んだおっさんはその後、ファンタジーの世界に旅立ったりするんだが、なんとなく満たされない。 もうこんな人生いやん! みたいな感じになり、悪魔がおっさんの魂を奪いにくる しかし、そのとき、おっさんの魂

円通院と瑞巌寺

先日、妻と一緒に帰省した際に家族全員で松島に小旅行にいきました。そのときiPhoneで撮った写真を載せたりしてみます。日本三景のひとつと言われる松島には有名な伊達政宗の菩提寺があったりして、湾内の小島だけでなく見所がたくさんある。伊達政宗は派手好きな人だったらしく桃山文化取り入れ、仙台藩において独自の文化を育んだことがこうした名所から窺い知れるのがとても興味深いです。京都からも江戸からも離れていた遠い土地で、先行していた中央の文化を吸収して独自のものが栄える、という事象は、イタリア・ルネサンス絵画の影響から初期フランドル派が生まれたことと通じるものを感じてしまう。上にあげた写真は円通院の枯山水。円通院は、伊達政宗の孫で若くして亡くなった光宗の菩提寺で建立したのは正宗の息子、二代藩主忠宗だそうです。父親が派手派手なら息子は、ストイックな禅宗趣味だったのでしょうか。東北でこんなに立派な庭園が見れるとは知らずにいたので驚きました。 小石のなかに配置された岩は、松島湾の小島を表したものだそうです。これが海なのだとしたら、石の流れも波の流れを模さなくてはならないのでは……? と思うのですが、かなり本格的にイコノロジックな「神仏の庭」(庭で神仏的世界を表現する、という伝統的表現)で素晴らしかったです。 昨年の大きな地震で松島もそれなりのダメージを受けたと聞きましたが(湾内の小島のおかげで津波が弱まっていた、とはいえ)、円通院にはその名残らしきものは見えず。とても落ちついたパワースポットっぽい雰囲気がありました。 庭園内には小規模なバラ園もあります。伊達政宗がローマに送った使節団がバラを持ち帰った、という言い伝えがあるらしい。この支倉常長を代表とする慶長遣欧使節については、 松田毅一 の『伊達政宗の遣欧使節』 という本に詳しくあります。この使節団を送った伊達政宗の業績は、松島内ではかなり高く評価されて宣伝されているのですが、実際はそうでもなかった、とか。とはいえ、南蛮美術に興味を持つものとしてはかなり重要な史跡と言えるでしょう。ちなみに、この使節団を載せて太平洋を渡った サン・ファン・バウティスタ号の復元船は、地震のときの津波でも無事だったそうです (こっちもそのうち観にいきたい)。 本堂では数珠作りの体験もできる模様。お寺と数珠作りの関

ジョン・カサヴェテス / アメリカの影

アメリカの影 HDリマスター版 [DVD] posted with amazlet at 12.08.19 Happinet(SB)(D) (2009-11-20) 売り上げランキング: 50819 Amazon.co.jp で詳細を見る 現在、吉祥寺のバウスシアターで 『ジョン・カサヴェテス レトロスペクティヴ』 が開催されています。この監督については以前に 『グロリア』 だけ観ていて「おお、なんとかっこいい映画なのだろうか〜」と腰が抜ける思いだったので、この企画を知ってから「行かねば」と思っていました。まずはデビュー作の『アメリカの影』を。俳優にその場で即興的に(インプロヴィゼーションで)演技をさせた、え、だから音楽がチャールズ・ミンガスなの! という出オチ感はあるんですが、とても面白かったです。え、こんな童貞くさい1959年に撮られてたの!? と思いましたし、童貞感の普遍性のようなものさえ感じさせてくれる。主人公の一人が黒人差別を目のあたりにしてナイーヴになったり、ナンパした女性に先約があってケンカになってフルボッコになったり、という負け方が気持ち良いほどであって「童貞こじらせている人みんなに観てもらって、グッときたり、みじめな気持ちになってもらいたい」と思いました。 あと、女主人公がパーティーで出会った男と一晩を供にする、という流れがあって、そこで「初めてだったとは、知らなかった……」というアレな展開があるんですけど(処女なのに恋愛小説書いてたり、コケティッシュなふるまいをするんだよ!)、そこでまた「結ばれるって、身も心も結ばれることなんじゃないの?」と処女のロマンティック・ラヴ・イデオロギーが爆発するところも最高で。うわ、ウザッてなるじゃないですか。そこが良かったです。で、相手の男は「責任とってよ」と言わんばかりに「私と同棲できる?」と問いかけられんですが、そこで一瞬「ウッ」ってなって、その「ウッ」を女の側は見逃さないんですよね。それがさらに良かった。この「ウッ」ってなる男がまた、80年代だったらザ・スミスを間違いなく聴いてそうな男なんだ……(そして、ちょっとモリッシーに似てる)。 一本の太い筋が通ったストーリーがあるわけではないビート文学的な青春群像、ってこういうのなんでしょうか。ビートニクには強烈

