高橋昌一郎『知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性』

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知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)
高橋 昌一郎
講談社
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 ブログなどでたくさんとりあげられて評判が良かった(と著者が認めている)、という『理性の限界』の続編を読む。今回も前作と同じシンポジウムを舞台にした対話篇となっているんだけれど、うーん……、これはどうなんでしょうか。前作を読んで感想を書いた際、いい加減に褒めておいた記憶があるんですが*1、ホントに時間つぶしの新書レベル、茶飲み話のネタレベルの本でしかなくて、しかも内容が極端に薄まっている気がしました。まず、さまざまなキャラクターが話を脱線させるのだけれど、それを司会者が「その話を別の機会にお願いします」と止めるパターンが多すぎ。いろんなことを書きたいんだろうな、ということは伝わってくるんだけれども、ノイズみたいな知識にしかならなくてウザい。対話篇という形式は、説明のクドクド感をなくすには有効なのかもしれませんが、これはちょっと良くなかったです。結局一番面白いのは、ヴィトゲンシュタインやファイヤアーベントがいかに変人だったか、っていう部分なんじゃないか……? という。ただし、読んでいるうちに「近現代の哲学者の人たちは、ホントしょうもないことについて悶々と考え続けたんだなぁ……」と思えてきて、ある種の見切りがつけられそうな気がしたのは、有益だったかも。ここに登場する哲学者の方々のお話を追っていくと「いやあ、中世やルネッサンスの人たちは夢があっていいなあ」と思えます。





 感想を総括しておくと「読んでも読まなくても、なにひとつ変わらない(どうでも良い)本」でした。






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クリストファー・ノーラン監督作品『インセプション』

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Reprise / Wea (2010-07-20)
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 クリストファー・ノーランの新作。むちゃくちゃにカッコ良い映画でした。ボルヘスの作品がアイデアの源泉となっているらしいのですが(夢の中でクビライ・ハーンについての詩を書いたイギリスの詩人、コウルリッジについてのエッセイなどがそうでしょうか)、映像は大友克洋(っつーかメビウス?)と攻殻機動隊とメタルギアソリッドをあわせたよう。ゲームっぽい爽快感があるすごいアクション満載。「えええ……こんなのどうやって撮影しているんですかぁ……!?」と驚愕しつつ鑑賞しました。





 設定がややめんどくさいんだけれども、そのあたりがスムーズに説明されているところには「なるほど、こうすればクドクド感が出ずに世界観を伝えることができるのね」という風に思わされましたし、長いのに退屈させないところも良かった。あと、またマイケル・ケインが出てきて面白かった。マイケル・ケインはディカプリオに新しいバットスーツを渡す重要なキャラクターです……というのは嘘で、彼はパリの大学で心理学か精神分析かなにかを教えている先生の役なのだけれども「お、この人はラカン派の人なのか」とか思わせぶるようなところがある(嫌いじゃないぜ、そういうの)。斎藤環先生、出番ですよ、とでも言いたくなる、そういう映画なのかもしれません。





 しかし、夢と現実がテーマで……などと言ってしまうと、そういう言ってしまった瞬間に「あれ、そんなのもう語りつくされてるんじゃない?」と熱が冷めてしまうような映画でもあります。むしろそういう話なら、クリストファー・ノーランよりもずっと押井守のほうが達者でしょう。押井のあのハッタリズム。『インセプション』の元ネタにボルヘスがあるのだとしたら、押井のほうがそれを上手く継承しているように思われます。私としてはディカプリオが異様に執着する「家に帰りたい!」という欲求のほうに注目したい。この欲求が物語のうえで「現実に戻らないとヤバい」っていう設定と重なるのですが、もうホント、ディカプリオがすごく家に帰りたがるのね。早くうちに帰りたい、ってサイモン&ガーファンクルですか。



D


 ってそれが言いたかっただけなんだ。だからなんか別に中身がある映画とは思えなくて、物語の語り口がすっごい上手くて映像がすごくて、異様にカッコ良い映画、というところに落ち着いてしまう。超テクニカルなプログレを聴いているみたいでしたよ。





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ジーン・ウルフ『拷問者の影』(新しい太陽の書 1)

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拷問者の影(新装版 新しい太陽の書1) (ハヤカワ文庫SF)
ジーン・ウルフ
早川書房
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 高度に発達した文明が一度崩壊し、太陽の力が弱まった世界を舞台にした(ポスト・ヒストリー的な世界)この『新しい太陽の書』というシリーズは「すべてを記憶している男」であるセヴェリアンの自叙伝という形式をとっている。その世界に生きる人々は階級や職業といった区分に強く縛られているのだが、主人公もまた「拷問者」という職業組合に所属しており、組織内の厳格な掟のもとで生きていた。





 『新しい太陽の書』の第一巻『拷問者の影』は彼がその組合の徒弟時代から語られ始める。それも少年から青年へ、という境目となる――もうすぐ正式な「職人」として認められる――頃から。だからこれはひとつの典型的な教養小説としても読めるものだろう。組合の求める厳格なルールは、萩尾望都が描いたギムナジウムの生活を想起させるし、また、「オトナのための『ハリー・ポッター』」とも呼べる作品なのではなかろうか(『ハリー・ポッター』読んだことないけど)。太陽の光が弱まったこの新しい世界は、薄暗いトーンによって支配されているのだが、そこでのセヴェリアンの驚くべき成長の過程はとても心を躍らせてくれるものだった。





 興味深いのはセヴェリアンが「すべてを記憶している」にも関わらず、自分の出自については一切知らない、という点だ。なぜなら拷問者組合に所属する者のすべてが、元々その組織によって処刑された人々が産み落としたこどもだったからだ。こどもたちは自分の(処刑された)親が何者であったか知らないまま、組織に育てられることになる。だからセヴェリアンは、自分がどこから来て、どこへ行こうとするのか、というこの点を何も知らないまま生きていることになる。すべてを記憶している(生存した過去)は完璧だが、未来と、それから自らを規定する根源的なポイントがスカスカなのだ。セヴェリアンのアイデンティティは土台と天井のない建物のようであり、すべてを詳細に記憶していながらもすべてが希薄な生き方を選択していた。少なくとも小説の鍵となる衝撃的な出会いがあるまでは。ある出会いによって、彼のその後の人生は拷問者の組合によってあらかじめ用意された道筋から大きく外れることとなるのだ。





 セヴェリアンは組合の保護を自ら捨て、旅に出ることを選択する。彼の職業はアンタッチャブルなものであり、旅路では露骨に人々に恐れられ忌み嫌われる。そして、そのハードな旅路のなかでさまざまな人間たちの上を彼は通過していく。水のなかに沈む妻の死体を何年も探し続ける老人、あやしげな旅芸者、策略をこらし財産を奪おうとする者たち……。セヴェリアンの成長はこうした人たちとの交流から生まれたものだと言っても良い。『新しい太陽の書』は晦渋な語り口から、難解な印象を受けがちなのだが、こうしてみると本当に典型的な教養小説だというのがわかる。SF的な描写も素晴らしく、先史時代(物語上での我々が生きる時代と地続きと思われる時代)の技術がさまざまな呼称で読み替えられているのを解読するような楽しみもある。





