プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』

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エジプト神イシスとオシリスの伝説について (岩波文庫)
プルタルコス
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 プルタルコスは紀元1世紀中ごろに生まれて2世紀初頭ぐらいまで生きたギリシャの人(ローマ時代のギリシャ人、ということになる)。つい最近になって重版された『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』は、この人が書いたエッセイ集『倫理論集(モラリア)』からの抜粋で、エジプトの神々についてまとめられた書物として現存しているもののなかでは、これが最古のものなのだそう。私のなかのエジプトの神様の知識といえば、サン・ラーであるとか、ジョジョ第3部であるとか(シルバー・チャリオッツ!!プラス、アヌビス神!!)、ものすごく断片的なものだったから、とても面白かった。そういえば、先日モーツァルトの『魔笛』を見たときもオシリスとイシスがセリフに出てきていたなあ(ザラストロの神殿では、オシリスとイシスが崇められている)。




 とはいえ、こうしたエジプト神話は前22世紀には成立していたものだそうで、プルタルコスがこうした神々のストーリーを書き記した頃には、現代の人がプルタルコスの本を読むぐらいの時間が経過しているのだから、彼がまとめた話がどこまで本来のエジプトの神話であるのかはかなり怪しい、とのこと。しかも、プルタルコスは(ときおりかなり強引に)エジプトの神々をギリシャの神々に読み替えており、いろいろあることないこと付け加えているようなのだ*1。だから、この本はエジプトの神話をプルタルコスが紹介している本としてではなく、プルタルコスによるエジプト神話解釈、という風に読むのが適切なように思えてくる。





 こうした視点からこの本を読んでいくと実にスリリングなのが、ペルシャ神話、エジプト神話、ギリシャ神話を比較しながら分析していく部分で(P.85から)、これはもう文化人類学者みたいな仕事ぶりだと思われた。ここでプルタルコスは、エウリピデスの言葉「善と悪とが別々にあるのではなく、両方が混ざり合ってちょうどいい加減になる」を借りてきて、彼が考える世界の秩序観を提示するのだが、さまざまな神話はこのような世界観を表現する共通のアナロジーであるように扱われる。このへんがとても面白かった。





 もちろん、紹介されているエジプト神話もなかなかに魅力的である。オシリス(アセト)とイシス(ウシル)とテュポン(セト)とネプテュスが全員異父兄妹で、そのなかで愛し合ったり殺しあったり、子どもを作ったりしているのが良いと思った。アヌビスなどは、オシリスがイシスと間違って、ネプテュスと交わってしまい産ませた子どもであるとか、いろいろとヤバい。




*1:このあたりの信憑性についての話は、訳注でうざったいぐらいにツッコミが入ります。凡例には「訳注はなるべく少なくした」とあるのだが、全然少なくないです。





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たけみた先生の翻訳によるルーマン『新しい上司』を読んだよ!

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新しい上司:イントロ - たけみたの脱社会学日記

新しい上司:第一節 - たけみたの脱社会学日記

新しい上司:第二節 - たけみたの脱社会学日記

新しい上司:第三節 - たけみたの脱社会学日記
 id:takemitaさんによるルーマン私訳シリーズより1962年の『新しい上司』が公開されています。『行政学における機能概念』についての感想*1のときにもチラッと書きましたが、『新しい上司』は具体的な事例について記述がおこなわれているとても取っ付きやすい論文で「ルーマンって、こんな議論もしていたんだなあ」というのが驚きでした。最初の問題提起としては「人事異動で新しい上司がやってくると、組織の生産性が一時的に落ちたりするよね。でも、それってなんでだろう?」なんていうのが掲げられていて、スッと入り込める感じ(なにせ、会社員だから自分の例と照らし合わせることができるしね)。




 社会にはいろんな役割があって、組織なんっていうのも役割の集合体みたいなものだ。そこには「友だち」だとか「息子」だとか明文化されていない役割もあれば、「部長」だとか「係長」だとか明文化されている役割もあるだろう。で、建前的には組織というのは、後者の明文化された役割が集まってできたものだ。明文化された役割っていうのは、その役割の人がどういった権限をもっているのか、どういった仕事をすればいいのか、というのがちゃんと決まっているから、もし人事異動で部長が変わっても、その部長が有能でも無能でも「役割」自体には影響がない。こうした役割があることで個人にひっぱられずにシステムは存続するように見える。




 でも、実際にはそうじゃない。部長が変われば組織が変わったりもするし、なんか初めのほうはバタバタしちゃって上手く業務がわからなかったりする。営業の課長やってた人がいきなりシステム部門の課長になったりしたら、上司が現場のことをなにも知らないから色々教えてあげなくちゃいけなかったりするし、当然システム部門の人が新しい課長がどんな人かなんか知らないかったりするわけ。「えーっと、神奈川支社の鎌倉営業所で四年間課長やってまして」なんて言われても、知らないよ、というお話。そんなだから新しい課長を受け入れたほうでは「前の課長にはいろいろと頼みやすかったけど、今度の課長にはなんか頼みにくいよね(よく知らないし……)」とか仕事やりづれーな、って思ったりするじゃんか。




 こういうのをルーマンは非公式な役割期待と呼んでいる。前の課長とは仲良かったから、いろいろ無茶なお願いができたけど……というのは明文化された公式の役割の範疇にはないものだよね。いくらシステマティックに構築された組織でもそういうのがあって、完全に非人格的な振舞いはできないものなのだ、というのがルーマンの分析。つまり、組織は個人の影響を思いっきり受けたりする、と。厄介なもので新任の課長は、前の課長と比べられたりして「前の人は有能だったけど、今度の課長は……」って感じで部下にナメられたりすることもあるし、いろいろ大変なのだ。新任の課長で「この組織は、ココがダメだから直さなきゃ」と張り切ってても「これまでこんな感じでやってこれたんだから良いじゃんか!」と部下が反発したりもするし。こういうのをルーマンは、上司が部下に締め出されちゃってる例として危険だ、と言う。




 こうした分析を面白いなー、と思って読んでたのだけれども、こういうのって日本の企業でばっかり問題にされるのかと思ってたから、ドイツの学者さんがこういう論文を書いてたのも意外でした。この論文に沿うならば、日本的な組織って「非公式的な役割の比重が高い」と論じられるじゃないっすか。飲みニケーション推奨、みたいなさ。で、そういう慣習が「ウザいよね」っていう感で非難される傾向にある、ように思われるのね。その論調はおおむね「欧米はそういうのやってない」、「そういうのは非合理的でスマートじゃない」、「会社なんだから仕事だけすれば良い。別に飲みにいったりプライベートでの関係とか求めてない」とか、そんな感じで。




