ウラジーミル・ソローキン 『愛』

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愛 (文学の冒険シリーズ)
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ウラジーミル・ソローキン
国書刊行会
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とにかく「ロシア文学」というジャンルに対しては、重い、暗い、登場人物の名前が覚えられない……などツラいイメージがありますから(それらの多くはドストエフスキーによるものと思われますが)、このウラジミール・ソローキンという現代ロシア文学の注目株が書いた『愛』という短編小説集には、どれほど重く、切ない愛模様が描かれているのだろう……と期待したくもなります。が、その期待はすぐさま裏切られることでしょう。ヴィクトル・ペレーヴィンといい、ソローキンといい、現代ロシアの作家にはマトモな人はいないのか!? 「ソローキンはヒドい(良い意味で)」という前評判は聞いていましたが、いやあ……ちょっと、ここまでとは。これまで色んなテキストを読んできましたけれど、これまでに読んだどんなものよりも衝撃の作品でした。

『愛』に収録された多くの作品は、ごく日常的なプロットによって開始されます。そこには当時のソヴィエト連邦という社会体制特有の描写、社会の仕組みの現れもあり、とても面白い。老人たちが語る昔話のなかに、独ソ戦の記憶も浮かび上がる。このあたりは社会派、にも見えてしまい、現代的な作家だ、という感じがする。しかし、ソローキンのヒドさとは、そうした物語的なものを、スカトロ、死体愛好、人体破壊……などなど、説明しきれないほどスキャンダラスな要素によって、突如ブチ壊し「な、なにが起こったの、いま……」と読み手を呆然とさせるパワフルなところにあります。さすが「モンスター」と称されるだけある。マイルドな脱臼によって、ブラックな笑いへと着地している作品もありますが、大概が破壊的に終わっています。突然ウンコ食べ始めたり、突然おじいちゃんがヤギになったりするんだよ!

ソローキンのご尊顔。Youtubeにはインタビュー動画もありました。
中原昌也と読み味は似ているかもしれないし、カフカのような不条理小説のようにも読めてしまう。けれども、この衝撃は、それらとは全然違っている。もっと不気味で、放送事故的というか……。まず、こんなヒドいものを書いている人が、ちょっとブラット・ピットみたいな顔をしている、というのが謎ですし。書いているあいだに気がつきましたが『愛』の衝撃に一番近いモノは野性爆弾のコントかもしれないですね……。

読んでいるうちにその「破壊的な形式」に慣れてしまいそうな気もするのですが、全然慣れないのもスゴいな、と思いました。普通こういうのって、あ、もう大体良いかな、となりがちなのですが、毎回違うヒドさで楽しませてくれる。あと、そもそもの文章や、テキストが面白い。これは翻訳(亀山郁夫)の良さなのかもしれません。句読点なしで一気呵成に卑猥な言葉が連なっていくところは、リズムといい、速さといい、レイアウトといい、現代詩的にも読めてなんかスゴい。スゴいし、ヒドい。

あと「紺野さんなら、好きだと思いますよ〜」と薦めてくださった方は、私をどういう人だと思っているのか、と複雑な気持ちにもなりました。

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マイケル・ファラデー 『ロウソクの科学』

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ロウソクの科学 (岩波文庫)
ファラデー
岩波書店
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冒頭にファラデーの略歴があり、貧しい出自から体当たり精神とでも言うべき生き様で学者として認められ、科学史に大きな業績を残したことを知る。私にとってファラデーとはとても懐かしい名前で、完全に個人的な思い出話なのだけれども、中学時代の担任の先生が理科の先生で、学級だよりの誌名が『ファラデー』だったのだ。たぶん、先生はその由来を書いてくれていたのだと思うけれど、苦労した立身出世の人だとはまったく覚えていなかった。イギリスの王立研究所で教鞭を取るだけではなく、少年・少女に向けた公開講義にも熱心だったのは、自分がかつて教育で苦労したからなのだろうか。