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エイドリアン・ブリュー・パワー・トリオ @ブルー・ノート東京

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 御歳60歳、稀代の変態ギタリストであるエイドリアン・ブリューのライヴを観た(上の映像は今回来日の“パワー・トリオ”名義でのライヴ映像)。ブリュー以外のメンバーはジュリー・スリック(ベース)と、マルコ・ミンネマン(ドラム)。ドラムはエディ・ジョブソンと共演したりしている超バカテクドラマーとのことで、会場の物販コーナーには彼のソロ・アルバムが4枚ぐらい並んでいた。全然知らない人だったが有名な人だったのね。いや、もちろん呆れるぐらいバカテクだったが。





 ブリュー大先生の変態エフェクト・プレイも大全開。速弾きだけならこのぐらいの人はいくらでもいるだろうが、エフェクトの使い方は誰にも真似できない独特なものだろう。動物の鳴き声プレイはやってくれなかったが、さすがに魅せるライヴだった。80年代にキング・クリムゾンに彼が加入してから、彼がかのバンドに与えた影響の大きさ、というのが今日になってわかった気がする。完全に80年代から今日まで、クリムゾンってこの人のバンドだったんじゃないか。で、ロバート・フリップという人は、いわばエイドリアン・ブリューという太陽から放たれた光でようやく輝くことができる月みたいな人だったんじゃないか、と思った。





 難点を言えば、チケット代の割りに演奏時間が短かったこと。あと、ベースの音が全然聴こえなかったこと。これは会場が悪いのだろうが(ブルー・ノート東京には初めて言ったけれども、ステージと客席が近い、ってだけで特に音響が優れているわけではないのだな、と思った)。っつーか、ステージと客席が近すぎると、このライヴがすごいのかどうかの判断が鈍ってくるのだから不思議だ。エイドリアン・ブリューのヴィジュアル的な問題があるのだろうけれど(肌着っぽいTシャツにジーンズ、というスタイル)、なんか夏祭りのステージに立つ地元のオッサン・バンドみたいな空気を感じてしまっておかしかった。





 関係ないのですが、エイドリアン・ブリューでググッてみたらウィキペディアの次にこのブログが検索結果にあがっていましたのにびっくりしました。ついでなのでYoutubeで見つけたエイドリアン・ブリューのカッコ良い映像を貼っておきます。この共演陣の豪華さ……(とキャラクターの濃さ)。



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(フランク・ザッパのバンドに参加していたときのライヴ映像。1977年)



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(デヴィッド・ボウイとの共演。「Pretty Pink Rose」。このボウイの表情最高!)



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(トーキング・ヘッズと。「Once In A Lifetime」。)





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M・ナイト・シャマラン監督作品『エアベンダー』

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 シャマラン新作。いやあ、これが本当の『ハプニング』だったのではないか……と上手いことを言った気分で劇場をあとにしたくなるそういう作品でした。悪いキャラクターはだいたいインド系の俳優。どこにシャマランが潜んでいるのかやっきになって探しながら観てしまいました。どうしてシャマランがこの作品を? これって続き物なの? などといくつも疑問は浮かぶのですが基本的には楽しく観ていられます。主人公は気・水・土・火の4つの要素によって構成された世界へ調和をもたらす特別な少年なのですが、たまたまそういう風に生まれてきてしまった(選ばれてしまった)少年として描かれているのが良かったです。ただし、その少年性によって世界の調和は大変なことになってしまうのですが。この選ばれた少年と真っ向に対立するのが火の国を追放された王子の存在。物語の基本はこの対立によって進んでいくように思われました。私としては徹底して選ばれない火の国の王子に肩入れしてしまいます。父親には見放され、妹のほうが才能に恵まれていて、おまけに徹底して選ばれている少年から「理解しあえたのに(どうして闘うの?)」と捨てゼリフを吐かれて敗北を喫する王子。この最低な負け犬感が良かった。





 主人公は気→水→土→火の順番で技を体得しなくてはならない、という。この設定がアリストテレスの世界観を思い出させます(彼は気→水→土→火の順番で中心へと近づく同心円の階層的世界を想定しました)し、すごく問題がある感じのエキゾチックな描写も良かったです。たとえば、水の国にあるパワースポットでは桜が咲き、錦鯉が泳いでいる。そこには明らかに日本的な表象がありましょう。ただ、その表象はおそろしく場違いなものに見える。その場違いさは日本以外の人からすればすごくエキゾチックなものと映るでしょう。しかし、我々のようなネイティヴには全くのニセモノに見えてしまう。この場違いさはいわば、どこにも属さないマージナルなところに立っている。『エアベンダー』のファンタジックな異世界はそのマージナルな表現の中から生まれているようにも感じられるのでした。





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A・J・ジェイコブズ『驚異の百科事典男 世界一頭のいい人間になる!』

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驚異の百科事典男 世界一頭のいい人間になる!
A・J・ジェイコブズ
文藝春秋
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 著者はある日、「『ブリタニカ百科事典』を読破してやろう!」と突然思い立つ。本書は、全32巻、4万3千ページ、項目数が4千4百万語を収録したこの超ボリュームの百科事典に挑んだひとりの男の戦いの記録だ。本書に記されたのは、妻や友人や親戚にバカにされながら、彼はおよそ1年かけて読み通した読書メモであり、そして『ブリタニカ』というひとつの権威から面白い知識ばかりを人力抽出した「要約」となっている。さすがに全32巻からの抽出結果だから、本書も邦訳が700ページ近くある。しかし、超面白くてスラスラと読めてしまった。





 本書の面白さは、単なる読書メモにとどまらず、さまざまなドラマも描かれたところにある。まずは父親との葛藤だ。ユダヤ系アメリカ人の家系に生まれた著者の親族にはインテリが多いのだが(おばさんはポール・ド・マンの同僚だった、という)、著者の父親もその例に漏れず。さまざまな学位を持ち、職業は弁護士で余暇の合間には、せっせと法学の論文を書いている、という立派な人物である。そもそも、著者が『ブリタニカ』を読破しようと思い立ったのは、この父親の存在がある。『ブリタニカ』読破は、父親がかつて失敗したプロジェクトでもあったのだ。それは父親の意思を継承することでもあり、成し遂げられることによって父親を乗り越える試みでもある。





 本書を読んでいるあいだに著者は不妊治療を受けているのだが、これもまたひとつのドラマとして描かれる。当初その試みはなかなか実を結ばないのだが、ある日、念願かなって妻の妊娠が発覚する。ここからがとても面白い。父親とは息子に対して知恵を授ける存在でなくてはならない、と著者は考える。なぜなら自分がこどものときの自分の父親がそうであったからだ。父親はなんでも知っている。それが圧倒的な存在感をかもし出すのだ。著者にとって『ブリタニカ』はそうして父親像に近づくためのレッスンでもある。





 もちろん、抽出された面白知識も最高だ。たとえばこんなのがある。



太平洋北西部に住む先住民のヌートカ族には、死んだ鯨を岸に呼び寄せる儀式をする専門家がいた。



 その名も鯨祈祷師(なんだそれは……!?)。こうした驚くべき知識に触れるたび、著者は狂喜したに違いない。私にはその気持ちがすごくわかる(こんなに共感をもって読めた本は久しぶりだ!)。鯨祈祷師の存在にひとしきり驚いた後に、鯨祈祷師の生活について想像をめぐらしてみる。しかし、当然うまくイメージができない。そこでまた想像力を働かせてみる。すると、よくわからない職業だ、しかし、それはなぜだかとてもいいものかもしれない、なんて思えてくる。そのような想像が物語的な原石になり、頭のなかで輝く瞬間がとても楽しいに違いない。おそらく4千4百万語の項目からは無限の物語がつむげるに違いない。それはまるでボルヘスの世界だ。





 私も負けてはいられない。『神学大全』読破に挑戦しなければ……!