 でも、非公式的な役割と秩序なんかどんな組織にでも発生するわけ。公式の役割だけに沿って組織が運営されるのも可能だけれど、それはそれでリスキーだよね、だって僕らロボットじゃないですし、心理的な負荷もいろいろとかかるじゃん(非公式的な秩序はそういうのを軽減してくれたりもする)とルーマンも言っている。だから飲みニケーションや、会社の人と仲良くすることが生産性を下げる絶対悪みたいに言われるのも適切ではないのだなー、と思ったりした。





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トンマーゾ・カンパネッラ『太陽の都』

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太陽の都 (岩波文庫)
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トマーゾ カンパネッラ
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 後期ルネサンスを代表する思想家であるトンマーゾ・カンパネッラの『太陽の都』を読みました。この人は、生涯の大半を獄中で過ごした、というハードコア・パンクな方なんですが、この本についても獄中で書かれたものだそうです。当時、スペインと教会との二重支配に苦しんでいた南イタリアの独立運動に参画していたのがバレて捕まったカンパネッラは、死刑を逃れるために狂気を装うことによって終身刑を手に入れる。『太陽の都』はそのときの服役生活中に書かれています(1602年)。政治犯として捕まるぐらいですから、カンパネッラが腹に一物どころか二物も三物も抱えていたことは明らかですが『太陽の都』で語られる理想国家には、そうした彼の理想が投射されているように思われます。





 本の内容は、コロンブスの新大陸発見の船旅に航海士として同行したジェノヴァ人が、ふとしたことで立ち寄ったタプロバーナ島(スマトラ島、またはセイロン島)に存在していた素晴らしい国「太陽の都」の様子を、聖ヨハネ騎士修道会の騎士に物語る、というもの。そこでは都市の建築物、政治、風俗、思想などが語られるんですが、これがどれもものすごく面白い。




 まず都市の建築についてですが、これは同心円状に建てられた7層の壁に囲まれる円形都市になっていることが描写されます。そして、その壁には博物学的な知が描かれていて(壁ごとに書かれている知識の種類・分類が違う)、太陽の都の市民は壁のまわりを歩いているだけで学習ができる、という風になっているのです。こうした仕組みが、記憶術*1的に興味深いものであることは言うまでもありません。ライナルド・ペルジーニの『哲学的建築』でもまず言及されるのはこの書物のことでした*2。しかし、これ以上に面白かったのは「性生活」についての章で。優秀な人間が生まれることが国家にとってなにより重要、という方針から太陽の都では徹底的なセックス・コントロールがおこなわれるのです。まるで男女ともに「生む機械」として考えられているかのよう。男女がセックスをする時間は、占星術によって生まれてくる子どもにとって最も良い時間を決定され、決められた相手としなくてはならない。





 たとえば、学者は「知的活動に専念しているため動物的精力が弱」いので、「劣等な種族」をつくることになるから、活発で健康な美女と交わらせる。今風に言えば、草食系男子と肉食系女子をカップリングすることになりましょうか。逆に、空想的で気まぐれな男たち(日々エッチなことばかり考えている男たち)は、太っていて温厚な、おおらかな女たちと交わることになります。なにか「大家族のお母さんはみんなふくよか」という法則を暗示するかのようです。なかなか厳しい話ですがそれもこれも、太陽の都では「子づくりの営みにしても、私的な善ではなく公共の善を目的とする宗教的行為」として考えられているからなのですね。





 こうしたガチガチの管理国家から、想起したのはアリストテレスが『政治学』で説いた理想国家の姿なのですが、カンパネッラ自身が反アリストテレスの人だった、というところが気になります。現に「世界は全部なんらかの秩序によって大系だてられていて例外はない!」というアリストテレスの世界観を、カンパネッラは天文学的計算の結果と実際の星の運行がズレることを「例外」的な世界の穴のように考えて、アリストテレスの世界観が間違ってるよ! と主張する。私が乱暴に『政治学』の理想国家と、太陽の都を接続しているだけかもしれませんが、反対しているものと言っていることが一緒になっちゃってない? というのをカンパネッラはどのように考えていたのでしょうか。





 繰り返しになりますが『太陽の都』はさまざまな方面から味わい深い本で、とても面白かったです。好きな部分を全部抜き出しておきたいところですが、ここでは太陽の都における「死刑制度」について引用しておきましょう(〔〕内はラテン語訳版からの補足。『太陽の都』の原典はイタリア語です)。



死刑はただ、全人民が共同で執行する場合にのみ可能です。死刑執行人などはいないので、全市民が石を投げて殺すか焼き殺すかします。火刑の場合は、すぐ死ねるように火薬による方法を選ばせてやります。〔死刑囚は火薬を詰めた袋を身の回りに置き、りっぱな最期をとげるよう人びとに励まされながら、それに火をつけ、みずからを焼いて灰になるのです〕。全市民は泣き悲しみ、神の怒りをしずめようとして祈りをささげ、共和国のからだから腐敗した一部分を切除するような事態に立ちいたったことを嘆きます。(P.79-80)



 火薬による爆殺という華々しい死のあとに、全市民で嘆き悲しむ、という劇的な状況が素敵だなあ……! 翻訳もかなり読みやすいものとなっており、訳注も大変丁寧。占星術関連の基本的な用語についても詳細な解説がおこなわれており、ルネサンス思想の世界に入門するために適切な本のようにも思われます。






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トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』

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トマス・ピンチョン全小説 メイスン&ディクスン(上) (Thomas Pynchon Complete Collection)
トマス・ピンチョン
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 読書中の途中経過についてはちょこちょこと書いてましたが、読了したので改めてエントリを残しておきます。1000ページ超、約3週間ほどかけて読む長い読書でしたが、それだけ時間をかけて読む価値はある、素晴らしい小説だと思いました。誰にでもオススメできるわけではないですが、面白い小話が好きで気の長い方なら「気がついたときには読み終わっている」という感じで読めるかと。とくに『メイスン&ディクスン』で驚かされるのは、これだけむちゃくちゃな話をいっぱい書いていながら、最終的には「良い話」でまとめてしまうところでした。これまでに翻訳のあるピンチョン作品は『スロー・ラーナー』以外全部読んでいますが、こうした後味の良さからもピンチョンでは一番好きな作品にあげても良いぐらい。





