ココロ社『クビにならないビジネスメール』

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クビにならないビジネスメール 〈特選〉世渡り上手フレーズ100
ココロ社
インプレスジャパン
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 ココロ社さん(id:kokorosha)の最新ビジネス本を読みました。なんとこれで3冊目の単著、ということで単著ブロガーとしての活躍ぶりがすごいですね……と驚かざるを得ません。普通のサラリーマンなのに単著3冊……なんですかそれは……しかも、もうすぐ4冊目も出るとか言う話じゃないですか……*1





 これまでの2冊についてもすでに読んでおりますが、今回の本が一番マジメ。おふざけ要素がかなり控えめの本になっています。これが本当に役立ちフレーズ満載でスゴいです。適当にページを開いてみたところに使えるメールのフレーズが掲載されています。個人的に気に入っているものは、以下。



「ノー」を感じよく言う1


~については検討します


「ノー」を感じよく言う2


個人的には好きですが



 日本語として間違っているかどうかは二の次、要は仕事をスムーズに進められるのが一番! という超合理主義的な戦略が基盤にあるように思われ、その思い切りの良さが素敵でした。型にはまるな、とか、常識を覆す、とか、そういうことに人は憧れるのかもしれません。しかし、型にはまらずに、常識を覆しながら生きていける人は、ほんの一握りの人に過ぎません。そういうのを目指してたら、単に煙たがれるだけです。ゆえに、トンガリたいけどトンガリ続ける才覚に恵まれない困った人は早いうちにこの手の本に手を出しておいた方が良いですよ!!




*1:そのあたりは『UMA-SHIKA』第3号に掲載されたココロ社ロング・インタビューにも掲載されています! 読みたい人は通販で買って読んでね!!





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ルドルフ・オットー『聖なるもの』

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聖なるもの (岩波文庫)
オットー
岩波書店
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 著者は20世紀を代表する宗教哲学者の代表作(つまり、宗教哲学書オブ宗教哲学)。タイトルに惹かれて読んでみようかと思ったのだが、思ったよりも収穫があり面白かった。この人、ゴルトアマー(パラケルスス研究者で有名な人)やエリアーデといった人にも影響を与えているんだってさ。本書『聖なるもの』は、タイトルのとおり「聖なるものって一体なんだろうね」ということを分析した本。中心となるのはもちろんキリスト教の話なのだが、未開社会の呪術や、道教・仏教・イスラム教など比較社会学的なアプローチも見られる。





 著者いわく、聖なるものには2つの側面がある。それは合理的なものと、非合理的なものだ。前者に分類されるのは、今日では宗教に含まれた倫理や道徳といったもの。そういうものは人間の理性(悟性)で認識することが可能である。しかし、こういったものは宗教が発展していくにつれて、付加されていったものなのだ、と著者は指摘する。まず、非合理的なものがあった。それは、理性では捉えきることができないものだ。しかし、まったく認識することができないわけではない。感じることはできるが、考えきることはできない。そういったものを著者は「ヌミノーゼ」と名付ける。宗教における神の存在は、ヌミノーゼとして解釈できる。





 紹介する順番が逆になってしまったが、本書ではまずヌミノーゼに象徴される宗教の非合理性を分析した後に、合理性の分析をおこなう。ヌミノーゼは捉えるきることができないものなので、当然完璧に表現することもできない。それは音楽を言葉によって表現しきることができないと同じことだ。しかし、過去にどうにかして人はヌミノーゼを表現しようとした。音楽や文学のなかに、あるいは聖書のなかにその努力のあかしが隠されている……と著者は指摘している。この部分がとても面白かった。





 結論としては「キリスト教がやっぱり最強!」という話になるのだが(イヤ、マジで)こんな風に導かれてしまうのは、当時「キリスト教を特別なものとみなさずに、単に歴史的事実として分析していきましょうよ!」という学派が流行ったかららしい。当然、特別なものとしなくなった結果、キリスト教の権威は失われてしまう(研究者はみんな神学者なのに)。すっごいジレンマ。このジレンマを解決するために「じゃあ、どういう風にキリスト教が優れているのが、分析していきましょうよ! やっぱりスゴいハズだって!」という潮流が生まれて、オットーみたいな人がでてきた、と。神様を信じるのも大変なことなのだな、と思う。





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トリスタン・ミュライユの音楽 @東京オペラシティ・コンサートホール

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出演


野平一郎(指揮)


原田 節(オンド・マルトノ)*


トリスタン・ミュライユ(オンド・マルトノ)**


新日本フィルハーモニー交響楽団


曲目


2台のオンド・マルトノのための《マッハ2,5》(1971)*/**


オンド・マルトノと小オーケストラのための《空間の流れ》(1979)*[日本初演]


オーケストラのための《ゴンドワナ》(1980)[日本初演]


大オーケストラとエレクトロニクスのための《影の大地》(2003-2004)[日本初演]


 東京オペラシティの同時代音楽企画「コンポージアム 2010」に足を運ぶ。この企画に初めて行ったのは去年のヘルムート・ラッヘンマンのとき*1で、これはラッヘンマンの音楽にハマるきっかけを作ってくれたので今年も行ってみた。今年は、フランスのトリスタン・ミュライユ(1947-)の特集。彼はコンピューターで音の倍音構成を解析し、そのデータをもとに作曲をおこなっていく「スペクトル音楽派」の代表である。この試みで彼らはひとつのムーヴメントをつくり、ブーレーズやらノーノやらシュトックハウゼンといった作曲家の「次の世代の人たち」として評価されている。高まる期待。しかし、事前の予習を一切なしで臨んでみたら見事に返り討ちにあった気分になった。うーん……。わかる/わからない、ではなく、これは好きじゃない、と思った。





