スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

9月, 2009の投稿を表示しています

ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を読む #5

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究 posted with amazlet at 09.09.01 ユルゲン ハーバーマス 未来社 売り上げランキング: 50630 Amazon.co.jp で詳細を見る  本日は第五章「公共性の社会的構造変化」について。後半戦の始まりでございますが、いきなりネガティヴな情報からいきますと、この本正直言って中盤から後半が結構読んでいてつまららない。『公共性の構造転換』といえば「コーヒー・ショップで……」云々といった第二章でのお話ばかりが引き合いに出されている、という印象がありますが、それも確かに頷けるところです。といいつつも、言っている内容については、そこまでつまらないというわけではありません。抽象的な話が続くので退屈なのですが、そこそこ面白いですよ。余談はこれぐらいにして第一六節「公共圏と私的領域との交錯傾向」に入っていきましょう。  何度か繰り返しておりますが、この論文を大変親切設計な感じで書いたハーバーマス。彼は、この節のはじめでこれまで分析されてきた市民的公共圏の変容について整理しています。うーん、マメですねえ。っていうか、前の章があんまり上手くまとまっていない感じがするので、必然だったのかもしれませんが。ここではハーバーマスによる整理を、もっとザックリやっちゃいましょう。まず、市民的公共性が公権力から離れ、自律的な「社会」を作る。このとき、国家という公権力は、社会の基盤にそびえ立つものにすぎません。言うなれば、小さな政府って感じなんですかね。これは第三章に対応しましょうか。しかし、一九世紀後半になるとだんだんと公権力がまた力を強くしていく。それどころか、今度は市民的公共性事態が公権力のような「権威」を帯び始めていくのでした。これは第四章でなされたお話です。そして、このとき、この節のタイトルである「公共圏と私的領域との交錯傾向」という現象をハーバーマスは認めるのでした。 ……民間人の交渉過程に公権力がおこなう干渉は、間接には民間人自身の生活圏から発する衝迫を媒介するものなのである。干渉主義というものは、民間圏内だけではもう決着しきれなくなった利害衝突を政治の場面へ移し変えることから生ずる。(P.198)  で、この例としてハーバーマスは、一八七三年にはじまる大不況 *1 以来、自由貿易から保護貿

ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を読む #4

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究 posted with amazlet at 09.09.01 ユルゲン ハーバーマス 未来社 売り上げランキング: 50630 Amazon.co.jp で詳細を見る  本日は第四章「市民的公共性 イデーとイデオロギー」について見てまいりましょう。この章は社会史の分析よりかは、思想史の分析に比重が置かれておりますので、これまでよりも若干堅苦しい感じがしますが(読んでいても読んだことのない哲学者の名前がいっぱい出てきて、ちょっとキツい……)お付き合いくださいませ。とりあえず、章のはじまりである第十二節に「この章ではこういう話をしますよ」というアナウンスがありますのでまるごと引用しておきます。 市民的公共性の機能の自己理解は、「公論」という論題の中で結晶した。もとより、これが一八世紀後期に明確な意義をうるまでにたどったその前史は長く、今までのところその大筋が見通せるにすぎない。それでもわれわれはこの前史を市民的公共性の理念への導入として扱い(第一二節)、この理念がカントの法理論において古典的に表明された(第一三節)後で、ヘーゲルとマルクスによってその問題性が追及され(第一四節)、そして一九世紀中頃の自由主義の政治理論においてイデーとイデオロギーの相反並存を告白せざるをえなくなる経緯(第一六節 *1 )を述べることにする。(P.128)  それでは第一二節に入りますが、この節は「公論(public opinion――opinion publique――〓ffentliche Meinung) 論点の前史」というタイトルがついています。ここで分析の俎上にあがっているのは、タイトルにある「公論」という言葉の意味の(英独仏における)変遷です。ハーバーマスは今日「opinion」という言葉が、単に個人的な「意見」を示す言葉ではなく、社会的な性格を持っていることを確認しています。「しかたがってその社会的性格を示唆するすべての修飾語は、冗語として割愛できるほどである(P.129)」。しかし、もちろんそのような意味が簡単に成立したわけではないのですね。イギリスでは、ホッブズ → ロックという流れよって、重要な意味の分離が生まれ……みたいな話が書かれておりますが、このあたりの細かいことは第一二節を実際にお読みください。大

