石黒正数 『それでも町は廻っている』1~8

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実家に置いてあった『それでも町は廻っている』の既刊を一気読み。「日常系漫画」というジャンルということでよろしいでしょうか? 面白かったです! お婆さんが思いつきで始めたメイド喫茶でバイトをしている女子高生と、彼女たちを取り巻く商店街・学校の人々の日常風の情景のなかから物語を抽出した魅力的な漫画でした。時折、こうした日常のなかに宇宙人やモンスターといった非日常が入り込み物語を盛り上げるのも面白い。この漫画を読んでいると、日々の生活のなかで物語チックに語ることができる事柄は起こりうる、という風に思いますし、物語の出来はそうした出来事の切り出し方にあるのかもしれない、とも思いました。





主人公たちのグループのなかにものすごいブサイクな女の子がいるのも良いですね。しかし、それは作品中で「ブサイクなもの」として扱われていない。読者にはまるで作者の悪意さえ感じられるほど、そのブサイクが提示されるのですが、作品中ではそれはユニークなものとして扱われるのです。そこからは現実世界で「え? 奥さんあんなに美人なのに、ダンナは……」というアンバランスなカップルを眺めたときの違和感に近い感覚を得てしまうのですが、あくまでそう思われた側としては、自然であり、日常なのですよね。それは当人からすればアンバランスなものは存在しない、みたいな。サブカルチックなネタも適度に配置されているのもポイントで、結構「オッ」とツボを突かれることがありました。


























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ニコラウス・ステノ 『プロドロムス 固体論』

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プロドロムス―固体論
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ニコラウス・ステノは17世紀に活躍したデンマーク生まれの学者で、この『プロドロムス』という本は彼が書いた地質学、そして物体の生成についての本だ。フルタイトルは『ニコラウス・ステノニスの固体のなかに自然に含まれた固体についての論文への前駆』となっており『プロドロムス』というタイトルは「前駆」と訳が与えられている「prodromus」から取られている。ステノの本意は彼の固体論を大きな作品としてまとめることにあったが、その「序説」として書かれたのがこの作品なのだ。あくまで序説なので、本文は結構短い(いろいろと事情があって自分の研究成果を短くまとめる必要があったらしい)。だが、その面白さは作品の規模と無関係に伝わってくる。結局この後にステノは『固体論』を完成させることなく没するのだが、その未完の仕事が素人目にも惜しまれるほどだ。




今では昔の地層から化石が発見されたからと言って、そんなに驚く人はいない。そりゃあ、自分の家の基礎を掘ったらティラノサウルスの頭部の化石が出てきたら驚くけれども、我々は化石というモノを「昔の生き物の骨が石みたいになって残ったモノ」と常識的に理解している。しかし、ステノが生きた時代はそうではなかった。地面を掘って化石が出てくると「なんかよくわからん珍しい形をした石」として処理されていたのだ。例えば、マルタ島ではサメの歯の化石が発掘されたが、それは「舌石」(舌の形をした石)と呼ばれた。それと一緒に貝の化石が発掘されることもあったが、それは「貝の形をした石」として考えられた。それらは海から離れたところで発見されたので、誰もサメの歯や貝の化石だと考えなかったのだ。



では、どうしてそんなサメの歯や貝の形をした石が掘り出されるのだろう? こういう疑問をもっていた人たちは、自然の形成力を信じていて、海と似たような条件が地中のなかに揃うと形成力のおかげで、地中のなかにも似たようなものが生成される、という風に考えていたらしい。これはアリストテレス流の考えで「なんかよくわからんものは、よくわからんパワーによって生まれてくるのであろう」という思考である(アリストテレスも『動物誌』のなかで、ウナギは自然発生する! と力説していた*1)。




こうした考えに対してステノは「いや、それはやっぱりサメの歯なんじゃないの? 貝そのものなんじゃないの?」と主張した。今は海から離れた場所でも、昔は海だったから地中からそういうモノがでてくるんだよ! ほら聖書にも書いてあるだろ、昔、大洪水が起こった、って! というようなことを彼は主張する。そして、化石が化石であることを理屈づけるために、彼はその地形の変化する過程や、土のなかに化石が保存される原理を説明するのだ。化石から地球論や固体論が始まるこの飛び方がすごいのだが、内容もまた刺激的である。




とくに第4部「トスカーナ地方に見られる大地の変化」は素晴らしい。ここでステノは世界の創造から大洪水、地形の変化について説明をおこなうのだが、彼は「世界の創造は紀元前4004年」という学説を採用しているらしい。また、こんな風にも言う。「古代人たちの記述のなかの多くの誤りを非難するものは、多くの間違いを犯すだろう。私は、古代人の作り話のような物語を軽々しく信用しようとは思わないが、そこにはまた信を置けなくはない事柄もある」。そして、アトランティス大陸の沈没や、ユリシーズの遍歴のなかで綴られた土地は実在していた、と言うのだ。こうした説明からうかがえるのは、現在とはまったく違った思考の枠組みだ。




丁寧な訳註と解説もまた本書を魅力的なものとしている。とくにステノも参照しているアタナシウス・キルヒャーの『地下世界』という本について触れられている部分に大変興味をそそられた。翻訳者である山田俊弘氏は、千葉県の高校の先生で勤務校でだしていた紀要に訳を載せていたそうだ。これもすごい話。山田氏とは縁あって一度一緒にお酒を飲んだことがあるのだけれど、またお話をうかがいたいなあ、と思った。





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Steve Reich/2x5 Remixed

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昨年発売されたスティーヴ・ライヒのアルバム*1に収録されている楽曲《2x5》は、ポストパンクを消化したミニマル・ミュージック風の楽曲で、近年のライヒ作品ではもっともソリッドでクール!と評価できるものだと思います。で、どうやらこの作品の第3楽章のリミックス・コンテストなるものがおこなわれていたらしく、上記のリンクはその優勝者・入賞者の音源がiTunesで発売になったよー、というレーベルからのニュースです。優勝者はDominique Leoneというサンフランシスコの人。次点が、Vakulaというウクライナの人とDavid Minnickというデトロイトの人だそうです。




音源は、こちらのリンクから「View in iTunes」を押すと、iTunesが立ち上がって日本のiTunesのページに接続されます(日本では1曲200円、3曲まとめて買っても600円と特にお得な感じはなし)。早速購入して聴いてみているのですがこれがなかなかカッコ良い! 優勝者のDominique Leoneによるリミックスは、楽曲がもともと持っていたエッジをさらに際立たせ、っつーかこれほとんどバトルズじゃないか!! という出来上がり。2曲目のVakulaによるものは、ベースをうねらせてアフリカンな感じを強調。原曲のクールな盛り上がりを維持しながら、一層ダンサブルになっています。3曲目のDavid Minnickによるものは、原曲を細かく切って、ディレイさせたり、と割と平坦な感じ。1曲目・2曲目はかなりカッコ良いので、それだけ買うのがオススメかも。





冒頭にあげたニュース記事によれば、リミックスという行為を15世紀まで遡って、ジョスカン・デ・プレやその後のハイドンの主題を使用したブラームスになぞらえ「リミックスは、現代において変奏曲の役割を担っているのだ」とライヒは語っているそうです。これはなんというか、ニュークラシック系の人の発言らしいなあ……と思ってしまいますね。クラシックの権威を帯びつつ、ポップなモノへの理解を示すための典型的な戦略、というか(例えば、坂本龍一がバッハを語ると同じか!?)。



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Reich Remixed
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しかしながら、こうして『Reich Remixed』などを聴きなおしてみると「ここまでイジられてビカビカに映える人も珍しいのかもしれない」とも思ってしまう。っつーか、その立ち居地は美味しいだろう、と。






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ラテン語格闘記 その2

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図書館で借りた本を読むのを優先させるなどブランクを挟みつつ『アッティカの夜(Noctes Atticae)』を一番最初から読み始めて、はや3週間ほど。今日で第1巻の2つ目の話まで読み終えることができました。ラテン語のテキストを読んでいるはずなのに、次の段落がまるごと全部ギリシャ語だ! という鬼な展開に見舞われつつも楽しく読むことができています。せっかくなので本日は読んだ話を少し超約っぽくしてご紹介。テキストの原文と英語訳はこちらにあります。







  • 1-1:ピタゴラスがヘラクレスの身長を計算したら



比類のない心と体を持つ男のなかの男、ヘラクレス。プルタルコスが本のなかで書いていたんだけど、哲学者のピタゴラスはヘラクレスの身長を計算しようとしたらしい。その計算方法は次のようなものだ。言い伝えによれば、ヘラクレスは、オリンピアのそばにあるピシスというところの競技場を600歩で走ったらしい。ピタゴラスはその距離を歩数で割って、歩幅を求め、それを人間の体の部分の比率を考えてヘラクレスの身長を計算しようとしたんだよね。ヘラクレスはギリシャの別な競技場も600歩で走ったらしいんだ。困ったことに調べてみたら、この競技場よりもオリンピアの競技場のほうがちょっとだけ距離が長かったんだ。おかしいよね、だって同じヘラクレスが同じ600歩で走ったら、その競技場は同じ距離になるはずじゃないか。そこでピタゴラスはこんな風に結論付けた。「ヘラクレスは、オリンピアの競技場を走ったときのほうが背が高かった!」と。