 代表作《ゴンドワナ》からして「鐘の複雑な音からオーケストラ作品を作りました」というコンセプトが冒頭で分かってしまった瞬間に「出オチじゃないか!?」と疑ってしまう。この手の「音のテクスチュアがさまざまに変動していく」系(タブローがリアルタイムに変化していくような音楽)は、好き嫌いがはっきり出てしまうのかもしれない。私はもっとむちゃくちゃな音が好きだし、《空間の流れ》などは「アンビエント・ミュージック/音響派とかをやたらと賞賛している人たちにウケそうだな~」ぐらいにしか思えない。家で本を読みながら聴くぶんには「なんか鳴っているなぁ」ぐらいな感覚で好きになれるかもしれない。しかし、面と向かって聴くにはつらかった。もうこういう音楽はコンサート・ホールで聴くことができない。そういう体になっているのかもしれない。





 ただ、2台のオンド・マルトノが並んでいる光景というのはなかなか萌えた。生オンド自体は以前に原田節の演奏でメシアンの《トゥーランガリラ交響曲》を聴いた際に体験したが、やはり2台となると壮観だ。喩えるなら、ジェフ・ベックとエリック・クラプトンが共演している感じか!? そのぐらいインパクトがある。しかし、その2台のオンド・マルトノを使用した《マッハ2,5》も、リボンを使ったトルゥゥーーンみたいな音じゃなくて、モヤァァァンとした音が続く作品だったのでちょっとしょんぼり。俺はあのトルゥゥーーンが聴きたかったんだよぉ……。しかし、オンド・マルトノは大変品のある楽器だなぁ、と思う。フランス人が作った楽器、という感じがする。






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メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』

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汚穢と禁忌 (ちくま学芸文庫)
メアリ ダグラス
筑摩書房
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 いわゆる文化人類学関係の本を読む機会は年に一、二度ぐらいある気がするが、大抵中盤ぐらいまでで飽きちゃって後半は消化試合、っていう結果が多い。しかし、しばらくするとまた「あ、コレ読んでみようかな」とか「コレ読んでなかったな」とか思って買ってしまったりする。メアリ・ダグラスの古典『汚穢と禁忌』は以前、id:contractioさん*1が名著とブログに書かれていたのを思い出して読んでみた。やはり後半飽きてしまったのだが、それでも前半部分で展開されてる「これまでの文化人類学の何がダメだったのか」という話は刺激的だった。





 「これまでの文化人類学・宗教社会学は、聖と俗をはっきり分けすぎ」、「現在の我々の価値観に当てはめて、ある社会を分析するなんてダメすぎ」というのが著者の言い分だ。たとえば、ユダヤ教やイスラム教徒のあいだでは豚肉が食べちゃダメなものとなっている。それをある解釈者は「ユダヤ教やイスラム教が生まれてきた土地はいずれも熱い土地だし、そんなところで豚肉を食べるのは危険だ。衛生的な合理性を古代の人たちも気がついたからそういう戒律ができたのだろう!」と説明してみせる。しかし、すべてがそのように近代の衛生学的な観点から説明できるわけではない。そこではある社会における「汚穢(けがれ)」と、近代衛生学的な「汚染」とが一緒くたにされてしまっている。





 一方、著者が提示する「汚穢」の定義とは、ある象徴的な意味の体系を乱すもの、ということになる。豚を食べちゃいけない、というのは衛生学との偶然の一致であり、近代文明の合理性へと、ある文化の意味体系を翻訳することは不可能だ、と著者は考える。むしろ、そういうふうに解釈をおこなうことが、文化人類学の発展の妨げとなる。ある社会の意味の体系はそれ自体として分析されなくてはならない。それに我々が現在生活しているこの社会の意味の体系も、すべてが合理性のなかに回収できるものではないのだ。





 個人的に、著者が考える「汚穢」の定義は、とても納得できるものだった。たとえば、部屋が散らかっているときなどに、不快感を感じることがあるだろう。本棚がゴチャゴチャしていたり、CD棚の「Bの作曲家」のコーナーに「シェーンベルク」のCDが混じっていたりしたときの不快感は、ある種の秩序が見出された状態に感じるものである。それは、著者が提唱している汚穢と一致する。もちろん部屋が汚いときの汚穢の感覚は、衛生学とはほとんど無関係に発生する。ベートーヴェンのCDのとなりに、シェーンベルクのCDがあったからといって疫病が発生するわけでもない。また、部屋が汚いと生産性が落ちて……といった合理主義的な観点も意味をなさない場合がある(少しゴチャゴチャしていたほうが仕事がはかどったりするだろう)。これらは我々の世界もまた「象徴的な意味の世界」であることを証明しているように思われた。




*1:a.k.a 錯乱野郎





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藤子・F・不二雄大全集 『ドラえもん』(2)

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 昨日のエントリにいただいたブクマコメントで「ドラえもんって意外と読んだことない人多い印象。僕も含めて…」というのがあったけれど、今日会社で「『ドラえもん』読んでたらボロボロ泣けちゃってさぁ……」という話をしていたら「実は読んだことないんですよねー」という返事が帰ってきた。まぁ、そういうものだと思う。『コロコロコミック』や『小学○年生』を毎月買ってもらえるこどもなんて、きっと裕福で贅沢なおうちのこどもだったんじゃなかろうか。自分の家のことを考えると決して裕福な家ではなかったから、そんな風に思う。





 『ドラえもん』の第二巻には、名作「赤いくつの女の子」を収録。これは懐かしかった。「夏休みだよ!」や「大晦日だよ!」の『ドラえもん』アニメ・スペシャルで毎回放送されていた記憶がある。恐ろしいのはそういう風に懐古的な気持ちになるだけじゃなくて、この古い漫画が本当に今でも笑える、ということなんだ。F先生はどうしてこんなスゴいアイデアを何年間も続けてだせたんだろう? 本当に驚異的としか言いようがない。描かれた時代の大らかさみたいなモノがあるから、スゴい表現がでてきたりする。現代と過去とのそういった表現倫理のズレから生まれてくる面白さはもちろんある。