 作品は三部にわかれていて、第一部がメイスン&ディクスンの最初の仕事「南アフリカにいって金星の日面通過を観測せよ」についての話、第二部がメイスン&ディクスンがアメリカにわたって「ペンシルヴァニアとメリーランドのあいだの境界線をひけ」についての話。第三部はふたつの大仕事を終えた2人の男がその後どうしたのか、というエピローグとなっています。一番ボリュームがある第二部はやはりなかなか読むのがしんどかったです。しかし、秘密結社やら、人造鴨やら、風水撲滅を狙うイエズス会に狙われていると妄想する狂った中国人風水師やらが登場して、ピンチョンの小説に頻出する「闇組織との対立」が何度もはじまりそうになりつつも、メイスン&ディクスンは測量仕事に専念する。だから、ストーリーは迷うことなく進んでいる印象があります。かならず本筋に戻る、という安心感があるからその意味では読みやすい。





 「じゃあ、数々の脱線は無意味じゃんか! そんなの読ませるなよ!」とツッコミたくなるのは妥当だし、実際、ほとんど意味がない脱線ばかりで(でも、くだらなすぎて笑えるんですよ、基本的には)徒労感がなくもない。けれども、第三部でこうした「読むための苦労」はすべて報われました。アメリカ大陸から帰国したのちの、メイスン&ディクスンを待っていたのは決して素晴らしい待遇などではなかった。むしろ、不遇と言っても良いような境遇におかれてしまう。数年後、メイスン&ディクスンは再会し、昔話をする。そのとき、彼らは自分たちの仕事を「戦争」として振り返るのです。書いてしまうと陳腐な表現になってしまうけれど、このとき浮かび上がる「戦友の熱い友情」は胸にしみます。なぜなら、ここまで読み通してきた読者は、彼らの戦いが安易なものではなかったことを知っているから。脱線が連続する第二部のしんどさは、彼らの戦いのしんどさと擬似的に接続されるのです。





 また、このときふたりの間には「一緒にアメリカに戻ろう」という計画がもちあがったりもするんだけれど、ディクスンにはそういう気持ちがもはや残っていない。こうした老いの描かれ方もしんみりしてしまいます。おしゃべりで陽気なキャラクターだったディクスンだったからこそ余計にしんみり……そして、そのしんみり感を残したまま、彼はメイスンより先に死んでしまう。で、メイスンは彼の墓参りに行こうとするんだけれど、ここでもまた「良い話」が。そこでは描かれるメイスンと、彼の息子(父親からないがしろにされ、愛されていないのではないか、と不信をいだく次男)との和解が描かれ、私はこの手のヘミングウェイが書きそうなハートフルな話に弱いので、ふっつーに感動してしまったのでした。ごちゃごちゃしたお話がエピローグで全部昇華というか浄化というか、そんな感じで上手いことやっちゃってる感が、もうヤられた! って感じ。ピンチョン先生、一生ついていきますよ!





関連エントリ


ピンチョン『メイスン&ディクスン』を読むためのヒント/メモ #1 - 「石版!」


ピンチョン『メイスン&ディクスン』を読むためのヒント/メモ #2 - 「石版!」


ピンチョン『メイスン&ディクスン』を読むためのヒント/メモ #3 - 「石版!」


ピンチョン『メイスン&ディクスン』を読むためのヒント/メモ #4 - 「石版!」





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ケヴィン・スミス監督作品『コップ・アウト 刑事(デカ)した奴ら』

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 映画オタクの黒人刑事(トレイシー・モーガン)と、なにかとついてない白人刑事(ブルース・ウィリス)が盗まれたプレミア野球カードをめぐって奮闘するアクション・コメディ映画『コップ・アウト』を観てきました。冒頭から下品なギャグが連発で、日曜洋画劇場で放送されるのは無理そうな感じでしたが、過剰なほどに挿入される小ネタの数々がとても面白くて良かったです。ついてない刑事をブルース・ウィリスが演じる、という時点で「どこのジョン・マクレーンですか」という感じなんですが、刑事コンビがトラブルに巻き込まれる大本になっているのはメキシコ系のギャング、という設定で「メキシコ系ギャングは教会にいがち」というのをなぞっている感じも素敵。





 いろいろあってメキシコ系ギャングが人質にしているメキシコ人女性(英語がわからない)を保護する刑事コンビなんですが、ブルース・ウィリスがそのメキシコ人女性に自分の身の上話を滔々と打ち明けるシーンがあった。「わかれた女房に引き取られた娘がさ、今度結婚するんだよ……」と刑事は語る。でも、英語がわからないメキシコ人女性にはその話は通じない。このシーンもデジャヴ感満載なんだけれども、良いな、と思いました。言葉が通じない(=応答が返ってこない)対象に対して、洗いざらい本音を打ち明ける。こうした告白の形式は、すごくプロテスタントっぽい気がした。相手が言葉すら通じず、ゆえに応答もしない、というのは一種の究極的な他者なわけ。でも、だからこそ、そういった他者に対して本音を打ち明けられる、という逆説はあるよね。また、発話、という行為が本質的にひとりよがりな行為であることもこうしたシーンは示唆しているように思った。





 サントラが良かったので、CDが出てないみたいなのが残念(化学調味料っぽく、すっごいテンションがあげてくれるハードロックやらヒップホップやらで映画が彩られています)。





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『Newton』10月号が面白かったよ!

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Newton (ニュートン) 2010年 10月号 [雑誌]

ニュートンプレス (2010-08-26)



 気がついたら定期的にチェックしてたまに買っている雑誌が『ギター・マガジン』と『Newton』だけになっており、もはや自分が何者であるのか、と疑いたくなってくるのだが(ギタリストでも、理系でもない)、今月の『Newton』は面白かった。第一特集は「無からはじまった宇宙誕生の1秒間」というタイトルで宇宙関連モノ。この宇宙が無から生まれる、という仮説が理論的にまことしやかに語られるようになったのは1980年代にはいってからなんだって。こうした宇宙論の学説の変遷は、なかなか面白い。




 1900年ごろまで宇宙は昔からずっと宇宙で変化してない! というのが主流で、1929年にハッブルという人が「どうやら宇宙は膨らんでってるらしいぞ」と言い始め、第二次世界大戦が終わった後ぐらいにガモフという人が「なんか昔の宇宙は超高温で超高密度だったみたいだ」と唱え、1980年代になって佐藤勝彦*1とアラン・グースという人がそれぞれ独自に「宇宙は無から生じて、その後、一気に大きくなったんだ」とか言うようになったんだと。これを世代にあてはめると私の曾祖父が生まれた頃の人は「宇宙はずっと変わらん!」だったし、私の祖父が生まれたころの人は「宇宙は膨らんでるらしい!」だったし、私の父の代になると「ビッグバン宇宙っつーのがあったらしいよ」となって、ようやく私の世代になって「最初は無からはじまったんだってさ、ヤバくね?」という感じになる。4世代でこんなに宇宙論が変わるなんて、きっと人類史上稀に見る100年間だったにちがいない、20世紀ってヤツは。





