クセナキス:オペラ《オレステイア》 @サントリーホール 大ホール

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オペラ『オレステイア』3部作(ギリシャ語上演 字幕付き)(1992)
「アガメムノーン」「供養する女たち」「慈しみの女神たち」
原作:アイスキュロス(紀元前525-456)
作曲:ヤニス・クセナキス(1922-2001)
【出演】
バリトン=松平 敬、打楽器=池上英樹、合唱=東京混声合唱団(合唱指揮=山田 茂)、児童合唱=東京少年少女合唱隊(合唱指揮=長谷川久恵)、 演出=ラ・フラ・デルス・バウス、舞台監督=小栗哲家
音響=有馬純寿、演奏=東京シンフォニエッタ、指揮=山田和樹
サントリー芸術財団主催の夏の現代音楽フェスティバル「サマーフェスティバル」、ここ数年は毎年複数公演を観にいっていましたが今年は祝祭の最後を飾るビッグイベント、クセナキスのオペラ公演だけ聴きにいけました。すでにTwitterなどでほとんど絶賛の嵐が吹き荒れきった感はありますが、とにかくすごかったですね。「伝説を立ち会ってしまったなあ、これは……」という公演でした。

そもそも音楽とはなにか、と終演後に考えさせられる衝撃的な祝祭性は、論理性によってなにかを伝える芸術ではなく、古代的なミメーシスの芸術の姿を想起させ、こうした意味で、古代ギリシャ演劇を「全体演劇」として現代にリプロダクトするようなクセナキスのコンセプトが見事に再現されていた、と思います。一言で言ってしまえば、最後にアレをやられてしまうと、否が応でも感動してしまうよね、ということなのですが……(他のものに喩えると『崖の上のポニョ』の序盤とか、ブルックナーの交響曲の最終楽章だとか……もう何かが溢れてしまう感じでヤラれるだろ、と)。

ラ・フラ・デルス・バウスによる演出は「日本っぽい諸々の要素を取り入れつつ、基本的には劇団四季とヒーローショー」という感じでしたけれども、自然に目が潤みました……。「クール・ジャパン(笑)」みたいな痛さはありましたけれども。ただ、頭にスカイツリーのっけてみたり、Twitterの投稿を投影してニコニコ動画のようなコメントの弾幕を出してみたり、なんかもう無茶苦茶だよ! という感じでありながら、終演後にアイスキュロスの原作について教わると「なるほど、意外にギリシャ演劇のルールが参照されてたりするのか」と感心させられる面もあって、単にヤンチャな外人野郎ではないのか、と思いました。

出演者も制作者も企画者も一丸となって、高いテンションで今回の公演を作ったのであろう、という感が伝わってくるのも良かったです。たった一晩の公演だったのが勿体ない。

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最近買っていた新譜

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Swing Lo Magellan
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Dirty Projectors
Domino (2012-07-10)
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ニューヨークの現代音楽グループ、Bang On A Canの新作にも参加していたデイヴ・ロングストレスのバンド、Dirty Projectorsのセカンド・アルバム。視聴して「うーん、これはどうだろう、好きかな? イマイチピンとこないけども、買ってみたら好きになるかな?」と思って購入にいたったのだが、人は見た目が9割! 第一印象はなかなか覆らず! っていう感じで、全然ダメだった。むしろ、聴けば聴くほど、自分が嫌いなUSインディーのすべてがここに凝縮されているのでは!? という気さえしてくる。


この曲は好きです。他の曲は聴いてて、もっと骨太なロックが聴きたいゾェ〜、とか思って、Black CrowsとかWilcoとか、もう腹の底からロックなバンドに思いを馳せるのだった。

SONGISM
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insect taboo
Headz (2012-08-20)
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虫博士率いる伝説のバンド、インセクト・タブーがついにCDをリリース。2009年、突然のライヴ活動再開からちょいちょいライヴを観にいっていますが、今回のアルバムで初めて聴く楽曲もあり、虫博士の詩の世界をいつでも堪能できるのが嬉しい。最近気がつくと「ソビエトレンポー」や「レーニン数え歌」を口ずさんでいます。NHKの「みんなのうた」で流れるぐらいの名曲が揃っている……!

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ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論』(1)

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パサージュ論 (岩波現代文庫)
W・ベンヤミン 今村 仁司 三島 憲一
岩波書店
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来月またパリへ旅行にいくので、それに備えて(?)ベンヤミンの『パサージュ論』を読み始める。全5巻、まとまった論考が収録されているのは、この第1巻での「パリ — 19世紀の首都」のみで、それ以外はすべてさまざまなテーマにしたがって未完の「パサージュ論」のための膨大なメモや引用などをまとめた、というなかなかの奇書であって、ベンヤミンの主著でもなんでもない、ビートルズのアンソロジー以下の品物といっていいのだが面白い。

『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』の感想にも書いたとおり、私はベンヤミンを「出来事の一回性と記憶、そして記憶のなかにある出来事への憧憬とその反復について書き続けたエッセイスト」として読んでいて、一見難解に思える衒学的な近代都市論・文化批評も、ベルリンからでてきた小難しいことを考えがちの批評家が「花の都」に取り付かれてしまって書き始めたモノ、つまり「おのぼりさん」の文章として読むと、親しみが湧いてくるのだった。現代の日本で喩えるならば、東北の片田舎からでてきた人が初めて渋谷を訪れ、センター街やパルコの広告都市感に圧倒されてしまった感じ……と勝手に思っており、ベンヤミンが、資本主義の弁証法的運動! 物神化された商品によるファンタジー! とか言うのも「おのぼりズム」と「マルクス主義へののぼせ」なのでは、と感じる。