 でも、それだけじゃないんだな。勧善懲悪・因果応報的なオチを毎回つけながら、でもそのオチが読めない。これってスゴいことだと思う。ある決まったフォーマットに乗りつつ、独創的である。それでいて教訓らしきものがかすかに感じられる。その教訓らしきものは、こどもには読み取れないものかもしれない。でも、今になって読めばそれが手塚的なメッセージ性を持っていることがわかる。ただ、手塚漫画のように説教臭くないんだ。そこが良い。「ヒューマニズムが……」云々で片付けられないものが『ドラえもん』にはあると思った。





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藤子・F・不二雄大全集 『ドラえもん』(1)

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  |  | .王ミ  | 、王  |・ |・ |- |  |  |  |

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                 「ねむれない。」

「ぼくも。」

               「朝までお話しよう。」







 「さようなら、ドラえもん」のAAを見たら、急激に『ドラえもん』が読みたくなって買う。そして家に帰って大笑いしながら読みつつ「おばあちゃんのおもいで」で大号泣し(ホントにグズグズになるまで泣いた……)、F先生最高、藤子・F・不二雄ミュージアムができたあかつきには初日に絶対にいきますよ! と宣言するに至った。これまでよく考えたら漫画で『ドラえもん』をしっかりと読んだことがなかったけれど、今なら「『ドラえもん』の単行本を親に捨てられてから、親のことが信じられなくなった」と語る友達のことが理解できる。なぜ、こんなに心が惹かれてしまうのかうまく説明できない。でも、一家に一冊、というか一全集置いておくべきだと思った。それぐらい良い。藤子・F・不二雄大全集は膨大なものになりそうだけれど、できるかぎり集めて読みたい。





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James Chance & The Contortions japan Tour 2010 @LIQUIDROOM

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D


 これは最高のライヴ。フリクションのクソ長くて超退屈な演奏(一時間半ぐらいやっていた)が無ければもっと最高だったハズ。コントーションズだけでは尺が足りなかったのかもしれないが、抱き合わせ販売のようなブッキングをするのは本当にやめてほしい……と切に願った。レックのパフォーマンスを見ていたら「ロックをやり続けること、っていうかロックであり続けることの大変さ」を感じてしまうのであった。ついでに言うとオープニング・アクトで出ていたバンドも最低。時代遅れ過ぎるサイケデリアを見せつけられて甚だ不快。お前ら、一生バイトしてろ!





 いきなり毒づいてしまったが、本題は、ジェイムズ・チャンスである。繰り返すが、本当に最高。奇怪な動きをしながら吹けないサックスや弾けないキーボードを演奏し、そしてがなりたてる太ったオッサン(しかも、ライヴを観て初めて気がついたが、頭頂部の毛髪がほとんどなかった)。にもかかわらず、なんてカッコ良い男なのであろうか。もはや崇高な対象として私の目には映り、涙が出そうなぐらい感動した。その感動は、ノー・ウェイヴの伝統芸能化を目のあたりにしたからだ、と言っても良いかもしれない。しかし、一層感動的だったのは、彼の音楽が、ジャズやファンクといった音楽に対する憧憬から発生し、その発生途中で奇形的に完成してしまったことがありありと見て取れたことだ。





 ソニー・ロリンズの、あるいはジェイムズ・ブラウンの奇形としてのジェイムズ・チャンス。彼の汗だくになりながらも、絶対にジャケットを脱ごうとしないその態度さえもなんだか感動的なのであり、また、彼の意思を汲みとってくれるバンドのメンバーの働きも「ジェイムズ・チャンスと言う男は幸せモノなのであろうか」と思ってしまい感動するのだった。もし私が神様だったなら(どんな仮定だ……)ジェイムズ・チャンスという男の意思を完全に汲みとることができるビッグバンドを彼のために結成してあげたい。おそらくそこで生まれる音楽は、世界で最も奇怪でカッコ良い音楽になるだろう。





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阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』

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インディヴィジュアル・プロジェクション (新潮文庫)
阿部 和重
新潮社
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 新作『ピストルズ』が各所で話題になっているが、あれだけ長そうな小説を読む気力が湧かなかったため、ブックオフで100円で回収した旧作『インディヴィジュアル・プロジェクション』を。最初「個人的になんかやって、投企したりする実存小説なのか?」とタイトルから連想したが、途中でロリコンがでてきたあたりから「もしかして作者の個人的な趣味が、このロリコンに投影されてるってことじゃねぇよなぁ?」と不安になりつつ読んだ。全体を通しての読後感を言えば「カッコ良い小説だなぁ……」という一言で、阿部和重という作家は顔もカッコ良い風だし、こういうカッコ良い小説が書けてズルい!





 しかし、発表されたのは97年ってことで、13年も前の小説なんだなぁ。主な舞台は渋谷となっており、渋谷の風俗・文化なども描かれているのだが、この小説に描かれた渋谷にあんまりリアリティを感じないのであった。たとえば、中高生がオッサン相手の売春クラブで働いて、ドラッグ・パーティをやるくだりなんか、全然今っぽくない感じがする。いや、そういうのはもしかしたらあるのかもしれないけれど、なんか流行りじゃないよなぁ。秋葉原近くの汚いアパートに数人の若者が集まって全員無言でツイッターをやってる風景とかが「今(なう!)」っぽい。その当時の渋谷を知らないからなんとも言えないのだが、日常的に暴力が溢れている風景、というのは今は『闇金ウシジマくん』のなかにしかなくて、それすらも劇画的なリアリティのなかにしかないような、そんな気がした。





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ライナルド・ペルジーニ『哲学的建築 理想都市と記憶劇場』

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哲学的建築―理想都市と記憶劇場
ライナルド ペルジーニ
ありな書房
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 著者、ライナルド・ペルジーニは1950年ローマ生まれの建築史・思想史家。図像解釈学的な建築研究を試みており、建築の構造から時代の精神を分析しようと言う研究をおこなっているそうである。本書『哲学的建築』でのペルジーニの試みは、建築という概念が認識の概念と分離不可能な時代において建築家は、哲学者でもあった、という観点から「哲学者-建築家」の系譜を描こうとするものだ。その「哲学者-建築家」の原始には、ヘルメス・トリスメギストスがいる。彼が築いたとされる理想都市はアドセンティンは、プラトンの『国家』における理想国家とも統合され、さまざまな変奏を生み出していった……というのがプロローグとなっている。そののちに取り上げられる「哲学者-建築家」は以下の通り。



