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2月, 2011の投稿を表示しています

クリント・イーストウッド監督作品『ヒアアフター』

Hereafter: Original Motion Picture Score posted with amazlet at 11.02.27 Watertower Music (2010-10-18) 売り上げランキング: 7 Amazon.co.jp で詳細を見る  前作の『インビクタス』に引き続きマット・デイモンを主演に据えたクリント・イーストウッド最新作。なんだか「『グラントリノ』はやはり生前葬だったのか?」と思われるような作品だったと思います――しかし、これはネガティヴなコメントではなく、むしろポジティヴに評価していきたいポイントです。芸術家には三種類の人間がいて、ずーっと同じことをやり続ける人と、どんどんどんどん複雑で巨大なモノを制作していく人と、それとは逆にどんどん作るものをシンプルにしていく人がいる……というのは単なる私見ですが、イーストウッドは前述したなかでは最後のタイプ「どんどんシンプル派」の人に思われてなりません。前作は一言で言えば「ラグビー大好きオジサンのために皆で力をあわせて頑張る!」という話でしたが、今回は「誰の人生でも、なにかが起きて、それですべてが変わってしまうことがある!」という風にまとめることができるでしょうか。  恋人と楽しくバカンスを過ごしていたはずなのに、津波に出くわして死に掛けた(それどころか恋人も仕事も失ってしまった!)。さっきまでは仲良くしていた双子の兄弟が事故で死んでしまった(もしかしたら自分が死んでいたかもしれないのに!)。小さいときに高熱を出して手術をしたら死後の世界がみえるようになった(奇人変人扱いで結婚もできない!)。この映画はこのような、なんの前触れもなく「なにか」に出くわしてしまった人たちの映画なのだと思います。なにが起こるかわからないし、なんだかわからないうちに出来事が決められている。こうした偶有性が映画のなかで強調されているように思われたのですね。例えば、双子のどちらが兄で、どちらが弟か、これもまったく遇有的な事柄で、今回の映画のなかではたまたま兄(言うまでも泣く、先に生まれたほう)が、弟を引っ張るような性格で存在していますが、それは偶々兄として生まれたこどもが、兄的な性格として生まれてきただけのこと、あるいは兄として生まれたことども偶々な兄として育てられただけのこと。仲良し双子の兄弟が、ヘロイン

細川俊夫/フルート作品集

細川俊夫:フルート作品集 posted with amazlet at 11.02.27 Naxos (2011-02-23) 売り上げランキング: 209184 Amazon.co.jp で詳細を見る  海外で活躍する日本人作曲家として近年では藤倉大に注目が集まっているけれど、細川俊夫は彼よりずっと前から海外で活躍し続けている日本人作曲家だ。ついこないだもベルリン・フィルによって彼の新曲が演奏された、というニュースが入ってきた。天下のベルリン・フィルから新曲を委嘱される、というのは大変名誉なことであるらしく、作曲家の喜びの声がNHKのニュースで紹介されていた。彼は現在、ドイツに活動の拠点をおいているけれど、以前から日本で定期的に現代音楽のワークショップなどを監督しており、日本の音楽シーンとのつながりも切れてはいない。こうした意味で細川を「海外と日本の音楽をつなぐ重要な作曲家」として認めることができるだろう。かつて武満徹がシーンを牽引していたときのような華やかさはないけれども、静かに重要なポストを務めている人物である。録音の数も多い。  そんな彼のフルート作品集が先ごろ、NAXOSから発売された。かの「日本人作曲家選輯」シリーズの一枚として。このシリーズは、第一弾の橋本國彦に始まってこれまで日本の知られざる作曲家を発掘してきた名企画であるが、今回の細川俊夫の作品集がおそらくもっともコンテンポラリーなものではないだろうか。調性的《ではない》作品集としてもこのシリーズのなかでは異色に思える。  そう、細川俊夫の音楽は調性的なものではない。心が和らぐようなメロディや、ダイナミックな和声の動きはなく、西村朗流に言うのであれば「誰も聴いて幸せにならない類の現代音楽」とさえ言えるかもしれない。この作品集に収録された曲も、フルートを中心に添えたものではあるけれど、フルートという楽器のもつ優雅なイメージからは程遠いものである。音数は多くなく、時に発声を伴う特殊奏法を駆使して演奏されるその音楽は、吹き荒ぶ冬の風のような厳しさをもって鳴る。水墨画のモノトーンの彩が、彫刻のごとく空間に刻まれている……視覚的なイメージを借りれば、そんな風に言えるかもしれない。水墨画の淡い印象が、くっきりと刻まれている、というどこまでも矛盾した表現だが、私には適切に思われる。  西洋の聴衆はこうした音楽を

