ヘルムート・ラッヘンマン《Reigen seliger Geister》の解説

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Helmut Lachenmann: Grido; Reigen seliger Geister; Gran Torso

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 昨日*1の続き。サクサク進めてしまったが、《Reigen seliger Geister》は、後半の段落がよくわからずかなり適当に訳した。なんか批判理論っぽい話。



《Reigen seliger Geister》

 《Reigen seliger Geister(祝福された魂の輪舞)》は、空気で音を鳴らす、あるいは音を空気で鳴らす、といった知覚のゲームです。私は冒険的な最初の弦楽四重奏曲《Gran Torso》は楽器の演奏という領空を侵犯するような作品――この領空侵犯は長い年月をかけて、最近でも他の作曲家によって行われ続けています――を書いた後、ファサード*2としての、あるいは名目としての「書かれたもの」という音程の布置連関に注目しました。音程といったものは、自然な音階や、アーティキュレーション、音の減衰とう風に理解されています。しかし、音楽の急激に全休止すること、または弦の振動を止めてしまうこと(例えば、弓がponticello*3とtasto*4の間で変化させることによって音の内容には変化が生まれます)といった試みにより、私は「死んでしまった」調性構造を打破し、生にたいする客観性をもたらすような経験を導きたかったのです。


 このような行動の領域は、劇的であったり、変化をもたらすようなものであったり、逆に忘れられてしまったような様々な演奏技術によって決定されます。ピアニッシモとフォルティッシモの間には様々な中間的な価値ともよべるものが抑圧されているのです。外見的には、音階のない音のなかで、弓弾きが突然なくなったり、突然現れたりします――それまでピッツィカートを連続して弾いていても、状態は長続きせずコロコロと変わっていきます。もしかしたら、あなたは裸の王様に弁明するような気分になるかもしれません。





※ 《Reigen seliger Geister》はアルディッティ弦楽四重奏団への献呈作品。Festival d'Automne(パリの音楽祭)と、Foundation "Total" pour la Musiqueの委嘱作品。1989年6月4日、Genfにてアルディッティ弦楽四重奏団により世界初演が行われた。




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 これもYoutubeにある。ラッヘンマンの弦楽四重奏曲全集がYoutubeに集まってるなんて……。




*1ヘルムート・ラッヘンマン《グラン・トルソ》の解説 - 「石版!」


*2:音楽の概観、見かけを暗喩しているかと思われる


*3:駒の上で弾く奏法


*4:指板の上で弾く奏法





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ヘルムート・ラッヘンマン《グラン・トルソ》の解説

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Helmut Lachenmann: Grido; Reigen seliger Geister; Gran Torso

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 《Grido》に続いて*1、ラッヘンマンが最初に書いた弦楽四重奏曲《Gran Torso》の作曲家自身による解説を日本語に訳した。ブックレットは《Grido》、《Reigen seliger Geister》、《Gran Torso》の順になっているのだが、順番を間違えて訳してしまっていた。



《Gran Torso》


 《Gran Torso》は1971年から1972年にかけて作曲され、そののち1978年に改訂版が出されています。その間、《Air》、《Kontrakadenz》、《Pression》そして《Klangshatten》といった作品において、私は一連の伝統からの脱却を目指して「素材の概念化」の模索を行っていました。そこでは、その作品自体を聞かせるというよりも、技巧や楽器の構造、あるいは演奏者の能力のなかから、新しい音の創造をおこない、それらの構造的かつ形式的な階層関係を導くことが目指されていました。そのような「脱却の試み」が単純に成功した、といえないことは明らかです――それらは、予定調和的に伝統が具体化している「楽器自体が持つ音」に反抗を試んでいたわけですが。特殊技法はその反抗的な行為に含まれたとても大きな矛盾の氷山の一角に過ぎません。なにしろ、演奏家自身は反抗の対象となるブルジョワ的な芸術家なのですから。しかし、そのような議論の背景では、同時に、従来的な美への異議申し立てがおこなわれているのです。もしあなたがそのような美を望んでいるならば、このような作品で満足することはできないでしょう。この「トルソ」と呼ばれる作品が、構造的な領域において、明確に新たな音楽の次元を切り開く意味合いを含んでいる、という言い切れる理由はそこにあります。あらゆる実際のコンサートで、演奏に関わる現実的な限界を崩壊させる可能性がここにはあるのです――もしかしたらそれはいやいやながら解放されるのかもしれませんが……。《Gran Torso》に含まれた意味はそのようなものです。





※ 《Gran Torso》は、Italo GomezとSocieta Cameristica Italianaに献呈された。ブレーメン放送局の委嘱作品。世界初演は1972年6月5日、ブレーメンでSocieta Cameristica Italianaによる(改訂版は1978年4月23日にベルン弦楽四重奏団によって初演)。



 《Reigen seliger Geister》についてはまた今度。それを訳したらMartin Kalteneckerによる楽曲解説も訳す予定です(これが結構長いので、やる気次第)。



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 《Gran Torso》の音源はこちら。Youtube、なんでもあるな……。






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ヘルムート・ラッヘンマン《グリド》の解説

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Helmut Lachenmann: Grido; Reigen seliger Geister; Gran Torso

Kairos (2008-01-14)
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 「KAIROS」レーベルから発売されているヘルムート・ラッヘンマンの弦楽四重奏曲集についてきたブックレットには作曲家自身による曲目解説が収録されている。これを日本語にしてみた(原文はドイツ語。英語訳からの重訳)。「くだらねー批評みたいなモノを書き連ねてもちっとも人様の役にたたねぇよ! ちょっとはインターネットを人の役に立つように使え!」という山形浩生氏の考えに共鳴して、こんなことをやってみている次第である。ホントは前からやりたかったんだけど、まぁ、やる気がなかなかね……(権利関係? そんなの問題が起ってから考えれば良いじゃん!)。当方、中学生以下の英語力ですが、今回のはそこそこ日本語訳っぽくなっていると思う。



《Grido》


 作曲することとは、私にとって、「ある問題を解決すること」と一概にはいえません。そこにはある種のジレンマとの格闘があります。それはトラウマのようなものなのですが、一方で快楽を伴うものでもあるのです。というのは、作曲に関する技術的な挑戦に直面するということが(それは自然と気がついたり、自らその挑戦を選択していたりするわけですが)、それ自体、ある問題解決を運んでくるものと関係しているのです。このような状況は、私にとって、新しいものではありません。そして、私はその挑戦に失敗したときでさえ、本当の意味で発見をおこなうといった経験を持つことがあるのです。私は音というものを謎を含んだものだと捉えています。別な言い方をすれば、それらはすべてが「問題」であり、「トラウマをともなったジレンマ」なのです。本当の音楽とはそういった概念的な疑問を具体化したものなのです。しかし、この本当の音楽、という概念は疑問を残すものでしょう。なぜなら、今日において音楽はあらゆるところに偏在しており、いついかなるときでも手に入れられるものとなっているのですから。音楽は我々の市民社会に洪水のように溢れており(それは音楽消費者の魔法です)、それが普通になっていて、むしろ何の意味もなくなっているのです。この疑問が浮かぶ状況というのは、問題を隠蔽するものであり、集合的な真実を抑圧するものです。外側に見えるものは我々を抑圧するもので――それらはもはや真実を与えてくれません――内部にのみ我々の鋭敏な魂にとっての自由な空間が残されている、といえましょう。そして、その隠蔽された状況を覆すことが現代音楽の目的なのでしょう。

