プラトン『パイドロス――美について』

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パイドロス (岩波文庫)
プラトン
岩波書店
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 プラトン強化期間の一環として読む。この対話編は、道でソクラテスとばったり会ったパイドロスが「実はね、ソクラテス。今、リュシアスからすごい話を聞いてきたところなんだよ……」と持ちかけるところから始まる。その話というのが、「人間は恋心を抱いている人ではなく、恋心を抱いていない人間を愛するべきである」というリュシアスの主張を含んだ物語について。本書の前半は、ここから一種の恋愛論といった感じで進められる。





 最初、ソクラテスはリュシアス(そしてパイドロス)の主張に同意するかのように話し始めるのだが、ある時点で「あ! やっぱりこれまで言ったことはナシ!」とか言い出して真逆の主張をする――「人間は恋心を抱いている人をこそ、愛さねばならない」という風に。この転身が「ええ……じゃあ、これまでの話ってなんだったの?」という感じでひどいのだが、ひとまずそれは置いといて、ソクラテスは「恋心を抱いている人を愛さねばならない」ということを立証するために、霊魂について語り始める。





 この部分が若干ややこしく、うっかりしていると読み飛ばしてしまいそうになるのだが、ソクラテスの世界観(神々と生活と、神々のようには完全ではない人間の生活)などがうかがい知れて大変面白い。





 恋は一種の狂気である。しかし、それは神々が作り出した狂気であるがゆえに「善」の性格を持つ狂気であり、また「美を求める」という性格を持つものである(神々が善ではないものを作り出すわけがないのだから)。ゆえに、恋をないがしろにし、恋をしていない人に身を任せることは、善ではないものに身を任せることと同意であろう……云々(ものすごくスピリチュアルな話)。





 と言ったことをソクラテスは滔々と語り、その勢いにのまれてパイドロスは回心に至る。さらにここから、ソクラテスがまずはじめにパイドロスに同意するようなことを語り、それから真逆のこと(本当の主張)をし始めた理由について語った理由の説明へと入っていく。そこでは弁論や論述の方法についての議論が行われる。実のところ、前半の恋愛論や、中盤の霊魂論よりも、この後半部分、いわば弁論論(あるいは哲学論)について語られている部分を一番面白く読んだ。



ひとつの技術を文字の中に書きのこしたと思い込んでいる人、また他方では書かれたものの中から何か明瞭で確実なものを掴み出すことができると信じて、その技術を受けとろうとする人、こういう人はいずれも、たいへんなお人よしであり、アンモンの予言を知らざる者であるといえよう。なぜなら、そういう人は、書かれた言葉というものが、書物に取りあつかわれている事柄について知識をもっている人にそれを思い出させるという役割以上に、もっと何か多くのことをなしうると思っているからだ。




それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。


 「すわ! デリダか!」*1と叫びたくなるほどに、言葉に対する不信をソクラテスは述べる。しかし、その一方で彼は、言葉によって本質を捉えようとするし、また、それは可能であるとする。「あらゆるものを本質それ自体に則して定義しうるようになること」が目指されるのである。ソクラテスが主張していることは「言論の良し悪しとは、語り口の上手さや、文章の上手さではなく、本質を捉えているかどうかによって決定される(べきである)」というものなのだが、言葉に対して不信を抱きながら、言葉をもって真理を捉えようとするソクラテスの自己撞着が興味深い。




*1:読んだことないけど





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ヴィクトル・ペレーヴィン『チャパーエフと空虚』

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チャパーエフと空虚
チャパーエフと空虚
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ヴィクトル ペレーヴィン
群像社
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 会社で資格をたくさん取ると図書カードをくれる制度ができ、それでもらった図書カードで購入した本。本来なら「またこれで別な資格の問題集でも買え、な?」ということなのであろうが、会社の意向とは正反対に、また、どうしようもない小説を読んでしまった! という感慨でいっぱいの読後感。「ロシアの村上春樹」、「ターボ・リアリズム*1の旗手」と評されるペレーヴィンの最高傑作という噂なのだが、ここまでどうしようもない小説だと、別な作品に手を出そうかどうか正直迷わなくもない。死ぬほど笑える部分もあるのだが、空虚な幻想と妄想が、空虚な現代ロシアとリンクする……と言われても、なんだか……。