読売日本交響楽団第501回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

指揮:ゲルト・アルブレヒト ヴァイオリン:神尾真由子 《シュポーア・プログラム》 シューマン/〈『ファウスト』からの情景〉序曲 シュポーア/歌劇〈ファウスト〉序曲 シュポーア/ヴァイオリン協奏曲第8番 〈劇唱の形式で〉 シュポーア/交響曲第3番  「シューマンはとても有名な作品がたくさんあり、多くの人に愛されている作曲家です。しかし、シュポーアとは誰なのか? 今日のお客様の多くがそんな風に思っているでしょう」――シューマンとシュポーアによる2曲の《ファウスト》にまつわる序曲を演奏した後に、本日の読売日本交響楽団定期演奏会を指揮したゲルト・アルブレヒトはこんなことを話し始めた。日本の聴衆にも自分の言葉が伝わるように、ゆっくりとした英語で。それは彼がシュポーアの特集を組んだ理由についてのスピーチだった。  「時間には様々なものを判断し、後世に伝えられるものを選択するという役割をはたします。しかし、私はこうした《時間による審判》にも誤りがあると思うのです。本当は忘れられるべきではない作曲家たちが忘れられているかもしれない」。「音楽を含めた芸術一般では、◯◯よりも△△のほうが素晴らしい、だとか××が最も優れた作曲家だとか価値の順序を決めたがる。けれども、私はそうしたことをせず、個々の良さを認めたいと思うし、そうした個々の良さを聴衆の皆さまに聴いていたただきたいと考えます。エベレストと富士山を順序づけることはできないように、作曲家同士を比べることなんかできないでしょう?」  こうした彼の言葉は、シュポーアという「忘れられた作曲家」が取り上げられる理由、というよりも取り上げられ「なくてはならない」理由が浮びあがらせる。簡単に言ってしまえば、これは発掘作業なのだし、一種の検証作業である。《時間による審判》は果たして正しかったのか? シュポーアは忘れ去られて良かったのか? アルブレヒトがシュポーアを演奏するとき、それは音楽史に対してこうした疑問を投げかけることになる。それはとても興味深いものだ。そもそも「個々の良さを認めたい」というのが、伝えられるべき音楽を選択するフィルターとして批評や評論の機能と反抗している。こうした「知られざる作曲家」シリーズを私はこれまで「物好きな人たちのもの」と考えてきたけれど、アルブレヒトの言葉を聞いていたら音楽環境に対して積極的で攻撃的な態度のように思

リチャード・オウヴァリー『地図で読む世界の歴史 ヒトラーと第三帝国』

ヒトラーと第三帝国 (地図で読む世界の歴史) posted with amazlet at 11.02.24 リチャード オウヴァリー 河出書房新社 売り上げランキング: 416645 Amazon.co.jp で詳細を見る  歴史全般について興味をもち始めている今日この頃、ふと思うのは「どうして歴史の教科書はあんなにつまらなかったのだろう?」ということで、昨年は山川の歴史教科書を大人向けに書き直したモノがよく売れていたらしく、実際私も世界史版を購入したのだけれども読みきれないほど退屈だった(あれを平気で読める人は、よっぽど普段退屈な本を読んでいるに違いない)。なんというか平坦な流れしか書いていない歴史記述は、毒にも薬にもならない。自分が高校生の頃、世界史が好きだったのはやっぱり先生がとてもいい先生だったことが一番大きいのだと思う。雑談が多くて、やたらと雑学を話に盛り込んでくる先生がいて、あれは聞いていて楽しかった。あと、世界史の資料集が面白かったからなのだと思う――授業中先生の話を聞くのに飽きると、資料集を読んで過ごしていた人~、手を上げて~(ハイ!)  で、濃い目の雑学っぽい知識がふんだんに盛り込んであって、かつ、資料集っぽい本があったならそれって歴史本として自分的に最強なんじゃないの? とか思っていたのだが、あったね。河出書房新社の「地図で読む世界の歴史」シリーズ。これ、最強。まず手始めに『ヒトラーと第三帝国』から読んでみたんだけど面白い!   地図は、第二次世界大戦の戦線がどのように拡大していったか~、など書名から当然期待されるものはバッチリおさえられているのはもちろん、第一次世界大戦直後の経済混乱で反ユダヤ的機運が高まってドイツ各地でユダヤ人を虐待したり、シナゴーグを破壊されたその場所、ヒトラー率いるナチ党が各地でどのように支持率をあげていったかの変遷、そして各地でバカ勝ちしていたころの第三帝国の理想主義者たちが掲げた《新秩序》構想……などなど大変幅広く、どれも面白い。これらの資料を読んでると「反ユダヤ主義ってすごく根深くて、なんか不満が高まるとそのはけ口がユダヤ人に向う、っていう流れがずーっとあったんだな」とか思うし(だからユダヤ人の存在は『社会問題』扱いだったのだよね)、《新秩序》構想の壮大さ(ヨーロッパ全土に鉄道網を敷設する、とか、でっかい運河を作

