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井筒俊彦 『イスラーム文化 その根底にあるもの』:碩学による文化講義、まろやかな語り口で明晰に整理されまくるイスラームの姿




イスラーム文化-その根柢にあるもの (岩波文庫)
井筒 俊彦
岩波書店
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宗教に関することがらには全般的に疎いとされる日本人においても、とかくイスラームは特別に疎遠なものでしょう。それは高校世界史におけるイスラーム史の複雑さやカリキュラムの問題(地域ごとに区分され、グローバルな歴史の連続性が見えにくい。とくに中東現代史は受験にもそんなにでないので蔑ろにされがち)とも関連しているようにも思われるのですが、この「遠い感覚」は本書のもとになった昭和56年(1981年)の井筒俊彦によるイスラーム文化に関する講演当時と今なお大きく変化しておりません。ですから本書の有用性もまた古ぼけたものではないと言えるでしょう。井筒によるイスラーム、コーラン解釈は個性的すぎてアレだ、という批判もあるそうですが、本書に触れるすべての人たちが厳密なイスラーム学を求めて頁をひもとくわけではありません。副題にあるとおり「根底にあるもの」に触れながら、イスラーム各派の性格を知ることで、スンナ派/シーア派といった言葉は、単なる文字的な記憶でなく印象が備わった知識として、言わば受肉されるのです。ここに本書の重みがある。




『意識と本質』*1で試みられた「共時的構造化」(さまざまなテキストの内容を比較し、そこに見いだされる共通の構造を見とる手法)は、比較される対象範囲こそ狭いもののの本書のなかで実践されている。30カ国語以上を操れたというこの碩学の知識量には毎度圧倒されるしかありませんが、イスラームやキリスト教といった「他」への言及と明瞭化によって「自」も陰画として映し出されるように思われるのです。井筒の根底には幼少の頃より父親から叩き込まれてきた禅があり、そこから哲学への探究がはじまっている。しかし、禅は哲学する言葉を捨て去るための哲学でした。さまざまな「他」への言及はこうしたバッグボーンに起因するように思われてなりません。「イスラームは砂漠の宗教ではない(『コーラン』は当時の商人の言葉で書かれており、ムハンマドもまた商人の家に生まれた《定住する人々》であり、《砂漠の流浪の民》ではない)」といったところから、イスラームに対する固定観念が次々に切り崩されているところに読んでいて快感を覚えますし、イスラームにおけるテキストと解釈の問題や、宗派における存在概念の異なりは大変興味深く読みました。《彼ら》の感覚は、あきらかに《私》とは違う。こうした違いを認識するところから哲学が導かれる……といえば表現が大きすぎるでしょうか。しかし、本書が単なる「イスラーム文化の入門書」にとどまらないことはここに明らかになるでしょう。





余談ですが、本書が講演をもとにしている、というところから(文章も語り文体になっています)井筒俊彦の肉声が確認できる記録はインターネットで観れるのか? ということが気になってYoutubeやNHKの映像アーカイヴスを調べてみました。しかし、結果はまったくみつからず。この講演の録音テープは少なくともあるはずですが、編集者や弟子に厳しく勉強不足の人間とは絶対に会わない、という人柄だったそうなのでテレビの取材などは断っていたのかもしれない……と想像してしまいました。唯一見つかったのはイランで放映された井筒俊彦の業績などを紹介する番組(本人映像などは無し)。この知の巨人がどのような声で言葉を放っていたのか、とても気になるところなのでこの件については引き続き調査してみたいと思います。






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