 私の弦楽四重奏曲第3番はこのとても難しい環境下から生まれた状況に対して応えるものです。私は同じ編成でふたつの作品を書いていますが、そこではどちらもこの作品とは違った背景がありました。そのとき私が直面していたのは「作品の統御」というゲームだったのです。《Gran Torso(1972)》と《Reigen Seliger Geister(祝福された魂の輪舞、1989)》というそれらの先行作品は、私の作曲におけるターニング・ポイントとなっています。《Gran Torso》において、私は休符、リズム、音色といった基本的な要素に向かうのではなく、音響制作の具体的なエネルギーといったものを変革することを例にとっています――このコンセプトを私はかつて「楽器によるミュージック・コンクレート」と名づけていました。弦楽四重奏から、私は効果的に16の弦をもった一つの身体を作り上げました。通常の音響、それとは違った音にならない音、呼吸のような音、または過剰に圧力を与えた音を演奏させ、その身体を酷使して具体化したのです。しかし、それは伝統的な演奏方法から、単にその楽器が演奏可能なものとして導き出すことができるひとつのヴァリエーションを表現したものにすぎません。18年後、私は2番目の弦楽四重奏曲を書きました。それが《Reigen...》になります。ここで私は、特殊奏法の開発という単一的な問題に注視し、これらの限界を乗り越えることのみ行っています。例えば「pressureless flautando(圧力をかけないフラウタンド*1)」を使用して、より音の影のような音を出す機能を例にあげることができましょう(音、というよりも音程がさだまらないもやもやとした音響の場合でも同じです。そこでは音程の影のようなものが音やシークエンスをコントロールしています)。それはまさに、刷新といったものであり、様々な面での改革でもありました――はっきり言って、対旋律を変革する、というものとして、でしたが。しかし、実際に、急激なクレッシェンドを使ったボーイングは、録音を逆回転再生したような効果を生み出すことができましたし、ピッチカートによって占められた音風景は、ガチャガチャと音を立てることによってこれまでとは違った音の世界を表現することができたのです。この両方の作品によって私は、弦楽四重奏曲にまとわりついた「トラウマ」を克服できたように思っていました。なぜなら、この2つの作品の中間期には、《Tanzsuite Mit Deutshlandlied(ドイツ民謡に基づく舞踏組曲)》という一種の弦楽四重奏曲とオーケストラのための協奏曲で、私はこの楽器の組み合わせからすでに効果的な作品を作り上げることができていたからです。


 さて、ロビンソン・クルーソーは彼が住んでいた島が開発されていたと信じていたでしょうか? 彼は新しい環境に腰を落ち着け、ブルジョワ的な平穏に満ちた、自立的な生活環境に戻ったでしょうか? それとも彼は自立した環境をもういちどズタズタに引き裂いてしまうべきだったでしょうか? あるいは彼は自分の根城から離れるべきだったでしょうか? 自分が行くべき道を捜し求めている彼にとっての、いまだかつて通ったことのない未踏の地とはなんだったのでしょう? 彼は自分がひとつの完成にいたったという自己欺瞞を破り、そして第3の弦楽四重奏曲を書くでしょう。そのような自己満足的なものは自分自身を騙すことにほかならないからです。芸術における進むべき道とは、どの道も道しるべと言うものがありません。終着点はどこにもないのです――いつかその過程のなかで終着点に近づいていき、いずれたどりつくなどというのはフィクションに過ぎません。我々は光も音もない世界を進まなくてはならないのです。


 《Grido》はイタリア語で「泣き叫ぶ声」を意味します。この作品はアルディッティ弦楽四重奏団の現メンバーである、Graeme、Rohan、Irvine、Dovに献呈されています。また、これはIrvine Ardittiからの「前の2つの弦楽四重奏曲よりももっと音量が大きい曲を書いてほしい」という要求を満たすものでもあります。





※ 《Grido》はメルボルン国際音楽祭、WDR、IRCAM、ザルツブルグ音楽祭、ルツェルン音楽祭による委嘱作品。初演は2001年2月11日にメルボルンにてアルディッティ弦楽四重奏団によって行われた(改訂版は、2002年4月27日。同じくアルディッティ弦楽四重奏団による)。



 自分をロビンソン・クルーソーになぞらえているのが面白い。あんなおっかない顔のロビンソン・クルーソーはいない。《Reigen seliger Geister》、《Gran Torso》についてはまた今度。



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 アルディッティ弦楽四重奏団による《Grido》の演奏映像。音質はあまりよくないが、どんな風に演奏がおこなわれているかが確かめられる。




*1:弓を指板の近くで使う奏法





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4月から6月の注目コンサート情報

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 ふと思い立って、4月から6月の注目コンサート情報をブログに書いてみることにする。ここで「注目」と言っているのは「俺が行く」のと同義であります。結構海外から大物ソリストが来日しているんだけれど、チケットが高いので全部無視!(5月のポゴレリチのリサイタルは聴きに行きたかったな)。それではまず4月から。



2010年4月22日(木) 東京藝術大学奏楽堂


藝大21 創造の杜「ヤニス・クセナキスの音楽」


曲目


《ピソプラクタ》


《イオルコス》(日本初演)


《メタスタシス》


《シルモス》――弦楽合奏のための


《デンマーシャイン》(日本初演)


演奏


ジョルト・ナジ(指揮)/藝大フィルハーモニア


チケットなどの詳細(ぴあ)



 死後9年になるヤニス・クセナキスの特集。デビュー作《メタスタシス》ほか初期作品と、日本初演となる晩年の作品が演奏される。聴き終わったら2キロぐらい体重が減っていそうなヘヴィ級のプログラムだが、演奏するほうはもっと大変か……。2000円でクセナキスを聴きまくれる機会など、あんまりないだろう。初期作品のほうはアルトゥール・タマヨ/ルクセンブルク・フィルの管弦楽作品集(5枚組ボックス)の5枚目に収録されている。予習はそちらで。正直、数学や確率論を使って作曲した……云々という作曲法の理論的側面については、よくわからない(っていうか、どうでも良い)けど、カッコ良いっす。大きな音の群れなかで、細かい音符がウネウネとしているところとか。



Works for Orchestra
Works for Orchestra
posted with amazlet at 10.03.27
Xenakis Orch Phil Du Luxembourg Tamayo
Timpani (2009-11-24)







2010年4月26日(月) サントリーホール


読売日本交響楽団 第492回定期演奏会


曲目


ベートーヴェン/序曲〈コリオラン〉


《マーラー・イヤー・プログラム》


マーラー/交響曲第10番 から“アダージョ”


《3つの〈ペレアスとメリザンド〉》


シェーンベルク/交響詩〈ペレアスとメリザンド〉


指揮


シルヴァン・カンブルラン


チケットなどの詳細(読響公式)



 2010年度の読響サントリー定期の一発目は、スクロヴァチェフスキに代わる読響常任指揮者、カンブルランが登場。カンブルランは2010年度「3つの《ペレアスとメリザンド》」というテーマを設定している。フォーレ、ドビュッシー、シェーンベルクによる《ペレアスとメリザンド》を演奏するみたい。カンブルランってどんな指揮者か全然知らないんだけれども、ラッヘンマンの《マッチ売りの少女》を指揮してたりするのね。現代音楽系が得意なんだろうか。






2010年5月8日(土) 紀尾井ホール


クァルテット・エクセルシオ ~フランスの薫り


曲目


ドビュッシー/弦楽四重奏曲 ト短調 Op.10


デュティユー/弦楽四重奏曲《夜はかくの如し》


ラヴェル/弦楽四重奏曲 ヘ長調


チケットなどの詳細(クァルテット・エクセルシオ公式)



