ジャン=リュック・ゴダール監督作品 『アルファヴィル』

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なんとなく映画の気分になって旧作をいろいろと借りる祭その5。またもやゴダールで今度こそ面白くないんじゃないか、と思いきや、またもや普通に面白かったので良かった。コンピューターによってすべてが管理され非論理的なものが排除された未来都市、アルファヴィルへと送り込まれたエージェントが洗脳された美女を助けたり、街へと人間性を回復させたり、と活躍する! みたいなあらすじのSFでした。今だったら偏差値高めなSF好きの高校生が書きそうな話ですが『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の元ネタみたいでしたし、まったく緊迫感のないカーチェイスや、IBMのテープ装置がついたコンピューターやインパクト式プリンターなど、まったりとした見所がたくさんあって良かったです。萌え、という言葉が一般的に流通して久しいですけれども、ここにきて萌えとはこういうのを慈しむ感情ではないか、と思いました。菊地成孔が各所で指摘している、ゴダール作品における音楽のあり方もこの作品では嫌というほど味わえる(途中でプレーヤーが壊れたかと思った)。ベルクソンの術語が登場するのは微妙に物語に関係しているから良いとして、アインシュタインの有名な関係式E=mc²が何度も挿入されるのはよくわからん! いきなりエリュアールを引用されてもよくわからん! と随所にハッタリっぽいサムシングが含まれていて、その辺もちょっと中2感でちゃったりしてるところも良いです。チャンドラー読んでたり、アメリカのポップ文化をネタにしてたりとかもそうなんだけれども、この辺は《時代の気分》だったりするんでしょうか。否応無しにピンチョンを思い出してしまうのですが『アルファヴィル』が1965年、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』が1966年ですからねえ。





この時代の未来やテクノロジーに対する想像力についてもうかがえるのも興味深いです。「機械 VS 人間」といったところでは『2001年宇宙の旅』ですけれども、改めて「あれが1968年の映画なのかあ……」と驚かされたりもしました。





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菊地成孔・大谷能生 『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』(上)

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菊地・大谷のコンビによる「擬史としてのジャズ研究」シリーズのうち、最もハードコアな内容を持ちながら、高価でマッシヴなヴォリュームのせいかなかなか読まれずに出版社が倒産……という憂き目にあっていたという『M/D』が文庫化。上巻はマイルスの誕生から、第二期黄金クインテットの末期ぐらいまでを音楽理論、服飾文化論、精神分析、音楽産業論などから分野横断的に語りまくったモノとなっています。





なかでも特筆すべきはマイルスによる楽曲「Solar」のリディアン・クロマティック・コンセプトと、ラング・メソッド(いずれもポスト・パークリー・メソッド的な音楽理論)による楽曲分析の併置でしょう。ここはかなり専門的な内容で、ほとんど意味がわからないのですが(三度の音が……とか超基本的な楽典の部分はかろうじて)ひとつの楽曲からほとんど別物の語りが生まれてくる、という事実が目のあたりにできるわけで、「楽理に基づいた音楽批評」の可能性、というか、さまざまなあり方を見ることができるのが面白いと思いました。「聴取感」をどのような術語に落とし込んでいるのか、について確認していくだけでもかなり興味深いのですね。『憂鬱と官能を教えた学校』や『東京大学のアルバート・アイラー』などではかなりカルトっぽい扱いをされているリディアン・クロマティック・コンセプトも、各スケールが《引力》をもっていて、それによって音の《遠さ》や《近さ》が決まってくる、みたいな説明のところは、身体的にしっくり来てしまうのかもしれない、と思います。





文庫化にあたってボーナストラックは中山康樹との鼎談が収録されていて、10年でのマイルス研究の進展とその要因、またマイルスにとってヒップ・ホップとはなんだったか、などが語られています。この部分も面白かったです。とくに晶文社や『スイングジャーナル』の消滅が、マイルス研究、ひいてはジャズ批評を活発化した、というのはなるほど! という点です。「サラリーマンが趣味でジャズを聴いてコーヒー飲みながら『スイングジャーナル』を読むと、自分の想定内の教養のなかでわかりやすく考察がなされていて○×がついていて安心してジャッジできるという批評のあり方(菊地)」の消滅によって「いろんな窓が開いた(中山)」という、この表現。素晴らしいと思いました。菊地による表現は文化を享受する人たちの、ホモソーシャルというかほとんど自己言及的なあり方すべてに当てはめることのできる絶妙なカリカチュアと言えましょう。





読みながら、あ、これも聴いてない、あれも持ってない、と気がつかされ「うわ、俺全然マイルス聴いてないじゃん(ファンのつもりでいたのに!)。買わなきゃ、聴かなきゃ!」とレコード店に駆け込みたくなりますね。下巻も楽しみです。





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ジョン・カサヴェテス監督作品 『グロリア』

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なんとなく映画の気分になって旧作をいろいろと借りる祭その4。ギャングに見せしめで虐殺された家族の生き残りの少年と中年のおばさん(ジーナ・ローランズ)がニューヨークを逃げまどいながら、情を深めあっていく……と、あ、『レオン』の元ネタってこれかい、というような作品なのだが、腰が抜けるほど面白かったです。冒頭では、ジーナ・ローランズがどういう人間なのかわからない。派手な服を着ているので高級娼婦かなにかか? と勘ぐらせるんですけれど、途中でドーンとよくわからんがスゴい女性だ、ということが判明。えー、なにそれ、カッコ良すぎでしょ、と大変驚きました。ビル・コンティ(『ロッキー』の曲も書いてる人)によるメイン・テーマのスコアも「ジャズ + モリコーネ」みたい。例によって子役は、懐かないし、クソ生意気なガキ、という設定なので冒頭のヤバいシーンなどでは結構イライラさせられるんですが、ハラハラと画面を注視してしまうような煽りの演出が絶妙だからなんでしょうね。「バカ、お前なにやってるんだ!」みたいに画面と会話したくなる……。





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ジャン=リュック・ゴダール監督作品 『勝手にしやがれ』

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なんとなく映画の気分になって旧作をいろいろと借りる祭その3。初ゴダールがゴダール初の長編作品。学生時代からの友人に熱心に映画を観ているのがいて「ゴダールはアレだ……」と脅されてきたのだが、ちゃんと面白く観れたので良かった。59年の作品だから当時、ゴダールは29歳、主演のジャン=ポール・ベルモンドは26歳(大体、今の私と同じ年代なのですね)。エネルギーに溢れた作品であるなあ、というのが率直な感想で、劇中での主人公の年齢はわからないけれども、あー、こういう力の使い方もありなのかー、とか思ったりした。いや、ないか……今の年であんな感じだったらかなり恥ずかしいな……。というわけで、出会った時が悪かった(?)と思うのだけれども、これは観る時期によっては若さという病気を拗らせる魔力を持ち得るであろう映画なんでしょうねえ、最後のセリフで寺山修司のエッセイに『勝手にしやがれ』が登場していたことを思い出しました。





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冨永昌敬監督作品 『乱暴と待機』

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なんとなく映画の気分になって旧作をいろいろと借りる祭その2。冨永昌敬の長編は怪作『パビリオン山椒魚』(天才レントゲン技師! サラマンドル・キンジロー財団! 第二農協!)から私のツボにハマりっぱなしなんですが、この『乱暴と待機』は気がついたら劇場公開が終わっていて観れていませんでした。原作は本谷有希子ですが、どこまでが冨永昌敬のセンスでどこまでが本谷有希子のセンスなのか、原作を読んでないので分かりません。前作『パンドラの匣』(太宰治)も「こんな変なセリフ、原作にあったっけ!? 《盛ってる》だろ!」と思って調べてみると、ちゃんと原作通りだったりして。今回も相当むちゃくちゃな映画だな……と思って爆笑しながら観たのですが、テンションは『パンドラの匣』や『パビリオン山椒魚』のほうが良かったかも。もう浅野忠信の第一声から笑ってしまいましたが、この映画はとにかく浅野忠信の怪演が光る。ずっとああいうしゃべり方の役をやっていて欲しいぐらい。「カセットテープの趣味が高じて、カセットテープ関連の会社を設立した」、「治った」(浅野)、「そういうところは積極的に麻痺していこうよ~」(これは山田孝之)などのセリフは名言も頻発しています。このフィクションの都合の良さを拒絶してしまう人も多そうですが、私は大好き。お話としては結構オーソドックスなものなのに、どうしてこんなに「変」なのか。そして小池栄子の顔を見るたびに、パイプ椅子で殴られている人の映像が脳内で自動再生されてしまう呪縛はいつ解けるのか。





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M・ナイト・シャマラン監督作品 『サイン』

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なんとなく映画の気分になって旧作をいろいろと借りる祭。シャマランの作品を劇場でリアルタイムで見始めたのは『ハプニング』からで、そこからガッツリハマってしまったのだけれども(その後が『エアベンダー』でグハッという感じなのだが)『サイン』をようやく見て、一層「シャマランの世界ってこういう感じだよなあ」という具体的なイメージがつかめた気がします。ちゃんと怖いし、ちゃんと笑えるし、泣けたし、そして本人も出てるし……で最高です。で、この作品で明確だったのは神学的な対立で。主人公のメル・ギブソンは元牧師、という設定なのでキリスト教のモチーフが含まれているぞ、ということは冒頭から臭わす作りなのですが、彼のセリフにあるとおり「神によって人間は見守られているか」それとも「人間はひとりで生きていくか」という問いかけは、世界を動かしているのは神なのか(主知主義)、それとも意思によってなのか(主意主義)という対立そのままです。この主知主義と主意主義の対立自体、思想史的に言えばプラトン対アリストテレスぐらいまで遡ることができますので、なにもキリスト教に限った話ではないわけですが、いろいろあって神を捨ててしまった男であるメル・ギブソンは、主意主義者として振る舞う。しかし、さまざまな恐怖を乗り越える過程で、さまざまな幸運(偶然)と出会い、自らの意思を超越して自分の人生に影響をあたえるものの存在を信じざるを得なくなる。最終的にメル・ギブソンは信仰を再びもてるようになるのですが、それは単に神への感謝、というだけではなく、神に対する畏敬も含まれている。こうした意思や理解を超えて存在するものに対する感謝と畏敬は、作中の恐怖の対象(これもまた自らの意思や理解を超えたものであります)と対称的と言えるかもしれません。これが『ハプニング』の場合ですと、自らの意思や理解を超えた恐怖の謎が最後まで解き明かされないままとなり、理解を超えた何かによって何かが引き起こされている、ということがそのまま主知主義へと接続されていくように思います。(以上の訂正線部について、思想史プロパーの方からツッコミが入りましたので、この状態にしておきます。なお『主知主義と主意主義の争点は、神の意志に先立って、秩序があるのか、ないのか、というところ。秩序が先にあると考えてしまうと、神がそれに従うことになるから駄目だ、と十三世紀末から、主意主義が優位になった』とのこと)