  • 1-2:アッティカのヘロデが粋がったガキをとっちめた



昔、わたしがアテネで学生だった頃の話。先生のなかにアッティカのヘロデという人がいて、この人はギリシャ語が堪能なうえ、とても有名な執政官だったんだ。彼は自分の屋敷にしばしば、わたしや、かの有名なセルウィリアヌスやその他のローマから優れた文化を勉強しにやってきた人たちを呼びよせてくれた。


その屋敷といったら素晴らしくてねえ。ケフィシアって名前のところだったんだけども、その地方は年中暑くてさ、とにかく秋が一番暑いんだよ。だけどもその屋敷には大きな木があって日陰になってるのね。で、そこでみんな休むわけ。それから噴水だの鳥の鳴き声だの絶えずキレイな音がしてさぁ。リゾートっぽい感じだったんだよね。


お呼ばれしてた人たちのなかに修行者の若者がいた。彼が言うには、自分はストア派の修行してるって話だったんだけど、コイツがとにかく口の減らないヤツでさあ。クドクドと哲学についての講釈をたれたり、ギリシャ語を話す偉い人と自分を比べてみたり、ラテン系の人は大抵何も知らんアホよね、とか主張するわけ。弁証法の罠がどうとか、三段論法がどうとか、聞きなれない言葉をたくさんつかちゃってさ。道徳の話になるとこんな風に言ってたんだ。「人間の知性の本性は、義務と制限をもってその徳の起源になって、逆に病は悪行だったり悪徳からなるわけ。そうなるとさ、魂なんかボロボロになっちゃうじゃ~ん?」、「だいたい、こういうことを探求してるしてるヤツで、俺以上に深い理解をしてる人間はいないわな」、「拷問だとか体の痛みとか死ぬこととかって全然幸せを妨げるものじゃないんだよ、ストア派的に言ったら悲しみなんかなくなっちゃうよ」……とかね。


あるとき、彼が長々としたお話が終わると、アッティカのヘロデは彼がいつもそうしていたようにギリシャ語で言った。「君があんまり立派な哲学者ものだから、なんも答えられないんだよね。ほら、俺らなんかシロートじゃん? 君からしたら。だから、ちょっと失敬して君がいつも立派なことを言う元ネタのエピクテトスの本を読み上げるのを許してくれよな」。そう言うと彼はアリアヌスが編纂した『エピクテトスの対話』の第一巻を持ってこさせた。それは高名な老人が厳しく自称ストア派の若者を非難する内容だった――あんなヤツら徳や正直さもかけらもない! 単なる泡沫で、彼らの勉強の成果なんかまるで子どもが話しているようなものだ! ってね。


ちょっと補足しておくと、エピクテトスっていう人は朗らかさと厳格さを平等にもってる人でさ、その上でホントのストア派っていうのをキッチリ分けたんだ。彼が言うホンモノのストア派っていうのは、抑制だの強制だののない疑問や、迷いのなさや自由や繁栄や幸福を乗り越えたところにある。その他の自称ストア派っつーのは、まぁ「ストア派は一番聖なる人たちなんだよ!」とウソぶいてるタダのクズだな。


アッティカのヘロデは続けて言った。「世の中には良いものと悪いもの、それから中間のものがあるよね。良いものは徳を帯びてて、悪いものは罪を帯びている。それらのあいだに中間のものがある。富とか健康とか命とか死とか喜びとか痛みとかね。『お前はそれをどうやって知ったんだ?』とヘラニクスは『エジプトの歴史』のなかで言ってたよね。あのさあ、君が言ってたことって大体ディオゲネスが『道徳』のなかで言ってたことや、クリシップスやクレアンテスが言ってたこととどうちがうのよ? 君が探求したことは全部自分ひとりで成し遂げたのか? え? 海で嵐にあったとき、自分がどうするか、見せてもらいたいもんだね! 帆がぶっ壊れて、ワンワン泣いてるときでも、こんな分類を思い出せるか? 君のそばにアホな人がいてこんな風に言うとしよう。『神様ー! 君が前に言ってたみたいにおしえてよ! この難破の受難は罪なんですか? これは罪の性質を帯びているんですか!?』 そうしたら君は木の棒を彼に投げつけてこんな風に叫んだりしないだろうね? 『どうしろっていうんだよ、あぁん? 俺らは死ぬのさ。冗談みたいなものさ!』 もしくはカエサルが君を呼び出して、告訴に答えるよう命じたら……」


この言葉を聞いて傲慢な若者は押し黙ってしまった。まるでエピクテトスが他人を非難するのではなく、彼自身がヘロデによってとっちめられたようだった。



ギリシャ語の部分はまったく読めないので英訳に頼っています。読書の成果はまたキリがいいところまで言ったらご報告しますね。





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橋口孝司 『ウイスキー銘酒事典』

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ウイスキー銘酒事典
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橋口 孝司
新星出版社
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世にハイボール・ブームが巻き起こってから久しい。最近はどこの居酒屋にいっても角ハイをソーダだのコーラだのジンジャエールだので割ったものがメニューに並んでいる。けれども、ハイボールの流行とウイスキーの流行とはまるで別であって、ハイボールが流行っているからといって、飲み屋のメニューにスコッチが並ぶわけではない。あくまでそれはそれ、これはこれ。いまでもウイスキーという飲み物は、高価で、スノビッシュなのだろう、と思う。「本当のウイスキーとは、シングル・モルトのことだけだ」だとか「ウイスキーはやっぱりストレートで味わわなければ」だとか、さまざまな流儀がまことしやかに伝えられ、足を突っ込んだらなんだかめんどくさそうな感じである。穀類から作る飲み物であるため、出来が安定し、ワインのように「畑」だの「製造年」だのの話が出てこない分、まだマシかもしれないが、本書『ウイスキー銘酒事典』を読むと、味わい方やその味の表現の方法はまるで同じであって「うるせぇ! 酒ぐらい黙って飲め!」と思わなくもない。





しかし、そうした薀蓄やペダンティックなほどに伝わらない表現がつまった飲み物というのはそれはそれで興味深いものであって、本書で紹介されている酒のラインナップを眺めていると、珍しい動物の図鑑を眺めているときと同じような好奇心が沸いてくる。2002年に出された本なので少し情報が古くなっているのと(書いてある値段が今よりもちょっと高い)、「日本のウイスキー・メーカーから金もらってるだろう!」と疑いたくなるぐらい国産ウイスキーに多くのページが割かれているが、面白い本だ。この本自体がいわゆる「ウイスキー通」と呼ばれる人たちの世界を体現している、と言っても良いのかもしれない。例えば、本の半分ぐらいがスコットランドのシングル・モルトについての紹介になっている。「ウイスキーと言えば、スコッチ。スコッチといえばシングル・モルト」この三段論法的お題目は本書でも採用されているのだ。





飲み方はシングル・モルトならトワイス・アップ(ウイスキーと冷えすぎてない水を1:1で割って、氷をいれない)、バーボンならストレートかロックで、というのがひとつのパターンとなっている。これはもう好き好きだと思うんだけれども、ウイスキー初心者がその深遠なる(笑)ウイスキーの世界へと足を踏み入れるための、ひとつのとっかかりにはなるかもしれない。いきなりウイスキーをストレートで飲んで「喉が焼ける~」と、苦手意識を持つのも損な話だ。ハイボールからウイスキーの世界へ、というのには、なんだか高い壁がありそうだけれども、ひとつの「ご参考」として役に立ちそうである。「勿体無い!」と内心思いつつも、アイラ・モルトでハイボールを作ってみたりすると、一気にのめりこんじゃったりするかもしれないですよ。





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西成活裕 『無駄学』

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無駄学 (新潮選書)
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西成 活裕
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『渋滞学』*1、『どんでもなく役に立つ数学』*2の西成先生の著作をまたもや読む。本書『無駄学』は文字通り、「無駄」を学問として取り扱ったとき、何が見えるのか、無駄を省いて社会や生産を最適化するためにはどうすれば良いのか……などなどを紹介する一冊。西成先生は「渋滞」という現象に含まれている様々な無駄を考えているうちに、これをひとつの学問として捉えたくなったそうである。つまり無駄学は渋滞学から生まれた副産物なのだ。





無駄というのは、なかなか捉えるのが難しい。渋滞であれば、何かが詰まったりなんかして、本来持っているスピードで物事が進まなくなった状態、という風に定義ができる。けれども、無駄はそれがどこで発生するかによって、無駄ではないもの、と捉えることができてしまう。例えば、コンビニで廃棄される賞味期限切れのお弁当は、無駄なもの、と言うことができるけれど、無駄に作った分もお弁当メーカーとしては「売り上げ」としてカウントされるわけで、それはお弁当メーカー的には無駄ではない、ということになる。結果的に無駄なものとなっても、儲けられる人がいる。それは本当に正しいことなの? と西成先生は、資本主義の仕組みそのものを問題視してもいて、本書は大変大きなテーマを扱った本でもある。