 5月は5回もコンサートの予定が入っているのだが、その1発目。演奏者についてはよく知らないけど、新進気鋭の弦楽四重奏団、ということらしい。ドビュッシーとラヴェルが書いた近代フランスを代表する2大弦楽四重奏曲のなかに、フランス現代音楽界の最長老(94歳)ディティユーの作品がねじ込まれている。ドビュッシーとラヴェルはとても好きな作品だから、生で聴くのが楽しみである。






2010年5月11日(火) サントリーホール


読売日本交響楽団 第493回定期演奏会


曲目


ショスタコーヴィチ/交響曲第7番〈レニングラード〉


指揮


ユーリ・テミルカーノフ


チケットなどの詳細(読響公式)



 テミルカーノフの《レニングラード》。この人って、ムラヴィンスキーの後をついでレニングラード・フィル(現サンクトペテルブルグ・フィル)の音楽監督のポストについてるんだから、一応は「ロシアを代表する指揮者」なのだろうか。イマイチどんな演奏をするかよくわからない。ショスタコの第5番以外が定期演奏会で取り上げられる、っていうのもなんだか普通の感覚で捉えられるようになったのだなぁ、というのがなんだか感慨深い。ポスト・マーラーの座に定着した、という感がある。






2010年5月19日(水) LIQUIDROOM


ジェームズ・チャンス&ザ・コントーションズ


出演


ジェームズ・チャンス&ザ・コントーションズ


FRICTION


SADY&MADY


チケットなどの詳細(ぴあ)



 コントーションズ来日! ジェームズ・チャンスも立派にオッサン化しているわけで、かつてのキレキレのパフォーマンスの望んでも仕方がない。こういうのはお布施を払ってありがたいものを観に行くみたいものである。



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 2008年の時点でこんな感じ。想像していたよりはひどくなってないが、こういうバンドも伝統芸能化してるっつーか、なんか和むよね……。この緩慢な動きを生で見たら、妙に感動して泣いちゃうかもしれない。ザ・フーの来日公演見たときも変に感動したもんな……。






2010年5月27日(木) 東京オペラシティ


〈コンポージアム2010〉トリスタン・ミュライユの音楽


曲目


2台のオンド・マルトノのための《マッハ2,5》(1971)*/**


オンド・マルトノと小オーケストラのための《空間の流れ》(1979)* [日本初演]


オーケストラのための《ゴンドワナ》(1980)[日本初演]


大オーケストラとエレクトロニクスのための《影の大地》(2003-2004)[日本初演]


演奏


野平一郎(指揮)、原田節(オンド・マルトノ)*、トリスタン・ミュライユ(オンド・マルトノ)**、新日本フィルハーモニー交響楽団


チケットなどの詳細(東京オペラシティ公式)



 5月の現代音楽ビッグイベント。今年の武満徹作曲賞審査委員、トリスタン・ミュライユの特集。スペクトル楽派の代表格であり、割合人気がある作曲家にも関わらず、曲目を見るとほとんど日本初演なのが驚き。オンド・マルトノが大活躍するみたいで、珍妙な楽器が好きな人は是非足を運ぶべき。ミュライユって一流のマルトノ奏者なんだって。ハラダタカシとミュライユの競演なんか日本じゃもう見れないんじゃないか? 私もこの日までにミュライユの予習をしようかと思います。






2010年5月30日(日) 東京オペラシティ


〈コンポージアム2010〉


2010年度武満徹作曲賞 本選演奏会


曲目


アンドレイ・スレザーク(スロバキア=ハンガリー):Aquarius


ホベルト・トスカーノ(ブラジル):... FIGURES AT THE BASE OF A CRUCIFIXION


難波研(日本):Infinito nero e lontano la luce


山中千佳子(日本):二つのプレザージュ


演奏


大井剛史(指揮)、東京フィルハーモニー交響楽団


チケットなどの詳細(東京オペラシティ公式)



 本選に残った作品に対するミュライユのコメントはこちら。この文章が結構面白くて「もうさ、不必要に難しいこと書くのやめようよ」とか「特殊奏法のオンパレードは、正直飽きました」とか言ってるのね。どういう作品が選ばれているのか、すごく楽しみ。指揮者の大井先生は明日から会う機会があるから、チャンスがあったらこぼれ話とか聞いてみよう。






2010年6月13日(日) すみだトリフォニーホール


ル スコアール管弦楽団 第28回演奏会


曲目


マルティヌー/交響曲第1番


マーラー/交響曲第1番ニ長調「巨人」


指揮


大井剛史


チケットなどの詳細(団体公式)



 これは自分の出演する演奏会。以前も告知したけど、結局マルティヌーの2番ファゴットを吹くことになった。送られてきた楽譜を見たら結構難しくてね……。リズム音痴であるがゆえに泣きそうになっちゃいましたよ……(俺にこれが吹けるのか……ってね)。でも、20世紀の隠れた名曲、って感じで良いですよ。是非聴きにいらしてくださいませ。






2010年6月20日(日) 水戸芸術館


リゲティの肖像


曲目


プレ演奏(1) パイプオルガン・コンサート


・フレスコバルディ:『音楽の花束』より<クレドの後の半音階的リチェルカーレ>(1635)


・リゲティ:リチェルカーレ ~フレスコバルディへのオマージュ(1951)


・リゲティ:ヴォルーミナ(1961/62)


演奏:近藤岳(オルガン)





プレ演奏(2)


100台のメトロノームのための<ポエム・サンフォニック>(1962)





演奏会


弦楽四重奏曲 第1番 <夜の変容> (1953-54)


ライヒとライリーのいる自画像(背景にショパンもいる)(1976)


ピアノのための練習曲集


・第1巻 VI. ワルシャワの秋(1985)/第1巻 V. 虹(1985)


・第2巻 XIII. 悪魔の階段(1993)


無伴奏ヴィオラ・ソナタ(1991-94)


弦楽四重奏曲 第2番(1968)


ルクス・エテルナ(永遠の光)(1966)





出演


アルディッティ弦楽四重奏団


小坂圭太(ピアノ)


中川賢一(ピアノ)


松井慶太(合唱指揮)


東京混声合唱団(合唱)


白石美雪(おはなし)


チケットなどの詳細(水戸芸術館公式)



 6月の現代音楽ビッグイベント。ほとんどリゲティ・フェスティヴァルである。これはマジでスゴい。100台のメトロノームが一斉に動いている様を実際に見れるとは……! たぶん爆笑して終わると思うんだけど、楽しみすぎる。メインの演奏会もアルディッティが登場だもん、なんかちょっと狂ってる。しかもチケット代が3500円(残り少ないようなのでお早めに!)。






2010年6月29日(火) サントリーホール


読売日本交響楽団 第494回定期演奏会


曲目


ブラームス/交響曲第3番


ブラームス/交響曲第1番


指揮


ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス


チケットなどの詳細(読響公式)



 6月の読響定期はブラームスの2曲プロ。疲れそうだ。指揮のラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスについてはよく知らないけど、なんかとっても偉い指揮者なんだって。こういうのを知ると「自分が知ってる音楽の世界なんか、ホントに一部に過ぎないんだな」って思うね。





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PETER GABRIEL/Scratch My Back