 二〇世紀初頭、革命派と反革命派がロシア国内で戦うという混沌とした状況の最中、革命派に追われる詩人ピョートルが、ひょんなことから革命闘士に成りすます羽目に陥り……という冒頭は、本格的サスペンス風なのだが、唐突にアーノルド・シュワルツェネッガーが登場し、ハリアーを乗り回したり、アンドロイドだったり、妊娠したり(シュワルツェネッガー主演映画のイメージがコラージュされる)という辺りから、混沌とし始める。また、ロシアに進出してきたサムライの日本人商社マン(タイラ商事に勤務。ライバル会社はもちろんミナモト商事だ)との妄想上の交流は最高にバカで良い。だが、いかんせんメインとなっている二〇世紀初頭の国内戦のなかで、ピョートルとチャパーエフ(革命派の指導者のひとり)と行う、存在をめぐる禅問答が退屈だ。いわば、サルトルなどの実存小説のパスティーシュのようなのだが、ピンチョンやエリクソンに親しみがあったりすると特に目新しくもない。





 しかも、すべて精神病院に収容されている青年の妄想である、というひどいオチ。サイケデリックに展開される妄想の数々は、そのひとりの青年の妄想であるがゆえに、分裂的に見える妄想もどこかで繋がりを持って進んでいく。だからエリクソンのように劇的な伏線の回収もありえない。この点に大きな不満を抱かざるを得ない。要は物語的な強度に欠けている、という話である。そういった力強い物語を目指していないのかもしれないが、そうであるとしたら、私はそのような小説をわざわざ選ぶことはないだろう。





 また、主人公の前に登場する超越的な存在者であったり、何かありそうで実は何もない、といった点など確かに村上春樹を思わせる形象が、小説のなかに現れるのだが、その点だけでペレーヴィンを「ロシアの村上春樹」と呼ぶことは不当のようにも思われる(ロシアにおけるペレーヴィン作品の売れ行きは、日本における村上春樹のそれに匹敵するそうだが)。




*1:言葉の意味はよく分からないが「夏帆は俺の嫁」とか言っているid:ta-bowと何らかの関係があるに違いないと私は睨んでいる





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スピーカーのユニットが届きました!

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R0010263
 以前に宣言していたスピーカー自作*1ですが、注文していたパーツが本日届きました。購入したのは、FOSTEXという国産メーカーのFE126Eというユニット。日本のスピーカー自作家たちの間で「スタンダードなユニット」とされている製品です。

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 まだ、エンクロージャー(ユニットから発せられる音を共鳴させたりする箱)の用意ができていなかったため、製作には入れないのですが、せっかく届いたのでユニットが入っていたダンボール箱を使って試験的に鳴らしてみました(上の写真)。FOSTEXのスピーカーはとくに高音のキレに定評があるらしいのですが、確かにハイハットの響き方とかが尋常じゃなくカッコ良く聞こえます。



Aja
Aja
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Steely Dan
MCA (1999-11-23)
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 これはAORとかフュージョンを聴きたくなる……と思って、スティーリー・ダンを聴いてみたら、バッチリな感じでした。スティーヴ・ガットのヤバいドラムが刺さるように聞こえる!!




 このダンボール箱状態だと低音のほとんどが殺されてしまうし、まだエージングも済んでいないため、変にカサカサした音が気になるけれど、完成させるのが楽しみになってきました。





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蓮實重彦『表層批評宣言』

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表層批評宣言 (ちくま文庫)
蓮實 重彦
筑摩書房
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 大江健三郎と丸谷才一を激怒させた*1という蓮實重彦の『表層批評宣言』を、「最近読んだ本のなかでも最も難しい本であるなぁ……」と思いながら読む。ワンセンテンスの異常な長さ(ワンセンテンスが一ページというのがザラにある)は、衒学的、というよりも迷宮的で、読んでいるうちに「あれ、この文章、もともと何の説明だったっけ?」と迷子になるから困った。収録された五編の文章のうち「なんとなく意味が分かったような気になるもの」がひとつぐらいしかない。





 その「ひとつ」が最初に収録されている「言葉の夢と『批評』」であった。「宣言」というぐらいなのだから、ひとつぐらいは「『表層批評』とは、こういうものである」と教えてくれる文章があっても良いのだが、望まれるべき説明的文章はほとんどないのだから驚くしかない。唯一それっぽいのがこの文章である。ここでは「批評の問題」という問題、というメタ的な視点を経由しながら、批評の問題に取り組もうとする姿勢が見て取れる。





