スキップしてメイン コンテンツに移動

読売日本交響楽団第505回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール




指揮:パオロ・カリニャーニ


ピアノ:辻井伸行


《オール・ベートーヴェン・プログラム》


ベートーヴェン/歌劇〈フィデリオ〉序曲


ベートーヴェン/ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73〈皇帝〉


ベートーヴェン/交響曲 第6番 へ長調 作品68〈田園〉



音楽を聴く生活のなかで、ベートーヴェンの音楽を聴くことなんかめっきり少なくなってしまった今日この頃(MPBばかり聴いていたので)、こうして生でベートーヴェンの音楽に触れると改めて「ああ、ベートーヴェン、素晴らしい曲書いているな」と思わされてしまいます。言わずもがなの《楽聖》であるゆえに、良い曲を書いているのは当然、それは申し上げる必要もないことに属するかもしれません。しかし、そうした改めてこの音楽の価値を知らしめてくれるようなクオリティのライヴに出会える幸福をまず噛み締めなくてはならないでしょう。力強い音楽に心を揺らされてしまいました。





この日のマエストロ、パオロ・カリニャーニは、世界各地の歌劇場で活躍しているイタリア出身の指揮者。彼の演奏を聴くのはこれが初めてでしたが「世界には自分の知らない良い指揮者がたくさんいるのねえ」と感じいってしまうほど良い音楽の作り手です。カリニャーニは指揮台へと駆けるようにして現れ、ずいぶん勢いがある人だな、と思いましたけれど、そこで始められた《フィデリオ》は、シャープだが決して痩せてはおらず、それでいてとても情感豊かな音楽で。そのイメージはカリニャーニの颯爽とした姿と重なります。純ドイツ系の濃厚な音を響かせる読響のトーンもいつもとはちょっと違って聴こえました。なるほど、このオーケストラはこんな音も出せるのか、と感心しましたし、そういう一面を引き出す指揮者の手腕にも魅せられます。





中プロは辻井伸行のピアノで《皇帝》を。今この文章を書いているとき、すでにネットで公開されている彼に対する悪評を読んでしまって、自分の感想が書きにくいのですが、私はそんなに酷い、とは思いませんでした。彼のピアノを聴くのも初めての経験で、フジコ・ヘミングとか宮本文昭の娘さんとかそういう人たちと同じジャンルの人だと思っていたので、まったく期待してなかったのが逆に良かったのかな。もっと酷いのかと思ったら、まあ、大きな破綻もなく、かと言って大きな聴きどころもなく……。冒頭のピアノの独奏部分から「テンポ早っ」と驚きましたが、若い演奏家ならああいう演奏も許されるような気もします。満員の会場もひとえに彼のおかげでしょうし、年に一度ぐらい話題の人を呼ぶのも良いのでは? オーケストラとピアノの温度差が気になり、退屈もしたけれど「またどこかで会ったら、次はもっと良い演奏を聴かせてね」と声をかけたくなりました。アンコールの《テンペスト》3楽章のほうがまだ聴けた。





で、メインの《田園》。これはもう素晴らしかった。有名な第1楽章の冒頭からものすごいカンタービレで、今あの瞬間の残響を思い出すだけで、ちょっとシビれが走るぐらいの歌い込みでしたが、それでも少しも音楽がクドクドしくならない。そこに極上のバランス感覚を見せつけられました。3楽章の低弦のアッチェルランドもものすごいドライヴ感で半笑いになったり、どの部分を切り出しても聴きどころしかない。また、この人のタクトで読響の演奏を聴かせて欲しいと心底思いました。





今シーズンの読響はホントに素晴らしいね。昨シーズンは演奏会の序盤に気になるミスがありがちだったり、立ち上がりが悪いオケだなあ、と感じることもあったのですが、今シーズンはそれがない。最初から最後までマッシヴな演奏を聴かせてくれるオーケストラになっている。これがカンブルラン効果なのか。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か