スキップしてメイン コンテンツに移動

井筒俊彦『神秘哲学』を読む #6




神秘哲学―ギリシアの部
井筒 俊彦
慶應義塾大学出版会
売り上げランキング: 130301



 本日は第二章第三節「弁証法への道」を見ていきます。ここはプラトンの「直線の比喩」の説明からはじめられます。この部分を読むに当って、まずは以下のような図を頭に浮かべてください。




B------E------C-------D------A




 この直線は前節で解説された「洞窟の比喩」の概念図といってもいいでしょう。ポイントAは洞窟のもっとも奥で逆側の終点Bは太陽を表象します。するとこの無機質な図にこんな肉付けが可能です。




明るい                暗い

B------E------C-------D------A




 A→Bの方向でこの線を辿れば「闇は次第に薄れて何時しか光に転じ」、逆にB→Aの方向でこの線を辿ると「眩きばかりの光明は次第に弱まって薄明の光りに転じつつ遂に黯惨たる闇に消える」(P.64)――頑張って図からこのような情景を思い浮かべてください。明るさ/暗さは光に関する感覚的な表現ですが、プラトンにおいてはこの明/暗は、認識の明/暗にも置き換えられます。さらに、Cを基点としてBの側は叡智界の、Aの側は感性界を表象するものです。再び図に肉付けをおこないましょう。するとこんな風になる。




明るい                暗い

B------E------C-------D------A

認識ハッキリ            認識ぼんやり

��叡智界)              (感性界)




 図は4分されています。残りの部分についても見ていきましょう。これもやはり洞窟の比喩と対応します。直線の最右部(A-D)は、洞窟の最も暗い部分です。そこでの人々は物体の影しか認識することができません。認識主体は「憶測」しか持たず、認識対象は「幻影」となります。しかし、彼らはその感性を信じきっているのでこうした不確かなものを実在性があるとして疑わない。それは端的に言って完全なる無知の状態です。





 ひとつ段階をすすめて(D-C)は、洞窟で振り返り、影の実体をはじめて見るところに該当します。認識は「憶測」から「信念」へと変わります……が、この訳語だとイマイチ何を言ってるかわからないですね。噛み砕くと「なんもわかってない状態」から「ちょっとはわかった状態」へとレベルがあがった、ぐらいに理解しておけば良いと思います。ただしレベルがあがったとはいえ、そこは感性界での出来事にすぎません。第一章のヘラクレイトスを思い出してください。感性界の出来事は去来転変し少しも停在することのない無常の世界でした。こうした世界観をプラトンも共有している、と井筒は言います。そこでの認識はあくまで不確実なものを対象とした「仮見」なのです。





 さて、もうひとつ段階を進めると直線を半分に割っていたポイントCを乗り越えることになります。前述のとおり、叡智界の領域にはいってくる。ここでようやく認識の対象が「永遠に存在するもの」となります。叡智界の最初の局面(C-E)は、悟性認識の領域です。プラトン曰くこれが「中間に」ある知識を意味します。なぜ「中間」なのか。井筒はこれを悟性は叡智界の認識ではあるが、感性界の認識を基盤として成り立つからだ、という風に解説しています。





 井筒は喩えとして、指の話を持ち出します――目の前に3本の指を見ているとする(なんでも良いけどここでは、親指と人差し指と中指をみていることにしましょう)。それは個別的な観点からすると硬かったり、柔らかかったり、長かったり、短かったり、それぞれ別個のものとして認識できる。三本の指はそれぞれ違ったものですが「指」という意味では同じ指です。この「指」という観念も悟性的なものだと思われるのですが、ちょっと違う。それは感性的な認識において認識しきれてしまう。では、どのようなものが悟性なのか。





 さきほど我々は指が硬かったり、柔らかかったり、長かったり、短かったり、ということを確認しました。しかし、それはあくまでその指が別なものと比べて、硬かったり/柔らかかったりするからそのような認識ができるのであって、モノそのものが硬かったり、柔らかかったりするわけではありません。あくまで「私の指は(石より)柔らかい」とか「私の指は(豆腐より)硬い」とかそんな風に認識しているに過ぎない。するとこんな言い方もできるでしょう。指は柔らかいのに硬い。なにそれ! という感じですが、感性的な認識下ではそんなことが言える、ということです。ここでひとつ考えを進めましょう。そもそも「硬いっていうことはどういうことなんだ?」ということを考えるのです。大きいってことはどういうこと? 小さいって何? こういう問いかけを自分に強いると、悟性が作動する、とプラトンは考えました。





 硬いこと自体、柔らかいこと自体、大きいこと自体、小さいこと自体……いろんなものが悟性によって追求されますが、このとき追求される「○○自体」がプラトンが考えたイデアに他なりません。プラトンは叡智界に、そういう硬いこと自体みたいなものが存在している、と考えていたのです。(村上春樹流に言うならば)「世界のどこかに1キログラム原器に存在するみたいに」(ってどっかで目にした記憶があるんですが、思い出せません)。頭もじゃもじゃの脳科学者の人がクオリア=イデアと言っていましたけれども(これもどこで読んだか忘れましたが……)、クオリアを脳が感じる「○○自体」ってことにしておくと、「クオリア=イデア」説もなんだか理解できるようにも思います。





 話を本筋に戻しましょう。以上のように悟性はイデアを追求しようとする。しかし、この段階の知性は、まだ自分だけの力では直接端的にイデアを把握することができません。感性界の認識を基盤としなければならない(この『基盤』が、さきほどの喩えでいうところの指にあたるでしょう)。この基盤はイデア認識のための「仮説」となるのです。井筒曰くこうした悟性の働きは、現象学の述語体系では「本質直観」と呼ばれるものと同じだ、ということです。本質直観によって個別(いろんな指)から普遍(硬いこと自体)へと跳躍する。この跳躍する者を、プラトンは弁証家と呼びました。そして、跳躍を繰り返すことによって(弁証を繰り返すことによって)人は認識の境地である線分B-Eの領域に達することができると考えました。





 認識が最高レベルに達すると呼び方がまた変化して、今度は上位知性(純粋知性)と呼ばれることになります。これがいわゆる「ヌース」というヤツです。これがどのように悟性と異なるか、についてですが、ヌースは悟性のように感性界の認識を仮説として使用しないところに違いがある、と井筒は解説しています。ヌースはイデアをもってイデアを認識するのです。この認識世界は神秘的な性格をもち、ダイモン的な力が発揮される領域だ、とプラトンは考えます。そしてこのヌースのダイモンとしての活動が、プラトン的エロースなんだって!





 以上が第二章第三節「弁証法の道」の内容になります。ここまででプラトンのイデア論の概説みたいな部分についてはひととおり触れたような実感があります。ただ、このイデア論はプラトンの前期から後期で性格が変わってくるんですね。次節「イデア観照」からはその変化について見ていきます。それでは次回をお楽しみに!!





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か