いやみったらしいことを承知で書くと『パサージュ論』で言われていることは、実際にパリに行って、パリを観てみないと感じられないものだと思う。前述の喩えから言えば、パリを渋谷に読み替えて『パサージュ論』を読むことは不可能だし、ギャラリー・ラファイエットを新宿の伊勢丹と比べることもあまり意味がない。街なかのどこで写真を撮っても絵はがきのようにできあがってしまう街に自分がいた、という実感(=おのぼりズム)が「遊歩者(フラヌール)の視線」を理解させるのだ。

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知っている通りや建物の名前が喚起するイメージは「はやく旅行にいきたい!」という気持ちを刺激する。

あと、引用のなかでゲオルク・ジンメルの文章があって「こういう社会学的文化批評の流れって、ジンメル → ベンヤミン、みたいな系譜があるのかなあ〜」と思ったりした。

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一日でジョン・カサヴェテスの映画を4本観た

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  • オープニング・ナイト(1977)
  • ラヴ・ストリームス(1984)
  • こわれゆく女(1974)
  • チャイニーズ・ブッキーを殺した男(1976)
以上を観ました(@吉祥寺バウスシアター)。一本が2時間以上あるのでこの日10時間近く劇場の椅子に座っていたことになる。シネフィルな学生ならまだしも、シネフィルな学生ですらなかった私には、ちょっとタフな映画体験でした。3本目の途中からお尻が痛くなりました。でも、映画はどれも素晴らしくて、お世辞でも何でもなく、一瞬もつまらない瞬間がなかったです。連続して観ることで気づくこともあったし、一日素晴らしい映画の世界にどっぷりと浸れる、というのは大変贅沢なことだと思います。ジョン・カサヴェテスはとてもカッコ良い。

オープニング・ナイト

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ジーナ・ローランズが老いを感じ始めた女優が、自分に与えられた「老い始めた女性」の役をどうこなすのか。若さを失っていることを認めたくない気持ちと、プロフェッショナルな女優として役を演じることへの意識との葛藤が、なかばスポ根ドラマのように展開されているのが面白かったです。特に後半は「舞台の幕は果たして無事に開くのか!?」ととてもハラハラさせられましたし、冒頭の交通事故のシーンにえげつなく心を掴まれてしまいました。事故によって若さが目の前で(象徴的に)奪われてしまう光景は、主人公の女優にくっきりと傷をつけてしまう。女優の傷つけられた内面は、舞台上で放たれるセリフとリンクし、それが女優の気持ちなのか、それとも役のセリフなのか、はっきりと判別がつかない。「脚本にそう書いてあるから、読んでいるだけです」という見せかけがあるからこそ、強く本当の気持ちがセリフのなかに表現されてしまうようにも思われて、グッときました。ジーナ・ローランズが泥酔している演技も、真に迫っていて良かったです(あ、年に一度ぐらいあんな感じになるな! とか思う)。

ラヴ・ストリームス
ジーナ・ローランズが夫と娘しか情熱を注ぐものがないのに、その対象との関係がうまくいかず、メンタルに異常をきたす中年女性を、ジョン・カサヴェテスはセックス依存症的で女漁りを止められない作家の役をそれぞれ演じています。過剰な愛ゆえに、愛されることを失ってしまう女性と、愛を持ちなれていないゆえに、愛されることから逃げ出してしまう男性の対比が良かったです。どちらも決定的な瞬間で上手くいかず、余計に傷をこじらせてしまうところが悲愴的にも見えるのですが、最終的にはどちらの主人公にもなにか新しい道のはじまりがあって映画が終わります。その新しく進んでいく道の先には、希望や幸福があるのかどうかは分からない。でも、うまくいかなかったことや傷ついたものを元通りやり直すことは不可能だし、不可能であるということを割り切ったうえで生きていくしかない。これはカサヴェテスの映画全般に通じていることなのかもしれませんが、そうしたなかで、おかしみ、みたいな要素が含まれていることで、生の不可逆性の重さが中和され、物語の重さのバランスをとっているように思われました。カサヴェテス演じる作家の小切手の切り方や、ジーナ・ローランズのおばさんパワーの発揮が躁病的に見せられるのも面白かった。こちらは未DVD化。

こわれゆく女

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4本のなかではこれが一番好きかも。ジーナ・ローランズがノイローゼ気味の主婦(この日観た3本すべてでジーナ・ローランズは精神がダメになる役を演じている!)を、ピーター・フォークが伝統的な男性家長感全快の工事現場監督を演じています。これも家庭の崩壊とその後……がストーリーになっていて「覆水盆に返らず」感が強い映画でした。ジーナ・ローランズの精神不調は、ピーター・フォークの主権者っぷりに左右されているように思われ、この夫じゃノイローゼにもなるわい、と思わせられるのですが、ピーター・フォークはその不可逆性に気づいていない、あるいは認めたくない、と思っている、ゆえに「なんとかして元に戻したい」という気持ちの強さがでて、それがしんどいのだけれども、おかしみにつながっているところが良かったです。病院に半年入院して家に戻って来た妻の様子が「以前と同じ」ではない、ピーター・フォークはみんながそれを気にしていることが気に食わない。なんだか場の空気がとてもギクシャクしている。そこで彼は叫んでしまう。「もっと普通の会話をしろ!」(なんだよ、普通の会話、って)。そういうのとか。メンタルがダメになっている人にやっちゃいけないことを、ピーター・フォークがバンバンやっているところは気になると言えば気になるんだけれども。