理想都市国家:トンマーゾ・カンパネッラ


薔薇十字運動:ヨーハン・ヴァレンティン・アンドレーエ


記憶術的建築:ジョルダーノ・ブルーノ


記憶劇場の理念:ジュリオ・カミッロ・デルミーニオ


霊的機構と神殿概念:ロバート・フラッド


驚異としての古代都市:アタナシウス・キルヒャー



 当初のなかで紹介されている順番に並べたが、これらは歴史上に登場した順番になっているわけではない。生年順に並べ替えると……



カミッロ(1480年ごろ)


ブルーノ(1548年)


カンパネッラ(1568年)


フラッド(1574年)


アンドレーエ(1588年)


キルヒャー(1601年)



 という風になる。





f:id:Geheimagent:20100518193428j:image:left


 本書のなかで目を引いたのは、カミッロの「記憶劇場」についての記述である(左:カミッロの『記憶劇場』についての有名な図版)。フランセス・イェイツが言うところによれば、これは「古代記憶術」の結晶的な建造物だった。通常の劇場であれば、観客が座って舞台を眺めるであろうところには、同心円上に秩序体系化された知識が配置され「宇宙」を形成する。利用者は、舞台上にたち、それを照応することによって、さまざまな知識を思い浮かべることができる。この構想に触れると「記憶劇場」がまるで未来からきた夢の道具のようなもののように思われ驚いてしまうが、16世紀にカミッロがこの構想を発表した当時のインパクトは今以上だった。これは言わば(実現されなかった)16世紀理想建築・理想都市計画のマスターピースだったのだ。その後の「哲学者-建築家」は、皆カミッロの影響下にあった、と言う風に本書では言われている。





f:id:Geheimagent:20100518195238j:image:left


 しかし、建築の構造のなかに、世界の構造や知識体系を埋め込む、というアイデアのスゴさには圧倒される。本書でカミッロ以降に紹介されている「哲学者-建築家」のページに載せられた図版は、興味深いものが多く、それだけで愉しくなってくる。左はロバート・フラッドによる「音楽神殿」という作品。フラッドという人も、ルネサンス的というか、医学・錬金術・博物誌など多彩な仕事をした人らしいのだが、この「音楽神殿」構想も『両宇宙誌』(つまりミクロコスモスとマクロコスモスのふたつの宇宙について記した本)に載せられている。柱など、建物の作りからピュタゴラス的な調和(ハーモニー)に従って構成され、いたるところに音楽記号などが装飾として描かれている。この建物のすべてを詳細に分析することによって、誰もが「学問において知得したことによって優れた教師」になれる!! とフラッドは力説していた。





 いやはや……なんとも……と頭が下がる気がするが、著者ペルジーニはこういった「哲学的建築」を喚起することが、現代において極めて重要なのだ!! としている。彼にとって現代の建築というジャンルは「〈高度に知識化されたテクノクラート〉という特殊な階級に限定された占有物として奉仕」しているように見える。昔はもっと感性に訴える「知的な衝撃力と心理的なコミュニケーションの直截性」が建築のなかに溶け込んでいたのだ!! と。「おっ、てめぇさしずめインテリだな!」と言いたくなるような考えだが、たしかに、これらの建築の知的な衝撃力はすさまじい。





f:id:Geheimagent:20090212054733j:image:left 個人的にもっともツボだったのはキルヒャーが考えた「もしもバベルの塔が完成したら」の図(左)。キルヒャーと言う人は、「遅れてきたルネサンス人」などとも評される17世紀の修道士。彼は、この時期のヨーロッパにおける最も権威ある知識人とされていたのだが、晩年はバベルの塔やノアの方舟といった神話的な「驚異の建築」をマジメに分析し続けていたそうである。このバベルの塔の図もその成果のひとつだった。図の奥には、横向きにバベルの塔と地球の図が書かれているが、これは「バベルの塔は地球よりも重いから、完成したらその重みで90度傾いて倒れちゃうよ」の図である。これによって、地球は宇宙の中心から外れ、そもそもバベルの塔が作り出す影によって気候にも影響がでただろう……とキルヒャーは言った。すごい説得力だ!!!





 ……とアホウのように大喜びして終わるのではなく、彼がおこなった古代の建築や都市についてのこうした分析に、16~17世紀の人文的な知が含まれていることにも留意したい。古代エジプトの都市構造のなかに、彼は新プラトン学派的な、ヘルメス主義的な知を見出し、ルネサンス期の「哲学的建築」と接続することで、それらを再統合したのだった。キルヒャーのこの仕事は感動的な仕事だと思う。





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集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#7 サバト『英雄たちと墓』

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英雄たちと墓 (ラテンアメリカの文学 (7))
サバト
集英社
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 集英社「ラテンアメリカの文学」第7巻はエルネスト・サバトの『英雄たちと墓』。彼は1911年生まれでまだ存命中の作家なんだけれど、その長い生涯において長編小説をまだ三作しか発表していない大変寡作の人である。ただ、評論や批評、エッセイなどは数多くあり、著作が少ないわけではない。そのなかにはアルゼンチンタンゴに関する著作もあるそうだ。『英雄たちと墓』のなかでも、タンゴに関する評論めいた部分が挿入され、そこではアストル・ピアソラについても言及される。これは小説の舞台となっている1950年代のアルゼンチンにおける「一般的なピアソラ受容の反映」のようにも読め、興味深かった。ちなみに、ピアソラが書き残した楽曲には「『英雄たちと墓』へのイントロダクション(Introduccion A Heroes Y Tumbas )」というものがある。この楽曲から感じるじっとりとダークな雰囲気は、この小説の雰囲気に似ているかもしれない。