繰り返しになりますけれど、怖くて、笑えて、泣ける、とかなり忙しい映画です。メル・ギブソンが終盤ものすごい勢いでご飯を食べ、その後、全員抱き合って泣く、というシーンはツボ。このシーンも最後の晩餐的なモチーフが重ねられている気がするのですが、そこでみんながそれぞれ好きなものを食べようというときに選ぶのが、特別なものではなく至極日常的なメニューである、というのも良かった。





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尹伊桑の芸術 Vol.6

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尹伊桑の芸術Vol.6【室内楽曲 I】
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嫌韓かまびすしい昨今において韓国出身の作曲家の作品などを聴いていたら、デモなどに熱心なテレビ大好きな方々(右翼、とは違ってただ単になんとなく気に食わないからギャアギャアと騒いぐ赤ん坊的なメンタリティを持っているように端からは見える)に刺されるかもしれませんが(いや、おそらくテレビが大好きな人はこのブログなんか読んでないので平気であろう)2009年にカメラータ・トウキョウから『尹伊桑の芸術』と題するCDシリーズが出ていたことを知り「これは聴かねば!」と意気込んでいる今日この頃でございます。尹伊桑(ユン・イサン 1917-1995)は前述のとおり韓国出身の国際的にも活躍した作曲家。その活動規模は武満徹と並んで、東洋を代表する作曲家だった、と言っても過言ではありません。彼の波乱に満ちた生涯については各自お調べいただくとして、彼がベルリンで教鞭を取っていたときに現在国内外で活躍する日本人作曲家を指導していた、という事実は注目するポイントだと言えましょう。細川俊夫も三輪眞弘も尹伊桑の弟子でした。





全9枚のラインナップについてはこちらをご覧ください。1~3枚目の「管弦楽曲」は80年代に入ってからの交響曲を中心にしたもので、私は別なレーベルから出ている交響曲全集をすでに持っていたため、6枚目の「室内楽」から攻めています。収録曲は以下。



洛陽(ローヤン)~室内アンサンブルのための(1962/64)


ピース・コンチェルタンテ~室内アンサンブルのための(1976)


サロモ~アルト・フルートのための(1978)


箜篌~(コンフ)ハープと弦楽合奏のための(1984)


バランスのために~ハープ・ソロのための(1987)



なお、《コンフ》はナクソスから出ているCDでも聴くことができます。「東洋の響きと西洋の響きとの融合」というテーゼは東洋に生まれたいろんな作曲家が掲げていますが、尹伊桑もまたそのひとり。80年代に入るとその楽想は一気にロマンティックで平明な方向へと流れるのですが(しかし、ベタに東洋感を煽るのではなく非常に洒脱な響きのなかに東洋エッセンスが紛れ込んでいるような感じ)、このCDを聴くと60年代の作品においても基本的な姿勢は変わっていないことが確認できます。この時期ですと既に日本においてでさえ武満徹が《テクスチュアズ》を書いていますから、彼の音楽の響きは斬新なもの、とは言えなかったでしょう。もはや古典的、と言っても良い響きだったかもしれません。しかし、そうした古典的な響きに聴きごたえを感じたりもするのでした。





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イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #4

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時代はようやくルネサンスに移ります。お話は1460年ごろ、マケドニアの僧侶によってフィレンツェのコジモ・デ・メディチのもとへとギリシャ語のヘルメス文書の写本が持ち込まれるところから始まります。コジモは、各地に使いを派遣してヘルメスに関するものを集めるよう命じていたのです。このとき彼のもとに届いたのがヘルメス文書全15巻のうちの14巻、最後1巻だけはなかったそうです。当時すでに彼のもとにはプラトンの写本が揃えられていたそうですが、それはまだギリシャ語からラテン語へと翻訳されていない状態でした。コジモは、ヘルメス文書を手に入れるとすぐにマルシリオ・フィチーノに翻訳を命じます。プラトンよりも優先してヘルメスだ、とコジモはフィチーノに手紙を送っているそうです。当時のフィレンツェがビザンツ帝国からやってきた学者がもたらした文書などによって、ギリシャ哲学を研究する格好の場となっており、フィチーノもその恩恵にあずかりながらフィレンツェにおけるギリシャ哲学研究を牽引し、重要な翻訳者となっていた、というのも大変興味深いですね。





フィチーノによるヘルメス文書の翻訳は数ヶ月で終わったそうで、コジモは1464年に死んでしまうのには間に合ったようです。それからフィチーノはプラトンの翻訳に取り組みはじめます。しかし、どうしてコジモはヘルメスをこんなにも重要視したのでしょうか。この理由についてイェイツは、初期キリスト教の教父たちと同様に、コジモもまたヘルメスがプラトンたちに先立つエジプトの賢者である、と信じていたからだ、と言っています。「ルネサンスは第一により古いもの、より遠いものに敬意を払った。古ければ古いほど、遠ければ遠いほど、神の真理を近づく、というように」というわけです。フィチーノもまたコジモに捧げたこの翻訳を古代エジプトの叡智を明らかにする素晴らしい発見である、と考えていました。また彼はこの翻訳の序文に「ヘルメスは最初の神学者である」というような序文を加えていました。この序文は神学者の系譜となっており、その系譜はプラトンまで途切れずに続いていきます。イェイツはこれをフィチーノが初期の教父たちを参照していた証拠とみなしています。また、彼はヘルメスはキリスト教の到来を予言していたことについても言及しており、ここでも教父たちとの認識の一致が見られます。





フィチーノがコジモにヘルメス文書の翻訳を献呈する際に一緒にその註解的な文書として『問題集(argumentum)』が付されていました。ここにはヘルメス文書におけるグノーシス的な儀式に関する彼の解釈があるのですが、ここがとても面白い。彼の「神の光」の存在を文書から読み取っていました。これに出会うと人々は「昇天するような感覚に陥り、幻想の雲に包まれ、そして人の意識が神の意識へと変化する(月が太陽に変わるように)。この境地に陥れば、人はまるで神のなかへと存在するようにして、あらゆる秩序を予見できるだろう」とこの表現がとても面白い。フィチーノによるヘルメス文書の翻訳は、1471年に初出版されますが、大いに広まり、16世紀の終わりには16版まで版を重ねたんだとか(フィチーノの業績のなかでも最も売れた本だったそうです)。これによりルネサンス全体にヘルメスへの興味がわきおこった、とイェイツは言います。





このヘルメス・ブームはなにをもたらしたのか。中世では教会による魔術の禁止令がありました。そうした事柄は秘密裏におこなわれ、魔術師たちは非常に恐れられた存在だったのです。しかし、ルネサンス期には、魔術は黒魔術だとか邪悪なものと切り離されて作り変えられ、アンダーグラウンドからアッパーグラウンドに登場してくるのです。これにはビザンツ帝国から大量の文書が西側へと流入してくることが理由のひとつなのだ、イェイツは言います。フィチーノによるヘルメス・トリスメギストスの翻訳とその受容もその一例なのですね。エジプトの魔術は古来より最も強い暗黒の魔術とされていたそうですが、ルネサンスの魔術リヴァイヴァルはすっかりそれを明るい方向に持ってきてしまった……といったところで、第1章は終わりです。おつかれさまでした。





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イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #3

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今回は、第1章の続き「初期キリスト教の教父たちはヘルメス・トリスメギストスをどのように扱っていたのか」について語っている部分からはじめます。イェイツは3世紀のラクタンティウスによって書かれたものと、4世紀のアウグスティヌスによって書かれたものをとりあげています。まずはラクタンティウスについて。ヘルメスという人物がたくさんの書物を残した偉大なエジプトの賢者である、という認識が生まれていたということについては前回見たとおりです。彼もまたこの認識を継承していて『信教提要(Institutes)』という本ではヘルメスについて何度も言及していたようです。彼はヘルメスを異教徒に対してキリスト教の真理を伝えるために有効なものとして考えたんだとか。





ラクタンティウスは『アスクレピウス』のなかにある「神の息子」という表現に着目し、神をキリスト教のように「父親」として捉え、キリストの到来を予言するものとして解釈していました。しかし、実際にはこの「神の息子」という表現はデミウルゴス(プラトンの『ティマイオス』にも出てくる言葉です。元来は『製作者』的な意味で『ティマイオス』においては世界を想像したものを指し示す言葉として扱われる)を表したものだったそうです。つまりは、ここでも誤読が発生しているのですね。また、この「神の息子」という言葉は『アスクレピウス』だけでなく『ポイマンドレス』という本でも登場し、そこでは世界を想像するための言葉を指し示す言葉という風になっている。こうした解釈によってラクタンティウスは、ヘルメスをキリストの到来を予言するものと見なしていた、とイェイツは言います。もともとこのラクタンティウスは異教徒に対して厳しく、偶像崇拝を批難し、また悪魔というものも堕天使たちによる魔法によって遣わされたものだ、という風に考えていたのですが、ヘルメスだけは特別だったようですね。キリスト教徒であり続けることを願ったルネサンスの魔術師たちがラクタンティウスを好ましい教父と考えたのも、こうした理由があった、というのがイェイツの説明です。