 「批評とは何か?」などという根源的な問いは、捏造された疑問符である、と筆者は言う。そしてそれは貧しい態度である、と。そのような根源的な問いを行う者は、その行為が「制度」としての批評の延命を促すことに無自覚で、それどころか「問う」ことが善意であるかのように振舞う。多くの場合、「問う」批評家は、まるで作品の深層に、読み取られるべき意味や真理があるかのようにも振舞う。批評が書かれることによって「隠された真理」が見出されるとき、批評は作品を固定化する。言葉が書かれることによって、書かれた対象となる言葉が奪われる。ここで批判にあがっている制度的な批評が行う「解釈」にはそのような暴力性がある(しかし、その暴力は無自覚に行使されてしまう)。





 筆者が望む批評とはそのようなものではない。では、どのようなものが望まれるのであろうか。それは以下の一文に集約されているだろう――「『批評』とは、『作品』が存在してしまうことへの不断の驚きであり、嫉妬であり、眩暈である」。これをアドルノ的な言葉に置換して考えることは容易であろう。筆者がここで言う批評とは、作品との出会いの瞬間に、鑑賞者の胸に訪れる驚愕を、文章へと落とし込む行為に他ならない。もちろん、これは夢想に過ぎないものである。驚愕が言葉に置換されたとき、すでにその驚愕は固定化されてしまうのだから。タイトルの「言葉の夢」とは、そのような不可能性への夢想なのだろう。





 あと、この文章のなかでは小林秀雄の批評を「ペダンティックなメロドラマ」とこき下ろしているところがあって面白かった。蓮實重彦の著作では最近『反=日本語論』が重版されたが、こちらも近々重版されるのではないかしら。


R0010261


 著者近影がダンディ! この風貌で東大の先生で、奥さんがガイジンってめちゃくちゃ勝ち組じゃんか!




*1:筆者による「あとがき」より。直接的に名前があげられているわけではないが、読めばすぐにこの二人であることを察せられる





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西川美和監督作品『ディア・ドクター』

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ディア・ドクター オリジナル・サウンドトラック
モアリズム emi
スリーディーシステム (2009-06-17)
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 『ゆれる』の西川美和の新作を観る。「自分が作る映画はこういうものである」と主張するようなシーンがいくつも記号的に、そして戦略的に織り込まれている気がして、なんだかもう巨匠みたいである、と思う一方で「別な方法で作った映画も観てみたい」と期待を寄せたくなるような、秀作だったと思う。笑福亭鶴瓶演じる主人公の言葉が、ところどころで誤解され、すれ違いが生まれていく。このあたりの心理描写が絶妙だし、ここでのコミュニケーションの描かれ方は、社会学(の教科書)的ですらある(以下、完全にネタバレになってしまうため、ネタバレ・アレルギーの方は読み飛ばしていただきたい)。



D


 主人公は医師免許を持たない、偽医者である。このことは映画の予告からも、なんとなく予想できるのだが、そういった予想を持ちながら冒頭で「僕、免許ないのですよ」と発話する主人公に出会うことの驚きが、観客をグッと引き寄せる。その「免許がない」という発話は、その文脈においては「自動車免許がない」という意味であるのだが、しかし、映画のなかで「隠された事実」にもかかる二重の意味を持つ(中盤でも、同じような展開がある)。その言葉が二重の意味を持っていたことは、発話した本人である偽医師にさえ意識されず、観客だけがそれを把握している――このような関係をシェイクスピアのある作品に指摘した論考を割りと最近読んだ気がするのだが、それがなんだったのか、まったく思い出せない。追記;思い出した。喜志哲雄『喜劇の手法 笑いのしくみを探る』だ。ここでは、シェイクスピアの『十二夜』におけるアイロニカルな「笑いの手法」が指摘されているのだが、この手法を今回の西川美和の脚本にもそのまま見出すことができるだろう。





 村民たちに英雄のように送り出される真っ赤なBMWや、いきなり出てくる中村勘三郎のあたりが、個人的なハイライト。八千草薫の品の良さや、香川照之の良い人なのだか、悪い人なのだかさっぱりわからない不気味さや、松重豊が演じる悪人みたいな刑事(『ユリイカ』を想起させる)も良かった。説明的なセリフがほとんどない映画の中で、役者の良い演技によって細やかな状況説明がされていく。このあたりのスムーズさも観ていて気持ち良い。





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足立智美/初期作品&ライヴ音源集 1994-1996

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Experimental Music of Japan, Vol. 3
Tomomi Adachi
Edition Omega Point (2009-03-03)


 昨日の「日本の電子音楽」*1の会場にあったタワー・レコードのブースにて発見し、即購入したCD。「決してハモらない合唱団」である足立智美ロイヤル合唱団を率いるヴォイス・パフォーマー/作曲家、足立智美の初期音源を集めたアルバムである。





