スキップしてメイン コンテンツに移動

宮腰忠 『高校数学+α:基礎と論理の物語』


高校数学+α:基礎と論理の物語
宮腰 忠
共立出版
売り上げランキング: 168615

わたしはガチガチの文系野郎であって、高校時代もあまりに数学が不得意だったので一年生の段階で早々と「あ、私立文系にしよう……」と匙を勢い良く投げ(同時に、他の理系科目も不要なものとして処理してしまった)、気がついたら黒板に知らない記号がたくさん並んでいた、という体たらくで高校を卒業し、その後、大学時代も統計学(必修)などで数学が必要になった場合も「先生と仲良くなる(そして、分からないなりに授業には真面目に出る)」などの処世術で乗り切って現在に至っているのだが、半年ほど前に天啓がおとずれたかのように、数学、やってみようかしら、といきなり思いたち、そこからコツコツとノートをとったりしながら上記のテキストを読んでいたのだった。

この『高校数学+α:基礎と論理の物語』はかなり評価が高いテキストではあるのだが、いろいろとわたしは勘違いをしていた。この本は「高校数学の基礎」を物語的に教えてくれる本、ではなく「高校数学で出てくる数学の理論を、その成り立ちから解説する」という本だったのである。演習問題なしに基礎が身に付いたりするマジカルな本、じゃなかったのか……と気づいたのは、中盤に差しかかってからで、その後もなんとなく勿体ないから「う、う、難しいよ……わかんないよ……」としょんぼりしながら読みました。かなり抽象度も高いし、公理の証明の部分とか、読んでもぽかーん、という感じ。

とはいえ、学ぶところがゼロだったわけではなくて。このテキストの解説は「そもそも数ってなんだ!?」という根本的なところから話が始まったりするので、普段生活しているうえでの当たり前となってるモノが覆されるような、まるで社会学的な体験を与えてくれる内容だったりして、理解できる部分だけ拾っていってもソコソコ面白く読める。三平方の定理の頻出具合に、うお、これ考えた人、スゴくない!? とバカみたいに感心したし、なにより、高校時代みたいに定期テストのために数学をやっているわけではない、という気楽さが良かった。赤点を取ってはいけない、というプレッシャーから解放されて望む数学はなかなか心地良いものなのね(難しかったけども)。

あと、抽象的な議論もなんとか知っているモノに結びつけて考えていくと、なんとなーく使いどころがわかったりもし、そういう部分では「年を取って経験を積んでからのほうが、勉強が進む部分もあるのでは」と思ったりした。頭のいい人って抽象的なモノを抽象的なままで理解できる人であって、そこは才能の部分が大きそう……と勉強しながら考えさせられたけれど、なにかのとっかかり(経験で得られた具体的なサムシング)さえあれば、別なやり方で考えたりできるのでは、と。「年を取るとなかなか頭に入ってこなくて……」と記憶力が衰えることがあるのかもしれないけれど、ホントにそういう経験によって学習効率をあげるようなことがあるなら、まだまだ絶望するには早い……。

とんでもなく役に立つ数学
西成活裕
朝日出版社
売り上げランキング: 8387
東大の西成先生の数学についての本もちょっと読み返しながら、数学の使いどころについても思いを馳せた。今回はちょっとテキスト選択に失敗したかもしれないけれど(結局、終盤はザックリと流し読んだだけになってしまったし……)、めげずに数学の勉強は続けたいと思います。なんだろう、できなかったことができるようになるのって単純に楽しい。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か