スキップしてメイン コンテンツに移動

ミシェル・レリス『幻のアフリカ』




幻のアフリカ (平凡社ライブラリー)
ミシェル・レリス
平凡社
売り上げランキング: 280691



 1931年から1933年、フランスの民族学研究者グループがダカール=ジブチ間を横断し、フィールドワーク調査をおこなった。『幻のアフリカ』の著者、ミシェル・レリスはそのグループに公的な「書記兼文書係」として参加した人物だ(元シュールレアリストで、彼はこの調査団に精神的な危機を治療するための一種のセラピーとして参加したと言う)。本書はその調査における公式記録として刊行された……ものなのだが、レリスが書いていたのは、通常の研究で見られるような体裁をとったレポートではなく、調査の毎日をレリス自身の目を通して描いたとても個人的な日記だった。そこには性的な内容や、妄想、その日に見た夢、愚痴、そして植民地主義への批判などが含まれていた。本書がとびきりの奇書となったのは、レリスが目指したというこの「主観を徹底することによって客観へとたどり着く」というコンセプトによるものだ。こうした事情を知れば、1934年に刊行された『幻のアフリカ』が、1941年、ナチス占領下において発禁処分とされるのもなんとなく納得できる。いまなおこのスキャンダラスな内容は、色褪せていないように思われる。元シュールレアリストに仕事をまかせてしまったところがそもそもの間違いなのだろうけれど。





 調査は1年9ヵ月におよび、それはとても長い旅だった(ためしにグーグルの地図を開いて、ダカールとジブチの位置を確認して欲しい)。レリスは植民地主義を批判しつつも、そこで目にするアフリカの《驚嘆すべき》《野蛮な》風習に対してのエキゾチックな憧憬を隠そうとしない。無意識に憧憬が現れているのではなく、憧憬を意識しつつ、隠そうとしないのだ。ここに批判的な観察者らしいまなざしが見受けられる。こうした彼のフィルターを通して、アフリカの光景は解釈され、記述される。調査団は、フランス領スーダンのサンガという村と、エチオピアのゴンダールという村の2つの場所に長期滞在しているのだが、個人的に特別興味深かったのは、移動中に過ぎ去っていく土地の記述だった。過ぎ去っていく土地の光景は、まさにアフリカの幻影といった趣きがあり、ルイス・ブニュエルの白昼夢のような世界と重なって読める。ここに旅行記という形式の面白さが集約されているように思われた。長期滞在の記録は、対象に対する分析的なまなざしが強く出る。しかし、過ぎ去っていく村の記録は、半ば無責任な思い込み、解釈という風に感じられ、そのユルさがとても良い。





 解説などを含めて1000ページを超える大きな本だが、読んでいてとても良い気持ちになれた。クロード・レヴィ=ストロースがブラジルで調査をはじめたのが1935年ごろらしいので、ちょうどフランス文化人類学黎明期の貴重な記録、なのだが、その奇怪な内容から「裏『悲しき熱帯』」といった形容を思いついてしまう。それにしても、この時期の「調査」っていうのが結構乱暴で、ほとんど強奪するようにして、村の霊的な道具だの、神像だのを収集していたりする。そういうところも面白い。西洋の介入によって複雑化した当時のアフリカの政治についての記載も興味深い。政治と呪術がまざりあっていたりするのだ。南米からマジック・リアリズムが生まれたように、アフリカから呪術的な文学が生まれ、世界文学になる日がきたら良いのに。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か