母親が不在のなかで父親が子どもたちと関係を持とうと、一緒に海をいくところもじんわりと沁みました。その帰り道、トラックの荷台で子どもたちとビールを飲むシーン、ここ良かったなあ。『ラヴ・ストリームス』でも、カサヴェテスが過去に捨てた自分の子どもにビールを飲ませるシーンがありましたけれど、どちらの映画でも子どもが酔っぱらってしまう、というお決まりのような流れがあって、ただ、そこにはアルコールという「大人のモノ」を子どもが摂取するということで、大人と子どものあいだに秘密めいたサムシングが共有される雰囲気を感じます。あと、ジーナ・ローランズの主婦感はかなり良くて、年はとってるけど足が細くて可愛い。

チャイニーズ・ブッキーを殺した男


カサヴェテス作品のなかでは異色のノワールと呼ばれている作品、ですが、暴力的な描写は控えめで、やはり生のおかしみを感じてしまう妙な「振り切れてなさ」が良かったです。主人公のストリップ・バー経営者が、借金を返しきったぞ! というお祝い気分でカジノに行って、多額の借金を背負ってしまう、という流れも「ウッ、せつない」と思えて良いんですが、借金を帳消しにする代わりに引き受けるはめになった「鉄砲玉」の仕事の途中で、店のことが気になって公衆電話から「おい、今店はどうなってる?」と電話をかけてスタッフを叱る、ところがまたジワッと面白い。途中で寄ったダイナーで店員に「実は女房に先立たれててね……」と身の上話をされちゃったりして「こっちはこれから死ぬかもしれないんだよ!」感全開になるところとか。


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アレクサンドル・ソクーロフ / モーツァルト・レクイエム

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『ファウスト』の前に上映されていたので観ました。これはなんだろうか……。サンクトペテルブルクの室内オケと合唱団がモーツァルトの《レクイエム》を演奏しているのを、ひたすら撮影した作品。合唱団はみな修道士のような意匠を着て、ステージを歩き回ったりしながら歌う、という謎の演出が。そして、曲間などの静かな部分では、鳥の鳴き声が入ってたり、マイクの近くにある椅子がミシミシ言う音が異様に目立っていたり、と音楽映画としてはかなり雑に思えました。演奏も別に上手くないし……。「N響アワー」のほうがすごいのでは。

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アレクサンドル・ソクーロフ / ファウスト

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アレクサンドル・ソクーロフの『ファウスト』を観ました。これは彼が取り組んできた「権力者」四部作の最終作にあたる映画だそう。ヒトラー、レーニン、ヒロヒトときて、最後にファウスト。四部作では一つ前の『太陽』しか観ていませんが、それとはまったくテイストが違うごっついザ・文芸映画でした。なんかすごかった。

タイトル・ショットの際、但し書きとして「ゲーテの原作から自由に翻案」とでてきましたが、おおむね原作の第一部を映画化している、といってよいのでしょう。私が原作を読んだのはずいぶん前だったため、中身をほとんど覚えていなかったんですけれども「原作がどんな風に映像化されているか」を確認するための映画ではありませんし、正直、原作を読んでなくても平気。個人的には原作よりもむしろ、15-16世紀のヨーロッパの雰囲気であるとか、あるいは哲学とかの知識を持っていたほうが楽しんでみれるのでは、と思いました。

映画は基本的にファウストと誰かの対話劇として進むんですが、冒頭から異様にガヤガヤしていて情報量が多く、画面上には二人しかいなくてもポリフォニー感というかカーニヴァル感があって、とても字幕に情報が乗りきっていませんし、セリフで状況を丁寧に説明してくれる訳でもない。説明されていない情報は、観客が教養として持っているしかない。当時の外科医の地位であるとか(ファウストの父親が外科医で登場)、また当時の哲学者がどのような存在であったのか、とか、ホムンクルスってなに? とかね。

ただし、そういうのも別に必須ではありません。実際、一緒に観にいった人はゲーテも読んでないし、映画の背景的知識もなかったけれど「つまらない瞬間がなかった」と言っていました。これはぎっしりとした密度を緊張感を保ちながら最初から終盤まで保持して、終盤で解放するような構成のおかげだったのかも。

原作を暴力的にまとめてしまえば
  1. 勉強ばっかりしてきた非リアのおっさんが、悪魔と契約して、リア充へ。
  2. 美少女とデキちゃったりするんだけど、調子に乗ったおっさんは結構ろくでなしになってたので美少女は殺されちゃう(ここまでが第一部)。
  3. 凹んだおっさんはその後、ファンタジーの世界に旅立ったりするんだが、なんとなく満たされない。
  4. もうこんな人生いやん! みたいな感じになり、悪魔がおっさんの魂を奪いにくる
  5. しかし、そのとき、おっさんの魂をかつてヒドい目にあわせた美少女の霊が救済してくれる!(どっとはらい)
みたいな感じ(『結局女の子に助けられるんかい! マザコンか!』という)。

一方で、ソクーロフ版『ファウスト』は、生の充足感を得られない「魂の放浪者」として描かれます(冒頭から死体を解剖して『魂はどこだ!?』とか言っている)。このファウストの性格は原作よりも、ずっと現代に近いように思われ、実存的な悩みを抱えた人物のようです。彼は、単に快楽を手に入れたくて悪魔と契約するわけではなく、生の充足を埋めてくれるサムシングを求めて悪魔に近づいていく。その後、美少女をヒドい目にあわせたりするのは一緒なんですけれど、映画はファウストが契約した悪魔とも手を切って、荒野をさまよい続けるところで終わります。救済なし! このさまよう魂の主題は、ドイツ・ロマン主義っぽい! ラスト・シーンは「なんか『ホーリーマウンテン』みたい!」という感じで素敵です(アイスランドの間欠泉とかがでてくる)。


