クリント・イーストウッド監督作品『ヒアアフター』

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Hereafter: Original Motion Picture Score
Watertower Music (2010-10-18)
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 前作の『インビクタス』に引き続きマット・デイモンを主演に据えたクリント・イーストウッド最新作。なんだか「『グラントリノ』はやはり生前葬だったのか?」と思われるような作品だったと思います――しかし、これはネガティヴなコメントではなく、むしろポジティヴに評価していきたいポイントです。芸術家には三種類の人間がいて、ずーっと同じことをやり続ける人と、どんどんどんどん複雑で巨大なモノを制作していく人と、それとは逆にどんどん作るものをシンプルにしていく人がいる……というのは単なる私見ですが、イーストウッドは前述したなかでは最後のタイプ「どんどんシンプル派」の人に思われてなりません。前作は一言で言えば「ラグビー大好きオジサンのために皆で力をあわせて頑張る!」という話でしたが、今回は「誰の人生でも、なにかが起きて、それですべてが変わってしまうことがある!」という風にまとめることができるでしょうか。





 恋人と楽しくバカンスを過ごしていたはずなのに、津波に出くわして死に掛けた(それどころか恋人も仕事も失ってしまった!)。さっきまでは仲良くしていた双子の兄弟が事故で死んでしまった(もしかしたら自分が死んでいたかもしれないのに!)。小さいときに高熱を出して手術をしたら死後の世界がみえるようになった(奇人変人扱いで結婚もできない!)。この映画はこのような、なんの前触れもなく「なにか」に出くわしてしまった人たちの映画なのだと思います。なにが起こるかわからないし、なんだかわからないうちに出来事が決められている。こうした偶有性が映画のなかで強調されているように思われたのですね。例えば、双子のどちらが兄で、どちらが弟か、これもまったく遇有的な事柄で、今回の映画のなかではたまたま兄(言うまでも泣く、先に生まれたほう)が、弟を引っ張るような性格で存在していますが、それは偶々兄として生まれたこどもが、兄的な性格として生まれてきただけのこと、あるいは兄として生まれたことども偶々な兄として育てられただけのこと。仲良し双子の兄弟が、ヘロイン中毒のダメ母親の下に生まれてきて《しまった》のと同様に、因果が認められません。





 しかし、そのように因果が認められないからこそ、人間は自分には見えない場所に運命や神といった超越的なものを設定するのであり……とか言っていると、また似たような話か……と思われかねないのでやめておきます。しかし、『ヒアアフター』からは「シンプルな物語の作り方」を学べるような気がしました。「なにか」さえ起こってしまえば、それが物語になってしまう。あらゆるものから物語が発生してしまう。それはあらゆるものを物語として読んでしまうビョーキかもしれません。偶々今回の主人公の造詣は、ディケンズおたくで、毎晩アメリカ版ラジオ深夜便を聴いて寝る(なぜかイタリア料理を習ってみたりもする)、という良い感じの設定なんですが、これは別に必然性がある設定はない。そうした性格と「なにか」がおこることの間にはなんの因果もない! が、「なにが」がおこってしまえば物語は始まってしまうんだよ!!





 ……と無駄に熱くなってしまいましたが、もうひとつのテーマはずばり「コミュニケーション」でしょう。主人公は人の手をつなぐと「ズンッ」という重低音が聞こえて(そういう演出なんです)死後のヴィジョンが見えてしまう霊能力者なんですが、彼のもとにはいろんな人がやってくるわけです。みんな死んだ人に会いたいの声を聞きたい、と言ってね。彼は霊《媒》師という言葉がありますけれど、ここで彼はまさに媒体(メディア)としての役割を果たします。でも、メディアであると同時に、彼はひとりの人間でもある。彼がメディアとなるときに、彼がメディアになってくれるよう依頼した人物の情報や秘密が、彼の元に残留してしまう。こうして主人公は、依頼主の隠された情報、表に出ない情報を手に入れるのですが、しかし、そうした情報を得ることによって、主人公と依頼主の関係性が破綻してしまう、ということがあり得る。「知らないほうがいいこともある」。これは劇中でも登場するセリフでありますが、まさにその通り。相手について深く知ること、深く理解することが、必ずしもコミュニケーションを円滑にするわけではないことをこの映画は物語っている。主人公が自分の能力を披露することを拒むのも、ある種の《思いやり》として捉えることもできるのです。



他者といる技法―コミュニケーションの社会学
奥村 隆
日本評論社
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 以上に書いたのは、私の学生時代の先生であった奥村隆先生の本に寄りかかってお話でした。ただ、この映画では深い理解によってコミュニケーションが破綻する例でだけではなく、主人公が自閉した人物の《扉を開ける》(これも劇中の表現です)ことによって、新たに「なにか」が始まることも描かれています。あらかじめ扉をノックして「開けて良いですか?」と訊ねることができれば良いのでしょう。扉が開けられてはじめて、何が入っているかがわかる、というのにはリスクが伴うのです。《思いやり》とはそうしたリスクを回避するための術でもあるのですね。サントラは、今回もイーストウッド本人。優秀なアレンジャーと一緒に仕事をしている、とはいえ、これではイーストウッドが今世紀最大のメヌエット作家になってしまうのではないか、というチャーミングな曲が書かれています。短調の劇的なアレグロや悲哀に満ちたアダージョが書けないだけだと思いますが、イーストウッドの書くメロディには確かに彼のクセがいつも認められ、それがどんなメロディだったかほとんど記憶に残らないものの、聞けば「あ、また自分で書いたのか」と気がつける記名性が謎です。





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細川俊夫/フルート作品集

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細川俊夫:フルート作品集

Naxos (2011-02-23)
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 海外で活躍する日本人作曲家として近年では藤倉大に注目が集まっているけれど、細川俊夫は彼よりずっと前から海外で活躍し続けている日本人作曲家だ。ついこないだもベルリン・フィルによって彼の新曲が演奏された、というニュースが入ってきた。天下のベルリン・フィルから新曲を委嘱される、というのは大変名誉なことであるらしく、作曲家の喜びの声がNHKのニュースで紹介されていた。彼は現在、ドイツに活動の拠点をおいているけれど、以前から日本で定期的に現代音楽のワークショップなどを監督しており、日本の音楽シーンとのつながりも切れてはいない。こうした意味で細川を「海外と日本の音楽をつなぐ重要な作曲家」として認めることができるだろう。かつて武満徹がシーンを牽引していたときのような華やかさはないけれども、静かに重要なポストを務めている人物である。録音の数も多い。





 そんな彼のフルート作品集が先ごろ、NAXOSから発売された。かの「日本人作曲家選輯」シリーズの一枚として。このシリーズは、第一弾の橋本國彦に始まってこれまで日本の知られざる作曲家を発掘してきた名企画であるが、今回の細川俊夫の作品集がおそらくもっともコンテンポラリーなものではないだろうか。調性的《ではない》作品集としてもこのシリーズのなかでは異色に思える。





 そう、細川俊夫の音楽は調性的なものではない。心が和らぐようなメロディや、ダイナミックな和声の動きはなく、西村朗流に言うのであれば「誰も聴いて幸せにならない類の現代音楽」とさえ言えるかもしれない。この作品集に収録された曲も、フルートを中心に添えたものではあるけれど、フルートという楽器のもつ優雅なイメージからは程遠いものである。音数は多くなく、時に発声を伴う特殊奏法を駆使して演奏されるその音楽は、吹き荒ぶ冬の風のような厳しさをもって鳴る。水墨画のモノトーンの彩が、彫刻のごとく空間に刻まれている……視覚的なイメージを借りれば、そんな風に言えるかもしれない。水墨画の淡い印象が、くっきりと刻まれている、というどこまでも矛盾した表現だが、私には適切に思われる。





 西洋の聴衆はこうした音楽をどのように聴くのだろうか? という点が気になるが、私はこれを純日本的な音楽だ、という風に解釈する。ペンタトニックな音律(つまり、エキゾチックなものとしての《東洋》の理解)に頼らずに、これほど日本的な音楽を書く視点は稀有なものだ。邦楽的な本質が、見事に西洋的な音楽語法のなかに翻訳されている。音(1)と沈黙(0)との対峙というデジタルな分断が、どこまでもリニアに連続して響く。そうした音世界が細川俊夫の音楽には広がっている。フルート独奏は、アイスランドのコルベイン・ビャルナソン。彼はブライアン・ファーニホウのフルート作品全集を残しているそうだ。こうした実績を考えれば、現代音楽のエキスパート、なのだろう。ただ、この録音を聴いて驚くべきなのは、細川の音楽が見事に理解された《情景》だ。楽譜はこのようにも世界をつなぐシステムなのか、と改めて西洋音楽の発明の偉大さに感じいったりもする。





