井筒俊彦『神秘哲学』を読む #2

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神秘哲学―ギリシアの部
井筒 俊彦
慶應義塾大学出版会
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 あけましておめでとうございます。今年はより一層ハードコアで、誰もついてこられないほどインテリジェンス溢れるブログを目指していこうと思うのですが、その将来を予兆するかのように新年一発目のエントリは「ひとりぼっちの読書会」でございます。前回予告しましたとおり本日は『神秘哲学』の本文に入りまして第一章「ソクラテス以前の神秘哲学」を見てまいりましょう。井筒はまず、ディオニュソス神についてとりあげています。





 ギリシャ神話上のディオニュソスは、豊穣とブドウ酒と酩酊の神として信仰されており、ゼウスがどこぞの王女様と浮気をして作ったこどもとして知られております。しかし、彼はもともとアジアで信仰されていた土着の神様だったのです。この信仰がいつのまにかギリシャにも流入し、紀元前6世紀にギリシャ全土に一大ディオニュソス・ブームがやってきたのだそうです。具体的にどういった催しが当時おこなわれていたか、というところまで井筒は触れていないのですが、ディオニュソス信仰はとにかくすごい熱狂的なモノだったらしいです。



惨虐狂躁の限りをつくし、悽愴(せいそう)なること目を覆わしむごとき野蛮醜悪なる手段によってではあったが、この暗き祭礼の醸し出す異様な狂憑の痙攣の裏に沈淪する信徒達は、小我を脱却して大我に合一するの法悦を直験し、肉体の緊縛を離れた霊魂の宇宙生命への帰一還没を自ら直証することを許された。(P.6)



 もうなんか字面からこの儀式の凄みが伝わってくるようですが、当時のギリシャ人の精神にはこうした狂乱体験への免疫が備わってなかったので、大ブームになってしまった、と。この信仰を井筒は「冥闇と渾沌の『夜』の精神」と呼ぶのですが、これが後に「アポロン的清澄の光明」とならんでギリシア精神の本質的要素となります(P.7)。しかし、ディオニュソスが与えた衝撃はそれだけではない。ディオニュソスがギリシャに消し難い刻印を残した、ということはつまり、その後の全西欧の精神にディオニュソスは遺伝された、ということです。井筒はこんな風に言い切ります。「ディオニュオス宗教のギリシアに於ける隆盛は同時に西欧神秘主義の発端を劃するものである。(P.8)」。この信仰を機に、西欧的人間はエクスタシス(霊魂の肉体脱出)及び、エントゥシアスモス(神の充満)という体験をし、そして、今生きている世界の外に、見ることのできない真実在の世界が存在する! という風に考え始めた、というわけです。もう少し言ってしまえば、ガンギマっちゃってる状態の法悦的世界がホントの世界なんだよ! という風に考えた、とでも言えましょうか。ディオニュソス信仰の野蛮な部分は徐々にそぎ落とされてしまうのですが、こうした体験と思考法はギリシャのなかに残り続けます。





 また、これ以前からギリシャで信仰されてきた密儀宗教は、ディオニュソス信仰の流入と同化によって活発になります。そして紀元前5世紀の初めごろにはディオニュソスの影響下で発達したこの密儀宗教が社会の上層下層を問わずあらゆる方面に浸透していたそうです(P.13)。しかし、これに先駆けてイオニア地方では「ミレトス学派」と呼ばれる哲学思想が誕生しています。彼らもまた、ディオニュソスの祭に参加して神秘体験をした人たちのごとく、超越的体験によって形而上的自然の存在を直観し、そこに世界の究極的原理を見出した人びとであったそうです。しかし、彼らはそうした世界と感性的自然(普通の現実)を分けて考えなかったために、彼らの思想は一種の汎霊魂主義に陥り、形而上学とも自然科学ともいえないごちゃごちゃしたもので終わってしまいます。





 しかしそこにミレトス学派の思想を継承するようにして、詩人預言者クセノファネスが誕生します。井筒はクセノファネスの登場を、ギリシア神秘思想史のエポック・メイキングな出来事として重要視しています。クセノファネスの登場によって、超越的自然と感性的自然の存在領域に明確な区別がなされ、そしてイオニアの存在論は急速に形而上学への道を辿り、そして、存在の究極的根源の探求が、神の探求へとイコールで結ばれる、というわけです。





 彼は現実世界のあらゆる存在者の対立の彼岸に絶対超越として「一者」の存在を想定していました。井筒はクセノファネスが考えた一者を世界をこのように表現しています。「渾然として有無を離絶し不生不滅、湛寂として永恒不変なる自体的存在(P.16)」と。これに対して、現実世界(=感性的経験的世界)は、あらゆるものがそのほかのものではない、という関係によってでしか、それぞれの存在の名を保持できない危うい生成の世界なのです。しかし、危うい世界であるからといって、現実世界が即ち虚構である、という風にはクセノファネスは考えませんでした。一者は経験的世界を否定するものではなく、無限に高く超越しながらも、無限に近く存在者を包み、そしてその存在性を分け与えるものだ、という風に考えました。クセノファネスの考えた神は、このように「近くて」「遠い」という矛盾的一致をもっていました。この性格は「一・即・全」と呼ばれます。





 この「一・即・全」(全一)は、しばしば、一者がすなわち世界全体である、という典型的な汎神論とみなされてしまうのだが、クセノファネスの全一は汎神論とはまったく違っている、ということを井筒は強調しています。クセノファネスのそれは、自然神秘主義的体験として理解されなくてはならない。それでは、その自然神秘主義的体験とはどのようなものであったのでしょうか。





 繰り返しになりますが、ギリシャの自然神秘主義はディオニュソスによってもたらされた「脱自(エクスタシス)」と「神充(エントゥシアスモス)」の体験に基づく「宇宙的霊覚の現成」でした。そこでは、エクスタシスによって自我が完全に無視され、人間的意識の一切が消滅します。人間的意識が消えてしまうわけですからそうした状態の最中に、それまで体験していた経験的世界も消滅することは当然です。それまであった経験的世界が消滅すること。これがエクスタシスの消極的活動となるわけですが、そこにはもちろん肯定的側面も伺える。経験的世界は消滅してしまうが、自分を抜けて出て「自他内外一切の差別を離却して厘毫(りごう)も剰すところなく絶滅し尽くされた人間無化の極処に於て、その澄浄絶塵の霊的虚空に皓蕩として絶対意識が現われる(P.20)」。この絶対意識に触れている瞬間、何も存在しない霊的虚空に、たしかに存在している矛盾の感覚が呼び起こす緊張。これこそがエントゥシアスモス(全てが神に充たされること)なのです。これと同じ矛盾を、クセノファネスの神は超越即内在という形で変奏しているわけです。





 ただ、こうした神秘主義を誰もが理解できる、という風にはクセノファネスも考えていなかったようです。むしろ、彼は自分で言いながら「これはみんな理解してくれないだろうな……」と諦めモードだった。体験してもらえば絶対わかってもらえるハズなのに、言葉にしようと思想的に反省すると神秘的矛盾を説明できなくなる。こうしたジレンマはクセノファネス以降にも引き継がれ、ギリシャ形而上学が闘うべき課題となってしまいます。





 ここまでで第一章の半分まで進めることができました。次回は第一章の後半に入りまして「万物は流転する」で有名なヘラクレイトスをとりあげた部分を見ていきます。





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