その後、原作を手に取ってパラパラめくってみたら「あ、意外に原作から拾ってるんだな」と思いました。映画を観終わった直後は「全然違うじゃん!」と思ったけども。あと池内紀の訳(集英社)と高橋義孝の訳(新潮社)、二種類もってて比べてみたら池内訳のサラサラ読める感じに改めて驚いたり。

追記:
一緒に観にいった人からFBのほうでコメントをもらって、なるほど! と思ったので、転載。
私は最後に博士は救済されたと認識しました。博士が悪魔を始末したのちに、最後のシーンでマルグレーテの声に導かれるように明確に自分の向かうべき場所を明言していたからです。それと博士自身の表情ですかね。ベタな解釈ですが。

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円通院と瑞巌寺

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松島 円通院の枯山水
先日、妻と一緒に帰省した際に家族全員で松島に小旅行にいきました。そのときiPhoneで撮った写真を載せたりしてみます。日本三景のひとつと言われる松島には有名な伊達政宗の菩提寺があったりして、湾内の小島だけでなく見所がたくさんある。伊達政宗は派手好きな人だったらしく桃山文化取り入れ、仙台藩において独自の文化を育んだことがこうした名所から窺い知れるのがとても興味深いです。京都からも江戸からも離れていた遠い土地で、先行していた中央の文化を吸収して独自のものが栄える、という事象は、イタリア・ルネサンス絵画の影響から初期フランドル派が生まれたことと通じるものを感じてしまう。上にあげた写真は円通院の枯山水。円通院は、伊達政宗の孫で若くして亡くなった光宗の菩提寺で建立したのは正宗の息子、二代藩主忠宗だそうです。父親が派手派手なら息子は、ストイックな禅宗趣味だったのでしょうか。東北でこんなに立派な庭園が見れるとは知らずにいたので驚きました。

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小石のなかに配置された岩は、松島湾の小島を表したものだそうです。これが海なのだとしたら、石の流れも波の流れを模さなくてはならないのでは……? と思うのですが、かなり本格的にイコノロジックな「神仏の庭」(庭で神仏的世界を表現する、という伝統的表現)で素晴らしかったです。

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円通院内で庭の手入れをしている人たち
昨年の大きな地震で松島もそれなりのダメージを受けたと聞きましたが(湾内の小島のおかげで津波が弱まっていた、とはいえ)、円通院にはその名残らしきものは見えず。とても落ちついたパワースポットっぽい雰囲気がありました。

円通院内の看板
庭園内には小規模なバラ園もあります。伊達政宗がローマに送った使節団がバラを持ち帰った、という言い伝えがあるらしい。この支倉常長を代表とする慶長遣欧使節については、松田毅一 の『伊達政宗の遣欧使節』という本に詳しくあります。この使節団を送った伊達政宗の業績は、松島内ではかなり高く評価されて宣伝されているのですが、実際はそうでもなかった、とか。とはいえ、南蛮美術に興味を持つものとしてはかなり重要な史跡と言えるでしょう。ちなみに、この使節団を載せて太平洋を渡ったサン・ファン・バウティスタ号の復元船は、地震のときの津波でも無事だったそうです(こっちもそのうち観にいきたい)。

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本堂では数珠作りの体験もできる模様。お寺と数珠作りの関係性は謎。

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で、瑞巌寺ですが、こっちは本堂が修理中のため平成28年ぐらいまでメインどころが非公開! とのこと(地震の影響ではなく、平成20年から建物の保護のため、修理していたらしい)。その代わり、国宝で普段は非公開の庫裡や大書院、大霊屋(伊達政宗の正室の墓堂)が公開されていました。基本的に写真撮影禁止だったため、写真はありません。ここは宝物館なども素晴らしくて。この日は、白鴎楼文庫という地元の名士のコレクションからの企画展示を堪能しました。東東洋、小池曲江、生出大璧といった宮城出身の画家の素晴らしい絵が見れ、特に東東洋にはグッとくるものがありました(東北歴史博物館に多く収蔵されているようなので、また機会を作って観にいきたい)。

瑞巌寺は参道の杉並木の雰囲気がとても良いところなのですが、津波の塩害によって多くが切り倒されてしまうそう。ちょうど伐採がはじまる直前にいけたので、とてもタイミングが良かったです。あれだけ立派な杉並木が元通りになるためには何年かかるのか想像もできません。東北道を走っていて、塩害のため稲作を諦めざるを得ない元・田園地帯も目に入って、その荒涼感たるや、かなりグッサリやられる感じでした。松島の遊覧船乗り場にはまだガレキが残ってるところもあって、パッと見、通常営業しているようでしたが、まだまだ全快、とは言えないのでしょう。良いところなので応援したい気持ちになります。

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ジョン・カサヴェテス / アメリカの影

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アメリカの影 HDリマスター版 [DVD]
Happinet(SB)(D) (2009-11-20)
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現在、吉祥寺のバウスシアターで『ジョン・カサヴェテス レトロスペクティヴ』が開催されています。この監督については以前に『グロリア』だけ観ていて「おお、なんとかっこいい映画なのだろうか〜」と腰が抜ける思いだったので、この企画を知ってから「行かねば」と思っていました。まずはデビュー作の『アメリカの影』を。俳優にその場で即興的に(インプロヴィゼーションで)演技をさせた、え、だから音楽がチャールズ・ミンガスなの! という出オチ感はあるんですが、とても面白かったです。え、こんな童貞くさい1959年に撮られてたの!? と思いましたし、童貞感の普遍性のようなものさえ感じさせてくれる。主人公の一人が黒人差別を目のあたりにしてナイーヴになったり、ナンパした女性に先約があってケンカになってフルボッコになったり、という負け方が気持ち良いほどであって「童貞こじらせている人みんなに観てもらって、グッときたり、みじめな気持ちになってもらいたい」と思いました。