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Scratch My Back
Scratch My Back
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Peter Gabriel
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 新譜。ピーター・ガブリエルのソロ名義での新作は実に7年ぶりになるという。ちょうど前回のアルバムが出たときは、本作の日本版ライナー・ノーツに文章を寄せている岩本晃市郎氏が編集長を務めている『ストレンジ・デイズ』編集部に出入りしていた時期だからなんとなく覚えているな。今回はカヴァー曲集、しかも1曲目からデヴィッド・ボウイの「Heroes」なもんで超ドキドキして聴き始めた――で、最高……! と聴き入ってしまったわけである。今回ピーガブがカヴァーしたアーティストによる、ピーガブの楽曲のカヴァー曲集も出るって話だからそちらも期待したい。





 アフリカの貧困国に対しての援助活動をおこなうアーティストの先駆者、という一面を持ち、見た目も仙人じみてきており、なんだか良識派ミュージシャンの一派のくくりに入っちゃってるんじゃないか、というピーガブだが、音楽的にはハイファイ・サウンドへの異様なこだわりなどなど偏執狂的な部分がこの人にはある。そういう人が普通のカヴァー曲集を出すわけがなく、今回も「ギターとドラムを使わない」というルールが敷かれた上で制作が行われたようだ。ピーガブの伴奏を担うのは、ストリングスを中心とした室内オーケストラ。アレンジは、スティーヴ・ライヒっぽくまとめられている。はっきり言って、ほぼ原曲の面影はなし。完全にピーガブ色に染め上げられてしまっている。「Heros」も聴いてると「Here Come The Flood」みたいに聴こえてくる。



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 それだけにヴォーカリストとしての彼の魅力が存分に楽しめる、と言って良いだろう。別に超上手いわけではないのだが、この声はやっぱり良いよ……。なお、スペシャル・エディションを買うとピーガブのサイトからCDよりも高音質な音源がダウンロードできるんだって。CD以上のピーガブ・サウンドを楽しみたい方はそちらを。





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ピエール・ブーレーズ『ブーレーズ作曲家論選』

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ブーレーズ作曲家論選 (ちくま学芸文庫)
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 奇しくも本日はピエール・ブーレーズ、85歳の誕生日らしい。そんな日にこの本を読み終えるとはなんとも感慨深いのだが、はっきり言って特に面白い本ではないと思う。今回初めてブーレーズによる音楽批評を読んだけれども「この程度なのかなぁ……」と言う感じ。かつては「オペラ座を爆破せよ!」などとアジっていた人だから、もっととんでもないことを書いているのかと思ったら、あまりにも普通なのだった。訳の調子はまるで退屈な蓮實重彦である。立派な作曲家であり、優れた指揮者であることは間違いないのだが、批評家としてはごく普通のレベルに留まるのかもしれない。分析から批評へと飛び立っていないこの感じは、少なくとも私個人的には求めるものではなかった。





 そこには音楽と言葉の関係の難しさが現れているように思われる。音楽を百パーセント、言葉に換言することはできない(もしできたとするならば、言葉は不必要なものとなるだろう)。このことはデリダやアドルノや、茂木健一郎に宛てた斎藤環の手紙を参照しなくとも分かりきったことである。しかし、その還元の出来なさのなかに批評の可能性は潜むのであろう。それぞれ別々なものを並べ、それらが互いに媒介するもののなかから新たな意味を生産すること。これがベンヤミンやアドルノがおこなった批評の戦略である。このような意味の跳躍ともいえる行為がブーレーズの批評には存在しない。ブーレーズの退屈な文章が伝えるのは、言葉によって音楽を言い表す、その限界に達したときの言葉の哀れさだ。





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読売日本交響楽団 特別演奏会 @東京オペラシティコンサートホール

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指揮


スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ


曲目


ブルックナー:交響曲第8番



 美しいとかカッコ良いとかそういう価値によって計られるのではなく、とにかく偉大な音楽という姿をもって聴衆の前に現れる音楽が存在する。ブルックナーの音楽とはそのような種類の音楽に属し、そしてそのことを最初に教えてくれたのはスタニスラフ・スクロヴァチェフスキという指揮者だった。この出会いは、本当に幸せな体験だったと思う。今日はそのスクロヴァチェフスキが読響の振った特別演奏会。彼はこのオーケストラの常任指揮者を3年務め、今期でめでたく任期満了なのである。曲目はブルックナーの交響曲第8番というのだから聴きに行かないわけにはいかない。





 ブル8は1時間半近い長大で冗長な作品だ。これを存分に楽しむには聴取のための体力と集中力が必要だ。ひとつひとつレンガを積み重ねるようにして作り上げられていく大きな物語を、聴衆は追っていかなければならない。そのように集中して聴いていれば当然、終わった後には軽い疲労感に襲われる。にも関わらず、終わった後には「もう1度、最初から聴きたい」と思わせられるのだから不思議なものだ。スクロヴァチェフスキの手腕はそこに発揮されているのだろう。すべての「伏線」を一本の線に回収する解釈はとことん自然であり、明快だ。スクロヴァチェフスキの音楽には、心地よい疲労感を与えてくれる力強い流れがあるように思われてならない。ゲネラルパウゼではゆったりと余韻を取り、豊かな響きを味わわせ、細やかなルバートをかけながら小さな区切りを作っていく。そこには巨匠然とした大仰さは皆無だ。キビキビとし、清潔感のある、まるで落ち着いた若者のようなブルックナーを聴かせてくれる。





 この日の読響の演奏は全体的にいつも以上のまとまりがある良い演奏だったと思う。特に2楽章が良かった。何度も繰り返される低弦による主題は、これでもか! というぐらいに歌いまくっており、演奏者の楽しげな表情からスクロヴァチェフスキとオーケストラの蜜月がどことなく感じられたのも見ていて楽しいものだ。





 正直聴く前から「きっと今日は泣いてしまうだろう」という予測を持って臨んだのだが、その通り、1楽章の後半でいきなり涙が溢れてしまい、胸がいっぱいになってしまった。しかし、スクロヴァチェフスキと読響の関係は今期が終わりではない。来期からは桂冠名誉指揮者の役職が送られ、10月にはまたブルックナーを振りに帰って来てくれる。ファンとしては、いつまでもこの良い関係が続いて欲しいと思う。できるだけ長生きしてくれ!



ブルックナー:交響曲第8番
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綿矢りさ『蹴りたい背中』

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蹴りたい背中 (河出文庫)
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 綿矢りさの芥川賞受賞作を「ゲーッ、こんなキッツい話だったの……」と思いながら読む。クラスメイトを「レベル低くない?」と評価する主人公の独尊っぷり。近寄られただけでブラを外される! と恐怖する主人公の妄想力。こういうのすっごい分かってしまって、ものすごく恥ずかしくなりましたよ。やめてー! もう、やめてー! と思いながら読んでしまった。こういう気持ちになるの、お願いだから自分だけじゃないでいて欲しい。この小説を読んでいてジリジリと感じてしまう、恥ずかしさと嫌さ加減はほとんどホラーに近い感覚だった。





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ヘルムート・ラッヘンマン/歌劇《マッチ売りの少女》の解説(続き)

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Lachenmann: Das M〓dchen mit den Schwefelh〓lzern

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 ヘルムート・ラッヘンマン/歌劇《マッチ売りの少女》 - 「石版!」でやってみた翻訳の続き。



2.壁にもたれかかって


 夜も更けてしまい、通りはガランとして人通りも少なくなっている。「ふたつの家に挟まれた曲がり角に彼女はちぢこまって座り込んでしまった」。彼女は思い切って家に帰ることができなかった。寒さは徐々に攻撃的になっていき、彼女をとらえていく。これらのイメージとしての音楽は、甲高く、また違った形式でもう一度暴力的になり、麻痺を呼び起こしながら、強くなり続ける寒さの震えるような死の恐怖となる。