Alexandre Tharaud plays Scarlatti

Scarlatti: Sonatas posted with amazlet at 11.02.22 Alexandre Tharaud EMI France (2011-01-24) 売り上げランキング: 256635 Amazon.co.jp で詳細を見る  昔は池袋のメトロポリタンに入っているHMVや新宿のFlags内のタワレコみたいな大きなレコード店のクラシック・コーナーに足を運ぶと「ああ、今日はどれを買って帰れば良いのだろう……!(あれもこれも欲しいよ……!)」と迷いながらCDを選んだものだけれど、最近はそうでもない。自分の趣味がもうできあがってしまっているのだ。学生のときのように「あれもこれも欲しい」という風にならず「あ、これは買っておこう」と自然に・適切に選べるようになる。けれども、最近はこれとは別な意味で迷う場面も発生している。それが「欲しいのが全然ないや、どうしよう……」という場面だ。  大きなレコード店の試聴機に入っているのが半世紀以上前の演奏家のライヴ音源ばかりだったり、レコード会社が売り出している新人の、(ヴァイオリニストなら)チャイコフスキーだ、メンデルスゾーンだ、ブラームスだ……、(ピアニストなら)チャイコフスキーだ、《皇帝》だ、ショパンだ……などと決まりきった定番曲ばかりだったりするのを見かけると「これって本当に必要なんだろうか? 出してなくても誰も困らなくない?」と思ってしまい(発掘音源なんかとくにそう)、途方にくれることになる。クラシック・コーナーってこんなにマニア向けのCDばかりだったかな? とてもついていけないよ、と何も買わずに帰ることもある。だいたいあの曲もこの曲も持ってるし、よっぽど好きな演奏家か、あるいはよっぽど評判が良い録音か、または、とても美人な演奏家でもない限り、食指が動かない。  そういうわけで手っ取り早く自分にとって目新しいものを探す、となると古楽とか現代音楽とかの棚の前に行くことになる。そこは自分が知らないものばっかり置いてあるコーナーだからだ。前置きが長くなったけれど、アレクサンドル・タローが演奏するスカルラッティのソナタ集もそういう状況で手に入れた。全然知らないピアニストだったし、スカルラッティも名前しか知らなかったが、新しいものに《出会う》とはそういうことなのだろう。ろくでもないモノばかり試聴機に入って

江村哲二/地平線のクオリア

江村哲二作品集《地平線のクオリア》 posted with amazlet at 11.02.21 大野和士/新日本フィルハーモニー交響楽団 他 ALM RECORDS (2007-07-07) 売り上げランキング: 209243 Amazon.co.jp で詳細を見る  日本の作曲家、江村哲二の作品を初めて聴いたのは昨年のサントリーサマーフェスティバルでのことで、その日は芥川作曲賞の受賞者による委嘱作品のうち、とくに評価が高かった管弦楽作品が演奏されていた。そこで江村の《プリマヴェーラ(春)》を聴き、ああ、日本人でもまだこんな艶やかで美しい作品を書くことが許されているのだな、という驚きが喜びとともに胸に沸いた。しかし、この驚きは同時に悲しさをもたらすものでもあった――江村哲二はすでに故人だったのである(2007年6月11日、47歳の若さで亡くなっている)。アルバム『地平線のドーリア』は、江村の死後に発表されることとなった管弦楽作品集。これに収録された(残念ながら第三部のみの抜粋であるが)《プリマヴェーラ(春)》を聴きながら、改めて今の現代音楽の状況において美しい音を追求することのできる度胸、そしてそれが許された才能があまりに早く失われてしまったことが残念でならなかった。  アルバムの表題作となっている《地平線のクオリア》(2005)は、武満徹に捧げられた作品であるらしい。無論このタイトルは武満の《地平線のドーリア》をもじったものであろう。作曲者自身によるプログラム・ノートには以下の言葉がつづられている。 作曲とは聴くということ。それ以外の何ものでもない。このことを教えてくれたのは武満徹の音楽である。自分の内なるところから湧き上がる音の響きにじっと耳を澄ますこと。それが作曲である。しかし、その響きはあたかも地平線の上に在るが如く、それを手にしようと追いかけても決してそれを実体としてつかむことはできない。その響きは、私が私であるという証でもあり、私という体験でしか語ることのできない「クオリア」である。そしてそのクオリアへの果てしない憧れによって作曲家は作品を書き続けているのである。  追いかけても決してつかむことのできないもの。言葉にできないもの。そうしたものへの憧憬が作曲家の創作意欲を駆動させる(江村が語るこうした態度はまぎれもなくロマンティックな態度である)。《

Date Course Pentagon Royal Garden 菊地成孔 同一の呪法による二つの儀式 菊地成孔と菊地成孔によるダブルコンサート 巨匠ジークフェルド/菊地成孔 ダブルコンサート二日目 @新宿文化センター