 「ヴォイスとエレクトロニクスによる即興演奏」と題された連作の一曲目からして、ブチ切れまくったそのテンションがヤバい。少し行儀が良い山塚アイみたいなキワキワ感は録音当時24歳という若さがそうさせたのかどうかは分からないが、足立智美のパフォーマーとしての実力が計り知れる点でも大変興味深い音源である。いや、マジで素晴らしいからホントにみんな買った方が良いよ……。



D


 同時期のライヴ映像(1995年)。勢い的にはこんな感じ。





 ちなみにこのアルバムは「日本の実験音楽」というシリーズでオメガ・ポイントというレーベルから出されている。これだけ素晴らしいと、ほかのラインナップも気になってきた。






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日本の電子音楽 @草月ホール

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プログラムA:テープ作品集「電子音楽の夜明け」


黛敏郎:《素数の比系列による正弦波の音楽》(1955)


黛敏郎:ミュージック・コンクレートのための作品《X,Y,Z》(1953)


諸井誠+黛敏郎:《七のヴァリエーション》(1956)


高橋悠治:《フォノジェーヌ》(1962)


真鍋博:『時間』(映像作品。音楽:高橋悠治。1963)


一柳慧:《パラレル・ミュージック》(1962)


武満徹:テープのための《水の曲》(能楽付。1960)


武満徹:《怪談》より<木>、<文楽>(1964/66)





プログラムB:テープ作品集「大阪万博へ」


柴田南雄:《電子音のためのインプロヴィゼーション》(1968)


松平頼暁:テープのための《アッセンブリッジス》(1968)


三善晃:《トランジット》(1969)


一柳慧:《東京 1969》(1969)


湯浅譲二:《ヴォイセス・カミング》より<インタヴュー>(1969)


湯浅譲二:《スペース・プロジェクションのための音楽》(1970)


湯浅譲二:ホワイト・ノイズによる《イコン》(1967)


坂本龍一:《個展》(1978)





プログラムC:佐藤聰明 作品集


《エメラルド・タブレット》(1978)


《リタニア》(1973)


《宇宙(そら)は光に満ちている》(1979)


《太陽賛歌》(1973)


 アリオン音楽財団の主催による「日本の電子音楽」を聴きに行く。半日以上ずっとその手の音楽を聴き続けるという、気合と根性が試されるイベントだが会場はほぼ満席。日本初の電子音楽である黛敏郎のミュージック・コンクレートのための作品《X,Y,Z》から、大阪万博というイベントと同時期に作られたテープ音楽を、マルチ・チャンネルで聴くプログラムA・Bは坂本龍一が選曲ということもあってか? 正直なところ、ここで坂本の名前が出てくることに「客寄せパンダ」以上の意味を見いだせないのだが*1、極めて聴く機会が少ない貴重な作品が聴けたのは良かった。





 今回初めて聴いたもののなかでは、一柳慧の《東京 1969》が特にカッコ良かった。落語の「時そば」に始まり、ベトナム戦争のニュース、そしてバキバキに歪められたロックや演歌などがコラージュされ、そして「時そば」に終わる、というとんでもない作品なのだが、音源があったら是非とも手に入れておきたいものである。ビートルズの「レヴォリューションNO.9」と、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「シスター・レイ」を足して二で割らなかった、ぐらいに素晴らしい。それから、初期のシンセサイザーの音は生々しく、ときに暴力的なところが魅力的だ、と再確認する。





 またプログラムCは、これもまた特別有名でも注目もされていないであろう作曲家、佐藤聰明の特集。彼の作品については、本日も演奏された《リタニア》の録音を聴いて「日本にこんなにも洗練されたミニマリストがいたのか!」と驚かされた覚えがあるが、予想以上に楽しめた。ディレイによってピアノのアタックと残響が滞留し続け、持続的なクラスターを形成し、河の流れのように響く。この効果が素晴らしい。また、暗闇のなかで演奏された彼のテープ作品におけるモワレのように蠢く音響も「早すぎたエレクトロニカ」 のようだった。





 純粋なテープ作品をコンサート会場で聴いたのは、二度目である。前回はシュトックハウゼンの演奏会で《少年の歌》だったが、ステージ上に人間が立たない「生演奏」に触れる感覚にはまだ慣れない。今回の演奏会では、テープに録音された音楽を(おそらくデジタル化して)リアルタイムに音の位置を操作するという形式を取り、この意味で「生演奏」は行われていたのが、戸惑いは隠せない。おそらくその戸惑いは、会場全体に共有されていただろう。テープ作品の終わりと共には拍手が起こらない。拍手は、会場に来ていた作曲家のために捧げられ、テープ作品とサウンド・ディレクションの「演奏者」にはプログラムの終了ごとに、儀礼的に行われるのみである。このような現象を見るにつけ、いかに現代のコンサート、というものが儀礼化されたものか分かるような気がする。




