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尹伊桑/ルイーゼ・リンザー『傷ついた龍 一作曲家の人生と作品についての対話』:となりの国の大作曲家を生んだ文化とは




傷ついた龍―一作曲家の人生と作品についての対話
尹 伊桑 ルイーゼ・リンザー
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日本占領下の朝鮮に生まれ、激動の半島の歴史に揉まれながらもベルリンで作曲活動を続けた韓国の作曲家、尹伊桑の名は日本の音楽ファンのあいだでどの程度知られたものか。作品についてよりも第二次世界大戦中に反日武装地下組織に参加し逮捕され拷問を受けたことや、1967年当時の韓国政府によって北朝鮮のスパイ容疑をかけられ、やはり拷問のすえに終身刑の宣告を受けたというエピソードのほうが知られているだろうか。ドイツの作家、ルイーゼ・リンザーと尹伊桑との対話によって編まれた本書にはこうした痛ましい記録も数多く収録されている。それは『傷ついた龍』というタイトルからも伺えるところだろう。ルイーゼ・リンザー(彼女はカール・オルフの妻でもあった)のインタビュアーとしての態度はとても社会主義的で、かつ、ポスト・コロニアルまるだしであるため、こうした音楽とはあまり関係ない部分に分量が割かれがちであるのだが、アジアを代表する作曲家でもあり、現代の日本人作曲家を数多く育てた尹伊桑の業績にスポットをあてる貴重な本だと言えよう。





尹伊桑が生まれたのは1917年。彼の家は両班の家系だったが、父親は定職を持たず(要職は占領者であった日本人によって締められており、公職につくことのできなかった尹伊桑の父親は『商人などは卑しい職業である』という文化的な背景から富める職業につくことができなかった、とか)は、受け継がれた土地を切り売りして生活する、言ってみれば没落貴族のようなものであったらしい。朝鮮の土地ではもともと漢詩が最も重要な教養とされ、当初、尹伊桑も中国文化を伝える学校へと通わされた、という。それが途中で日本によってもたらされた西洋式の学校へと通わされることとなり、そこで初めて西洋式の音楽に触れことで音楽へと目覚めることとなる。こうした《目覚め》のエピソードは、西洋以外で西洋音楽に取り組んだ国の作曲家にとってはそう珍しいものではないだろう。武満徹にとってのシャンソンのように。しかし、興味深いのは尹伊桑が育った当時の朝鮮の文化の様相である。朝鮮の文化と中国の文化が混合した状況下に、日本が侵攻し、西洋の文化も同時にもたらされる。日本語を学び、公的には日本名で呼ばれながら、病気を癒すための呪術も生きており、儀礼のための儒教、そして仏教や道教も共存する。この文化的複雑さは日本はおろか、世界中を探しても他にないのではないか、と思えるほどだ。





後に尹伊桑は日本へと留学し、池内友次郎らに近代の作曲技法を学ぶが、モーツァルトやベートーヴェンといった古典をよく知らないままだった、というのもとても興味深い。彼が生きた環境のなかにそうした文化に触れる機会がそう多くなかったこと考えるにしても「最初から自分の音楽をやることにしか興味がなかった」と語る彼の《発展史》は、基礎がほとんどないまま現代音楽へと到達したようである。現代では、情報へのアクセシビリティが異様に高まった結果、どんなルートからでも現代音楽へと到達することが可能だろう(生まれて初めて聴いたのがシュトックハウゼンで、20歳になるまでトータル・セリエリスムしか聴いたことがなかったなどと語る人間がいても、おかしくはない)。しかし、やはりそれは比較的に考えてもオーソドックスなストーリーではないように思われる。そして、尹伊桑のストーリーもオーソドックスからは外れるものと捉えられる。本書を読んで強く惹かれたのは、尹伊桑の音楽そのものよりもこうした人物を生んだ文化的環境や政治的環境についてだった。ちょうど韓国の民謡などを聴いていたところで、その日本の民謡の旋律と似た旋律がもっと豊かで複雑なリズムに乗る様子に衝撃を受けていたところだったので、隣国の文化への興味を一層かき立てられた。






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本書の原著はドイツ語で書かれており、翻訳者は政治学を専門とする伊藤成彦。伊藤は社会党(当時)の土井たか子らと軍縮を求める市民活動や「朝鮮政策の改善を求める会」に参加していた社会運動家でもあった。訳文は直訳調でとても良い訳とは言いがたいが、音楽についての記述は高橋悠治がサポートしている、とのこと。





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