菊地成孔 大谷能生『アフロ・ディズニー――エイゼンシュテインから「オタク=黒人」まで』

アフロ・ディズニー posted with amazlet at 09.09.28 菊地 成孔・大谷 能生 文藝春秋 売り上げランキング: 1444 Amazon.co.jp で詳細を見る  菊地&大谷名義による前著『M/D』は読んでいませんが *1 、こちらの新刊『アフロ・ディズニー』はなかなか興味深く読みました。しかし、発売から一ヶ月ほど経過したというのに本の感想なり、評判なりというものを一切目にしないのはどういうことでしょうか。菊地成孔って「今をときめく話題のアーティスト」じゃなかったのか? とはいえ、なんとなくその理由も推察できようというものです。というのも、慶応大学で行われた講義を元にした講義録、という形は、数年前にかなり売れたらしい『東京大学のアルバート・アイラー』と同じですが、『アフロ・ディズニー』では『東大アイラー』で見られたようなギャグ/脱線要素は一切カット。ホンモノの学術的講義録のような文体は、一般的な読者層 *2 から遠ざけられるのもモットモも言った感じであります。笑える要素はかろうじて、著者二人による後書のみ! というちょっとハードコアな内容。  しかしながら、この本で語られているいくつかのトピックは、音楽批評、あるいは映画批評に興味を持つ人であれば、必見のものであると思います。それらがあまりに多岐に渡っているため、すべてをフォローしているとは言えませんが、個人的に強く興味をもったモノをいくつかあげておくならば「視覚と聴覚との分断」、「二〇世紀カルチャーの幼児性」がありました *3 。精神分析のジャーゴンを用いて、分析をおこなっていく講義は、胡散臭さをプンプン撒き散らしながら「これまで誰も注目してこなかったトピックを掘り出して見せた」という点だけでも評価に値しましょう。 グラスがテーブルから落ちて割れる、ということが目の前で起こった際、もしそれから音が聞こえなかったとしたら、われわれはほとんど白昼夢を見ているかのように思うでしょう。そこでクラッシュ音を脳内で充当させ、それで納得する。ということは、おそらくしないと思います。逆に、ある衝撃音が聴こえ、しかしその原因が視覚的に見えなかった場合、われわれはすぐにそれがどのような原因に結びついているのかを探し、見えなかったその運動を想像力でもって補完して、自身を納得させます。(P.115)

シベリウスの交響曲第6番

シベリウス:交響曲第6番&7番、タピオラ posted with amazlet at 09.09.28 オラモ(サカリ) ワーナーミュージック・ジャパン (2003-10-16) 売り上げランキング: 94681 Amazon.co.jp で詳細を見る  先日の『N響アワー』 *1 で放送されていたのを聴いて「これは……なんだか素晴らしい作品ではないか!」と思ったのが、フィンランドの作曲家、ジャン・シベリウスの交響曲第6番でした。  マーラーやブルックナー以上にハードコアなファンが多いこの作曲家のファンは口々に「シベリウスは後期が断然に素晴らしい」と言っているのが、完全に理解できた気がします。触れた途端に崩れ落ちてしまいそうなほど繊細な美しさをもつ第一楽章冒頭からして、気持ちがどこかに持っていかれてしまいます。  いきなりクライマックス直前のような緊張感が呈示されますが、この緊張感はなかなか最高地点まで達することなく、じわじわと適度な快感ポイントを漂います。いつ、絶頂はやってくるのか……!と期待が持続するのですが、いつのまにか次の楽想に移ってしまう。  つづく、第二楽章も似たような感じで進行していきます。音楽は徐々に高まっていくのですが、劇的な絶頂感は訪れることがない。独特な構成に魅了されると、シベリウスの音楽に病みつきになっていくのでしょう。しかし、これは「どこで終わった/終わるのか分からない」という分かりにくさを生むものでもあります。  第三楽章にきて、ドイツ音楽のような劇的な絶頂が訪れる感じでしょうか。「ズズッ、ズズッ」と刻まれるリズムが楽章全体を支配しているのですが、時折、金管楽器が長いクレッシェンドで入ってきて、最後にフォルテッシモで〆るところを聴くと「ああ、シベリウスの音楽ってこんな感じだよなぁ」と思います。  第四楽章。この美しい作品が発表されたのは1923年、時代区分的にはこれもバリバリの「20世紀音楽」なのですね。パリやヴィーンといった音楽文化の中心地では、とっくに無調や≪春の祭典≫スキャンダルが起こっており、前衛がバリバリと活躍していた頃に書かれている。それを考えれば、シベリウスがこのような調性作品を書いたことは「時代遅れ」だったかもしれません。  しかし、シベリウスも時代の流れとは無関係に作曲活動をおこなっていたわけではあり