FRANZ KAFKA’S AMERIKA posted with amazlet at 11.02.20 DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN Pヴァイン・レコード (2007-04-06) 売り上げランキング: 67693 Amazon.co.jp で詳細を見る  (タイトル長!)活動再開後DCPRGの首都東京における二度目のライヴは《野戦》から《室内戦》へ。会場の新宿文化センターはステージ向って右手にパイプオルガンがあるホールで演奏中のライト演出の最中にそれを眺めると、『猿の惑星』に出てきた核ミサイルを偶像として崇めるミュータントの基地を思い出した。密室に群れた観客は熱狂するカルト信者たちのようにも見える。音を求める信者たちはグルが語るグルーヴの始原に関する偽史を聞く。鼻の先と前歯がベース音によって震え、腰が奇数拍子と偶数拍子のどちらかに合わせて回転する。戦争を模した音楽、呪術を有した音楽。どちらの意味でもDCPRGの音楽は、日常から一時的に観客を離脱させる効用をもつ。オーケストラも演奏が可能な広いステージから飛んでくる音は多幸感をもたらし、私はそれに飲まれた。  聴きながら考えていたのは、音楽の具体性と抽象性について。奇しくも現代音楽の世界では、具体音楽のほうがわけのわからない音楽(一般的な《音楽》のイメージから遠い)になるけれど、それとは関係がない。考えていたのは、もっと観念的な問題で、我々はどういう音楽を抽象的な音楽とよび、どういう音楽を具体的な音楽とよぶのか、についてだった。音楽は音だから目に見えない。だから「具体」を与えることはできない。「○○のメロディ」とあるメロディに名前を与えることは可能だが、そこで名指しされた○○と、メロディの間には直接的な関連はない。例えば「かえるのメロディ」があって、それが誰もに「かえるのメロディは、たしかにかえるっぽい」と納得されているとするならば、それはメロディとかえるのあいだに媒介となる何らかのイメージがあって、それがメロディとかえるとを繋いでいる。そうではない、本当の「かえるのメロディ」があるとするならば、それは音楽ではなく、かえるのメロディっぽく聞こえる鳴き声、ということになるだろう(現代音楽の具体音楽で用いられる音とは、そうした《○○の音》だ)。だからあくまで音楽の具体性とは具体

結城浩『暗号技術入門 秘密の国のアリス』

新版暗号技術入門 秘密の国のアリス posted with amazlet at 11.02.18 結城 浩 ソフトバンククリエイティブ 売り上げランキング: 20309 Amazon.co.jp で詳細を見る  昨年の秋ごろに、情報セキュリティスペシャリストという資格を受けていた。結果は不合格。結構勉強していたし、手ごたえも感じていたのに、全然惜しくもなんともなく落ちていた。それが悔しかったので春にまたリベンジ・マッチをかけようと基礎がための意味で『暗号技術入門』を手にとった。著者は最近は『数学ガール』でも注目を浴びている結城浩。副題には「不思議の国のアリス」とあるが、このへんのキャッチーなネーミングが上手い。  内容は通読できる暗号技術の概説書という感じ。残念ながらこれは私が求めていたものではなかった。この程度なら情報セキュリティスペシャリストの資格の勉強をしているうちに自然と覚えることがらだろう。資格的には、基本情報処理技術者、応用情報処理技術者にチャレンジする人のうち、公開鍵暗号方式やディジタル署名の仕組みがどうしてもわからない! ぐらいのレベルの人にはおすすめかもしれない。情報処理資格の勉強をしていると「この技術ってなんのためにあるの?」と根本的な疑問を抱いてしまうことがあるけれど、そうした問いを具体的なイメージを与えて解決してくれる、という側面は文系大学卒でなんとなくシステムの会社に入った人(私もそのひとりだが)にはありがたいはずだ。  というわけで資格の勉強的にはイマイチ身にならなかったのだがつまらない本ではなかった。情報システムに関わる人以外に、セキュアな通信はどのようにおこなわれているの? なんてことに興味を抱く人はあまりいないだろうが、昨今ではインターネットを使う誰もがこうした技術の恩恵にあずかっているのだ。そうした環境において本書で得られる知識は、専門知識ではなく教養として受け取られても良いと思う。まあ、そうした技術について知らなくてもインターネットができてしまう、という状況はこのメディアが「当たり前のもの」として社会に浸透した、という事実を端的に示してもいるのだが。  あと参考文献には山形浩生の翻訳書が二冊。IT系翻訳もやっていることはもちろん知っていたけれど、こんな仕事もしてたんですね……とこの人のカバーしている領域の広さに敬服したくなる