D





 ストーリーは、大きく三つの部分に分かれている。まずは、気弱な青年、マルティンの話。彼はある日偶然に出会った少女、アレハンドラに恋をし、彼女の影を追い求める。小説においてアレハンドラは「謎の女」である。ある時は大変大人びた女性にも見え、ある時は無垢な少女にもなる。男を誘う手口も巧であり、小悪魔系というか、典型的なコケットリーだ。そして同時に、彼女のなかには狂気が宿っている。それは彼女が生まれたオルモス:アセベド家の血のようなものであり、小説の核心となる謎のひとつとなる。で、この少女にマルティンが翻弄され、煩悶するのが第一部だ。この煩悶ぶりが素晴らしい。アレハンドラに振られそうになっているときの彼の不安の表現と行動が、私にはすごく理解できた。マルティンは「望まれずに生まれてきた子ども」と言い聞かされ、母親にほぼ無視されて育った青年である。その彼が初めて異性から受ける承認が、アレハンドラからなのであり、それを失おうとするときの絶望感がすごく良かった。そこから立ち直っていく彼の姿は後々描かれていく。そういうところは、この小説が教養小説としても読めることを示している。





 第二部は、アレハンドラの父、フェルナンドが書き残した『闇に関する報告書』という怪文書の挿入となる。この文書については、あらかじめ「パラノイアによって書かれた文書」ということが明らかにされている。これがまるでシュールレアリスム版『競売ナンバー49の叫び』のような感じで、恐ろしかった。ざっくり言うと「盲人たちが生活していけるのには、きっと盲人たちの秘密結社の存在があるに違いない。そしてその秘密結社に世界は牛耳られているのだ! フェルナンドはその謎を負う!!」という風になるが、ドロドロとしたイメージの氾濫がスゴい。





 


f:id:Geheimagent:20100516160442j:image:left(左:サバトのポートレイト。渋いオッサンである)第三部では、フェルナンドの友人であり、第一部でマルティンの話を聞く役を与えられていたブルーノという作家が主な語り手となる。彼が、フェルナンドが読者に与えていった大きすぎる謎を説明しようしている……ように思われるのだが、一向に謎は謎のまま、そこにマルティンの成長や、オルモス:アセベド家の狂気の歴史の原点となった19世紀の戦争のエピソードが挿入され、ストーリーが錯綜する。最後は、マルティンの出立が描かれている。これは「俺たちの戦いはまだ始まったばかりだぜ!」的というか、カフカの『アメリカ』的というか「なんとなく終わってしまった風」のような気もする。全体的なところをまとめておくと「人はなにかが欠落しており、そのなにかを求めてさまよい続ける」っていうのがテーマなのだろうか。こう解釈すると(私のあまり好きでない)実存小説のようでもある。




 「ボルヘスのブエノスアイレスは彼のニネベやバビロニア同様非現実的なものである。サバトのそれは逆にドストエフスキーのペテルブルグのように心底現実的である」――以上は、『英雄たちと墓』が発表された当初に寄せられた賛辞のひとつ。個人的には現実的な部分と幻想的(悪夢的)な部分が重層的に積み重なっているため、単純にボルヘスと対比することはできない、と思う。世代的に言うとサバトはボルヘスの一つ下の世代に位置する。そしてムヒカ=ライネス*1とは同世代だ。ムヒカ=ライネスがボルヘスの直系に位置するように感じられたが、サバトはボルヘスの批判的継承者という感じがした。前述のタンゴについての記述、当時の政治的な潮流、酒場で繰り広げられる男っぽい会話なども興味深く読める。





 あと小説の「まえがき」の部分がとても良かった。



信念が揺らいだとき、それはいつものことではあるが、わたしを終始励ましてくれた女性にこの小説を捧げる。彼女がいなければこの作品を完結する力は得られなかったに違いない。むろん、彼女はもっと価値のあるものを受けるに相応しい人ではあるが、この作品をその不完全さをも合わせて、彼女に捧げる。



 これは、いつか使う。






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読売日本交響楽団 第493回定期演奏会 @サントリーホール

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曲目


ショスタコーヴィチ/交響曲第7番《レニングラード》


指揮


ユーリ・テミルカーノフ



 今年度の読響サントリー定期2発目。ショスターコヴィチは、かつてたくさん聴いた作曲家で《レニングラード》も愛聴した曲である。しかし、テミルカーノフの演奏は聴いたことがなかったし、さらに言うと「どんな演奏をするだろう?」という興味もあまりわかなかった。





 そもそも今日に「テミルカーノフが積極的に好き」という人はどれぐらい存在しているだろうか? ムラヴィンスキーの後釜として、レニングラード・フィルの音楽監督に就任した瞬間(1988年)、というのがこの指揮者が注目されたピークの時期ではなかろうか。キャリア的にも、ポスト的にも現代ロシアを代表する指揮者にも関わらず、すっかりゲルギエフの影に隠れてしまっている気がする。喩えるなら「かつては巨人の四番を打つスター選手だったが、全盛期は過ぎ今はパ・リーグの下位球団で微妙に活躍したりしなかったりしている(年俸は8000万)」みたいな感じ。





 私のなかでさんざんなイメージになっているテミルカーノフだが、今日はなかなか聞かせてくれた。興味があまりなかった分、儲けたような気分になり嬉しい。オーケストラも気合充分で(特にヴァイオリンの音圧が良かった)、楽想が変化した後の立ち上がりなどで演奏がやや乱れた箇所がいくつかあったが「オーケストラが情熱的になりすぎた結果」と好意的に解釈できる。





 テミルカーノフの指揮は、歌い込むような箇所でテンポを少しずつ落としていくところが目立ち「もしかして濃厚・爆演系になるのか?」と思ったが、最後まで品性が保たれる。走らない、吠えない。しかし、予想通りにはいかない感じである。「ここはテンポを落として次に入るのかな……」という予測に乗ってくれたり、はぐらかされたりする。が、最終的には「これがおそらく現代のショスターコヴィチの理想型の一つなのだろう」という納得がいく。