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読売日本交響楽団第501回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

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指揮:ゲルト・アルブレヒト


ヴァイオリン:神尾真由子


《シュポーア・プログラム》


シューマン/〈『ファウスト』からの情景〉序曲


シュポーア/歌劇〈ファウスト〉序曲


シュポーア/ヴァイオリン協奏曲第8番 〈劇唱の形式で〉


シュポーア/交響曲第3番



 「シューマンはとても有名な作品がたくさんあり、多くの人に愛されている作曲家です。しかし、シュポーアとは誰なのか? 今日のお客様の多くがそんな風に思っているでしょう」――シューマンとシュポーアによる2曲の《ファウスト》にまつわる序曲を演奏した後に、本日の読売日本交響楽団定期演奏会を指揮したゲルト・アルブレヒトはこんなことを話し始めた。日本の聴衆にも自分の言葉が伝わるように、ゆっくりとした英語で。それは彼がシュポーアの特集を組んだ理由についてのスピーチだった。





 「時間には様々なものを判断し、後世に伝えられるものを選択するという役割をはたします。しかし、私はこうした《時間による審判》にも誤りがあると思うのです。本当は忘れられるべきではない作曲家たちが忘れられているかもしれない」。「音楽を含めた芸術一般では、◯◯よりも△△のほうが素晴らしい、だとか××が最も優れた作曲家だとか価値の順序を決めたがる。けれども、私はそうしたことをせず、個々の良さを認めたいと思うし、そうした個々の良さを聴衆の皆さまに聴いていたただきたいと考えます。エベレストと富士山を順序づけることはできないように、作曲家同士を比べることなんかできないでしょう?」





 こうした彼の言葉は、シュポーアという「忘れられた作曲家」が取り上げられる理由、というよりも取り上げられ「なくてはならない」理由が浮びあがらせる。簡単に言ってしまえば、これは発掘作業なのだし、一種の検証作業である。《時間による審判》は果たして正しかったのか? シュポーアは忘れ去られて良かったのか? アルブレヒトがシュポーアを演奏するとき、それは音楽史に対してこうした疑問を投げかけることになる。それはとても興味深いものだ。そもそも「個々の良さを認めたい」というのが、伝えられるべき音楽を選択するフィルターとして批評や評論の機能と反抗している。こうした「知られざる作曲家」シリーズを私はこれまで「物好きな人たちのもの」と考えてきたけれど、アルブレヒトの言葉を聞いていたら音楽環境に対して積極的で攻撃的な態度のように思い直してしまった。





 とはいえ、こうしたことが胸を張って主張するためにはそれなりの演奏内容が必要だろう。しかし、アルブレヒトについて言えばそのような心配は一切必要がなかった。もう本当に素晴らしいドイツ的な演奏で、1曲目に演奏されたシューマンの最初の和音からして「これは……!」という音がホールに広がる。今年度、このオーケストラの定期会員になってずっと演奏会の序盤の出来が悪い、という感想を抱いてきたけれど、今日はもう最初からすごいパフォーマンスを発揮。ここまでポテンシャルを持ったオケだったのか、読売日響は……と驚くことになった。1998年から2007年まで常任指揮者としてこのオケを指導してきたアルブレヒトだが、私はその時代を知らない。けれども、こうした音の鳴らし方ができる指揮者と仕事をして、今のオケの姿があるのかもしれない、という風にも思った。





 ゲルブレヒトが鳴らす音は、「ドイツ的」といってもガチガチに硬くて重厚感ばかりが強調されたものではなく、牧歌的というのが適切に思えるほど、柔らかい響きを持つ。これがとても心地が良い。こうした響きはシュポーアの音楽の洒脱なキャラクターとよくマッチしていた――私もこれが初シュポーアだったのだが、1770年生まれのベートーヴェンとほぼ同世代人(1784年生まれ)の人とは思えないほど軽みのある音楽だ。これを重厚に演奏してしまったら、完全に魅力が損なわれてしまうだろう。ただ、こうした軽い魅力がシュポーアが《時の洗礼》に耐え切れなかった理由のようにも思われるのだが。「ドイツ音楽=重厚なもの」という固定観念は、ベートーヴェンに始まり、ブラームスとワーグナーによって二方向に強調された(ブラームスは晦渋さを、ワーグナーは崇高さを)……と乱暴に整理してみると、シュポーアの居場所はどこにもなくなってしまうかもしれない。





 ヴァイオリン協奏曲第8番のソリストとして登場した神尾真由子も素晴らしかった。彼女がチャイコフスキー国際コンクールで優勝した際の模様は、たまたまテレビの特集番組で観ていたが、その当時はあまり良い印象を持っておらず、そのイメージは今日演奏を聴くまで若干ひきずられていた。しかし、これもアルブレヒトの最初の一音と同様に、一発で「これは……!」と驚く演奏だった。今日の彼女の演奏は、弱冠25歳にして堂々たる風格や高い気品を感じさせるな表現であるように映った。これにはアルブレヒトのサポートがあったのかもしれない。しかし「情熱」や「炎の」といったいささか陳腐な言葉に踊らされるような表現ではないところだけとっても好感が持てる。音の表情のつけ方もいちいち魅力的だ。現在、彼女はザハール・ブロンに師事しているそうで「これでは世界中のソリストがブロン門下になってしまうな……」と思ってしまったけれども(ブロン門下生のラインナップについてはWikipediaを参照されたし)、今後どういう風に変化していくのかがとても楽しみな演奏家に出会えたのが嬉しい。





 総じて満足度が非常に演奏会だった。こうした演奏会にいくと東京の文化の水準の高さを感じる。玉石混合……では、言葉の選び方が悪いが(多様性のほうが適切か?)、今日のシュポーアみたいなものがあると、文化にも深みを感じるようになってくる。日本で西洋音楽が演奏されはじまったのなんて、高々150年ぐらいしか歴史がないわけで、それを考えると今こうして東京でシュポーアが演奏されているという事実はなんだか感慨深いものがありませんか? ベートーヴェンもブルックナーもブラームスもマーラーも(……ドイツの作曲家ばかりになってしまったが)シュポーアもある。これってどんどん「ホンモノ」に近づいていっている、ということなんじゃないか。もちろん、シュポーアみたいなのは時々で良い。でも、こうした「時々の機会」に「へえ~、シュポーアってどんな作曲家なんだろう?」と軽い興味をもってコンサート会場に足を運べるような、そういう受け手側の受容力がもっと高まれば、もっともっと豊かな文化と呼べるものができあがるんじゃないか、なんて思った。空席が目立った演奏会だったので。





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リチャード・オウヴァリー『地図で読む世界の歴史 ヒトラーと第三帝国』

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ヒトラーと第三帝国 (地図で読む世界の歴史)
リチャード オウヴァリー
河出書房新社
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 歴史全般について興味をもち始めている今日この頃、ふと思うのは「どうして歴史の教科書はあんなにつまらなかったのだろう?」ということで、昨年は山川の歴史教科書を大人向けに書き直したモノがよく売れていたらしく、実際私も世界史版を購入したのだけれども読みきれないほど退屈だった(あれを平気で読める人は、よっぽど普段退屈な本を読んでいるに違いない)。なんというか平坦な流れしか書いていない歴史記述は、毒にも薬にもならない。自分が高校生の頃、世界史が好きだったのはやっぱり先生がとてもいい先生だったことが一番大きいのだと思う。雑談が多くて、やたらと雑学を話に盛り込んでくる先生がいて、あれは聞いていて楽しかった。あと、世界史の資料集が面白かったからなのだと思う――授業中先生の話を聞くのに飽きると、資料集を読んで過ごしていた人~、手を上げて~(ハイ!)





 で、濃い目の雑学っぽい知識がふんだんに盛り込んであって、かつ、資料集っぽい本があったならそれって歴史本として自分的に最強なんじゃないの? とか思っていたのだが、あったね。河出書房新社の「地図で読む世界の歴史」シリーズ。これ、最強。まず手始めに『ヒトラーと第三帝国』から読んでみたんだけど面白い! 