一方、アウグスティヌスのほうはそんなに単純ではありませんでした。彼は『神の国(De Civitate Dei)』のなかでヘルメスは偶像崇拝に関係している、として批難していたようです(そこでは『アスクレピウス』のなかに登場する、エジプト人がその魔術によって神々の像へと命を与える様子が引用されているんだとか)。アウグスティヌスは魔術全般に対して攻撃をしていたそうですが、そのなかでもアプレイウスの精霊についての見方に警戒していたそうです。123年頃に生まれたというアプレイウスは、大変高名な教養人でエジプトの魔術についても詳しかった人物。彼の書いたものでは『黄金のろば』という小説があり(岩波文庫にも入っています)、この内容は主人公が悪いことをした罰でロバに姿を変えられてしまい、エジプトのイシスのところまで旅をして人間に戻してしまう、というもの。こういうのが異教的で敬虔さを欠いたものと見なされた、というわけですね。なお、このアプレイウス、『アスクレピウス』の翻訳者(ギリシャ語からラテン語への)と噂されていたそうです。しかし、それが本当かどうかは確かではない。少なくともその仕事はアプレイウスにとって魅力的なものであっただろう、とイェイツは言っています。





ただ、なんだかんだ言いつつアウグスティヌスもヘルメスがキリスト教の到来を予言していたことは否定していなかったそうです。それどころか「ギリシャの賢人や哲学者よりもずっと昔の」権威としてヘルメスに重きをおいていたんだとか。また、モーセの時代から三世代にわたる系譜学のなかにヘルメスを置き、ヘルメスはモーセよりもあとの人なのか? それとも同時代だったのか? またもやモーセより前の人だったのか? と議論を提起していたそうです(まるで、好きな人だからこそイジわるしちゃうような態度ですね)。





ここまでラクタンティウスとアウグスティヌスについて見てきましたが、イェイツ曰く、昔の教父には他にもヘルメス主義を学んでいた人がいたそうです。このうちアレクサンドリアのクレメンスという人は「ヘルメスの本は42冊あり、そのうち36冊がエジプト人の哲学関するもの残りの6冊は医学に関するものだ」と述べています。しかし、これらの多くは後世に伝えられておりません。ルネサンス期のヘルメス読者たちもまた、残された『アスクレピウス』や『ヘルメス文書』を聖なる書物群の重要な生き残りとして信じていた、とのこと。長くなって参りました。今回はここまでにいたします。次回からようやく15世紀のお話に入ります! メディチ家とか出てくるよ!





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イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #2

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さて、予告どおり今回は本文に入りまして第1章「ヘルメス・トリスメギストス(Hermes Trismegistus)」について見ていきましょう。この章ではヘルメス・トリスメギストスとは何者か、どんなことをした人物なのか、そしてこの人物がルネサンス期までに西欧においてどのように扱われてきたのか、についてまとめられています。その前置きとしてイェイツは、ルネサンスとは一体どのような価値観の運動だったのか、について触れている。イェイツは、歴史の発展とはつねに過去を振り返ることで前進していくものである(そこでは原始的な生物がいきなり劇的に進化する、みたいなことはおこらない)、という風に言っているのですが、これはルネサンスという運動にも当てはまるのです。古いものは良いものだ、大昔は自分たちよりも人間味が溢れていたんだねえ……と昔のテキストを再評価し、自分たちの発展を生み出していく、みたいなね。





こうした価値観にもとづく運動は、ルネサンスの魔術師たちにも言えることでした。彼らは初期キリスト教の書物に立ち返ったりして「魔術の本当の黄金期」を復興しようとしたんだそう。彼らが参照した書物は、実際には2, 3世紀に書かれたものであり、その辺の認識は間違っていたらしいんだけど、その初期キリスト教の教義にはグノーシス派的なギリシャ哲学の影響があったりしたんだと。ルネサンスの魔術師は、エジプトの叡智やらヘブライの預言者、プラトンとかギリシャ哲学に立ち返ったわけではなかったのだけれども、色々と影響はあったみたい。





さて、ここからヘルメスについてのお話のはじまり。エジプトの神さまであるトート神は知恵を司る神さまであってギリシャ人からはヘルメスと同一視され「三重に偉大」というあだ名をつけられていた。これがローマ時代に入るとヘルメスとメルクリウスとトートが同一視され始める。キケロの『神々の本性について(De natura deorum)』によれば、メルクリウスは5人いて、その5人目がアルゴスを打ち倒しエジプトを解放して、法律と文字を授けた、と説明されているのだそう。このとき、メルクリウスの五男坊はそのエジプト名である「トート」という名前を得たんだって。





また、ギリシャにおいてはヘルメス・トリスメギストスの名前のもとに膨大な量の文書が作られていたそうです。それらは占星術やオカルト科学についてのもの。そこには哲学関連の文章も含まれていて『アスクレピウス(Asclepius)』や『ヘルメス文書(Corpus Hermeticum)』と呼ばれているものは、ヘルメス主義の最も重要なものとして伝わっている。でもこれらも2世紀から4世紀ぐらいに書かれたものであってエジプト時代から残るホンモノはごく限られているらしい。でも、そこにはホントのエジプトでの信仰の影響もいくぶんあって全智のエジプトの神官が書いたものではないにせよ、おそらく当時のギリシャ人が書いたであろうことは間違いない。興味深いのはこのテキストに、当時の宗教や哲学もいろいろ混じっている、という点で。プラトニズムやらストイシズムやら、ユダヤ教やらペルシャの影響さえ認めるんだとか。こういうものをルネサンスの人は神話的人物であるヘルメスが書いたもの、と信じ込んでいたんですね。





これらの文書が作られた2世紀ぐらいの空気感をイェイツは、Festugièreによる『La Révélation d'Hermès Trismègiste(ヘルメス・トリスメギストスの発見、的な意味で良いのかな)』を引きながら説明しています。当時はバリバリのパックス・ロマーナ。活発な侵略戦争により帝国内は色んな人種・文化がおりました。このとき帝国内は厳しい法律で統治されおり、文化的にはグレコローマンが優勢。しかしギリシャ哲学のほうは「ギリシャ哲学とか進歩ないよな……」という風にちょっと落ち目だったそうで。理屈ばっかり捏ねててさぁ、みたいなね。こうした停滞を打破するために「大事なのは理由じゃない、人間の本性だべ!」という人が盛り上がってきて、神秘的なもの、魔術的なものへの関心が高まった、というわけ。





「直観によってこそ、神を理解することができるんだよ!」というこうした動きはグノーシス的だと言います。ヘルメスの書物は師であるヘルメスがその弟子に教えを授け、その結果、エクスタシーに達して世界の予見を得る、というものが多いらしいのですが、これはそうした潮流が反映されたものだ、とされているそうです。これらはギリシャ人の思考へとまたたくまに、そして秘密裏に広まっていきます。ヘルメス主義のなかでそれは寺院を持たない宗教的哲学、哲学的宗教へと発展したのです。こうした発展はローマ帝国は当時宗教的には肝要だったからこそ生まれた、とされています。また当時のローマの知識人のあいだでは一種のエジプト・ブームがあったそう(エジプトこそすべての知の源! ギリシャの哲学者もエジプトの神官に会いに旅をした! とか)。これもエジプトの魔術とヘルメス主義が同一視される要因となっていた模様。





以上の説明により、どのようにしてヘルメスの書物がルネサンスの魔術師たちに「最古のエジプトの叡智と哲学と魔術を、神秘的かつ明白に説明する書物」として読まれるに至ったか、について理解できるハズ、とイェイツは言います。ものすごく簡単にいうと時間がたったらいろいろ混じって、いろいろ尾ひれがついちゃってエラいことになっていた……という感じなのでしょう。ルネサンス期の読者たちは、プラトンやその他偉大な哲学者たちもヘルメスから派生したのであーる、と主張していたそうですから。しかし、「この大きな歴史的過ちが驚くべき結果を引き起こしたのだった」とイェイツは話を進めます(ゴクリ)。





だいぶ長くなってきました。まだ一章の途中ですが、続きは次回にいたしましょう。次回は初期キリスト教の教父たちがヘルメスについて書いていたことに触れていくところからです。





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サントリー サマーフェスティバル2011〈Music Today〉〈映像と音楽〉管弦楽 @サントリーホール 大ホール

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アルノルト・シェーンベルク:映画の一場面への伴奏音楽(音楽のみ、1929-30)


アンドレイ・フルジャノフスキー(映像) × アルフレート・シュニトケ:グラス・ハーモニカ(1968年)(35mmフィルム、カラー)映像・世界初公開、音楽・日本初演


ビル・ヴィオラ(映像) × エドガー・ヴァレーズ:砂漠 15人奏者、打楽器奏者とテープのための(1994年製作、1950-54作曲)(35mmフィルム、カラー)映像・日本初公開





指揮:秋山和慶


管弦楽:東京交響楽団



サントリー・ホール夏の恒例となっている現代音楽祭「サマーフェスティバル」。本年のテーマのひとつは「映像と音楽」、そのオープニング・コンサートに足を運んだ。本日のプログラムには、架空の映画のために作られた映画音楽(シェーンベルク)、映像と音楽を共同作業で制作したが《時代》によって公開されなかった作品(フルジャノフスキー × シュニトケ)、既存の音楽に映像をつけた作品(ビル・ヴィオラ × ヴァレーズ)とそれぞれ性格が異なるものが並んでいる。生のオーケストラの演奏自体、視覚的コンテンツ性が高いものであると思うし、映像と音楽の食い合わせ、についても議論になるところだろう。全面的に大賛成、最高、と賛辞できる内容ではなかったがさまざまな問題提起を投げかける好企画であったと思う。