あと、女主人公がパーティーで出会った男と一晩を供にする、という流れがあって、そこで「初めてだったとは、知らなかった……」というアレな展開があるんですけど(処女なのに恋愛小説書いてたり、コケティッシュなふるまいをするんだよ!)、そこでまた「結ばれるって、身も心も結ばれることなんじゃないの?」と処女のロマンティック・ラヴ・イデオロギーが爆発するところも最高で。うわ、ウザッてなるじゃないですか。そこが良かったです。で、相手の男は「責任とってよ」と言わんばかりに「私と同棲できる?」と問いかけられんですが、そこで一瞬「ウッ」ってなって、その「ウッ」を女の側は見逃さないんですよね。それがさらに良かった。この「ウッ」ってなる男がまた、80年代だったらザ・スミスを間違いなく聴いてそうな男なんだ……(そして、ちょっとモリッシーに似てる)。

一本の太い筋が通ったストーリーがあるわけではないビート文学的な青春群像、ってこういうのなんでしょうか。ビートニクには強烈な苦手意識があるんですけど、これはハマった。すっごい、異様なリアリティを放っていたなあ、と。公開時のカサヴェテスは29歳だったそうで、出演者も20代前半だったみたい。なんかそういう若さがフィクションのなかに包まれてるような気もする。日本よ、これが映画だ、ですよ、まったく……。

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Moritz Von Oswald Trio / Fetch

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Fetch
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Moritz Von Oswald Trio
Honest Jon's (2012-06-18)
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ドイツのミニマル・テクノ界の大御所、モーリッツ・フォン・オズワルドさん主宰によるトリオの新譜を聴きました。きっかけは、インターネット界の「死んだ馬」代表はてなダイアリーにおいて、優れた日記文学と音楽レビューを送り出し続けている「日々の散歩の折りに」で紹介されていたことですが、このブログに載っていて、ム、なんか気になるぞ、というモノはまったくハズレがありません。今回も大ホームランでした。ひたすらミニマルなビートのうえで、強烈なダブ処理をかけられたベースやトランペットや奇怪なパーカッションやメタリックなノイズが展開されるダークでクールな1時間弱。


緊張と弛緩とによって織りなされるダイナミクスではなく、そのふたつの相反する空気感がつねに同居して継続するような不思議な音楽で、なぜかチベット密教の音楽とか、ハンス・ヨアヒム・ローデリウス主催によるQlusterのアルバムを思い出しました。うだるような昼の暑さのなか、アイスコーヒーを歩き飲みしつつ、このアルバムを聴いていると、こうなにか、その辺に穴でも掘って、そこに頭から入り、土でもかぶせてもらって秋がくるのを待ちたくなるような……そんな気分になってしまうのでした。あとiTunesにインポートしようとしたらジャンル名が「Jazz」とでたのも度肝を抜かれましたね。もしかしたらこれがジャズの未来型なのかもしれないけれど、未来っていうか平行世界、まるで12人目のイマームが隠れている世界から来たジャズ、といったほうが適当な気がします。

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広瀬立成 『朝日おとなの学びなおし 宇宙・物質のはじまりがわかる 量子力学』

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「おとなの学びなおし」で「量子力学」! って学びなおしはおろか、そもそも学んだ覚えがありませんけれど……というつまらないツッコミはさておき、数式をほとんど使わずに量子力学の世界を紹介する、という触れ込みに誘われて読んでみました。著者は都立大の名誉教授の方で、朝日カルチャーセンターでの講義にあわせた企画だった模様。内容のレベルとしては一時期『Newton』でこの手の知識を仕込んでいたこともあり(このへんとか、このへんとか、このへんとか)、新しい知識は特別にはありませんでしたが「すらすら読める!」という宣伝にウソはありません。しかし、本書は難しい部分を「わかりやすく喩えたら、こんな感じですよ」方式でものすごくザックリ進めてしまうので、ほ〜、そんな感じなんだ、と思うところがあっても後から振り返ると、う〜む、このレベルで「わかる」と言ってしまって良いのだろうか? と疑問に思わなくもない。とくに自発的対称性の破れの箇所は、そんな感じが強かったです(Wikipediaでもなんでも良いので、本書の説明を読んだ後に、この言葉を調べて読んでみると良いです)。

また「平易な文章 = ですます調で語りかけるような文章」だと勘違いしているのでは、という雰囲気があり、これではまるで「長調の曲を悲しいそうな顔で歌ったら短調になる」(中島らも)の世界……すらすら読ませるためにちょっと犠牲になっている部分があるのでは、とも思いました。一般向けに科学的な知識を広める文章なら、長年の蓄積のあるニュートンプレスが圧倒的なクオリティであって、そこと比べると、やはりちょっと見劣りしてしまいます。ただ、これ一冊になんかいろいろまとまっている、という点においてはなかなかありがたい本でしたし、先端的な専門知と非専門の市民とのつなぎ目を作る、みたいな本としては、このぐらいのレベルなのかなあ。「とかく難解と思われがちな量子力学の基礎が……」って内容紹介にあるけど、「思われがち」じゃなくて実際難しい分野だと思うし、その難しさを比喩でほぐしてしまうことで失われてしまうサムシングに思いを馳せてしまう。