 地図は、第二次世界大戦の戦線がどのように拡大していったか~、など書名から当然期待されるものはバッチリおさえられているのはもちろん、第一次世界大戦直後の経済混乱で反ユダヤ的機運が高まってドイツ各地でユダヤ人を虐待したり、シナゴーグを破壊されたその場所、ヒトラー率いるナチ党が各地でどのように支持率をあげていったかの変遷、そして各地でバカ勝ちしていたころの第三帝国の理想主義者たちが掲げた《新秩序》構想……などなど大変幅広く、どれも面白い。これらの資料を読んでると「反ユダヤ主義ってすごく根深くて、なんか不満が高まるとそのはけ口がユダヤ人に向う、っていう流れがずーっとあったんだな」とか思うし(だからユダヤ人の存在は『社会問題』扱いだったのだよね)、《新秩序》構想の壮大さ(ヨーロッパ全土に鉄道網を敷設する、とか、でっかい運河を作ってオーダー川とエルベ川とドナウ川をつなぐ、とか)は工業ユートピアな感じを想起させる。





 統計資料では、第二次大戦中のドイツ人の摂取カロリーの表がベストヒットでした。これはもうすごい。戦争が敗色濃厚になっていくとどんどん摂取カロリーが下がっていき、終戦直前は一日に1500kcalぐらいしか食べてない(これは成人男性の一般的な基礎代謝量をごはん1膳分ぐらい下回る)。いや~、そんな風になったら戦意もなくなるよな……。著者のリチャード・オウヴァリーはイギリスの現代史学者で、第三帝国時代のドイツ史の専門家。ここで彼が用いている地図や統計資料は、歴史記述をとても生き生きとしたものとして読ませてくれる。こういう類の本は「歴史=受験で使うもの」的な固定観念を解体してくれるのかもしれない。「地図で読む世界の歴史」シリーズ、他のものも読んでみたい。





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Alexandre Tharaud plays Scarlatti

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Scarlatti: Sonatas
Scarlatti: Sonatas
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Alexandre Tharaud
EMI France (2011-01-24)
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 昔は池袋のメトロポリタンに入っているHMVや新宿のFlags内のタワレコみたいな大きなレコード店のクラシック・コーナーに足を運ぶと「ああ、今日はどれを買って帰れば良いのだろう……!(あれもこれも欲しいよ……!)」と迷いながらCDを選んだものだけれど、最近はそうでもない。自分の趣味がもうできあがってしまっているのだ。学生のときのように「あれもこれも欲しい」という風にならず「あ、これは買っておこう」と自然に・適切に選べるようになる。けれども、最近はこれとは別な意味で迷う場面も発生している。それが「欲しいのが全然ないや、どうしよう……」という場面だ。





 大きなレコード店の試聴機に入っているのが半世紀以上前の演奏家のライヴ音源ばかりだったり、レコード会社が売り出している新人の、(ヴァイオリニストなら)チャイコフスキーだ、メンデルスゾーンだ、ブラームスだ……、(ピアニストなら)チャイコフスキーだ、《皇帝》だ、ショパンだ……などと決まりきった定番曲ばかりだったりするのを見かけると「これって本当に必要なんだろうか? 出してなくても誰も困らなくない?」と思ってしまい(発掘音源なんかとくにそう)、途方にくれることになる。クラシック・コーナーってこんなにマニア向けのCDばかりだったかな? とてもついていけないよ、と何も買わずに帰ることもある。だいたいあの曲もこの曲も持ってるし、よっぽど好きな演奏家か、あるいはよっぽど評判が良い録音か、または、とても美人な演奏家でもない限り、食指が動かない。





 そういうわけで手っ取り早く自分にとって目新しいものを探す、となると古楽とか現代音楽とかの棚の前に行くことになる。そこは自分が知らないものばっかり置いてあるコーナーだからだ。前置きが長くなったけれど、アレクサンドル・タローが演奏するスカルラッティのソナタ集もそういう状況で手に入れた。全然知らないピアニストだったし、スカルラッティも名前しか知らなかったが、新しいものに《出会う》とはそういうことなのだろう。ろくでもないモノばかり試聴機に入ってると「こんな店、さっさとつぶれろ!」と呪詛の言葉も投げかけたくなるが、実店舗にはこうした魅力もある。





 アレクサンドル・タローは1968年生まれのフランス人ピアニスト、とのこと(ネット上では『フランスの俊英』という紹介をみかけたが、40歳を超えた人間に対して俊英はいかがなものだろうか……と思わなくもない)。バッハやクープラン、ラモーの録音もおこなっている一方で、ロマン派や近現代の作品も手広く抑えるレパートリーが広い演奏家のようだ。スカルラッティには555曲ものハープシコードのためのソナタがあると言われているが、この録音ではそのなかから18曲を選んでいる。その選曲は、スペイン民謡に影響を受けたと思われるものや、宮廷舞曲的なもの、技巧的なもの……などなど、ヴァラエティに富んだものだ。通して聴いていくと、こうした楽曲の性格の弾き分けが丁寧で好感が持てる。冒頭のKk.239は硬めのタッチでスマートに弾いているが、次のKk.208での柔らかいタッチとのギャップにハッとする――ルバートを長めにとり、穏かに歌いこんでいく様にこのピアニストの品の良さを感じる。「Andante e cantabile」の模範的な例とはこういうことなのかもしれない。






D


(アレクサンドル・タローが本作について語る映像)





 それにしてもこの音楽の居心地の良さは素晴らしいなあ、と思った。前述の通り、スカルラッティの作品を意識して聴くのはこれが初めてなのだが、なにかこの日常に上手い具合にハマッてくれる音の感覚は、どこか無印良品的なものを錯覚させる(っつーか、これ、店内で流れてたんじゃないのか?! と思うほどに)。1685年、奇しくも彼はJ.S.バッハと同じ年に生まれているのだけれど、まるで性格が違う風に感じてしまう――スカルラッティの作品の愛らしさを聴いていると、たしかにバッハの作品は「小難しいもの」とみなされたのにも納得がいく。昔のヨーロッパの貴族はやることがなかったから憂鬱で、その気持ちを慰めるために芸術を求めた……なんていう話を聞いたことがあるけれど、こうした音楽なら適切だったのかもしれない。そうした音楽が、やることがたくさんあって仕方がない現代の人の琴線に触れる、というのもなんだか不思議な話に思える。熱心な古楽ファンの方は「モダン・ピアノによるスカルラッティなんて邪道!」とおっしゃるかもませんが、良いですよ、コレ。





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江村哲二/地平線のクオリア

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江村哲二作品集《地平線のクオリア》
大野和士/新日本フィルハーモニー交響楽団 他
ALM RECORDS (2007-07-07)
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 日本の作曲家、江村哲二の作品を初めて聴いたのは昨年のサントリーサマーフェスティバルでのことで、その日は芥川作曲賞の受賞者による委嘱作品のうち、とくに評価が高かった管弦楽作品が演奏されていた。そこで江村の《プリマヴェーラ(春)》を聴き、ああ、日本人でもまだこんな艶やかで美しい作品を書くことが許されているのだな、という驚きが喜びとともに胸に沸いた。しかし、この驚きは同時に悲しさをもたらすものでもあった――江村哲二はすでに故人だったのである(2007年6月11日、47歳の若さで亡くなっている)。アルバム『地平線のドーリア』は、江村の死後に発表されることとなった管弦楽作品集。これに収録された(残念ながら第三部のみの抜粋であるが)《プリマヴェーラ(春)》を聴きながら、改めて今の現代音楽の状況において美しい音を追求することのできる度胸、そしてそれが許された才能があまりに早く失われてしまったことが残念でならなかった。





 アルバムの表題作となっている《地平線のクオリア》(2005)は、武満徹に捧げられた作品であるらしい。無論このタイトルは武満の《地平線のドーリア》をもじったものであろう。作曲者自身によるプログラム・ノートには以下の言葉がつづられている。



作曲とは聴くということ。それ以外の何ものでもない。このことを教えてくれたのは武満徹の音楽である。自分の内なるところから湧き上がる音の響きにじっと耳を澄ますこと。それが作曲である。しかし、その響きはあたかも地平線の上に在るが如く、それを手にしようと追いかけても決してそれを実体としてつかむことはできない。その響きは、私が私であるという証でもあり、私という体験でしか語ることのできない「クオリア」である。そしてそのクオリアへの果てしない憧れによって作曲家は作品を書き続けているのである。