 


 それは悲壮や諧謔、皮肉や思想を削ぎ落としたショスターコヴィチの姿である。「あえて」や「わざと」や「実は」といった言葉のなかに本意が隠されていない(隠されていたモノを見つけだすのではなく、そもそも隠されていない。謎解きがない)、といった状態をテミルカーノフは描き出しているように思われる。脱構築的? よくわかんないけど、なんか異様にアポロン的に響いて聴こえるショスタコーヴィチであった。





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クァルテット・エクセルシオ ~フランスの薫り @紀尾井ホール

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曲目


ドビュッシー/弦楽四重奏曲 ト短調 Op.10


デュティユー/弦楽四重奏曲《夜はかくの如し》


ラヴェル/弦楽四重奏曲 ヘ長調



 特に感想などなし。





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尹雄大『FLOW――韓氏意拳の哲学』

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 『FLOW――韓氏意拳の哲学』は韓氏意拳という「武学」を標榜する武道について書かれたものだ。韓氏意拳は、型を持たない。型をもつ武道においては、型を反復することによって、修練が深まっていく。韓氏意拳がそれを持たないということは、理論的に構築された、反復可能な技術習得の体系を持たない、ということを意味するだろう。だが、単に体系を拒むわけではなく、韓氏意拳は「終りがなく絶えず書き加えられ、更新される体系」を持とうとした。型を捨てることによって、型から削ぎ落とされてしまうものを救おうとした(それによって人間の身体の最大限の力をありのままに活用しようとする)。




 このような記述を読んで、私はアドルノの否定弁証法を思い出す。アドルノが目指した否定弁証法とはまさに「終りがなく絶えず書き加えられ、更新される体系」ではなかっただろうか、と。『否定弁証法講義』*1のなかで語った「非概念的なものを取り込むというよりもむしろ、非概念的なものを非概念的なあり方で把握すること」という言葉はあまりにも韓氏意拳の目指すところと似ている。著者がタイトルにつけた「FLOW」という言葉もまた、アドルノが繰り返す「浮動的なもの」という言葉とつながっている。アドルノが「浮動的なもの」という言葉で指し示したものは、ほとんど「型から削ぎ落とされてしまうもの」と同じものを示しているように思われる。



否定弁証法講義
否定弁証法講義
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アドルノ
作品社
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 韓氏意拳は記述できないもの、体系化できないものを、そのまま記述できないもの、体系化できないものとしておき、非体系的な体系を、師範と弟子とのあいだに生まれるミメーシスによってのみ伝えているように思われる。だが、傍からみればこのコミュニケーションは記述することも、記述されることも拒むようなものに見えてもおかしくない。





 この本の恐ろしさは、このような韓氏意拳について、神秘主義に陥ることなく記述を行えてしまっていることだ。そこでは意拳の体系と自我論・存在論・時間論といった哲学的な思考の断片が接続される。読んでいると副題の「韓氏意拳の哲学」が「韓氏意拳を媒体として哲学を記述する」といった方が適切なのではないか、とさえ思われてくるほどだ。意拳と哲学的な思考が接続され続けていくことで、断定を避けつつ、記述していくことが可能となる。実は、このような記述のスタイルは、アドルノの批評と同じ方法論でもある(布置連関)。これが見事に成功しているように思われたのが、私には驚きだった。





 武道などの身体性を通して、理性によっては捉えるきることができない知を捉えることについて、近年ずっと高い関心が保たれているように思う。『FLOW』はそういった試みから生まれてきた珠玉の一冊だ。哲学書としても、魅力的な武道を紹介する本としても価値がある。






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鷲見洋一『『百科全書』と世界図絵』

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『百科全書』と世界図絵
鷲見 洋一
岩波書店
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 著者の鷲見洋一は慶應大学名誉教授(現在は中部大学に籍をおく)で『百科全書』をはじめとした18世紀フランス文化史が専門の先生。当書はタイトルにあるとおり『百科全書』を中心とした論文を集めたものだが、論文の合間合間にくだけた文体で綴られるエッセイが挿入されるなど面白い作りになっている。著者のこれまでの仕事の全貌を一冊の本にコンパイルした、とでも言うのだろうか。「フランス文学とかいうと『百科全書派』は全然人気がない。ブランショをパクってサドを語る教授の講義は大人気なのに!」というグチなどが読めたりして楽しい。





 しかし、感動的な本である。著者は、ギリシャ時代から18世紀の『百科全書』までの「蒐集と分類」を振り返りつつ、こういった一連の試みを「世界図絵を体得する行為」と説く。もともと世界図絵とは、チェコの教育学者/宗教家であったコメニウスが発表した世界初の子供向け図鑑のタイトルだが、ここでは「さまざまな知識が身体知として体得され、ひとつの世界を形成した状態」のメタファーとして用いられている(ように思われる。この用語の説明が省かれている。いきなり『世界図絵』という言葉をマジック・ワードのように連発するのは、この本の唯一の減点対象だ)。古代記憶術、プリニウス、ゲスナー、『百科全書』。これらが目指す世界図絵は、あまりにも大きく、それゆえ不毛なものに思われがちだ。





 だが、著者はその不毛さに価値を見出す。「小さなものの巨大な蓄積は、それがとりあえず何かの役に立つかどうかという、社会的、功利主義的な問いとは無関係に、否応なくひとつの確固たる世界を成立させてしまう」のである。なにかのためにその行為が行われているのではないけれど、世界が成立してしまう。その世界の成立には、なんの意味がなくとも感動的なものがある。ここにひとつの価値観の提示がある。別な例を出すならば、シャルル・フーリエの革命的新世界構想が適当だろうか。これを狂った学者の夢想と片付けてしまうのは簡単だ。だが、彼が構築するユートピア的な世界には驚きがある。私などはこの驚嘆すべき世界の構築にある種のロマンティシズムを感じてしまう。