クリント・イーストウッド監督作品『グラン・トリノ』(再見)

グラン・トリノ [DVD] posted with amazlet at 09.09.28 ワーナー・ホーム・ビデオ (2009-09-16) 売り上げランキング: 114 Amazon.co.jp で詳細を見る  クリント・イーストウッドの最新作をDVDで観なおしました。劇場で観たときにうっかり見逃していた発見がいろいろあって面白かったです。たとえば、イーストウッドが真っ暗な部屋でひとり、一粒の涙を流すシーンとか(画面が暗すぎて気がつかなかった)。最愛の妻の葬式ですら流さなかった涙があのシーンで流される、というのはちょっと過剰な演出なのかもしれないけれど、やはり胸が熱くなりますね。あそこからイーストウッドは、他者に救済をもたらすための壮絶な受難へと突き進んでいくわけですが、この自己犠牲は晩年のトルストイの思想とも共鳴するかのように思われました。教会で告白を行った後に、イーストウッドが神父に対して「俺の心は安らいでいる」という一言を返すのだけれども、自らが犠牲になるという決意が彼の魂に安息を与えているのだ、と思うと非常に感慨深いものがあります。「恋とは自己犠牲である。これは偶然の依存しない唯一の至福である」(トルストイ)。  モン族の祈祷師から予言めいた言葉を与えられるシーンは、劇場で観たときからすごく気になっています。今になってもうまく言葉に言い表せないのですが、モン族の祈祷師から与えられた言葉が、イーストウッドの胸にビシビシと突き刺さっていくところに、啓示のような効果を感じます。息子であったり、隣人であったり、イーストウッドと関わりを持つ登場人物は、それぞれ多様に彼を理解している。息子であれば「堅物で、愛のない人間」、隣人の少女であれば「堅物だが、正義感に溢れた強い人間」という風に。しかし、あのモン族の祈祷師はまったく違った立ち位置から、イーストウッドへと言葉を授けるのですね。それは言ってみれば、超越的な視点、もう少し言えば、神の視点、ということができましょう。  その前のシーンでは、イーストウッドが読んでいる新聞の占いコーナーに「今日が人生の岐路になるかも」的なことが書かれている。これを彼は「くだらない!」と切り捨てるのですが、これがちゃんと暗示になっている。そして、これがモン族の祈祷師による啓示へと繋がっていくのも素晴らしいのですが、この暗示と啓示がその後

JIM O’ROURKE/The Visitor

The Visitor posted with amazlet at 09.09.23 Jim O'Rourke Drag City (2009-09-08) 売り上げランキング: 667 Amazon.co.jp で詳細を見る  ジム・オルークの新譜を聴きました。これはなかなかすごいですよ……。聴く前に彼への最近のインタビュー記事 *1 に目を通したのですが、この『The Visitor』という作品は約三年の期間で、完全に自分ひとりで録音したものだそうです。なんというDIY精神! そういえば、谷啓も同じように一人多重録音でビッグバンドのレコードを出していた気がしますが、こういうのって結構やりたがる人がいるんでしょうか……?(かく言う私も、一人多重録音でオーケストラ作品を作りたい、っていう一生かなうはずがない夢を抱く者でありますが)  制作方法だけでなく、内容の方ももちろん素晴らしいのでありました。収録されているのは、一曲四〇分弱というプログレみたいな感じなのですが、静謐な冒頭からシンシンと降り積もる雪のようにゆっくりと盛り上がっていく構成や、ポリリズムの揺らぎが美しい白昼夢でも見るかのような具合なのでした。大変緻密な音楽にも関わらず、とてもリラックスした雰囲気が感じられるのも良いです。また、ここでのジム・オルークのギター・プレイは、ジョン・フェイヒーを思い起こさせるところがありますね。  CDのジャケットには「スピーカーで聴いてください、爆音で(please listen on speakers, loud)」との文言が付記されておりますが、小さい音量で聴いても良い感じです。ヨ・ラ・テンゴの新譜でも思いましたが、こういう隣の部屋に住んでいる人が、趣味で作ったかのような親密な肌触りの音楽って最近は好きです。 *1 : ジム・オルーク インタビュー -インタビュー:CINRA.NET

