堤幸彦監督作品『20世紀少年<第2章>最後の希望』

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映画「20世紀少年」オリジナル・サウンドトラック Vol.2
サントラ
Sony Music Direct (2009-01-21)
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 近所のシネコンに朝イチで赴き鑑賞。周囲はこども、またはファミリーが多く「青年誌で連載してたマンガなのにこの客層は……」というところでびっくり。あと、こんなにポップコーンくさい劇場で映画を観るのも初めてだった……。映画の内容は「この映画を見せられたこどもたちはその後きっと映画を好きになったりしないんだろうな、たとえなったとしても、記憶から抹消されているんだろうな」というのが容易に想像がつくほど中身がなく、むちゃくちゃで、観たあとに虚無感しか残らなかった。失笑に苛まれ続ける悪夢のような2時間半である。これはもう個人史的にも地面に150メートルぐらいめり込んでいるような逆・金字塔。





 冒頭の話の飛び方はほとんど前衛的なレベルであり、原作未読者は置いてきぼり確実。映画のスピードは、物語的な流れを観客が咀嚼するまえに、次のエピソードへと飛ぶので登場人物への共感もなにも不可能なレベルの速度に達する。興味深いのは、なんの共感も抱けない登場人物たちが執拗なほど泣いたり、驚いたりと忙しいことである。彼らは観客にほとんど説明しないままに涙を流しながらスクリーンに現れる。ほとんど直截的に「泣く」という現象だけがそこには映る。あたかも「役者が泣いているシーン=感動的なシーン」という記号的な関係を提示するかのようにして。まずこのような演出に対して大いにシラけるのが普通の人だと思うけれども、もしこれが受け入れられるのだとしたら、私はその人を外国人だと思うだろう。





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ロード・ダンセイニ『影の谷物語』

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影の谷物語 (ちくま文庫)
ロード ダンセイニ
筑摩書房
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 神保町に『ブック・ダイバー』という古書店があって、ここはラテンアメリカ文学や幻想文学などの品揃えが割りに良く、値段も手ごろなので機会があると必ず足を運ぶようにしている。その店でなんとなく買ってみた本が自分的に大当たりだったりするのだが、ロード・ダンセイニの『影の谷物語』もそんな経緯があって読んだ一冊である。


 


 これは心が豊かになるような素晴らしい小説で、作者はアイルランドの男爵というのがなんだかすごい(ペンネームも「ダンセイニ卿」という称号から来ている。ちなみに18代目)。小説家の顔のほかにも、詩人、劇作家、随筆家、翻訳者、さらには軍人、探検家、アイルランドのチェス・チャンピオンという肩書きを持つのだから、プロフィールだけでも大変なことになっている。身長180センチを超えるイケメンであるところもポイントが高い。なにかこういった事実を知るにつれ「本当に豊かな文学とは豊かな生まれの人物によってでしか書き得ないのではないか」などと考えてしまった。


 


 物語は16世紀のスペインを舞台にした架空の歴史小説で、一種の騎士道小説ともいえる話である。これだけで「まるで『ドン・キホーテ』ではないか」と思う人もいるだろうけれど、それはその通り。物語は「ロドリゲスという名の青年が、父の遺言に従って、スペインにはすでに存在しない戦争に参加するための旅に出る」という始まり方をする。この「存在しない戦争に参加するための旅」という荒唐無稽さが『ドン・キホーテ』と重なる。





 『ドン・キホーテ』なので、従者も登場する。従者の名前はモラーノと言う中年の太った男で、これもそのままサンチョ・パンサと重ねられる。このキャラがとても良い。とことん無知だが、主人に対する忠誠と人柄の良さの描かれ方が素晴らしく、誰もが好きになってしまいそうな人物である。このあたりは、ほとんど萌え系小説のように読めてしまって、翻訳されたフォークナー作品に登場する黒人奴隷(語尾が『ズラ』とか『ですだ』とかになっているような)が好きな方には堪らないものがあるだろう。





 筆者(つまりダンセイニ)の語りが物語のながれに介入したりと、色々とセルバンテスを彷彿とさせるところがあるのだが、一点大きく『ドン・キホーテ』とこの作品が違っている点をあげるとするならば、物語がかなり真っ当な進み方をするという点であろう。魔法使いや決闘や戦争といった冒険譚が『影の谷物語』のなかでは、ちゃんと登場するのである。逆に「それはないだろう」というところから冒険譚が湧き出てくるので、あたかも「逆『ドン・キホーテ』」であるかのようでもある。この過剰さが良かった。文章も素晴らしい(いつかパクる)。





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映画音楽家としてのクリント・イーストウッド

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 もうすぐクリント・イーストウッド監督の新作『チェンジリング』が日本でも公開される。ここ数年、この監督の作品を(DVDが安く売っている、という理由で)かなり集中的に見続けてきたが、劇場で鑑賞したことが一度もないため、今回は是非とも劇場に足を運びたい。