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米林宏昌監督作品『借りぐらしのアリエッティ』

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借りぐらしのアリエッティ サウンドトラック
セシル・コルベル
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 スタジオジブリ最新作。寡黙な父、愛想の悪い猫、見晴らしの良い風景といった形象は『耳をすませば』を彷彿とさせ、また、父は炭鉱夫のようでもあり、また優れた技術者でもある。そこで描かれる技術はもはやファンタジックともいえるノスタルジックな技術のように思える。『天空の城ラピュタ』の蒸気機関、『紅の豚』の飛行機……と一緒に並べられるように。こうした過去のジブリ作品を想起させる数々のポイントは、宮崎駿によりかかりながらも「宮崎駿ではないジブリ映画」の方向性を示すものなのだろうか。これもまたひとつのセカイ系映画なのだろう。すごく小さな世界のなかに世界が投射されたような、そういうお話。





 小人のアリエッティがはじめて「借り」にでかけるところからストーリーは動きだす。「借り」とは、小人たちが人間に気がつかれないように、自分たちの生活に必要なものをちょっとずつ拝借する営みである。どうやら小人たちにとって、この行為が仕事のようなものであり、これには大人になるための儀式的な意味合いもあるようだ(このあたりは『魔女の宅急便』みたいなものか)。しかし、アリエッティは最初の「借り」の時点で、人間に話しかけるという決定的な失敗をおかしてしまう。禁を犯してしまったアリエッティの一家は、今住む家から移動しなくてはいけない目にあう。物語上、小人たちはディアスポラする種族として描かれている。アリエッティの一家は、自分たち以外に生きている小人たちの存在を知らない。親戚を頼って暮らす土地を変える、というわけにはいかない。一家にとっての引越しとは、ほとんど流浪を意味している。その旅路の先にはもちろん滅びの可能性がある。





 「それまでの暮らし」が破綻するきっかけとなったアリエッティと、アリエッティを目撃した少年が真っ向から退治する場面では、その滅びの可能性が「暗示」から「明示」へと変わる。小人にとって人間は圧倒的な存在であるからなのか。少年は「君たちはいずれ滅びゆく種族なのだ」ということを、ずけずけとアリエッティに言い始める。そして、その滅びのきっかけを作ってしまったのは、すべて自分が悪い、と謝罪する。この謝罪は人類代表としての大きな謝罪でもあるだろう。小人たちは人類によって、その生活圏を奪われきた。その大きな行為に対する謝罪をも彼はおこなっているように思える(どんだけ思い上がってるんだ、このガキ!)。





 ただし、彼は最後に言う。自分も死にゆく人間なのだ、と。小人に対して「生まれつき心臓が弱くて……」と難病設定をいきなり語りだし、もうすぐ手術なんだ、でも助かる可能性はそんなにないのだ……という不安を吐露しはじめる少年には戸惑いを隠せないのだが、このときアリエッティと少年とは「滅びるかもしれない者同士」という共感によって結ばれる。ここで少年=人類代表とするのであれば、人類もまた滅びゆく存在なのだ、というお説教になるのだろうか(おいおい、またジブリ的なお説教がはじまりましたか……)。ここからの小さな冒険はふたりの傷の舐めあいともとれるだろうし、しかし、その冒険の結果如何によってひとつの種族の運命が決定される、という大きな物語ともとれる。ただし、描かれた展開はごくごく小さな世界であるため、起伏の幅が限りなく狭い。『崖の上のポニョ』とおんなじような話なんじゃないの? と思わなくもないのだが、超ダイナミックだったポニョに比べると、アリエッティは地味すぎた。





 またスタジオジブリの近作では「老い=醜悪なもの」として、ほとんど悪意をもって描かれてるんじゃないか!? と疑いたくなるところがあるのだが、今回もそれが全開。見ていて結構ジリジリと嫌な気分になる老い描写が展開されており、年を取ってちょっと非常識な感じになってしまったババアを見ていると、そのたるんだ肌に焼き鏝でも押し付けたくなるゼ! という方は超イラッとすると思います。





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自作スピーカーのプロトタイプができました

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 当ブログに「スピーカー自作」のカテゴリが存在していたことを覚えいらっしゃる方はもはやおられますまい。そう、そんなカテゴリがあったのでございます。自分でも忘れていましたが。しかし、スピーカーのパーツが届いてから約一年が経った本日、川崎のビックカメラで高級スピーカーの試聴をしていたときに、ふと思い出して「そうだ、この連休中に制作を進めてみよう!」と思い立った俺は早速ホームセンターに立ち寄って塩ビパイプを買ってきたのだった。




 作るのは塩ビパイプスピーカーってヤツだ。



  • ご参考

集まれ!塩ビ管スピーカー - スピーカービルダーのためのコミュニティ




 スピーカーユニットにターミナル(スピーカーとケーブルをつなげる金属端子のこと)をはんだづけしたり、塩ビパイプを切ってヤスリをかけたり、と格闘すること約2時間――10年ぶりぐらいにはんだごてを使って工作をしてちょっとやけどしたりしたのだが――スピーカーユニットは「ユニットが梱包されてきた段ボール」をエンクロージャー(スピーカーの音を共鳴させる箱のこと)として仮に使っている状態からスピーカーっぽい状態へと移行した。今はまだ1メートルの塩ビパイプを立てて、そのうえにユニットを乗っけているだけ……というプロトタイプすぎる状態だが、設置して鳴らしてみる。




R0010828




 アルミラックの横に立っている灰色の何かがスピーカー。これじゃスピーカーに全然見えないね……。スピーカーよりも部屋の汚さに目がいってしまいそうだ。色的にはG3ガンダムみたい。




R0010829




 この角度からなら、多少スピーカーっぽく見える。しかし、肝心なのは見た目よりも音。果たして小さな段ボールから1メートルの塩ビパイプにエンクロージャーを変えることで音はどう変わるのか……と思って鳴らしてみる。




 そしたらすげーのな、全然ちがう。超立派な音がする。びっくりしたよ……もう。この変化がもたらした興奮をを伝えたいのだが、ブログじゃ伝わらないのが悔しいですね。使っているユニットはFostexというメーカーのFE126Eという型。こいつは中音域からの音が異様に出るユニットなので、クラシックを聴くにはもうちょっとエンクロージャーを長くしたり、無駄な音を殺す工夫が必要みたいだ。でも、現状ですでにAORやフュージョンを聴くにはかなり良い感じの音になっている。