ポール・クルーグマン『クルーグマン教授の経済入門』

クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫) posted with amazlet at 09.09.22 ポール クルーグマン 筑摩書房 売り上げランキング: 32563 Amazon.co.jp で詳細を見る  ハーバーマス『公共性の構造転換』のマトメに対するモチベーションが絶賛低下中なので『クルーグマン教授の経済入門』を読みました。昨年、ノーベル経済学賞を受賞した大変偉い先生の本が、山形浩生による野崎孝訳サリンジャー風の翻訳でサクッと読める、という超絶的な良書でした。これはマジで超面白かったです。あとがきで訳者がこんな風に書いておられます――「ぼくはこの本を読んで、目からうろこが山ほど落ちた。そうなのぉ!? 生産性って、どうして上がったり下がったりするのかわかってないの!? インフレって経済大崩壊への序曲じゃないわけ!? G7国際サミットって、そんなのどうでもいい代物なの? *1 」。この目からウロコ体験は私にもありました。こんなに「え! そうなんだ!」って世界の見方が変わる体験を与えてくれる本ってなかなかないと思います。  この本で分析の対象にあがっているのは、戦後から90年代半ばのアメリカ経済ついてなので、もちろん現在の状況とはかなり異なっているし、また日本の状況とも違う。でも、理論的な枠組みみたいなものは変わらないし、データを見せられると「うん、そんな数字なら、そうなるわな」と納得させられます。マスメディアによって煽られる出来事と、その出来事がマクロ経済のなかでどれだけの影響力を持つ変数となるのか、この落差がとても面白いと思いました。メディアが煽る社会や技術の変化は、もちろん、それぞれの業界にとっては、重要な物事もあるんだろうけれど(クラウド、とかさ)、そんなので全体が抜本的に変わって、暮らしが良くなったり悪くなったりするわけじゃない、ってことにも今更ながら気づけるし、何がバズワードなのか判断する指針作りもできるような気がしました。今まで私が知らないでいすぎたんだろうけれど *2 、オススメしたいです。 *1 :以下もいろいろ続くが略 *2 :経済学部卒の人はこういうことを勉強するんですかね

松輪サバ

 三浦半島、松輪のブランド魚「松輪サバ」を食べました。ものすごい美味しかったです。食べたのは、〆サバと炙りサバの二種。とくに炙りのほうは、脂が染み出してきていて多幸感溢れる味でした。旬の魚っておいしいねえ……。 松輪の魚が旨い!エナ・ヴィレッヂ  食べたお店はこちら↑ この後、夜に横浜の中華街に行って、お腹がパンパンになるまで食べまくっていたのですが、そのお店で観ていたテレビではベッキーが松輪サバを食べている映像が流れました。

廣松渉『新哲学入門』

新哲学入門 (岩波新書) posted with amazlet at 09.09.16 広松 渉 岩波書店 売り上げランキング: 174878 Amazon.co.jp で詳細を見る  宮台真司に多大な影響を与えたという伝説的な思想家、廣松渉の『新哲学入門』を読みましたが、半分ぐらい読んで投げました(つまり読んでません)。これ、難しいよ……。あとがきに「著者は、新書という制約を自覚するにつけ、なるべく簡略にしかもわかりやすく書こうと心がけましたが、程度を下げることはしなかったつもりです」とありますが、ちょっと私には程度が高かったかもしれない……というか、ちゃんと理解するまでじっくりと読む根気が足りませんでした。マルクス研究者としても名高い廣松先生ですが、私が以前『資本論』を半分で挫折したことを考えると、自分のマルクスとの相性の悪さを感じてしまわなくもないです(アドルノとかルカーチとかベンヤミンとかは読めたのだけれど……)。  とはいえ、まったく得るところがなかったわけでもありませんでした。とくに緒論ではこの手の本が常套句としているように「哲学ってなんだ? なんのための学問なんだ?」という問いへの廣松先生なりの解答がなされていて、これは大変感銘を受けました。廣松先生は、我々が物事を認識したり、思考したりするその根本的な枠組・基盤を「ヒュポダイム」と呼んでいます。さしあたり、哲学とはそういうヒュポダイムを批判する性格と呼んでさしつかえない、と先生は書いていらっしゃいます。これは「なるほど!」と思いました。これまで散々哲学関連の本に手を出してきましたが「昔の人は、なんのためにこんなことを考えたんだろうな」と思わなくもなかったので。  そんなわけで「○○は××みたいなことを言っていた」、「その後の△△は……」と言ったような哲学史的な話は一切登場せず、本書は近代哲学のヒュポダイムをどういう風に批判すれば良いのか(それを乗り越えることで何が見えるのか)、といった哲学的な営みを紹介するもの、と言えましょう。廣松先生と一緒に考えようよ! 的な。なので、ちゃんと読めばすごく面白そうです。暇な高校生とか大学生とかが、考えながら読むと良いのでは。逆に私みたいに「へぇ~、あの人ってこういうことを言ってたんだぁ~」ということを手っ取り早く知りたい方にはオススメできません。ああ、でも廣松渉