しかし、この無駄学が提唱されたのは、渋滞学よりも日が浅い。西成先生曰く、『渋滞学』は10年の研究の成果だったが、本書は生まれたばかりの学問の現状報告的なものに過ぎない、という。そのせいか本書の内容は社会のさまざまなところに潜む、さまざまな無駄を定義していくところに大きな分量が割かれていて、かなり散漫な印象を受けた。ほとんど飲み屋談義ほどの指摘も見受けられる(飲み屋談義で指摘できるほどに、社会には無駄が溢れている、とも言えるのだろうが)。





生産ラインの最適化の話では、トヨタ方式の業務改善がひとつの理想例として紹介されている。ここにも問題を感じてしまった。無駄を廃し、コストを下げ、生産性をあげることで、企業の業務効率は向上し、引いてはそれが企業の成績を底上げすることに繋がるのは理解できる。けれども、人間は機械ではないのだ。無駄がなくなって、「遊び」の部分がなくなることで、息苦しさやしんどさが生まれることもあるだろう。環境をコントロールすることで、ヒューマンエラーを減少させることは人間工学によって可能だ。しかし、それでもエラーは起こってしまう。遊びのないシステムにおいては、そのエラーの重大さは、遊びがあったときよりもシビアに捉えられるように思われる。





ものすごく最適化された会社、ないし社会のしんどさは、「かわりばんこ社会(一度自分が益を得たら、次の益を他人に譲ることで、長期的に社会全体の益が高まる社会)」という西成先生の提案が実現されたときに、解消されるのかもしれない。そこでは、共産主義的にトップダウンで益が分配されるのではなく、社会の構成員が「譲り合ったほうがトータルで益が高まるのだ」という合理的な判断力を身につけることによって、自発的に益の分配が行われる。なんだかプラトンばりの理想社会であって、そんな世の中が来たら「本当に素晴らしいことですねえ(ニッコリ)」と作り笑いをしたくもなる。





要するに「かわりばんこ社会なんかロマンティック過ぎるよ!」と言いたいのだが、その一方で「これを笑い飛ばさずに真剣に考える時期なのかもしれないよね、今は」とも思う。今も私は26歳で、少なくとも30年以上は働かなくちゃいけない。日本人で働くにあたっては、思いがけず、ドシーンとなんかめちゃくちゃに重いものが先月あたりに降ってきたじゃないですか。で、これからなんとかしていくにあたっては、それまでのやり方を復活させるんじゃなくて、新しいやり方、新しい日常を模索しなきゃいけないんでないの? なんてね。






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スタパ齋藤 『スタパ斎藤の物欲番長 デジタルグッズ超買いまくり紀行』

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スタパ斎藤の物欲番長―デジタルグッズ超買いまくり紀行 (2)
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スタパ斎藤の物欲番長〈3〉デジタルグッズ超買いまくり紀行
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私の家に初めてパソコン(NECのバリュースター!)が来たのが96年だったと記憶している。父親に「ねえ、パソコン買おうよ、これからはパソコンだって~」と吹き込んで購入させた戦略的中学生だった私は、その後も順調にパソコンを使いこなせるようになり、現在もデジタルネイティヴにはまだまだ負けんぞ、というぐらいにはデジタル関係の知識を持って生活できている。それもこれも高校時代に『週刊アスキー』を熱心に読んでいたからであろう――で、最近急に当時のことが懐かしくなってスタパ齋藤が『週刊アスキー』で連載していたコラム「物欲番長」の単行本を一気買いして一気読みしたのだった。





これはライターのスタパ齋藤が、物欲の赴くままにデジカメ、パソコン、プリンター……などなどの各種デジタル・グッズを買いまくり、その使用感をレポートしていく内容なのだが、今読むと猛烈に面白い。この3冊の単行本に収録されているのは1998年から2000年ごろの記事だから、当然紹介されている製品はもう古くてジャンク屋で探さなきゃいけないようなモノばかりなんだが「うわ~、こういうのあったよね~」とかものすごい回顧的気分に浸れる。なにしろ、当時はUSBもまだまだこれからだし、MP3も全然普及してないし、デジカメは「さすが150万画素!」と驚かれるぐらいだし、CPUのクロック周波数の単位はMHzだしで、今では考えられない状況であり、(ネガティヴな意味で)信じられないスペックの製品が、ものすごい値段で売られてたりしたのだ。IBMのThinkPad(CPUのクロックが300Mhz、メモリ128MB、HD容量8.1GBのマシン)が82万とかですよ。もう衝撃しかない。このような『物欲番長』を今読むと、この10年での電子機器周りの進化スピードの速さが改めて感じられる。これはほとんど考古学的な驚きである。





記録されている時期も「爆発的に家庭へとPCが普及する直前」といった良い感じの時期だから余計に面白いのだろう。わけのわからない記録メディアがわんさかひしめいていて(マイクロドライヴとかClick!メディアとか……)戦国時代みたいである。そーいえば、大学に入った年(2003年)初めてのPCを使った授業で、ZIPを渡されたりしたなぁ……。モノが変われば、使っている人間の生活も変わる。今や誰もMDに曲名を入れたりしていないだろうし、ケータイをわざわざケーブルでPCに繋げてモバイル通信をしている人も見なくなった。ケータイでメールができるのなんか普通だし、PDAの機能はまるごとケータイに取り込まれてしまった(やっぱり、ケータイの進化がすげーな)。かつて色々あったものが、今は見事なほどスマートに統合されているように感じられる。ホント、便利になったんだねえ……とモノを通して生活の変化を追えるのも面白い。





で、こういう進化を支えたのが、スタパ齋藤のようなタイプの「とにかく新しいモノが欲しい! 気になる!」という方々だったのだろう。会社にもシャープのスマートフォンと、GalaxyTabと、iPod Touchを同時期に買って、全部持ち歩いている人がいて、話を聞くとザウルスも持ってたし、モバイルギアも持ってたし、さまざまなハードを買いまくっていた物欲星人なのだった。こうした人々にもリスペクトを払いたい気持ちにもなる。





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細野晴臣/HoSoNoVa

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HoSoNoVa
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細野晴臣
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ちょうど今日は激しくなったり、柔らかくになったり、様々に表情を変える雨模様の天気で、空気は生温かく、良い塩梅にひきこもって暮らしたくなる日なのだが、細野晴臣の新譜はその良い塩梅感を一層高めてくれる。『HoSoNoVa』というアルバム・タイトルは「細野晴臣によるボサノヴァ」を連想させるが、『ホソノ場』でもあるらしい。コシミハル、高田漣……といったメンバーによって固められたその空間は、穏かでありながら、日本語によるエキゾチズムを漂わせ、なるほど、これが細野晴臣の日常的な姿なのかもしれないなあ、などと思うのだった。とても良い。この歳の取り方、というか、自分の世界観の深め方は、細野よりも少し年長になるけれどカエターノ・ヴェローゾが今も自分の音楽を若々しく保ち続けるのとはちょっと違う。ただ音楽から「こんな歳の取り方をしたいなぁ」という気持ちが浮ぶという意味では、両者の音楽は私の理想形のひとつなのだった。



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ブックレットにはレコーディング時やオフショットが満載で、細野晴臣による楽曲解説などがついてくる。これらもアルバムが持ってる空気感を増長してくれるもので、CDという製品のトータルな魅力を感じさせる(せっかくCDを買っているのだから、こういう作りにしてくれると『あ、CD買って良かったなぁ』と思いますよね)。





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マイケル・A・スクリーチ 『ラブレー 笑いと叡智のルネサンス』

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ラブレー 笑いと叡智のルネサンス
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定価21000円! と驚きの価格のラブレー研究書『ラブレー 笑いと叡智のルネサンス』を読みました(図書館で借りて。こういうとき日々の住民税を一気に還付してもらったような気分になりますね!)。著者、マイケル・スクリーチはイギリスの仏文学者で、江戸文化研究で有名なタイモン・スクリーチのお父さんだそうです。この人の経歴もなかなか面白くて、語学の才があったため学生時代に日本語の集中講義を受けて英国の諜報機関に所属、戦後直後には広島の呉市にて占領軍のスタッフとして働いていたんだそう。そういう研究者もいるのだなあ、とさまざまな驚きに満ちた本ですが、内容のほうも驚きの連続。900ページほどのこの大著を是非とも手元に置いておきたくなります。だから、10年待っても良いので、4分冊でトータル8000円ぐらいでどこかの文庫に入りませんかねえ。





「古典を読む」に際しては、さまざまな読み方があるでしょう。書かれた時代の文脈に応じて、その文章がどういう意味を有していたのかを解読する、という態度はそのひとつです。これは言うなれば、歴史学的な試みでありましょう。スクリーチが提唱するのは「ラブレーの真の面白さを理解するには、ラブレーと同じものを読むしかなかろう!」ということ。16世紀ルネサンスの才人であったラブレー(医師であり占星術師であり修道士)の時代の教養を身につけてこそ、テキストの真のスゴさ、ラブレーの途方もない天才を肌で感じられるようになる、ということです。そのためには古典ラテン語、古典ギリシャ語、その他にヘブライ語も知っていなくては……と一般人には高すぎるハードルが提示される。しかし、そもそもラブレーが想定した読者とはそうした教養を持つ読者であったわけです(バフチンは、ラブレーを民衆的なセンスを持つ作家、と見直したそうですが、そんなのちゃんちゃらおかしいよね、という批判も入る)。