 このような価値を提示した後に、著者は『百科全書』が世界図絵の系譜においておこなった革新について触れていく。真理が教会とソルボンヌ大学神学部によって独占管理されていた時代に、在野から別な知の体系を作り出す、というこの試み自体ものすごいプロジェクトである。ディドロは人文的な知のみではなく、組合によって独占されてきた技術的な知を蒐集し、公開し、流通させるという意図も持っていた(これは現代において、グーグル的なものと類比されるだろう)。結果的にこのプロジェクトは「本文」17巻、「図版」11巻、「補遺と索引」7巻、全35巻の膨大な本になった。





 残された18世紀の「世界図絵」を我々はどう扱えば良いのか。「記念碑的なプロジェクト」として大事にあがめておけば良いのか。そうではないだろう、と著者は言う。その膨大な量を相手に格闘することを彼は宣言する。そしてこの格闘のひとつとして、2008年から4年間で「『百科全書』の初期の巻三冊についての『簡易メタデータ』と『詳細メタデータ』とをそれぞれ抽出して、データベースを作成する」というプロジェクトが紹介されている。データの抽出はすべて人力。私はこういうプロジェクトが現在進行中である事実を知ってものすごく驚いてしまった。これを感動的な「世界図絵の体得」といわずして、ほかになにがあげられよう。3800円とちょっと高価な部類に入るが、『ミクロコスモス』的な初期近代精神史と関連する部分も多々あり読んで良かった、と思わせられる本だった。図像も豊富で目にも愉しい。





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Matthew Herbert/ONE ONE

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One One
One One
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Matthew Herbert
Accidental (2010-04-12)
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 プリセット音源は使用しない、他人の曲はサンプリングしない、などの自分ルールを設定して音楽を制作する男、マシュー・ハーバートの新譜を聴く。この人もいろんな名義を使って作品の発表をおこなっているが、今回は本名名義である。なんでも今回は「全部ひとりでできるもん」三部作とも呼べるプロジェクトで、その第一弾である『ONE ONE』は、歌も全部ひとりで歌ったよ! というアルバム。この人の歌声を意識して聴いたことはなかったけれども、柔らかくいい塩梅な声質で良かった。ヘタウマ系というか。全体的に内省的な雰囲気のアルバムで、どこかサヴァス・イ・サヴァラスを彷彿とさせるのだった。



D





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松本零士『クイーンエメラルダス』

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新装完全版 クイーンエメラルダス(1) (講談社漫画文庫)
松本 零士
講談社
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新装完全版 クイーンエメラルダス(2) (講談社漫画文庫)
松本 零士
講談社
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 この漫画を読み、松本零士が「ロマンSF漫画の大家」であったことを知る。「やたらめったら自作がらみの訴訟を起こす人」というだけではなかったのだ。物語は自作の宇宙船で宇宙の旅にでようとする少年と、宇宙最強の船「クイーンエメラルダス」に乗る謎の女、エメラルダスとの出会いから始まる。エメラルダスの旅の目的は誰も知らない。少年が宇宙を目指す理由も、とりあえず伏せられたままだ。少年の旅は行き当たりばったりのようにも見える。いわば「でも、やるんだよ」の精神しかない。そこにエメラルダスは共感を覚え、少年の手助けをしようとする。『銀河鉄道999』におけるメーテルは、鉄郎にとって「究極の母性」であったが、ここでのエメラルダスは「よき理解者」であり、ある種「究極の恋人」として描かれているように思われる。





 しかし、物語のなかで最も素晴らしいのは、そこで描かれた各種の挫折である。少年が旅を続けるなかで、さまざまな挫折した人々(少年のように旅をすることができなかった人々)と出会うことになる。それらは皆、男性だ。ここに「男は皆大志を抱かなくてはならない」というテーマが見え隠れする。しかしながら、それを実現できるのはごくわずかしかいない。実現できなかった男たちは少年に自分の夢を託したり、生き方を授けたりしようとする。ここにまた別な共感が生まれる。ここがすごく泣ける。とくに「完全な宇宙船」を設計しようとする科学者の少年と、主人公の少年の出会いの場面は熱く美しい。



こんな大研究所なんておれにはオモチャにしか見えないよ


設計図だけの宇宙船なんてただの絵だ


こんなものじゃ宇宙はとべない


宇宙の海はほんものだ あそこにほんとうにあるんだぞ


絵にかいた船ではとぶことはできないよ


だがおれの船はあそこをとべるぞ ちがうかラメール?






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アリストテレス『ニコマコス倫理学』(下)

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ニコマコス倫理学 下    岩波文庫 青 604-2
アリストテレス
岩波書店
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 アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の下巻を読み終える。上巻についてのエントリはこちら。上下巻あわせて軽くまとめておくと「人間生きるにあたって、どういう生活が幸福かって、観照的な活動を続けることなんっすよぉぉ!!」という結論部にいたるまでに、アリストテレスがいろいろ考察する、そういう本です。





 下巻は「抑制ってどういうことなんすかね。悪い抑制だってあるわけじゃん。好ましい行為を抑制してたら、それよくないじゃん?」とかいう話からはじまり、快楽だの愛だのについても話をすすめていく。難しいことは一切言っていなくて、普通の人っぽいことをたくさん言ってるのが面白い。「友達はいたほうがいいぞ。でもいっぱいいすぎてもダメな。ちょうどいいぐらいの人数ってあるだろ?」とか「やっぱ、見た目って重要だよな。人って大体見た目から入っていくわけじゃんか。見た目がダメだと恋愛もはじまんねーって」とか、そういうホントに普通のことを言っている。こういう記述に触れると「常識って昔から変わらないんだなー」と感心してしまう。アリストテレスなんか紀元前三百年代の人だ。今から二三〇〇年ぐらい前。そういう人の話が、今なお普通の話として通用することがある意味で奇蹟的なように思われて、ちょっと感動的ですよ。