まずはシェーンベルクの作品。かなり珍しい曲だったと思うが、演奏のクオリティにちょっとした疑問が生じてしまい、単に珍曲披露で終わってしまった感がある。そもそもの編成的な問題があり音量の物足りなさがあって余計にパッとしない印象を持った。前述の通りこの曲は架空の映画のために書かれた音楽。後世になってストローブ=ユイレがこの作品に「社会性の強い映像」をつけたと言うが、この12音技法によって書かれた不穏な響きを持つ作品が、「社会性」へと接続されることはいささか短絡的なものに思える(その映像を未見の状態で述べる意見ではないが)。今日の耳では非常にロマンティックな作品としても聴くことができるだろうし(《室内交響曲第1番》の響きを想起させられた)、自身でも絵筆を取り、画家との交流もあったシェーンベルクがどのようなイメージを音楽に与えていたのか。それを再構成するような映像が今日の場で与えられても良かったのではないか。





そしてフルジャノフスキー × シュニトケのアニメーションだが、これは間違いなく本日のハイライトと言って良いだろう。演奏の前に映像を制作したフルジャノフスキー監督自らが壇上にあがり、いくつか作品を制作した当時のソ連の状況などについてトークがあった。体制による検閲があり修正を要請されたこと、それでも公開が許可されなかったこと。また、前衛と見なされた芸術家の不遇な状況(そうした芸術に興味を持っている、と思われたくないため、聴衆もなかなかそうした芸術に触れられなかった)。こうした表現への抑圧は、ショスタコーヴィチに代表されるソ連の作曲家に親しみを持つ者であれば聞くまでもないことだったかもしれない。しかし、作品はそうした《状況に対する知識》を超えて感情に迫ってくるものだった。





ルネサンス絵画やフランドル派、あるいはシュールレアリスムの画家の作品のコラージュによって織りなされたアニメーションは、スターリン時代の監視社会への告発が寓意されるとともに、宗教的な寓意(救世主の復活)も込められたカタストロフである。だが、その表現は単に反体制というわけではない。シャガールやキリコ、アルチンボルド、ボスなどの異形の表象は、聖者によって清められる対象として描かれる。そうして現れるのは肉感溢れる身体であり、古典的な美しさなのである。この表現には単に反共、というだけでない複雑な意味が込められているように思われた。そして、これらのコラージュにシュニトケの多様式主義が見事にマッチするのだから素晴らしい。チェレスタやハープの使い方には後年の《合奏協奏曲第1番》とのつながりを見いだせるし、とても興味深い作品。映像の物語的展開と、音楽が絶妙に噛み合った仕事だったと思う。演奏後、顔を真っ赤にしたフルジャノフスキーがシュニトケのスコアを高く掲げた瞬間に、こちらにもこみ上げるものがあった。





だが、休憩後のビル・ヴィオラとヴァレーズのコラボレーションは、はっきり言ってダメなコラボレーションの典型だったように思える。まず、ビル・ヴィオラの作品のインスタレーション性というか、反復性がヴァレーズの音楽とものすごく食い合わせが悪い。むしろこの映像ならスティーヴ・ライヒの《砂漠の音楽》だったのでは。水や火、土、空気(空)などの「元素」の映像やハイスピード撮影を使用した視覚のイリュージョンは、ビル・ヴィオラらしいのだが音楽と組み合わさって何かがあったか、というと何もない。これをアンサンブル・モデルンが依頼し、日本以外では何度も再演されている、というのだから驚きだ(作家と作曲家のネーム・ヴァリューだけで演奏されているようにしか思えない)。これだったら美術館や映画館などで、大きなスクリーンでデカデカと大きく映像を投射して、シャイーが録音した全集の音源を同時再生しておけば済む話だろう。これと対照的にフルジャノフスキーとシュニトケの作品は、生のオーケストラによる演奏の一回性の迫力が、アニメーション映像の反復性を乗り越えて、今・ここで演奏されている凄みを生み出していた。コンサート・ホールで聴くのであれば、私はそうしたものを望みたいと思った。






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(映像はスティーヴ・ライヒの《砂漠の音楽》)





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立川談志 『人生、成り行き 談志一代記』

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立川談春の『赤めだか』*1が話題書となったのもかなり以前のこと、という気もしますが、弟子の本があれだけ面白いのだから立川流の家元の本はさらに面白いのだろう……、と思いきや、これはちょっと拍子抜け。それもこれも聞き手の「演芸評論家」、吉川潮という人物が悪い。談志の語り口は猛スピードで駆け抜けていく、荒馬のようなあの調子が文面からも伝わってくるのですが、合間にはいる聞き手のヨイショや相づちにまったくリズム感がなく、これは本当に残念な本だと思います。とくに落語協会分裂騒動のあたり。聞き手は、あの事件の真相はどうだったのか、などとゴシップ的なところを突っ込もうとするのですが、そんなこと果たして誰のためになるのでしょうか? 演芸評論家を名乗るのであれば、もう少し、落語によった話を聞いたら良いのでは? と端的に思いました。元は『小説新潮』に掲載された連載から本になったものだそうですが、連載当時だって談志は70歳を超えて「人生の整理にかかっている」時期だったわけです。それが、半分近く、議員時代や騒動のネタばらしに時間が裂かれていて良かったのでしょうか。また、この評論家の先生の嫌なところといえば「自分は《分かっている》が、ほかの客は単にきどっているだけでなにも《分かっていない》」という高慢な態度が各所に見えるところです。これは本当にヒドい本だと思う。談志のブランドだけで文庫化までされている、という感じで、本の内容は弟子の『赤めだか』のほうがずっと面白い。





読んでいて面白いのは、談志が志ん朝に真打昇進を抜かされる直前までぐらいの話まででしょう。ここは戦時中に生まれて、芸の道へと進み、才能を開花させていくまでのビルドゥングロマンス的な語りが聞き手の邪魔無しで記録されている。ホントにそれ以外は読み捨て上等、な内容だと思います。






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BOZO(津上研太 Birthday Live!) @新宿ピットイン

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私が聴いていたBOZOのアルバムは上記の二枚(ファーストとセカンド)。その後のアルバムは不勉強ながら聴いておらず(聴いたアルバムはどれも大好き……ですがファーストはサックスの録音がペラい感じがするのが残念)ライヴを観たこともなかったんですけれど、たまたまタイミングがあったのでリーダーである津上研太(サックス)の誕生日ライヴという記念すべき日に観にいくことができました――不要かもしれませんが、他のメンバーについてご紹介しておきます。南博(ピアノ)、水谷浩章(ベース)、外山明(ドラム)……と錚々たるメンツ。とにかく腕達者・芸達者で鳴らしたミュージシャンによる新主流派/フュージョン以降の新しいジャズ・バンドとでもいえましょうか。この日は、ゲストに類家心平(トランペット)、市野元彦(ギター)が入っていました。





前半は外山明のドラムが全開。南博と水谷浩章が作るリズムに乗じて、あの浮いたような、ハマっていないようなドラミングが炸裂していました(体幹だけが異様にしっかりとした状態で、手足だけが自由に動き回るあの演奏姿は、マリオネットっぽくてちょっと怖い)。これをライヴで聴いて、思いついたのですけれど、外山のあのドラムはアフロ化したポール・モチアン(ビル・エヴァンス・トリオのときの)的なものなんでしょうか。グルーヴ、とかじゃないですよね。いや、あれをグルーヴとして捉えられないのは私のリズム・耳の悪さに起因するかもしれないですけれど。後半はもう少しジャズ・ドラムっぽかったと思われましたが、最後に左手にカウベルみたいなヤツをもって、指にはめた金属でカチカチ鳴らすヤツを使用したところから再燃。リズム地獄に殺されかけました。でもこれって、南博と水谷浩章がいてから映えるものなのでしょうね。流麗さと重さがベースにあるから、ドラムとうまく音のレイヤーができるような。





津上・類家によるソロは、とにかく燃えました。こうしてスポーティーな感覚ギリギリで、しかもセクシーで……というソロを経験してしまうと、なんかもうジャズは録音で聴かなくても良いんじゃないか(だって生で、録音以上のものが聴けるんだし)などと世迷い言をつぶやきたくなるのですが(舌の根も乾かぬうちにユニオンでCD買っちゃうクセに)、それぐらい強い思いに駆られるようなライヴは記憶にガッシリと刻まれていますから、思い出として反芻されるのですね。妄想的録音、というか。もちろん細部を完璧に記憶できるほどの耳も、記憶力も持ち合わせていないんですが「ああ、あれは良い演奏だったなあ」とか「素敵なソロだったなあ」と抽象化されて記憶に残る。そうしたものがふとした瞬間に思い出されたりするのは、なかなか楽しいことでございます。CDなんかよりも、思い出のなかの演奏が一番美しい、と思ったりなんかして……(まるで、マドレーヌをお茶に浸したりする作家のような発言……)。





市野元彦という方は、すみません、本日初めて名前をお聞きしました。津上・類家のあとのソロでは温度差を感じてしまい、ちょっと乗り切れない部分もありましたが、ピアノが休んでいる曲でのバッキングや、落ち着いたムードになってきたときのソロなどはとても良かったです。そう、ジャズ・ギターって渡辺香津美 みたいなああいうのだけじゃないんだ! こういうマロいのもジャズ・ギターなんだ! と思いました。MySpaceで聴ける曲も素敵なので、改めて聴いてみたいです。