もちろん「お前ら一般人にはラブレーを読むなんて無理!」と突き放すのではありません。スクリーチの博覧強記をもってガツガツと解き明かされていく、16世紀の高度に洗練された知識階級向けに書かれたテキストの意味、そしてそのテキストにある背景。本書でおこなわれるこれらの詳細な解説により、ギリシャ語もラテン語もヘブライ語がわからなくてもラブレーが読めるようになる! のです。『ガルガンチュアとパンタグリュエル』を読んだのはかなり前のことですが、また読み直したくなりました。一人で読んでいたときには読み飛ばしていた箇所が、スクリーチの解説により恐ろしく厚みのある箇所に変わっていく。劇的な読みの変化が訪れること間違いなし。ラブレーを読むのであれば、間違いなく一読すべきでしょう。『ドン・キホーテ』や『トリストラム・シャンディ』など、我々の常識を覆すような古典小説というのが多々ありますが、ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』はやはりそのなかでも最強である、と確信しました。わかりやすく言いますと、『ドン・キホーテ』と『フィネガンズ・ウェイク』とルネサンス期に流行した各種哲学書がマジックリアリズムで全部載せになった、みたいな破格の作品なのですよ。





本書は、ラブレーの研究書としてだけではなく、16世紀フランスの知的風土や国勢についての本としても読めるのが一粒で二度美味しい。正直、当時のソルボンヌ大学の教授たちとラブレーを含むユマニストたちの対立、そしてdisりあい、あるいはフランス国内の王族・貴族の権力争いや、国外との戦争についての記述は、結構かったるい箇所なんですが、ラブレーが参照していた言語理論についての箇所は超面白い!! アリストテレスの『解釈について』で解かれる「言葉の意味なんか恣意的に決定されるものでしょ」という考えと、プラトンが『クラテュロス』で説く「いや、名前と事物にはなんか関係があるんじゃねーの?」という考えが古代ギリシャ哲学において対立していて、それを後の注釈家がどういう風に意味付けていったのか。そしてこうした注釈家のテキストをラブレーはどのように受け取り、そしてどのように自身の作品のなかで自らの哲学を披露したのか。このあたりの説明は、途中で「あれ? ラブレーはどこにいっちゃったの?」という感じに混み入ってくるのですが、相当アツい。ここではフィチーノが大々的にフィーチャーされていますけれど、その他、アグリッパ、カルダーノ、エラスムス、メランヒトン、ルター、ポステルなどなど近代直前のスーパースター的(?)思想家が出てくる箇所はどこも面白かったです。ラブレーが何を読んでいたのか、というのはこの時代の知識人が何を読んでいたのか、の一例にもなり、ラブレーを読解することで浮かび上がる《時代の思想》の姿も大変興味深かったです。





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読売日本交響楽団第503回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

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指揮:シルヴァン・カンブルラン(読売日響常任指揮者)


ピアノ:ロジェ・ムラロ


プロコフィエフ/バレエ音楽〈ロミオとジュリエット〉作品64 から抜粋


ラヴェル/ピアノ協奏曲 ト長調


ラヴェル/左手のためのピアノ協奏曲 ニ長調


ラヴェル/ボレロ



昨シーズン末の定期演奏会が震災の影響により中止となった読響のサントリー定期(《英雄の生涯》聴きたかったなぁ)、今季一発目は常任指揮者二期目となるカンブルランが登場。昨シーズンは「三つの《ペリアスとメリザンド》」という通年のテーマを設定していたが、今シーズンは「三つの《ロミオとジュリエット》」が通年のテーマである。本日のプログラムは、そのテーマからプロコフィエフと、お国モノであるラヴェル、という組み合わせ。ピアニストは1986年のチャイコフスキー・コンクールの覇者、ロジェ・ムラロ。彼については昨日までどんな人か知らなかったのだが、メシアンのスペシャリストである、という情報を仕入れてから俄然期待が高まった。





演奏の感想に入る前に一つ断っておくけども、昨シーズンはA席(今シーズンからはS席と呼び方が変わった席)でサントリー定期を聴いていた拙者だが、今季はもっとズギャャーンと肌で音を感じながら音楽が聴きたくなって、あえてB席、ステージ向かって右側のほぼオーケストラの裏側、テューバのベルのほぼ延長線上の席を確保している。この席では音の出元が近くなったので必然的に金管や打楽器のサウンドがビリビリくるほど聴こえる。またヴァイオリンも細かいニュアンスまで伝わる。木管のアンサンブルなどもよくわかる。





そうした楽しさがある一方で、最高ランクの席で得られるバランスや音の混じり方はほとんどわからなくなってしまった。とくにショックだったのは、本日の場合だとピアノの高音部がほとんど聴こえないこと。また、トゥッティだとピアノがまるごと聴こえなくなる(音の輪郭らしきものは聴こえるが、もしかしたら脳内で補完してるだけかもしれない)。幸い、カデンツァやオケの音が弱い部分だと問題なく聴こえたが、これには「あちゃー、失敗だったかな」と思ってしまった。





というわけで、今季の読響定期の感想は、非常におおざっぱなものになるであろー(指揮者が想定しているであろうバランスとは違う音を聴いているのだから、そういった点については沈黙するべきだ、と思う)。聴こえたものを聴こえたように書いていこうと思います。指揮者の表情が見えたり、会場全体を眺められたり、と視覚的に面白いポイントは多々あったりするんだけれどね。





さて、前置きばかりが長くなっているが、本日の感想。正式のプログラムの前に、震災の犠牲者への追悼演奏としてメシアンの《忘れられた捧げ物》! 当然なにかあるのだろう、と予想はしていたが、これはカンブルランらしすぎるセレクトで(不謹慎かもしれないが!)思わずニンマリ。しかし、メシアン初期の秀作である、この弦楽のための作品が演奏されはじまると、やはり「カンブルランのメシアンが聴けてラッキー」などと思えるはずがなく、和声の解決がないままに進行していくトリスタンの響きのなかで、沈黙を守るしかないのだった。楽曲の妖しい美しさは、哀悼を誘うのでもなく、穏やかに静かな空気を作り上げていく。





追悼演奏後のプロコフィエフは、非常にスムースなカンブルランらしい演奏だったと思う、が、あまり馴染みのない楽曲だったため「あ、なんかCMで聴いたことがある曲だ!」などと思っているうちに終わってしまう。そして期待のロジェ・ムラロの登場、ラヴェルの《ピアノ協奏曲》。まず、ムラロの2メートルはあろうかという長身にビビったが、しなやかな音楽の運びが目に付いた。派手なルバートがあるわけではない。しかし、時折、敏捷に音楽が揺らめく瞬間があり、それがとても良かった。一、三楽章のアンサンブルが複雑な部分では若干オーケストラがついていけていなかった感じもする。ノリノリになってきたときに身を乗りだしてオケを制御しようとする様子は、さながら第二の指揮者のようでもあった。全体的には理知的な印象を受けたけれども、ホットな一面もちゃんと見せてくれる演奏家なのかな。ただ、演奏終了後の挨拶の様子などは、ちょっとナヨッとしていて、オケを制御しようという身振りのときの表情とはまるで別人。





まあ、なんと言ってもラヴェルのピアコンと言ったら、二楽章なわけで。このカデンツァは、世界で一番美しい音楽のうちのひとつだと考えている拙者であるからして、これはもう当然目頭が熱くなりましたよおおおお。「ペチン!」というムチ音から始まるユニークな一楽章から、この世俗的っつーか、サロン的な響きが高まり過ぎてファンタジーの世界にいっちまいました、みたいな世界との落差はヤバいでしょう。穏やかに奏でられるピアノを、オケがまろやかな音で包んでいく。絶品ですよ!! もはや演奏云々ではなく楽曲が最強過ぎなのかもしれませんが、こういう音楽が聴けるから生きてて良かった、と思うし、こういう音楽が聴けなかった人たちの分も俺は音楽を聴くわ!! と思ったよ。





休憩後の《左手のためのピアノ協奏曲》。これも揺るぎない名曲ですわな。っつーか、ラヴェルってこんなにすげー名曲ばっかり作っててスゴいよね。マジで天才だと思う。これも良い演奏でした。ムラロは、アンコールに応えてメシアンの《八つの前奏曲》の一番最初の曲(たぶん)も弾いてくれました。またもや絶品。この作品はエマールの演奏でも聴いていますが、それよりもグッときたかも。昨シーズンの二月定期での神尾真由子もそうだったけれど「チャイコフスキー・コンクールの覇者」というブランドはなかなか侮れないものがあるのだなぁ、と思った。





ラストの《ボレロ》はこれまたド名曲ですが、ド名曲過ぎて通して聴いた記憶がなかった。これもまぁ、ド名曲過ぎて演奏どうこうの印象がないんだけれども(スネアが木管の前に置かれているという配置は一般的なものなのでしょうか?)、同じ旋律が続いて飽きてきたなーーーっていうところで、音が大きくなって盛り上がるのがとても楽しいと思った。トロンボーンのソロは、たっぷりと歌い込んでいるのか慎重なのかよくわからず「がんばれ!」と思ったけど、外さなくて良かった。