 言うまでもなくテープは順次にしか読み取られない。このような性質が音楽を、交響曲のような物語性へと縛り付けている。初期のテープ作品に感じられる展開の物語性については、メディアの特性が関連しているのではないか、などとも考えた。ちなみにこの演奏会は第二五回<東京の夏>音楽祭2009の一環としておこなわれた。この音楽祭、なんと今年で終了とのこと*2。毎年、楽しみにしていた音楽イベントだったので、終了してしまうのは残念である。




*1:そして坂本による作品は明らかに蛇足だ


*2no title





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プラトン『ゴルギアス――弁論術について』

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ゴルギアス (岩波文庫)
プラトン
岩波書店
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 プラトン強化月間の一環として読む。こうして集中的にプラトンを読んでいると、自然と仕事中などに、魂であるとか、徳であるとかについて思いを馳せるようになってしまう。そうして「ああ、私も徳の高い生活を送りたいものだ」、「私の魂も高貴なものにしたいなぁ」などと自然とつぶやいてしまいそうになるのだが、ふと我に返って考えると「こんな発言をしてしまえば、かなりスピリチュアルな人間だと思われるのがオチであろう」と思う。危険だ。しかしながら現実に、私はそのように考え始めているのであって、だからこそ、このブログを読んでいる方にお願いしたいのだが、それこそ本格的に私がスピリチュアルな世界へと旅立ちそうになっていたら、コメント欄など開放しておりますので「君ィ! 極真空手をはじめなさい!」などの適切なアドバイスをしていただけたら、と思うのである。本当に、よろしくお願いしますね。




 いきなり話が脱線しているのであるが、この『ゴルギアス』も面白く読む。副題に「弁論術について」とあるが、これはあまり適切なものとは思われない。というのは、この作品において語られることの大部分は、弁論術について、というよりも、いわゆる「哲人政治」についてに割かれるからである。ここでのソクラテスには、三人の論敵がいる。まず、本のタイトルにもあるゴルギアス(彼は当時大変に有名な弁論家であり、プロタゴラス*1と同様に、教師として活躍していた)がいる。そして、ゴルギアスと一緒にアテナイに滞在している、ポロスがゴルギアスを擁護しようと、ソクラテスに立ち向かう。そして最後に、ソクラテスの友人であったカルリクレスがソクラテスと激論を交わすようになる。「哲人政治」は最後のカルリクレスとの対話において主に語られるのであるが、この対話が一番ボリュームがある。





 最初のゴルギアスとの対話は、プロタゴラスのときと同様、ソクラテスが「一体、あなたはどのようなことを教えているのですか?」と相手に問いかけることから始まる。あなたの教えている弁論術とは、どのような効用を人に与えるものなのですか? と。これに対して、ゴルギアスは弁論術を「人を言葉によって、思い通りに動かすことができる、素晴らしい技術である」と答えるのだが、ソクラテスは「へぇ、あなたはそんなものを『素晴らしい技術』なんて呼ぶんですか……。へぇ……」という具合に反駁をおこなう。「ワスは、そんなものを『素晴らしい技術』なんては呼ばないね! そんなものは、迎合だと思うんだよなぁ! なぁ!」。





 ここで割って入ってくるのが、ポロスである。「なんだって! 人を思い通りに動かせたら、最高じゃん! それって最高に幸福なことじゃんか! じゃあ、一体キミはどういうことがらを『素晴らしい技術』と呼ぶのかね?」と。これに対してソクラテスは以下のように答える。「いやいや、ワスは、人を思い通りに動かせることなんか、ちっとも幸福だと思わないんだよねぇ……だって、そんな風にして、自分の欲望のままに動いたって、自分の魂のためにはならないじゃんか……」。





