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2月, 2012の投稿を表示しています

黒羽清隆 『太平洋戦争の歴史』

太平洋戦争の歴史 (講談社学術文庫) posted with amazlet at 12.02.29 黒羽 清隆 講談社 売り上げランキング: 147251 Amazon.co.jp で詳細を見る 昨今の情勢を戦争の暗喩で語る表現ほど凡庸で無粋なことはありますまい。しかしながらそれが凡庸である、無粋である、という実感こそが「それ比喩になってねーよ、マジで」というツッコミを呼び起こすのであります。つまり、比喩ではなく直接的な物言いではないですか、と。そんな現状であるからこそ、過去に我が国が総力を持って身を投じた戦争の歴史を参照するのは無駄ではないかもしれない……というのはまったくの後づけです。まあ「戦争の失敗からマネジメントを学ぶ本」(『もしもインパール作戦の前に牟田口中将がドラッカーを読んでいたら』)は普通にありそうですけれど、本書を読んで、太平洋戦争の歴史を振り返っても「リサーチは大事、情報命」、「リスクマネジメントはしっかり」、「収支の見通しを計算しながら事業を進めよう」とかホントに基本的なことしか学べないような気がしました。 タイトルに「太平洋戦争」とありますから先の戦争における中国方面の事情はほとんど省略されています。読んでいて素直に面白いのは前半部分の日本が戦争に至るまでの政局や外交模様、それから南方戦線でバカ勝ちしまくっているところですね。「えー、昭和天皇って結構戦争に乗り気だったんじゃん」とか「日米開戦って誘い込まれるようにして始まってたんだなあ」とか思いましたし(高校時代に日本史を真面目に受けていなかったため、なんか改めて勉強している気分)、開戦直後の快進撃は読んでるだけでアガってしまう。この勝ち方はアレです、パチンコでいきなりジャンジャラと銀玉が出てきてしまったときのアガり方に近い。 そこから後半はテンションが一気に盛り下がり、暗澹たる気持ちになるばかり。本書の記述は前半部分が密度が高く、後半のバカ負けしまくりシーケンスの部分はかなり端折って駆け抜けて行く感じがあるのですが、前半と同じ密度で負けっぷりを描かれたらちょっと東南アジアやグアム、サイパンあたりには恐れ多くて足を踏み入れられなくなりそう。そうでなくても歴史の重さを感じさせてくれます。 著者は敗戦時に国民学校六年生とあり、当時の記憶を自分史として綴っていますが、この部

聖トーマス教会合唱団 & ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 @東京オペラシティ コンサートホール

J.S.バッハ:マタイ受難曲 ゲオルグ・クリストフ・ビラー(指揮 / トーマス・カントール) ウーテ・ゼルビッヒ(ソプラノ) シュテファン・カーレ(アルト) マルティン・ペッツォルト(テノール/ 福音史家) マティアス・ヴァイヒェルト(バス) ゴットホルト・シュヴァルツ(バス) 恐ろしく久しぶりに海外オケの来日公演へ(おそらく高校時代に地元、福島で聴いて以来)。ゲヴァントハウス管の来日公演は、数年前リッカルド・シャイーの急病キャンセルで聴きそびれた記憶があるので念願かなって、という感じでした。 ゲヴァントハウス管には近年シャイーによるマタイの優れた録音 がありましたし、とても楽しみでした。 今回の指揮者のゲオルグ・クリストフ・ビラーは聖トーマス教会合唱団のトマスカントールで、普段から教会の礼拝や儀式を取り仕切る仕事をしている人物。シャイーの録音で聴くことできるモダンとピリオドのいいとこ取り的な演奏とは違い、合唱主導の厳かな演奏を聴かせてくれました。出てくる音、ひとつひとつに温度を感じますし、随所に現れるヴァイオリン、フルート、オーボエのソロにはオーケストラの上手さを圧倒的に示すものだったでしょう。ファゴット、チェロ、コントラバス、ヴィオラ・ダ・ガンバも見事でした。ソリストは福音家のマルティン・ペッツォルトが圧巻。 合唱団も流石の出来。最後のコーラスでは小さな男の子が明らかに挙動不審になっており(トイレを我慢していた可能性がある)かなり心配になりましたが、隣の年長の男の子が優しく自分の楽譜を見せてあげて「今、ココだよ」と教えてあげている姿が見られ、音楽そっちのけになりつつも大変心温まりました。ちょっとウィーン少年合唱団の人気が理解できたかも。 ありがたかったのは今回の公演が日本語字幕付きだった点。マタイによる福音書のテキストをもとに書かれた作品である、ということはもちろん承知していましたが、実際にそのテキストと相対しながら楽曲を聴くのは今回が初めての機会になりました(これまではテキスト抜きの、純音楽作品的に聴いていたわけです)。「《マタイ受難曲》は壮大な人間ドラマである」。今回はこうしたクリシェを字幕によって充分理解できましたし、有名な「ペトロの裏切り」の箇所では落涙を禁じ得ませんでした。これをやられてしまっては思わずプロテスタントに

首都を歩こう《Tokyo Walkers》第3回(浅草 - 押上 - 両国 - 月島)