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最近、俺の中でまた電化マイルスが輝き始めた

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Complete in a Silent Way Sessions
Miles Davis
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 『イン・ア・サイレント・ウェイ』完全版、買っちゃいました。この手のボックス、というか本っぽいケースに入っている複数枚組のCDセットの収納のしにくさといったら表現しがたいものがありますが、これは買ってよかった。『キリマンジャロの娘』に収録されている音源が入っていたり(持ってるよ!)、『イン・ア・サイレント・ウェイ』とはあんまり関係ない音源が入っていたりするんですが、まぁ、あくまでこの超名盤を制作している時期のセッション音源がコンプリートされていますよ、という感じ。『イン・ア・サイレント・ウェイ』のテオ・マセロによる編集前音源はもちろん興味深いもので、ブックレットには「どこをどう編集しているのか」という詳細な分析がありますが、思っていたほど大幅な編集があるわけではない。もっとザクザクにカットアップしているのかと思っていたら、そうでもないんですね。「In a silent way/It's about that time」なんか、「In a silent way」という曲の録音のあとに「It's about that time」という曲の録音をつなげて、最後にもう一度「In a silent way」の録音をつなげた、っていうホントにそれだけな構成だし。でも、この「In a silent way」という曲、超絶的な名曲ですよね……。ジョー・ザヴィヌルが書いた曲なんだけれども、このリハーサルテイクも素晴らしい。早めのテンポでバンドのメンバーが楽譜をなぞっているだけの音源なんだけれども、それでも曲の素晴らしさがわかる。あと「Directions」のスタジオ音源が超ヤバい!! 70年代のファンク化したマイルス・バンドの(ブート)音源ではよく聴いていましたが、まだ第二期黄金クインテットのクールな雰囲気が残っているこの音源は研ぎ澄まされ方がハンパではない。



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 1969年の「Directions」の映像(この音源、もってたな)。この演奏は完全にメートルあがちゃっている。



Live-Evil
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 あと『ライヴ・イヴル』も買った。先日来日していたエルメート・パスコアールがスゴかった、という話を聞いて調べてたら「え? この人、マイルスとも共演してたの!?(知らなかった!)」という感じで。1970年のスタジオ録音とライヴ録音を収録したこのアルバムには、電化ジャズからカオスじみたどファンクへの過渡期(つまり『ビッチェズ・ブリュー』から『アガルタ』/『パンゲア』)を感じてとても面白い。リズムはほぼファンク化し、マイルスはバリバリにワウを使っている。マイルスについては完成された時期よりも、こういう「どこかにたどり着く途中」の記録みたいなアルバムが好きだ、と思った。あと、Wikipediaの解説ページがスゴかった。収録音源のマスターテープには他になにが録音されていたか、みたいな情報まで載っている。





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読売日本交響楽団 第495回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール

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指揮:シルヴァン・カンブルラン


ピアノ:児玉桃





フォーレ/付随音楽〈ペレアスとメリザンド


ドビュッシー/ピアノと管弦楽のための幻想曲


メシアン/鳥たちの目覚め


デュティユー/5つの変遷



 読響定期、今月はカンブルランが今季2度目の登場。フランスの近現代モノで固めた「お国モノ」プログラムでした。カンブルランは現代音楽に定評がある、ということだからもっとも得意な分野の曲目が並んでいたのかもしれない。一曲目のフォーレの《ペレアスとメリザンド》は細部がやや粗い演奏だったが(私のなかで読響というオケの立ち上がりの悪い印象が定着しつつある)、雰囲気は充分な好演奏だったか。初めて聴く曲だったが「前奏曲」のドリーミーな美しさは彼の《レクイエム》を彷彿とさせる。たっぷり音の余韻を楽しませるような意図を感じ、思惑通りにハメられた感がある。





 しかし、続くメシアンの《鳥たちの目覚め》にはがっかり。ソリストにメシアンのスペシャリストであるという児玉桃を迎えてだったため期待していたのだが、異様に退屈な演奏だった。ピアノは「鳥の鳴き声」が延々と連続し、高速パッセージが聴き手を圧倒するのだが「ただそれだけ」に終始していた印象がある(そもそも曲が悪いのか?)。オーケストラもなんか雑……。 休憩後、同じソリストによるドビュッシーはまずまず良かったが、ここでもオーケストラとピアノのギアが噛み合っていなかった印象がある。ただ《ピアノと管弦楽のための幻想曲》も初めて聴く曲だったが「おお、ドビュッシーってこんな曲も書いてたのか」と感心を抱かせる水準の演奏ではあった。ドビュッシー唯一のピアノ協奏曲(未完)……という謳い文句がまず魅力的だ。





 メインのデュティユーはかなり良かった。前回のカンブルランの指揮の際もメインのシェーンベルクが良かったことを思い出すと、この指揮者の演奏会は最後まで聞いてみないとわからない人……なのかもしれない。これまで何度かデュティユー作品を聴いているが今回の演奏でようやく「ピン!」と来た。《5つの変遷》は彼の最高傑作であるという。これで「ピン!」と来なかったら「縁のない作曲家」のまま終わっていただろう。この幻影的、というかエロ~い感じの弦楽のトーンは、20世紀フランスの作曲家のなかで伝統化していたのだなぁ、とか思った。



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 ちなみにこんな曲。CDを買って聴きなおしたい。





 なんだかんだ言いつつも発見がいろいろとあり、満足な演奏会でした。次の定期は9月、ヒンデミット特集だ!





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イエイツの『記憶術』を読む #11

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第十六章 フラッドの〈記憶の劇場〉とグローブ座


 残るは二章、ってことでサクッと片づけてしまいましょう。この章では「イギリス・ルネサンス演劇のメッカともいえる場所であり、シェイクスピアも所属していたグローブ座という劇場は、実は記憶術と関係していたのではないか!?」という世界ふしぎ発見的なミステリー読解が展開されます。グローブ座がどういう建物だったかについては、Wikipediaでもご覧ください。




 この建物、すでに復元されたりしているようなのですが、すごく謎めいた建物だったようです。とにかく、一切資料が残っていない。残っているのは「グローブ座の焼け跡を見たことがある」という人の証言や、また「グローブ座に似た劇場のスケッチ」ぐらい。そのわずかな資料からイエイツがこの『記憶術』を書いていた頃に、グローブ座の復元といった試みがおこなわれていたそうです。イエイツはここでひとつのアイデアを出す。グローブ座が存在していた頃には、フラッドも活躍していた。もしかしたら、フラッドが構想した「世界劇場」という記憶の劇場は、グローブ座を参照しながら考えたものではないか!? そうだとするならばフラッドの参照することによってグローブ座の復元はもっと明確になるのではないか!? と。このアイデアの具体的な検討については、実際に本を読んでみてください! 試論めいていて、まだ思考が固まっていない、ぶよぶよな状態に感じられるのですが、とても面白かったです。