 「彼女がマッチに火をつけたならば……」――彼女の最後の頼みの綱がマッチであった。コル・レーニョ・サルタンド*1と、最初のかすかな「シュ!」という音は、ほとんど聞き取ることができない――ヴァイオリンは、マッチ棒の象徴である。日本の寺院のゴング*2の音と、*3リムの外側を擦る音によってもたらされる張り詰めた空気が静寂のなかに吸い込まれていく。すると、最初の暖かい幻想が彼女を包み込んでいく――そこで放たれる協和音は、大きな真鍮のストーヴのイメージだ。




 しかし、マッチの光が消え去ってしまうと、ストーヴが消え去ってしまう。残ったものは冷たい家の壁だけだ――発砲スチロールによる耳障りな、カサカサとした音によってそれが表現される。けれども、その状況に対しての抵抗する態度ははっきりと目覚めている。側面に立った極度にゆっくりとした弦楽器のジェスチャーが、それを物語っている。いまや「連祷*4」の協和音がそれに続く。そこでは、ヴォーカリストとオーケストラによって、テキストが音の無いフォルテシモで囁かれる。「犯罪者、狂人、自殺者……彼らは矛盾の化身である。不運にも彼らは死んでいく……」(Gudrun Ensslin*5がスタムハイムの刑務所*6から書き送った手紙の断片)。「我々の肌に書いた」*7――これはタムタムとティンパニによって描かれる。




 「シュ!」二度目の音がする。するとまた魔法のように現実には存在しないまぼろしが現れる。今度はたくさんの素敵なおもちゃ(これは作品全体のなかでももっとも煌びやかな音の状況である)と、クリスマス・ツリーが彼女の目に映る――ツリーは光り輝き、まるで天国の寒い冬の夜空のなかに星のように浮かんでいる。これらは少女に最愛の祖母のこと(もしかしたらそれは偉大な母のことかもしれないが)を思い起こさせる。そして「夕べの祈り」*8では、かつて彼女が祖母に言われたことを歌い上げられる――「流れ星が1つ落ちるたびに、誰かの魂が神様のもとに召されるのよ」と。




 ここで突発と分断が起る(メインの話とはまったく違った『衛星』のような話の挿入である)。場面は、冬のおとぎ話から、雪など降ることなく、溶岩と硫黄が噴出している南の地方の話へと一変する。「レオナルドによる音楽」*9――ここでは不毛地帯の田園詩が歌われる(それは市民社会の砂漠でもあり、荒れ狂う海に臨む地中海の断崖絶壁における寂しさでもある)。遍歴の旅人、レオナルド・ダ=ヴィンチは、溶岩を噴出す火山と、嵐によって大波を打つ海から吹いてくる北風によって心が休まらないことを認め、そして、自然の巨大な力によって起る計り知ることのできない混沌へと畏敬を払いながら、立ちすくむのである。同時に彼は、自分の無知を前にして、大きな洞窟のなかにいるようにも感じる。「漆黒の闇に包まれた洞窟の恐ろしさは、同時に、そこなかに横たわっている素晴らしいものをこの目で見たいという欲求に火をつける」。





 我々は少女を見捨ててしまったのだろうか? おそらくここで一瞬、それらは忘れ去られるだろう。冷たい家の壁はここにあり、抽象的な洞窟はあそこにある。ふたつは不可解だが、思考の幻覚のなかにある媒介をしめしている。これらはもしかしたら我々の前にあるものを忘れさせてしまうかもしれない。しかし、啓蒙と大きな母親という存在は、我々の心の奥底にある根源的な欲求であるがゆえに、これらすべては呼び戻されるのである。





 この気ままな脱線の終わりには、弦楽合奏による無音の終始が終わった後、指揮者がオーケストラを完全な静寂へと移行させる。これは指揮者自身に決められたフェルマータである。指揮者はテンポを支持することなく待ち続ける。この間指揮者はオーケストラのメンバー個人が発する信号の断片、すべてを集約し、あらゆる面から解放された構造を形作る。





 その後、少女が再び現れ、最後のマッチに火をつける。これは全体を通して最も重要な音となる。そして、ピアノの弦をピックによって弾く内部奏法によってまばらなアルペジオがあり、木のスティックを叩く音がそれに続くと、偉大な母の登場シーンに移行する――彼女の巨人のような姿は、声と引き伸ばされたオーケストラのユニゾンによって描かれる(『おばあちゃんがこんなにも大きくて、キレイに見えたことはこれまでに一度もありませんでした』)。





 少女は恐れと希望の両方に満たされながら泣き喚く。「私を連れて行って!」彼女は残っているマッチのすべてに火をつけてしまう――五台のタムタムの摩擦音が、トランペットの音によって伴奏がついたこのマッチを擦る音の祝祭的状況を祝福する。高音弦楽器のつぶやくような音によってなされた空気の振動が呈示される。これは彼女の祖母が孫の手をとって、天国へ登っていく様子である(この合間に舞台の奈落につづくエレベーターのドアが開く)。少女は祖母の腕の中に抱かれ、寒さや貧しさや恐怖や孤独から自由になる。彼女たちは神の御許に運ばれたのである。




 ここで音楽はオーケストラの音から離れていく。しかし、笙の澄んだ音色を取り囲む中庭のような形で残ったそれらの楽器たちは、まだ残り続けている。笙の音色は、超越的な神の世界における幸福で喜びに満ちた感覚を表現する媒介であり、それは「寒い朝」*10では少女の死体が上に覆いかぶさるようにして演奏される。ここでは、これに伴って、ピアノを叩く音により、三連符の祝福的なダンス(音を押し殺された幽霊のようなメロディー)が演奏され、トランペットは歌うようにして息を吹き込む音を出す。そして弦楽器は、弦の表面を弓で叩きながら、弦の上を擦り続ける。





*1:コル・レーニョは弦楽器の弓の木の部分で弦を叩く奏法。サルタンドは弦の上で跳ねるようにして一弓のもとに連続してスタッカートを弾く奏法


*2:Dobachiとあるが詳細は不明


*3:打楽器の?


*4:「Litanei」。この歌劇の第15曲目


*5:この人がドイツ赤軍関係者だったみたい。Wikipediaにもページがあるぐらいだから結構有名な人なのか。Gudrun Ensslin ? Wikipedia


*6:シュトゥットガルトにあるすっげー劣悪な刑務所らしい。政治犯はここにブチこまれるんだって


*7:これもGudrun Ensslinの手紙から


*8:「Abendsegen」。第17曲


*9:「Musik mit Leonardo」。第18曲


*10:「Epilog("Aber in der kalten Morgenstunde")。第24曲





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第5回JFC作曲賞本選会 @トッパンホール

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 縁あってJFC(日本作曲家協議会。会長は小林亜星)主催による若手作曲家コンクールの本選演奏会を聴きにいく。今回のコンクールで応募があったのは16作品。本日はそのなかから審査委員である近藤譲により4作品が選ばれて演奏された。本選に残った作品は以下の通り。



折笠敏之:《Les Transitions》

前田恵実*1:《kyo-奏曲》

清水卓也*2:アンサンブルのための《三十六角柱の表面にある宇宙》

山本和智*3:《半径50m》



 4作品とも違ったタイプの作風で、とても興味深かった。仮に「現代音楽界の地図」を作るとするならば、4人の作曲家はそれぞれまったく違う場所にマッピングできそうである(強いて言えば、清水作品と山本作品が一番距離は近かったか……?)。