毎度お馴染み流浪の散歩サークル《Tokyo Walkers》の第3回イベントが2012年2月26日に開催されました。今回は 浅草からスカイツリーを目指して、両国を通過、月島でもんじゃ焼きを食べよう というコースでした。当日は東京マラソンと開催日が重なり、集合場所の雷門前は大混雑。 天気は生憎の曇りでしたが、仲見世商店街から浅草寺は観光気分を嫌でも盛り上げてくれます。この日、初めて浅草寺のお水舎に奉ってある像が高村光雲の作だと知る。 お参りを済ませるたら、すぐにスカイツリーが目に入ります。 言問橋からの風景。寒いのであまり人通りはなし。 徐々に高まって行くタワーの姿。徐々に高まってくるテンション。 いやあ、さすがにすごい大きいです。スカイツリーの根元までいくと結構人通りも増えました。が、ちょっと離れると全然人がおらず、また、ここから両国までほとんど何もなくひたすら歩きました。 横綱町公園の東京都慰霊堂。勇ましい地名ですが、厳かな気分というか、ふらふらと迷い込むのが申し訳なくなってくる感じの建物が……。 森下の「のらくろ〜ド」も寒いので、うら寂しい感じになっています。まるで、町の人たちが空飛ぶ円盤にみんな連れ去られてしまったみたい。 「東京海洋大学」の略称は、「東海大」なのか「東洋大」なのか、それとも「東大」なのか……。 相生橋にさしかかると、急に景色が開けます。周りにみえるのは新しい高層マンションばかり。東洋のゴッサムシティみたいである。 ゴールです。おつかれさまでした。 ごちそうさまでした。 3時間歩いた後、結局4時間ぐらい飲んで解散。最終的にタクシーに乗って月島から新宿へと移動したので散歩サークル感が薄れ、飲みサークルみたいになっていました(最後の写真はゴールデン街にて)。この日はおよそ10キロほど。「ブログを読んで興味を持って……」と参加してくださった新メンバーも登場し、ますます盛り上がってきています。《Tokyo Walkers》、次回のイベントは4月ぐらいの予定です(コースはま

集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#12 リスペクトール『G・Hの受難 家族の絆』

G・Hの受難 家族の絆 (ラテンアメリカの文学 (12)) posted with amazlet at 12.02.25 リスペクトール 集英社 売り上げランキング: 600210 Amazon.co.jp で詳細を見る 旧ブログから続く 「集英社『ラテンアメリカの文学』シリーズを読む」 企画をおよそ一年ぶりに更新できます。前回がドノソの『夜のみだらな鳥』で、更新日を見てみたら2011年の3月26日とある。大きな地震からほどなくしてあんなとんでもない小説を読んでいたとはにわかに信じられませんね。地震で頭がおかしくなっていたのではないか、と振り返ってしまう。それはさておき、12巻目はブラジルの女性作家、クラリッセ・リスペクトールの『G・Hの受難』という中編と『家族の絆』という短編集を収録。このシリーズでは唯一の女性作家であり(チリのイザベル・アジェンデとかは選ばれてないんですね)、また唯一のブラジル人作家ということで特異な一冊、と言って良いのでしょう。他の国がスペイン語圏の文学なのに対してブラジルはポルトガル語ですからとにかく研究者が少ない。そういう事情も相まって、この翻訳の刊行当時(1984年)、ブラジル文学の紹介が日本では遅れている、という嘆きが翻訳者による解説にはあります。こうした状況は今どうなっているんでしょうかね。ブラジルだとシコ・ブアルキの小説が翻訳されていたりしてビックリしますが、ほかの国よりも何が起こっているのか、どういう人がいるのかちょっとよくわからない。 再び、閑話休題。『G・Hの受難』は私が苦手とする「イメージの氾濫系」かつ「意識の流れ」全開の実験的実存小説で、これはかなりキツかったです。リスペクトールがブラジルを代表する作家だ! と言われて、いきなりこれを読まされたら、かなりの人がドン引きしてブラジル文学を敬遠してしまいそう。なにせストーリーらしきストーリーはなく、密室のなかでとある上流階級っぽい女性がゴキブリを見つけ、それを潰し殺して、その死骸を見ている間に嘔吐体験的サムシングと出会ってしまい、なぜかその死骸を口に含む、というあまりにあんまりなお話。その間、延々と独白的な意識の流れによって、なんだかよく分からない相手に対しての語りが挿入され、ほとんど狂った人が宛先不明で書いた手紙を読まさ

よくわからないが面白かったジャズ・フュージョン再発

しばらく前から新宿のタワーレコードのクラシックとかジャズとかのフロアにいくと、エレベーターであがっていったちょうど目の前に50枚以上のCDが入る大きなCDプレーヤーがおいてあって、ジャズの廉価再発のシリーズが一挙に試聴できるようになっている。なかには「初CD化!」みたいなものも置いてあって「よくわかんねーな、誰だ、これは」と思いながら、カッコ良いジャズ・フュージョン系の音源を探して買うのがちょっと楽しい。本日はそこで買ったものから何枚かご紹介。 ミュージック・イズ・マイ・サンクチュアリ(聖域) posted with amazlet at 12.02.20 ゲイリー・バーツ EMIミュージックジャパン (2011-12-21) 売り上げランキング: 59934 Amazon.co.jp で詳細を見る ゲイリー・バーツはマイルス・デイヴィスのグループにも参加(『 Live Evil 』など)していたサックス奏者で、このソロ作(1970年)はソウル & ファンク色が濃厚な一枚だが、ほとんどスピリチュアル・ソウルと言ってもよろしいのではないだろうか、という。なにせ『Music Is My Sanctuary』である。ここでのゲイリー・バーツはヴォーカルまで披露していて、そのヴォーカルがサックスよりも達者に聴こえる……。参加ミュージシャンはエムトゥーメに、エディ・ヘンダーソンに、デイヴィッド・T・ウォーカーとかなりリッチな感じ。 アウト・オブ・ザ・ロング・ダーク posted with amazlet at 12.02.20 イアン・カー EMIミュージックジャパン (2011-12-21) 売り上げランキング: 64578 Amazon.co.jp で詳細を見る イアン・カーは「イギリスのマイルス・デイヴィス」的な扱われ方をしているジャズ・ロックの人で、彼が結成したニュークリアスは『In A Silent Way』期あたりのマイルス・グループを何倍も白っぽくして、ポリリズムを変拍子に置換して、水っぽい感じにしたグループ。1979年の『 OUT OF THE LONG DARK』は、そうした性質が超ソフィスティケイトされたものとなっている。『 Ela