(今日から一人称を『拙者』にしてみましたが、これはスタパ齋藤氏のマネです。飽きたらやめます)





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イングランドのコンソート音楽を聴く

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図書館で借りてきた古楽のCDについて感想を書いていくシリーズ。本日はダウランド・コンソートという団体によって演奏されているイングランドのコンソート音楽について。コンソート音楽とは16世紀から17世紀にかけて、かの土地で器楽アンサンブルのことを指す言葉で、このジャンルの有名な作曲家にはジョン・ダウランド、ウィリアム・バード、オーランド・ギボンズなどがいます。上の一枚目はダウランドの《ラクリメあるいは7つの涙》という作品集、二枚目はバードやダウランドらの作品を集めたオムニバス(邦題は『天上の音楽』)。バードやギボンズの作品はグレン・グールドも取り上げており、その雅やかな落ち着きを感じさせる音楽に魅了された人も多いかもしれません。



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ダウランドの《ラクリメ》はこのジャンルのなかでも特に有名な作品だそうで、作曲家自身が自分のことを「あの《ラクリメ》を書いた作曲家」と考えていたらしい。しかし、この人はなかなかの苦労人で、当時のイングランドで最も実力のあるリュート奏者であったのになかなか国内で認められず、エリザベス女王の暗殺計画に巻き込まれたり、貧乏で苦しんだりしたのだそうです。その苦労が彼の作品の「影」に影響を与えているのだとか。そうした苦労人のイメージは、「涙」を意味する《ラクリメ》という言葉のイメージに重なるでしょう。とはいえ、これは宮廷で演奏された音楽です。ロマン派音楽のような悲痛な表現などは存在せず、あくまで雅やかに音楽が流れていく。



D


(Youtubeで動画を探していたらダウランドの曲を歌うスティングの映像がありました。こんなことやってたんですね)


もう一枚の『天上の音楽』のほうは、もうちょっと明るい楽曲も含まれていて楽しいです。





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大友良英/アンサンブルズ2010 共振 ドキュメンテーション

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大友良英らによるインスタレーション展『アンサンブルズ2010 共振』*1には足を運んでいないけれど、先日購入したドキュメントDVD*2を観終えたので感想を書いておく。このインスタレーションを乱暴に要約してしまうと、ターンテーブルや楽器が自動的に音を出し、美術館の内部を音の回廊のように変貌させたもの……とでもいえるだろうか。そこで奏でられる《音楽》に同じ瞬間が訪れることはなく、また製作者自身どのように《音楽》が展開されるのか、その全貌を把握することはできない。偶然の音楽ではなく、どこかへ向っているもの、と大友が語るそのコンセプトは直ちに「管理された偶然性」(ブーレーズ)を想起させるものだし、また、インスタレーション的音楽/音楽的インスタレーションで言えば、シュトックハウゼンがそうしたものを制作していたような気がする(武満徹だったか? 記憶にあるのは音楽のなかを歩く《音の散歩道》というコンセプトで、もしかしたら構想されただけで、実際には作られていないかもしれない)。





同じ瞬間がおとずれず、さまざまに姿を変えていくこの展示された音楽は、最初から記録不可能なものであろう。このDVDもさまざまな可能性のなかから、たった一片だけを切り取ったドキュメンテーション、ということになる。よって、実際の展示とは不可分なもの(展示を観ていなければ、楽しめないもの)とも言えるだろうし、逆に、実際の展示とは独立したもの(展示を観ていても、聴いていなかったものが収録されているかもしれないもの)とも言える。





「完成した音楽を提供するのではなく、音楽を自分で発見してもらう」と大友はライナーノーツに書いているが、このDVDは「完成した音楽」としてパッケージ化されて提供されたものだ。





完成した音楽には「ここがはじまりで、ここがおわりですよ」という区切りがあるけれど、自分で発見する音楽には、どこにもそうした区切りがない。それは自分で設定するもので、また、そうしてはじまりとおわりを設定したところで、それが正解かどうかもわからない。そうした音楽は、どこまでいっても聴きつくすことのできない音楽、ということになる。いま、ふと思いついたけれども、その終わりがない感じ、というのは、即興演奏者はいつ演奏を止めるのか、という問題と繋がるのかもしれない。聴き手が音楽の区切りを決定付けることで、音楽を与える側と受ける側の区分は曖昧になる。これは普段「音楽を聴く」という態度とは全く違ったものだし、また、普段「音楽を聴く」というときに自分が何をしているかを浮かび上がらせるものにもなるかもしれない。私は、このDVDを観ながら、完成された音楽を受けとることの、安心感について考えてしまった(それはとてもラクチンな行為だ)。耳は音を受容する器官であって、音を出す器官ではない。『アンサンブルズ2010 共振』は、どこまでも受動的な存在である耳が、能動的になるイベントだったのかな。





あとこのDVDの普通のレコード店では買えないらしい。販売方法などは311のまえとあとと - 大友良英のJAMJAM日記の最後のほうに書かれています(水戸芸術館ミュージアムショップ「コントルポアン」のサイトのほうにはなにも情報があがっていなかった……)。






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トーベ・ヤンソン 『たのしいムーミン一家』

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たのしいムーミン一家 (講談社文庫 や 16-1)
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たまには妻が読んでいた本を読んでみよう、ということでムーミンを読んでみる。今日までトーベ・ヤンソンのことを男性だと思っていたぐらい何も知らなかったのだが、大変面白かった。先日『くまのプーさん』を原著で読んでいたときも思ったのだが、どうして児童文学は大人が読んでも面白いのか、というのはなかなか不思議なことである。マーク・トウェインは『トム・ソーヤーの冒険』の序文において「この本は主に子どもの楽しみのために書いたけど、だからと言って大人の皆さんも敬遠しないでよね。だって、君ら大人だって昔は子どもだったんだし、バカげた冒険に一生懸命だったりしたじゃんか」というようなことを書いている。これを受ければ、児童文学のなかに、かつての自分を見いだすから面白いのだ、とも言えるだろうけど、それだけじゃない、と思う。





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砂原良徳/liminal

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(DVD付の初回限定版が通常版よりも安い、という謎の現象がAmazonでおこっている)砂原良徳の新譜を聴く。かなり久しぶりのオリジナル・アルバムだそうだが、砂原良徳のソロ活動を熱心に追っているわけではないのでとくに感慨はなし。とはいえ、冒頭のクリック音からして背筋に電流が走る系の粒だった音が最高で、なんか昨日の夜からずーっと飽きずにこのアルバムばかり聴いているのだった。私はクラブ・ミュージックに詳しくないので想像でしかないけれど、これは踊れそうでギリギリ踊れない音楽であろう、と思う(特典でついてきたDVDに収録された2009年のライヴ映像を観ても観客はほとんど棒立ちで聴いている)。ダンスを志向しない電子音のコンポジションは、優れた未来的ラウンジ・ミュージックとして響き、それは「クラフトワークの子どもたち」というあまりに陳腐なフレーズを脳裏に浮ばせた。この音楽を砂原はNew Ageと呼ぶしかなかった、と語る*1。その発言は、スピーカーの前に正対し聴いていると、意識を内側に沈潜させていく音の性質からも納得できる。音自体の良さがあるので、自然とカラダがクネッたりウネッたりすることがあるけれど、これを周りに大勢の人がいる状態で聴くことはたしかに想像できない。隣に誰かがいるレベル、そうしたプライベートな空間に適したものに思える。




空間に配置された音を堪能できるアルバム、スピーカーで空気を震わせて聴く喜びに満ち溢れたアルバムというのがある、と思う。先日このブログでも言及した大滝詠一の『ロング・バケイション』*2をスピーカーで聴いていたときもそれを思ったのだが、『liminal』もまたそうしたアルバムのひとつ。音がいろんなところから飛んでくるその模様を体験するだけでも相当楽しい気分になってくる。






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大友良英&飴屋法水 @新宿PITINN

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震災以降ライヴのスケジュールが軒並みキャンセルとなってしまい、久しぶりのライヴとなってしまったが、大友良英の3デイズ初日へと足を運ぶ。本日は前半のセットが大友によるソロで、ピアノを使った即興がおこなわれた。しかし、ピアノといってもアコースティックな、生のままで演奏されたのではなかった。エレクトリック・プリペアド・ピアノとでもいうべきだろうか、電子的な変調されたピアノの音色は激しく歪み、つんざくようなフィードバック・ノイズを奏でる。だが、そのノイズは大友がギターで奏でるときのような重みを持たず、どこか透き通っていて、歪んでいるのに整った音だ。そこに「ピアノはどこまでいってもピアノ」という感想を抱いた(ピアノという楽器の強さを感じるとともに)。当然、楽器の特性上、ギターやターンテーブルを使った即興よりも、ひとりで出せる音も多くなる。これによって、ひとりで即興アンサンブルをおこなったときのような音のレイヤーも作られる。湯浅譲二のピアノ作品かテープ作品に似たような音響の曲があったかもしれない、と思いつつ、大友のピアノ演奏にはまだまだ可能性が残されているような気がするのだった。