 そしてカルリクレスである。ソクラテスと前述の二人との対話を聞いていた彼ははじめに「ソクラテス、君ってヤツは、いい歳して哲学なんかにのめりこんじゃって……そんなものは、若者がやることだよ。大人になったら、まっとうな実学をやらないと。弁論術とか役に立つことをやっておかないと、バカにされちゃうよ?」と批判を始めるのだが、この批判もソクラテスには暖簾に腕押し。ソクラテスの方では「いやいや、実学なんかやるよりも、ワスはひとつの真理を得たほうがずっと幸せだし、魂も救われると思うんだよねぇ……」と意に介さない。そこでカルリクレスは、ポロスの言葉を引き継ぎながら「人を思い通りに動かすこと(自分の欲望)が、どれだけ素晴らしい技術であるのか」を一生懸命に説明する。このとき、ギリシャの政治家の名前が登場し、彼らの独裁的な政治と、ソクラテス(プラトン)が理想とする哲人政治との対比がおこなわれる。





 ソクラテスが語る、政治のあるべき姿とは以下のようなものであろう――まず、為政者は、自分のためでなく、市民がより良いものになるために政治をおこなうこと。それが為政者のためにも、良いことなのだ(逆に、自分のやりたいことをするために、政治をおこなうことは悪いことである)。なぜなら、自分のやりたことをするために、不正なことをするならば、それは自分の魂の穢れにつながってしまう。その穢れは幸福の妨げである。最終的な幸福を目指すのであれば、不正をおこなわず、市民のために政治をおこなうべきなのである。より良い魂の姿が、幸福に繋がる、という前提に基づき、ソクラテスは以上のようなことを言っている、と思う。これらを茂木健一郎風なフレーズでまとめると「魂に良いことだけをやりなさい」とでも言えるだろうか。





 そういうわけで「人を思い通りに動かす方法」である弁論術は、素晴らしい技術ではない、迎合である、という風にソクラテスは結論付けるのであるが、そのような迎合を批判し、身に付けていなかったばかりに、ソクラテスは裁判にかけられた際、被告の言うがまま死罪になったことがここでは暗示されている。なんとも皮肉な結果である。






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『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 オリジナルサウンドトラック SPECIAL EDITION
サントラ 林原めぐみ ザ・ピーナッツ ピンキーとキラーズ
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 『序』を結局観てないんだけど「アニメ・シリーズと一緒」という話を聞いたので、『破』を観た。エヴァが動くシーンのスピード感がむちゃくちゃにカッコ良くて、笑いが止まらなくなる。目標に向かって猛ダッシュする三体のエヴァ。あそこ、良かったなぁ……。





 とはいえ、アニメ・シリーズや旧劇場版を知っている前提で進められている(と思われる)ストーリーは、結構スカスカで、結局のところ、これは記憶によって「かつて描かれた部分」を補完することがあって始めて、物語として成立する。この意味で、劇場内に敷かれた作り手と観客とのコミュニケーションの関連性は必然的に「オタク的なもの」と呼ばれることを免れない。旧作との差異に、映画の楽しみを発見することは批判されるべきものではない。





 ひとつ気がついたことは、これまでにエヴァンゲリオンというアニメのなかで、図像解釈的に分析されてきた、さまざまな形象の描かれ方が以前よりも露骨、というか分かりやすく描かれていることである(単に、観客である私に、そのような浅知恵がついただけかもしれないが)。





 例えば、画面いっぱいに広がったセカンド・インパクトの爆心地の同心円は、ダンテの『新曲』に描かれた地獄の階層図を想起させたし(ちなみに地獄の中心にはルシフェルが存在している)、釘のようなものによって碇シンジが手のひらを貫かれるシーンからは、彼が「神の子」であるという暗喩を読み取ることができるだろう。また、加持リョウジの存在は、ヴェルギリウスかもしれないし、さらに綾波レイはベアトリーチェかもしれないのだ。





 このような妄想的分析の容易さは、なにも宗教や古典文学と結び付けなくても多様に広がっていくだろう――精神分析的に『破』の終幕を「父によって奪われた母を奪回する」と読んでも良いのだ。しかし、登場人物の感情のぶつかり合いは、そのような妄言のはるか遠くを飛んで、こちら側に届くものである、と思う。セカンド・インパクト以後の世界と、我々が今いる世界との隔絶は、以前よりもずっと距離がある。人間以外の生き物が施設のなかで、復元されて生きている。テクノロジーは発展している。我々のいる世界とのつながりとは、いくつかの生活用品と、登場人物の感情だけではないのか。





 個人的には、「自分は選ばれていない」というトラウマを根源的な不安として抱えるがゆえに、「選ばれている自分」を演出しているアスカという登場人物が好きだ。そこには厭らしいほどのギラギラとした権力への意思がある。言うまでもなく、この性格は碇シンジと真逆のものであろう――シンジは「選ばれてしまっている者」なのだから。




 考えてみれば、アスカというのはこれまで徹底して救われないキャラクターであったし、今回もまた、なんだか救われないキャラクターとして扱われていて、心が苦しくなる。だから私は、スタッフ・ロールが流れ終わった後に*1、チラリと垣間見えるアスカの「復活」に期待してしまうのだった。




*1:このときバックで流れている宇多田の曲、すごく変態で良かった。やはり彼女は天才だ!