 映画の公式サイトを見てみると、映画のメインテーマらしきものが聴ける。これを初めて聴いたとき「これってもしかしたらイーストウッドが書いてるのか?」と思ったが、サイトのスタッフ紹介を見てみるとやはり監督自身によるものだった。彼が監督業と音楽を兼任している作品をこれまでにいくつか観ているが、ここにきて彼が書いた音楽はかなり興味深いように思う。



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 上にあげたのは『ミスティック・リバー』のサウンドトラックを紹介している動画。イーストウッドの音楽の特徴がこれを聴いていただければ大体分る――ほとんどの作品で彼は同じような曲しか書いていないのだから。彼の特徴とは、つねにアダージョであることだ。これは『チェンジリング』にも『父親たちの星条旗』にも共通して言える。ブラスによって特徴的な主題を登場させるわけではなく、大部分がストリングスによる和声的な移行によって進行する、どこか物憂げな音楽。イーストウッドはつねにそのような音楽を書いてきた(おそらく編曲はいつも別な人物によってなされていると思うのだが)。



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 彼の音楽はサミュエル・バーバーの音楽を彷彿とさせなくもない。こちらの動画はサミュエル・バーバーによる《弦楽のためのアダージョ》。この作品は映画『プラトーン』のなかで使用されていることで有名だ。



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 2007年の『さよなら。いつか分かること』(イーストウッドが初めて他人の映画に音楽を提供した作品)でもこのような特徴は顕著である。思うに彼の音楽は、ジョン・ウィリアムズやエンニオ・モリコーネ(日本で言えば久石譲)といった著名な映画音楽家が持つ特徴とは正反対のところに位置している。イーストウッドの音楽には、口ずさむことの出来るようなキャッチーなところは存在しない。ほとんど印象にも残らないところが逆に印象に残るようなところさえある。



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 2006年の『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』では、クリント・イーストウッドが前者の音楽を、息子のカイル・イーストウッドが後者の音楽をそれぞれ担当しているが、こうして並べてみてもクリント・イーストウッドの音楽は異様なほど印象に残る主題に欠けている。こういったところが彼の音楽がそこまで語られてこない理由にもなっているような気がするのだが、それは少し勿体無い。イーストウッドという監督の演出における音楽の用い方には、かなり変態的なところがあり、かなり語りがいがありそうだから(とくに『ミスティック・リバー』のものすごく後味の悪いラストに、美しいメインテーマが流れるところなどはかなり驚かされた)。





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モリエール『タルチュフ』

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タルチュフ (岩波文庫 赤 512-2)
モリエール
岩波書店
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 「モリエール一気読みプロジェクト」最後は『タルチュフ』を。今年に入って7冊連続でモリエールの喜劇を読んできたが、そのなかでもこれが最も面白かった。落語で言うなら「クスグリ」と呼べるような笑える挿話は少ないが、いんちきキリスト教徒タルチュフが、富豪の男につけこんで娘とその財産をもらいうけようとする……そればかりか、男の妻までも自分のものにしようと計略する!という内容は「猛毒を含んだ喜劇」とでも呼べるだろうか。とにかくタルチュフが、いつも大袈裟に神の名を持ち出して信仰心をもっともらしく見せつけようとするのだが、それらはすべて偽りであり、詐欺である。今読んでもなかなかスキャンダラスな内容に思えるだけあって、初演当時は大変な大騒ぎ。この劇は上演禁止となったそうだ。





 タルチュフを信じきってしまっている男の目をどうやって覚まそう、あるいは、どうやってタルチュフを家から追い出そう、というような富豪の男の家族の奮闘振りも大変面白いのだが(暴力的な人物、理性的な人物、そして男の妻が中心となっていて、このあたりの性格の書き分けがものすごく上手い)、それよりも興味深かったのは、この劇が大団円へと向う終幕部分である(ここからネタバレ)。富豪一家は無事タルチュフを屋敷から追い出すことに成功するが、そのとき既にタルチュフは財産の権利書を譲渡されてしまっていた。追い出されたタルチュフは、法律を盾にして反撃に出ようと警察権力まで動かそうとする。が、最後の最後で「国王はすべてお前の正体など見破っておられるのだよ」という具合に、タルチュフが詐欺師として逮捕される……という、まぁ、いつもどおりかなり強引な展開なのだが、『タルチュフ』の強引さは他の作品とは違って注目に値する。