Carlos Aguirre / Orillania

Orillania posted with amazlet at 12.02.21 Carlos Aguirre Rip Curl Recordings (2012-02-19) 売り上げランキング: 739 Amazon.co.jp で詳細を見る 「アルゼンチンのネオ・フォルクローレ最重要人物」という仰々しい文句で知られるカルロス・アギーレの新譜を聴きました。名前だけは知っていましたが、フルのアルバムで聴くのは今回が初めて。この手の音楽にはまだまだ知らないことが多いのですが、今回のアルバムはアルゼンチン国内だけでなく、ブラジル、チリ、ウルグアイといった隣国のミュージシャンとのコラボレーションをおこなっているそうです。既発のアルバムは静謐な音楽が展開されるものだったそうですが、ひと味違うモノになっている、とのこと。 一聴して深く感じ入ってしまったのは「滋味のある音楽とはこういうものだろう、おそらく」ということ。アコースティック楽器の柔らかい音色中心の音作り、全体的に仄明るいような、自然光が窓から入ってきて心地よい……みたいな空気感。そこにカルロス・アギーレやゲスト陣のヴォーカルが花を咲かせるのですね。これが本当に素晴らしい。そうしたオーガニックな音楽ばかりでなく、マイケル・ブレッカーあたりを彷彿とさせるグッとセクシーに夜っぽい楽曲もあったりしてとても多彩です。 なんでもカルロス・アギーレという人は、都会を離れて、パラナ川という大きな河のほとりで暮らしているんだそうです。そういうところで暮らしていると、音楽もこういう感じになってしまうのでしょうか。彼の音楽を今こうして日本で私は聴いているわけで、それ自体はとてもグローバル! な感じがしますけれど、世界の繋がり方がどんどん簡潔になっていく一方、繋がった先にローカルな色の濃さが強くみえるのが興味深い気がします。 試聴はこちらで可能 。

読売日本交響楽団 第512回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

指揮:オスモ・ヴァンスカ アホ/ミネア(日本初演) R.シュトラウス/歌劇〈ばらの騎士〉組曲 ブラームス/交響曲 第1番 ハ短調 作品68 今月の読響定期は北欧モノに定評があるオスモ・ヴァンスカが登場。今回の来日では同じフィンランド出身の作曲家、カレヴィ・アホの作品を取り上げている。このアホという作曲家、嘲笑しているわけでもないのに結果嘲笑しているような名前の人物として有名ではありますが、ちゃんと作品を聴くのは今回が初めてでした。たまたま弦楽四重奏の録音をラジオで耳にしたときは結構渋い感じの作品を書く印象だったのですが、この日に日本初演された《ミネア》はネオロマン派系の色合いが強くまた印象が変わりました。《ミネア》では、ころころと拍子が変わり、かなり複雑なリズムとアンサンブルの精度が要求されています。しかし、席の都合上、打楽器と木管ばかりが聞こえてしまい正直「とても難しい吹奏楽コンクールの課題曲みたい……」と思ってしまいあまり楽しめませんでした。 続くリヒャルトの演奏ははっきり言って精彩を欠いていたように思います。あれだけ普段肉食系の重厚な演奏をする読響がまるで筋力が足りない様子。アホの練習のし過ぎでアホになったのでは……と心配になってしまいますが(言いたいだけ)好みの問題も大きいですね。目立ったミスも無かったですし、ただ単にヴァンスカの芸風が自分の好みと全然合わない、と。これはメインのブラームスを聴いてガッツリと理解しました。 乱暴に言ってしまえば、ヴァンスカにとってはリヒャルトやブラームスと言った後期ロマン派も、シベリウスとパラレルなものとして扱われている、ということなのかもしれません。重厚なザ・ドイツ音楽のイメージに向かって内的なエネルギーが高まっていく、という巨匠っぽいアプローチがヴァンスカの解釈にはまるでない。内側からこみ上げてくるのは、そよ風のようなサムシング。放って置いても勝手に音楽は高まっていきますから最終的にはブラームスなんですが、そう考えたら二楽章、三楽章の内省的な感じ、牧歌的な感じはとても興味深く聴けたかなぁ。ブラームスのなかで後期シベリウスが生きる、みたいな。でも、全然好きな演奏じゃないので途中で帰ろうかと思いました。