 ただ、アリストテレスの幸福観っつーのも、なかなか世知辛いものである。また超乱暴にまとめると「幸福っつーのは、状態じゃないんだよ。もし状態だったとしたら、その人が寝ててなんもしなくても幸福が続くってことだろ? そうじゃないじゃん。人が『俺今幸せだなー』って実感することって、なんか行為をやったときじゃんか。たとえば、美味しいもの食べたりとかさぁ。でも、そういう幸福な感じってすぐ消えちゃうだろ? それはさ、幸福が『活動』に伴うものだからなんだよ。永続的な『状態』として幸福が訪れるわけじゃないんだよ。だからさ、頑張れ。中庸で、死ぬまで頑張れ」とかそんな感じになる。死ぬまで頑張るって超しんどいよねー。人生にアガりはない。そういうことじゃんか。





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アントニオ猪木『風車の如く アントニオ猪木の人生相談』

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風車の如く アントニオ猪木の人生相談
アントニオ 猪木
集英社
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 GWに何をするかといえば、音楽を聴いたり、本を読んだり、駅前にある美味しそうなパン屋で買ってきたバゲットを焼きもせずかぶりついてよく噛んで食べたり……とひどく地味に生活している。あと近所の散歩をして自分が住んでいるところがいかに傾斜の多い土地か、というのを実感したりした。あと美容室にも行った(この休みの間に結納をやらなくてはいけない。中途半端な髪型では向こうのお父さんに怒られてしまう)。そんで美容室でパーマをかけ直したりした。私の髪は美容師が驚くほど強く、パーマがかかりにくい。人の二倍ぐらい時間がかかるそうである。その間は、暇なのでたくさん雑誌を読む。普段は読まない雑誌をたくさん。『Smart』、『CHOKiCHOKi』などファッション雑誌も(世の中にはいろんなファッションがあり、勉強になった)。





 『BRUTUS』も読んだ。「真似のできない仕事術」特集。インタビューに登場していたのは、読んだことないけどいけすかない漫画家や、知らないし興味もないデザイナーたち。そのなかにはアントニオ猪木が紛れていた。元プロレスラーであり元参議院議員である彼が過去に取り組んだバイオ・エタノール事業やら、かなり前から取り組んでいる電力事業の話など。内容はあまり憶えていないのだが、それで彼が出していた人生相談本が積ん読の山に入っていたことを思い出して読み始めた。昔『プレイボーイ』誌で連載していたものをまとめた単行本だ。なにか相談したいようなことが自分のなかにあったわけではない。アントニオ猪木の言説、というものに触れたくなったのである。





 私が初めて彼の試合を観たのは98年の引退試合だったと思う(テレビ観戦だったが)。おそらくは小川直也とおこなう目論見であったはずの彼の引退試合はドン・フライが相手で、最後は猪木がグランド・コブラツイストで勝った。なんかそのときから、猪木という人間に対して興味を抱き続けている気がする。98年だから12年前。12年前というと、13歳か。書いていて気がついたけれど、人生の半分ぐらい猪木に興味を持ち続けている……。彼が猪木寛至名義で執筆した『アントニオ猪木自伝』も読んだ。





 この人生相談本を読み進めるなかで考えていたのは、なぜ、自分はここまでこの人に興味をいだいているのだろう? ということだった。そしてそれは、彼が極めて「錬金術師的な人物」だったからではないか、と思う。倍賞美津子にとり憑いた平家の落武者の霊と闘ったり、無限発電機関という得体の知れない素晴らしいものに投資をおこなったり、彼の経歴にはカルダーノと比べても遜色のない多彩なエピソードが並べられている。スウェーデンボルグみたいでもある。私的には、順番は逆でアントニオ猪木が先で、カルダーノやスウェーデンボルグがあとだ。こういう「普通の人とは違った論理で動いていそうな人」に自分は惹かれてきたのだろう。





 しかし、そういう「違った論理で動いていそうな人」が、自分の元に寄せられてくる相談に、どのように答えているかといえば、結構普通なことしか言っていない。だが、そこがまた面白かったりする。帰結は常識的なのだが、やはりそこまでに至る道筋がちょっと違う。それがある種のご託宣めいた雰囲気を醸し出しているのだろうか。はたから見れば、神秘と常識とが奇妙に同居しているように思えるのだが、それもまた中世の錬金術師に通ずるものがなくはない。感動的なほどの名言も数多くあり、これはとても面白い本だった。



子宮に「育ちがいい、悪い」なんて話、聞いたことねぇもん


(『育ちがいい彼女はフェラチオしてくれません』という相談に対して)



 最高だ。



D





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James Chance & The Contortions/Buy

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バイ(紙ジャケット仕様)
ザ・コントーションズ
Pヴァイン・レコード (2009-11-18)
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 五月に来日するコントーションズのライヴを観に行く予定である。一緒にいく会社の上司に取っていただいたチケットを確認したら整理番号が2番だった。「どんだけ前のめりでチケット確保したんですか!」とツッコミたくなったが、時間通りに会場につければかなりいい位置で(57歳の)ジェイムズ・チャンスが拝めるはずだ。それが楽しみになってきたので、GWに突入してからは、コントーションズのアルバムを聴き返したりしている。聴くのは久しぶりだったけれど、演奏はやっぱりヒドくて最高だ、と思った。これが商業的なラインにのっていいものなのか、と疑いたくなる最低レベルの演奏だと思う。





 20歳になってすぐぐらいに初めてジェイムズ・チャンスのサックスを聴いたときは「なんて衝動的な音なんだ! すげーロック!」とか感銘を受けたものだが、今聴くと衝動的というか、なんだか呪術的に聴こえてくる。チューニングという概念を感じさせない演奏だ。スライド・ギターから発生しているノイズとの相乗効果で、なんか変な芋虫とか食ってそうなアフリカの奥地の民族音楽を聴いているかのような錯覚さえしてくる。ヴォーカルは基本的にがなっているだけだし。すっげー野蛮。この野蛮さは「リズムがあって、なんか音が鳴っていれば音楽」という音楽の成り立ちみたいなものを強く意識させるものだ。そしてこれは、いろんなものが過剰なのだが、実にシンプルな音楽なのだと思う。





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