本のもとになった講義は1860年のもの。驚いてしまうのはここで登場する実験の数々が、自分が中学のときに実際にやったものばかり、ということで。例えば、亜鉛に酸をかけると酸素が発生する、とか、水に電気を流すと水素と酸素に分解される、とか、懐かしすぎて、通っていた中学校の理科室のにおいまで思い出してしまいそうになる。

でも、この本の魅力は序盤の「ロウソクってなんで燃えるの?」というところに尽きた。正直、後半は中学の勉強で知っていたこと、もうすでに学校の勉強の枠組みで覚えてしまっていたことだったから、まるで復習みたいに感じてしまうのだよね。水は水素と酸素でできている、そしてそれは電気を流すと分解できる。そういう世界の仕組みを教え込まれてしまっている。「水はなにでできているの?」だとか疑問を持つ前に。

ここでファラデーは、ランプとロウソクを比較してみせる。ランプもロウソクも基本的には、燃料が芯となるものを伝わって火を灯す道具だ。でも、ランプと違って、ロウソクは個体なのに、どうやって燃料が炎のあがっている場所まで運ばれるの? といきなり問われたら、え!? たしかに、なんでだろう、と思ってしまう。この「日常にあったものが、急に不思議なものへと転倒するマジカルな問いかけ」がとても良い。ファラデーの解説を読んでしまえば、あ、そういうことだよね、知ってた、知ってたわ〜、と言いたくもなるのだが、一瞬、なんかロウソクってすごいんじゃないか、と思わせられてしまうところにヤラれた。

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コンポージアム2012 細川俊夫を迎えて @東京オペラシティ コンサートホール

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指揮:準・メルクル[2、4]
笙:宮田まゆみ[1、3]
ソプラノ:半田美和子[4]
メゾソプラノ:藤村実穂子[4]
東京音楽大学合唱団[4]
NHK交響楽団[2、4] 
細川俊夫:
[1]光に満ちた息のように ─ 笙のための(2002)
[2]夢を織る ─ オーケストラのための(2010)[日本初演]
[3]さくら ─ オットー・トーメック博士の80歳の誕生日に ─ 笙のための(2008)
[4]星のない夜 ─ 四季へのレクイエム ─ ソプラノ、メゾソプラノ、2人の語り手、混声合唱とオーケストラのための(2010)[日本初演]
この日演奏されたのは、笙のソロのための楽曲と、オーケストラのための楽曲がそれぞれ2曲ずつ。変型的なデコレーションが印象的な純白のドレスを着て、オペラシティのオルガンの前から笙を演奏した宮田まゆみの姿は、神祇の依り代をイメージさせ、笙の音量が曲が進むにつれてどんどん大きく聴こえていく感覚は、まるでイヤー・クリーニングのような体験でもあった。《光に満ちた息のように》も、《さくら》も雄弁な音楽、ではない。主張や主題を主張するよりも、むしろ、音楽的な何かを空間に馴染ませていく、その変化の境目が曖昧な音風景の変化から、聴者は音楽を探ることになる。散漫な耳では聴き取ることができない密やかな音楽、と言えるだろう。

そうした音楽観がオーケストラ作品にも通じているか、というとそうではない。

今回演奏された《夢を織る》と《星のない夜》はどちらも日本初演の大規模なオーケストラ作品だが、率直に聴いて感じたのは「これは外国人が書いた日本の音楽なのでは」ということだった。西洋の音楽手法を使いながら、日本古来の時間感覚や美の感覚を表現しよう、という細川のコンセプトは実は浅はかなのでは、とは細川俊夫ポートレートの感想にも書いたけれど、室内楽作品よりもオーケストラ作品のほうが強くその「浅さ」を危機的なものとして感じさせる。

どちらの曲も、風が草原を切っていくような音ではじまり、そこからウィンド・チャイム(グロッケンだったかもしれない)が、揺れて鳴ったように演奏される。風と風鈴のサウンドスケープは、印象的、だが、とても具体的に過ぎ、それはサルヴァトーレ・シャリーノの《海の音調への練習曲》を聴いたときの、具体的な描写の「美しい、し、印象的だった、で?」という感覚にも通ずる。日本人が描く日本的なものが、こんなもので大丈夫なの? というこのモヤモヤは、モギケン大先生が音楽や芸術を語っているときのモヤモヤにも近い。クオリア!

