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「中世の大思想家たち」より『アヴィンセンナ』を読む アヴィセンナの生涯と そのバックグラウンドについて(放浪アヴィセンナ編)


Avicenna (Great Medieval Thinkers)
Jon McGinnis
Oxford Univ Pr (Txt)
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『アヴィセンナ』第一章のまとめの続きです(前回)。今回はアヴィセンナの生涯の後半部分についてをまとめていきましょう。時の権力の趨勢に煽られるようにして、各地を放浪しはじめたアヴィセンナですが、ここからが彼の本気モードと言えましょう。ジュルジャーン(Jurjan)というカスピ海沿岸の都市にいたのは3年にも満たない期間で、それはあまり大きな出来事がおこらなかったときではありますが、アヴィセンナはとても精力的に著述活動をおこなっていたようです。アブー・ムハンマド・アシュ=シーラージー(Abu Muhammad ash-Shirazi)という学者に家を買ってもらい、そこでアヴィセンナは『Middle Summary on Logic』、『The Origine and Return』、『Complete Astronomical Observations』、『The Summary of the Almagest』のほか、数々の短い書物を書きあげています。彼の業績のうち最も知られたもののひとつである『医学典範(Canon of Medicine)』もこの時期に書き始められているようです。

その後、金持ちのパトロンから誘われたアヴィセンナは1015年頃から現在のイランに向かいます。この後の彼の人生は、レイ(Rayy、現在のテヘラン郊外の都市)や、クィルミーシーン(Qirmisin、現在のケルマーンシャー)、ハマザーン(Hamadhan)、そしてイスファハーンといったカスピ海の南のほうにある山岳地帯の都市をいったりきたり。まず、アヴィセンナは弟子たちとともに、レイの名目上支配者であったブーイド・マジュド・アド=ダウラ(Buyid Majd ad-Dawla)のもとにやってきます。この人はメランコリアに悩まされていたのですが、この都市の実質上の権力は、この人物の母親が握っていたと言われ、アヴィセンナは彼女のお付きのものになった、とのこと。しかし、これと同じ頃に前回もアヴィセンナの放浪に関わっていたと言われるガズナ朝のスルタン、マフムードは再度アヴィセンナをよこせ、という要求を出していました。これによりアヴィセンナはレイを離れ、カズウィーン(Qazwin)というレイの西の街へ移動し、さらにハマザーンへ。ここでアヴィセンナは「ザ・レディ」(スタンド名か)と呼ばれるマジュド・アド=ダウラの母に仕えています。

ハマザーンでのアヴィセンナは、ブーイド・シャムス・アド=ダウラ(Buyid Shams ad-Dawla)という統治者と知り合い、彼の疝痛を治療しています。この人とアヴィセンナはこの縁でとても仲良しになり、アヴィセンナは遠征にもついてくは、高級役人の地位も得るはで美味しい思いをしたようです。でも、元々いた軍人は新しい役人であるアヴィセンナを不愉快に思っていました。可哀想なアヴィセンナは軍人たちによって家を包囲され、略奪されたうえに処刑される寸前のところまでいっています。軍人たちからアヴィセンナの処刑を求められたシャムス・アド=ダウラでしたが、アヴィセンナと仲良しだったので、さすがにこれを拒否します。が、役人の地位を奪った40日間も幽閉してこのイザコザを手打ちにしている。しかし、この後、シャムス・アド=ダウラの疝痛が再発。彼はアヴィセンナにペコペコ謝って再度治療を受け、全快、これによりアヴィセンナも高級役人の地位にカムバックしています。なんか、スティーヴ・ジョブズの伝記にこんなシチュエーションあったよな……。人事がいろいろと忙しいです。