後半は飴屋法水とのデュオ即興。飴屋法水のパフォーマンスを観るのは今回が初めてで、冒頭から野菜を食べ出すなど、その型破りな(?)方法には客席から笑いが漏れ出す(が、どうしてステージで野菜を食べたら『面白く』なってしまうのか、これは深淵な問題であろう。これはヘルムート・ラッヘンマンや川島素晴の作品の問題圏と重なる部分がある)。これに対して大友も工事現場の人が使うようなメジャーを使って自作ギターを弾くなどして応酬。この音楽ではないようなパフォーマンスは、数年前のアルフレッド・ハルト、吉田アミ、杉本拓による同じく新宿ピットインでの即興ライヴの模様を思い出させた。しかし、飴屋がギターで単音を繰り返し弾き続けたところからステージの状況は一変する。そのあまりにシンプルなリズムに導かれるように、飴屋が歌い出したとき、音楽が急に《始まった》と思った。これはちょっとした衝撃的瞬間というヤツだ。その歌声には、なにかこどものような無垢さを感じたし、また向こう側の世界の声、というか、常人には容易にたどりつけない世界の音のようにも聞こえる。どこまでも私見であるけれど、倉地久美夫が(おそらくは訓練の末に辿りついた)向こう側の世界と同じ領域が、まったく別な方法によって、目の前に拓かれた感じ、というか……。まったくえらいものを見てしまったなあ……。





この日は水戸でおこなわれていた展覧会「ENSEMBLES 2010 共振」のDVD発売記念ということで展覧会には行ってないけれど、買って帰りました。あと大友良英+尾関幹人+マッツ・グスタフソンによる『with records』も。


Photo 4月 09, 0 18 04





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三村太郎 『天文学の誕生 イスラーム文化の役割 』

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天文学の誕生――イスラーム文化の役割 (岩波科学ライブラリー)
三村 太郎
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天文学といえば、いまではロマン溢れる理系の学問であり、一般ピープルからしたら「それって何の役に立つの?」と思ってしまう学問の代表と言えるかもしれません。しかし、世界史的な観点からすれば、天文学が大変重要な学問であった期間のほうが長い、ということが言えましょう。それは占星術との結びつきが強かったころのお話、星を読むことができた天文学者たちは占星術についての理解もあわせもち、政の助言者としても活躍していたのでした。また「コペルニクス的転回」という言葉に示されるとおり、近代科学のはじまりにも天文学は強く関わりを持っています。本書『天文学の誕生』が取り扱うのは、こうして社会と密接につながる時代の天文学の発展史です。





しかし、この学問は西洋においてずっと断絶がなく続けられたものではない、と著者は言います。ギリシャとバビロニアの天文学を融合し、天動説を体系化したプトレマイオスの『アルマゲスト』という仕事は、一旦七世紀ごろに西洋では忘れられてしまい、コペルニクスが登場するまでおよそ900年間、西洋の天文学史は冬眠状態にある。このあいだ、プトレマイオスらの仕事はイスラーム社会に引き継がれ、発展を続けたのだそうです。著者は、このイスラーム社会における天文学が西洋に逆輸入されたとき、西洋の天文学は再始動した、と主張します。まるでアメリカで生まれたロックンロールが、ビートルズを生み、アメリカに侵略してきた、みたいなストーリーが本書では提示されており、大変刺激的でした。





イスラーム社会での天文学の発展も詳細に描かれます。目次レベルでここでの議論を紹介しておきましょう。まずは八世紀にペルシャ人国家アッバース朝での翻訳文化がギリシャ語文献のアラビア語訳を生む(そのなかには『アルマゲスト』が含まれていました)、『アルマゲスト』は占星術師らに取り上げられ、そこに古代から名高かったインドの計算方法が導入されると、天文学に必要な大きな数をあつかう計算がより正確になる。またそうした学究心の基盤には、異教徒たちと関わりをもつことが多かったアッバース朝ならではのメンタリティがあったーー彼らは異教徒たちを説き伏せるために厳密な論証を要していたのですね。厳密な学問への姿勢はそうした要求から生まれていった、と著者は説きます。またそうした学問へと従事していた者たちは権力者の助言者としても活躍し保護されたことから一層学問は発展していった……! ここまでの恐ろしくエレガントで、ダイナミックな議論のながれも素晴らしいと思いました。薄い本ではありますが、歴史学の本を読む愉しみに満ち溢れた本です。オススメ。





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プラトン 『ティマイオス』(6)

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Timaeus
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ティマイオス:わかりました、ソクラテス。どんな感覚の持ち主であっても、大事なことをはじめるにあたっては必ず神に願掛けをするに違いありません。宇宙について弁論をおこなうときも同様です――それがはじまりをもつものでも、そうでなくとも――見当違いなことをしないように、神々や女神にお祈りするほかありません。そして、彼らが私たちが言わなくてはならないことを承認してくれるよう祈るのです。ですから、私たちもお祈りをするつもりです。さあ、神々へと願いましょう。あなたが可能な限り分かりやすく学べるように、そして私があなたへと最も良い形で私の意図を伝えられますように。


 さて、私たちはまず次のような定義を作ることから始めなくてはなりません――常に存在し、かつ、成り変わることがないものとはなにか? そして、成り変わり、かつ、決して存在することがないものとはなにか? と。前者は論理的な説明を含む理解によって把握されます。後者は非論理的な感覚の受容を含む意思によって把握されます。それは存在するようになり、かつ消えゆくものですが、決して本当には存在していないのです。存在するあらゆるものがなんらかの原因を媒介とすることによって存在することとなり、原因なしに存在しようというのは不可能なことです。職人はつねに変化しないものを見て、型となるようなものを使って、形式や性格といったものを複製していきます。それは必然的に完璧に美しいものでしょう。しかし、彼が成りゆくものを見て、かつ、なにか生まれようとしているものを型として使ったならば、その仕事は美を欠いたものとなります。


 天空や世界秩序――文脈に応じてもっとも適した名前ならなんでも良いでしょう――に関して、第一に考えるべき問題があります。これはさまざまな議題を通して問われることをもってはじめなくてはならない類の問題です。それは永遠に存在するのでしょうか? 生まれところであるような起源はないのでしょうか? もしくはそれはやはりどこからから生まれ、なにか起源をもってはじまったのでしょうか? それは成り変わっていくものです。それらは見ることができ、また触ることもできる具体性を持ちます。こうしたものはすべて知覚可能なものでしょう。そして、私たちが見えているように、知覚可能なものは感覚の受容を含む意思によって把握されます。成り変っていくもの、発生しようとするものとして。それゆえに、必然的に私たちは、成り変っていこうとするものはなんらかの原因が媒介しなければありえない、と断言します。しかし、この宇宙の父であり創造者たるものを見つけることは大変難しい。たとえ、私にそれができたとしても誰しもに彼らを明らかにするのは不可能です。ここで私たちは話を元に戻し、宇宙についての問題を提起しなくてはなりません。創造主は彼が宇宙を作ったとき、次のうちどちらの型をつかったのでしょうか? ひとつは、ずっと変わらず、同じように留まるもの。もうひとつは変わりゆくもの。 もし私たちのこの世界が美しく、そしてその作り手の腕が良かったら、彼は永遠に変わらない型を見たに違いありません。しかし、もし口にすることさえもはばかるような場合は、彼は成りゆくものを見ていたことになる。永続する型を見ていたのか、それとも成り変っていくすべてのものを見ていたのかは、世界が最も美しいものか、作り手が最も素晴らしいものかによって明白なものとなります。また、成り変る方法とはこのようなものです――不変のものを型に作られたものは、理性的な説明によって把握される。それはまさに知性によって把握されるのです。


 こうしたことにより、疑いようのない必然性をもって次のことが言えるでしょう、つまりこの世界はひとつの像なのです。さまざざな議題において最も重要なことがらは、自然の始まりについてからはじめることです。私たちは次のように詳細を述べなくてはなりません――私たちがしてきた説明は、私たちの出発点となった議題と同じ性格を持っています。確実で固まっていて、平明に理解できるものごとについての説明はそれ自体が確固たるもので、変わらないものです。私たちは全力を尽くして、こうした説明を他のどんな説明からも反駁できず乗り越えられないものにしなければなりません。他方では、私たちがこれまでしてきた説明はまるで実在するもののように作られています。なぜならそれらは類似点をもつ説明で、以前の説明に順ずるものであるからです。成り変る存在のように、そこには真理への確信があります。ソクラテスよ、もし、私たちが神々や宇宙の成り行きについてのたくさんの大きな問題に対して首尾一貫して、正確な説明ができなかったとしても、おどろかないでください。代わりにそんな風にならずに説明を理解することができたならば、私たちは話し手である私と、判じ手であるあなたを気に留めながら満足するべきなのでしょう。しかし私たちはこうした問題に関するもっともらしい話を受け入れるべきでしょう。私たちにとってこれを超える何かを探さないことがふさわしいのですから。





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プラトン 『ティマイオス』(5)