また《星のない夜》で選ばれたテキストについても問題に感じた。この作品では、ゲルショム・ショーレムやゲオルク・トラークルの詩とともに、ドレスデン爆撃と広島の原爆で生き残った少年・少女たちのテキストが用いられる。生き残った者の証言が用いられるのは《ヒロシマ・レクイエム》でも同様だが、ここではドレスデンの証言者の言葉は日本語で、広島の証言者の言葉はドイツ語で語られる。この《星のない夜》は、ドレスデンと広島というふたつの場所の生き残りのメッセージが交流される場にもなるのだ。しかし、ここでは《ヒロシマ・レクイエム》にも存在する、テキストの直接性、が問題となる。

もっとはっきり言えば、テキストがあまりに強すぎて、音楽が単なる背景にしか聴こえないのだ。とくにドレスデンの廃墟や数多くの怪我人、死体について語る部分は壮絶だが、ただ壮絶なイメージを煽るだけの効果音のようだった。はたして、凄惨さを直接的に伝えるテキストにこの音楽は必要だったのか? 私はそこを疑問に思ったのだ。

批判的なことを書き連ねてしまったが、どの作品もとても丁寧に書かれているし、音響の作り方にも優れた、繊細な音楽だ。すべてのプログラムが演奏され終わったあと、壇上にのぼった細川俊夫の姿を見て「小男には、小男にしか書けない音楽があるのでは」と思ってしまった。先日の細川俊夫ポートレートでは、ベルリンでのヘルムート・ラッヘンマン との交流の話がでたが、ステージにいた誰よりも小さく見えた細川と身長が2メートル近くありそうなラッヘンマンが並んで歩く光景を想像すると、それはとても奇妙な組み合わせに感じられるだろう。他者に認められやすい身体的な特徴はコンプレックスになりうる。実際に細川がどのように自分の外見について考えているかはわからないけれど「小男にしか書けない音楽」という形容は、その晩に演奏された音楽の印象とすごくよく馴染むような気がした。音楽の繊細さとと身体的な小ささの関係性、そして武満徹が自分の吃音について考えていたこと、吃音者の言葉、吃音者の音楽、について思い出しながら。

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ルイス・フロイス 『ヨーロッパ文化と日本文化』

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ヨーロッパ文化と日本文化 (岩波文庫)
ルイス フロイス 岡田 章雄
岩波書店
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ルイス・フロイスは日本のカトリック受容に関してとても重要な業績を残したポルトガル人イエズス会宣教師です。16世紀後半に来日した彼は、織田信長や豊臣秀吉にも謁見する機会を得たり、当時の日本の状況や歴史について詳細な記述をおこなうなど、日本史的にも重要人物。この『ヨーロッパ文化と日本文化』は彼が、ふたつのまったく異なる文化について比較をおこなった大変興味深い本でした。

フロイスの判断基準は、もちろんヨーロッパが軸となっていて「自分たちと違う日本人たちって、なんて変なのだろう!」という植民地主義感まるだしなのですが、彼が描く日本人の姿は当然ながら現在の我々とも大きく異なっている部分がたくさんある。現代の読み手にとっては、視線はむしろフロイスに近いところから読めるでしょう。そこからヨーロッパ文化の長い連続性を感じることもありますし(彼らのモラルや習慣が教会によって長い間守られてきたことを意識せざるを得ません)、日本文化がどこかの地点で断絶し、大きく変化して現代に至っていることに感じ入ってしまうのですね。

彼が描いた日本人の姿は、今現在言われてる「日本の伝統的な文化/価値観」が、なにか捏造されたものと感じさせもします。例えば、16世紀の日本の女性は性に奔放で、貞操を重んじることもなく、堕胎もし放題で、フロイスからすれば汚れに汚れきっている。大和撫子という価値観はどこにも存在していません。果たして日本の女性は大和撫子のイメージに沿うように、貞淑だったのはいつなのか。それは文化が変化してからのことだったのでは、と想像します。

