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プラトン 『ティマイオス』(6)




原文


Timaeus
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ティマイオス:わかりました、ソクラテス。どんな感覚の持ち主であっても、大事なことをはじめるにあたっては必ず神に願掛けをするに違いありません。宇宙について弁論をおこなうときも同様です――それがはじまりをもつものでも、そうでなくとも――見当違いなことをしないように、神々や女神にお祈りするほかありません。そして、彼らが私たちが言わなくてはならないことを承認してくれるよう祈るのです。ですから、私たちもお祈りをするつもりです。さあ、神々へと願いましょう。あなたが可能な限り分かりやすく学べるように、そして私があなたへと最も良い形で私の意図を伝えられますように。


 さて、私たちはまず次のような定義を作ることから始めなくてはなりません――常に存在し、かつ、成り変わることがないものとはなにか? そして、成り変わり、かつ、決して存在することがないものとはなにか? と。前者は論理的な説明を含む理解によって把握されます。後者は非論理的な感覚の受容を含む意思によって把握されます。それは存在するようになり、かつ消えゆくものですが、決して本当には存在していないのです。存在するあらゆるものがなんらかの原因を媒介とすることによって存在することとなり、原因なしに存在しようというのは不可能なことです。職人はつねに変化しないものを見て、型となるようなものを使って、形式や性格といったものを複製していきます。それは必然的に完璧に美しいものでしょう。しかし、彼が成りゆくものを見て、かつ、なにか生まれようとしているものを型として使ったならば、その仕事は美を欠いたものとなります。


 天空や世界秩序――文脈に応じてもっとも適した名前ならなんでも良いでしょう――に関して、第一に考えるべき問題があります。これはさまざまな議題を通して問われることをもってはじめなくてはならない類の問題です。それは永遠に存在するのでしょうか? 生まれところであるような起源はないのでしょうか? もしくはそれはやはりどこからから生まれ、なにか起源をもってはじまったのでしょうか? それは成り変わっていくものです。それらは見ることができ、また触ることもできる具体性を持ちます。こうしたものはすべて知覚可能なものでしょう。そして、私たちが見えているように、知覚可能なものは感覚の受容を含む意思によって把握されます。成り変っていくもの、発生しようとするものとして。それゆえに、必然的に私たちは、成り変っていこうとするものはなんらかの原因が媒介しなければありえない、と断言します。しかし、この宇宙の父であり創造者たるものを見つけることは大変難しい。たとえ、私にそれができたとしても誰しもに彼らを明らかにするのは不可能です。ここで私たちは話を元に戻し、宇宙についての問題を提起しなくてはなりません。創造主は彼が宇宙を作ったとき、次のうちどちらの型をつかったのでしょうか? ひとつは、ずっと変わらず、同じように留まるもの。もうひとつは変わりゆくもの。 もし私たちのこの世界が美しく、そしてその作り手の腕が良かったら、彼は永遠に変わらない型を見たに違いありません。しかし、もし口にすることさえもはばかるような場合は、彼は成りゆくものを見ていたことになる。永続する型を見ていたのか、それとも成り変っていくすべてのものを見ていたのかは、世界が最も美しいものか、作り手が最も素晴らしいものかによって明白なものとなります。また、成り変る方法とはこのようなものです――不変のものを型に作られたものは、理性的な説明によって把握される。それはまさに知性によって把握されるのです。


 こうしたことにより、疑いようのない必然性をもって次のことが言えるでしょう、つまりこの世界はひとつの像なのです。さまざざな議題において最も重要なことがらは、自然の始まりについてからはじめることです。私たちは次のように詳細を述べなくてはなりません――私たちがしてきた説明は、私たちの出発点となった議題と同じ性格を持っています。確実で固まっていて、平明に理解できるものごとについての説明はそれ自体が確固たるもので、変わらないものです。私たちは全力を尽くして、こうした説明を他のどんな説明からも反駁できず乗り越えられないものにしなければなりません。他方では、私たちがこれまでしてきた説明はまるで実在するもののように作られています。なぜならそれらは類似点をもつ説明で、以前の説明に順ずるものであるからです。成り変る存在のように、そこには真理への確信があります。ソクラテスよ、もし、私たちが神々や宇宙の成り行きについてのたくさんの大きな問題に対して首尾一貫して、正確な説明ができなかったとしても、おどろかないでください。代わりにそんな風にならずに説明を理解することができたならば、私たちは話し手である私と、判じ手であるあなたを気に留めながら満足するべきなのでしょう。しかし私たちはこうした問題に関するもっともらしい話を受け入れるべきでしょう。私たちにとってこれを超える何かを探さないことがふさわしいのですから。





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