 追いかけても決してつかむことのできないもの。言葉にできないもの。そうしたものへの憧憬が作曲家の創作意欲を駆動させる(江村が語るこうした態度はまぎれもなくロマンティックな態度である)。《地平線のクオリア》で聴くことのできる、淡く美しいハーモニーは憧憬の対象となる《なにか》のつかめなさを表象しているのだろうか――しかし、そこで協和する音は、不協和音に脅かされることでゆらめきながら消えていく。夢の穏かさ(こうした印象は晩年の武満の作品からも受け取ることができる)は、かき消されてはよみがえり、潮のような運動が曲をドラマティックに進行させていき、弦楽器の柔らかい和音で曲は締めくくられる。この安らいだ終幕の残響をいつか生で聴いてみたい。そのとき、私はすでにこのようにいない作曲家の代わりに観客席にいられることに名誉と幸福を感じるであろう。





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Date Course Pentagon Royal Garden 菊地成孔 同一の呪法による二つの儀式 菊地成孔と菊地成孔によるダブルコンサート 巨匠ジークフェルド/菊地成孔 ダブルコンサート二日目 @新宿文化センター

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FRANZ KAFKA’S AMERIKA
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DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN
Pヴァイン・レコード (2007-04-06)
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 (タイトル長!)活動再開後DCPRGの首都東京における二度目のライヴは《野戦》から《室内戦》へ。会場の新宿文化センターはステージ向って右手にパイプオルガンがあるホールで演奏中のライト演出の最中にそれを眺めると、『猿の惑星』に出てきた核ミサイルを偶像として崇めるミュータントの基地を思い出した。密室に群れた観客は熱狂するカルト信者たちのようにも見える。音を求める信者たちはグルが語るグルーヴの始原に関する偽史を聞く。鼻の先と前歯がベース音によって震え、腰が奇数拍子と偶数拍子のどちらかに合わせて回転する。戦争を模した音楽、呪術を有した音楽。どちらの意味でもDCPRGの音楽は、日常から一時的に観客を離脱させる効用をもつ。オーケストラも演奏が可能な広いステージから飛んでくる音は多幸感をもたらし、私はそれに飲まれた。





 聴きながら考えていたのは、音楽の具体性と抽象性について。奇しくも現代音楽の世界では、具体音楽のほうがわけのわからない音楽(一般的な《音楽》のイメージから遠い)になるけれど、それとは関係がない。考えていたのは、もっと観念的な問題で、我々はどういう音楽を抽象的な音楽とよび、どういう音楽を具体的な音楽とよぶのか、についてだった。音楽は音だから目に見えない。だから「具体」を与えることはできない。「○○のメロディ」とあるメロディに名前を与えることは可能だが、そこで名指しされた○○と、メロディの間には直接的な関連はない。例えば「かえるのメロディ」があって、それが誰もに「かえるのメロディは、たしかにかえるっぽい」と納得されているとするならば、それはメロディとかえるのあいだに媒介となる何らかのイメージがあって、それがメロディとかえるとを繋いでいる。そうではない、本当の「かえるのメロディ」があるとするならば、それは音楽ではなく、かえるのメロディっぽく聞こえる鳴き声、ということになるだろう(現代音楽の具体音楽で用いられる音とは、そうした《○○の音》だ)。だからあくまで音楽の具体性とは具体《的》なものである。ただ、モノとメロディとをつなぐイメージを喚起する強さ(印象)が強いほど、それは具体《的》の《的》は強くなっていくように思われる。いわば、メロディの存在感や力強さは音楽の具体性と直結しているのだ。





 DCPRGのライヴへと話を戻そう。どうやらDCPRGのライヴは「ジャングル・クルーズにうってつけの日」から始まるのが形式化されているようだ。これは彼らが活動休止前に発表したアルバム『フランツ・カフカのアメリカ』の一曲目に収録された曲で、非常に決まりごとが少ないシンプルな作品である。テーマとなるメロディの存在感は希薄で、ひとつのベースのリフレインとポリリズムのうえで、各即興者が自由にソロを取る。ゲームのように即興者が交代され、度々ゲネラルパウゼがとられ、また音楽が再開する、この繰り返しによって音楽は構成される。この音楽的特徴は、その後に演奏された『構造と力』、『アイアンマウンテン報告』に収録された曲と比べても特異だ。なかにはこの曲を退屈だ、と感じるリスナーもいるのではないだろうか。キャッチーなメロディがない。菊地成孔の言葉を借りるならば、これは《甘い皿》ではない。そして、こうした音楽が抽象的な音楽と呼ばれる……のではないか、と思ったのだった。





 ただ、こうした抽象的な感じが音楽の評価に比例しているか、といえばそれはまた違った話となる。というか、私としてはこの抽象的な音楽性が今最もこのバンドの素晴らしい部分の発露になっている、と考えている。各演奏者の素晴らしいパフォーマンスが長大に披露される「ジャングル・クルーズ……」の後では、はっきり言って、どんな作品もケレン味のあるサービスに思えてしまうぐらい圧倒的なものだ。で「ジャングル・クルーズ……」がもつこの反比例(?)から、中期プラトンを思い起こしたりもしたんだが、そこまで今日は書く元気がないので興味がある方はこちらを読んでください。





井筒俊彦『神秘哲学』を読む #6 - 「石版!」





 さて、もうちょっと《具体的な》ライヴの感想を書きますけれど、津上研太・坪口昌恭・大儀見元の活動休止前からのメンバーの演奏はブラボーでした。とくに津上によるアンコールでのソロは超スムースでグッときました(あま~い、ともはや誰のネタなのかもイマイチ定かではない叫びをあげたくなるほどに)。千住宗臣のドラム・ソロも超ブラストしてて大爆笑しましたし、大村孝佳のバリバリのメタルっぷりも最高でした(このバンドにメタルのギタリストがいる意味は、とても重要だと思います)。ホールでのライヴは、座ったり立ったりできてすごく楽!!





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結城浩『暗号技術入門 秘密の国のアリス』

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新版暗号技術入門 秘密の国のアリス
結城 浩
ソフトバンククリエイティブ
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 昨年の秋ごろに、情報セキュリティスペシャリストという資格を受けていた。結果は不合格。結構勉強していたし、手ごたえも感じていたのに、全然惜しくもなんともなく落ちていた。それが悔しかったので春にまたリベンジ・マッチをかけようと基礎がための意味で『暗号技術入門』を手にとった。著者は最近は『数学ガール』でも注目を浴びている結城浩。副題には「不思議の国のアリス」とあるが、このへんのキャッチーなネーミングが上手い。





 内容は通読できる暗号技術の概説書という感じ。残念ながらこれは私が求めていたものではなかった。この程度なら情報セキュリティスペシャリストの資格の勉強をしているうちに自然と覚えることがらだろう。資格的には、基本情報処理技術者、応用情報処理技術者にチャレンジする人のうち、公開鍵暗号方式やディジタル署名の仕組みがどうしてもわからない! ぐらいのレベルの人にはおすすめかもしれない。情報処理資格の勉強をしていると「この技術ってなんのためにあるの?」と根本的な疑問を抱いてしまうことがあるけれど、そうした問いを具体的なイメージを与えて解決してくれる、という側面は文系大学卒でなんとなくシステムの会社に入った人(私もそのひとりだが)にはありがたいはずだ。





 というわけで資格の勉強的にはイマイチ身にならなかったのだがつまらない本ではなかった。情報システムに関わる人以外に、セキュアな通信はどのようにおこなわれているの? なんてことに興味を抱く人はあまりいないだろうが、昨今ではインターネットを使う誰もがこうした技術の恩恵にあずかっているのだ。そうした環境において本書で得られる知識は、専門知識ではなく教養として受け取られても良いと思う。まあ、そうした技術について知らなくてもインターネットができてしまう、という状況はこのメディアが「当たり前のもの」として社会に浸透した、という事実を端的に示してもいるのだが。





 あと参考文献には山形浩生の翻訳書が二冊。IT系翻訳もやっていることはもちろん知っていたけれど、こんな仕事もしてたんですね……とこの人のカバーしている領域の広さに敬服したくなるのだった。





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ドミニク・チータム『「くまのプーさん」を英語で読み直す』

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「くまのプーさん」を英語で読み直す (NHKブックス)
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NHK出版
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 "Winnie-the-Pooh"を原書で読むのと平行して、こんな本を読んでいた。なんでも「『くまのプーさん』の世界には、豊潤なるイギリスの文化が溢れている。プーを読むことで、英語を母語とする人々と同じ文化を共有することが可能になり、同時に、イギリス文化の一部となることができると言えるだろう。幼い頃にプーの世界で育ったイギリス人の著者が、原文の英語が持つ豊かな表現力などを紹介しながら、プーの世界にどのような文化が息づいているのかを紹介していく」だそうで、サブテクストにはとても良さそうだった。しかし、これは誇大広告的な感じであって、Poohに含まれたイギリス文化の紹介はあまり多くはない。どちらかと言えば作者であるA. A. ミルンがリズミカルな文章を書くセンスにどれほど長けていた詩人であったか、といったところに焦点が当てられているように思われる。この文章のどこが優れているのか、という解説のほうが多いのだ。しかし、原書を読み終えてからPooh本文の解説を見れば、それが実に共感できるものだ。