最近の試聴だけして買ってない新譜たち

原則このブログでは買ったもの、読んだものを紹介するスタンスでしたが、クラシックについては「この曲、何枚もCD持ってるよな〜」という気持ちになってなかなか購入に踏み切れなくなったりしてしまうので、たまには試聴だけして買ってないものも紹介していこうかと思います。 ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番、同第2番 (Shostakovich : Concertos for Violin and Orchestra Nos.1 & 2 / Sayaka Shoji, Ural Philharmonic Orchestra, Dmitri Liss) [日本語解説付輸入盤] posted with amazlet at 12.02.19 庄司紗矢香 Mirare France (2012-02-20) 売り上げランキング: 52 Amazon.co.jp で詳細を見る 庄司紗矢香が満を持してショスタコーヴィチのコンチェルトを録音。実演ではすでにいろんなオーケストラと演奏しており、Youtubeにもそのライヴ映像がアップロードされていますが、解釈を練ってきているな、という印象が伝わってくるような演奏でした。ここ10年のあいだでショスタコーヴィチの作品はかなり演奏機会が増え、このヴァイオリン協奏曲もほとんどポピュラーなヴァイオリン協奏曲の名曲として取り扱われているかと思います(第2番はかなり渋めなのでまだまだ演奏機会が少ないですけども)。しかし、それだけに録音に関してはオイストラフ、コーガン、オレグ・カガン、レーピン、ヒラリー・ハーンなどの良いものが揃っていて、私もオイストラフの演奏だけで3枚以上持ってるし、なかなか買い足すまでにはハードルが高いのですね。今回の庄司紗矢香の演奏はオイストラフの演奏に近いものを感じました。その印象はオイストラフ直系のザハール・ブロン門下、というイメージに引きずられている可能性は多々ありますが、恐ろしいクールネスやそれとは対照的な荒々しさでこの楽曲を押し通すのではなく、大変思慮深く、楽曲をモノにしてる感が非常に高かったです。第1番冒頭の沈鬱な表情からしてグッと引き込まれます。初めにこの楽曲のCDを買うなら、これをオススメしたい、という演奏です。私も何枚も同じ曲のCDを持ってなかったら買

アリストテレス 『動物誌』(下)

動物誌 (下) (岩波文庫) posted with amazlet at 12.02.19 アリストテレース 岩波書店 売り上げランキング: 185315 Amazon.co.jp で詳細を見る およそ一年越しでアリストテレスの『動物誌』を読了(上巻の感想は こちら )。およそ2300年前の哲学者が書いた生物学についての体系的な書物、というのはかなり堅苦しい紹介文になってしまうけれど、アリストテレスの書物のなかでも屈指の面白さでしょう。「自然界は無生物から動物にいたるまでわずかずつ移り変わって行くので、この連続性のゆえに、両者の境界もはっきりしないし、両者の中間のものがそのどちらに属するのか分からなくなる」といった記述は、まさに 存在の大いなる連鎖!  という感じで、アリストテレスの連続性の原理を反映するかのようですが、この書物をアリストテレスの哲学のひとつとして読み解かなくとも「昔の人はいろんな動物の生態を見て、いろいろ考えたんだなあ」というトリビア的読み方でも充分面白いです。上巻では「ウナギは自然発生する!」という驚くべき記述が見られましたが、下巻ではどうやらアリストテレスの時代からウナギの養殖が行われていたらしいことが分かり、へぇ〜、とか思いました。今、 ウナギのWikipediaの項目 を読んでみたら、日本においては「山芋が変じて鰻になるのだという俗説があった」とのことですから、和洋を問わず、古来からウナギって謎だったんだなあ、とか感心しますね。下巻の動物の生態や気質についてまとめている部分は、さまざまな土地から集まってきた動物についての面白エピソードが集まっているので必見です。

阿部和重 『シンセミア』

シンセミア〈1〉 (朝日文庫) posted with amazlet at 12.02.16 阿部 和重 朝日新聞社 売り上げランキング: 64379 Amazon.co.jp で詳細を見る シンセミア〈2〉 (朝日文庫) posted with amazlet at 12.02.16 阿部 和重 朝日新聞社 売り上げランキング: 63954 Amazon.co.jp で詳細を見る シンセミア〈3〉 (朝日文庫) posted with amazlet at 12.02.16 阿部 和重 朝日新聞社 売り上げランキング: 64344 Amazon.co.jp で詳細を見る シンセミア〈4〉 (朝日文庫) posted with amazlet at 12.02.16 阿部 和重 朝日新聞社 売り上げランキング: 64933 Amazon.co.jp で詳細を見る 久しぶりに長編小説を読みました。阿部和重の『シンセミア』は友人のあいだでもとても評判が良く、期待して読み進めました。序盤の説明的な記述がダラダラと続くところは個人的にしんどかったです、が、盗撮マニアの集団が「フィスト・ファックを撮影したい」という情熱を燃やし始めたあたりから一気に物語が加速しはじめ、そこからはとても楽しく読めた気がします。 山形県の神町という実在の田舎町を舞台に、町内政治と暴力と性と狂気によって物語が構築されていくフィクション、と一言でまとめられるでしょうか。登場人物ひとりひとりがフィクションを構成するモジュールとして積み上げられていき、クライマックスではそれらがすべてぶち壊される。慎重に積んでいったトランプのタワーを一気に崩す、というか、美しく積まれたシャンパンタワーを根元から金属バットで叩き壊す、というか、そうした破壊的な爽快感が素晴らしく、主要な登場人物が最終的にほぼ死亡する、という集結部はシェイクスピアの悲劇のようでもありますし、富野由悠季の『聖戦士ダンバイン』や『伝説巨神イデオン』を想起させなくもない。 地震、洪水、歓楽街で人々を跳ね飛ばすダンプカーなどまるで予言書のごとき記述が含まれ、近年の現実の慌ただしさに思いを馳せることもできましょう。この作品が単行本で発表されたのは2003年のことです。盗撮マニアたちが神町に張り巡らせよう