 他の作品、例えば『守銭奴』でも『スカパンの悪だくみ』でも良いのだが、そこでの「強引な展開」とはすべて神的な存在によって運命付けられた展開といっても良い――息子と結婚させようとした美女が実は、親友の生き別れの娘だった……息子と結婚させようとした美女と、息子が自分に黙って逢瀬を重ねていた美女が同一人物だった……など。しかし、ここでは国王、つまりルイ14世のことなのだが状況のすべてを一変させる。これは国王の権力が神を乗り越えた瞬間、と捉えるのは大げさだろうか。ここで登場する国王の権力は、現世からくるデウス・エクス・マキナのようにも感じられ、強く心にとまった。





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メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番

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メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲(DVD付)
ムター(アンネ=ゾフィー)
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 ヴァイオリン奏者のアンネ=ゾフィー・ムターの新譜はメンデルスゾーン生誕200周年にあわせたリリースとなっており、ヴァイオリン協奏曲の再録とピアノ三重奏曲第1番とヴァイオリン・ソナタが収録されたアルバムとなっている。正直、ヴァイオリン協奏曲のほうは名演奏だといえるものを何枚かもっているので今更食指が動かないのだが、リン・ハレル(チェロ)とアンドレ・プレヴィン(ピアノ。ムターの元夫)と組んだピアノ三重奏曲の演奏はとても良かった。





 かつて宇野功芳という音楽評論家がオットー・クレンペラーの演奏を「情熱の凍りづけ」と評したが、この言葉はムターの演奏にもあてはめられる気がする。彼女の演奏はつねに自然な音楽の流れから、大きくブレることはなく、大袈裟なルバートなどは存在しない。このあたりはとてもクールで厳格な様子さえある。しかし、それは単なる外側の殻に過ぎず、内側にはものすごい熱がこもっているように感じられるのだ。それは細やかな音の処理や、音量のダイナミクスの落差、それから激しいヴィブラートによって発露される。叙情的な美しい旋律がたくさん織り込まれたメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番はこれを堪能するためにあつらえ向きな作品であろう。リン・ハレルのチェロも素晴らしいし、それからアンドレ・プレヴィンの端正なピアノにも好感が持てる。プレヴィンは指揮のときでもそうだが、伴奏的な仕事をやらせると本当に素晴らしい仕事をする。


D*1


 個人的な思い出話になってしまうけれど、私はこの作品を大学のオーケストラの納会で2つ上の先輩が演奏しているので初めて聞いた。この演奏がとても印象的であったためか、この作品を聴くたびに「青春の音楽」という感じがする。メンデルスゾーンがこれを書いたのは30歳のときで、彼は38歳で亡くなったため、これはもう晩年の作品といっても過言ではないのだが。


D*2


 件のムターの新譜の話にもどると、これにはライヴ演奏やインタビューを収めたDVDもついてきて、このために4000円近い昨今のクラシックのCDにおける価格破壊とは真逆をいく値段となっている。配信との差別化を図るための戦略なのかもしれないが、これはちょっといただけないと思う。そのうちDVDなし盤が発売されたら良いのだが、こんな値段だったら本当に熱心なムターのファンぐらいしかレジに運ばない気がする。というわけで、メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番が収録されたアルバムで、値段の安いものをあげておく。



メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲
ファ(チョン・キョン),トルトゥリエ(ポール) プレヴィン(アンドレ)
EMIミュージック・ジャパン (2005-12-21)
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 奇しくもここでもピアノがアンドレ・プレヴィンとなっているのだが、チョン・キョンファとポール・トルトゥリエによる演奏も素晴らしい。この演奏ではトルトゥリエが主体となって全体的な音楽のまとまりを作り出し(なのでチョン・キョンファの燃えるようなヴァイオリンも控えめ)、品の良さと懐の深さが感動的である。




*1:ピアノ三重奏曲第1番。第1楽章。演奏はN響コンサートマスターの篠崎史紀、チェロ首席の木越洋、ピアノはロー磨秀


*2:第4楽章





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モリエール『スカパンの悪だくみ』

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スカパンの悪だくみ (岩波文庫 赤 512-8)
モリエール
岩波書店
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 「モリエール一気読みプロジェクト」第6弾は『スカパンの悪だくみ』を。解説によればこれは1671年に発表された作品で、この時期のモリエールは高尚で文学的に価値高い作品を書くことを諦め(書いても当時のパリではあまりウケなかったそうである)、面白おかしい喜劇を書くことに専念していたそうである。言われてみれば『スカパンの悪だくみ』にも文学性を取捨し、徹底して笑えるものを書こうという気概みたいなものが感じられるかもしれない。