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超巨大地下空間!大谷石地下採掘場跡に行ってきました!!が、その写真は掲載しません!!!

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最近聴いた旧譜

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南米のエリザベス・テーラー
菊地成孔 カヒミ・カリィ 内田也哉子
イーストワークスエンタテインメント (2005-05-02)
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 なかばメモ的に最近聴いた旧譜について書き残しておく。まずは菊地成孔の『南米のエリザベス・テーラー』について。このアルバムが、公式なもので菊地と大友良英が共演している最後の録音だろうか。大友は『DEGUSTATION A JAZZ』でも聴くことができるプリペアド・ギターを演奏しているが、この壊れた美しさが素晴らしい。収録されている楽曲では「ルペ・ベレスの葬儀」がとても好きだ。



D


 ピアノが刻むリズムを、三連で分解し、その分解された音符の上を自由に動いていくサックスとバンドネオン、そしてコントラバスの主旋律の、ハマらなさ、が刺激的である。「菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール」名義での最新作『記憶喪失学』と比べると、ソリッドなところに欠けるのだが、これはこれで良い。また、『記憶喪失学』では作曲者としても名を連ねている(『南米のエリザベス・テーラー』ではストリングスの編曲をおこなっている)中島ノブユキの対位法的な作曲技法と、菊地成孔の和声法的な作曲技法との違いを比べるのも面白いかもしれない。菊地成孔の楽曲は、装いこそ、クラシカルなものなのだが、構造的な密度において、本当にクラシカルなものとはまるで別物であることが如実にわかる。



Roxy Music
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Stranded
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 それからロキシー・ミュージックの初期作品三枚も聴いた(こちらは、会社の上司から借りたもの)。このバンドについては高校時代に『Avalon』を聴いたほかは「初期にブライアン・イーノが在籍していた」という知識だけで止まっていたのだが、実に面白いバンドだ、と思った。まず、デビュー作から枚数を重ねるごとにどんどん音楽が洗練されていくところが面白い。





 デビュー作は、キング・クリムゾンのオリジナル・メンバーでもあるピート・シンフィールドのプロデュースで、初期クリムゾンを彷彿とさせなくもないのだが、そういったプログレ感独特のダサさ、もっさり感はセカンドの『フォー・ユア・プレジャー』では皆無。さらにブライアン・イーノ脱退後(入れ替わりにエディ・ジョブソンが加入)のサード『ストランデッド』では洗練されたポップ感が大爆発しているのであって、最高だ。はっきり言って、初期二作に参加していたイーノの存在とは、このバンドにとって邪魔なものだったのではないか、とさえ思えてくる。やはりブライアン・フェリーの妖しいダンディズムが全開になってからが良い。





 ファーストの一番最初の曲ではビートルズやワーグナーの有名なフレーズをパロディ的に楽曲に組み込んでいることが「ロックの脱構築」、「マッシュアップの先駆け」などと評価されているそうだが、これは明らかに褒めすぎだろうと思う。第一、ファーストはアンディ・マッケイが演奏するリード楽器がヘタ過ぎて萎える(シンセによって、音色を変調させてようやく聴くに耐えるレベル、というヘタさ。アルバート・アイラーをインポテンツにしたような不甲斐なさだ)。とはいえ、ブライアン・フェリーの特徴的な細かいヴィブラートを用いる発声は、ファーストの時点で既に完成されていて、聞き逃せないところではある。60年代イギリスの女性アイドル歌手がこういう歌い方をしていた印象があるのだが、この技術は「ノン・ミュージシャン」でも簡単に習得できるものなのだろうか。



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 ブライアン・フェリー、面白い顔すぎ。





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ガブリエル・ガルシア=マルケス『大佐に手紙は来ない』『土曜日の次の日』

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 カルペンティエルの『失われた足跡』*1と同時に収録されていたガルシア=マルケスの短編ふたつも読む。ここで読むことができる『大佐に手紙は来ない』も『土曜日の次の日』も、『百年の孤独』以前に書かれたものなのだが、マコンド村やアウレリアーノ・ブエンディーア大佐(小説のタイトルにある大佐は、ブエンディーア大佐ではない)といった『百年の孤独』に繋がる要素が織り込まれていて、ドキドキしながら読むことができた。いやあ……久しぶりにガルシア=マルケスを読んだけれど、素晴らしい……。『大佐に……』は内田吉彦の訳、『土曜日の……』は桑名一博の訳なのだが、鼓直や、木村栄一も含めて、このあたりのスペイン語文学者の先生方には長生きしていただきたいものである。