隠岐さや香 「一七八〇年代のパリ王立科学アカデミーと『政治経済学』」

昨年『科学アカデミーと「有用な科学」 フォントネルの夢からコンドルセのユートピア』でサントリー学芸賞を受賞した科学史家、隠岐さや香さんの「一七八〇年代のパリ王立科学アカデミーと『政治経済学』」(2001)という論文を読みました(ダウンロードは こちら で可能)。本文はとても短い作品であっという間に読めてしまうのですが、政治と科学との分業(と有機的な紐帯)や、数字を用いた合理的な政治的意思決定の萌芽を読み取ることができ、とても面白かったです。 1780年代の「政治経済学」とは現代の我々が考えるようなものとはまるで違う。このことがいきなり面白い。筆者は『王立科学アカデミー年誌及び論文集索引目録』に掲載された「エコノミー」分野の一覧を見ています。そこでエコノミーに区分されているのは、繭の脱色、穀粒の保存法、病院の移転事業、パンの公定価格、人口統計など雑多なものです。しかし、筆者はここにエコノミーという言葉の意味の転換を読み取ります。 もともと「エコノミー」はギリシャ語のオイコス(家)に由来するオイコノミ(家政術)から派生した語であった。しかし 一八世紀になると、(一)「家事をとり行う際に示される規則・秩序」、すなわち、いわゆる家政術の意味のみならず、(二)「ある政体が存続するための秩序」、すなわち、いわゆる「政治経済学」に代表される意味にも拡張されるようになっていた。 次に筆者は後者の政治経済学的な研究の例として「屠殺場移転」の問題をとりあげています。パリの中心部に屠殺場が存在していたという事実が意外で興味深いですね。とは言え、その屠殺場は臭いとか、不衛生だとか言われ続けて14世紀から問題視され続けていたそうです(家畜が逃げて騒ぎになったりもするし)。しかし、パリのお肉屋さんが「えー、屠殺場が遠くなるのウザい」とか言って解決しなかった。 1789年の屠殺場移転問題を扱った報告書では、前半で屠殺場が市街地にあることの不衛生さや人体への影響などを化学的に取り扱い、後半では郊外に屠殺場を移転した際のコストが肉の価格に乗ってくるであろう問題をどのように解決するかの経済学的な研究となっている。屠殺場、というケガレを遠くに置こうとする意識変化はエリアスの『文明化の過程』(実は読んでないケド)を彷彿とさせます。 しかし、筆者にとって重要なのはそこではない。「問題自

Kip Hanrahan / AT HOME IN ANGER, which could also be called IMPERFECT, happily

AT HOME IN ANGER posted with amazlet at 12.02.12 Kip Hanrahan american clave (2012-01-18) 売り上げランキング: 16640 Amazon.co.jp で詳細を見る 昨年末の来日公演にはいけませんでしたが、キップ・ハンラハンの新譜を買いました。ハンラハンといえばアメリカン・クラーヴェの主宰であり、ピアソラ晩年の大傑作アルバムをプロデュースした人物としても有名ですから、当然旧譜については何枚かチェックをしていたものの実は微妙に自分のツボからはズレており、それは主に「このヴォーカル、いるの……?」、「このポエトリー・リーディング邪魔じゃない?」というところで(もちろんそこには言語障壁があったりするわけですが)イマイチなんだかよく分かってない状態でした。本作のリリースに際してはもろもろのトラブルがあった模様。それらについては、以下のリンクを参照のこと。 Kip Hanrahan「AT HOME IN ANGER, which could also be called IMPERFECT, happily」(日本盤発売元のサイト) 現在、発売されている"At Home In Anger "につきまして さて、本作はどうだったかと言えば、ここで初めて良さが分かってきた、というか、聴いていて大変に気持ち良く、そしてズッシリとキた、という感じです。壮絶なラテン・パーカッションによるポリリズムは、もう大変なことになっている、として言い様がありません。とくに「 Kuduro of Assassins and Laughter」は、なんですか。ラテンとアフリカが坩堝のなかで絶妙に混合し、リズム地獄的な様相を呈している。しかし、そうしたアッパーな楽曲ばかりでなく、詩情というかおセンチ系というか、色っぽさというか、それらが複雑に入り乱れたラテンの夜感覚にも溢れていて素晴らしいのでした。 ウクライナ移民とアイルランド移民のあいだに生まれ、ニューヨークでトロツキーと交流があったという祖父に育てられたキップ・ハンラハンという人物。こうした出自でラテンへと没入していく、というのが相当に複雑な感じがするのですが(彼は

飯田泰之・中里透 『コンパクト マクロ経済学』

コンパクトマクロ経済学 (コンパクト経済学ライブラリ) posted with amazlet at 12.02.12 飯田 泰之 中里 透 新世社 売り上げランキング: 139983 Amazon.co.jp で詳細を見る 「コンパクト 経済学ライブラリ」というシリーズは、大学の初学者向け講義でも使いやすいように書かれた経済学の教科書シリーズ。山形浩生がそのなかの『コンパクト マクロ経済学』をオススメしていたので手に取ってみたんだけれど、本当に良い本でした。本文がページの見開きページの左側で、右側にはグラフや図などが配置されていて、しかも本文とグラフの説明が基本的には見開きのひとつのタブローのなかに収まっている、という構成の読みやすさ(図を参照するために、ページを戻ったりする必要がない!)が驚異的です。内容もIS-LM分析の基本から、AD-ASモデル、それからマクロ経済学の発展史から戦後の日本経済史までをカバーしており、これまでいろいろとマクロ経済学の本を読みかじっていて、わかっていなかったモノ、なんとなく言葉だけ知っている感じだったモノへの理解が進みました。徐々にお話が難しくなっていくのは仕方ないとしても、その難しくなっていくスピードも適切。『 要約 ケインズ 雇用と利子とお金の一般理論 』と一緒に読むと、ケインズが何を言わんとしていたのかが一層理解できるような気がしました。昔、金融経済知識を問われる銀行員とか向けの資格試験を受けたときに単なる言葉の暗記レベルで覚えていた言葉たちが「世の中の仕組み」としても分かってとても楽しかったです。 この辺の本も読み返したいです。 経済学という教養 (ちくま文庫) posted with amazlet at 12.02.12 稲葉 振一郎 筑摩書房 売り上げランキング: 209414 Amazon.co.jp で詳細を見る 『 経済学という教養 』 クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫) posted with amazlet at 12.02.12 ポール クルーグマン 筑摩書房 売り上げランキング: 42009 Amazon.co.jp で詳細を見る