各人のソロが終わるとしかるべきタイミングで拍手が入ったり、ソロのクライマックスのところでしかるべきタイミングで歓声があがったり、また休憩時間中に知り合い同士でデカい声で話し合っているのが軽くウザかったり、とジャズ・マナーが敷かれたライヴに出かけるのは考えてみたらとても久しぶりなことだったかもしれません。ああ、これ、これ、これが東京のライヴ・ハウスで聴くジャズの感じじゃない? と思って、なんとなく趣き深い。人によってはこういうシキタリめいた感じがイヤだ、という人もいるかもしれませんが、なかなか楽しいものです。この素晴らしいレヴェルの演奏が余裕で座って聴けてしまうのですから、オジサンたちには頑張って党派性・排他性を発揮していただき、今後とも古き良きジャズ文化を守っていただきたい(嘘)。





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大友良英/大友良英サウンドトラックス vol.1 NHK 向田邦子ドラマ「胡桃の部屋」

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「胡桃の部屋」大友良英サウンドトラックスVol.1
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大友良英が音楽を担当しているNHKのドラマ「胡桃の部屋」のサウンドトラックが発売されています。例によってドラマのほうはちゃんとチェックできていないのですが(ちょっとだけみたら、ある日父親が失踪して別な若い女と同棲していた……という向田邦子っぽいイヤ~な感じの家庭劇っぽかった。『阿修羅のごとく』もそんな話でしたよね)『クライマーズ・ハイ』から続く、大友良英 × NHKのコラボレーションの恒例と言いましょうか、現代日本のオルタナティヴ-ジャズ界隈で存在感を放っているミュージシャンが多数参加した注目音源となっています。





主題歌のヴォーカルは「その街のこども」に引き続き、阿部芙蓉美。ウィスパー・ヴォイスの女性ミュージシャン……といえば今日において珍しくもなんともないと思われるのですが、柔らかい肌触りの奥に力強いものを感じさせる阿部芙蓉美の声はとても印象的です。たとえるならば、メゾピアノとメゾフォルテのちょうど中間を揺らいでいるような(これはカヒミ・カリィをピアニッシモとして考えた場合、ですが)感じ。





メロディの存在を強く感じさせる楽曲のなかで、際立っているのは深川バロン倶楽部が演奏するガムランがフィーチャーされているトラック。ガムランでサントラ、といえばすぐさま芸能山城組 × 『AKIRA』が連想され、頭のなかで「ダッ、ダァッ、ヒィー、ハァー」が鳴り響いてしまう大友克洋脳のワタクシですが、こちらの大友も負けてはいない。ガムランと千住宗臣のスクエアなドラムが前景として、ギター・ノイズが流れる「午前0時の街」は超クール。大友のギター・ノイズの演奏に注目すれば「見えない戦い」も、静謐なアンビエンスに楔のように打たれる短いギター・ノイズがとても美しいです。





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ジョルジ・ベンが熱いんだ!

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サンバ・エスケーマ・ノーヴォ
ジョルジ・ベン
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サンバ・ホッキ(Samba Rock)のパイオニアとして高い評価を得ているジョルジ・ベン。彼の名前はジルベルト・ジルとの共演盤*1で初めて知りましたが、ジョルジ・ベンとジルベルト・ジル、双方ともにアフリカ系ブラジル人でありながら進んだ方向がまるで違うところが面白いと思います。ジルベルト・ジルは70年代後半からレゲエを取り入れたりするんですけれども、ジョルジ・ベンのほうはファンクの方面にいく、というこの違い。どちらも黒い方向に向かうのですが、まず邦楽からして違うわけです。しかし、そのように彼らが自身のルーツへと歩みを進めるのは70年代になってからの話。ジョルジ・ベンのデビュー盤となった1963年の『Samba Esquema Novo』(「サンバの新しい体制」という意味)を聴くと、その後に彼が進む道とはまるで違ったブラジリアン・サウンドが展開されます。彼にしても、ジルベルト・ジルにしても、ミルトン・ナシメントにしても、アフリカ系ブラジル人の歌い手ですが、とくに歌い方には「黒っぽさ」というのは感じられない、と思うのですがどうでしょうか? むしろ、「黒っぽい歌い方」「黒っぽい声」とは、人種的なものよりも言語に依存するのではないか、と考えてしまいます。なお、このアルバムに収録された「Mas Que Nada」は、セルジオ・メンデスによる演奏が有名ですね。ソラミミにも採用されています。






アフリカ・ブラジル
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ジョルジ・ベン
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さて、時代はいきなり1976年に吹っ飛びまして『Africa Brasil』へ。もうこのタイトルからお分かりの通り、この時点でジョルジ・ベンの趣味・趣向はブラジルとアフリカをつなぐ方向を目指している。かつ、このアルバムにはヒット曲「Taj Mahal」も収録されている。アフリカ、ブラジル、インドがひとつのアルバムのなかでつながる! というとんでもない世界観にびっくりしてしまいますね(「Taj Mahal」の演奏は、前年のジルベルト・ジルとのアルバムでの10分を超えるバージョンのほうがずっと良いんですが)。ねばつくようなリズムと、鋭角的なブラジリアン・パーカッションとのコントラストが素晴らしいのですが、これを聴いてるとスライやJBの影響のすごさを改めて感じてしまわなくもないです。しかし、ジョルジ・ベンの黒さとはスライやJBのように煽情感をフルスロットルにしているわけではない。同じ《黒人》なのに? そこには、大いなる差別的な誤解があるでしょうけれど、そうした疑問や不思議のなかにブラジルの奥深さがあるのだと思っています。






Salve Simpatia(紙ジャケット仕様)
ジョルジ・ベン
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1979年の『Salve Simpatia』(なんてこった! アマゾンにジャケット写真がないじゃないか! このアルバムのジョルジ・ベンのものすごい性豪っぽい感じの顔を観ていただきたかったのに!!)になると、サンバ・ホッキの作風はかなり確定されてきている感じ。もうこのアルバムは一曲目からギターのカッティングからはじまるんですけれど、そのコード感は一聴すると「これはサンバなのか? ファンクなのか?」というのがよくわからない。しかし、そのよくわからなさが素晴らしい、という。しかし、このブラスの入り方やざっくりと色男方面へと転身しているのには、ジョニー・ギター・ワトソンとかあのへんの過剰なエロ黒があったりするんでは? と想像してしまう(それぐらいこのアルバムのジャケのジョルジ・ベンはギラギラしてるのでGoogle画像検索Now!!)






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8.15 フェスティバルFUKUSHIMA!に参加していました

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8月15日に福島で「8.15 フェスティバルFUKUSHIMA!」という野外フェスティバルが開催されました。このイベントは四季の里という公園と、あづま球場というスタジアムの2か所を使用した大規模なものです。この規模のイベントが福島で開催されるのははじめてだったのではないでしょうか。イベントについて知ったのは、地震のあとにあった新宿PIT INNでの大友さんのライヴのとき。MCで大友さんは「遠藤ミチロウさんから電話があって『大友くん! 8月15日に福島でフェスをやろうよ!』と言われた」と語っていました。そのときはイベントの主催となった「プロジェクトFUKUSHIMA!」のプロジェクト・メンバーに自分の名前が加わるとは想像していませんでしたが、縁があってそういう事態となり、8月13-15日までイベントの準備や会場スタッフのお手伝いをしてきました。フェスティバルというと華やかなお祭り、というイメージを持たれるかもしれませんが、その華やかな舞台を支えているのはひたすら大変で、地味で、疲れる事務仕事。本業を抱えながらこれらの激務を処理していた福島のスタッフから比べれば、本当にわずかなお手伝いしかできませんでしたが、貴重な体験ができて良かった、と思います。





そもそもボランティアに参加する、という経験自体、自分にとってははじめてのことでした。むしろ、これまではボランティアには消極的な態度・意見を持っていたと思います。「ボランティアで貢献するより、自分は自分の本業を一生懸命やって、それで社会に貢献するよ」というような。そこには「俺がやらなくても、誰かがやってくれる(俺には別なやれることがある)」という考えがある。でも、一旦ボランティアに参加してみると、逆に「ここは俺がやらないと、誰もやってくれない」と思いながら仕事できる瞬間がある。これは不思議でした。ボランティア・スタッフの数が不足していた、という現状がそういう心理に作用していたのかもしれませんが、普段は絶対やらないし、やりたくないグチャグチャに捨てられたゴミ箱のなかの分別とか汚れ仕事も気にせず取り組めるように思えたのですね。ボランティアに取り組んでいるあいだだけは、異様に徳の高い人間になる、みたいな。





でも、その一方で、そうしたグチャグチャに捨てられたゴミ箱や、好き勝手な場所で煙草を吸う人の姿には複雑な気持ちにさせられました。「自分ひとりぐらい良いだろう」という気持ちを見せられてしまった気がします。そうした人たちを糾弾するつもりはありません。みんながみんな善人であって、ルールを守ってくれるような世の中なんかあり得ない、と思いますし。しかし、ルールを守れなかった人が残していったものを処理する立場にたってみると、人の振り見て我が振り……といった具合に自分の普段の振る舞いを反省したくなります。「自分ひとりぐらい……」という気持ちでおこなわれる違反は、誰かがその尻拭いをしなくてはならない、のです。その誰かの気持ちを考えたらもっともっとキレイなイベントができたんじゃないかな、と思います。





「音楽やアートの役目のひとつは、現実とどう向き合うかという視点を人々とともに考えるところにあるのではないでしょうか」という大友さんの言葉にあるように、来場者もひとりの参加者として現実を考えるためのイベントだったはずなのに、まじまじと嫌な現実を見せられてしまったような気分になります。もちろん、そうした完全《お客さんモード》の人たちは一部分だったのでしょうけれど「自分ひとりぐらい良いだろう」感は、原発の問題を自分の責任として考えられない人々の姿とリンクして考えられてしまって、余計に重かったり。