 鳥が家の窓を突き破って死に続ける、という不可思議な事件(ヒッチコックの『鳥』を想起させる)が起こる村で、百歳近い高齢の神父が鳥の死骸を眺めているうちに、あちら側の世界にいってしまう……というわけがわからないが、とにかく爆笑しっぱなしで一気に読める『土曜日の次の日』も大好きなのだが、『大佐に手紙は来ない』にはじわじわと涙腺を刺激されてしまって困った。かつて、アウレリアーノ・ブエンディーア大佐が指揮していた反乱軍へと身を投じ、正義のために戦っていた(いまでは老人の)「大佐」が、ひどく貧しい生活に苦しみながら、いつかやってくるはずの手紙(恩給)を待ち続ける、というこのストーリーには、忘却された者の刹那さのようなものを感じてしまう。






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アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』

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 「マジック・リアリズムの創始者」とも謳われる、スイス生まれのキューバ育ち、フランス亡命者というコスモポリタンなラテンアメリカの作家*1、アレホ・カルペンティエルの『失われた足跡』を読む。こちらは現在、絶賛絶版中であるが、アマゾンで調べたところ、私が持っているものと同じ集英社「世界の文学」版(ガルシア=マルケスの『大佐に手紙は来ない』も収録されている)が、最安値135円で売っている*2ので「いまだ、さあ、買え!」という勢いでオススメしておきます。超面白かったよ!!!!





 話としては、以下のようになる――主人公である<私>は、かつて芸術的な作曲家を目指していたが、戦争による仕事の中断などがあり、かつてのような情熱をなくしてしまい、ティンパンアレーで売れる音楽を作り続ける音楽家として働くことで生活している男。この男がひょんなきっかけて、幼少期を過ごした南米のある国のジャングルの奥地に住む部族の楽器を収集する仕事を頼まれるのだが……というような。言ってしまえば、典型的なロード・ノヴェルの形式を取るのだが、このジャングルの奥地に向かっていく旅路が、人類の歴史をさかのぼる行為と重なっていくスケールのでかさに圧倒されてしまった。<私>は、ジャングルの奥地で<人類の誕生>に立ち会うことになるのだが、そこでの時間の流れ方と、(男の出発点である)現代のそれとでは、まったくスピードが異なっていて、歯車がかみ合うことはない。そして、このかみ合わなさによって、物語は非常に切ない終幕を迎えるのだけれども、この構成が素晴らしい。




 主人公は音楽家であるだけに、音楽の描写も濃密で、かなりマニアックである。この作品における音楽描写のすごさは、間違いなくこれまでに読んできた作家のなかで、ナンバーワンだ! と断言できるぐらいすごい*3。特に、南米の田舎町に滞在しているときに、古ぼけたラジオから流れてきたベートーヴェンの《合唱付》によって、幼少期の記憶が唐突に蘇るシーンの流れは素晴らしすぎて悶絶モノである。このようになんらかの契機によって、記憶が蘇る、とはプルーストを彷彿とさせるのだが、カルペンティエルが描いた《合唱付》全編(!)と、記憶との対応は、文章によってあの楽曲のフルスコアを想起させられるほどだ。この部分を読むだけでも、価値がある、と言ってしまっても良い気さえする。





 また、「マジック・リアリズムの創始者」と謳われるだけあって、超現実的な描写がいたるところで現れるところにも興奮した。例えば、南米の市街地で突如巻き起こった革命の動乱とともに蠢き始め、配水管から沸いて出てくるおぞましい虫たちや、旅の途中で<私>とめぐり合う<女>と結ばれようとするときに蝶の大群が空を覆う……など、(言ってしまえばコテコテの)驚異的現実が登場する。物語の主題は、「時間」と「記憶」にあるのだろうが、そういう突拍子もない描写を拾っていくだけでも楽しい気分になってくる。




*1:このような経歴は、ボルヘスと少し似ているかもしれない


*2:私は1500円で買ったのに!!


*3:解説によれば、カルペンティエルの父は、あのパブロ・カザルスの教えを受けたこともあるアマチュアのチェロ奏者だったそうで、その影響を多大に受けたのだとか





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