 全体は三部に分かれており、第一部はPoohが書かれた背景と作者や登場人物への解説となる。その後の第二部と第三部はそれぞれ、Poohの物語である2冊の本、"Winnie-the-Pooh"、"The House At Pooh Corner"の各エピソードを詳細にみていっている。第一部は原書を読む前に読んでもかまわない。しかし、第二部と第三部は原書を読み終えてから読んだほうが良いだろう(だから"Pooh Corner"を読んでいない私はまだ第三部を読んでいない)。ここでは「この文章が英語的になぜ面白いのか」という解説がおこなわれる。これはなぜ面白いのか、という解説ほど野暮なものはないけれども、すでに原書で「笑えてしまった部分」についての解説であれば「ああ、そこはやっぱり笑うよね」という感じで、まるで友人と「あれは良いものだよね」という感想を言い合うみたいに読めてしまう。そこが楽しい――これは解説なんかなくてもPoohは笑えるし、楽しい(英語のReading教材には最高だ、ということになるかもしれない)ことを端的に意味しているようにも思う。イギリス文化を知らなくても、Poohは読めるのだ。ああ、はやく"Pooh Corner"も読んでしまって、この本の残りの部分も読んでしまいたい……!





追記:なぜか本書ではオウルの名前が「フクロウ」と訳されてしまっている。翻訳者はディズニーのアニメをチェックしなかったのだろうか……?





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井筒俊彦『神秘哲学』を読む #6

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神秘哲学―ギリシアの部
井筒 俊彦
慶應義塾大学出版会
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 本日は第二章第三節「弁証法への道」を見ていきます。ここはプラトンの「直線の比喩」の説明からはじめられます。この部分を読むに当って、まずは以下のような図を頭に浮かべてください。




B------E------C-------D------A




 この直線は前節で解説された「洞窟の比喩」の概念図といってもいいでしょう。ポイントAは洞窟のもっとも奥で逆側の終点Bは太陽を表象します。するとこの無機質な図にこんな肉付けが可能です。




明るい                暗い

B------E------C-------D------A




 A→Bの方向でこの線を辿れば「闇は次第に薄れて何時しか光に転じ」、逆にB→Aの方向でこの線を辿ると「眩きばかりの光明は次第に弱まって薄明の光りに転じつつ遂に黯惨たる闇に消える」(P.64)――頑張って図からこのような情景を思い浮かべてください。明るさ/暗さは光に関する感覚的な表現ですが、プラトンにおいてはこの明/暗は、認識の明/暗にも置き換えられます。さらに、Cを基点としてBの側は叡智界の、Aの側は感性界を表象するものです。再び図に肉付けをおこないましょう。するとこんな風になる。




明るい                暗い

B------E------C-------D------A

認識ハッキリ            認識ぼんやり

��叡智界)              (感性界)




 図は4分されています。残りの部分についても見ていきましょう。これもやはり洞窟の比喩と対応します。直線の最右部(A-D)は、洞窟の最も暗い部分です。そこでの人々は物体の影しか認識することができません。認識主体は「憶測」しか持たず、認識対象は「幻影」となります。しかし、彼らはその感性を信じきっているのでこうした不確かなものを実在性があるとして疑わない。それは端的に言って完全なる無知の状態です。





 ひとつ段階をすすめて(D-C)は、洞窟で振り返り、影の実体をはじめて見るところに該当します。認識は「憶測」から「信念」へと変わります……が、この訳語だとイマイチ何を言ってるかわからないですね。噛み砕くと「なんもわかってない状態」から「ちょっとはわかった状態」へとレベルがあがった、ぐらいに理解しておけば良いと思います。ただしレベルがあがったとはいえ、そこは感性界での出来事にすぎません。第一章のヘラクレイトスを思い出してください。感性界の出来事は去来転変し少しも停在することのない無常の世界でした。こうした世界観をプラトンも共有している、と井筒は言います。そこでの認識はあくまで不確実なものを対象とした「仮見」なのです。





 さて、もうひとつ段階を進めると直線を半分に割っていたポイントCを乗り越えることになります。前述のとおり、叡智界の領域にはいってくる。ここでようやく認識の対象が「永遠に存在するもの」となります。叡智界の最初の局面(C-E)は、悟性認識の領域です。プラトン曰くこれが「中間に」ある知識を意味します。なぜ「中間」なのか。井筒はこれを悟性は叡智界の認識ではあるが、感性界の認識を基盤として成り立つからだ、という風に解説しています。





 井筒は喩えとして、指の話を持ち出します――目の前に3本の指を見ているとする(なんでも良いけどここでは、親指と人差し指と中指をみていることにしましょう)。それは個別的な観点からすると硬かったり、柔らかかったり、長かったり、短かったり、それぞれ別個のものとして認識できる。三本の指はそれぞれ違ったものですが「指」という意味では同じ指です。この「指」という観念も悟性的なものだと思われるのですが、ちょっと違う。それは感性的な認識において認識しきれてしまう。では、どのようなものが悟性なのか。





 さきほど我々は指が硬かったり、柔らかかったり、長かったり、短かったり、ということを確認しました。しかし、それはあくまでその指が別なものと比べて、硬かったり/柔らかかったりするからそのような認識ができるのであって、モノそのものが硬かったり、柔らかかったりするわけではありません。あくまで「私の指は(石より)柔らかい」とか「私の指は(豆腐より)硬い」とかそんな風に認識しているに過ぎない。するとこんな言い方もできるでしょう。指は柔らかいのに硬い。なにそれ! という感じですが、感性的な認識下ではそんなことが言える、ということです。ここでひとつ考えを進めましょう。そもそも「硬いっていうことはどういうことなんだ?」ということを考えるのです。大きいってことはどういうこと? 小さいって何? こういう問いかけを自分に強いると、悟性が作動する、とプラトンは考えました。





 硬いこと自体、柔らかいこと自体、大きいこと自体、小さいこと自体……いろんなものが悟性によって追求されますが、このとき追求される「○○自体」がプラトンが考えたイデアに他なりません。プラトンは叡智界に、そういう硬いこと自体みたいなものが存在している、と考えていたのです。(村上春樹流に言うならば)「世界のどこかに1キログラム原器に存在するみたいに」(ってどっかで目にした記憶があるんですが、思い出せません)。頭もじゃもじゃの脳科学者の人がクオリア=イデアと言っていましたけれども(これもどこで読んだか忘れましたが……)、クオリアを脳が感じる「○○自体」ってことにしておくと、「クオリア=イデア」説もなんだか理解できるようにも思います。





 話を本筋に戻しましょう。以上のように悟性はイデアを追求しようとする。しかし、この段階の知性は、まだ自分だけの力では直接端的にイデアを把握することができません。感性界の認識を基盤としなければならない(この『基盤』が、さきほどの喩えでいうところの指にあたるでしょう)。この基盤はイデア認識のための「仮説」となるのです。井筒曰くこうした悟性の働きは、現象学の述語体系では「本質直観」と呼ばれるものと同じだ、ということです。本質直観によって個別(いろんな指)から普遍(硬いこと自体)へと跳躍する。この跳躍する者を、プラトンは弁証家と呼びました。そして、跳躍を繰り返すことによって(弁証を繰り返すことによって)人は認識の境地である線分B-Eの領域に達することができると考えました。





 認識が最高レベルに達すると呼び方がまた変化して、今度は上位知性(純粋知性)と呼ばれることになります。これがいわゆる「ヌース」というヤツです。これがどのように悟性と異なるか、についてですが、ヌースは悟性のように感性界の認識を仮説として使用しないところに違いがある、と井筒は解説しています。ヌースはイデアをもってイデアを認識するのです。この認識世界は神秘的な性格をもち、ダイモン的な力が発揮される領域だ、とプラトンは考えます。そしてこのヌースのダイモンとしての活動が、プラトン的エロースなんだって!





 以上が第二章第三節「弁証法の道」の内容になります。ここまででプラトンのイデア論の概説みたいな部分についてはひととおり触れたような実感があります。ただ、このイデア論はプラトンの前期から後期で性格が変わってくるんですね。次節「イデア観照」からはその変化について見ていきます。それでは次回をお楽しみに!!





