スキップしてメイン コンテンツに移動

FEN(Far East Network)@キッド・アイラック・アート・ホール



 先日、大友良英さん(id:otomojamjam)より拙ブログをご紹介いただいてから未だに『大友良英のJAMJAM日記』経由でブログに来てくださる方が多いのであるが、そうした「友達の輪!」的なつながりとは関係なく、ONJOを活動休止している現在、大友さんが最も力を入れている(らしい)バンド、FENのライヴがあったので行ってみた。ライヴを観る前にちょっと下調べしたところによれば、バンド名の通り極東の国々の4人のミュージシャンがバンドを結成したのは2008年の4月。お披露目はフランスのマルセイユだったそう……といったところはすべて大友さんのブログにありますので上のほうにあるテキストボックスに「FEN」と入力してですね、検索かけてみてください。ちなみにバンド名に関するお話は、こちら(↓)が詳しいですよ。




 しかし、文字情報だけではこのバンドがどのような音楽をやっているのかどうかはまったく想像がつかないのであった。ここで老婆心ながら、楽器編成などについて記載を行っておくと以下のようになる(本日のライヴでもらったチケットに記載から引用。後述するけれど、ここでメンバーの国籍が表記されているのではなく、住んでいる都市が表記されているのは重要だと思われる)。



大友良英(perc,guitar,turntable 東京)


YanJun(electronics, voice 北京)


Yuen Cheewai(laptop シンガポール)


Ryu Hankil(inside-clock ソウル)



 本日のライヴは2部に分かれ、前半は上記のメンバーの順番の通りにソロ演奏があって、後半にバンドとしての演奏があった。振り返ってみると、前半でソロがあったから「ああ、このバンドはこういうメンバーによるバンドなんだな」というのが分かって、後半のセットにスムーズに入っていけたような気がする。いわば、前半は後半の布石として効果的に機能していたのだ。そこで気がついたのは「よくこんなに色が違うメンバーが集まったな」ということ。たとえば演奏形態と出てくる音についてもバラバラだ。





 4人もいれば、ひとりぐらい大友と同じようにギターを「ギューン!」と言わせるような人がいてもおかしくないのだが、見事に違う。大友は様々な楽器と楽器でないものを「演奏」し、ヤンジュンは楽器には見えないがスピーカーやマイク(?)といった音に関係しそうな機器を「操作」し、チーワイはラップトップを「使って」、ハンキルはタイプライターといった楽器ではないものから出る生活音に限りなく近い「音を出す」。こうしたバラバラさが後半のバンドとしてのパフォーマンスになるとうまくレイヤーを形成する。本日のセットでは観客を取り囲むようにしてミュージシャンが並んでいたのだが、こうしてレイヤーがうまく出来上がり、それがハーモニーのように響きだすと「この音楽はどの方向を向いて聴けばよいのか」というのが分からなくなってくる。





 こうした意味でもライヴでなくては味わえない種類の音楽であり、18日のコンサートに間に合いそうな人は是非足を運んで欲しい、と思った。先日の芥川作曲賞で湯浅譲二が言っていた「私は未聴感のある音楽を求めている」という気持ち、これを仮に湯浅テーゼと名づけ、そしてあなたがこのテーゼを胸に潜める人であれば、間違いなくその気持ちは満たされるであろう。そして、アジアの個性的なミュージシャンの音からほとんど「アジア臭がしない」というのに注目して欲しい。そのとき初めてバンド名は、文字通り「極東のネットワーク」としてだけの意味で輝きはじめる。



9月18日(土曜)六本木 スーパーデラックス


FTARRI DOUBTMUSIC FESTIVAL


詳細はフェスのサイトを、FENの出演はラストの予定。


http://d.hatena.ne.jp/doubtwayoflife/20100901


http://www.ftarri.com/festival/2010/index.html



 キッド・アイラック・アート・ホールには初めていったんだけれど、ミュージシャンとの距離が近くてびっくりした。半径2メートル以内の距離で即興演奏が聴ける機会を持ったのもこれが初めてだ。その至近距離で、大友が回転するターンテーブルにカードを接触させて摩擦音を出す。カードは徐々に接触している角度を変えられていき、ある瞬間、摩擦音が綺麗に重音となった。この瞬間に耳がバッと開くような感覚があったのも至近距離のおかげかもしれない。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か