ドミニク・チータム『「くまのプーさん」を英語で読み直す』

「くまのプーさん」を英語で読み直す (NHKブックス) posted with amazlet at 11.02.11 ドミニク・チータム 小林 章夫 Dominic Cheetham NHK出版 売り上げランキング: 20967 Amazon.co.jp で詳細を見る  "Winnie-the-Pooh"を原書で読むのと平行して、こんな本を読んでいた。なんでも「『くまのプーさん』の世界には、豊潤なるイギリスの文化が溢れている。プーを読むことで、英語を母語とする人々と同じ文化を共有することが可能になり、同時に、イギリス文化の一部となることができると言えるだろう。幼い頃にプーの世界で育ったイギリス人の著者が、原文の英語が持つ豊かな表現力などを紹介しながら、プーの世界にどのような文化が息づいているのかを紹介していく」だそうで、サブテクストにはとても良さそうだった。しかし、これは誇大広告的な感じであって、Poohに含まれたイギリス文化の紹介はあまり多くはない。どちらかと言えば作者であるA. A. ミルンがリズミカルな文章を書くセンスにどれほど長けていた詩人であったか、といったところに焦点が当てられているように思われる。この文章のどこが優れているのか、という解説のほうが多いのだ。しかし、原書を読み終えてからPooh本文の解説を見れば、それが実に共感できるものだ。  全体は三部に分かれており、第一部はPoohが書かれた背景と作者や登場人物への解説となる。その後の第二部と第三部はそれぞれ、Poohの物語である2冊の本、"Winnie-the-Pooh"、"The House At Pooh Corner"の各エピソードを詳細にみていっている。第一部は原書を読む前に読んでもかまわない。しかし、第二部と第三部は原書を読み終えてから読んだほうが良いだろう(だから"Pooh Corner"を読んでいない私はまだ第三部を読んでいない)。ここでは「この文章が英語的になぜ面白いのか」という解説がおこなわれる。これはなぜ面白いのか、という解説ほど野暮なものはないけれども、すでに原書で「笑えてしまった部分」についての解説であれば「ああ、そこはやっぱり笑うよね」という感じで、まるで友人と「あれは良いものだよね」という

井筒俊彦『神秘哲学』を読む #6

神秘哲学―ギリシアの部 posted with amazlet at 10.12.30 井筒 俊彦 慶應義塾大学出版会 売り上げランキング: 130301 Amazon.co.jp で詳細を見る  本日は第二章第三節「弁証法への道」を見ていきます。ここはプラトンの「直線の比喩」の説明からはじめられます。この部分を読むに当って、まずは以下のような図を頭に浮かべてください。 B------E------C-------D------A  この直線は前節で解説された「洞窟の比喩」の概念図といってもいいでしょう。ポイントAは洞窟のもっとも奥で逆側の終点Bは太陽を表象します。するとこの無機質な図にこんな肉付けが可能です。 明るい                暗い B------E------C-------D------A  A→Bの方向でこの線を辿れば「闇は次第に薄れて何時しか光に転じ」、逆にB→Aの方向でこの線を辿ると「眩きばかりの光明は次第に弱まって薄明の光りに転じつつ遂に黯惨たる闇に消える」(P.64)――頑張って図からこのような情景を思い浮かべてください。明るさ/暗さは光に関する感覚的な表現ですが、プラトンにおいてはこの明/暗は、認識の明/暗にも置き換えられます。さらに、Cを基点としてBの側は叡智界の、Aの側は感性界を表象するものです。再び図に肉付けをおこないましょう。するとこんな風になる。 明るい                暗い B------E------C-------D------A 認識ハッキリ            認識ぼんやり ��叡智界)              (感性界)  図は4分されています。残りの部分についても見ていきましょう。これもやはり洞窟の比喩と対応します。直線の最右部(A-D)は、洞窟の最も暗い部分です。そこでの人々は物体の影しか認識することができません。認識主体は「憶測」しか持たず、認識対象は「幻影」となります。しかし、彼らはその感性を信じきっているのでこうした不確かなものを実在性があるとして疑わない。それは端的に言って完全なる無知の状態です。  ひとつ段階をすすめて(D-C)は、洞窟で振り返り、影の実体をはじめて見るところに該当します。認識は「憶測」から「信念」へと変わります……が、この訳語だとイマイチ何を言ってるかわか

A. A. Milne『Winnie-the-Pooh』

Winnie-the-Pooh (Pooh Original Edition) posted with amazlet at 11.02.11 A. A. Milne Puffin 売り上げランキング: 3570 Amazon.co.jp で詳細を見る  英語の勉強がてらに児童文学を読んだらいいのではないか、と思い、Winnie-the-Poohを読む。いわずと知れたディズニー・アニメ『くまのプーさん』の原作である。私はディズニー・キャラクターのなかではプーさんがとても好きであるのだが、実のところ、アニメも見てないし、翻訳で原作を読んだこともないので(そういうのって結構あるよね、エルガイムやボトムズのデザインは好きだけど、アニメは観てない! みたいな)ちょうど良かった。結構わからない単語はあったけれども(動物の体の部位とか植物の名前とか)結構すんなり読める。驚くべきは、この本、とっても笑える、ってこと。児童書を読んでもうすぐ社会人5年目になろうとする大の大人が笑っている、っていうのはどうかと思うけれど、私の英語力は児童レベルであるのだから、まあ、問題はない(のか?)。新入りのカンガルー親子を追い出そうとカンガルー(息子)の誘拐計画を練ってみたり、見たことない北極点を探しにいったり、とこんなおかしな話だったのか~という感慨もあるのだが、それよりなにより自分が英語のギャグを読んで、笑っている瞬間に驚いた。英語の音声的な言葉遊びなんだけれども(まあ、ダジャレですよね)、少しお酒を飲んでから読み始めると、Poohのおとぼけぶりが余計にハマッて面白かったです! 会話文も結構あるし、挿絵もかわいいし、英語の教材としてもなかなかいいのかもしれないですね、この本。iPhoneユーザーの人はiBookのデフォルト・コンテンツとしてこの本が入っていますが、iPhone版はフルカラー、ペーパーバック版はモノクロです。が、レイアウトが全然違ったりするので要注意。Winnie-the-Poohは挿絵と本文のレイアウトが上手いぐあいに配置された一種の総合芸術的本なので、レイアウトが重要です。