 この特集で特別に「へえ~」と思ったのは2点ある。まず1番目に「ビッグバン」というのはどうやら宇宙の状態を示す言葉であって、現象のことではないらしい。だからビッグバンで宇宙ができた、というのは言い方としてはおかしいことになるみたい。あくまでビッグバンというのは「超高温・超高密度な宇宙」のこと。じゃあ、宇宙はどのようにして生まれたか、っていう話になるんだけれども、これは「計算不能」なんだって。これが2番目に驚いたこと。物理学者が計算に使える「理性の限界」的な時間は「プランク時間」(約10の-43乗秒)と呼ばれているらしいのだけれど、計算もできないしそもそも扱えないので、無の状態からプランク時間まではどうやっても考えることができない → わからん、って感じなのだそう(それを乗り越えるのが超ひも理論らしいぞ! すごいひもだ!)。無からプランク時間のあいだになんかがあったときには、有になっていて、そこからインフレーションがおこった、っつーのが1980年代に唱えられた「インフレーション理論」。たぶんこのインフレーションが、ビッグバンで宇宙ができた、というイメージ的に重なるのでしょう。おもしれ~。





 ほかの特集では「桜島はあと10年か20年かしたら大爆発するかも」とかゲリラ豪雨の仕組みとか、脳トレとかDHAの効果には科学的な裏づけは一切ないよ! とかの話が面白かった。面白すぎて、この前会社の人との飲み会で初めてあった女の子にその話ばかりしていたら、すごく不思議な顔をされてしまったよ。嫌がる素振りを見せなかったから、とっても良いコなんだと思った。




*1:このまえ高校生クイズに出てましたね





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マルティン・カルテネッカーによるラッヘンマンの弦楽四重奏曲の解説 #1

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Lachenmann: Grido/Gran Torso
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 気が向いたのでヘルムート・ラッヘンマンの弦楽四重奏曲全集についてきたマルティン・カルテネッカー(Martin Kaltenecker。誰かは知らない)による楽曲解説を訳してみる。



 《グラン・トルソ》が書かれたのは、ラッヘンマンが「調性的作品のもつ機械的かつ効果的な状態にある音を基礎としながら、素材概念をそれ自体から自由にし、その構造的・形式的なヒエラルキーを引き出そうという試み」をおこなった作品を書いてから数年後だった。この試みは「楽器によるミュージック・コンクレート」という言葉を定義することでもあった。そこでは、電子的なノイズ・ミュージックによるアプローチをなしに、生楽器を使ってその楽器の構造や特性を考えることから生み出された演奏法が用いられる――たとえば、楽器を叩いたり、引っかいたり、押したり、といった具合に、だ。《グラン・トルソ》においては「弓のストロークがもはや音程と関係する音響的な経験としてではなく、むしろ音という製造物が生まれる瞬間の摩擦音になる」。しかし、この「弓によって圧力をかけることへの意識」は主題的な機能をも持っている。なぜならそこでは「圧力をかけること」が、かつての旋律のモチーフや中心的なリズムが演奏されたのと同じ役割を担っているからである。すなわち、それは類似や対比といった修辞法によって等位の関係とみなされるシステムを変革し、置き換えることを可能とする。だから、ラッヘンマンにとっては、ピッチカートとコル・レーニョは「同じ衝撃音という原理における変数」として扱われるのだ――そこでは「鳴り響くハーモニクス」が連結されることによって、それらは「互いに関係を結ぶ」のだが、同時に「はっきりと分けられていることを暗示したり」もする。





 しかし、この具体性を主題にするという試みは楽器の演奏法を極限まで広く拡張していかない限り、早々に限界に達してしまう。本質的に言えば、それは楽器との闘いによって可能となることがらであろう。そこでラッヘンマンはまったく新しい「解剖学」を創造したのだった。その解剖学的手法に従う演奏家は、が提案する右手左手をゴチャゴチャに使うような新しい演奏法を熟知していなければならなかった。演奏家たちは、演奏のあいだに弓の毛の張りを変えることはおろか、チューニングを変えたり、ボディやペグを使ったり、指板の非常に高いところを使ったりしながら、ノイズや音の高さを決定する新しい方法をまぜこぜにして使いまくる。しかしそれによって人工的なハーモニクスなどが生まれ「隠蔽され、仮想化されることにより素材を抜け出ることや、弦の音という支配的な固定観念をほとんどなくすること」が可能になるのだ。





 しかし、もっともらしく、そして刺激的な拡張の初演は、矛盾と障害をも引き起こしていた。それらについて、ラッヘンマンは具体的にこう述べている――「ポリフォニックな組織的思考を拡張することは、触覚の存在を脅かす。おそらくそれは五度でチューニングされた楽器という存在を悩ませ、単なる『機器』へと変貌させるだろう。しかし、それはモノの見方というものを変えてしまうものでもある。『トレモロってなんだっけ? 上げ弓、下げ弓ってなんだっけ?』と」。オーケストラの世界ではベルリオーズやマーラーの時代から使用されてきた創造的なノイズと楽音を解き放ち、タブーを破ることによって、弦楽四重奏の世界を変えることが可能である、と作曲家がすぐさま考えたわけではなかっただろう。これらは破壊された努力の領域となった。彼がこの作品を「氷山」や「トルソ」や「廃墟」へとなぞらえているのは、こうした理由がある。