冒頭、現代の科学者が量子論にたどり着くまでの道のりを辿るときの開始点が古代ギリシャから、っていうところは良いと思いました。「え! そこからかい!」という驚きつつも、すごく良い導入部になっています。あと、量子力学といえば、やれ二重スリット実験だ、やれシュレディンガーの猫だ……という話ばっかりで、っていうか、そのぐらいしかでてこなくて「量子力学ってアレでしょ? なんか、えーっと、なんか電子が光だったり、波だったり……あ、猫が死んだり、死ななかったりする、アレ」というのが、普通の人が知ってる範囲だと思うんですけれども、その有名な部分が本書では一番最後にでてくるのも特徴的だと思います。猫が死んだり、死ななかったりしないで、古代ギリシャから現代までの「世界はなにでできてるか」を一気通貫するっていう。CERNのLHCが活躍しまくっているおかげで、早くも本書の内容が古くなり始めているのが、アレですが面白く読みました。

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J. D. サリンジャー 『ナイン・ストーリーズ』

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柴田元幸の『ナイン・ストーリーズ』新訳が文庫化。どんな名訳であっても時代とともに古びてきてしまう、といったのは柴田元幸だったか、村上春樹だったか。今回この訳でサリンジャーに触れてみて、その言葉の意味を体感的に理解できた気がする。ソープオペラ風、というか、リズミカルでテンポ良く進んでいく海外ドラマの吹き替えのような文章は、とても生き生きとしていて、これまで親しんできた作品が鮮やかな色で修復されたかのよう。新しい価値を付加する訳、本当の姿を掘り起こす訳、いろんな新訳の形があるわけだが、これによって野崎孝訳の価値が失われてしまったわけではなく、今のところ多くの読者が、野崎訳があって、そして柴田訳がでてきたという読み方をしている人がおそらく多いはずなのだ。そこで新しい訳を読んだとき、古い訳を初めて読んだ時の感覚までもが克明に蘇っていくようであれば、これも新訳の成功なのかもしれない、と思った。単にそれが「久しぶりにサリンジャー、読んでみようか」というきっかけを与えてくれるだけでも、ありがたいことではある。

しかし、こんなにナイーヴな人たちがでてくる小説群だっただろうか、と思うのだった。単に神経症的なものではなく、戦争や巡り合わせによって感性を傷つけられた人々ばかりが主人公になっていることに昔読んだときは気づいていなかったが、これではサリンジャーのテーマといわれる「無垢なもの」の存在は、物語のはじめから傷つけられているようだ、と感じてしまう。だからこそ「コネチカットのアンクル・ウィギリー」や「笑い男」、「ディンギーで」、「エズメに 愛と悲惨をこめて」に登場するこどもの存在が、一層輝いて見えるのかもしれない。何年かぶりに「エズメに」を読んで、ウッと少し泣いてしまったりして(電車のなかで)、気持ち悪いことこのうえないのだが、サリンジャーが描くこどもの姿とは「かわいい」というたった一言でのっぺりと描かれたものではなく、理解不能であったり、不可解であったり、または腹立たしい存在であったりし、分別がついていないことが即ち、無垢なのだ、と言うことさえできそうである。

そうした分別のつかなさが「テディ」というシーモア・グラースの原型であろう少年が登場する作品においては、違った形で描かれる。この作品の主人公、テディ(10歳)は東洋哲学に傾倒した天才少年で、毎朝瞑想をしてみたり、いきなりジョージ・バークリーみたいな観念論を披露してみたりして、周囲の大人に不可解な気持ちをいだかせまくるクソガキである。この後半部で、テディは教育学を研究しているニコルソンという人物と禅問答をおこなうのだが、少年がニコルソンにしきりに伝えようとするのは、世界の分節線を忘れ、むき出しの意識で生きよ、という禅の境地なのだった(この部分は井筒俊彦『意識と本質』を想起させられた。この記事の三段落目からを参照のこと)。

この作品の初出が1953年だそうなので、鈴木大拙がアメリカで講義をおこなっていた時期とカブるのだが、こんなものが果たして当時のアメリカ人に理解されたのだろうか(シュタイナー流の神秘主義経由で曲解されてたりしそうだが)とも思われてしまう。それと同時に、ここで行われている、こどもの分別の無さとロゴスを捨てよ、という思想との接続はなかなか大胆なモノだったのでは、とも感じる。サリンジャーがどの程度本気で東洋思想にのめりこんでいたかはわからないのだが、彼の作品への東洋思想の反映は、50-60年代のアメリカの知識層にどれだけ東洋思想が理解されていたかを見てとるための素材になるのかもしれないし、東洋思想小説……でありながら、なんかムカつくガキの小説、というのは、やはり希少な作品であるなあ。

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ヒロ・ヒライ 『霊魂はどこから来るのか? 西欧ルネサンス期における医学論争』

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坂本邦暢 『アリストテレスを救え 16世紀のスコラ学とスカリゲルの改革』に引き続き、7/6(木)、7/7(土)に立教大学で開催されたシンポジウム『人知の営みを歴史に記す 中世・初期近代インテレクチュアル・ヒストリーの挑戦』での各発表の動画からヒロ・ヒライさんの発表動画を観ました。ヒライさんの発表は2011年に発表された第2著作『ルネサンスの医学と哲学 : 生命と物質についての論争』(英語)で論じられている内容のエッセンスを分かりやすく紹介したものとなっています。

発表のなかで取り上げられているのはジャン・フェルネル(1497 - 1558)ヤーコブ・シェキウス(1511 - 1587)、ダニエル・ゼンネルト(1572-1637)の霊魂論です(それぞれの人名に張られたリンクから、ヒライさんのサイト『bibliotheca hermetica』内の該当ページを参照できます)。これはルネサンス期の医学者たちが霊魂と身体との関係をどのように捉えたのかを追いながら、キリスト教神学とギリシア哲学との関係、そして霊魂論争と科学革命とのつながりがクリアになっていく興味深い発表でした。