第十七章 記憶術と科学的方法の成長


 最終章でございます(『記憶術』という作品の全章について言及するのに丸一ヶ月ほどかかってしまいました)。この章では時代は17世紀に入りまして、記憶術が新たなステージに突入する……! ということについて。第十五章から登場したロバート・フラッド(1574-1637)は17世紀にも生きていた人ですが、彼はルネサンスの伝統に従って記憶術を用いた人でした。が、この時代になるとフランシス・ベーコン、デカルト、ライプニッツ、といった人たちも登場してくる。そして彼らも記憶術についてはよく知っており、それを論議の対象としていたわけです。そこで記憶術は以下のように変貌する、とイエイツは言います。



百科全書的知識を記憶することで世界を反映する方法から、新たな知識を発見する目的のもとで、その百科全書と世界そのものを調査するための一手段へと変わっていく。(P.416)


 記憶術の戦いはまだまだはじまったばかりだぜ……!(イエイツ先生の次回作にご期待ください)的な最終章(最終章でこんな大きなアイデアを出すなんて……)ですが、最後まで読み飛ばすことができない締めくくりとなっております。とくにここではライプニッツの世界観とブルーノの世界観の検討にも触れられている。ここでイエイツは「記憶術の方面から思想を検討すると、これまでには理解できなかった思想家の一面が見られるであろう……!」ということを強く主張している。それはラブジョイの学際的な研究態度とも似ているように思われました*1





 以上、『記憶術』のマトメを終わります。お疲れ様でした。






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イエイツの『記憶術』を読む #10

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第十四章 記憶術とブルーノのイタリア語対話篇


 ここまでかなりのページを使ってジョルダーノ・ブルーノについての話を進めてきましたが、いよいよこれが最後です。イエイツはブルーノの思想と記憶術を切り離すことができない、と考えていました。記憶術が彼の思想を読み解くための重要な鍵概念になる、と。したがってイエイツは、ブルーノの記憶術に関する著作でみられた「型」は、ブルーノの著作のすべてに痕跡をのこしている、という風に主張しています。この章ではその例としてイタリア語で書かれた対話篇を見ていく。まずは1584年にイギリスで出版された『聖灰日の晩餐』について。





 この作品は「ブルーノのオックスフォード訪問と、そこにおけるコペルニクス的太陽中心説についての彼のフィチーノ的もしくは魔術的な解釈を巡ってのオックスフォードの学者たちとの衝突を反映し」(P.356)、ブルーノとその友人たちはロンドンの町並みを歩きながら、晩餐がおこなわれる目的地を目指し、晩餐のあいだに太陽中心説について激論を繰り広げる、という内容だそうです。イエイツが重要視するのは、晩餐の会場にたどり着くまでの道のりです。「この旅程はブルーノが『晩餐』での議論の主題を忘れないための、隠秘主義的記憶体系の性質を備えたものなのだ」(P.357)とイエイツは分析します。ごたごたした道中のあいだ彼らはロンドンのさまざまな場所を通過する。その場所に議論の主題の記憶が埋め込まれている、と言うのです。だから、この作品は記憶術についての作品でなくとも、記憶術から生まれた作品なのです。





第十五章 ロバート・フラッドの〈劇場〉記憶術体系


 ブルーノの話は前章まで、ここから別な話がはじまります。といってもブルーノについてかなりの分量が割かれていますので、ここからのストーリーはイエイツのこの後の著作で取り上げることになるアイデアの断片が呈示されているような感じになっている。第十五章、第十六章はおもにロバート・フラッドの話になりますが、これは『世界劇場』で主に論じられる話ですね(私はまだ読んでいませんけれども紹介させていただきます)。



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 ルネサンス後進国であったイギリスにおいて、ヘルメス主義の影響があらわれたのは大陸からちょうど一馬身ほど話された感じだったそうです。ブルーノがイギリスに滞在していたのはエリザベス朝時代の話。でも、実際にイギリスでヘルメス主義が盛り上がってくるのは、その次のジェイムズ一世の治世下においてだった、と言います。ロバート・フラッドという人はその当時最大のヘルメス主義者でした。彼の活躍した時代、すでに「ヘルメス文書」は「あれはキリスト教以降にかかれたもので、古代のエジプト人が書いたものじゃないんだよ」と断定されていたらしいのですが、フラッドはそれでもなお「いや、あれは古代エジプトの偉い人が書いたんだよ!」と頑なだったみたい。で、この人も記憶術には熱をあげていて、記憶術体系の形式として「建築」を選択しています。イエイツ曰く「カミッロの〈劇場〉が一連のルネサンス的記憶術体系の出発点であり、フラッドの〈劇場〉がその終点となるわけなのである」(P.370)。





 この人の最大の仕事は『両宇宙、すなわち大宇宙、小宇宙の形而上誌、自然誌、および技術誌』(両宇宙誌)という百科全書的な著作です。この本を書いたときフラッドはイギリスに在住していたんですが、出版はドイツで行われています。この点を「あやしげな本を書いてる自認があるからイギリスで出版しなかったのだろう」と批判されたりするんだけれども、フラッドは「いや、イギリスで出版すると挿絵を印刷するのに別料金がかかっちゃうから、ドイツに発注したんすよ」と答えている。イエイツは『両宇宙誌』の挿絵に対してふたつの面白いコメントをしています。まず、挿絵自体が記憶術的なものである、と。フラッドにおいては挿絵は自らの哲学を視覚的に呈示する「象形文字」だった、と。





 この指摘はこれまでに何べんも繰り返されたようなコメントですが、もう一点の指摘は「イギリス在住のフラッドがどうやって自分が書いて欲しい挿絵をドイツの出版業者や版画職人に伝えたのだろう?」ということについてでした。これをやってくれたのがミヒャエル・マイヤーという人だったんじゃないか、とイエイツは言います。この人はルドルフ二世のサークルに入っていた人で、フラッドとドイツの出版業者とのあいだに入ってくれていたらしい。こういうところにイギリスと大陸の思想的なつながりを見出せて面白いです。





 ここからは『両宇宙誌』に記述された記憶術についての分析がはじまります。フラッドは記憶術の技術として「円形術」と「方形術」というふたつをあげています。それぞれ、どんなものだったか、というと前者が魔術的なもので、後者がイメージを用いたものだったようです。フラッドはこんな風に言っています。



記憶を人為的に改善するには、薬物によるか、円形術によって想像力を「イデア」に向けるか、方形術の物質的なもののイメージを通じて行なうか、のいずれかしかない。(P.375)



 「薬物によるか」ってうっすら恐ろしいことを言っておりますが、フラッドは円形術のほうが難しいけど、効果はバツグンだ、とも言います。円形術は自然的であり、ミクロコスモスには適合しやすい、と。一方、方形術は人為的なイメージを使うから簡単だけれどもミクロコスモスには適合しにくい、と。





 フラッドの記憶術はこのふたつの技術の組み合わせによるものだそうです。円形と四角形の組み合わせ。この使い方はブルーノも『秘印』で定めているのだ、というイエイツの指摘も重要なものでしょうが、この組み合わせによってフラッドは「劇場」を作り上げる、というのが刺激的です。





(続く)





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ヴィクトリア・ムローヴァ/ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ集