とはいえ、無事にイベントが終わって良かったです。ライヴのほうはほとんど観れませんでしたが断片的に聴くことのできた、即興オーケストラのすさまじいエネルギーや、YMOのカヴァー、ムーンママ、向井秀徳、静寂などはどれもハートを揺さぶるパフォーマンスだった。プロジェクトはこれが終わりではなく、むしろはじまり。今後自分がどういう形で関わっていけるかわかりませんが、できる限りのお手伝いはしていきたいと思います。





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イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #1

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イギリスの歴史研究者、フランセス・イェイツ(1899-1981)の『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統(Giordano Buruno and Hermetic Tradition)』は近年静かに盛り上がりを見せているインテレクチュアル・ヒストリーの名著のひとつと言われています。ジョルダーノ・ブルーノと、16世紀ぐらいまで絶大な影響をもっていたヘルメス主義の関係をひもとくこの著作が1964年に出版されると、それまで知る人ぞ知る存在であったイェイツは国際的な評価を得ることになったそうです。こうしたところからイェイツ的にも記念碑的な著作と言っても良いのでしょう。そんな有名な本だったのですが、邦訳は永らく出ておらず『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』として昨年になってようやく刊行されています。



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しかし、それが10500円というあまりにも……な価格。こうした分野の本に研究者でもない人が足を踏み入れるのだとしたらよっぽどな物好きかと思われますが、この出版不況の最中、物好きから搾取してやろう、という魂胆か! この守銭奴! と頭にきた私は原書で読んでやろう、と思い立ったのでした。原書は1800円以下。この価格差は冗談のようですね。このエントリのはじめに掲載している書影はなんかアマゾンのサンプル画像かと思いましたが、届いてみたらこのままの表紙だったのでちょっと驚いてしまいましたけれども(どのへんがブルーノと関係あるのだろうか)。



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こっちは冗談みたいな表紙のものの前の版みたい(出版社も違う)。デザインはちゃんとブルーノに絡んだものになっていますが(これは『記憶術』*1にもでてきましたね)値段もちょっと高いうえにヴァールブルク研究所に所属していたJ. B. トラップによるイントロダクションがついてないみたい。イェイツの伝記本の邦訳もすでに刊行されているようですが(『フランシス・イェイツとヘルメス的伝統』)、このイントロダクションはイェイツが『ジョルダーノ・ブルーノ……』を刊行するまでの経歴と(刊行時65歳ですからかなり遅咲きの人だった、と言えるのでしょう)刊行後の評価や影響などがコンパクトにまとめられているので、最初の一冊としてもありがたい。彼女がこの本を書くまでに受けた影響なども紹介されているのも興味深かったです。これは彼女自身による序文にもあるところですがカバラについてはG. G. ショーレムの著作から、またブルーノ以前のヘルメス主義者(ルネサンス人)については彼女の師匠格にあたるD. P. ウォーカーから学んでいたそうな。ショーレムもウォーカーにも邦訳があるので、後々読んでみたいところ。





本日は本の紹介と、イントロダクションについて触れました。本文については次回から改めて見ていきましょう。






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Mark Twain 『The Adventures of Tom Sawyer』

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The Adventures of Tom Sawyer (Penguin Classics)
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Penguin Classics
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言うまでもなく児童文学、ジュヴナイル文学の金字塔なわけでリスニングの教材に選択したから読んでみた*1だけのハズが、途中から「うわ~、これはあなどれないわ~」と驚かされました。わんぱく少年が家出したり、おばさんをだまくらかしたりするだけの話かと思ったら、サスペンスあり~の、サヴァイヴァルあり~の、恋愛あり~のでさまざまな物語的起伏に富んでいる。いや、マーク・トウェインってすごい作家だったのだなぁ、と大変感心しました。なにより子どもの残酷さや無垢さや、オトナからしたらナンセンスに思えてしまう感性・価値観が細かく描写されているところがグッとくる。例えば、トムがメアリーからジャックナイフを受け取るところ。トムにはそれで切ったりするものがあるわけではないのに、それを持ってるだけでなんか自分はカッコ良いんじゃないか、と思い込んでしまう、というのは『ああ! わかる~』という感じですよね。いや、大分に男の子的なものだと思いますが、無意味に長い枯れ枝だのを有り難がる感じ。これが進歩(悪化)すると、エアガンだのメリケンサックだのにいくのがオーソドックスな道……か、どうかはわかりません。しかし、19世紀の中頃のアメリカの少年の感性と、自分の子どもの頃の感性とにつながりを見いだせること自体、すごいことだなぁ、と思います。少年性って万国共通なんでしょうか。そういう方向に少年が向かわない文化圏があったらちょっと知りたいですね(貧しい国ならば少年性を発露させる前に労働へと参入しなければならない……という事情があるかもしれませんが……)。面白かった!






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映像はなんの前触れもなくラッシュの「トム・ソーヤー」。






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山下達郎/Ray Of Hope

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Ray Of Hope (初回限定盤)
山下達郎
ワーナーミュージック・ジャパン (2011-08-10)
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(現時点でのアマゾン売り上げランキング1位! そんな商品がこのブログで紹介されたのははじめてかも)まず一言申しあげておきたいのは今回の山下達郎の新譜、買えるなら初回限定盤を買った方が良い! ということ。限定盤には80年代・90年代のライヴ音源が収録されたボーナス・ディスクがついてくるんですが、これがホントにすごい音源で。とくに85年の音源は、当時32歳の山下達郎の天使的、かつ圧倒的な歌唱力と声の瑞々しさが素晴らしくド肝を抜かれました。ド肝が自分の内臓のどの器官を示しているのかはわかりませんが……。




ネット上にはこんな記事もでており、アルバムを聴く前に読んでしまって甚だしく後悔したものですけれど、さすが菊地成孔、というか記事自体はとても面白かった。菊地はエイジングという文脈で本作を語ろうとしています。で、その老いというのは前述の1985年のライヴ音源と比べても感じられる点なのかと。はっきり言ってこの時期の声の輝きは、同時に収録された90年代の音源と比べてもスゴいんですよね。精神的な老いはある日突然にやってくるのかもしれないけれど、肉体的にはやはり毎日老いていってしまう。しかし、それは170キロの球を投げる人が150キロしか投げられなくなった、ぐらいの世界の話。音のクオリティは、商品性と芸術性を併せ持つものとして通用する「いつもの」レベルです。こうした山下達郎の評価はもはや揺るぎないものと言っても良いでしょう。





前述の記事では、山下達郎とファンの箱船性についての言及も興味深いものです。これは山下達郎の歌詞の世界とも親和性があるように感じられました。今年は大滝詠一の『ロンバケ』30周年ということで再発盤が出ていましたが、そこで聞くことのできる松本隆の歌詞と比較すれば、あきらかに山下達郎の歌詞には世界の閉じがある。「薄く切ったオレンジをアイスティーに浮かべて……」(「カナリア諸島にて」)と松本隆が外の世界の描写を詩的に切り出してくるのに対して、山下達郎の場合、風景の描写は内面のメタファーとして持ち出されている、と。ひとつの達郎的小世界が一曲一曲のなかで展開される、と言っても良いのですが、これは聴き手をその世界に連れ込む、というよりかは、そうした世界の囲いのなかに閉じ込める、という表現のほうが適切かもしれません。箱船性と世界の閉じはその点でつながるのです。これが『サマーウォーズ』などのセカイ系とよく馴染むことは言うまでもないでしょう。





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荒木飛呂彦 『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』

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荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)
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集英社 (2011-06-17)
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何かを物語るときに、どのように語るか。その方法に関してはさまざまなスタイルがあるわけで、例えばその語り口や切り口、用いている術語体系によって批判理論とか、カルスタとか精神分析とかいろいろグループがございます。すでにいろんな人がいるわけですから、何を語るにしても独自の色を出すというのは難しい。荒木飛呂彦は、それを難なくやってみせているのですから、そこに痺れる憧れる。平易でまろやかな語り口、ほとんど何かの術語を用いずに日常的な言葉で映画の面白さを伝えきってしまう、この力量ははっきり言って驚愕(スタンドも月までぶっ飛ぶ)。未読の荒木飛呂彦ファンの方々にこの本のテイストを分かりやすく伝えるならば「単行本を開いたところの著者近影の下のコメント欄みたいなテイストで延々と映画を語ってる」とでも言えましょうか。私自身そんなに映画を観ない(とくにホラー映画は怖くて観れない)のですが、ホントに面白かった。





映画の紹介がジョジョのエピソードの元ネタばらしになっている箇所も面白いのですが、読み進めているうちに荒木飛呂彦の物語の作り方や世界構築の方法論が見えてくるのが興味深かったです。映画の評価軸が荒木飛呂彦の世界とリンクして読めるのですね。この世界観もまた独特で。何似ているか、といったらマニ教やヒンドゥー教あたりが適切かな、と思ってしまう。それはどういう世界なのか、以下少し私の言葉で表現しなおしてみますと、まず世界は一つの完結したものとして成り立っていて、過剰があれば増えすぎたものが減らされ、欠乏があれば足りないものが満たされる、この繰り返しによって世界は運動し、世界は変動しながらも完結したものとして存在し続ける、いわば潮の満ち引きのような世界の運動が物語を形作っている……みたいな感じ(あ、余計分かりにくいかも)。本書のなかでも語られるのですが、その世界の運動は運命とも換言でき、そしてこうした運命との戦いが物語を生むこともある。それが如実なのは、ジョジョ第5部のエピローグで語られたブチャラティの物語だったと思います。





各章ごとに挿入された書き下ろしのイラスト(取り上げられた映画のワンシーンをスケッチしたもの?)も楽しいです。荒木先生には雑誌で月一映画コラムを書いて欲しいですね。