中世以来の西欧の知識社会においてはアリストテレスの哲学が絶対的な権威として扱われていました。アリストテレス流の世界観では、世界は火・空気・水・土の四元素によってできている、という話はとても有名です。これらの四元素によってできあがったものは、いずれは滅びたり、また別なものになったりする。しかし、この考えは、キリスト教神学における「人間霊魂は不滅である」という考えと折り合いが悪いものでした。世界のあらゆるものが四元素でできているのであれば、霊魂もまた滅びたりするのでは、と問われたのです。そこで16世紀でもっとも影響力のある医学者のひとりであったフェルネルは「そもそも霊魂は物体じゃないので不滅である」という風に解釈しなおすことで、ギリシア哲学とキリスト教神学の調和を試みました。

そのつなぎ目に使われたのがガレノスの思想です。発表のなかでは以下の引用があります。ひとつはガレノスが依拠していたヒポクラテスのもの、もうひとつはフェルネルの『事物の隠れた原因について』という著作から。

「地上にうまれ・生きる人間とその他の諸生物は、その起源をそこにもち、霊魂は天空からくるという以外には、天空や星々について私は何もいうつもりはない。」(ヒポクラテス『肉について』De carnibus 第1節)
「すべての不確かなことがらを排除するために、『受胎について』という著作のなかでガレノスが神的に語るつぎの言葉に耳をかたむけるがよい。「霊魂とは世界霊魂から下界に流れでてきたものであり、天界から由来し、知をあつかうことができる。それ自身と似たものをつねに好み、地上の事物を 投げすて、いつでもすべてのうちでもっとも高位のものをめざす。天界の神聖さをまとい、しばしば 天界を見つめ、すべての事物の支配者のそばに立とうとする。」この一節は、ガレノスの見解がまっ たくのところプラトンやアリストテレスのものから隔たってはいないことをしめしている。われわれ 人間の霊魂が非物体的であり不滅であるということを、彼らはひとつの声で語ったのである。」(フェルネル『事物の隠れた原因について』 De abditis rerum causis (パリ、1548年) 第2書第4章 )
フェルネルは、ガレノスの著作から霊魂が、四元素が生成消滅をする月下世界のものではなく、その論理を超えた天界に由来するものである、ということを導き、前述の「人間の霊魂は不滅である」と理屈づけるのです。生成消滅する身体と不滅の霊魂は「つなぎの結び目」と呼ばれるものでつながっており、人間が死ぬときはその結び目だけが破壊され、霊魂は身体から自由になる、と彼はこうも考えました。天空からやってくる不滅の霊魂は、神的なものであり、それは四元素を超える第五元素(アイテール)を備えたものである。このようにアリストテレス主義はキリスト教神学と矛盾しないように解釈され、その後も影響力を保ち続けます。

次に紹介されるのはヤーコブ・シェキウスは、ルター派の人文主義者で当時大変人気のあった教師でした。彼は『種子の形成力について』という著作を記し、そこで説かれた形成力の概念は強いインパクトをもって迎えられたようです(形成力の概念については、以前に紹介しました『「ゲオコスモス」―キルヒャーの地下世界論』でも触れられています)。シェキウスはこの著作のなかで、生命の誕生の瞬間、身体へと霊魂が宿る瞬間の様子をこのように記述しています。

「人間の誕生では、霊魂はかの神的な乗り物とともに創造されるのである。人間霊魂は形成力によって物質から引きだされるのではない。人間霊魂は発生するのではなく、神に創造される知性の神的で 不滅の本質のおかげで、形成力を乗せた乗り物とともに種子のなかに挿入されるのだ。」 シェキウス『種子の形成力について』 De plastica seminis facultate (シュトラスブルグ、1580年) 第1書    
「霊魂の乗り物」によって、霊魂は身体を出たり入ったりするのだが、いったん霊魂は身体の元になる種子のなかに入ります(ここでの種子は、物質の源になる何か、と考えてください)。その乗り物には、形成力も一緒に積まれていて、まず、その形成力が種子から身体を形成し、それと同時に、神の御業によって霊魂が誕生します。そして、霊魂は物質的な身体を統御する役割を持ちはじめる(さらに霊魂がいったん身体を統御し始めると、形成力は霊魂に取って代わられてしまう)。このようなシェキウスの考えは、神的なものである霊魂と、それに従属する物質的な身体の役割をより一層明確にするものだと思われます。

霊魂の乗り物、形成力による身体の形成、神による霊魂の創造。この段階を踏むシェキウスの霊魂論は、フェルネルのように霊魂が身体を出たり入ったりする、という点では似ていますが、人間霊魂が誕生時に神によって毎回創造されている、ゆえに人間霊魂は特別である、と理屈づける点で異なっています。また、シェキウスは、アリストテレスに代表されるギリシアの哲学者たちは創造主という存在を知らなかったので、霊魂の元はそもそも種子のなかに宿っていて、その種子から引き出される、という誤謬をおかした、と批判しました。

さて最後に紹介されるゼンネルトはどのように霊魂を考えたのでしょうか。まず、近年の哲学史、化学史においてゼンネルトへの注目が集まっている、ということが紹介されますが、ここで出てくるトピックのフレッシュな魅力が驚異的と言えます(ボイルやライプニッツらに影響を与え、そしてデモクリトスの原始論を初期近代において再考した人物なのだそう)。この発表では、彼の『自然学研究』という著作が紹介されています。

ここまでに紹介されてきたフェルネルやシェキウスと違い、彼は「霊魂は何かによって創造されたりするのではなく、天空からやってくるのではなく、勝手に増殖する機能が備わっているのだ」という風に考えていたようです。『創世記』にある主は、生物のすべての種の最初の霊魂だけを創造し「生めよ、ふえよ!」と言ったので、霊魂が勝手に増殖していった。これだけで霊魂の仕組みは説明できるので、霊魂が天空からやってきた、などという説明は不要である、とゼンネルトと言うのです。またシェキウスの唱える種子に霊魂が入ってくるアイデアも否定されます。ゼンネルトにとっての種子のアイデアは、以下のようなものです。