 さて、聴衆はこうしたノイズによる主題的な働きを深く理解することは可能なのだろうか? あるいは、ラッヘンマンの詩的で、機知に富んだ彼の「楽器によるミュージック・コンクレート」の記述は、我々の分析が直感よりもより深い理解を示すであろうという理想を描くだけだろうか?(もっとこの弦楽四重奏曲への集中力を高めさえすれば、ラッヘンマンのいうことが体験できるのだろうか?)いずれにせよ、聴衆は新しい分類を可能にさせるこの断続的におとずれる韻文のような印象をうけることによって、この理想を本の少しでも受け取るだろう。たとえば、鋭く押し出される音と、普通のトレモロのあいだには、突然で切迫した性格という共通基盤がある。他方では、壊れたノイズを乗り越えて、聴衆がラッヘンマンの形式についていくことによって、意識を拡張することも容易に理解できるようになるだろう。新しい世界へと導くように聞こえる冒頭の断片につづいて、《グラン・トルソ》は攻撃的に押しつぶされた激しい音の連続を長く呈示する。それは最後の長いパッセージへと沈み込んでいく前の、押し殺されてざわめくような音のはじまりである。そこではチェロの胴の部分を擦り、ヴィオラが抑制されたフラウタート奏法をおこない、2本のヴァイオリンは呼吸のようなノイズを出すように指示されている。この4つのパートによる「ほとんどなにもないような」インヴェンションは、陳腐な詩のようにフェイドアウトをするのではない。むしろ急激な変化をもって終わり、第2楽章のようなウェイトを占めている。そこで耳が再度調整されるのだ。この(『適切な空虚さ』とでも言うべき)急激な瞬間は、まるで眠りから急に覚めたかのように、運動の増加によって導かれる。時間と素材によるグラデーションの変化のなかで、サルタート*1の身振りは、断片のような押しつぶされた音をたて、第1部を思い起こさせつつ、モールス信号のようなバルトーク・ピッチカートの挿入があって締められる――作曲家はこれを矛盾をもって「ドタンバタンという音による歌うようなメロディー」と表現している。



 つづく……。



D



D



D




*1:弓の根元の弾力のない部分を用いた、少し遅めで重たいスタッカート。VIOLIN





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読売日本交響楽団第496回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

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曲目


指揮:下野竜也


ホルン:ラデク・バボラーク


《下野プロデュース・ヒンデミット・プログラムV》


ヒンデミット/歌劇〈本日のニュース〉序曲


R.シュトラウス/メタモルフォーゼン(変容、23の独奏弦楽器のための習作)


R.シュトラウス/ホルン協奏曲第2番


ヒンデミット/ウェーバーの主題による交響的変容



 読売日本交響楽団の9月定期は正指揮者、下野竜也によるヒンデミットを中心としたプログラム。カップリングにリヒャルト・シュトラウスの作品が折り込まれていたが、本日初めに演奏された《本日のニュース》序曲は、ヒトラーが聴いて激怒したオペラからの作品でヒンデミットがナチスに圧力をかけられたり、「頽廃芸術」と批判される最初のきっかけともなった曲であり、その当時、リヒャルトはと言えばナチスの芸術監督みたいなポストについていたわけだから「なんだか深いなあ」と思わせる構成になっている。いつもはあんまり読むところがない演奏会の冊子も片山杜秀による「日本の作曲家とヒンデミットの関係」についての読み応えがある記事が掲載されていた。「ささのはさらさら~」という歌い出しの超絶有名曲「たなばたさま」の作曲家はヒンデミットの弟子だったんだって(へえ~)。ウィーン・フィルが初来日したときの指揮者はヒンデミットだったんだって(へえ~)。





 しかし、肝心のヒンデミットの演奏のほうはなんだか微妙な出来なのであった。下野竜也が振るヒンデミットを聴くのは初めてだったけれども、もしかしてこの人の芸風とヒンデミットの作風というのが徹底的に食い合わせが悪いんじゃないか、と不安になる。新即物主義の代表、と言われるぐらいだから、ヒンデミットってクールなイメージがあるじゃないですか。テンポをあんまり揺らさず、クールに演奏しきることがひとつの様式美、っつーか。でも、下野竜也のヒンデミットは違うのね。メインに演奏された《ウェーバーの主題による交響的変容》も、同じ旋律が繰り返されるところがあったらちょっとずつストリンジェンドしていく感じ。それが効果的なら良かったんだけれど、ヒンデミットの場合、単に落ち着かない演奏に聴こえてしまう。全体的に上手く整理できていない感じがし、第3楽章後半のフルートの長いソロにいたっては「半拍、ズレてない?」と思って聴いていた。あ、でもこの曲の肝のひとつである第2楽章のジャズ・フーガは、キマっていたので良かった。





 本日のハイライトはなんといってもリヒャルトのホルン協奏曲第2番のソリスト、バボラーク! 世界最高峰のオーケストラのソロ・ホルン奏者のポストを総なめにした、当代きっての超一流ホルン奏者……ということは知っていたんですが、初めて生で聴いてビックリしましたよ。音、キレイすぎ。速いパッセージの音の並びは、まるで木管楽器を聴いているかのような滑らかさ。いやあ、テクニックだけで人を幸せにする人っているんだな……と思いました。「世界一」って呼ばれる人のすごみ、っつーか。彼と一緒に演奏しなくてはならないホルン奏者がかわいそうになるぐらい上手かった。しかもまだ30代前半ですよ。金管楽器奏者のピークがいつくるのかわかりませんけれど、彼の演奏に触れる機会はこれからまだまだあるだろ~、ってことで長生きしたいと思いました。





 あと《メタモルフォーゼン》の演奏も良かった。この曲もホルン協奏曲第2番も、リヒャルトの最晩年、80歳を過ぎてからの作品ですが、この人の作品にある美しさってどこまでも世俗的な気がしました。そこが良いんだよね。《4つの最後の歌》までくると棺桶に片脚突っ込んでる感じがしますけれど、若いときから「天才だ」「神童だ」ってチヤホヤされてブイブイやってきた人じゃないですか、リヒャルトって。そういう人が晩年にちょっとした不遇を味わっていたとしても、簡単にめげたりしないよねえ、と思った。《メタモルフォーゼン》にしても、ちょっとダウナーな雰囲気があるとはいえ、途中ですごく牧歌的に感じる部分があったりして良い曲だなあ~、と思う。





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FEN(Far East Network)@キッド・アイラック・アート・ホール

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 先日、大友良英さん(id:otomojamjam)より拙ブログをご紹介いただいてから未だに『大友良英のJAMJAM日記』経由でブログに来てくださる方が多いのであるが、そうした「友達の輪!」的なつながりとは関係なく、ONJOを活動休止している現在、大友さんが最も力を入れている(らしい)バンド、FENのライヴがあったので行ってみた。ライヴを観る前にちょっと下調べしたところによれば、バンド名の通り極東の国々の4人のミュージシャンがバンドを結成したのは2008年の4月。お披露目はフランスのマルセイユだったそう……といったところはすべて大友さんのブログにありますので上のほうにあるテキストボックスに「FEN」と入力してですね、検索かけてみてください。ちなみにバンド名に関するお話は、こちら(↓)が詳しいですよ。




 しかし、文字情報だけではこのバンドがどのような音楽をやっているのかどうかはまったく想像がつかないのであった。ここで老婆心ながら、楽器編成などについて記載を行っておくと以下のようになる(本日のライヴでもらったチケットに記載から引用。後述するけれど、ここでメンバーの国籍が表記されているのではなく、住んでいる都市が表記されているのは重要だと思われる)。