ホルヘ・ルイス・ボルヘス『続審問』

続審問 (岩波文庫) posted with amazlet at 09.09.16 J.L. ボルヘス 岩波書店 売り上げランキング: 15530 Amazon.co.jp で詳細を見る  ボルヘスの評論集『続審問』を読み終えました。これはむちゃくちゃに面白かったです。異端的な思想家・科学者・文学者への言及が満載で「へぇ……こんなおかしな人がいたのかぁ……」と大変ためになりました。小説と同じぐらい面白いのですが、彼の小説とこれらの評論は地続きで、書きたいことがブレていないので「小説と評論の面白さが変わらないことは当然だ」とも思います。超オススメ。  この本のなかでボルヘスは、何度も時間・知識・夢といった彼の小説のテーマにもなっている事柄についても書いているのですが、それらを読んでいると「なぜ、ボルヘスはあんな迷宮的で、なんだかよくわからない小説をいっぱい書いていたのだろう……」ということを考える際のヒントがいくつももらえる気がしました。ちなみに収録されている『ジョン・ウィルキンズの分析言語』という文章は、ミシェル・フーコーの『 言葉と物 』の冒頭で引用されていましたね。いくつかプラトンへの言及もあるのですが、個人的にはこの部分が「おお、ちゃんと何を言ってるのかがわかる!」と思えたのも嬉しかった。

諸星大二郎『妖怪ハンター 天の巻』

妖怪ハンター 天の巻 (集英社文庫) posted with amazlet at 09.09.16 諸星 大二郎 集英社 売り上げランキング: 61395 Amazon.co.jp で詳細を見る  このところ集中的に読んでいた諸星大二郎の『妖怪ハンター』シリーズですが、こちらの『天の巻』が一番面白かったです。生命の木、人類誕生の源と信じられていた「生命の木」をめぐる一大サーガ。飛行機事故から奇跡(奇跡的にではない)によって生還した兄妹も、後に主人公、稗田の協力者となっていくのですが、このあたりのキャラクター造詣も良かったです。とくに妹の方は、途中で超能力に目覚めてしまい、大活躍。年齢不詳の民俗学者×超能力少女(前髪パッツンの美少女)という組み合わせは、萌えるポイントまで押さえています。恐ろしいぜ……諸星大二郎……。  こうして諸星大二郎の漫画を読んでいると、彼が書くストーリーは「神話を反復すること」によって成立していることに気がつきます。代表作である『暗黒神話』もそうですし、『妖怪ハンター』シリーズもそうです。現代において、神話のストーリーをなぞることによって、なにかが起きてしまう。これは神話を再生産するのと同時に、現実を神話に書き換えることでもあり、神話を現実に書き換えることでもあるでしょう。これによって、神話の世界と現実の世界とが地続きなものであることを錯覚させられるのですね。  以前に『水の巻』をブログで取り上げた際に *1 、諸星の仕事の比較対象として中上健次の名前を挙げましたが、むしろ、中上よりもフロイトの仕事に近いものがあるのかもしれません。ちょうどフロイトがモーセの物語を、ギリシャ悲劇の物語に読み替え、ユダヤ人という人種そのものを精神分析にかけてしまったように、諸星の仕事も日本人の無意識に潜む何かを解き明かすもののように思いました。 *1 : 諸星大二郎『妖怪ハンター 水の巻』 - 「石版!」

ギュスターヴ・フローベール『紋切型辞典』

紋切型辞典 (岩波文庫) posted with amazlet at 09.09.14 フローベール 岩波書店 売り上げランキング: 113720 Amazon.co.jp で詳細を見る  フローベールの『紋切型辞典』を読み終えました。これは現在、ユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』を精読しているところですが、それとちょっと関連しているかもしれない本でした。 ここに編まれたおよそ1000の項目は,衣服,飲食物や動植物に関するもの,礼儀作法の規範,身体と病気についての俗説,芸術家,歴史的人物の逸話と彼らの評価など,多岐にわたる.フローベール(1821-80)はその記述に様々な手法を駆使して,当時流布していた偏見や言葉の惰性,硬直した紋切型の表現を揶揄し,諷刺してみせた.  以上は岩波書店のサイトから引用してきた解説ですが、この資料の重要性をハーバーマス的な用語で換言するならば、一九世紀の「市民的公共圏」で流通していた言葉が当初のなかに反映されている、という点において重要であるように思われます。とは言っても、私はそういう文化史の専門家ではないため、結局面白かった点といえば、フローベールの辛辣な皮肉や風刺なのですが。