朝吹真理子『きことわ』

きことわ posted with amazlet at 11.02.10 朝吹 真理子 新潮社 売り上げランキング: 126 Amazon.co.jp で詳細を見る  朝吹真理子は1984年生まれ、私と学年が同じ年に生まれている。生まれた土地や環境はまったく違う。けれども、学年が同じである、ということはほとんど似たような時代の風景を見ている……であろう、そしてそういう自分とほとんど同時代人がどういった小説を書いて芥川賞を受賞しているのか、それが気になった。普段誰が芥川賞をとっても特段気にもしないのだが、今回ばかりはそうしたところで意識に止まり、書店で手に取ったら『E2-E4』への言及が目に止まる。それはマニュエル・ゲッチングが1984年に発表した、クラブ・ミュージック界隈、ミニマル・ミュージック界隈から今なおリスペクトされている記念碑的アルバムだ。そういえばゲッチングが昨年来日してこのアルバムを“再演”したのを私は 観ていたのだった (嘘。観てない。去年の再演してたのはINVENTIONS FOR ELECTRIC GUITARだ!)。  心地よい言葉のリズム、視覚的に印象の強い言葉の塊的な密度、そして、芥川賞審査員たちがこぞって言及している《時間》の取り扱いは、この音楽をベースに読むと良いのかもしれない。反復と変化。短いリフレインが多層を作り、それぞれの層のなかで変化がおこっていく。こうした音楽的特徴はミニマル・ミュージックにおいて典型的なものであるが『きことわ』がもつ時間の多層構造はそのような音楽とアナロジカルに併置することができよう。しかし、あくまで文字は一つの流れでしか追うことができない。多層構造とはあくまで比喩であって、ともすれば、単に時間軸があちこちに飛び交って読みにくい作品にもなりかねない。それに読みとは読み手の読むスピードによっても左右され、文章のテンポの良さ、スピードの速さなどは読み手の主観によって決定される。文章のスピードは、スピード・ガンでは計測できない。私はこれをサクサクと読んでしまったが、丁寧に、ゆっくりと読む人もいるだろう。そうした場合にイメージされるのは、モートン・フェルドマンの音楽かもしれない。フェルドマンの音楽は、反復のように表層的に見せかけて、聴衆が気づかないあいだにどんどん変化していく、特異的なテクスチュアをもつ。フェルドマン

音質と印象 メロディヤに残されたショスタコーヴィチの作品の録音を聴いて思ったことなど

ショスタコーヴィチ:交響曲全集 posted with amazlet at 11.02.10 モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団 ツオロバルニク(エフゲーニャ) アカデミー・ロシア共和国合唱団 アカデミー・ロシア共和国合唱団男声合唱団 ネステレンコ(エフゲニー) エイゼン(アルトゥール) BMGメディアジャパン (1997-10-22) 売り上げランキング: 545336 Amazon.co.jp で詳細を見る  ショスタコーヴィチの交響曲といえばエフゲニー・ムラヴィンスキー/レニングラード・フィルの演奏の聴いておけば間違いない、というのが定説であるが、ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチのすべての交響曲を演奏しておらず、そのため全集録音も残っていない(ムラヴィンスキーは、ショスタコーヴィチが晩年に書いた合唱付きの交響曲を演奏しなかった)。このため「ソ連が存続していた時代であり、ショスタコーヴィチがリアルタイムに生きていた20世紀に残された交響曲全集」を選ぶとするならば、キリル・コンドラシン/モスクワ・フィルによる世界初の全集を選ぶほかない。ただ、そうした記念碑的な全集がひとつの決定盤として残っていることは幸いだろう。  この録音は多くが60年代半ばから、70年代半ばに収録されたもので、当時の国営レコード会社であったメロディヤによって制作されている。メロディヤはソヴィエト連邦の音楽文化を世界に向けて発信するひとつの窓口であったはずだ。しかし、このメロディヤ録音は、音質の悪さで定評がある。同じ時期の西側諸国のレコード会社が録音した音源と聴き比べたらメロディヤの技術力のほどがすぐに理解できるだろう。現代のリマスタリング技術によってもマスターの質の低さは補いきれない。痩せた中低音と、強音部での音割れは「貧しい印象」を聴き手に与えるだろう。  しかし、それがメロディヤの音なのであり、特徴であり、個性なのだ、という声もあるだろう。かく言う私もそうなのだから。この音の貧しさが、ソヴィエト連邦を代表する作曲家であったショスタコーヴィチの印象をかなりの程度支配していると言っても良い。この痩せた音によって、ショスタコーヴィチの諧謔はより一層際立ち、音割れは戦地のような荒々しさを印象付ける。ムラヴィンスキーやコンドラシンによるショスタコーヴィチの録音がもし、60年代のEMIの木管楽