大友良英(perc,guitar,turntable 東京)


YanJun(electronics, voice 北京)


Yuen Cheewai(laptop シンガポール)


Ryu Hankil(inside-clock ソウル)



 本日のライヴは2部に分かれ、前半は上記のメンバーの順番の通りにソロ演奏があって、後半にバンドとしての演奏があった。振り返ってみると、前半でソロがあったから「ああ、このバンドはこういうメンバーによるバンドなんだな」というのが分かって、後半のセットにスムーズに入っていけたような気がする。いわば、前半は後半の布石として効果的に機能していたのだ。そこで気がついたのは「よくこんなに色が違うメンバーが集まったな」ということ。たとえば演奏形態と出てくる音についてもバラバラだ。





 4人もいれば、ひとりぐらい大友と同じようにギターを「ギューン!」と言わせるような人がいてもおかしくないのだが、見事に違う。大友は様々な楽器と楽器でないものを「演奏」し、ヤンジュンは楽器には見えないがスピーカーやマイク(?)といった音に関係しそうな機器を「操作」し、チーワイはラップトップを「使って」、ハンキルはタイプライターといった楽器ではないものから出る生活音に限りなく近い「音を出す」。こうしたバラバラさが後半のバンドとしてのパフォーマンスになるとうまくレイヤーを形成する。本日のセットでは観客を取り囲むようにしてミュージシャンが並んでいたのだが、こうしてレイヤーがうまく出来上がり、それがハーモニーのように響きだすと「この音楽はどの方向を向いて聴けばよいのか」というのが分からなくなってくる。





 こうした意味でもライヴでなくては味わえない種類の音楽であり、18日のコンサートに間に合いそうな人は是非足を運んで欲しい、と思った。先日の芥川作曲賞で湯浅譲二が言っていた「私は未聴感のある音楽を求めている」という気持ち、これを仮に湯浅テーゼと名づけ、そしてあなたがこのテーゼを胸に潜める人であれば、間違いなくその気持ちは満たされるであろう。そして、アジアの個性的なミュージシャンの音からほとんど「アジア臭がしない」というのに注目して欲しい。そのとき初めてバンド名は、文字通り「極東のネットワーク」としてだけの意味で輝きはじめる。



9月18日(土曜)六本木 スーパーデラックス


FTARRI DOUBTMUSIC FESTIVAL


詳細はフェスのサイトを、FENの出演はラストの予定。


http://d.hatena.ne.jp/doubtwayoflife/20100901


http://www.ftarri.com/festival/2010/index.html



 キッド・アイラック・アート・ホールには初めていったんだけれど、ミュージシャンとの距離が近くてびっくりした。半径2メートル以内の距離で即興演奏が聴ける機会を持ったのもこれが初めてだ。その至近距離で、大友が回転するターンテーブルにカードを接触させて摩擦音を出す。カードは徐々に接触している角度を変えられていき、ある瞬間、摩擦音が綺麗に重音となった。この瞬間に耳がバッと開くような感覚があったのも至近距離のおかげかもしれない。





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たけみた先生の翻訳によるルーマン『行政学における機能概念』を読んだよ!

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id:takemita先生によるルーマン私訳シリーズ『行政学における機能概念』を読みました。こちらは、内容よりも文章がとっても難しいことで有名な社会学者、でありながら、やたらと言及されまくっていて「なんか読まなきゃいけないんじゃないか」と思わせられる社会学者であるところの二クラス・ルーマン大先生によるデビュー論文なんだって。デビュー作にはすべてが宿る、なんていうのは、ジンクスかと思っていたんですが、このデビュー作は結構難しい。後々の難しい感じがこの時点ですでに感じられ、さながらピンチョンが『V.』でデビューしたときのよう。やはり最初からルーマンはルーマンであったのか……と思いました。有識者によれば「後期ルーマンで悩むより、初期ルーマンをたくさん読んだほうがルーマン理解は深まる」とのことでしたけれども、いきなりコレはちょっとハードかも。訳文からはわかりやすい日本語に訳そうという感じのプロジェクト杉田玄白っぽい感触が伝わってくるんですが、その感触からスピーディな感じで読み進めるとまったく頭に入ってこない。これは素敵なライフハック……じゃない。でも、面白かったです。見なれない論理学や、数学の用語系を乗り越えると吉。よーく読むと、なるほど社会システム論はこういうことを言い換えたものだったのかな~、とか思ったりする。




さて、この論文の内容について軽く触れておきたいと思うのですが、一言で言ってしまうと「タイトルどおり」っていうことになります。「機能/関数(Funktion)」という概念をつかって何を論じるか、についてのお話。「機能っていう言葉の使い方が人によってバラバラだから、ここでひとつまとめようぜ」という問題を扱っている。そこでは、それまでに「機能」という言葉を使って何が表現されてきたのか、にも触れられるのだが「機能って言うとなんか上手いこと言った風になる」ってだけで何の意味もなかったりするよな(『文学的効果』)などと批判的だ。




それでは、この論文でルーマンは「機能概念」をどう定義するのか。「機能の機能」とはなんなのか。ルーマンの結論から触れておくと「パースペクティヴをひとつ定め、それを参照点として、複数の可能性のあいだの交換を統制すること」だ、ということになる。はい、これだけだと何言ってるかわからない。ルーマンがあげる具体例は以下。


A嬢はもちろん比類のない存在であるが、速記タイピストとしての機能においては、彼女のかわりに別の女性を採用することもできるし、部分的には録音機で代用することもできる。


Aさんは世界にひとつだけの花けど、他にもタイピストはいるぞ。タイピストとしてはAさんは、Bさんと機能的に等価なのだ、ということができるよね、と。だから、Aさんのタイピストとしての機能はBさんと交換可能なものだ。ルーマンは、こうして機能概念の使い方を定め、「これとこれは機能的に同じ、交換可能だ」とか分析していこうぜ~、と言います。そうすると、組織の別のあり様が見えてくるじゃんか。AさんとBさんが同じタイピスト機能を持ってるなら、Bさんがタイピストをやってる組織という可能性ね。こうして色んな可能性を見つけ出すことによって、アクシデントに強い組織が作れるハズだ!ユーが機能で可能性が見出せるならDOしちゃいなYO!!