 演奏された順番に、聴きながら思ったことなどを記しておくと、まず折笠作品は「典型的なテキストとしての音楽」といった趣を感じた。響きはまろやかなもので、複数の素材が重なり合い、線的に発展していく――思い起こしたのはピエール・ブーレーズの《弦楽のための本》。座った席が悪かったせいか、細部で何をやっているのかがわからず、もやもや~という感じで終わった。第二ヴァイオリン、ヴィオラは一生懸命弾いてるけど、音が全然聴こえない。作品解説によれば「『書法』の追及」が意図されているということだから「聴こえなくても良い」ってことなのかもしれない。4作品のなかでは最も伝統的な印象。





 これに対して次の前田作品は「ポスト・ゲンダイオンガク風」という感じ。晦渋な響きが続くわけでも、特殊なことをやっているわけでもないが、調性に回帰してメロディを書くわけでもない。この手の音楽は、ものすごく乱暴な言い方をすれば「新しい印象主義音楽」とでも言っておくとしっくりくるのかもしれない。前半は少し退屈したが、後半で音楽の運動量が増えてきたあたりはとても楽しんだ。





 3曲目の清水作品は、ポスト・セリエル的な語法をふんだんに取り入れた、彩り鮮やかなもの。指揮者は2人で、ポリテンポ。特殊奏法。さらに指揮者の片方は途中で指揮棒を放り投げる……などの演劇的要素も盛り込まれている。直感的なイメージとして「加速度」や「スピード」といった、速度を感じる音楽のように思った。ここまででは一番好きな作品。だが、私の貧しい耳では聴き取れない部分もあった。




 最後に作品が演奏された山本和智は、昨年の武満徹作曲賞(審査員:ヘルムート・ラッヘンマン)で第2位を受賞している。そのときの作品を聴いたわけではないが「ああ、この人の曲ならラッヘンマンも喜びそうだ……」と納得がいく作品。特殊奏法、特殊楽器(小道具。テレビ、バスケット・ボール、麻雀の牌、舞台上に撒き散らされるピンポン玉!)、突如として挿入される引用風のフレーズ……など総じて洗練された印象があり、演奏会後に入った続報で今回の受賞作となったことを知ったときも「まぁ、順当か」という感じがする。しかし、すげー笑ったな……。笑った部分の印象が強く残りすぎて、他の部分をあんまり覚えていない。ラッヘンマンが彼の作品を評したときチャールズ・アイヴズの名前を出しているが*4、かなり的を射ているかもしれない。あと、シュニトケが書いた文章だったと思うが「現代社会における生活と、その生活のなかで聴こえてくる音のノイズ性、乱雑さ、カオス」に関する話をぼんやり思い出した。





 ドラゴンボール、鳩山由紀夫、ねるねるねるね……山本作品で使用されたテレビの画面に映った映像を記憶のなかで反芻しつつ、飯田橋の立ち飲み屋で角ハイを3杯飲みました。






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eX.13「フランコ・ドナトーニの初演作品を集めて」 @杉並公会堂小ホール

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曲目


フランコ・ドナトーニ(全曲日本初演)


Clair II [cl] (1999)


Che [tuba] (1997)


Duet no. 2 [2vn] (1995)


Small [picc, cl, hrp] (1981)


Small II [fl, vla, hrp] (1993)


Luci [alto fl] (1995)


Luci III [SQ] (1997)


The Heart's Eye [SQ] (1980)





山根明季子(新作世界初演)


Dots Collection No.05 ―フランコ・ドナトーニへのオマージュ― (2010)


[fl, cl, tuba, hrp, SQ]





出演


多久潤一朗fl, 菊地秀夫 cl, 橋本晋哉 tuba, 松村多嘉代hrp, 辺見康孝・亀井庸州 vn, 安田貴裕vla, 多井智紀vc, 川島素晴cond



 「eX.」は作曲家の川島素晴と山根亜季子が主宰する現代音楽コンサートのシリーズ。今回は今年が没後10年になるイタリアの作曲家、フランコ・ドナトーニの日本初演作品が特集だった。このシリーズに足を運ぶのは初めてだったが、次の演奏会も楽しみになるような興味深い企画だった。会場では細川俊夫や有馬純寿の姿を見かけ(ミーハーなので、そんなことでも興奮してしまいつつ)日本の現代音楽界の最先端を感じることができた。





 ドナトーニの作品は「オートマティズム」という作曲技法によって書かれている。この技法、プログラムに寄せられた川島による解説によれば「既成の素材に基づく自動化されたシステムによる作曲」であるらしい。そこでは素材を法則によって変形させ、さらにその変形体を別な法則によって変形させて……という連続で楽曲ができあがる。このとき、楽曲は「恣意性の排除」が行われた状態となる。そして、生成された音列から三和音を抽出するなどのある種の「調整」が加えられることによって楽曲は完成を迎える。





 こうして出来上がったドナトーニの楽曲は、川島が指摘するように現代音楽の典型的なイメージである「晦渋で不気味な音響」からは大きく距離をとっている。各楽器はベルカントのように響き、その美しい音色とともに発揮される技巧は聴く者の興奮を呼ぶだろう。独奏クラリネットのための作品《Clair II》は、その典型と言っても良いかもしれない。冒頭から何度もエチュードのような上行音形が繰り返され、微細に、時に大胆に変化していく。その模様を読み取るようにして聴くことも、暗号を解くような愉しみがあろう。





 個人的には《Small》、《Small II》というハープを含むアンサンブル作品が今回のドナトーニ作品特集のハイライトである。極小の、秘密めいた音量で奏される美しい音色が集中力をかき立てられた。





 演奏会のラストを彩ったのは山根による新作の初演。日本音楽コンクールで1位を取ったときに名前を知り、とても気になっていた作曲家だったのだが、今回漸く「音を視覚像として捉え、模様をデザインすること」がコンセプトとなっている彼女の作品に触れることが出来た。ハープによる小さなドット、その他の楽器による大きなドット、それらが断続的に現れては消え、現れては消えていくイメージが、非常にはっきりと描かれた作品のなかで、柔らかいアンビエンスが徐々に変化しながら形成されていく様子がとても面白かった。とくにハープ以外の楽器がトゥッティで大きなドットを描くとき、そこでは様々な奏法や音色が混ざり合い、錬金術的な色彩の魔術が感じられた。是非、大オーケストラのための作品も聴いてみたいと思った。





関連サイト


eX.(エクスドット)


山根明季子





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ニコラウス・コペルニクス『天体の回転について』

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天体の回転について (岩波文庫 青 905-1)
コペルニクス
岩波書店
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 いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらしたニコラウス・コペルニクスの『天体の回転について』。岩波文庫に収録されている日本語訳では、全6巻のうち、第1巻を訳出したものを読むことができる。2010年になって重版されたものであるが、旧漢字が使用されているため幾分読みにくい。しかし、日本語自体は読みやすいので、60ページほどしかない訳出部分は旧漢字に慣れてきた頃には読み終えてしまう。天動説から地動説へ。コペルニクスは旧来の宇宙観の間違いを指摘しながら「こうすれば、数学的/幾何学的に正しい天体の運動法則を導き出せる!」と言っているのだが、そこで否定される「旧来の宇宙論」のほうも興味深い。例えば季節によって惑星の大きさが異なって見える理屈を「離心円」(地球が、惑星の回転軸となる中心からちょっとズレたところに位置している、という説)によって説明されていたなど、いろいろと関心させられてしまう。