秋刀魚とキノコの土鍋炊き込みご飯

 超美味しかったです。

Gruppo Di Improvvisazione Nuova Consonanza/1967-1975

Nuova Consonanza posted with amazlet at 09.09.12 Gruppo Di Improvvisazione Nuova Consonanza Bella Casa (2007-12-11) 売り上げランキング: 533125 Amazon.co.jp で詳細を見る  六〇・七〇年代のイタリアで活動していた即興音楽グループ、グルッポ・ディ・インプロヴィゼオ・ヌオーヴァ・コンソナツアについては以前にもこのブログで取り上げましたが *1 、最近になってまた別な音源を買いました。いわゆる「音響派」のアブストラクトなサウンドを三〇年先取りするような即興音楽がここでも展開されているのですが、マトモな楽音が一切登場しない大変エレガントな作品が勢ぞろい。これはなかなか素晴らしいものであります。カールハインツ・シュトックハウゼンの初期の電子音楽作品を彷彿とさせる暴力的なアナログ・シンセサイザー対さまざまな楽器によるメタリックなノイズが、異様な緊張感のもとで響きあっているのを聴いていると背筋がピンとなりますね。以前に紹介した盤では、轟音系の演奏も収録されているのですが、こちらは大変抑制された演奏が多いです。 *1 : CRAMPS LABEL COLLECTION/『音楽のスケッチ』 - 「石版!」

ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を読む #3

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究 posted with amazlet at 09.09.01 ユルゲン ハーバーマス 未来社 売り上げランキング: 50630 Amazon.co.jp で詳細を見る  本日は第三章「公共性の政治的機能」について見ていきます。この章の内容は、タイトルどおりで「一七・一八世紀の社会において、市民的公共性はどのように政治的な機能を果たしていたか」、そして「どのようにしてそのような機能が可能となったのか」についての分析です。この章のはじまりである第八節「モデルケースとしてのイギリスにおける発展」では、ハーバーマスがヨーロッパでもっとも早く「政治的機能をもつ公共性(P.86)」が成立した国として評価しているイギリスの例がとりあげられています。すでに第二章で見たとおり、イギリス以外の国でも「文芸的公共性(フランスならサロン、ドイツでは読書サークル、といった人文的知識を持つ人々によるサークル。ここでは政治的な議論もおこなわれていた)」は発生していましたが、本格的に「公衆を参加させて争われる社会的葛藤 *1 (同)」はイギリスが初めてだった、とハーバーマスは言います。  そして、その理由について「商業資本及び金融資本の貿易制限的利害関心」と「マニュファクチュア資本及び工業資本の拡張的利害関心」との間の対立が発端である、とハーバーマスは分析しています(P.87)。具体的に前者と後者がどのようなものであったのかはよくわからないのですが、お金を動かす人たちと、実際にモノを作る人たちの対立と言って良いでしょう。しかし、このような利害対立はすでにギルドが市場で強い権力を持っていた頃にもありました(既得権者であるギルドと、新たに市場に参入しようとする人々の間で)。このような意味で、十八世紀の始めに起こった前述の葛藤は過去の変奏に過ぎません。しかし、資本主義的な生産様式が貫徹されたこの頃は、影響範囲が大きく「選挙資格のない住民の中にまで党派の闘争が割りこむ(同)」ようになったのでした。  また、このとき新聞産業も大きく社会に影響力を持つ存在へとなったこともハーバーマスは指摘しています(P.88-87)。ここでは、それ以前は、公権力のプロパガンダであったり、市民と市民をつなぐ媒介でしかなかった新聞が、今日的な「ジャーナリズム」と

YO LA TENGO/Popular Songs

Popular Songs posted with amazlet at 09.09.09 Yo La Tengo Matador (2009-09-08) 売り上げランキング: 209 Amazon.co.jp で詳細を見る  本日はヨ・ラ・テンゴの新譜が届いたので聴きました。3年ぶりですか。前回のアルバムについては「どんなアルバムだったか忘れてしまったけれど、素晴らしかった(来日公演も良かったなぁ)」という感想だけが残っているのですが、今回のアルバムも素晴らしいです。マジで捨て曲なし! はっきり言って彼らの25年という長いキャリアのなかでも最高傑作かもしれません。どの曲も名曲で、どの曲にも個性的で、非常に多彩な内容なのですが、アルバム全体が「肌に柔らかく触れてくるような素敵な親密さ」で満ち満ちているところにグッときてしまいます。  アルバムの終盤は長尺の曲が続いています。この部分を聴きながら、不思議と思い出されたのは、レイモンド・カーヴァーの『ささやかだけれど、役に立つこと』という短編でした。理由はとくに見当たりませんけれど。ともあれ、秋の夜長にぴったりな感じの音楽で、お酒をちびちびと呑みながら薄暗い部屋でリラックスしながら聴きまくりたいと思います。