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 ソクラテスよ、今私が話したことがソロンがはじめに伝えたように私の祖父であるクリティアスが語った話の簡潔なところです。昨日あなたが政治と人々について話しているあいだ、私はこれらのことを思い出し、またソロンが話したこととあなたの考えが超自然的名偶然によってまったく合意していることに驚いていたのです。けれども、私はその場ではこれを言いたくありませんでした。私がこの話を聞いたのはずいぶん前の話でしたし、私はソロンの話をあまりよく覚えていませんでした。そしてまずはこの話全体をよく思い出す必要があり、そして話す必要がある、と思ったのです。だから私はあなたの昨日の課題に早く同意したのでした。このような状況においてもっとも重要な課題は、人々が期待しているような話を提供することです。また、これを私が話したなら、ここにいる人は快く受け取ってくれるだろう、と考えました。ヘルモクラテスがすでに言ったとおり、昨日ここを離れるとすぐに、彼とティマイオスにこの話を繰り返し始めたのには、こうした実状があるのです。彼らと分かれた後に、一晩中集中して、どうにか全体を思い出すことができました。彼らは言いました。子ども時代に教えられたことは特別な方法によって保持されている、と。まったくそのとおりでした! 私の場合、昨日聞いたこのならなんでも思い出せるかどうかわかりません、しかし、この話のあらゆる部分が出てきたのならばそれは驚くべきことでしょう、なにしろ、私がそれを聞いてからずいぶん長い時間が経っていますから。私がそのとき聞いたものごとはとても子どもらしい喜びを与えてくれました――私がいくつもの質問をするものですから、老人は熱心に伝えてくれました。だから、その話は私のなかに焼きついて消せなくなった絵のように留まっていたのです。そして今朝、私はこの話の全体をティマイオスとヘルモクラテスに話しました。そうして私だけでなく、彼らもまた私たちが話す素材を手に入れることができたのです。


 ソクラテスよ、私はすっかりこのソロンの話を準備するまでについて話してしまいました。私は主要な点だけを話すのではなく、ひとつひとつ詳細に私が聞いたとおり話したかったのです。私たちは昨日あなたが話してくれた古代の流儀における市民と都市を、古代のアテネ自身に置き換えてしまうでしょう。そして、あなたが想像した市民が、あの神官が話していた私たちの先祖そのものであると言いたいのです。あなたが想像した市民がかつて本当に存在していたのだとするならば、その一致は完璧なものとなり、私たちの歌は調性がとれたものとなるでしょう。私たちはその課題を分かちあい、そしてその課題に対して充分に答えられるよう全力をつくすつもりです。あなたはどうお考えでしょう、ソクラテス? 私たちが話したようにするべきでしょうか? それとももっと別なものに話を変えるべきでしょうか?


ソクラテス:おお、クリティアスよ、これよりも優れた弁論をほかに誰ができるだろうか? 女神の祭典を祝う最中にあって、この弁論はとてもこの状況に相応しい。これよりも適したものはないだろう。もちろん、それが作り話でなく、本当の説明であっても些細な問題にもならない。これを続けなければ、いったいどうして、どこにいけば他に祝うためのものを見つけられるだろうか? 選択の余地などない。君たちの話を続けたまえ、さあ! 私は座って君たちの話を聞く側にまわろう。昨日のお返しとしてね。


クリティアス:わかりました、ソクラテス。あなたは客人であるあなたに贈り物をしようという私たちの考えをどのようにお考えでしょう? 私たちは次にティマイオスが話すべきだと考えています。彼は天文学の専門家ですし、宇宙の自然について学ぶことが彼の本業なのですから。彼は世界や人間の自然のはじまりについてはなしてくれるでしょう。そうすれば、私は一度にティマイオスの人間の起源に関する説明と、あなたのどのようにして人々は優れた教育を受けるようになるかに関する説明を知ることができます。私はそれらを単にソロンの説明だけではなく、彼が作った法律が示したであろうものとして、法廷へと導入し、そして、我々を低い身分から救ってくれるような聖なる記録に伝えられる、アテネの古き良き時代の人々たちのように人々を変えるつもりです。そうすれば、そうした素晴らしい人々を実際のアテネ市民のように語ることができるでしょう。


ソクラテス:私へのお返しとしてこの素晴らしい弁論の饗宴を私は完全に受けとってしまうつもりだよ。素晴らしいじゃないか、ティマイオス、次の話し手になる義務が君にめぐってきたようだよ。私たちがいつもするように、神を称えようじゃないか。





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トマス・ピンチョン 『スロー・ラーナー』

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英語やラテン語の勉強に本腰をいれていたら、「トマス・ピンチョン全小説」の刊行スピードにすっかりついていけなくなっていますが昨年の12月に発売されていた『スロー・ラーナー』を読了しました。これは『重力の虹』以降の長い沈黙のあいだに出版されたピンチョン唯一の短編集で、言ってみれば「アーリー・ワークス・セレクション」みたいなものだと言えましょう。それに作者自身による序文がついて1984年に出版されています。既訳はすでにちくま文庫に入っており、大変手に入れやすいものですが、実は私は読んでいませんでした(知り合いのピンチョン・ファンの方々がこぞって『おもしろくない』と言っていたので)。しかし、これにてピンチョンの既訳はすべて読んだことになり、立派に後ろめたい思いをせずにピンチョン・ファンを名乗ることができるってえわけだ! 訳者は『ヴァインランド』の佐藤良明。マニアックな調査に基づく訳註とテキストの文化的・意味的・音声的背景を理解した上での「超訳」が賛否両論ある訳者ですが、『ヴァインランド』ほどではないにせよ、今回も訳者のクセが発揮されている、と感じました。これはハマるとすごく良いのですが、たぶんハマらないと全然ダメな部分です。すんなりと読めない部分がある。でも、それが原文に対しての興味をそそったりもして。





ここには序文を含めずに数えると5つの作品が収録されています。ピンチョンというと、バカバカしくて、しつこくて、科学的修辞と薀蓄満載、という形容がすぐに思い出されますが、そればかりではない。さまざまなバリエーションがあってそこが「短編集」っぽい雰囲気を醸し出しているように思います。だから、嫌いな作品、まったく面白く読めなかった作品があっても良い……のでしょう、と自己正当化しておきます。私も全部が面白く読めたわけじゃなったので。「ロウ・ランド」、「エントロピー」、「シークレット・インテグレーション」。この3作は後の長編と直接的に繋がる要素が多く感じられ、大変面白く、大笑いしながら読みました。残り2作、スパイ小説の「アンダー・ザ・ローズ」はまだ良いとして、「スモール・レイン」はこれはキツかった。知り合いのピンチョン・ファンが「面白くない!」と言っていた理由が一瞬で理解できるような作品です。リアリズム風の文体で描かれたこの作品には「バカバカしくて、しつこくて、科学的修辞と薀蓄満載」というピンチョニズムがほとんどない。下品な雰囲気はあれど、やはりうんざりするぐらいしつこくないと、ピンチョンを読んでる感じがしませんね!(病気)





面白く読めた3作のなかでは「シークレット・インテグレーション」が特別光っているように思えました。「エントロピー」の迷宮的な感じと、バカバカしい乱痴気騒ぎの対比もいいのですが、「シークレット……」の少年文学らしさは異様なほど愛らしく、清々しいほどです。映画『スタンド・バイ・ミー』っぽくもあり、ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』のようなノスタルジーもある。しかし、喜劇的な雰囲気は後のピンチョンにも繋がる。ちょうど『逆光』の「偶然の仲間たち」に感じる親しみが「シークレット……」の登場人物にも感じますね。もっとも読みやすいピンチョン作品としてもオススメしたいです。それから序文も大変興味深く読みました。これは謎の作家ピンチョンが、自身について語った部分もある貴重なドキュメントでもあります。私はこれまでピンチョンを「社会に流れる時間と隔絶した場所から、強大で奇怪な物語を送り続ける人」という風に捉えていたんですが(そうじゃなきゃ、あんな途方もないモノをかけないだろう、と)、若かりし頃、50年代・60年代のアメリカ流行をフッツーに通り過ぎていたりする。ピンチョンがケルアックを賞賛していたりするんですよ! これは驚きでした。





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プラトン 『ティマイオス』(4)

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 それを聞いたソロンはとてもびっくりして、古代の市民たちについての説明を引き続きしてくれるよう神官たちに包み隠さず熱望した。『私は惜しむつもりはないよ、ソロン』。神官は答えた。『私は君自身の利益のために語ることにしよう。それは君たちの都市のためでもある。とりわけ、君たちと私たちの両方の都市を作り、育て、教育してくれた守護神の栄誉のためにね。我々の都市より遡ること千年、女神は君たちの都市を初めに作られた。そのとき、彼女は大地とヘファエストゥス*1から種子を受けとり、そしてそこから君たちは生まれたのだ。聖なる古文書に刻まれた記録によれば、私たちの社会ができてから八千年になる。それでは、九千年前の君たちの先祖たちの生活や法律、業績を手短に君に説明することにしよう。ひとつひとつすべての詳細についてくまなく見ていくのは別の機会にとっておこうではないか』