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A. A. Milne『Winnie-the-Pooh』

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Winnie-the-Pooh (Pooh Original Edition)
A. A. Milne
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 英語の勉強がてらに児童文学を読んだらいいのではないか、と思い、Winnie-the-Poohを読む。いわずと知れたディズニー・アニメ『くまのプーさん』の原作である。私はディズニー・キャラクターのなかではプーさんがとても好きであるのだが、実のところ、アニメも見てないし、翻訳で原作を読んだこともないので(そういうのって結構あるよね、エルガイムやボトムズのデザインは好きだけど、アニメは観てない! みたいな)ちょうど良かった。結構わからない単語はあったけれども(動物の体の部位とか植物の名前とか)結構すんなり読める。驚くべきは、この本、とっても笑える、ってこと。児童書を読んでもうすぐ社会人5年目になろうとする大の大人が笑っている、っていうのはどうかと思うけれど、私の英語力は児童レベルであるのだから、まあ、問題はない(のか?)。新入りのカンガルー親子を追い出そうとカンガルー(息子)の誘拐計画を練ってみたり、見たことない北極点を探しにいったり、とこんなおかしな話だったのか~という感慨もあるのだが、それよりなにより自分が英語のギャグを読んで、笑っている瞬間に驚いた。英語の音声的な言葉遊びなんだけれども(まあ、ダジャレですよね)、少しお酒を飲んでから読み始めると、Poohのおとぼけぶりが余計にハマッて面白かったです! 会話文も結構あるし、挿絵もかわいいし、英語の教材としてもなかなかいいのかもしれないですね、この本。iPhoneユーザーの人はiBookのデフォルト・コンテンツとしてこの本が入っていますが、iPhone版はフルカラー、ペーパーバック版はモノクロです。が、レイアウトが全然違ったりするので要注意。Winnie-the-Poohは挿絵と本文のレイアウトが上手いぐあいに配置された一種の総合芸術的本なので、レイアウトが重要です。





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朝吹真理子『きことわ』

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きことわ
きことわ
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朝吹 真理子
新潮社
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 朝吹真理子は1984年生まれ、私と学年が同じ年に生まれている。生まれた土地や環境はまったく違う。けれども、学年が同じである、ということはほとんど似たような時代の風景を見ている……であろう、そしてそういう自分とほとんど同時代人がどういった小説を書いて芥川賞を受賞しているのか、それが気になった。普段誰が芥川賞をとっても特段気にもしないのだが、今回ばかりはそうしたところで意識に止まり、書店で手に取ったら『E2-E4』への言及が目に止まる。それはマニュエル・ゲッチングが1984年に発表した、クラブ・ミュージック界隈、ミニマル・ミュージック界隈から今なおリスペクトされている記念碑的アルバムだ。そういえばゲッチングが昨年来日してこのアルバムを“再演”したのを私は観ていたのだった(嘘。観てない。去年の再演してたのはINVENTIONS FOR ELECTRIC GUITARだ!)。



D


 心地よい言葉のリズム、視覚的に印象の強い言葉の塊的な密度、そして、芥川賞審査員たちがこぞって言及している《時間》の取り扱いは、この音楽をベースに読むと良いのかもしれない。反復と変化。短いリフレインが多層を作り、それぞれの層のなかで変化がおこっていく。こうした音楽的特徴はミニマル・ミュージックにおいて典型的なものであるが『きことわ』がもつ時間の多層構造はそのような音楽とアナロジカルに併置することができよう。しかし、あくまで文字は一つの流れでしか追うことができない。多層構造とはあくまで比喩であって、ともすれば、単に時間軸があちこちに飛び交って読みにくい作品にもなりかねない。それに読みとは読み手の読むスピードによっても左右され、文章のテンポの良さ、スピードの速さなどは読み手の主観によって決定される。文章のスピードは、スピード・ガンでは計測できない。私はこれをサクサクと読んでしまったが、丁寧に、ゆっくりと読む人もいるだろう。そうした場合にイメージされるのは、モートン・フェルドマンの音楽かもしれない。フェルドマンの音楽は、反復のように表層的に見せかけて、聴衆が気づかないあいだにどんどん変化していく、特異的なテクスチュアをもつ。フェルドマンがダンサブルなテンポで音楽を書いていたならば、もっとこの小説に適切な音楽を提供していたかもしれない。



D


 現実と幻想が混合し、独特な言語空間を形成する作風からは、川上弘美的なものを感じた。が、川上弘美はもっと日常的だし、マニュエル・ゲッチングやスティーヴ・ライヒなどに言及することはないだろう――ライヒの名前は直接的には出ていない、が、私はここに同時代の人間として「90年代以降の《サブカルチャーを含めた人文知識》の平均」を作者が把握していることを感じる。メシアンでもなく、シュトックハウゼンでもなく、吉松隆でもなく、マニュエル・ゲッチングであり、スティーヴ・ライヒなのだ。ここに作者の「趣味の良さ」が感じられた。それは「品」にも言い換えられる。作者がなんと言おうと、これは教養や文化が豊かな家庭に育った人にしか書けない小説で、芥川賞を同時受賞した作品とは真逆の性格をもつものだと思う。そうした品の良さが生み出す、イメージの豊かさだとか、読み心地の穏やかさはこの作品の魅力のひとつだろう。





 しかし、そうした品の良さが「死」などというテーマに触れたときに、まるで本気を感じない……という問題は発生するかもしれない。芥川賞の審査員にはプルーストを想起した人もいたらしい。しかし、この作品で取り扱われる死の軽さや偶然性(と言っても言いぐらい軽い)は、プルーストが描いた「私」の祖母の死の劇場性とは比べられないだろう。とはいえ、そんなことを言っても仕方がない。次が読みたくなる作家の登場だと思えたのは嬉しかった。





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音質と印象 メロディヤに残されたショスタコーヴィチの作品の録音を聴いて思ったことなど

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ショスタコーヴィチ:交響曲全集
モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団 ツオロバルニク(エフゲーニャ) アカデミー・ロシア共和国合唱団 アカデミー・ロシア共和国合唱団男声合唱団 ネステレンコ(エフゲニー) エイゼン(アルトゥール)
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 ショスタコーヴィチの交響曲といえばエフゲニー・ムラヴィンスキー/レニングラード・フィルの演奏の聴いておけば間違いない、というのが定説であるが、ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチのすべての交響曲を演奏しておらず、そのため全集録音も残っていない(ムラヴィンスキーは、ショスタコーヴィチが晩年に書いた合唱付きの交響曲を演奏しなかった)。このため「ソ連が存続していた時代であり、ショスタコーヴィチがリアルタイムに生きていた20世紀に残された交響曲全集」を選ぶとするならば、キリル・コンドラシン/モスクワ・フィルによる世界初の全集を選ぶほかない。ただ、そうした記念碑的な全集がひとつの決定盤として残っていることは幸いだろう。





 この録音は多くが60年代半ばから、70年代半ばに収録されたもので、当時の国営レコード会社であったメロディヤによって制作されている。メロディヤはソヴィエト連邦の音楽文化を世界に向けて発信するひとつの窓口であったはずだ。しかし、このメロディヤ録音は、音質の悪さで定評がある。同じ時期の西側諸国のレコード会社が録音した音源と聴き比べたらメロディヤの技術力のほどがすぐに理解できるだろう。現代のリマスタリング技術によってもマスターの質の低さは補いきれない。痩せた中低音と、強音部での音割れは「貧しい印象」を聴き手に与えるだろう。





 しかし、それがメロディヤの音なのであり、特徴であり、個性なのだ、という声もあるだろう。かく言う私もそうなのだから。この音の貧しさが、ソヴィエト連邦を代表する作曲家であったショスタコーヴィチの印象をかなりの程度支配していると言っても良い。この痩せた音によって、ショスタコーヴィチの諧謔はより一層際立ち、音割れは戦地のような荒々しさを印象付ける。ムラヴィンスキーやコンドラシンによるショスタコーヴィチの録音がもし、60年代のEMIの木管楽器のまろやかな音色を強調したような音質で記録されていたならば、この音楽の印象はまるで違ったものになっただろう。





 弦楽器がキンキンと張りつめたように鳴り、金管楽器の強奏が荒々しく咆哮する。レニングラード・フィルやモスクワ・フィルの「鋼鉄的印象」とは「鉄のカーテン」から連想ゲーム的に導き出されるばかりではない。音の貧しさが魔術的に生み出した異様な光景なのだ。