服装や、食事、信仰や武器などさまざまなテーマにそって箇条書きみたいに書き進められていて、かなり細かく訳注がはいっているのもありがたいですね。大真面目に「我々は人差し指と親指で鼻くそをほじるけど、日本人は小指でほじる」など記述しているのも見逃せないポイント。

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細川俊夫ポートレート @東京オペラシティ リサイタルホール

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尺八:田嶋直士 リコーダー:鈴木俊哉 ソプラノ:平松英子
ハープ:吉野直子 笙:宮田まゆみ ピアノ:児玉 桃 ヴァイオリン:亀井庸州
ネクストマッシュルームプロモーション
(クラリネット:上田 希、ヴァイオリン:辺見康孝 ヴィオラ:般若佳子、チェロ:多井智紀) 
【講演】
細川俊夫「自作を語る」
演奏:田嶋直士(尺八)

【コンサート1】
細川俊夫:
線 I b(1984) 鈴木俊哉(リコーダー)
うつろひ(1986) 宮田まゆみ(笙)、吉野直子(ハープ)
恋歌 I(1986) 平松英子(ソプラノ)、吉野直子(ハープ)
鳥たちへの断章 III b(1990) 鈴木俊哉(リコーダー)、宮田まゆみ(笙)

【コンサート2】
細川俊夫:
ピエール・ブーレーズのための俳句(2000) 児玉 桃(ピアノ)
沈黙の花(1998) 辺見康孝(ヴァイオリン)、亀井庸州(ヴァイオリン)、般若佳子(ヴィオラ)、多井智紀(チェロ)
ランドスケープ V(1993) 宮田まゆみ(笙)、辺見康孝(ヴァイオリン)、亀井庸州(ヴァイオリン)、般若佳子(ヴィオラ)、多井智紀(チェロ)
ゲジーネ(2009) 吉野直子(ハープ)
時の花(2008) 上田 希(クラリネット)、辺見康孝(ヴァイオリン)、多井智紀(チェロ)、児玉 桃(ピアノ)
東京オペラシティが主催する現代音楽コンサート・シリーズ「コンポージアム」、2012年のテーマ作曲家は細川俊夫。このシリーズのテーマ作曲家は同年の武満徹作曲賞の審査員となるが、日本人作曲家が選ばれたのは湯浅譲二、西村朗に次いで3人目である。関連企画である「細川俊夫ポートレート」では、彼の講演と室内楽作品が披露された。

昨年の2月にベルリン・フィルからの委嘱新作が初演されたのは、テレビのニュースでも取り上げられるほど注目されていた。近年、国際的に活躍する日本人作曲家として藤倉大の名前が脚光を浴びているが《ポスト武満》の作曲家と見做され、ヨーロッパを主戦場にして活躍していたのは細川俊夫のほうがずっと先だ。彼の講演内容は、そうしたヨーロッパでの活動のなかで見てきたものと日本の音楽の状況、そしてヨーロッパで活動する日本人作曲家として書こうとしたものについてがメインだった。

乱暴に彼の言葉の一部をまとめるならば「日本の音楽文化なり、現代音楽はヨーロッパと比べたらまだまだ表層的で浅い。ヨーロッパの深さには全然かなわない」というものであり、それは「東洋人のクラシックなんて、ニセモノざんす!」というイヤミ式の態度表明にも聞こえなくもない。ヘルムート・ラッヘンマンのクラシックに対する造詣の深さが言及されていたが、それは、ヨーロッパの思想家たちが哲学史を一通り押さえて《現代思想》をやっている、日本の現代思想は……という話とも通ずる。

個人的には、ニセモノ、であるがゆえに、ヨーロッパにはないモノが生まれる可能性もあるし、もはや《日本の状況》が現実として存在し、一定の価値観をもって動いている以上、ヨーロッパ基準で状況を評価しなくても良いんじゃ? とも思う。結局のところ、細川が書きたかった音楽はヨーロッパで評価され、そっちの環境のほうが居心地が良かった。それだけの話では? という。