Moritz Von Oswald Trio / Fetch

Fetch posted with amazlet at 12.08.16 Moritz Von Oswald Trio Honest Jon's (2012-06-18) 売り上げランキング: 21487 Amazon.co.jp で詳細を見る ドイツのミニマル・テクノ界の大御所、モーリッツ・フォン・オズワルドさん主宰によるトリオの新譜を聴きました。きっかけは、インターネット界の 「死んだ馬」 代表はてなダイアリーにおいて、優れた日記文学と音楽レビューを送り出し続けている 「日々の散歩の折りに」 で紹介されていたことですが、このブログに載っていて、ム、なんか気になるぞ、というモノはまったくハズレがありません。今回も大ホームランでした。ひたすらミニマルなビートのうえで、強烈なダブ処理をかけられたベースやトランペットや奇怪なパーカッションやメタリックなノイズが展開されるダークでクールな1時間弱。 緊張と弛緩とによって織りなされるダイナミクスではなく、そのふたつの相反する空気感がつねに同居して継続するような不思議な音楽で、なぜかチベット密教の音楽とか、ハンス・ヨアヒム・ローデリウス主催による Qlusterのアルバム を思い出しました。うだるような昼の暑さのなか、アイスコーヒーを歩き飲みしつつ、このアルバムを聴いていると、こうなにか、その辺に穴でも掘って、そこに頭から入り、土でもかぶせてもらって秋がくるのを待ちたくなるような……そんな気分になってしまうのでした。あとiTunesにインポートしようとしたらジャンル名が「Jazz」とでたのも度肝を抜かれましたね。もしかしたらこれがジャズの未来型なのかもしれないけれど、未来っていうか平行世界、まるで12人目のイマームが隠れている世界から来たジャズ、といったほうが適当な気がします。

広瀬立成 『朝日おとなの学びなおし 宇宙・物質のはじまりがわかる 量子力学』

朝日おとなの学びなおし 物理学 宇宙・物質のはじまりがわかる量子力学 (朝日おとなの学びなおし―物理学) posted with amazlet at 12.08.15 広瀬立成 朝日新聞出版 (2012-06-20) 売り上げランキング: 42896 Amazon.co.jp で詳細を見る 「おとなの学びなおし」で「量子力学」! って学びなおしはおろか、そもそも学んだ覚えがありませんけれど……というつまらないツッコミはさておき、数式をほとんど使わずに量子力学の世界を紹介する、という触れ込みに誘われて読んでみました。著者は都立大の名誉教授の方で、朝日カルチャーセンターでの講義にあわせた企画だった模様。内容のレベルとしては一時期『Newton』でこの手の知識を仕込んでいたこともあり( このへん とか、 このへん とか、 このへん とか)、新しい知識は特別にはありませんでしたが「すらすら読める!」という宣伝にウソはありません。しかし、本書は難しい部分を「わかりやすく喩えたら、こんな感じですよ」方式でものすごくザックリ進めてしまうので、ほ〜、そんな感じなんだ、と思うところがあっても後から振り返ると、う〜む、このレベルで「わかる」と言ってしまって良いのだろうか? と疑問に思わなくもない。とくに自発的対称性の破れの箇所は、そんな感じが強かったです(Wikipediaでもなんでも良いので、本書の説明を読んだ後に、この言葉を調べて読んでみると良いです)。 また「平易な文章 = ですます調で語りかけるような文章」だと勘違いしているのでは、という雰囲気があり、これではまるで「長調の曲を悲しいそうな顔で歌ったら短調になる」(中島らも)の世界……すらすら読ませるためにちょっと犠牲になっている部分があるのでは、とも思いました。一般向けに科学的な知識を広める文章なら、長年の蓄積のあるニュートンプレスが圧倒的なクオリティであって、そこと比べると、やはりちょっと見劣りしてしまいます。ただ、これ一冊になんかいろいろまとまっている、という点においてはなかなかありがたい本でしたし、先端的な専門知と非専門の市民とのつなぎ目を作る、みたいな本としては、このぐらいのレベルなのかなあ。「とかく難解と思われがちな量子力学の基礎が……」って内容紹介にあるけど、「