いろいろとありましたが、1016年から1021年のあいだにアヴィセンナはハマザーンにとどまっていたようです。ここでは弟子のアル=ジューズジャーニーにアリストテレスについての註釈をおこなって欲しいと頼まれているのですが、これを拒否。アヴィセンナはその代わり、百科全書的なすべての学問を集約する書物を残そうと考え始めました。それが『治癒の書(the Cure)』の執筆の契機となります。この『治癒の書』がどんな本だったかについては我らがBHにも紹介がなされておりますが、本書での『治癒の書』は、ギリシャのアカデミーにおける伝統的なカリキュラムの内容と、土着的なイスラームの影響によって織り成された知的なタペストリーであり、アヴィセンナの独特な哲学体系の結晶として扱われております。

ここでハマザーンでのアヴィセンナの暮らしぶりについても紹介しましょう。アヴィセンナは午前中を執筆に費やし、午後の明るい間は政務を。その後、彼は暗くなったら弟子たちに会い『治癒の書』や『医学典範』の新しく書き記したページを読んで、説明や質問に答えていたそうです。かなりめちゃくちゃに働いてるんですが、この講義はだいたい飲めや歌えやの宴会に流れ込んでいたようで、まさに饗宴でした。しかも、アヴィセンナはこのとき登場する歌手(多くは女性の奴隷)とヤリまくっていた、という。アル=ジューズジャーニーは師匠の汲めども尽きぬ性欲を目撃してたそうですが、仕事もバリバリやって、夜もバリバリヤリまくっていた、というのはある意味、ストイックであるな、と感心してしまいますね。

1021年ごろ、アヴィセンナの主君であったシャムス・アド=ダウラは遠征の途中でまた疝痛が再発、その他にも病気にかかってしまい、この年に亡くなります。これによって彼の権力はすべてその息子に受け継がれ、アヴィセンナはそのまま高級役人のオファーをもらっている。しかし、アヴィセンナはこの相続人を父親ほどは評価していませんでしたので彼はこのオファーを断って、秘密裏にイスファハーンの統治者であった、アラー・アド=ダウラ('Ala ad-Dawla)と交渉をはじめます。この当時、アヴィセンナはある薬屋の家に缶詰になり、『治癒の書』の執筆に没頭していたそうです。丸2日間かけて全体のアウトラインをかきあげると、一日50ページぐらい(fifty folio pagesとあるので見開きで50枚ってこと!?)書いてたんだって(だんだん、京極堂みたいなキャラも入ってきてる)。『治癒の書』はこのときに「自然学」の部の第7書の「植物論」までと「形而上学」の部が書かれた模様(「自然学」については、クニ坂本さんも書いてますね)。ただし、こんなことをやっているあいだにアヴィセンナはなんか疑わしい人だと思われてしまって、逮捕された上に4ヶ月間も幽閉されている。幽閉期間中に彼は『The Guidance』や『Alive son of Awake』といった書物を書いたそうです。

1023年、アヴィセンナのまわりはまだまだ安定しません。今度は秘密裏に交渉をしてきたアラー・アド=ダウラがハマザーンを攻略、アヴィセンナを幽閉していた権力者たちを屈服させます。これによってアヴィセンナも自由の身に。侵略者たちがハマザーンから引き上げると、元の治世者が戻ってきて、再度アヴィセンナに「ねえ、ウチで働こうよ〜」と口説き始めたそうです。このとき、アヴィセンナはシーア派の友人のもとに滞在していて、その友人に『Cures of the Heart』という書物を捧げています。これは、感情や意識の乱れに対してどんな処置をしたらいいのか、を解説する手引書だそうです。当時の人は、そうした心の問題を、脳ではなく文字通り心臓に関連づけていますが、アヴィセンナもこの例に漏れません。また『治癒の書』の「論理学」の部の執筆も続けられています。