松平敬/トマス・タリス:40声のモテット《スペム・イン・アリウム》

松平敬「タリス:40声のモテット (一人の歌手による多重録音)」(iTunes Music Store)  昨年発表された一人多重録音による無伴奏合唱曲集『MONO=POLI』が記憶に新しい、松平敬の新譜がiTunes Music Storeで配信されています。今回はトマス・タリスの《スペム・イン・アリウム(御身よりほかにわれはなし)》。タリスは16世紀イングランドの作曲家であり、この作品は彼が書いた40もの声部を用いた合唱曲です。松平は今回の録音でもこの作品を一人多重録音にてレコーディングしています。この作品については数年前、都内のギャラリーで40個のスピーカーのひとつひとつから各声部を再生し、マルチ・サラウンド環境にて作品の鑑賞をおこなうというインスタレーションがおこなわれていました。残念ながらその展示は見にいけなかったのですが、それからずっと気になっていた作品だったので、松平の新譜がでたことで念願かなって聴ける機会を得た、という気分です(もちろん、これまでに録音がなかった曲ではないのですが……しかし、一人多重録音によるものはこれが初めてでしょう)。  しかし、これはとんでもない作品です。編成の大きさが否が応でも醸し出す荘厳なイキフンと長い残響に痺れてしまう。もともとルネサンス音楽に詳しいわけではないので和声感が斬新に聞こえる瞬間があるのも楽しい。バロック音楽とはまったく違ったすごい世界観が、16世紀には鳴り響いていたんだなあ、という感慨も強くあります。この録音を聴いて、40個のスピーカーを使ったインスタレーションを体験できなかったことが一層悔やまれるようにも思いました。なお、iTMS以外の高音質音源配信サイトでは、各声部のミックス前音源が非圧縮形式で配信されるそうです。つまりこの音源を使えば自分でミックスも可能ですし、40個のスピーカーを使ったインスタレーションの再現も可能、ということでしょう。iTMS版には全40声部の通常音源のほかに、声部を8つのグループにわけてミックスした音源も収録されています。この特異な音響世界が、どのように構成されているのか。その仕組みは、こうした解剖学的な(?)音源を聴くと理解できるかもしれません。

村上春樹『村上春樹 雑文集』

村上春樹 雑文集 posted with amazlet at 11.02.05 村上春樹 新潮社 売り上げランキング: 14 Amazon.co.jp で詳細を見る  仕事がちょっと忙しい → ストレス発散で金を使いまくるなかでアホほど本を買う……というのをちょっと繰り返していたら積読が大変な量になってしまったため、しばらく本の買い控えをおこなっていたのだが、会社の本屋さんで見つけて抗いがたく購入。そして一気に読んでしまった。400ページ以上の大ボリュームのなかにさまざまな文章が収録されている。これまで彼のエッセイはかなり好んで読んでいたので特別目新しいものはない。しかし、リズミカルに読めてしまい退屈もない。(もしかしたらこのブログで同じことを何度も書いている可能性があるが)そうした読書感をもたらしてくれる書き手は稀有だ。  読んでいて、それにしても村上春樹という人はストイックなのだな、という印象を新たにした。朝早く起きて仕事して、走って、早く寝る。村上春樹はこうしたリズムを繰り返し続けているそうだけれど、なにかほとんど鉄人とか修道士なみといって良いと気がする。スポーツ選手ならイチローもそんな感じ。そこには徹底した自己抑制がある。想像だけれども「自分は作家である」という自己規定が、倫理や責任を生み、こうして厳しい抑制をおこなえるのかもしれない。昨日『ノルウェイの森』の感想でも書いているけれど、抑制をおこなえるから作家になれた、のではなく、作家であるという規定があるから抑制がおこなえる、という逆説はどうも実際に存在する気がしている。性格の可塑性、というか。  本の内容から大きく話がそれているので少し本の内容について触れておく。個人的に強く印象に残ったのは「『アンダーグラウンド』をめぐって」という章に収録されている「東京の地下のブラック・マジック」という文章だ。軽い文章が多く載せられている本書のなかで、この章は幾分シリアスな雰囲気になっている。「東京の地下のブラック・マジック」は海外の『アンダーグラウンド』の読者のために書かれた紹介文のようなものだが、戦後の日本の発展と(破綻と混乱を伴った)転換における社会分析、あるいはメンタリティの分析のようにも読める。1995年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件、このふたつの事件は私個人としても強く記憶に焼きついているし、とく