J. D. サリンジャー 『ナイン・ストーリーズ』

ナイン・ストーリーズ (ヴィレッジブックス) posted with amazlet at 12.08.11 J.D.サリンジャー ヴィレッジブックス 売り上げランキング: 73973 Amazon.co.jp で詳細を見る 柴田元幸の『ナイン・ストーリーズ』新訳が文庫化。どんな名訳であっても時代とともに古びてきてしまう、といったのは柴田元幸だったか、村上春樹だったか。今回この訳でサリンジャーに触れてみて、その言葉の意味を体感的に理解できた気がする。ソープオペラ風、というか、リズミカルでテンポ良く進んでいく海外ドラマの吹き替えのような文章は、とても生き生きとしていて、これまで親しんできた作品が鮮やかな色で修復されたかのよう。新しい価値を付加する訳、本当の姿を掘り起こす訳、いろんな新訳の形があるわけだが、これによって野崎孝訳の価値が失われてしまったわけではなく、今のところ多くの読者が、野崎訳があって、そして柴田訳がでてきたという読み方をしている人がおそらく多いはずなのだ。そこで新しい訳を読んだとき、古い訳を初めて読んだ時の感覚までもが克明に蘇っていくようであれば、これも新訳の成功なのかもしれない、と思った。単にそれが「久しぶりにサリンジャー、読んでみようか」というきっかけを与えてくれるだけでも、ありがたいことではある。 しかし、こんなにナイーヴな人たちがでてくる小説群だっただろうか、と思うのだった。単に神経症的なものではなく、戦争や巡り合わせによって感性を傷つけられた人々ばかりが主人公になっていることに昔読んだときは気づいていなかったが、これではサリンジャーのテーマといわれる「無垢なもの」の存在は、物語のはじめから傷つけられているようだ、と感じてしまう。だからこそ「コネチカットのアンクル・ウィギリー」や「笑い男」、「ディンギーで」、「エズメに 愛と悲惨をこめて」に登場するこどもの存在が、一層輝いて見えるのかもしれない。何年かぶりに「エズメに」を読んで、ウッと少し泣いてしまったりして(電車のなかで)、気持ち悪いことこのうえないのだが、サリンジャーが描くこどもの姿とは「かわいい」というたった一言でのっぺりと描かれたものではなく、理解不能であったり、不可解であったり、または腹立たしい存在であったりし、分別がついていないこと