 この文庫版の半分は、訳者による解説で占められているが、それがとても充実している。宇宙論の誕生から、コペルニクスに至るまでの変遷、その後の発展までが通史的に書かれており、大変勉強になる。また『天体の回転について』の出版に伴い、コペルニクスが当時の法王パウルス3世にあてた手紙もここには収められている。その内容は「ワスが突然、こんなことを言ったらみんなびっくりすると思うけども……」という大変気を使ったものだ。まぁ、なんか大変だったのだなぁ……と思う。何十年も新説を秘密にしつつ、晩年になって「えいやっ!」と出したコペルニクスは「慎重すぎる!」と仲間内からは非難されたらしいけれど、仕方が無いことである。その後、コペルニクスの説を擁護したジョルダーノ・ブルーノなんかは火刑に処せられてるのだし。





プトレマイオスによる巡行・逆行運動

 「離心円」による惑星の運動についての説明はこのサイトが詳しい。コペルニクスの生涯については、アイルランド出身の作家、ジョン・バンヴィルが小説にしている*1が、小説よりもコペルニクス自身が書いた論文のほうが面白いと思った。






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渡辺一夫『渡辺一夫評論選 狂気について』

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狂気について―渡辺一夫評論選 (岩波文庫)
渡辺 一夫 大江 健三郎 清水 徹
岩波書店
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 渡辺一夫が、ラブレーの研究を始めたのは「何の内面的な必然性も私になく、希少価値をねらう不純な動機しかなかった」という衝撃的な告白が読める。大江健三郎などの文学者を育て、三島由紀夫にも尊敬された「日本のユマニスト」、偉い文学者である渡辺一夫がゆるやかで美しい文章でつづる各種のエッセイがとても面白かった。読書や本を買うことについて省察したものがとても良い。ビブリオフィリアの楽しみや悩みが、偉い先生であっても共通なのだな、と考えさせられる。



子供のパンツと靴下の代が、図らずも黄表紙赤表紙に化けることがある。えいっ! と思うのである。妻――いや女房は黙然としている。向うでもえいっ! と思うのであろう。僕も再びえいっ! と思う。別に喧嘩もしない。



 そんなに本をたくさん買ってどうするの? そんなに読んでどうするの? と家族などから時折訪ねられることがある。そんなときは、読みたいんだから仕方ないじゃん、と答えるしかないのだが、黙然とされ「えいっ!」という具合に「仕方がないのだな……」と理解されることは、まあまあ幸せなことであると思う。





 戦後直後に書かれ、人文主義的な道徳を参照しつつ、戦争の暗さについて書かれたものも感動的だ。「トーマス・マン『五つの証言』に寄せて」は、渡辺の師であった辰野隆に対する手紙である。そこでは渡辺は戦火のなかでマンの『五つの証言』を仏訳から訳していたことが告白されている。



戦局が不利になって将来いかなる悲惨な事態が起るか判らなくなりました時、原稿のままで一人でも多くの若い友人に読んでおいてもらいたいという気持が妄執に近いものになって現れてきました。それほど日本人に何としても判ってもらわねばならぬ尊い証言の数々が、マンの文章に含まれていると信じていたからであります。



 その証言がどのようなものであるかは詳細には触れられていない。しかし、私が感動するのは、極限的な状況の中で発揮させられた「切実さ」の部分である。





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水島新司『野球狂の詩』

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野球狂の詩 (1) (講談社漫画文庫)
水島 新司
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 この「石版!」というブログ、もう4年近く続いているのだが、8割ぐらいを思いつきで書いているだけのブログであるため私が「『まんが道』は日本の『失われた時を求めて』」とか言っても誰も信じる人はいない。信じる人がいないのを良いことに今日もいい加減なことを書こうと思って「『まんが道』がプルーストなら、『野球狂の詩』はマジック・リアリズムじゃい!」とか言ってみたい。そう、水島新司は日本のガルシア=マルケスだったのである。突拍子もない想像力、純粋な愛、そして運命。50歳にして現役のプロ野球選手であり続ける岩田鉄五郎は、ホセ・アルカディオ・ブエンディーアの姿とも、アウレリャーノ・ブエンディーア大佐の姿とも重なるではないか!





 以前ふと思い立って『男どアホウ甲子園』を全巻一気に購入して、呵成に読み込んだときも「水島新司、おそろしい想像力の持ち主だ……。『ドカベン』なんか可愛いもんだ。狂気としか思えない」と恐れおののいたものだ。なにしろ、ヤクザの倅とインテリ左翼と番長、それから松葉杖をつかないと歩けない障害者などが阪神狂いの男に従って甲子園を目指したりするのだから。そんな彼らにマトモな野球などできるはずがなく(大体、ヤクザの倅はすぐに日本刀を抜いたりするし)、途中で野球武者修行などと称して巡礼者のように全国を徒歩で旅するなどのストーリー展開は「野球漫画のストーリーライン」を大幅に逸脱している、と言って良い。かつて主人公に敗れたライバルが覆面を被って登場したりするし……。





 しかし『野球狂の詩』での水島新司の想像力はそれ以上にすごかった。梨園の生まれで野球の才能もすごいスラッガーなどはまだ序の口。日本の球団でプレイすることを諦めたゴリラがメジャーで活躍する話(いくらなんでもメジャーが大らか過ぎる!)や、ケニアからきた黒人の青年がホーム・スチールをキメまくる話(いくらマサイ族でも足速すぎ!)など、今なら動物愛護やPC的にも問題がありそうな話がゴロゴロ。ゴリラはメジャーの過密スケジュールに悲鳴を上げ野球を止め、マサイ族は日本の空気が汚すぎて肺を悪くして再起不能になる、などのオチも社会批判なのかなんなのかよくわからず、とにかく唖然とさせられてしまう。大体、第7話なんかタイトルが「乞食打者」だからね! もう言葉がなにも出てこない。だって乞食打者だもん。





 もちろん、突拍子のない想像力が発露されるところばかりに注目していると単なるバカ漫画で終わってしまう。水島漫画の風景には、私は見たこともないバラック街が一貫して描かれている。この点がすごく興味深く思われる。『ドカベン』、山田太郎もプロ野球選手になってからも汚いドヤ街みたいなところに住んでいたし(坂田三吉はもっとヒドいところに住んでたな)、野呂間鹿之助も貧乏だった。乞食金太郎(登録名。ひどすぎる)もそうだ。誰かしらは必ずクソ貧乏人が出てくる。その一方でものすごい金持ちも出てくるんだけれど、生き生きとしているのはいつも貧乏人の方だ。水島新司のリアリズムはいつもこの場所から立ち上ってきているように思う。こんな風景、今の日本に残っているのだろうか? それともかつては本当にあったりしたのだろうか? そんな風に疑いたくもなる。現実には存在しない異世界から生まてくるリアリティ。それこそ、マジック・リアリズムなんじゃないか?