井筒俊彦『神秘哲学』を読む #5

神秘哲学―ギリシアの部 posted with amazlet at 10.12.30 井筒 俊彦 慶應義塾大学出版会 売り上げランキング: 130301 Amazon.co.jp で詳細を見る  本日は第二章第二節「洞窟の譬喩」に入っていきます。これはプラトンの『国家』に出てくるとても有名な説話ですね。『国家』は当ブログの記録から調べてみたところ、4年ほど前に読んでいたようです。例によってあまり内容を覚えていないのですが、洞窟の比喩はかろうじて「そんな話しあったなあ」ぐらいに覚えていました。井筒はこの比喩にプラトンのアナバシス(向上道)とカタバシス(向下道)が表現されている、と言います。しかし、まずは『国家』未読の方向けにもこの比喩がどういった状況のお話をしているのか、について知っておいたほうが良いですね。「国家 洞窟」でググッてみたらWikipediaにも「洞窟の比喩 *1 」という項目がありました。この比喩で鎖で縛られ、実体の影しかみることができない人々の姿は「感性的世界に生きつつそれに満足し、これを唯一の現実と信じている日常的人間の状態」なのです。彼らは生まれてから実体の影しかみたことがない。それゆえに影が真の現実だと思っている。そこで人々の鎖を解き、無理やりに後ろを向かせたらどうなるでしょうか。後ろには影を作り出していた光源である火がありました。影ではなく初めて光を見た彼らはの目はその眩しさに苦痛を感じるでしょう。それどころか目が眩んで何も見えなくなってしまうかもしれない。  そこで誰かが目が眩んだ人々に「君たちが今まで見ていたものは影であって、ホンモノは後ろ側にあるんだよ」と教えても、彼らは影こそが実体であるという認識に慣れきっているからなかなか信じてくれない。実体は眩しくてよく見えない。影のほうがよく見える。だからやっぱり影のほうがホンモノなんじゃないか? 囚人たちはそのように考えます。よって、囚人を解放するという試みは失敗する。だが、それは完全に失敗したわけではないのです。それまで自分の背後に世界があることを知らなかった囚人たちは、自分の背後にも世界が存在することを知る。「この新しき光の世界が彼にとって如何に不気味であり、如何に不愉快なものであるにせよ、ともかくそれは或る全く別のものの開示であった」(P.53)。ここで今度はすかさず囚人を洞

トラン・アン・ユン監督作品『ノルウェイの森』

ノルウェイの森 オリジナル・サウンドトラック posted with amazlet at 11.02.04 サントラ カン SMJ (2010-11-10) 売り上げランキング: 2369 Amazon.co.jp で詳細を見る  観る前に否定的な感想をいくつか目にしてたんですが、私は大変面白く観ました。もちろんそれは原作をすでに読んでいて(しかもかなり熱心に)受け手の準備が万全に整っていた、という状態のせいもあるかもしれません。たぶん原作を読まずに観にいっていたなら「ポカーン(そして菊地凛子のメタリックな肌色に畏怖)」みたいな感じだったと思います。原作つきの映画にはいくつかパターンがあるでしょう。この映画は「原作の再現」のパターンではなく「解釈付きの映画化」のパターンだったと思います。それはひとつの翻訳に近いものです。最近読んだ『翻訳夜話』で、村上春樹は「自分の小説に対する評価には興味がないが、自分の小説が翻訳されたものを読むのは面白い」といった話をしていたような気がします。外国人の監督にこの作品の映画化が許されたのはそうした原作者の感覚が由来しているのかもしれません。そして、この外国人による解釈は、私としては新鮮に思えましたし、とてもよくできていると思った。 翻訳夜話 (文春新書) posted with amazlet at 11.02.04 村上 春樹 柴田 元幸 文藝春秋 売り上げランキング: 15309 Amazon.co.jp で詳細を見る  翻訳的な解釈(解釈的な翻訳)なのですから、あのシーンがない、このシーンがない、とあれこれ難癖つけるのはちょっと無粋な気がします。むしろ、あのシーンが落とされた、このシーンが削られた、ということに自分とは違う読みの可能性を感じ、許容するべきではないでしょうか。いえ、私も個人的な思い入れがある作品ですし、納得いかない! という声があがるのも理解できるのですが、そういった方は原作の完全再現を望んでおられたのでしょうか。でも、映画と小説では言葉が違うんですから「完全な再現」なんか無理ですよね。  映画を観ながら考えていたのは「欠如したもの」と「欠如を満たすもの」の関係についてです。映画のなかでワタナベは、ずっと「欠如を満たすもの」として存在していたように思われました。誰かの欠如を埋めるべく、何かを与えるもの、として