こうして政情不安のなかでも仕事を続けているアヴィセンナでしたが、ハマザーンの状況は悪くなる一方でしたので、スーフィズムの人に変装し、弟子たちとともにイスファハーンへと旅立ちます(なんかアラビアンナイトの世界っぽい……)。秘密の交渉相手であったアラー・アド=ダウラが治めるイスファハーンではまた手厚い歓待を受け、彼はこの地で『治癒の書』の「論理学」の部、「数学」の部を完成させ、残りは「自然学」のなかの動物論を残すのみ、というところまで持っていく。この動物論は、アリストテレスの生理学的研究に対応する内容ですから、これが最後に残されているのは、なんというかアヴィセンナがホントは一番なにに関心を持っていたのかを勘付かせるものに思えます(好きなものは最後までとっておく派だったのでしょうか)。そして1027年か、1030年に『治癒の書』が完成。これはアラー・アド=ダウラの遠征に同行しているあいだのことでした。この遠征中にアヴィセンナは『治癒の書』の要約版である『救済の書(Salvation)』も書いたそうです。

年齢的にも脂が乗り切った時期だったのでしょう、アヴィセンナのイスファハーン時代は、フランク・ザッパかプリンスばりの多産ぶりでした。しかも、出すもの出すものがなんかスゴそう。『医学典範』も完成させてるし、偽アリストテレスのテキストを含むアリストテレスの著作への例題集(28000問)だの、ペルシャ語の哲学事典だの、ササン朝ペルシャ没落後初めての哲学書だの、スマッシュ・ヒットを飛ばしまくっている。この勢いはホントに『Dirty Mind』から『Lovesexy』までのプリンスに匹敵するのでは!?(謎の比喩) しかも、執筆だけじゃなくて政治もやってましたし、学者たちを集めたサロンにもでていた。ここでの面白エピソードとしてはサロンでアラビア語の学者に「オメーの文章はカチコチで文学的じゃないよね、所詮学者だよ」とdisられたアヴィセンナとキレて文献学だのを猛烈に勉強し、むちゃくちゃに凝りまくった詩を書いて、ケンカを売ってきた学者の鼻を明かした、というのが紹介されています。

アヴィセンナのお顔
肖像画をみると結構内省的な感じのオットコ前ですが、ここまで紹介してきたエピソードからすると、アヴィセンナはアポロン的な天才性の人物っぽいです。多いに笑い、飲み、食べ、セックスも大好き。思索に耽る学者のイメージとは大きく違った性格が意外な感じがするんですけれど、アヴィセンナ自身はこのように語っています——「高貴なる神は、外面的にも、内面的にも惜しみなく力を授けてくださった。それを私は使うべき力として、あらゆるものを使うのだ」。神様からもらった力を出し惜しみしてたらそっちのほうが罰当たりですよ、ということなんでしょうか。

しかし、そんな豪快なアヴィセンナにも死はやってくるのです。1034年、ガズナ朝との武力衝突がおこなわれた戦地で彼はかつて自分で治療したことのある疝痛にかかり重篤な状態に陥ります。戦地にてアヴィセンナ自ら他の医師に指示をだし、いろいろと手を尽くしましたが、病気は良くなりません。結局、アヴィセンナは担架で運ばれてイスファハーンに戻ると、そこで1037年に亡くなるまで闘病生活を送ったようです。途中でちょっと回復して、セックスを楽しんだりもしたそうですが全快することはなく、アラー・アド=ダウラがハマザーンに向かうのについていったときに亡くなります。享年58歳。このセクションはこのような言葉で締められています。「ハマザーンを訪れる者は、彼の墓を見ることができるだろう。それは真に偉大な知的精神のモニュメントである」。

以上、最後の2文ぐらいだけNHKの歴史ドキュメンタリー風にまとめてみましたが『アヴィセンナ』本の第一章のまとめはこれでおしまいです。ギリシャやアラビアの知的伝統から、10〜11世紀のイスラーム圏における勢力図などかなり勉強になる部分でしたね。第二章以降は、アヴィセンナの思想について入っていきますが、こちらはまた機会があったら、そういう気分になったら紹介させていただきます。

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