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松平敬/トマス・タリス:40声のモテット《スペム・イン・アリウム》

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松平敬「タリス:40声のモテット (一人の歌手による多重録音)」(iTunes Music Store)


 昨年発表された一人多重録音による無伴奏合唱曲集『MONO=POLI』が記憶に新しい、松平敬の新譜がiTunes Music Storeで配信されています。今回はトマス・タリスの《スペム・イン・アリウム(御身よりほかにわれはなし)》。タリスは16世紀イングランドの作曲家であり、この作品は彼が書いた40もの声部を用いた合唱曲です。松平は今回の録音でもこの作品を一人多重録音にてレコーディングしています。この作品については数年前、都内のギャラリーで40個のスピーカーのひとつひとつから各声部を再生し、マルチ・サラウンド環境にて作品の鑑賞をおこなうというインスタレーションがおこなわれていました。残念ながらその展示は見にいけなかったのですが、それからずっと気になっていた作品だったので、松平の新譜がでたことで念願かなって聴ける機会を得た、という気分です(もちろん、これまでに録音がなかった曲ではないのですが……しかし、一人多重録音によるものはこれが初めてでしょう)。





 しかし、これはとんでもない作品です。編成の大きさが否が応でも醸し出す荘厳なイキフンと長い残響に痺れてしまう。もともとルネサンス音楽に詳しいわけではないので和声感が斬新に聞こえる瞬間があるのも楽しい。バロック音楽とはまったく違ったすごい世界観が、16世紀には鳴り響いていたんだなあ、という感慨も強くあります。この録音を聴いて、40個のスピーカーを使ったインスタレーションを体験できなかったことが一層悔やまれるようにも思いました。なお、iTMS以外の高音質音源配信サイトでは、各声部のミックス前音源が非圧縮形式で配信されるそうです。つまりこの音源を使えば自分でミックスも可能ですし、40個のスピーカーを使ったインスタレーションの再現も可能、ということでしょう。iTMS版には全40声部の通常音源のほかに、声部を8つのグループにわけてミックスした音源も収録されています。この特異な音響世界が、どのように構成されているのか。その仕組みは、こうした解剖学的な(?)音源を聴くと理解できるかもしれません。





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村上春樹『村上春樹 雑文集』

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村上春樹 雑文集
村上春樹 雑文集
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村上春樹
新潮社
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 仕事がちょっと忙しい → ストレス発散で金を使いまくるなかでアホほど本を買う……というのをちょっと繰り返していたら積読が大変な量になってしまったため、しばらく本の買い控えをおこなっていたのだが、会社の本屋さんで見つけて抗いがたく購入。そして一気に読んでしまった。400ページ以上の大ボリュームのなかにさまざまな文章が収録されている。これまで彼のエッセイはかなり好んで読んでいたので特別目新しいものはない。しかし、リズミカルに読めてしまい退屈もない。(もしかしたらこのブログで同じことを何度も書いている可能性があるが)そうした読書感をもたらしてくれる書き手は稀有だ。





 読んでいて、それにしても村上春樹という人はストイックなのだな、という印象を新たにした。朝早く起きて仕事して、走って、早く寝る。村上春樹はこうしたリズムを繰り返し続けているそうだけれど、なにかほとんど鉄人とか修道士なみといって良いと気がする。スポーツ選手ならイチローもそんな感じ。そこには徹底した自己抑制がある。想像だけれども「自分は作家である」という自己規定が、倫理や責任を生み、こうして厳しい抑制をおこなえるのかもしれない。昨日『ノルウェイの森』の感想でも書いているけれど、抑制をおこなえるから作家になれた、のではなく、作家であるという規定があるから抑制がおこなえる、という逆説はどうも実際に存在する気がしている。性格の可塑性、というか。





 本の内容から大きく話がそれているので少し本の内容について触れておく。個人的に強く印象に残ったのは「『アンダーグラウンド』をめぐって」という章に収録されている「東京の地下のブラック・マジック」という文章だ。軽い文章が多く載せられている本書のなかで、この章は幾分シリアスな雰囲気になっている。「東京の地下のブラック・マジック」は海外の『アンダーグラウンド』の読者のために書かれた紹介文のようなものだが、戦後の日本の発展と(破綻と混乱を伴った)転換における社会分析、あるいはメンタリティの分析のようにも読める。1995年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件、このふたつの事件は私個人としても強く記憶に焼きついているし、とくにオウム真理教という宗教団体の存在は年をとればとるほど、自分に影響を与えたものとして振り返られる気がする(おそらくああした異質な集団が同じ社会に存在しており、また、そうした集団のマスメディアへの取り上げられ方を目撃していなかったなら、社会学に興味を持つことはなかったんじゃないか、などと)。





  1. 我々は結局のところ、不安定で暴力的な地面の上に生きているのだ。

  2. 我々の社会システムにはどうやら、何か間違ったところがあるらしい。



 村上春樹は、震災が日本国民に与えた「陰鬱な認識」として以上のふたつをあげている。2については異論がなくはない――社会が歪んでいる、社会がおかしい、なんてテレビの街頭インタビューに答えるサラリーマンでも常々考えていそうだし、それは1995年以前も以下も変わらない気がする。とはいえ「社会が間違っている」と声高に、ヒステリックに、神経質に叫ぶ声が高まりすぎていて、その声のボリュームが一層歪みを感じさせるけれども、それはさておき、1は優れた一文だ。普段生活していても、私は不意に地面がひっくりかえるような事件が自分の見に降りかかるのではないか、という不安を感じることがある。地震が恐いというだけじゃなくて、例えば、一人で夜道を歩いていて、知らない人に後ろからナイフで刺されたりするんじゃないか(誰でも良かったので殺されちゃうんじゃないか!)とか。そういうオブセッションを抱きながら生活している。それは、もしかしたらそれまでの日本が安全過ぎたから、かもしれない。「安全神話」とかよく聞くけども(こうした呼称は安全が失われたから生み出されたものだろうと思うけど)、それを字義通りに受け取って、安全を聖なるものに据えてみると、それが穢されているんだから何らかの生贄は捧げられる必要はある……のか? そうしてアマゾンの少数民族みたいにして安全の聖性が回復するのであれば救われる話なのだがそうではない――なんてことを考えさせられた。





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井筒俊彦『神秘哲学』を読む #5

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神秘哲学―ギリシアの部
井筒 俊彦
慶應義塾大学出版会
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 本日は第二章第二節「洞窟の譬喩」に入っていきます。これはプラトンの『国家』に出てくるとても有名な説話ですね。『国家』は当ブログの記録から調べてみたところ、4年ほど前に読んでいたようです。例によってあまり内容を覚えていないのですが、洞窟の比喩はかろうじて「そんな話しあったなあ」ぐらいに覚えていました。井筒はこの比喩にプラトンのアナバシス(向上道)とカタバシス(向下道)が表現されている、と言います。しかし、まずは『国家』未読の方向けにもこの比喩がどういった状況のお話をしているのか、について知っておいたほうが良いですね。「国家 洞窟」でググッてみたらWikipediaにも「洞窟の比喩*1」という項目がありました。この比喩で鎖で縛られ、実体の影しかみることができない人々の姿は「感性的世界に生きつつそれに満足し、これを唯一の現実と信じている日常的人間の状態」なのです。彼らは生まれてから実体の影しかみたことがない。それゆえに影が真の現実だと思っている。そこで人々の鎖を解き、無理やりに後ろを向かせたらどうなるでしょうか。後ろには影を作り出していた光源である火がありました。影ではなく初めて光を見た彼らはの目はその眩しさに苦痛を感じるでしょう。それどころか目が眩んで何も見えなくなってしまうかもしれない。





 そこで誰かが目が眩んだ人々に「君たちが今まで見ていたものは影であって、ホンモノは後ろ側にあるんだよ」と教えても、彼らは影こそが実体であるという認識に慣れきっているからなかなか信じてくれない。実体は眩しくてよく見えない。影のほうがよく見える。だからやっぱり影のほうがホンモノなんじゃないか? 囚人たちはそのように考えます。よって、囚人を解放するという試みは失敗する。だが、それは完全に失敗したわけではないのです。それまで自分の背後に世界があることを知らなかった囚人たちは、自分の背後にも世界が存在することを知る。「この新しき光の世界が彼にとって如何に不気味であり、如何に不愉快なものであるにせよ、ともかくそれは或る全く別のものの開示であった」(P.53)。ここで今度はすかさず囚人を洞窟の入口に連れ出してみます。太陽の光が射している世界へと彼らを連れ出すのです。