西洋の音楽手法を使いながら、日本古来の時間感覚や美の感覚を表現することによって、西洋音楽の伝統の深さに対抗しよう、というコンセプト自体、浅はかなもの、と言えようし、確かに細川の音楽で抽象的に提示される「日本的なもの」は、抽象的であるがゆえに「深そう」に聞こえる、けれども、ホントに深いの? 作曲家の説明によって、これは日本の○○という感覚を表現しようとした作品です、と言われ、なるほど、と納得してしまうような感覚って、実は全然浅いのでは? 例えば、笙と弦楽四重奏の作品で、弦楽四重奏をもう一本の笙と見立てた、と細川によって紹介された《ランドスケープV》の発想は、ピアノをギロに見立てるなどの「器楽によるミュージック・コンクレート(ラッヘンマン)」を想起させる、けれども、近衛秀麿による管弦楽版《越天楽》のごとき、表層的なものなのでは……?

……などとブツブツ言いたくなるが、作品、演奏ともに素晴らしい演奏会だった。笙とハープによる《うつろひ》の、時間がはっきりとした刻みを持たずに漸次的な変容を示し、笙(天体)とハープ(人間)が関連し万物照応を示す様は、小さな編成ながらとても雄大な音楽として聴こえ、また、《鳥たちへの断章 III b》では笙のハーモニーを背景に、リコーダーの音色が鋭く置かれていく様子は、たしかに、和紙のうえに墨の斑点が素早く飛び散る様子をイメージしてしまう。これが深いか、浅いか、の判断はさておき、細川俊夫という作曲家が日本人でありながら、日本を発見する作曲家である、ということは充分に感じられた。




うつろひ-音宇宙I
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オムニバス(クラシック) 佐藤登和子
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トーベ・ヤンソン 『ムーミン谷の彗星』

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新装版 ムーミン谷の彗星 (講談社文庫)
トーベ・ヤンソン
講談社 (2011-04-15)
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以前、『たのしいムーミン一家』を読んだときにも書いたけれど、オトナが読んでも面白い児童文学、というのがある。マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』もそうだ。ムーミンのシリーズはどれもそういう本なのだろう。ムーミンたちが『ムーミン谷の彗星』は、地球に向かってくる大彗星の謎を追う冒険潭のなかで披露されるこどもたちの無邪気なふるまいや、スナフキンの世捨て人風の人生観、それらが教えてくれるのは、もしかしたら生きていくのに必要な哲学や知識などというモノはほんのわずかな量で事足りてしまうのかもしれない、ということ。

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平田篤胤 『霊の真柱』

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霊の真柱 (岩波文庫)
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平田 篤胤 子安 宣邦
岩波書店
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平田篤胤の名前を知ったのは谷川健一の『魔の系譜』を読んでからだ。そこには彼が江戸時代に世間を賑わせた天狗小僧寅吉の世話していたという記述がある。この天狗小僧寅吉、自称天狗だったか仙人により異界へ連れ去られて(神隠し)、仙術の修行を受けた、という怪しいにもほどがある少年なのだが、それに内外の学問に通じ、ルネサンス的学才をもった篤胤という人物が心酔していた、というのが興味深い、と思った。18世紀後半から19世紀後半を生きた(西洋哲学史を顧みれば、ヘーゲルと同時代人である)篤胤は本居宣長の後を継ぎ、国学派として活躍したが、その業績はやや異端的だとして批判された、という。プロフィールからして面白人間には間違いない。荒俣先生も『よみがえるカリスマ平田篤胤』という本を書いていて、こうした面白人間を見逃さないのは、さすが。