久しぶりに買ったジャズのCDについて

Symphony for Improvisers posted with amazlet at 09.09.08 Don Cherry Blue Note (2006-08-21) 売り上げランキング: 87670 Amazon.co.jp で詳細を見る  こちらも本日購入したCD。こういった名盤っぽいジャズのCDを買うのはなんだか久しぶりな感じがしますが、ドン・チェリーの1967年のリーダー・アルバムです。ドン・チェリー、ガトー・バルビエリ、ファラオ・サンダースという管楽器セクションの眩いような豪華さに惹かれて購入しました。ドン・チェリーといえば、私はオーネット・コールマンと活動しているときの彼の演奏しか聴いたことがなかったため、オーネットの『フリー・ジャズ』みたいな混沌としたアルバムかと思って、ビクビクしながら聴いたのですが(アルバムのタイトルも『シンフォニー・フォー・インプロヴァイザー』と大げさだし)、これが割合真っ当にカッコ良い音楽だったのでした。  『フリー・ジャズ』の無茶苦茶すぎる混沌を、エリック・ドルフィー的な方向で洗練させ、ハード・パップとフリーの境目に立たせたような……とでも言えましょうか。1967年といえば、すでにハービー・ハンコックやウェイン・ショーターなどの「新主流派」の人たちがバリバリ活躍していて、オサレでカッコ良いジャズを響かせていた頃ですが、これがフリー派の人たちの譲歩の仕方だったのかもしれない……とも妄想してしまいますし、また、オーネット・コールマンだけが桁違いに狂っていただけなのか?、とも思いました。 Elevation posted with amazlet at 09.09.08 Pharoah Sanders Universal (2005-09-27) 売り上げランキング: 194590 Amazon.co.jp で詳細を見る  あとファラオ・サンダースの『エレヴェーション』という1973年のアルバムも買いました。ファラオ・サンダースについても今日までジョン・コルトレーンと一緒にステージにあがって「プギョーーー!!」だの「ドビャーーー!!」だのノイズをかましているサックス奏者という認識しかなかったので、延々「プギョーーー!!」「ドビャーーー!!」だったらどうしようか……とビクビクしながら聴いたのですが、「プ(略)」じゃな

ヴァンゲリスの初期作品は侮りがたかった

天国と地獄 posted with amazlet at 09.09.08 ヴァンゲリス BMG JAPAN Inc.(BMG)(M) (2008-10-22) 売り上げランキング: 113292 Amazon.co.jp で詳細を見る 反射率0.39 posted with amazlet at 09.09.08 ヴァンゲリス BMG JAPAN Inc.(BMG)(M) (2008-10-22) 売り上げランキング: 13184 Amazon.co.jp で詳細を見る  会社帰りにCD屋によったらヴァンゲリスの初期作品が2枚安く売っていたので購入して聴いてみました。ヴァンゲリスといえば『ブレードランナー』、『炎のランナー』、そして『南極物語』というサウンドトラックでの仕事や、2002年日韓W杯の公式テーマ・ソングを制作していたことで有名ですが、今日聴いた上にあげている2枚は70年代に彼がソロで出していたオリジナル・アルバムです。  これらはどちらも、ほとんどの楽器を一人多重録音で完成させたそうですが「これだけ密度が高い音楽をよく一人で……」と唸りたくなるほど素晴らしいです。垢抜けないプログレなのかと思ったら異様に洗練されていて、特に『天国と地獄(1975)』はカール・オルフやモーリス・ラヴェルといった作曲家の作品を想起させます。あと、ゲスト参加しているイエスのジョン・アンダーソンの歌もとても良かった。イエスで歌っているときよりも良いかもしれない。  『天国と地獄』第一部の冒頭より。神秘的なコーラスとシンセのリフレインから、速いテンポへと流れ込んでいく展開に超アガる!   もう一枚の『反射率0.39(1976)』のほうは『天国と地獄』に比べると、ややロックよりっぽいのです(曲の尺も短い)。インチキなエレクトロ・ディスコみたいなリミックスで聴きたくなります。

ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を読む #2

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究 posted with amazlet at 09.09.01 ユルゲン ハーバーマス 未来社 売り上げランキング: 50630 Amazon.co.jp で詳細を見る  本日は第二章「公共性の社会構造」について見ていきます。前章まででハーバーマスは、さまざまな歴史的な変化によって、市民が生まれ、それが世論を形成するなどし「市民的公共性」が生まれてていく過程を確認しました。第二章の冒頭、第四節「基本構図」では、その市民的公共性が、政府によって規制されてきた公共性(公権力の力)に対抗する生活圏であったことが強調されています(P.46)。これは、君主がいて、政府(あるいは議会)がいて、という二つの権力が存在したなかに、第三の身分(権力)として現れたものでした。  ただ、これらの第三の身分は、既存の身分が用意してくれたインフラがなければ、存在がしえないものでもあります。わかりやすい例で言えば、軍隊や警察がいて治安が統制されていなければ、市民たちも安心して商売ができませんものね。よって、市民たちの要求とは支配を求めるものではなかった、とハーバーマスは言います。「彼らが公権力に対してつきつける権利要求は、集中しすぎた支配権を『分割』せよというのではなく、むしろ既存の支配の原理を掘りくずそうとするのである(P.47)」。ここで市民が権力を奪取する、のではなく、公権力を監査する原理が働き、公権力に対しての公開性が求められていくのです *1 。  さて、ここまでハーバーマスは市民的公共性の成立までを見ていきましたが、成立以降、成熟までの具体的な分析はまだおこなっていませんでした。この分析については、第五節「公共性の制度(施設)」でおこなわれています。この節がとても有名な「コーヒー・ショップでの議論が公共性を云々」についての分析になります。ハーバーマスはここで、一七・十八世紀イギリス、フランス、ドイツにおける「憩いの場(議論などがなされる場所)」の歴史的な資料をみていくのですが、その場における特徴を簡単にまとめてみますと、以下の二点があげられるかと思います。 知識人(=貴族などの特権階級)も市民もお店に来ていた 特権階級より市民の方が金を持ってたり、良い暮らしをしてたりしたが、権力や経済力に関係なく、誰の意見も平等だった  「

ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を読む #1

公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究 posted with amazlet at 09.09.01 ユルゲン ハーバーマス 未来社 売り上げランキング: 50630 Amazon.co.jp で詳細を見る  今年八十歳になられたフランクフルト学派の長老、ユルゲン・ハーバーマスの代表作のひとつ、『公共性の構造転換(1962/1990)』を読んでいます。これが結構面白い。せっかくなので久しぶりに章ごとに分けて、自分なりのマトメをブログで連載してみたいと思います。興味がある方はお付き合いください(私のことを『マトメ亭』と読んでくださっても構いませんよ!)。ひとまず、これがどういった著作なのか『 ハーバーマス―コミュニケーション行為 (現代思想の冒険者たちSelect) 』の「主要著作ダイジェスト」から引用してみます。 この書のテーマは、市民的公共性の自由主義的モデルの成立と、社会(福祉)国家におけるその変貌である。十八・十九世紀に、フランス社交界のサロンで、イギリスのコーヒー・ハウス(喫茶店)で、ドイツの読書サークルで、自律的に文化的・政治的な討議を行う「市民的公共性」が発達し、政府当局に統制された公共性と対抗していた。しかし、十九世紀の末には自由主義の時代は終わりを告げ、国家が計画、分配、管理という形で社会運営に干渉してくるようになり、市民たちはそのクライアント(顧客)と化す。文化を論議する公衆は、公共性なしに論議する少数の専門家と、文化を一方的に受容し、消費するのみの大衆へと分裂する。またこの社会国家において、民主的意思形成は、コミュニケーション行為による社会統合(普遍主義)に向かうのでなく、各人が社会的生産物を均等に獲得するための道具(普遍化された特殊主義)として機能するにすぎない。  私もまだ全部読んでいないので「ほうほう……」という感じですが、第一章「序論 市民的公共性の一類型の序論的区画」(なんと四角ばったタイトル!)は、引用にもある「市民的公共性の自由主義的モデルの成立」の分析に入る前に、「そもそも公共とか、公的ってどういうことなんだろうね?」という根本的なところから分析を始めています。こういうのは、大変オーソドックスな議論の進め方で読んでいて安心しますね。こういう人は前戯もマメそうだ! (左。前戯がマメそうなハーバーマス先生のお顔)そ