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Violin Sonatas Nos 3 & 9
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 ヴィクトリア・ムローヴァの新譜も聴きました(一ヶ月に一度ぐらいCD屋さんに行ったとき、好きな演奏家の新譜が出てると良い気分になりますね)。ムローヴァは1959年生まれ、いつのまにか51歳ですか……。最近の女性演奏家は写真を見ても年がよくわからないですね。アンネ=ゾフィー・ムターなんかも年をとればとるほど、見た目がゴージャスになっている気がしますし。ムターとは逆にムローヴァのほうは年をとればとるほど、オーガニック感が溢れる容姿になってきている。今回のジャケット写真なんか『ku:nel』みたいではありませんか。このオーガニック感は彼女が近年取り組んでいる「古楽器演奏」への志向となにか関係があるのでしょうか!? 今回のベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ集(第3番と第9番《クロイツェル》を収録)も、古楽スタイルで伴奏もフォルテピアノを採用しています。フォルテピアノは、クリスティアン・ベズイデンホウト。このアルバムについてきたブックレットでようやくこの人のプロフィールを読んだのですが、1979年生まれでめちゃくちゃ若いことを知って驚きました。この人のフォルテピアノは、ヤン・コボウとの共演も良かったです*1





 録音はWyastone Leysという(調べてみたら)お城みたいな洋館でおこなわれた模様。教会系というか洞窟で録音したんじゃないか、という異様に深いリヴァーブがちょっと気になりますがスピーカーで聴く分には気になりません。ヘッドフォンで聴くとちょっと気になるぐらい。で、演奏がすっごい良いんですよ……。もともとムローヴァという演奏家には、クールな部分とホットな部分の温度差に惹かれるものがあったんですが、今回もそう。《クロイツェル》の第1楽章のプレストは超激情的に突っ込んでいきますし、第2楽章の演奏者同士の呼吸が間近に感じられるようなテンポの運びなどはとても絶妙です。第3番もエレガントで良かった。






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ヒラリー・ハーン/チャイコフスキー&ヒグドン:ヴァイオリン協奏曲

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チャイコフスキー&ヒグドン:ヴァイオリン協奏曲
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 ヒラリー・ハーンの新譜を聴きました。昨年はバッハ、その前の年はシェーンベルクとシベリウスのアルバムを発表していましたから結構コンスタントに新譜を出していますね。先日彼女は来日もしていました。が、今回は聴きにいくことができず。今回の来日ツアーで演奏していたのも新譜に収録されているチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だったようです。CDデビューから14年目。三大ヴァイオリン協奏曲のひとつにも数えられるこの有名曲をまだ録音してなかったんだ……というのは正直意外な感じがします。





 同時収録されているのは現代アメリカの女性作曲家、ジェニファー・ヒグドンが、ヒラリー・ハーンのために書いたヴァイオリン協奏曲。この人についてはよく知らないけれど「アメリカで人気がある」らしい。ヒラリー・ハーン曰く「この2曲を背中合わせにすると、21世紀はじめのヴァイオリンに開かれた、大きな音楽の可能性を感じることができるのです」とのこと。だけれど、この曲は正直退屈でした。いわゆる「新ロマン派」系の作曲家みたいなのですが、アメリカの吉松隆みたいです。しかも引用やパロディめいた部分がありませんので、吉松の音楽のようにニヤニヤしながら聴くこともできない。本当にこういう音楽がアメリカでは人気なのでしょうか?





 またチャイコフスキーの協奏曲についても、いまひとつパッとしない。シェーンベルクやシベリウスの録音に感じられた才気みたいなものがこの録音にはない。テクニックはもちろん素晴らしく、随所に彼女らしい「考察」めいた表現があるのだけれど、それがうまく大きな結果として実を結んでいないような気がした。ちょっと残念。オーケストラの鳴りがリッチで、そちらは素晴らしかったです。





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集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#8 コルターサル『石蹴り遊び』

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石蹴り遊び (ラテンアメリカの文学 (8))
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 集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズ、第8巻はアルゼンチンのフリオ・コルタサル(1914-1984)の『石蹴り遊び』です。これはこのシリーズのなかでもかなり人気が高く、古書価格もかなりの値段がついちゃってます。文庫にもなっているのですが、アマゾンのマーケットプレイスで手に入れようものなら7000円ぐらいしちゃいます。私の持ってるハードカバー版も最低5000円ですって……。大変ですね。でも最近、岩波文庫にラテンアメリカ文学の名作が入ったり、重版されたりしているので待ってたらそのうち復刊するのかもしれません。なにしろ、ピンチョンの全集が発売される世の中ですからね……。と、ここまで本の内容には一切触れておりませんが、これは私の苦手な感じの作品でした。以前にコルタサルの短編集を読んだときも*1「好きな作品もあれば、あまり好きではない作品もある」という感じだったのですが、『石蹴り遊び』は完全に「あ、これは俺向けではない」という感じの作品。ふたつの文章が並んで進行したり、「この本は2つの読み方がある」とはじめに提示してみたり、ものすごく断片的であったり……とテクニカルな小説なのですが、実のところ「なんか働きもせずにウダウダやってるワナビー青年」のことが書かれた実存小説(笑)な気がしてならず、これがここまで高い評価を得ている理由があまりよくわかりません。おまけに450ページ以上あるし。これならばボルヘスの10ページを読んだほうが、私には有意義に思えます。別な方向から評価をするならば、非常に韻文的な作品、という感じがします。全体は長大なのですが、内部はすごく細分化されている。それらは点描的、モザイク的に小説世界を構成していく。しかもそれらはさまざまな順番で読み替えられることによって、中心を持たず意味を広げていく――しかし、このように広がりをもった意味をこの小説から読み取るには、非常に根気のいる読書家としての体力が必要に思われます。私は不真面目な読書人ですので、とうていそのような境地にいたることはできませんでした。






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カヒミ・カリィ/It’s Here

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It’s Here
It’s Here
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カヒミ・カリィ
ビクターエンタテインメント (2010-06-09)
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 新譜。大友良英、山本精一、ジム・オルークという三大ギタリスト(?)が参加していたので気になって、気になって。ミックスがジム・オルークだからなのか、ウィルコっぽい音に聴こえるところもあり(リヴァーブの感じかな)つつ、しかしソリッドな音楽に仕上がっている。なんか最初に聴いたときはカエターノ・ヴェローゾの近作の世界観に近いのかもしれない……と思ったほどで、なんかエラい渋いアルバムなのであった。これはなんかひょっとしたらスゴいのかもしれない。例によって、歌詞はすべてフランス語であるため何のことをおっしゃっているのか俺にはさっぱりわからないのだが、バーン! と「これがカヒミ・カリィの最新形態じゃあ!」と音だけで世界観を打ち出している。モノクロのなかに一部原色系のモザイクがあるジャケット写真はすごくアルバムの内容とマッチしているように思われ、もっと情景的な比喩をするならば、現実感がありすぎて逆にこれは夢なんじゃないか、って疑いたくなる現実、あるいは夢……って感じである。なんかこの沈潜の仕方は、すごいな……。不思議ちゃんが一周して、禅マスターになったかのようなそういう深さを感じるのだった。