 火をみたぐらいで目が眩む彼らですから最初は太陽が眩しすぎて何も見えません。だが、徐々に慣れてくるとその光の世界になるものを確かめられるようになってくる。ホンモノの世界の実体を彼はありありと目にすることになる。すべてを理解した彼は、まだ洞窟のなかに残っている囚人たちを哀れみ、自分の境涯の変化を幸福と感じるに違いありません。今、彼はホンモノの世界を認識したのです――ここまでの行程が、プラトンがいうアナバシスの描写である、と井筒は言います。囚人たちが振り返ること、これは感性的現象世界から叡知的実在界への全人間的方向転換として捉えられる。この話における太陽には、全実在の根源たる「善のイデア」の役割が与えられ、それを見られることはすなわち善のイデアを観照できることを意味します。それが認識の最高段階であり、それ以上のものはない。これより上には神の境位しか存在しません。するとこんな風なことが言えます――「人は神に対する相似性を極限にまで推し進めることはできるが、其処には常に必ず最後の一点が残る。而もこの最後の一点が極微極小に圧縮された場合と雖も、それは両極を無限の懸絶によって乖離せしめるのである」(P.59)。いかに近づこうとも、神との同一になることはできない。ここに再び、遠くて近い神のパラドクスが生まれます。このパラドクスは第一章でも触れられたことですね。





 さて、こうして善のイデアを観照する人がホンモノの世界にとどまりたいと思うのは当然のことでしょう。もう二度と洞窟になど戻りたくない。「一体、人間の目が眩むのは、光から急に闇に転入せる場合と、逆に闇から突然光に向った場合との二種がある」(P.61)。洞窟に戻れば彼はまた目が眩んでしまう。洞窟に残った人々に、洞窟の外の世界を語ったとしても「嘘ばっかりつきやがって! コイツは外にでて目をダメにしたんだな!」と愚弄されてしまうでしょう。しかしそうした苦難が予想されてもなお、彼は洞窟に戻らなければならない。これがカタバシスです。「善のイデアを直視した嘗ての囚人は、充分に仔のイデアを観照せる後、速に洞窟の底に還り来って、良きにつけ悪しきにつけ囚人達と同じ労苦と栄誉を相分たねばならないのである」(P.62)。ここにプラトンの倫理が現れます。個人的救済は、万人にわかたれて全人類的救済にいたるまで続けられなくてはならない。理想国家の建設とは、そうした善のイデアを観照する者の使命でもあるわけです。





 井筒曰く洞窟の比喩に表されたアナバシスとカタバシスの構造は西洋神秘主義の主体的基本構造となったそうです。しかし、この比喩には、イデア体験の内実が一切書かれていない。イデア体験の内実は、直線の比喩を見ていかなければなりません……ということで本日はここまで。次回は第二章第三節「弁証法の道」を見ていきます!






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トラン・アン・ユン監督作品『ノルウェイの森』

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ノルウェイの森 オリジナル・サウンドトラック
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 観る前に否定的な感想をいくつか目にしてたんですが、私は大変面白く観ました。もちろんそれは原作をすでに読んでいて(しかもかなり熱心に)受け手の準備が万全に整っていた、という状態のせいもあるかもしれません。たぶん原作を読まずに観にいっていたなら「ポカーン(そして菊地凛子のメタリックな肌色に畏怖)」みたいな感じだったと思います。原作つきの映画にはいくつかパターンがあるでしょう。この映画は「原作の再現」のパターンではなく「解釈付きの映画化」のパターンだったと思います。それはひとつの翻訳に近いものです。最近読んだ『翻訳夜話』で、村上春樹は「自分の小説に対する評価には興味がないが、自分の小説が翻訳されたものを読むのは面白い」といった話をしていたような気がします。外国人の監督にこの作品の映画化が許されたのはそうした原作者の感覚が由来しているのかもしれません。そして、この外国人による解釈は、私としては新鮮に思えましたし、とてもよくできていると思った。



翻訳夜話 (文春新書)
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村上 春樹 柴田 元幸
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 翻訳的な解釈(解釈的な翻訳)なのですから、あのシーンがない、このシーンがない、とあれこれ難癖つけるのはちょっと無粋な気がします。むしろ、あのシーンが落とされた、このシーンが削られた、ということに自分とは違う読みの可能性を感じ、許容するべきではないでしょうか。いえ、私も個人的な思い入れがある作品ですし、納得いかない! という声があがるのも理解できるのですが、そういった方は原作の完全再現を望んでおられたのでしょうか。でも、映画と小説では言葉が違うんですから「完全な再現」なんか無理ですよね。





 映画を観ながら考えていたのは「欠如したもの」と「欠如を満たすもの」の関係についてです。映画のなかでワタナベは、ずっと「欠如を満たすもの」として存在していたように思われました。誰かの欠如を埋めるべく、何かを与えるもの、として。つねに彼の前には何かが欠如した人間がいます。ちょうどこの人間関係は、凸凹のような感じで成り立っている。普通の考えれけば、こうした関係は「持ちつ持たれつ」といった風に上手くいきそうに思えるのですが、そうではない。彼は一生懸命与えようとするし、彼に与えられる側の人間も彼の意思をありがたいものだ、と言う風に受け取っている……にも関わらず、欠如は埋められることがない。凹凸の関係はうまくいかず、むしろ、欠如した人間は欠如した人間同士(凹凹)でその欠如をやり過ごそうとする。直子とレイコさんの関係はそんな風に思えました。ワタナベの甲斐甲斐しい思いは伝わるんだけれど、成功しない。こうした関係は悲劇的とも思えるのですが、しかし、現実にあるだろう、とも思います。





 で、当然ワタナベは悶々とするわけですが、だからと言って諦めたりはしないのです。むしろ、それまで場当たり的に女の子と寝たりするのを辞め、より一層強烈な自制をおこなっていく。映画のなかではワタナベのストイシズムへの傾斜は、ハツミさんに説教される(いやー、このシーン良かったですねえ)という契機によって強調されていた気もします。緑に求められつつもどうすることもできず、ただどうしようもない問題として彼女の求めを断るシーンで感じたのは、ワタナベが直子に対して何かを与えようとするものとして自己を規定するような強い意志でした。直子を癒すこと。これが彼のなかで責任に変わっていく。果たしてそれは単純に愛と呼べるものだったのかどうか。結局のところ、彼は責任を果たすことができずに直子との関係を終えることになるのですが、その後にやってきた悲しみはむしろ、責任を果たせなかった自戒のような苦しみに近かったのではないか。直子を失ったワタナベは、荒れた海の前にしてただ叫ぶことしかできない。彼が張り上げた声はきっと喉を痛めつけるような声量だったに違いありません。痛みを伴った叫びは、悲しみの表出だけではなく、自傷的な意味合いがあったように思えました。





 その後、レイコさんとの儀式的なセックス(これはワタナベが最後に与えるものとして役割を果たすシーンとなっています)を経て、彼はようやく新しくやりなおしはじめます。そこではもはや彼は「与えるだけの人間」ではない。むしろ「求める人間」として生まれ変わっている。なんかこの時、ワタナベの顔には傷がついているのですが、イーストウッドの映画みたいな見方をすれば「聖痕」として読み取れば良いのでしょうか。緑も傷ついた人間として登場しましたし(そしてワタナベに自分の欠如を埋めて欲しい、と願ってきたものでもありました)、傷ついたもの同士で新しい関係を作り出そう……というところで話は終わります。直子がダメだったから、緑にいった、という終わり方ではなく、むしろ最初から直子との関係は不健全なものだったが、直子を喪失し、傷つくことによって、ワタナベは緑とフェアな関係をはじめることができた、という風に読むべきなのかもしれません。





 それにしても爆音でCANが流れたときはビックリしましたね。この映画の話の時代に、日本でCANなんか絶対流行ってないだろ! とか思ったのですが、あの独特なサイケ感と暗さは映画の雰囲気に絶妙にマッチしていると思いましたし、私のこれまでの生涯であんな高音質かつ爆音でマルコム・ムーニーやらダモ鈴木のヴォーカルを聴いたことがなかったもんで痺れました。しかし、ジョニー・グリーンウッドのサントラは、うーん……不自然さはなかったですが、ジョニー・グリーンウッドである必然性を感じない、という感じ(あんなインチキ新ヴィーン楽派みたいな音楽、ありふれているように思えましたし、褒められすぎです)。あと細野晴臣と高橋幸宏にはめちゃくちゃ笑った。



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