『霊の真柱』は篤胤による創世記であり、『古事記』に代表される神話的歴史書を読解しながら宇宙の成り立ちや世界の法則を説明する国学的コスモロジーの本である。曰く国学を学ぶものであるならば「大倭心(やまとごころ)」を持つことが大切なのであり、そのためにはこの世界の成立を知らねばならないし、人が死んだらその御霊はどこへいくのか、など世界の秩序も知らなければならない。そのためにこのコスモロジーは必要とされたのだ。「イエズス会の日本布教戦略と宇宙論 好奇と理性、デウスの存在証明、パライソの場所」にもあるとおり、16世紀後半からイエズス会宣教師が来日し、布教活動に付随して西洋的宇宙論が広く輸入されはじめた。そこには「可視世界の深い理解から、不可視的創造主への認識へと至らしめるため」という目論みがある。篤胤が日本の創世記を語るのもそうした目論みと重ねて考えられる。

宇宙の中心が日本であり、日本の国学が絶対真理。これが基本なので、西洋はおろか中国の学問・信仰でさえ批判の対象となる。しかし、火・風・水・土を世界の四元素とする篤胤の世界観はアリストテレスかよ、と思ってしまうところ。実際、西洋の学問の影響を受けていなかったか、と問われれば、微妙なところなのだろう。四元素論については他から学んだものではない、と本人が否定していたそうだが、果たして。ただ、そうしたところに篤胤が生きた時代の輸入学問がどの程度だったのかも伺うことができるだろう。

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読売日本交響楽団第515回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

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指揮=下野竜也
ヴァイオリン=三浦文彰
ライマン:管弦楽のための7つの断章 -ロベルト・シューマンを追悼して-(日本初演)
シューマン:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調
シューマン:交響曲 第2番 ハ長調 作品61
読響を定期的に振っている指揮者のなかで、もっとも個人的な趣味と合わないのが「正指揮者」、下野竜也。プログラムの組み方は興味深いのだが、なんかいまいちよくわからない指揮者である。 個性がマイルド過ぎる、のか。ドイツの作曲家、アリベルト・ライマン(初めて名前を聞いた人だ)の日本初演は割と古風な現代音楽、といった印象で特別な印象がもてなかったし、シューマンはあのモヤッ〜としたオーケストレーションが、モヤッ〜だけで終わっている感じがし、その奥からサムシングが聞き取れませんでした。2曲目のヴァイオリン協奏曲もオーケストラがひたすらモヤってるだけで、あの美メロ、あの力強さがグッとこない。なんかトロい。若いソリストの音も淡白だったので今ひとつ物足りない(が、さすがに若者。アンコールはパガニーニをバリバリに弾きまくっていて、シューマンだけじゃ弾き足りないかのようでした)。最後の交響曲第2番も、美しいメロディを丁寧に歌わせ、ファースト・ヴァイオリンをこれでもかと主張させていましたが、その主張は全体的なバランス感を失調させていた気が。それがシューマンの狂気的なところなのかもしれませんが、もったいないですよね。せっかく良い曲なんだから。

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プラトン 『メノン』

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メノン (岩波文庫)
メノン (岩波文庫)
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プラトン
岩波書店
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ひさしぶりにプラトンを読む。これで岩波文庫のなかのプラトンの著作はすべて読んだだろうか。正直『法律』の下巻とかはかなりいい加減に読み飛ばした記憶しかないけども。

『メノン』本文は100ページ弱とかなり短い作品ではあるのだが、それだけに対話はかなりすっきりした印象があり、変な回り道をしないで読める。魂は不死であり、知識とは魂のあいだにすべて学んだもの、人間の学習とは生きているあいだにそれを思い出しているだけ、という想起説の例も数学的判断から導きだされるなど、とても分かりやすい。「徳は教えられるのか」というところから議論が始まって「徳とは!?」という風に議論は進むので、なんだか自己啓発本のごとき紹介がなされているけれども、読んでも具体的に「徳とは!?」は分かったりしないので注意。

この対話篇では、プラトンが考えた「事物そのもの」への到達の出来なさが表現されているように思われ、その議論の流れこそが重要に思われた。ソクラテスはメノンに対して「徳って何だ。徳そのものについて教えてくれ」と請うのだが、メノンはことごとく失敗してしまう。例えば「さっき君は正義は徳の一部だ、と言ったけど、今は徳のことを正義をもって良いことを得ること、とか言ってるじゃん! 正義は徳の一部なんじゃないの!? それ徳そのものに対する説明じゃないじゃん!」と怒られたりする。