機能概念の使い方を説明したら、この機能のパースペクティヴっつーのは、機能の「上位単位」に依存するんだぜ~、という話がはじまります。この上位単位っていう言い方もよくわからなかったのだけれども、どうやら組織がどういう方向に進みたいのか、っていう価値観みたいなものみたい。機能はそれに依存して、内容が変わってきたり、するんだよ、と。ルーマン曰く、行政だったら「イデオロギー」と「組織の存立」という2つの上位単位がある、と例を出してます。これまた、わかりにくい言い方なんだけれど、前者は業務の効率とかそういうの、後者は組織の雰囲気とかそういうの、を意図してるっぽい。例えば、同じ「秘書機能」を分析する際でも、上位単位をイデオロギーにするならちょっとくらいブサイクでも仕事ができれば良いけど、組織の存立を上位単位にするなら「やっぱり秘書と美人はセットの言葉だろ~。仕事できなくても良いから美人秘書を雇おうぜ!(その方がカッコつくじゃんか)」と、見方が変わってくる。「つまり、設定されるパースペクティヴごとに、別の比較可能性、代入可能性が与えられることになるのだ」。




このあとでいろいろ、じゃあこういう機能概念を突き詰めてくと仕事とか組織ってどういう風に見方が変わってくるの~? とか話がはじまるんですが、うまい具合にまとめ切れないので今日はここまで!後半の難しげな話に頑張って食らいついていくとルーマンの別な論文『新しい上司』がより一層楽しく読める気がします(『新しい上司』は途中まで読みました。これは一転して、ものすごくとっつきやすい話で『新しい上司がくるとなんで組織はドギマギしたりするんだろうね』ということを分析している。そこには組織が機能化されてない側面が影響されてるのであろ~)。




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キリンジ/BUOYANCY

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キリンジ
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くるりの新譜と同時期にキリンジの新譜も出ているわけですが、同じメガネとメガネじゃない人のバンド、とはいえ、くるりとキリンジのあいだに何らかの関連性があるわけではなく、くるりは思い入れいっぱいに聴けるのに対して、キリンジに対してはまったく思い入れなどなく、すごくフラットな気持ちで聴けてしまう。だが、こうした職人的な音楽は、そういうした気持ちで聴くのに適しているようにも思われる……などといったら、往年のキリンジ・ファンの方には怒られてしまうでしょうか。いやはや、おそろしく手堅い、っつー印象のアルバムで、前作『7』で省みられたようなAOR感はすっかりナリをひそめ、言うなれば鬱っぽい感じさえある、クールなアルバムとなっています。帯には「キリンジ史上最高傑作」という煽りがありますが「それはどうかな……」と思わされる一方で、ガチガチに構築された世界観が一挙に目の前に提示される感じはやはりすごい。相変わらず何を言っているのかわからない、何かを言っていそうで、何も言っていなさそうな歌詞は健在。





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モーツァルト《魔笛》(実相寺昭雄演出)

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円谷プロ協力によりカネゴンやらピグモンやらメトロン星人やらシーボーズやらがゲスト出演する《魔笛》の公演を観ました。オペラを生で鑑賞するのは初めてで、新国立劇場のオペラパレスに入るのも初めてだったんですが、オペラというのはオーケストラとはまた違った文化を持っているのだなあ、と思いました。今回は二期会が主催の公演だったんですが、やっぱり団体のファンみたいな人や出演者の知り合いの人みたいなの人が多くて、なんっつーかハイソな雰囲気(空気感はヅカのファンにも通ずる気がした)。劇場は4階席の左端で舞台の一部が見えない安い席だったんですが(5000円)、音には問題なかったです。ビリビリくるような音はこないけれど、迫力は感じる。これぐらいの値段でこれぐらいの音ならもっとオペラを聴きにきたい、と思いました。





さて、実相寺昭雄の演出については、日曜の朝にやってるアニメーションの世界でオペラを解釈みたいな感じで、色遣いなんかが目に毒な感じでした。ただ、日本語公演の強みなんでしょうが、セリフの部分にむちゃくちゃギャグを盛り込んでいてとても面白かったです。私もオペラ初心者だったので、これはありがたかった。ぜんぜん、あらすじなども知らずに白紙状態でいったんですけれど置いてきぼりにならない。そもそも、人を置いてきぼりにするような複雑な話でもないんですが(勧善懲悪もの、ですし)。しかし、エジプトの神々がでてきたり、ザラストロと夜の女王がそれぞれ光と闇の二元論的な世界を象徴しているところが興味深かった。修行を経て、徳を高めることによって、神の叡智を授かったうえ、愛もゲットだぜ! っていうのがあるんだけれども、そういうの18世紀っぽいなあ、と思いました。この話の思想的な背景をちゃんと調べてみたら面白そうです。





出演者のなかではパパゲーノ役の人がとても良かった。





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くるり/言葉にならない、笑顔を見せてくれよ

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 先日、自分のなかでくるりリバイバルみたいなものが来ておりまして、「ばらの花」だの「ロックンロール」だの「花の水鉄砲」だのを繰り返し聴いていたことがあったんですが、こうしたリバイバルがやってくるということ自体、その音楽が自分にとって過去に通りすぎてしまった音楽になっていることを意味しているように思われつつも、しかし、その音楽を聴けば聴くほど実際にはろくでもなかったハズである学生時代の生活が美しいもののように回想されてきもし、私のなかで一時期のくるりの音楽が「美しい青春時代(虚構)」をフラッシュバックさせてくれるトリガーとなっていることを意識したのでした。前置きばかりが長くなっておりますが、私にとって、くるり、というバンドはそういうものである、ということを書いておきたかったのです。





 さて、そんな意識を持ちつつ聴いた、くるりの新譜。これはもう素晴らしかった。自分のなかでこのバンドへの気持ちが離れてしまったのは『ワルツを踊れ』以降の流れが「自分の好きだったくるりと、なんか違うぞ、おい」と思ってしまったからだった、とするならば、いろいろやってきて、今回はもっとシンプルに音楽を作ってみた、と言わば原点回帰的な感じ制作されたこのアルバムから「俺が好きだったくるりの音」を感じたのは必然と言えましょう。大村達身脱退以降のアルバムでは、まず間違いなく好きな音ですよ、これは。不要なものといえば、タナソーが書いているライナーノーツぐらいなものです。このライナーノーツもなかなか興味深い事実が書かれている、とはいえ、はっきり言ってどうでもよろしい。あまり深いこと考えずに、好きな音を愉しむべきなのです。