ヒロ・ヒライ 『霊魂はどこから来るのか? 西欧ルネサンス期における医学論争』

坂本邦暢 『アリストテレスを救え 16世紀のスコラ学とスカリゲルの改革』 に引き続き、 7/6(木)、7/7(土)に立教大学で開催されたシンポジウム『人知の営みを歴史に記す 中世・初期近代インテレクチュアル・ヒストリーの挑戦』 での 各発表の動画 からヒロ・ヒライさんの発表動画を観ました。ヒライさんの発表は2011年に発表された第2著作『ルネサンスの医学と哲学 : 生命と物質についての論争』(英語)で論じられている内容のエッセンスを分かりやすく紹介したものとなっています。 発表のなかで取り上げられているのは ジャン・フェルネル(1497 - 1558) 、 ヤーコブ・シェキウス(1511 - 1587 )、 ダニエル・ゼンネルト(1572-1637) の霊魂論です(それぞれの人名に張られたリンクから、ヒライさんのサイト『 bibliotheca hermetica 』内の該当ページを参照できます)。これはルネサンス期の医学者たちが霊魂と身体との関係をどのように捉えたのかを追いながら、キリスト教神学とギリシア哲学との関係、そして霊魂論争と科学革命とのつながりがクリアになっていく興味深い発表でした。 中世以来の西欧の知識社会においてはアリストテレスの哲学が絶対的な権威として扱われていました。アリストテレス流の世界観では、世界は火・空気・水・土の四元素によってできている、という話はとても有名です。これらの四元素によってできあがったものは、いずれは滅びたり、また別なものになったりする。しかし、この考えは、キリスト教神学における「人間霊魂は不滅である」という考えと折り合いが悪いものでした。世界のあらゆるものが四元素でできているのであれば、霊魂もまた滅びたりするのでは、と問われたのです。そこで16世紀でもっとも影響力のある医学者のひとりであったフェルネルは「そもそも霊魂は物体じゃないので不滅である」という風に解釈しなおすことで、ギリシア哲学とキリスト教神学の調和を試みました。 そのつなぎ目に使われたのがガレノスの思想です。発表のなかでは以下の引用があります。ひとつはガレノスが依拠していたヒポクラテスのもの、もうひとつはフェルネルの『事物の隠れた原因について』という著作から。 「地上にうまれ・生きる人間とその他の諸生物は、その起源をそこにもち、霊魂は天空からくる

蜷川実花 / ヘルタースケルター

ヘルタースケルター・オリジナル・サウンド・トラック posted with amazlet at 12.08.02 V.A. avex trax (2012-07-11) 売り上げランキング: 13909 Amazon.co.jp で詳細を見る 沢尻エリカのスキャンダラスな話題はテレビ的にはもうオリンピックでかき消されている、という感じでしょうか? 観ているあいだの2時間半は、途中で幾度も挿入される「なんか映像美らしきモノを追求しているのでしょうか、これは」というシーンが苦痛とも言える間延びした時間感覚を提供しており「長い! タルい!」と叫びたいぐらいでしたが、少し時間が経つと、それほど悪い映画ではなく、酒飲み話を提供してくれる映画としてすごく優秀な問題作だったのでは、と思いました。上野耕路によるスコアはショスタコーヴィチの交響曲第8番やヴァイオリン協奏曲第1番、ラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章をモチーフにした曲(というかほとんどパクっているもの)が印象的でしたけれども、劇中では2曲、そうしたニセモノではないクラシックが使用されていて(戸川純『蛹化の女』を含めれば3曲)、ニセモノとニセモノではないモノの対比が気になってしまい、そこで使用されている曲(ベートーヴェンの第九! そして、ヨハン・シュトラウス2世によるドナウ!)について考えを巡らしていたら「え、もしかしてアレはキューブリックだったの!?」とか、そういう妄想を掻きたてられる。 原作は90年代の東京でしたが、映画は一応現代に時代が置き換えられている。この置換は少しちぐはぐなように思えました。消費する主体の象徴として、冒頭から女子高生がフィーチャーされたとき、映し出されるのは白いルーズソックス、そして終盤には浜崎あゆみが流れる。私は蜷川実花がどういう人なのかよく知らないのですが、この現代の渋谷との乖離は「おばさんが描いた現代風俗なのでは」と率直に感じたのですね。これは「諸星大二郎が割と最近の作品で描いている若者」に感ずるズレ(とそのおかしみ)にも似ている。もしかしたら、それは現実に存在しない、軽薄で汚れた架空の渋谷、の表現だったのかもしれませんが、悪い意味での希薄な現実感しか感じません。ただ、最もリアリティがないのは、沢尻エリカの肉感的な太ももで「トッ