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ウィリー・ヲゥーパー 『リアル・ブラジル音楽』

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リアル・ブラジル音楽
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音楽に関する本のジャンルのひとつに「ディスク・ガイド」というのがあります。これは俗にいう《名盤》をひたすら列挙していく本ですが、便利な反面なにか味気ないものを感じてしまうことがあります。どうしてその音楽が重要なのか、この人たちはどういう背景から登場したのか。ジャケット写真のわきに添えられた短い文章では、こうした音楽のコンテクストは説明しきれないからです。その味気なさをカタログ的な無味乾燥さと名付けることができるかもしれません。この『リアル・ブラジル音楽』はブラジル音楽のディスク・ガイドでありながら、従来のディスク・ガイドが持つ無味乾燥さを、まさにその音楽が生まれた背景を語ることによって乗り越えた名著ではないでしょうか。ブラジル音楽の本というだけでなく旅行ガイド的な側面もあれば、ブラジルの歴史についても学ぶことができる本書は、ブラジルという国を理解するためのツールとして音楽という方法が採用されているようにさえ思われました。





紹介されている音楽の幅は実に深く、MPBをひとつとってもかなり幅があって「これからこんなに掘り下げられる世界があるのか」という期待感を煽ってくれます。私がこれまで聴いてきたブラジル音楽など氷山の一角の上にのっかったロック・アイスぐらいのものであって、ものすごく多様で、さまざまなジャンルがある。しかし、そのジャンルも実は相互に絡み合っていて、一応区分けはされているのだが、あってないようなものとも言えるそう。このあたりの多様性が、ブラジルの文化的多様性のリンクしてくるのですね。この雑多さはブラジル固有のものなのかもしれません。例えば、日本だと演歌を聴いている人と、コーネリアスを聴いている人はあんまりいないじゃないですか(岸野雄一とかそういう人に限られてきますよね)。ジャンルのあいだに断絶というか区切りがある。でも、ブラジルだとそういうのが希薄で、むしろ、地域によって流行ってる音楽が違ったりするんだとか。日本ではそういうのもあんまりないですよね。東京で流行ってるものは名古屋でも、仙台でも知られてるでしょう。でも、ブラジルは違う。面白い国だなぁ、とますます興味が湧いてきます。





また、アイルト・モレイラなどのブラジル国外で活躍する著名なミュージシャンがブラジル国内ではほぼ無名である、という話(理由:ブラジル人はインストものを聴かないから)も意外でとても面白かったです。あとブラジルの平均年齢って29歳ぐらいなんだって。ブラジルの平均と自分は大体同世代なんですね(ちなみに平均43歳ぐらい)。ブラジルはこれから壮年期を謳歌する、ということなのかもしれません。それをリアルタイムで追っていくことができるのはちょっと楽しみかも。ポルトガル語もどっかのタイミングで始めたいです。ちなみに本書の著者は、日本人でウィリー・ヲゥーパーはペンネームだそうです。ブラジルのクラシックからメタルやヒップホップまで許容するすごい耳の持ち主だと思いました。尊敬。





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ゼンハイザー CX400-II

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Sennheiser カナル型ヘッドフォン CX 400-II BLACK
ゼンハイザー (2009-02-15)
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愛用していたゼンハイザーのCX300-IIが断線によりおなくなりになったので、イヤフォンを新調しました。新調にあたってはヨドバシカメラでいろいろ物色していたんですけれども、やはりゼンハイザーのイヤフォンが好きであることが判明し、それと同時にケータイでAmazonでの価格を調べたらゼンハイザーの製品の値段がどれも6割ほど安い。これは店舗で買うのがあほらしくなったので、その場でAmazonに注文しました。同じ機種でも良かったのですが、ひとつ上位機種のCX400-IIにしてみました。ゼンハイザーのヘッドフォンといえば、セミオープン式の密閉感のない広がりがある音が特徴的だと思うのですが、それはポータブル・プレイヤー用のイヤフォンでも引き継がれているように思われます。ほかのメーカーのカナル式イヤフォンだと、耳の穴のなかで鳴っている感じがするんだけれども、ゼンハイザー製品にはそれがない。もちろん、CX400-IIもそうした特徴が備わっていて、輪郭がハッキリして不自然じゃないゼンハイザー・サウンドが楽しめます。ただ、私の貧しい耳ではCX400-IIとCX300-IIの音の違いが分からないんですけどね。以下、箇条書きで違いを書いておきます。




  • CX400-IIはコードがY型コード(CX300-IIは首の後ろに右耳用のコードをまわすタイプ)

  • CX400-IIはコードの途中にボリューム調整がついてる


使い初めなのでエージングでまた音が変わってくるんでしょうが、長く使えると良いなぁ、と思います。前回のCX300-IIは一年半ほどで断線してしまいました。個人的にはこれぐらいが普通なのですが、CXシリーズが「II」にモデルチェンジする前のものはコードの皮膜がシリコンっぽい素材じゃなかったせいか(ビニールっぽくて硬かった)3年ぐらい使ってても平気だったんですよねえ。断線しても直して使えたら良いんですけど、なかなかやる気が(工具は持ってるけども)。こういうのを参考にすれば良いのでしょうか↓




ゼンハイザーのこのクラスの製品は、BOSEやSHUREの高級イヤフォンを買う勇気はないが、ちょっと良い音で聴きたい、という人にはおすすめです。





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柴山潔 『コンピュータアーキテクチャの基礎』

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コンピュータアーキテクチャの基礎
柴山 潔
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私がメインフレーマーで、かつ、COBOLerである、という告白をすると情報処理業界におつとめの方は「え、いまだにCOBOLなんかやってるの?」とか「まだCOBOLなんか残ってるんですか?」とビックリされることがあります。情報処理業界におつとめでない方のために補足しておきますと、COBOLというのは大昔にアメリカで作られた事務処理用のプログラミング言語で、金融機関のプログラムなんかは未だにこの言語で書かれてたりするんですよ~、とか言うと私のつとめている業界がだんだんまるわかりになってきてしまいますが、え~っと念のため、先日大障害を起こした銀行さんではございません(でも、あの障害の事後レポートを読んで『うわ~、絶対この現場にいたくね~』とものすごく実感してしまうぐらいにはそれなりに世界観が近い)。あと、メインフレーマーというのは、一台一億円ぐらいするスーパーコンピューターを使って仕事している人の総称です。ものすごくパワフルで、信頼性が高いマシンなんですが高価なので限られた業種でしか使われてません。ぶっちゃけ研究機関とか金融機関でしか持ってない。





日本の金融機関のシステム化がはじまったのが70年代のこと。当時は今と機械が違いますから紙のカードに穴あけたものがプログラムだったりして(会社を掃除してるとそういうのが出てきたりして、面白い)今では想像もつかない世界なんですが、そういう機械はさすがに残ってないので問題なし。ただ、大障害を起こしてる銀行さんにも関わりますけれど、80年代後半ぐらいのモノは未だに残ってたりして、そこが問題になってくる。一旦作られちゃったモノは資産になっちゃって、簡単には捨てられませんし、代わりを作ろうと思っても「今と同じように作ってほしい」と言われると「え、当時作った人じゃないからわかりませんよ!」となってしまい「じゃあ、今のを使おうか」となったりする。こうした資産は「レガシーシステム」と呼ばれていて、今後どうしていくのか、については業界で活発な議論が行われています。その多くは、大きなシステム屋さんが「ウチならこんな感じでスムーズにソリューションを提供しますよ!」という営業のお題目なのだと思いますが。





……と、メインフレーマーもダラダラと会社に飼われて過ごしているわけではないのですね。今後こういうのは変わっていくのだと思いますが(メインフレームで動くIBMのz/OSにはUNIXと互換性があるんだとかなんとか)しかし、現場の人間は「今後」とか言ってられないこともある。例えば、人的資産についても問題が出てくる。まだ景気がよくて、コンプライアンスとかが問題にならなかったころに、バリバリのプログラマー・設計者だった人たちは、ものすごい勢いでモノを作っていた、と聞きます。そうした人たちと、保守ベースに乗っかってきた人たちとでは、知識や技術に差がでてきてしまう。そして年月が経ち、システムのパイオニアが偉くなって別な部署の管理職になってしまったりすると、気がついたら自分の部署に技術者らしい技術者がいなくなったりするわけです。業務には詳しいけど、システムはぜんぜんわからない人しかいない、とかね。





『コンピュータアーキテクチャの基礎』という本は、情報工学系の大学生が一年生のときに読んだりする教科書として書かれたものだそうですが、こんな専門書を私が読んだのもまさにそうした現状に直面したからなのでした(ああ、長い前置きであった!)。気がついたら自分の師匠みたいな人が人事異動でいなくなってて、アセンブラやバイナリの話を質問する相手がいなくなってた! そのうえ、そういう方面に興味を持つ後輩が入ってきちゃった! となれば、自分で勉強するしかありません。コンピューターはどういう風に計算をおこなうのか、どういう風にデータを保持するのか、という基本的な動きは基本情報処理試験を受験する際にも勉強したことですが、試験なんか暗記ですから必要最低限の説明しかされてこなかったし、理解も浅かった。今、メインフレームで5年ほどの経験を積んで、ハードウェアとソフトウェアの境界線上の話を読むと断然理解度が違って面白かったです。





JavaとかRubyとかPerlとかの人には、あまり縁がない話だと思いますが(そうでもないのかな。でも偉い人はバイナリを意識したプログラミングをしろ! って言うよね)これを理解すれば、仕組みを説明できる、という快感を得られることは間違いありません。水道の仕組みが分からなくても水は飲めるし、TCP/IPの仕組みがわからなくてもYoutubeは観れます。なので、コンピューターの基本的な仕組みを理解してなくてもコンピューターは操作できるし、プログラムも作れてしまう。でも「仕組みが説明できないモノを作って、それでお金をもらって良いのか? それって技術者として正しい態度なの?」とか思ってしまうこともあるわけで、必須の読書ではないけれども、無駄な読書ではなかったかな、と思いました。