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山形孝夫『聖書の起源』

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聖書の起源 (ちくま学芸文庫)
山形 孝夫
筑摩書房
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主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。/人の子とは何ものなのでしょう/あながたが思いやってくださるとは。/人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影



 『聖書の起源』の冒頭に引用された『詩篇144』の一部を読んで、ハッとしてしまったのは、この短い文章にこめられたあまりにもはかない人間観についてである。キリスト教というと、荘厳な教会や厳粛な賛美歌のイメージに伴って、とにかく清らかで権威がありそうな固定観念を持っていたが、その原始にたどっていくと、このようなはかなさに出会ってしまう。それが驚きだったのだ。本書ではまず一連の『旧約聖書』から、砂漠の流浪の民である古代ユダヤ人たちの死生観や歴史を読み解こうとする。そこでは厳しい自然や、どこへ行っても他者でしかない民族のしんどさが抽出される。救済とはそのような厳しさから生まれてくるリアルな願いだったのだ。本書がおこなっている『旧約聖書』への意味づけはそのようなものだ。





 一方『新約聖書』についての部分では、当時信仰されていた土俗的な治癒神信仰の系譜のなかにイエスを置き、物語の読み替えが行われている。そこでのイエスは迷える子羊を救うメシアとしてではなく、現世での病を治す身近な「病気治しの神様」とされている。イエス=メシアとなったのは、後世の伝承によって、また教会によって別な意味づけがおこなわれた結果である、というのだ。



あの驚異と不思議の治癒神イエスは、次第に精巧なドグマのキリスト像に仕上げられ、四世紀をすぎる頃には、癒しの宗教としての原書の姿を急速に失っていくことになる。



 しかし、イエスが持っていた治癒神としての正確は、イエスから聖母マリアへと移って保存されることになる。この移行をキュベレ、イシュタル、アシュタロテ、イシス、アフロディテ……といった「太古の豊饒の女神(大地母神)」の変奏として意味づけているのが面白い。信仰が生まれ、どのように変化していくのか。その過程を詳細に描いた本書のストーリーは実に刺激的である。





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平井浩編『ミクロコスモス 初期近代精神史研究 第1集 』

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 すでに各所で話題となっている『ミクロコスモス』の第1集を読了。編者である平井浩氏に関しては、私は親交のあるid:la-danseさんのブログにものすごく厳しいコメントをする方……という(大変失礼な)知識しかなかったのだが、この場を借りて「このような素敵な本を編集していただいて、ありがとうございました!」という感謝の念を記しておきたい。元より「初期近代精神史」という分野について門外漢であるため、この本がどれだけ貴重なものなのか実際のところはよくわからないのだが(そもそもそういった学問的な価値の高さはまったく私には関係ない。門外漢だから)、とても面白かった。脳内で発火が起きること、多数*1



(『ミクロコスモス』)の第一号は、現在の初期近代思想史研究の現場で、いかなる問題が論じられているのかを示す、奥行きの深い入門書となっていると思います。


http://twitter.com/adamtakahashi/status/8764272771




科学が自然哲学からテイク・オフする以前の初期近代の思想というのは、主題も方法も多様だったと思うのです。この論集を入門書と申したのは、その魅力的な世界を覗き見るための、(限定的ながらも)適切な入り口を幾つか提供してくれているのではないかと思ったからです。


http://twitter.com/adamtakahashi/status/8768488882



 以上は『ミクロコスモス』が刊行される以前にid:la-danseさんこと、adamtakahashiさんからいただいた前情報からの引用。「魅力的な世界を除き見るための」「奥行きの深い入門書」とは言い得て妙である。私はこの本を読んで、15世紀~18世紀までの思想・科学世界の豊かさに一発で魅了されてしまった。一般向けの、浅く広く、流れのみを拾うような類の入門書のスタイルではない。しかし「論文と研究ノート」のコーナーでは、世界を観察するための定点としてテーマが設定され、そのポイントから深めに「世界を除き見る」ことができる。





 そこで描写されている世界観は、我々が今生きている世界観とは大きく違ったものだ。無理やりに、そういった「違った世界を知ること」によって教訓を得ようとするならば、「あの世界」と「この世界」を相対化することが必要だろう。たとえばパラケルススの医術に対して、現代の医学を布置することで、「我々の信じる科学」の自明性を崩し、また別様に捉えることができよう。





 まぁ、そのように無理やり教訓を生み出そうとしなくとも(そもそも本を読んで教訓を得たい自己啓発マニア的な心性を持つ人たちは、手に取ることがないだろうから)単純な知的好奇心を満たしてくれる読み物として『ミクロコスモス』は成立しているように思われる。どの論文にもダイナミックなドラマがある。とくに冒頭の『記号の詩学 パラケルススの「徴」の理論』や『百科全書的空間としてのルネサンス庭園』のエレガントな記述は読んでいてとても興奮してしまった。第2集も予定されていると言うことなので、今後が楽しみなシリーズだ。




*1:その発火の過程は、ツイッターにも投稿していた。id:microcosmos2010では、それらの私の「つぶやき」が拾われている





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金沢21世紀美術館 オラファー・エリアソン

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 建築について語ることが何かオシャレな行為のような気がして、意識的に避けている……というのは建前で本当のところは、よくわからないので語れない(語る必要もない)というのが実情だ。よって、金沢21世紀美術館がどのようなものであったかについては、極めて主観的な感想を述べるしかなくなる。とはいえ、そのような感想を述べたくなる建物がある、というのも素敵なことなんじゃなかろうか。こうして整然と並べられた椅子の様子を確認するだけで、ちょっとした快感に襲われる空間なんてなかなかない。





 世界は生活をおこなうことによって、じょじょに乱れていく。本棚や食器棚やガスレンジの周りがいつのまにか乱れてしまっている状態を思い起こされたい。世界の秩序はじょじょに失われていく。それは生活する世界の宿命である。だから、掃除をしたり、整理をしたり、という行為は、秩序を立て直すためだ、と言って良いだろう。油で汚れた皿の一枚一枚を洗い上げ、食器棚へと戻したときの感覚は、秩序を回復した瞬間の癒える感覚なのだ。





 しかし、この金沢21世紀美術館の整然さは、決して汚れたり、乱れたりすることがないんじゃないか、なんてことを錯覚させるような気がする。





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 美術館ではオラファー・エリアソンのインスタレーションを体験した。どの作品も人間の五感を刺激するものだったが、大部分が視覚に影響を与えるものだった。そこでは普段無意識に認識してしまっている視覚の連続性が、断絶や段階のない変化を受けることによって、意識の俎上にあがってくる。エリアソンの作品を体験することによって覚える素朴な驚きは、我々が日常的に眼で見た世界に対する驚きであるようにも思った。あと本日25歳になりました。





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集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#5 オネッティ『はかない人生』『井戸』『ハコボと他者』

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はかない人生 井戸 ハコボと他者 (ラテンアメリカの文学 (5))
オネッティ
集英社
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 集英社「ラテンアメリカの文学」第5巻は、ウルグアイのフアン・カルロス・オネッティ(1909-1994)の長篇『はかない人生』(1950)と『井戸』(1939)『ハコボと他者』(1960)という2本の中篇を収録。ここまでこのシリーズを読んでいて、独裁者やジャングルといったラテンアメリカっぽい題材のものが多かったけれども、オネッティの作品は「ラテンアメリカにもいろんなタイプの作家がいるのだな。マジックリアリズムばかりじゃないのだな」と思わせるものである。とにかく暗くて、救いがない、陰鬱なトーンが全体を支配している。





 「肌が茶色で、ヤニ汚れがついた歯並びはひどくて、服もめちゃくちゃ汚い、昔の西部劇に出てくる子悪人」のようなオッサンがいろいろと愉快でとんでもないことをやる……みたいな愉しい想像力の発露はここには存在しない。『はかない人生』などはとことん実存主義文学風であるし、オネッティのデビュー作(500冊刷って全然売れなかったらしい)『井戸』などは中原昌也のグチみたいな趣だ。「コイツは他の作家と一味違うぜ……!」という感じがする――しかし、それはそれ、これはこれ、といったところで、私はあんまりこれらの作品を楽しむことができなかった。読んだ時期が悪かったのかもしれない。満ち足りた生活をする者向けではない気がする。





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