スキップしてメイン コンテンツに移動

トム・フォード監督作品『シングルマン』




シングルマン コレクターズ・エディション [DVD]
Happinet(SB)(D) (2011-03-04)
売り上げランキング: 14966



いやあ、これはスゴい映画なんじゃないでしょうか。映画を観るまで、トム・フォードというデザイナーの名前は軽く耳にしたことはあっても、グッチだのイヴ・サンローランだのを手がけていた大変な人物であったことは改めて調べて知った、というほどのテイタラクでしたけれども、なんと言いましょうか、例えば、音楽PV出身の映画監督の映像センスが3倍ぐらいファッショナブル、かつスタイリッシュになって冒頭からガチガチに決まりまくった絵が展開されるのに痺れました。主人公の心象が画面の色合いによって表現されるのは露骨だったかもしれませんが、とても良い効果だったと思えました。私は映画批評などチェックしませんから、この作品がどのように評価されたかわかりません。単なる予想に過ぎませんが、おそらく映画批評の面々にも「映画業界生え抜き至上主義」のようなものがあり「テレビ出身の人」や「PV出身の人」は《ホンモノ》ではない、といった扱いがされているむきがあるのでは、と想像してしまい、本作はいかなるものであったのだろうか、といったところが余計に気になるわけですが、ここはあえて特別調べたりせずに話を進めましょう。





お話は事故でパートナーを失ったゲイの大学教授が失意のうちに、何を思うのか、といったところ。同性愛者が登場した時点で本作品に(性)政治的なテーマがのっかってきてしまうわけですが、果たして物語上絶対的に必要なものだったかどうかはわかりません。別に大学教授がヘテロ・セクシャルで失った恋人も女性であったとしてもお話としては通用するように思われるのですが、そこはセクシャル・マイノリティであることによってパートナーと結ばれることの価値が変わってくる、マイノリティであるがゆえに、その関係性の経済的価値が高まり、それによって物語的必然が生まれる、とも考えられる。物語の中盤で、非常にセリフが饒舌になって、それまで言葉少なく映像と編集によって語られてきた物語のスピードがダレそうになる部分があるのですが、そこではまるでこうした価値を理解していない他者が表れます。その他者は主人公に対して「あなたの同性愛は《本当の愛》の代替だったのでは?」と無理解な問いを投げかける。これは本当にヒドい質問だと思いますし、ものすごく痛い表現だと思います。





物語の舞台は60年代のキューバ危機の最中。この時代が選択されたのは、衣装に関連したファッショナブルな舞台装置としてだけではなく(ジュリアン・ムーアのドレスと髪型はマンガのような60's感)、この表現を生み出すためのものだったのでは、とも勘ぐってしまいたくなります。おそらく現代において、こうした無理解を何の気もなく発するには、よっぽどな無知と無遠慮さがなければ不可能でしょう。同性愛が《倒錯》と見なされることの痛みがここに現れ、グサリ、とくる。そして、その痛みは今なお消え去ったものではない、過去の痛み、ではない。ですから、本作の(性)政治性は今なお有効である、と考えます。ただ少し気になるのは主人公の性の奔放さで。良い男と街で出会っていきなりナンパがはじまったりする。傷を負った心は新しい出会いによってしか埋め合わせられない、とも思わせられるのですが、そのシーンのあまりにセクシーなやりとりは好色さの表現にも映ります。このへんがちょっと複雑。タイトルにあるように登場人物はみんな孤独な人物であるのですが、孤独の終わり = 生の終わり、という風にも読めてしまう映画でした。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か