「種子とは広い意味でも、狭い意味でも用いられる。広い意味では生物の発生に寄与するすべての物体のことである。それに対して狭い意味では非常にシンプルな実体、つまり精気であり、そのなかに霊魂と形成力が直接的に宿っており、自分の属する有機体のイデアを内包しているものである。」ゼンネルト『自然学研究』 Hypomnemata physica (フランクフルト、1636年) 第4書第6章    
ゼンネルトの種子のなかには最初から霊魂と形成力がやどっている。さらに、種子には雄の種子と雌の種子があり、それらが掛け合わされることによって、増殖していく。シェキウスの霊魂論では神が霊魂をいまも創造し続けているが、神は最初の創造のとき以外は奇跡を起こす以外に仕事をしていない、というゼンネルトの説はちょっと衝撃的に思えます。キリスト教における絶対的な神の力が弱まるような説明として聞こえるのですね。この神の驚異的な力が、学説からだんだん後退していく17世紀という時代だったのでしょうか?

↑ヒライさんの件の第2著作(まだ、買えてません)。

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蜷川実花 / ヘルタースケルター

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V.A.
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沢尻エリカのスキャンダラスな話題はテレビ的にはもうオリンピックでかき消されている、という感じでしょうか? 観ているあいだの2時間半は、途中で幾度も挿入される「なんか映像美らしきモノを追求しているのでしょうか、これは」というシーンが苦痛とも言える間延びした時間感覚を提供しており「長い! タルい!」と叫びたいぐらいでしたが、少し時間が経つと、それほど悪い映画ではなく、酒飲み話を提供してくれる映画としてすごく優秀な問題作だったのでは、と思いました。上野耕路によるスコアはショスタコーヴィチの交響曲第8番やヴァイオリン協奏曲第1番、ラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章をモチーフにした曲(というかほとんどパクっているもの)が印象的でしたけれども、劇中では2曲、そうしたニセモノではないクラシックが使用されていて(戸川純『蛹化の女』を含めれば3曲)、ニセモノとニセモノではないモノの対比が気になってしまい、そこで使用されている曲(ベートーヴェンの第九! そして、ヨハン・シュトラウス2世によるドナウ!)について考えを巡らしていたら「え、もしかしてアレはキューブリックだったの!?」とか、そういう妄想を掻きたてられる。

原作は90年代の東京でしたが、映画は一応現代に時代が置き換えられている。この置換は少しちぐはぐなように思えました。消費する主体の象徴として、冒頭から女子高生がフィーチャーされたとき、映し出されるのは白いルーズソックス、そして終盤には浜崎あゆみが流れる。私は蜷川実花がどういう人なのかよく知らないのですが、この現代の渋谷との乖離は「おばさんが描いた現代風俗なのでは」と率直に感じたのですね。これは「諸星大二郎が割と最近の作品で描いている若者」に感ずるズレ(とそのおかしみ)にも似ている。もしかしたら、それは現実に存在しない、軽薄で汚れた架空の渋谷、の表現だったのかもしれませんが、悪い意味での希薄な現実感しか感じません。ただ、最もリアリティがないのは、沢尻エリカの肉感的な太ももで「トップモデル」という設定、同点優勝で寺島しのぶが車を運転するシーンでのハンドルの動き、でした。特に後者は「この映像にOKを出した人は、普段どのように現実を見ているのだろうか」と不安に駆られるモノで、嘘や虚構はホンモノっぽくなければ、成立しないのでは、と考えてしまいます。

原作のテーマを殺さないために、90年代に存在しなかったものが映画のなかで足され、現代に存在するものが映画から排除されているのは致し方ありません。しかし、映画のなかに「K-Pop」がなかったことに気づいた瞬間、もはや原作のテーマが決定的に古くなっている、と気づくのです。人体にメスを入れることは身近になり、そうでなくても人体に何かを接着して、肉体を改変することができる。また、仮想的に肉体を改変することも一般的に愉しまれてしまっている(デカ目プリクラがその象徴と言って良いでしょう)。原作では、そうした改変は、欲望が過剰に投射されたグロテスクなものとして描かれているように思うのですが、今やテクノロジーの進化によって、改変がポップなものとなりつつある。グロテスクであることを愉しんでしまえるテクノロジーが現在存在し、それらは我々の道徳を書き換えてしまうのです。

驚いたのは、全身整形をした主人公が、マイケル・ジャクソンについて言及するシーンです。ここは抗議を出しておくべきでしょう。身体をイジっている、という点では、主人公とマイケルは一致していますが、ふたりの行動原理はまったく異なっているのですから。大衆の集団的無意識のスクリーンとして自らの身体を消費的に提供し続けることで生き延びようとする主人公りりこは当初、とても他律的に生活させられているのですが、終盤では、そうした他律性を自律的に上書きしてしまう。「最高のショーを見せてあげる」というキャッチコピーは、行動理念が上書きされたりりこ(2.0)によるものです。そこにはある種のプロフェッショナルとしての決意が感じられる。一方、マイケル・ジャクソンはどうだったでしょうか。誰がマイケルの鼻が尖っていれば良いと思ったのか、誰がマイケルの肌が白くなれば良いと思ったのかを考えれば、両者の違いがすぐに明確になります。誰もそのような変化を彼に求めていなかった、にも関わらず、彼は様々な素晴らしいモノ、得がたいモノを提供し続けていました。ここには、使命感の強い職業人と天才的な芸術家の違いがあると言って良いでしょう。


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