正直、プラトンのソクラテスに言わせていることの嫌らしさと言ったらないのだが、こうした、一部から全体へと到達できないところはイデア論と繋がって読めるような気がしました。

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ヴァルター・ベンヤミン 『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』

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ベンヤミン・コレクション〈3〉記憶への旅 (ちくま学芸文庫)
ヴァルター ベンヤミン
筑摩書房
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ふと昨年旅行したパリの写真を眺めていたら、ベンヤミンの晦渋な文章が読みたくなった。

私にとってのベンヤミンという人は、近代社会のファンタジーを鋭く考察し、布置連関(星座)のなかで文学を読み解いた批評家ではなく、出来事の一回性と記憶、そして記憶のなかにある出来事への憧憬とその反復について書き続けたエッセイストという読み方になる。ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション』の第3巻はこうした記憶にまつわるエッセイを集めたものだ。収録されている作品には旅行記のようなものもあり、そこにはまさにパリにまつわる文章があった。この本を読んでいるあいだ、ブニュエルの映画のなかに収められたパリの風景に出会っただけで、旅行の記憶がよみがえり、その経験が繰り返されるたびに憧憬は強まった。単なる感傷、をベンヤミンの文章は肯定してくれている、とも思う。ベンヤミンの文章が、彼の生前、どのような読者層から読まれていたのか、は知らない。けれども、これを好んで読む人は、きっとずいぶんと感傷的な人物だったに違いなく、時空を超えてその感傷的なドイツ人と握手したいような気分に駆られなくもない。

「過去には戻れない(だが、戻れないから憧れるのだ)」。一言で言ってしまえば、なんの感慨もないこの感覚は『1900年頃のベルリンの幼年時代』の最終稿からこぼれた「字習い積み木箱」というエッセイの冒頭で端的に示される。
いったん忘れ去ってしまったものを、再びそっくりそのまま取り戻すことは、決してできない。もし取り戻せたならば、そのショックは非常に破壊的であって、この瞬間私たちは憧憬というものを理解しなくなるにちがいない。しかし私たちは憧憬をそのように理解しており、しかも、忘れたものが私たちのなかに沈みこんで埋もれていればいるほど、その理解もそれだけ深くなるのだ。(p.612)
ドイツの文学者たちの書簡をとりあげたエッセイ集『ドイツの人びと』でもこの感覚はたびたび触れられる。幼年時代に見た夢のような光景(あるいは夢そのもの)、模倣(ミメーシス)によって得られた理解、誤解にもとづく幻想。こうした記憶への憧憬は、アドルノの未完の著作『ベートーヴェン』の前半部分へと引きつがれていく。が、魅力的なのは断然ベンヤミンだ。1900年頃のベルリンに育ったユダヤ人の子どもの生活と私の幼年期とでは重なるものは少ない。しかし、まどろむような調子で綴られた文章は、ベンヤミンの記憶の断片が輝く瞬間を少しずつ見せてくれるようで楽しい。
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R0011312
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村上春樹 『1973年のピンボール』

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1973年のピンボール (講談社文庫)
村上 春樹
講談社
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自分を通り過ぎていった小説は数多い。それらは本棚には収まってはいるが、自分にはなにも残っていない。処分できないのは処分するのさえ面倒だったり、あるいは単なる物神崇拝か。村上春樹の初期の中編『1973年のピンボール』は、その逆をいく、自分のなかに留まっている小説のひとつだ。再読するのに手間がかからないのもあって、何度も繰り返し読んだ。当時の村上春樹の文体は、今よりもずっと無骨で、ザクリザクリとブツ切れている印象を受ける。「僕」と「鼠」というふたりの主人公の物語も、モンタージュのようだ。ふたりの物語は出逢うことはないく、また、ひょっとしたら物語と言えるほどの出来事さえ持たない。恐ろしいほど大したことがおこらない小説。