 ただ、原点回帰的な趣きがあるとはいえ、それは単なる過去の焼き直しではない。そこがやっぱり、信頼できるロック・バンドたるゆえん、というか。捏造された○○音頭から、沖縄民謡へと跳躍する「東京レレレのレ」に象徴される、岸田繁のネジれたユーモアはこれまで以上に鋭く感じられますし、「街」以来ではないか、と思われるささくれ立ったような声で歌われるアルバム終盤の「犬とベイビー」、「石、転がっといたらええやん」には胸をズイズイと刺されるのでした。これを「懐かしいのに、新しい」などという糸井重里が考えそうなキャッチコピーでまとめてはいけないと思うのですが、良いな、と思えるのは確かなアルバムです(しかし、Amazonで購入すると新譜なのに定価よりも700円安く買えてしまうのが不思議。Amazonには呪術師でもいるのか。定価で買ってしまったから悔しい)。



D





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古澤健監督作品『making of LOVE』

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D


 話題作。すごく面白い、という評判を聞いて期待していたのですが期待を上回る面白さでした! 一言でいうと「単純なようですごく奥行きのある世界観の映画だ」と思いました。古澤監督が演じる映画監督ふるさわたけしが途中で制作を断念した映画のメイキング映像……として物語がはじまってからの序盤は、ふるさわの矮小でコミカルな人間性に何度も笑いを誘われ、ここでまず心を掴まれる。彼の行動は、なにかドン・キホーテ的にも思われるのですが、そうした「ヤりたい、ケド、ヤれない」といった面白い要素に食いついていくうちに、どこか別な場所にたどり着いてしまう。たとえばそれはザ・メタフィクション的な入れ子構造にしてもそうですし、映画の観客に「アナタの見ているのは『映画』なのですよ」という暗示をかけてくる視点の問題にしても「なにか」を感じさせてきます。そこに鮮やかなテクニックがあるように思われました。あと、古澤監督の作品ではノベライズ版『ドッペルゲンガー』しか知らなかったのですが(映画を見るのは今回がはじめてでした)それぞれの作品が作者をポイントに繋がっている感じもします。





 途中で挿入される青春のクリシェみたいな映像もとてもキラキラしていて良かったです。恋人同士がソフトクリームを持って、噴水のところに座っている――そんな光景、現実には見たことないんですが、でも良かった。観覧車乗ったりさぁ……ニコニコしながら夜の街を走り回ったりさぁ……そういうのもすごくメルヘン的に思えるんだけれど、良いんだよ! すごく幸せな気分になるじゃないですか!! そういうメルヘンチックなカップルが現実のどこかにいたら、俺も幸せだよ!!!(絶叫) 今月25日からは名古屋で上映がはじまるそうです。





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DUO3.0、二周目はiPhoneと連携して活用

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DUO 3.0
DUO 3.0
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鈴木 陽一
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なんかそこそこ仕事があったり、情報処理系の資格の勉強しなきゃだったり、遊んだり、本読んだりで忙しい毎日を過ごしていたのですが、なんとかDUO3.0を一周読み終えました。学生時代も途中で飽きてやらなくなったので、これはちょっと快挙。本気になった会社員をナメるなよ、と誰かに対してよくわからない攻撃心をむき出しにしたい気持ちになります。





ある種のご託宣によれば「単語帳は一冊をトコトンやりつくせ」とのことだったので、すぐさま二周目へ。二周目は覚えてなかった単語を集めて単語カード作ったりするぞ! と心に決めていたんだけど、せっかくなのでiPhoneで単語カードを作りました。





f:id:Geheimagent:20100907122708j:image


使っているのは「単語カード」というそのままのアプリ(無料版)。有料版はいろんな単語カードをダウンロードできるらしいけれど、私のように自分で一から作っていく人には、無料版で充分だと思う。良いね~、この勉強してる感。ホントに役に立つかどうかは定かではないのだが、ひとつひとつ何かを積み上げていく感じが楽しくなってくる。





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ピンチョン『メイスン&ディクスン』を読むためのヒント/メモ #4

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 下巻にはいりまして本日は『メイスン&ディクスン』におけるテクノロジーについて。そもそも18世紀の天文学、あるいは測量術が話の大きなキーワードになっているのが本作なのだから、テクノロジーの話が出てくるのは当然なのだが、本作を読んでいて面白いのがここで語られる18世紀のテクノロジーがその当時の最先端として語られつつ、捏造されたテクノロジーと混じり合い、一種のファンタジーを形づくっているところであろう。たとえば、前のエントリーでも触れた機械じかけの鴨もそのひとつの例だろう。下巻ではディクスンが500キロ以上あろうかという鉄製の風呂釜を磁力を用いた秘技によって軽々と運ぶ、という描写があり、これがとても面白かった。その原理たるや、地球が発する磁力を線として認識し、その線のうえへと平行に風呂釜を載せることによって可能となる、という驚くべきもの。ディクスンにはその磁線が目視できるというのだからさらに驚愕だ。ここにはひとつ、技術を極めれば奇跡のような現象をおこせる、という技術への期待(?)があるように思える。ジョルダーノ・ブルーノが記憶術を体得することによって、世界を司る第一者へと近づくことができる、と考えたような。





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iPhone4買いました日記

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 このエントリはiPhoneで書いております。流行りモノとはほぼ無縁、無縁すぎて人が寄りつかないこのブログにも時代の波がやってきた、という感じでしょうか。純正Bluetoothキーボードも購入しまして、これはもうノートパソコンを持ち歩くほどでもないが、出先でこまごまとした作業がしたい、といった私のようなタイプの人間にはもってこいのアイテムの組み合わせでございますね。ノートパソコンを買おうかと思ってんたんですが、iPhoneとBluetoothキーボードがあれば、別にいらないや、と思いました。今のところ、まったく不満がない。最高。寝転がってもブログが書けるぜ!





 ってな感じでアプリを使いこなしたりカッコ良い使い方をしているわけではないのですが、ひとつ、これは便利だなあ、というのが出先で資格の勉強をしているときなんかに超強力なツールになること。現在、10月にある「情報セキュリティスペシャリスト」という資格の勉強をしているんですが、市販のテキストじゃ、この資格に対応できるような知識がカバーできないんですよ。私の場合、実務でセキュリティ関連の知識を使うわけではないので、仕事で覚えたりもしない。そこで頼りになるのがインターネットなわけ。





 勉強をしていてわからないことがあったりすると、すぐiPhoneで調べる。調べるときははてなブックマークのアプリを使ってブックマークしておくと、家のPCでもそのページをすぐ参照することができる……。これはケータイ電話時代には考えられない勉強法だな、と思いました。これまでにインターネットで調べながら資格の勉強をするとなると、PCの前でやることが要求されました。そこから解放された、このフリーダム感! 冷房がついていないこの俺の部屋からの解放! 格段に効率があがりました。



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