ニクラス・ルーマン 「経済的な行政行為は可能か?」(3)

(承前) 結果を中立化してシンプルにした経済的な決定もよくわからないのであれば、そもそも最適化の原理を諦めて新しい決定モデルを作るべきなのでは、とルーマンは言います。ここで新しいモデルとして提案されるのがサイモンの「満足化決定モデル」でした。この満足化決定とは、ある一定の要求水準(満足化条件)を満たすことをやりましょう、ということです。これもとても日常的なことですが、ルーマンは、じゃあ、そうした日常的な試みがどのようにしたら合理的と呼ばれるようになるのか(どうしたら経済的な合理性基準の代わりになるか)について検討しました。 満足化決定であってもなにをして、なにをしないのか、についての選択は発生するわけです。だから、その選択が合理的であるためには基準を作る必要がある。そして、その基準は「具体的な目的を一つ決めてそれを優先するのではなく、抽象的な判断基準を設定しておき、当の決定が実現するすべての結果を、それに照らして検討する」というものになります。それって、これまでダメ出しされてきたものとどうちがうの? これに対してのルーマンの回答は「基準が行為を決定するという関係ではなく、基準が行為を統制する」という言い回しになっています。これにより満足化決定においては、基準によって唯一の目的が決められるのではなく、決定が状況に合わせて「交換可能なものとして体験される」ことになる。 最適化モデルでは、最適な一意の解を導き出すのが大変、というかこれは不可能。満足化なら要求を見たしているならまあ、OK。そのなかで複数解があるならそいつらを「交換可能なもの」として比較検討したうえで、決定が行われる。最適なものはそもそも求められていないので、決定者が持っている現実的な合理的能力でなんとかなる。実際行政でおこなわれてるのもこういうことなんだよ、とルーマンは言っています。最適解ではなく、満足解。行動の弾力性と適応能力も得られるし、状況はいろいろ変化していくものなのでマスト感が高い。 ここで満足化モデルを採用する場合、そのモデルのなかで決定を行う人は、満足条件という他者から与えられた行動期待を体験することになる。では、そうした行動期待ってどういうものなのか、というお話をルーマンはおこなっている。ここでのお話は、アメリカの産業社会学の影響が色濃く(あ〜、経営社会学の講義でこんあの聞い

mmm(ミーマイモー) / ほーひ

ほーひ posted with amazlet at 12.02.11 mmm ミーマイモー Kiti (2012-02-02) 売り上げランキング: 23221 Amazon.co.jp で詳細を見る 宇波拓の全面バックアップにより製作された『 パヌー 』から二年、mmm(ミーマイモー)の新譜を聴く。今回のアルバムも引き続き、宇波拓のプロデュースによるものでHoseやインセクトタブーなどでの関連ミュージシャンが多数参加している。全体的な音は前回よりもずっとバンドっぽい、というか、商品っぽい音楽っぽさのなかにまとまっている印象があるが、mmmの野性は少しも失われていないのだから素晴らしいのだった。心地よく、そして力強く、楽しさが全開になる音楽である。

ニクラス・ルーマン 「経済的な行政行為は可能か?」(2)

(承前) 価値観点はダメだ! となると、量的な評価基準を採用するのはどうだろう、という検討が次におこなわれます。結果間の比較を統一的な価値尺度、例えばお金、の大小比較によって最適性を導き出してはどうか、ということですね。しかし、ここにも可測性の限界があるとルーマンは指摘しています。量的な評価をおこなうといっても、すべての結果が同一の測度で量化なんかできないでしょ、というのがここで問題になるのですね。家を建てたときの便益と、物置を建てたときの便益をお金に換算なんかできないでしょ、と。仮にそうした数値化が可能な数式があったとしても、そんなのイチイチお役所でやってたら「経済的な決定の計算にかかる費用が高すぎる」 = 合理的な決定をおこなうことが非合理になってしまう。この部分、とても面白いんですが、この論文が書かれた1960年時点と現代では計算コストはかなり下がってるのでなんでも数式化できたら必ずしも非合理にならないような予感もする。 価値も量もどっちもダメなら両者を組み合わせるというのもダメ。「ある部分については価値によって質的に比較し、別の部分については量的に比較するというのでは、完全に恣意的だと言わざるをえない」というのがその理由になります。もう最適化決定モデルはどうやったってまるごと役に立たん、というわけですね。第一、結果を比較するには二つのパターンしかないわけです。特定の手段を前提として、何が結果として考えられるか。それから、目的を固定したうえで、どんな手段があるか。どちらかの観点に固定しなければ比較は不可能でその観点の選択がすでに恣意的になってしまうのでよろしくない。また、あらかじめ前提を決めても比較対象が多過ぎて決められないし、どの時点、あるいはどの程度の期間の結果を考えるのかによっても変わってくる。 もうここまでで大体話が見えてきましたが、いろいろ複雑なもんであらかじめ最適な方法を選択するなんか無理、というのがルーマンの見立てになっています。ただし、最適性を捨ててしまうと、どんなことでも決定された時点で経済的、というわけのわからないことになってしまうので経済性は保持したい。そこでルーマンはハーバート・サイモンの提案を検討します。 まずは決定とはどのような過程でおこなわれるかを再検討。すべてを比較するのは不可能なので検討すべき結果を絞り込みます

ニクラス・ルーマン 「経済的な行政行為は可能か?」(1)