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最近買って良かったなぁ、と思った旧譜

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Original Album Classics
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Weather Report
Columbia/Legacy Euro (2010-04-23)
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 しばらく前からタワレコの店頭で見かけていたんですが、コロムビア系のロック/フュージョン系ミュージシャンのオリジナル・アルバムが5枚組セットで、オリジナルアルバムの紙ジャケを再現しつつ2500円(一枚500円!)というシリーズが出ているようです。この前、たまたま猛烈にフュージョンが聴きたくなってそのうちのウェザー・リポートの五枚組を買ったのですが、これが良かった。私にとってウェザー・リポートとは「ベースがジャコパスで……」という感じのイメージで決まっていたのですが――つまり『Heavy Weather』しか聴いてなかったってこと――このセットに収録されてる『Heavy Weather』以前のアルバムのほうが、今の私のセンスにはあう。っつーか、最高。どう考えてもウェザー・リポートは、ファンクビートを導入する以前の、電化マイルスバンドから分家してきた時期の演奏が刺激的で良いです。特に『I Sing the Body Electric』に収録されている「Direction」(ライヴ音源)なんか、同時期のマイルス・バンドの(ブート)音源よりもはるかにスマートでカッコ良い。ジョー・ザヴィヌルが70年代マイルスに残した深い深い影響を考えるうえでもこのセットはお買い得だと思いました。



D



Original Album Classics
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John McLaughlin
Columbia/Legacy Euro (2010-04-23)
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 同じ廉価盤シリーズのジョン・マクラフリンのものも買いました。これもすごかった。表向きジョン・マクラフリンのセットということになっているけれど、5枚中3枚はジョン・マクラフリンがマハヴィシュヌ・オーケストラを解散した後に結成したシャクティというインド音楽オリエンテッド・ジャズ・ロックなバンドの音源、そのほかはそういうエキゾチックなフュージョンのソロ・アルバムという組み合わせなんですが、このシャクティの音源がヤバい。なんといってもタブラがザキール・フセイン(人間国宝)。インディアン・ドリルンベースという表現が冗談じゃないほどにミチミチにつまったビートに笑いが止まらなくなります。



D


 まぁ、こうしてみるとジョン・マクラフリンなんかエキゾチックなものにハマってしまった、やや痛いガイジンなのかもしれないけれど、ときおりブリティッシュ・フォークな雰囲気を漂わせたりするものだから目が離せないのです。共鳴弦(?)付の変形アコギにこだわってるのも、やっぱり全部インドにはハマらないぞ、という矜持な気がする。だって、ホントにインド音楽がやりたいならシタールに乗り換えてると思うもん。





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eX.14「DUO TRANSPNEUMA plays Kawashima & Yamane」 @杉並公会堂 小ホール

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<川島素晴の作品>


蛇遣い [serpent, pf] (2010 / 初演)


ピアノのためのポリ・エチュード 《ポリスマン》 (2001) 《ノンポリ》 (2010 / 初演)


6本のヴァルヴを持つF管テューバのためのエチュード (2010 / 初演)


ピアノのためのポリ・エチュード 《トランポリン》 (2001) 《ポリポリフォニー》 (2007)


<山根明季子の作品>


光を放射するオブジェ α [serpent] (2010 / 初演)


Dots Collection No.02 [tuba, pf+ピアニカ 版] (2007)


Dots Collection No.07 [pf] (2010 / 初演)


ケミカルロリイタ [tuba, pf] (2008)





eX.14 DUO TRANSPNEUMA


 作曲家、川島素晴・山根明季子主宰による現代音楽コンサート「eX.」に足を運ぶ。前回の第13回に引き続き*1。前回も新しい音に触れるとても良い機会だったが、今回もとても新しかった(=聴いたことがない音が聴けた)。第14回目である本日のプログラムは「橋本晋哉(テューバ&セルパン)と藤田朗子(ピアノ)によるデュオを迎え、川島・山根の作品を特集する」という企画。





 川島素晴の音楽を実演で聴くのは今回が初めてだったのだが(ブログにコメントをいただいたりしているのに)、とても興味深く聴けた。高度な書法と「演劇的な」指示と強烈なユーモアは、衝撃的な異化効果……というか。演奏者が演ずる様々なアクションは、笑えるものであったり、それを通り越して不気味であったりするのだが、そのような印象に対して「どうしてこれが笑えてしまうのか」「不気味に思えるのか」と再帰的な問いかけを与えることとなる。例えばセルパンのなかからヘビのぬいぐるみが出てくる(《蛇遣い》)と客席に笑いが起こる。しかしどうして「セルパンからヘビのぬいぐるみが出てくると」→「笑える」のか。川島素晴の音楽はこうして意味を宙づりにする。話には聞いていたものの、ここまで強烈だったとは……と感心したのだった。





 後半の山根明季子作品は《ケミカルロリイタ》のテューバの発音と発声を同時におこなう特殊奏法の効果(ヴォコーダーみたいだった!)が凄まじかったが、また新しい《水玉コレクション》が聴けて楽しかった。これまでに私は5番と6番を聴いていて、今回は2番の新バージョンと新作の7番を。聴けば聴くほど、同工異曲というか、コンセプトの明確さが際立って聞こえる。《光を放射するオブジェα》のプログラム・ノートにもあるようにそれは「音のオブジェ」として我々の耳に届く。ゆえにその音楽には変化があっても、物語的な時間性がない。さまざまな光を見せるプリズムのように、音は現れては消えていく。そして作品はいつの間にか徴もなく終わっている。私が山根作品に感じている魅力のひとつにその「聴き終わったあと、音に取り残された切なさ」みたいなものがあるかもしれない。移動遊園地の跡地をぼんやりと眺めるような、センチメンタルな気分になる。






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ニコラウス・クザーヌス『神を観ることについて』

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神を観ることについて 他二篇 (岩波文庫)
ニコラウス・クザーヌス
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 最近まで私は「宗教なんか、単なる道徳律を唱える鬱陶しいものなのだろう」とばかり思っていたのですが、このニコラウス・クザーヌス(1401-1464)の本を読んでからちょっと考えを改めざるを得ませんでした。クザーヌスがキリスト教を通じて考えたことは「○○しなさい」「××するな」といったルールの提言にとどまらず、世界をどう捉えるか、という壮大な哲学になっている。これはとても面白い本でした。キリスト教において、世界とは神様が作ったもの、ということになっている。そういった認識があることは常識かと思いますが、ではそのような世界に存在している我々はどのようなものなのか、神の現前にいる我々とはどういった存在なのか、を考え抜くある種、実存的な問いかけをクザーヌスはおこなっている。そこで何度も言及されるのは、人間という存在のちっぽけさです。神は偉大すぎて、ちっぽけな存在である我々に把握することは不可能である。どうして不可能なのか、それは神が矛盾を生じさせつつ、矛盾しないような「反対対立の合致」という性質を持つからだ、とクザーヌスは言います。