『君たちの先祖の法律と、私たちの今日の法律を比べてみよう。君はかつて君たちのあいだに存在していたものと、私たちのなかに現在存在しているものとの間に多くの共通項を見出すだろう。第一に、君は神官の階級が他の階級とは区別され分け隔てられていることに気づく。次に、労働者階級の場合では、牧夫や狩人や農夫などのそれぞれの集団が独立して働き、他の集団と混じることがない。とくに戦士たちの階級はどの階級からも区別されている。法によって彼らはもっぱら戦争にまつわる物事に専念するよう縛られているのだ。さらに彼らの装備の様式のなかで、盾や槍はもともとアジアの人々が私たちを攻めようとしたときに使っていたものだ。女神は、最初に君たちが住む地域に君たちを作られたように私たちを作られた。君が賢明であるならば、最初からすぐにどれほどの注意を女神たちに捧げているものか理解できるはずだ。世界秩序に関する私たちの研究において、私たちは神々が人間界に顕現されることによってもたらされる予言や病を癒す薬を含む、数々の発見を追ってきた。そのなかで私たちは規律訓練に関することなども学びえた。これは女神が君たちの都市を作った際に、最初に考案した社会規範の仕組みとまったく同じであるという事実に他ならない。君たちを産んだ土地として女神がかつて選ばれ、後の人々に優れた知性をもたらすような一年中穏かな気候を見つけられたようにね。そして、戦争と知恵を愛するようになり、また後の人々が彼女自身を愛するようになるような土地を女神は選ばれ、そして君たちの都市を初めに作った。君がそこに住み、このような法律を見てきただろう。いまや君たちの法律はさらに良いものとなり、そしてどんな素晴らしさにおいても他の人々を上回るようになった――最初の人々が期待し、神によって育てられたようにね』

『ここに記録として残っている君たちの都市に関する多くの偉大な業績は、畏怖の念を抱かせるものだ。しかし、重大さと素晴らしさにおいてそれらすべてを上回るものがある。記録は、ヨーロッパとアジアを全体を一緒に横柄なまでに攻め入って、君たちの都市にひとつの休息をもたらした莫大な勢力について語っている――それらは大西洋の向こうからやってきたものだった。ヘラクレスの柱*2と君たちが呼んでいる海峡の前に島があったから、当時この海は通行可能だった。この島はリビアとアジアをあわせたよりも大きく、そして、その当時旅をしていた他の島々の人々に通行路を提供していた。これらの島々から人は、取り囲む海を越えたところにある対岸の全大陸にも旅することができたのだ。私たちが話している海峡の内側には狭い入口をもった港以外なにも見ることができないが、その外側の海の実状に反して、大陸と呼ぶのに相応しい島が存在していたのだ。このアトランティス島においては、偉大で荘厳な国王の力によって支えられ、島全体だけでなく、他のたくさんの島々や、大陸の一部もまた支配していた。さらに、その支配は海峡の内部までおよび、リビアをこえてエジプト、ヨーロッパを超えてチレニアにまで達した。ある日、この勢力はそれらの力を結集して、君たちの土地や私たちの土地を含めた海峡内のすべてを支配下にしようと進軍した。ソロンよ、君たちの都市はすべての人類のための素晴らしさと力によって明るく輝いていたのかもしれない。精神の高貴さと戦争の技術を使うことにおいて、他のどこよりも秀でていた、君たちの都市はギリシャ全体の指導者として最初に立ち上がった。その後、君たちの国は孤立し、同盟国から見捨てられ、最大の危機に達した。しかしながら、侵略者たちを乗り越えて、君たちの国は勝利の記念碑を建てた。君たちの国は奴隷となることを防ぎ、また、寛大なことにヘラクレスの境界に住む残りの人々も解放した。しばらくした後に、まったくに恐ろしい地震と洪水がひきおこされ、苦難の日々がはじまることになった。そこで君たちの都市のすべての軍隊がいっぺんに大地に飲み込まれ、また同じようにアトランティス島も海のなかに沈み、そして消えてしまった。そうして海は島の残骸が浅瀬の底にたまって泥の層を作っているので、今になっても通ったり、探索したりできないものとなったのだ』」




*1:私訳者コメント:Hephaestus - Wikipedia, the free encyclopedia。鍛冶屋だの職人の神様らしい。


*2:原註:ジブラルタル海峡





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ルネサンス期ドイツのダンス・ミュージックを聞く

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Neumeyer Ulsamer Collegium Terpsichore
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図書館で借りてきた古楽について感想を書いていくシリーズ、本日はコレギウム・テレプシコレーという団体が演奏するルネサンス期ドイツのダンス・ミュージックについて。ルネサンス期ドイツの音楽を聴く - 「石版!」でも15世紀・16世紀のドイツの音楽について紹介しましたが、このディスクにはミヒャエル・プレトリウス(1571-1621)、エラスムス・ヴィトマン(1572-1634)、ヨハン・シャイン(1586-1630)らの作品が収められいます。ダンス・ミュージックと言えば教会音楽とは違った世俗の音楽であります。こうしたジャンルの音楽が人を朗らかにさせる作用とは、今日においても有効でありましょう。ポップ・ミュージックであり、イージー・リスニング的であり、モンド的でもある、という風に興味深い様相を示しています。






D


(Praetorius: Terpsichore - 1. Entrée-Courante)






D


(Widmann (E): Musikalischer Tugendspiegel - Clara)





Youtubeにアップされているこのディスクからの音源をいくつか上にあげてみました(Collegium Terpsichoreで検索をかければ他にもいくつか候補があがります)。こうした音楽の雰囲気を、ロマン派の音楽と比べると、これは実に穏かな音楽だな、という風に思います。たしかに19世紀の音楽は、ルネサンス期の音楽と比べたらそのどれもが疾風怒濤の音楽となってしまうでしょう。この穏かさが無印良品の向おうとする方向にマッチしているから、無印良品で流れている音楽は古楽やケルト音楽ばっかりなんでしょうか? ルネサンスは「ほっこり」なのか? 栗コーダーカルテットがこの時期の作曲家をとりあげていたと思いますし「栗コーダー=ほっこり系」という認識はあると思うので、もしかしたらそうなのかもしれない。しかし、ドイツに先行してルネサンスの波に飲み込まれたフランスでは、フランソワ・ラブレーが、ウンコやオシッコの話が満載の小説を書きまくっていたわけで、「ルネサンス」という言葉の射程範囲の広さを感じてしまいますね。かたや「ほっこり」で、かたや「ウンコぶりぶり!」という。それが人間の解放だったのか……! と考えると、素敵な時代だなあ、と思います。





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ラテン語格闘記 その1

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先日『はじめてのラテン語』*1について書きましたが、本日はその後のラテン語勉強の模様をご報告。上記は今私が取り組んでいるアウルス・ゲッリウスという2世紀の人物が書いた『アッティカの夜』(Noctes Atticae)の読解に使っている道具一式です。このテキストも『はじめてのラテン語』のなかで紹介されているもので、ゲッリウスが見たり聞いたりした小話みたいなものをいろいろと集めたモノ。翻訳は無いようですが、原文と英訳がネット上でフリーで手に入ります。写真に載っているのは、




  • 辞書


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  • 『はじめてのラテン語』


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  • 英訳(辞書と『はじめてのラテン語』にしかれているプリント)

  • 原文


です。原文はWordにコピペして、書き込みなどがしやすいように行間や文字の大きさなどを調整して印刷しています。基本はとにかくゴリゴリ辞書を引いて、変化形や活用を確認する。


Photo 4月 02, 11 29 51


こんな感じでとにかく書き込んでいく。書ききれない部分は、別途ノートに書き落としています。で、一文が終わったら答え合わせみたいな感じで英訳を読みます。語の変化がまったく頭に入っていないため、辞書を引くにも苦労します。便利なのはPerseusというサイトのラテン語辞書ツール。これは変化した形で単語が調べられるうえ、文法解説まで掲載されているので大変助かります。文法用語が英語なので初めは意味がわかりませんでしたが、使っている辞書の最初の方に文法用語の凡例があることに気づき、そこから充分に活用できるようになりました。





しかし、スラスラなんて読めるわけが無い。まず文法が分からないし、語彙も足りない。英語の本は辞書さえあれば読めますけれど、とにかく時間がかかります。が、はじめたばかりで読めるわけがなかろう! と開き直ることにして、めげずに頑張っていきたいとおもいます。あと、わからなかったらなんか雰囲気で読んだことにする!(ところどころ、ラテン語じゃなくてギリシャ語の言葉が出てくるのでどうしても分からない箇所がでてくるし)文法はもうすぐ『Wheelock's Latin』という英語で書かれたラテン語文法書兼問題集の第7版が出るようなので、それが出たらやり直そうかと思います。



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本日で「序文」の部分を読み終わった(ことにしましょう)。適当にまとめてみると「この本は著者がいろいろ見たり聞いたりした話をひたすらメモっていたものを元に書いたもので、アッティカの長い冬の夜に暇つぶしみたいな感じで書き始めたので『アッティカの夜』というタイトルがついてるんだよ。基本面白話が集まってるけれども、とにかくいろんな内容が入ってるもんだから、もしかしたら難しかったり、ぜんぜん面白くないものもあるかもしれない。でもそれは学校じゃ教えてくれないものだし、頑張って読んでみたらためになったりするかもしれないので、あんまり厳しくしないでくれよな」的なことが書いてあった気がします!






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