ニクラス・ルーマンの1960年の論文「経済的な行政行為は可能か?」を読みました(翻訳はたけみた先生こと 三谷武司さん の私訳版。読みたい方は ルーマン・フォーラムの「いちから読む 最初期ルーマン読書会」 か、 三谷さん にお問い合わせください)。最初期ルーマンの論文についてはこれまで「 行政学における機能概念 」(1958)と「 新しい上司 」(1962)を読んでいますが、どうやったら意思決定・行為決定が可能なのか、どうすべきなのか、を検討するこの論文はとてもその後のルーマンっぽいと感じました(……とか言いながらルーマンを熱心に読んでいたわけではないですが)。 論文の内容については、タイトルにある通り。合理的な行政が求められてはいるけれど、そもそも合理化のための統一理論がないので行き当たりばったりになりがち、そもそも合理的に行政が何をするか決定するためのモデルなんかあるの? 経済的なことが合理的と言われるけど、それってホント? という検討からはじまっています。ルーマンによる「経済的」あるいは「効率的」の整理はこんな感じ。「所与の目的を最小の費用で達成する、あるいは一定の手段で最大の利益を上げる行為である」。 これ自体はとても常識的な基準だが、この経済的な基準をルーマンは「ある因果関係と他に可能な因果関係とを比較して評価するための基準」と呼ぶ。もうこの時点でギョッとするような言い回しで困るのだが、ある因果関係(技術に定評があるA工務店で、家、または物置を建てる)とある因果関係(安い早いが売りのB工務店で、家、または物置を建てる)を比較する基準とか具体化すれば良いのかな。今、家を建てたほうが良いのか、それとも物置を建てたほうが良いのか、A工務店を使えば良いのか、B工務店を良いのか。こうしたときに、考えるべきことが結果間の比較に限定することで分析は単純化する、ともルーマンは言う。 この例だと組み合わせが四つだけど、まあ現実には無数の結果集合があるはず。そこから何かを選ぶとき、よくやるのは価値観点を採用することだ。この価値観点とは「ある行為が実現する複数の結果の中で、特定のものに価値を与え、それを目的として正当化する」ことだ、とルーマンと続けています。その決定が最適だったら、それが合理的と評価される、と。そこでの最適とは結果間関係を最適化することが目指されます。

フランコ・サケッティ 『ルネッサンス巷談集』

ルネッサンス巷談集 (岩波文庫 赤 708-1) posted with amazlet at 12.02.05 フランコ・サケッティ 岩波書店 売り上げランキング: 445315 Amazon.co.jp で詳細を見る 十四世紀のフィレンツェに生まれたフランコ・サケッティは自分が見聞きした面白いお話をまとめて『短編小説三百篇』という本を書いたそう。本書はそのなかから七四篇が訳出されています。サケッティ家はフィレンツェでは大変な名家で、ダンテの『神曲』にも名前がでてくるような(解説より。たしかに出てきたような気がする)由緒正しき家柄です。しかし、フランコ・サケッティが集めた話ははっきり言ってなんの教訓もない、面白おかしいものばかり。由緒正しき家柄なのに、こんなんばかりで良いのか、と心配になる内容でした。とくに猥談のレベルがかなりひどい。スポーツ新聞のエロ・コーナーと程度が同じに感じられ、性が笑いへと転ずるという現象は普遍であるな、とさえ思います。吝嗇や堅物がバカにされるのは落語にも通じるところです。とても面白かった。 こうした古い笑い話を読んでいると、逆にまったく意味がわからない、単なるキチガイ沙汰にしか思えないエピソードにも出会うのですが、その意味の分からなさも楽しいんですよね。なかでも第四〇話の飛び方がすごいです。この話は妻の尻に敷かれっぱなしで、下男や下女にも馬鹿にされている主人があるとき、キレてしまい、倉庫にあった鎧でフル武装のうえ暴走、家のものを破壊しまくるは、家の人を刀の峰で殴りまくるは……というものなんですが、オチらしいオチもないのでただ単に「人を虐めすぎると、キレたりすることがあるので怖い」という話になってしまっている。 また、昔だから男尊女卑があるのかな、と思いきやそうでもない、というのも面白いです。第四〇話の例にもありますが「おかみさん」というのがとても強い存在として活動しているのが意外だった、というか。女性の貞淑さや慎ましさは、あくまで騎士道小説にでてくる「女性の美徳」であったのかもしれません。旦那さんとのセックスを楽しみすぎ、旦那さんが病気になったり、とまさに「骨抜き」にするような女性が多々でてくる。その生き生きとした感じが良いな、と思えます。

ブライアン・イーノのリマスター盤を今更買う

Music for Airports: Ambient 1/Remastered posted with amazlet at 12.02.04 Brian Eno Virgin Catalogue (2009-07-06) 売り上げランキング: 2977 Amazon.co.jp で詳細を見る Thursday Afternoon: Remastered posted with amazlet at 12.02.04 Brian Eno Virgin Catalogue (2009-07-06) 売り上げランキング: 54538 Amazon.co.jp で詳細を見る 人に貸したら戻ってこなかったCDをわざわざ買いなおす、というのはアホウみたいなことだけれど、買いなおしたものがリマスター盤であって、実はもともと持っていたものが違う、となると「まあ、良いか」と思える。今回なんとなく買いなおしたブライアン・イーノの二枚はいずれも2004-2005年のリマスター盤。『Music For Airports』のほうはもう五年以上イーノ盤を聴いていなかったので(Bang on a Canの演奏では聴いていた)もはや前の印象が定かではないのだが、曲間のブランクが前より長くなってないか……? 三〇秒ぐらいブランクがあるので一瞬、プレイヤーが壊れたのかと思いました。音のほうは、もともとの音源が悪くないですからね、そんなに変わらない気がするんですが、各楽器の音がクリアになって、低音が前より豊かに出てるかな〜、という感じ。しっかし、どちらのアルバムも音楽の究極系というか、こんなに聴いてて何の感情の隆起もなく、ただ美しく、フラットな感じで「いいよね〜(ぽわわん)」という音ってないですよね、という内容で改めて素晴しいな、と思いました。近年Warpから活発にアルバムを発表しているイーノ御大ですが、な〜んか微妙なモノが多いので、退行、と思われても構わないから最新機材でのこういう音楽を聴いてみたいなあ、あるいは、『Before And Afeter Silence』みたいな路線でも良いので、と思った次第。