「僕」はかつて熱中したピンボールを探そうとする。「鼠」は今の状況からどうにかして脱出しようとする。そこでは過去への憧憬が憧憬でしかないこと、現在への留まれなさが象徴的に描かれているように思われる。これらは近代小説の大きなひとつのテーマに違いないのだが、何も起こらないなかで、それらが描かれているところに「青春小説」という看板を打ち付けられた本作が嘘を感じとれる。プルーストは憧憬と幻滅の反復で長大な物語を織り成し、ベンヤミンは憧憬と諦念をいくつものエッセイに書き留めたが、ここでの村上春樹は過去への憧憬ののちに、ほほえみをともにした別れを描いた。最初に本作を読んだとき、主人公たちは自分よりもずっと大人だったように思えた。しかし、気がつけば自分は主人公たちの年齢を追い越し、かつての自分と主人公たちを振り返る読者になっている。『何を見ても何かを思い出す』。たしかに。


蝶々と戦車・何を見ても何かを思いだす―ヘミングウェイ全短編〈3〉 (新潮文庫)
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ソフトウェアアーキテクトが知るべき97のこと

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ソフトウェアアーキテクトが知るべき97のこと

オライリージャパン
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日頃、思想史、哲学だの音楽だのについてこのブログでは書いているけれど、私の本業はシステムエンジニアであって、いわゆるIT業界に勤める人間なのだ。この仕事をはじめてもう6年目になる。Web系のお仕事をしている人たちは日夜華々しい活躍をして、毎日新しいサービスを開発し、素敵なソリューションを提供しているかもしれないけれども、私は日本の金融・保険業界の企業のシステム子会社(ユーザー系SIer)で仕事をしているので、仕事ぶりは結構地味。ブログでどこそこを退社した、とか、入社した、とか報告をしたり、一日中TwitterのTLに張り付いてたり、ろくろを回すことばかりがIT業界の人間の仕事ではない。メインフレームを相手に、COBOLという邪悪な古代語扱いされているプログラム言語を使って、都心を離れたところにあるシステム・センターみたいなところで働く私のような人もいるのだ。

他の会社の人との交流はほぼないに等しい。職場には、パートナー会社といって外部の会社から来て一緒に仕事をする人はいるけれど、それは同じ現場の人なので、目線は自分とかなり近いものになる。これは自分の仕事を外からの目線で考える機会を持ちにくい環境にある、と言っても過言ではないだろう。大手ベンダーが主催している勉強会に参加すれば、辛うじてつながりを持てることもあるんだけれど。ともあれ、親会社からくる仕事にこもりっきりの状況にいると「自分の仕事の仕方はこれで良いんだろうか?』と思ったときに、迷いが生じたり、不安になったりもする。たまたま、本屋でこの『ソフトウェアアーキテクトが知るべき97のこと』という本を見つけたのは、そういうタイミングだったわけ。

何に注意をしながら仕事を進めれば良いの? 良いチームの作り方は? 技術のことがまったく分からない顧客とどんな風に話せば良いの? 本書に収録された海外の錚々たる経歴をもつ技術者(+日本の技術者)によるエッセイは、経験者が語るリアリティが満載だ。悩みを解決してくれるような、魔法のようにありがたいお言葉が書かれているわけではない。「シンプルなほうが後々使い勝手が良いこともある」、「顧客がホントは何がしたいか考えろ」、「ミスは必ずある」、「後で苦労するより、今苦労したほうが良い(そのほうが長い目でみたら楽)」だとか、はっきり言って、とても当たり前のことしか書かれてない。だからこそ、リアルだ、正しいんだ、という直感がある。

本書を読んで得ることのできる正しさを、自分の仕事ぶりや、仕事しているときに感じることと対比することで、普段足りていない外からの目線を補うこともできるんじゃないかな、とか思った。そもそも、書いてあることが正しいと思えることは、自分のなかに「そういうものが正しい姿である」という内なる声が存在していなければ不可能だとは思うのだけれど、それは読書、というコミュニケーション行為の本質でもあるのかな。他者の声を通して、自分の声を聴く、みたいなね。

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