スキップしてメイン コンテンツに移動

読売日本交響楽団第519回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

指揮=シルヴァン・カンブルラン
バリトン=大久保光哉
アルト=藤井美雪
合唱=ひろしまオペラルネッサンス合唱団(合唱指揮=もりてつや)
ツェンダー:「般若心経」(創立50周年記念 読響委嘱作品/世界初演)
細川 俊夫:「ヒロシマ・声なき声」-独奏者、朗読、合唱、テープ、オーケストラのための
10月の読響定期は常任指揮者、シルヴァン・カンブルランによる現代音楽プログラム。ドイツの作曲家、ハンス・ツェンダーへの委嘱作品と、ドイツと日本で活動する日本人作曲家、細川俊夫の大作を組み合わせた意欲的なプログラムだったと言えるでしょう。ツェンダーは俳句や禅といった日本の文化から着想を得て作品を書いており、細川もまた西洋音楽の語法で東洋的な音楽を書く作曲家でもあります。どちらもペンタトニックな音階を使ったりして、分かりやすいオリエンタリズム、エキゾチズムを狙った作曲家ではない、けれども、東洋・日本的なものを感じさせる響きの音楽の作り手である、という部分で共通項がある。井筒俊彦的に言うならば、共時的構造化がなされた選曲にも感じました。

ツェンダーへの委嘱作品は《般若心経》をバリトンのテキストに用いたもの。本来、経典は声明という節をつけて読まれるものですから、これは声明の再作曲とも捉えられるかもしれません。プログラム・ノートには「福島での大惨事に関連した作品」であり、「日本人の内なる力は、仏教的伝統によって育まれてきたように私には見える」とあります。多くの日本人は葬儀でしかその伝統に触れることがなく、声明がなにか西洋における鎮魂歌的な位置づけのようにも理解されているかもしれませんが、しかし、その意味合いは呪術的であったり、あるいは仏教哲学の内容をミメーシス的に理解する、などの機能をもった儀式であったはずです。ツェンダーがどこまでそうしたことを意識したかはわかりませんが、あのテキストが地震や原発事故に対しての哀悼のために選択されていたわけではないでしょう。

彼の作品では《5つの俳句》というフルートと弦楽器のための作品を自ら指揮した録音を持っていて、これは渋い響きをもった、乱暴な言い方をすると「音があんまりしない」系の音楽です。どこまでも俗っぽい言い方になりますが、その響きは水墨画的なモノトーンと淡さを持つ。しかし、音楽の境界線は異様にはっきりしていて、そのあたりが非常にドイツの作曲家らしく思えます。今回の作品でもそうした印象は変わらず、1936年生まれの熟達した筆の運びを堪能できる作品だったと感じます。そのぶん、驚きはゼロに近く、まるで「ドイツ人が《涅槃交響曲》のショート・ヴァージョンを書いたら」みたいな曲ではあるのですが、音造りの上手さはかなり職人的な域に達している。特に木管楽器の不協和音とバリトンの発音が同期しながら進んでいく箇所は、とても素晴らしかったです。

2012年は、東京の現代音楽資本が細川俊夫にかなり集中している年です。自分が行ったコンサートだけでも
と大規模な個展がある。それから今年のサントリーサマーフェスティバルでは、細川俊夫がセレクトした現代音楽の演奏会があったと思います。日本で今もっとも注目されている現代作曲家と言ったら、もうこの人しかいない……のかな……それはそれでちょっと不健康な感じもしますが……とにかくそれだけの音楽は書いている、とくに「こういうのはヨーロッパで受けるんでしょうなあ(嫌な言い方ですが)」という作曲家である、と個人的には思っています。「日本人が嫌いな日本人」みたいになって、こういうのはホントに嫌なんだけれども……。

《ヒロシマ・声なき声》は、その作曲家によって書かれた長大なオラトリオ作品です。この作品の元になった《ヒロシマ・レクイエム》は録音で聴いていましたが、本作は今回が初めて。指揮のカンブルランは世界初演者でもあって、ちょっとすごい演奏でしたね。指揮者の耳の良さがハンパではないことが分かるというか。分解的に各楽器の音を聴けるぐらいの解像度の高さと音の塊の作り方とがスゴ過ぎるのではないか、と。客席から一階席を囲むように演奏する金管楽器のバンダ部隊のサラウンド効果もとても良かったです。「モニュメンタルな作品」のモニュメント性を十二分に発揮する演奏でした。聴き終わった後、ちょっと打ちのめされてしまった。

ただ、この作品自体についてはちょっと複雑な思いを抱いています。まずはこれがモニュメンタル過ぎるのでは、という部分で。大オーケストラ、合唱、独唱者、ナレーションなどものすごい大規模な作品で、これだけ揃えたらもう何でもありですし、打ちのめされてしまったのもこのてんこ盛り感が理由のひとつです。構成的にも《ヒロシマ・レクイエム》から引き継いだ1・2楽章に比べて、3〜5楽章はちょっと音楽の雰囲気が違いすぎる。もっとも激しくなるのは2楽章で、その後のバランス感はベリオの《シンフォニア》にも似ている気が(あれは3楽章だけれども)。あとテキストの選択についても、2楽章は《星のない夜》を聴いたときに感じた問題がありますし、ツェランと芭蕉……というのも……。

とくにツェランはナチスの収容所からの生き残りであり、アドルノの有名な警句「アウシュヴィッツ以後詩を書くことは野蛮である」とも関連づけられる詩人です。彼の作品では《死のフーガ》がとにかく有名ですが、3楽章に用いられている《帰郷》にしても荒涼とした風景と、この音楽のあいだに釣り合いがとれているかどうかは疑問に思いました。

こうして色々考えていると、この巨大な音楽に打ちのめされつつも「こうした音楽によるモニュメントによって何ができるのだろうか」という根本的なところにも疑問が湧いてしまうのですよね。絆を歌ったり、癒しを提供したり、といった安易な効用はここにはない。それはショスタコーヴィチの《バビ・ヤール》や、シェーンベルクの《ワルシャワの生き残り》もそうなんだけれども。凄惨な情景が描かれる音楽によって「ユダヤ人虐殺は悲惨だ!」、「戦争は悲惨だ!」、「原爆は悲惨だ!」とか、そういう直接的なイメージから、そうした悲惨なモノに対して「イクナイ!」みたいな反応しか呼び起こせないのであれば、そうであるなら、そんなモニュメントにどんな意味があるのだろうか……、という(もやもや)。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か