クリント・イーストウッド監督作品 『J・エドガー』

J・エドガー(レオナルド・ディカプリオ主演) [DVD] posted with amazlet at 12.02.04 Amazon.co.jp で詳細を見る 二九歳でFBI長官の座につき、四八年間その座に留まりつづけたジョン・エドガー・フーヴァーの伝記映画。近年のイーストウッド作品のなかでは異色とも思えるほど表面的な静けさが印象的な作品だったと思います。フーヴァーは暴力、無秩序、違法行為を憎む愛国者であり、守るべき秩序を守るためには暴力も辞さない、という内的な矛盾(その難しい人間性にはマイルス・デイヴィスを想起させられます)を抱えながら、FBIを強固な組織へと作り替えていく。そのストーリーはもっとドラマティックであっても良いと思われるのに、葛藤であったり、戦いであったり、という見せ場がほとんど画面上には現れず、水面下でおこなわれているように見えます。フーヴァーが実際に暴力に晒されるのはわずかにワンシーンしかなく、それゆえにそのシーンの破裂感は素晴しいものがあります。 劇中で使われる音楽もダンス・シーンでのジャズで、重度のジャズ愛好家であるイーストウッドらしいな、と思われましたけれど、J・S・バッハの《ゴルトベルク変奏曲》が使用されているのがとても印象的です。イーストウッドの作品でこれだけテーマがはっきりしているクラシック楽曲が使用されているのもあまり思いつかない。とくにイーストウッド自身で書いているスコアがいつもの明確なテーマをもたない、まるでブライアン・イーノのアンビエント・ワークのごとき楽曲ですから、余計に目立つ気が。 若い頃と晩年というふたつの時間軸を何度も交差しながら映画が進行していきます。その交差の瞬間の演出が毎回面白くて良かったですね。「はい、ここから回想ですよ〜」という感じで進むのではなく、毎回ちょっとした仕掛けがある。晩年フーヴァーがエレベーターに乗って、ドアが閉まる、次にドアが開くと若くなってる! みたいな演出は、まるで魔法のエレベーターのようで楽しい。晩年時代のシーンは役者が特殊老けメイクをすることで撮影されていますが、クライド・トルソン役のアーミー・ハマーなんかまだ二五歳なんですよね。そんな歳で死にそうなジジイ役かよ! と思うんですが、でも良いんですよ。ディカプリオ以上に良かった。

平岡隆二 「イエズス会の日本布教戦略と宇宙論 好奇と理性、デウスの存在証明、パライソの場所」

平岡隆二さん の名前を初めて知ったのは『 ミクロコスモス 』に収録されている「画家コペルニクスと「宇宙のシンメトリア」の概念 ルネサンスの芸術理論と宇宙論のはざまで」という論文を読んでからでした。現在、平岡さんは 長崎歴史文化博物館 の主任研究員をされており、研究領域は「欧・日・中を中心とする東西交流の観点から見た科学と思想の歴史」とあります。最近になって南蛮芸術に興味を持ちはじめたのはこの研究業績に触れたからでもあります。本日は平岡さんの論文「イエズス会の日本布教戦略と宇宙論 好奇と理性、デウスの存在証明、パライソの場所」( 書誌情報やダウンロードはこちら )を読んだのでそのご紹介(なお、さん付けで呼んでいますが面識はありません)。もうタイトルからして面白そうな雰囲気が漂っていてすごいですね。 十六世紀後半にイエズス会宣教師が来日し、熱心に布教をおこなったこと、その中心人物としてフランシスコ・ザビエルという人物がいたことは小学生でも知っている史実ですが、そのとき来日していたイエズス会宣教師たちが日本に西洋の宇宙論を輸入したこと、それが日本人が西洋の科学に出会う嚆矢となったことも重要です。この論文では、そこでイエズス会宣教師たちがなぜ日本に科学を持ち込んだのか、を詳細に見ていきます。 この論文が辿るポイントは、副題の「好奇と理性、デウスの存在証明、パライソの場所」に現れています。まず、日本人がそうした新しい知識に対して強い興味を抱く人びとだったことが遡上にあがってくる。海外から来たものをありがたがる風潮、これは十六世紀の日本でも同様だったのかもしれません。『日本史』という本を書いていることで有名なイエズス会宣教師、ルイス・フロイスは八十歳近い年老いたお坊さんが自分のところにきて、あれこれ話を聞いて帰ったという例を伝えている。この論文がとても面白く読めるのは、こうした事例がかなり詳しく紹介されている点です。そこでは当時の日本人の考えについても言及されている。 例えば月の満ち欠けについて、当時の日本人はどう考えていたか。当時の日本人は、月には三十人の羽衣を着た天女がおり、十五人は白衣、十五人は黒衣を着て、毎日入れ替わりせいで月に立っているのだ、と考えていたそうです。つまり、十五人全員が白衣の天女であればそれは満月、ということですね。すごいファンタ