 たとえばその性質を象徴するもののひとつに「神のまなざし」がある。被造物である我々は神のまなざしを常に受け続けている(それが神の愛のあかしなのです)。ここでクザーヌスは「神のイコン」という比喩を出すのですが、これが秀逸でした。ある壁に人物の似顔絵を貼り付けておく。その前をふたりの人物が別々な方向に通り過ぎようとする。すると、壁の似顔絵に「みられている」という感覚が、ふたりの人物の方を追っていく。右に進んだAという人物は「壁の似顔絵は私のほうを追ってきた」と感じ、左に進んだBという人物もまた「壁の似顔絵は私のほうを追ってきた」と感ずる。これが単なる錯覚を説明したものではなく「神という一者が右と左の両方をみつめている(それどころかすべてを見据えている)」という矛盾のアナロジーとなっている。右をみながら左をみる。これだけだとなんとなくできてしまいそうな感じがしますけれど、もっと方向性を拡大してみると(右をみながら左をみながら上をみながら下を見ながら後ろをみる……といった具合に)それが、理性的には理解できないものであることがわかります。





 しかし、クザーヌスは神を把握しなければ、幸福にたどり着くことはできない、という。しかし、神を把握することはできない。ここからは逆説的な論法といった感じで、我々が無限の神を把握することができない、が、その把握できないことを認識すればするほど、我々は幸福に近づくのだ! というのが彼の主張です(そして、イエスとは、その把握できなさを理解しきってしまい、神と同一化した『完成体』ということになる)。こういう世界観は、ジョルダーノ・ブルーノにもモンテーニュといった人物にも影響を与えたそうですが、キリスト教信者でもなく、神の存在を信じていない私でも思わず説き伏せられてしまいそうな、圧倒的な神の存在がそのとき語られる。ここがとても面白かったです。翻訳もとても読みやすく、解説の文章もとてもいいです。翻訳は八巻和彦。解説では(なぜか)彼がクザーヌスに興味をもったきっかけというのが語られるのですが、訳者がクザーヌスで卒論を書いたのは1970年のことだったと言います。マルクス主義や実存主義が熱く語られる時代において、訳者がクザーヌスのなかにマルクスもサルトルも語らない思想を見出す点が感動的……というか、個人的には腑に落ちた。クザーヌスのほかの翻訳も読みたいと思いました。





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イエイツの『記憶術』を読む #9

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記憶術
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第十二章 ブルーノ記憶術とラムス記憶術の衝突


 さて、前回はジョルダーノ・ブルーノが1583年に出した通称『秘印』という作品についての話で終わりました。繰り返しになりますけれど、イギリス(エリザベス朝時代)で出版されたこの本はあまりにオカルトじみていたせいか、受け入れられませんでした。一部のサークルでは「こりゃ、すごい」と言われたんだけれど、まぁ、メジャーだったのがプロテスタントだったもんで仕方なかった。しかし、その一年後の1584年のイギリスでは、熱烈なブルーノ信奉者とラムス主義者のあいだで論争がおこっていました。ラムス主義については第十章で触れてます。忘れている方はそちらを確認、ということで。第十二章は、アリグザンダー・ディクソン(ブルーノ派)VSウィリアム・パーキンズ(ラムス派)によるこの記憶術論争の模様を追っています。





 イエイツの見立てによれば、この論争は「俺のほうがすごい。俺のほうが本当の記憶術だ」というゴジラ対メカゴジラ的な対立にとどまらず、別なニュアンスがある。「双方共に、自分の記憶術こそが道徳的で正しく従って真に宗教的だと考え、相手のやり方は不道徳、不信心で一人よがりのものと見なしている」(P.321)のですね。そこにはメソッドの優劣を比較するだけではなく、宗教的な対立が存在している。ただしこれは、単純な新旧の対立ではない。重要なのは双方がともに近代化されたものであった、という点です。ラムスによる記憶術はもちろん、ブルーノによる記憶術もルネサンス的な変容を受けたものであることをイエイツは強調しています。また、そこには「想像力」というものが当時のヨーロッパにおいて、どのように扱われていたのかも示唆しています。「心の内なるイメージはラムス主義の方法によって全面的に排除されるべきなのか、それとも魔術によって発展させられて現実把握の唯一の手段とならねばならないのか」(P.331)。論争が人々につきつけたのはこのような二者択一だったのです。





第十三章 ジョルダーノ・ブルーノ――記憶術に関する後期の著作


 イギリスにおける記憶術論争の間には、ブルーノもまたイギリスに滞在していました。このとき彼はフランスの駐英大使の人に保護されていたらしいのですが、1586年にこの駐英大使と一緒に彼はフランスへと戻ります。第十三章はそこからの話。ブルーノはパリに戻って、フランス人のアリストテレス派の学者と論戦を繰り広げたりしたんですって。なんといってもブルーノは反アリストテレスの急先鋒でしたから、それはそれは大暴れしたらしい。ここでもブルーノの記憶術は大活躍。『自然学における比喩表現』という本を出したりしています。これは「記憶術を使って、アリストテレス自然学を記憶しよう!」という本だったらしいのですが「自然学を『比喩表現』化する記憶の体系とは、そもそもそれ自体が自然学の自己矛盾」(P.335)というわけで、皮肉めいた/挑発的な内容だった模様。





 その後、パリを離れたブルーノはドイツ内を遍歴して、ヴィッテンベルクに落ち着きます。そこで何冊かの本を書いたそうですがイエイツは『三十の像の燈』(以後『像』)に注目します。これはブルーノの死後に公刊された未完の断片らしいのですが、ここには「イメージを通じて宇宙を理解する想像力の力」(P.335)が明示されている、とイエイツは言います。そこではアポロンやサトゥルヌス、プロメテウスといった神話的な像へと宇宙の諸々を形象化しています。でもこの方法って割と普通じゃないか? と思われるかもしれません。通常、神話というのは古代人が秘法を隠すために練り上げた、と考えられます。しかし、ブルーノは逆に秘法をいっそう理解し記憶するために、神話を使うというのです。それどころか、彼はすでにある神話を素材として用い「神話の中から真の原始の哲学を引き出し、それを復活させた」(P.337)と考えます。そして、この像を作ることは「神像を造りそれらを通じて天空の神聖な叡智を地上に誘い込むことを心得ていたエジプト人」(P.338)の手法なのです。以上のことから、『像』には記憶術、原始の哲学、エジプト的手法の三重の力が加わっている、とイエイツは言います。




 ブルーノの記憶術に関する最後の著作は『イメージ、刻印、およびイデアの組み合わせについて』(以下、『イメージ』)という作品でした。これはイタリアへと帰国する直前に書かれたものだそうです。秘印の体系はますます深化し、より一層難解に、そして大がかりになっていくようにみえる。しかし、それらはこれまでに書かれた記憶術に関する著作の内容を丁寧に積み重ねていくとクリアに、ブルーノの宇宙観が見えてくるだろう、とイエイツは考えているようです。難解だけれども、ブルーノのイメージ-記憶論がもっとも明瞭になっているのが『イメージ』という作品である、とも言います。ブルーノの宇宙観についてはこれまでも言及してきましたので、ここでは詳細を省きますが、無数の百科全書的なイメージによって世界の無限を理解する、という世界観はやっぱり壮大で面白い。『存在の大いなる連鎖』*1に出てくる言葉を使うと、ブルーノも「充満系」の思想家のように思われます。クザーヌスなんかも「充満系」の思想家だと思います。私の目には、どちらも目指しているところは「充満の原理と〈私〉との一体化」のようにも思える。その方法のひとつがブルーノでは記憶術なのです。





 (続く)






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