なお、この手の本の定石通り、コンピューターの歴史から話がはじまるのですが、ここも相当マニアックな記述があって面白かったですね。磁気ドラム(初期の記憶装置)とか、なにそれ、って感じですし、やはり、ジョン・フォン・ノイマンは偉大であるな、と思います。アインシュタインは物理学を変えたかもしれませんが、20世紀後半からの社会革新にはコンピューターがなくてはならなかったと思うのですが、そう考えるとアインシュタインよりもノイマンのほうが我々の生活に直で影響を与えているのでは? とも考えられる。そこで「僕らはみんなノイマンのこどもたちなんだ……」と白目でつぶやきたくなりました。





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Qluster/Fragen

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Fragen
Fragen
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Qluster
Bureau B (2011-06-07)
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クラスターといえばハンス・ヨアヒム・ローデリウスとディーター・メビウスのふたりによるドイツを電子音楽ユニット。この人たち、仲が良いのか悪いのか、2回も再結成していて昨年末にまた3度目の解散をおこなっています。その後、ローデリウスによって結成されたのがこの「Qluster」(Onnen Bockという人とのユニットです)。ローデリウスは、ここで「アコースティック楽器と電子楽器による即興演奏」という初期クラスターのコンセプトにたちかえる、というお題目が掲げているそうです。その作品の断片は彼らのSoundCloudでも聴くことがでるのですが、これがなかなかに素晴らしかったので(というか「え? ローデリウスが新譜だすの?」と聞いたら)買わずにはいられません。本来なら6月ぐらいには手に届くはずだったのですが、何の因果か到着が8月になってしまいましたけれども、やはり内容はハズれがない。





何が素晴らしいかって、初期クラスターの「なんか電子楽器でむちゃくちゃにやってみました」的な雰囲気が2011年に再現されているようなところですよ。クラスターといえば一般的にはイーノとコラボレートしたなんか和むような電子音楽を作る人たち、という認識がなされていると思われますが、初期は結構エグくて、初期タンジェリン・ドリームと似たようなサウンドなんですよね。不思議な音がピュンピュン飛び交ってる。あと結構ダラしなく楽器いじってるのをそのまま録音したみたいな……それを商品としてリリースしようと思ったのはなんか勢いとか大事だったのでは? と想像してしまうのですが、この『Fragen』はそうした電子楽器をイジってて楽しい感じが全快。さすがにノイズがボリボリ鳴ったりしないし、雰囲気は落ち着いていますが最高。どこに向けてこれが発信されているのか、誰に向けて発信されているのか見当もつかないジャンルレスなこの世界観は《電子音楽》としか呼びようがない境地でしょう。一曲だけフェネスのパクりみたいな曲があるんですが、そこはどうでもよろしい。まずは独特な音の世界に包まれるべきです。2011年の音楽とは思えない音がします。なお、このアルバムは三部作計画の一枚目とのこと。次がいつでるか分からないのですが楽しみですね。





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PythonとGAEでTwitter Botを作ってみました

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Pythonの勉強の一環として、Google App Engine(GAE)を利用したTwitter Botプログラムを作ってみました。第一弾は「山形浩生BOT」。こちらは山形浩生の公式サイトの2~5個ぐらいのURLにある文章を日本語形態素解析ソフト「MeCab」を利用してわかち書きし、マルコフ連鎖で新しい文章を生成するモノ。定期的にこんな発言をします。




基本的にはできあがるのは無内容な文章だけ。MeCabをGAE内では動かせなかったので、発言はあらかじめ生成した文章からランダムに選んでPostするようにしました。Postする部分と、文章を生成する部分のロジックはほとんどネット上で公開されている部分をコピペで。自分で作ったのは、山形浩生公式サイトを巡回して、URLのリストを作成したり、生成元になる文章を整形してあげるところがメイン。正規表現の勉強にもなりました。





プログラムのアイデアとしてはid:murashitくんのmurashittestの丸パクリです。murashitくんには「参考にするからソース・コードみせてよ」とお願いしたのですが「汚いから無理です!」と拒否られてるんですが、今、自分にもその気持ちが分かる! ソース公開って結構勇気がいって、自分の小説や音楽を人に見せるよりも恥ずかしいかも(ソースはどこが悪いか、とか明白だからですかねえ)。ググッてかき集められるようなソースを公開しても意味はないでしょ、そこは、と自己合理化しておきましょう。この程度のプログラムなら、Pythonを導入するところから初めて一日で実装までいけるかなぁ、という感じ(もちろんこの前提に基本的なアルゴリズムの習得があるわけですが)。GAEもかなり簡単で、親切なドキュメントが用意されてるのでスムーズでした。







で、調子に乗って作った第二弾が「今日の菊地日記(PELISSE)」。こちらは菊地成孔の旧・公式サイト「PELISSE」の日記(速報)ページの過去ログからその日に書かれたURLを吐き出してくれる。これもPOSTをする部分は山形BOTとほとんど同じ。作ったのは、URLのリストを作るプログラムと、本日の日付に該当するURLを抽出するプログラム。抽出とPOSTは違うジョブにしていて、抽出でGAEのデータストアに保存して、POSTではそれを定期的に1件ずつ取り出しながら発言をするようにしてます。流用できる部分がたくさんあったので、楽勝かな~、と思ったんですが「PELISSE」の文字コードがシフトJISだったのとXMLが変な書き方されてたのでちょっと気を使ったり、あとデータストアで日本語を扱うときにまた困ったり(テストではうまくいくのに、本番環境では動かない……とか)。タイムマシンがあったらまず、過去に遡って文字コードを統一させたいと思いました。




自分で作ってこれは結構面白くて。一番古いのが2006年ぐらいかな。過去ログを読んでくと昔のことを結構思い出します。昨日リリースしたんだけど、昨日の内容は訃報ばっかりだった……。





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マルコス・ヴァーリのボックス・セットを買って聴いているぜ!

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Marcos Valle Samba (Demais)
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Marcos Valle
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ディスク・ユニオン新宿ラテン・ブラジル館に先週入荷するやいなや一週間もしないうちに完売してしまったというマルコス・ヴァーリの11枚組ボックス。1963年のデビュー盤から1974年までを一挙に追うことのできるこのお買い得品を運良く手に入れられた私は、当然のごとくマルコス・ヴァーリ漬けにならざるを得ないわけでございます。世代的には彼もカエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルと同じ世代のミュージシャンになりますが、デビューは一足早く、トロピカリズモ・ムーヴメントの渦中にいたミュージシャンたちとはちょっと毛色の違った音楽的変遷を辿っていて面白いですね。本日はそのなかから何枚かご紹介。





マルコス・ヴァーリもまた《ジョアン・ジルベルトのこどもたち》といっても過言ではないのでしょう。デビュー盤である『Samba (Demais)』は、キリッとした佇まいが魅力的なボッサ・アルバムとなっている。ストリングスやフルートの情感の豊かさも素晴らしいです。ボートラにはインスト・バージョンが収録されていますが、歌抜きでも音楽が成立してしまっている。






ブラジリアンス!
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マルコス・ヴァーリ
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しかし、この叙情ボッサ路線も長く続かず、4年後の『Braziliance! 』(1967)ではジャズへと急速に接近していくのです。いきなりビッグ・バンドによるインストのアルバムですからね、その舵の取り方は斬新だったと言えましょう。ラテン風味のエキゾチズムを全面に打ち出していて、ちょっと熱帯JAZZ楽団みたいになっている曲さえあるのですが、そこまでテンションをブチアゲる高温度じゃなく、マイルドなラウンジっぽい雰囲気が良い。日陰のテラス席でアイスコーヒーを飲んでいるときにこんなの聴いたら、あまりのマロいヴァイブスに解脱しそうになります。






Mustang Cor De Sangue (Dig)
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Marcos Valle
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で、いきなりジャケットの雰囲気が「ロックンロールに出会ってしまいました」みたいにガラリと変わるのですが『Mustang cor de sangue』(1969)は、その印象がそのままに出ているアルバムだと思います。しかし、全面的にロックに生まれ変わってしまった訳ではなく、あくまでその要素を取り入れた的な感じ。そのへんの針の振り切れなさがカエターノやジルベルト・ジルとはちょっと違うかもしれないですね。ラテン・ジャズっぽい曲もあるし、超甘~い感じにしっとり歌い上げる曲もある。この多彩さがマルコス・ヴァーリの魅力なのかも。あるいはCTIでも活躍したエウミール・デオダートの仕事ぶりのすごさか。マルコス・ヴァーリのここまでのアルバムは、この人物によりアレンジが行われており、このボックスの半分ぐらいがデオダートの仕事集としても聴くことができます。






プレヴィザォン・ド・テンポ
マルコス・ヴァーリ
EMIミュージック・ジャパン (2008-05-14)
売り上げランキング: 106350



しかし、デオダートと離れたあとのマルコス・ヴァーリも魅力を失ったわけではありません。音楽はよりポップになって音抜けの良さや洒脱さはデオダート以降のアルバムのほうが良いぐらい。そして、ジャケット写真はよりむちゃくちゃになっていく……(ワシかなにかの胴体に、自分の顔写真をくっつけたアイコラみたいなのとかあるんだよ)。この『Previsão do tempo』(1973)も「なにしてるんですか!」と全力で突っ込みたくなる状況ですが、これはすごいアルバムで11枚組のボックスのなかでも屈指の完成度を誇るように思います。演奏がタイトでとにかくカッコ良い! パーソネルみたらヴィニシウス・カントゥアリアも参加してて(この人、元々ドラムだったのね)びっくりしました。






D


このボックス・セット、前述の通りディスク・ユニオンの店頭分は完売しているそうですが、取り寄せの注文は受けてくれるそうです(ただし、いつ入荷するかは全然わからないとのこと)。マルコス・ヴァーリのアルバム自体は中古の在庫も結構あったから頑張れば中古でも揃えられるかな?





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