 ケチな親父が旅行中に息子が父親に相談なく結婚してしまうのだが、父親は縁談をもって急遽旅行から帰ってくる……というところから話は始まる。縁談をめぐるトラブルがストーリーの核となっているところや、また、最後に明かされる秘密が劇を大団円へと向わせるところなどは、『守銭奴』にもよく似ている。だが『スカパンの悪だくみ』がおもしろいのは、スカパンという下男がトラブルを解決するために奔走し、ケチな父親たちを出し抜いてしまうところである。身分が低いものが高いものをとっちめるところには、なにか身分の高いものを批判するようなまなざしがあるのだろうか(おそらく劇を見に来ていたのは身分が高い人だったにも関わらず)。下男のたくらみは、最後に明かされる秘密によって無為へと帰するのだが、彼のアンチヒーロー的な立ち振る舞いがいちいち面白くて良かった。





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モリエール『町人貴族』

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町人貴族 (岩波文庫 赤 512-6)
モリエール
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 「モリエール一気読みプロジェクト」第5弾は『町人貴族』を。これは貴族に憧れる金持ちの商人が、貴族に振る舞いを近づけようとすればするほど滑稽な姿になっていまい、最終的には周囲の誰もが主人公を騙すような形で(誰からも馬鹿にされている形で)終幕を迎える、という話である。主人公は価値観のすべてを外部へと委ねる。主人公にとっては、あるものが貴族的なものであれば、それは良いもの、高尚なもの、ということになる。あるものが貴族的なものかどうかは、自分が判断する事柄ではない(なぜなら自分は貴族ではないからだ)。誰かが「○○は貴族的ですよ」「貴族は皆そうしています」などと言えば、すぐさまにそれを受け入れてしまう。ここに滑稽さが生まれる。端から見れば、主人公がかわいそうなぐらいに彼は馬鹿にされ、そして騙される。しかし、彼は一向にそのことに気がつく様子がない。だから逆に、もっとも幸せを掴んでいるのは騙される側だとも言えるかもしれない。「騙される」ということは事後的にしか確認できない。騙されていることに気がつかないということは、つまり騙されていないということだから。





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モリエール『守銭奴』

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守銭奴 (岩波文庫 赤 512-7)
モリエール
岩波書店
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 「モリエール一気読みプロジェクト」、第4弾は『守銭奴』を。これは『タルチュフ』、『ドン・ジュアン』、『孤客』と並ぶモリエールの4大性格喜劇だそうである。タイトルにある「守銭奴」とは業突く張りな主人公、アルパゴンのことで、この男が息子であるクレアントと美しい町娘、マリアーヌを取り合う(!)というものすごい話である。これにアルパゴンの秘書と娘のロマンスなどが絡み合い、モリエールにしてはやけに線がちょっと入り組んだようなところがあって、ややサスペンス染みたところさえ感じるのだが、その絡み合いが最終幕で力技な大どんでんがえしによって大団円に向うところが爽快で良かった。





 解説によれば、モリエールはこの脚本を書くにあたって、他の作家のさまざまな作品を引用したり、筋書きを借用したりしているらしい(そもそもの大筋の物語からしてネタ元が存在する)。ということは、コラージュという技法も大した斬新な手法ではないということであろう。新しい作品におけるコラージュに触れたときに感じる「ニヤリ」という感じは、単に「自分が知っているから嬉しい」というだけのものなのだろう……などと思う。もちろん、それは作者との共犯関係にあるのだが。





 そういえば『女房学校』にも『守銭奴』にも『ガルガンチュアとパンタグリュエル』からの引用があって、「ラブレーって偉大なのだな」って思ったりした。





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アレクサンドル・ソクーロフ監督作品『チェチェンへ アレクサンドラの旅』

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 淡々とした物語の運びはオール明けの脳みそにはかなりハードで、半分ぐらい眠ってしまった……が、大変面白く鑑賞できた。全部観られなかったこともあって、これが良い映画だったのかどうかはなんとも判断つきかねるけれども、色彩や画面構成など感心させられるものが多かったし(「装甲車の後ろを、老婆が歩く」という絵には痺れた。ほとんど超現実主義の世界のようだ)、「戦争が描かれない戦争映画」という呼び名が相応しい作品だったように思う。





 何気なしに老婆が歩いていた場所が地雷原であったり、ライフルの構造の単純さについて老婆が驚いたり……という場面は「上手いなぁ」と思った。これらは間接的に現実がスクリーンのなかに現れる場面であろう。一切説明的なところはないのだが、何気ないところに存在する地雷原や、単純な構造のライフルは人を傷つけるための兵器である、といったことが不思議と重みをもって伝わってくるところがとても良かった。





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モリエール『女房学校』『女房学校是非』『ヴェルサイユ即興』

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女房学校 他2篇 (岩波文庫 赤 512-1)
モリエール
岩波書店
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 モリエールの出世作となった『女房学校』を。これは初演当時内容が大変な物議を醸し出し、このスキャンダルのおかげでモリエールは一躍時の人になったそうである。「妻にするならやっぱり無垢な女の子じゃないとな!」と思った金持ち紳士が田舎から美少女をひきとって、館に閉じ込めて教育するのだが、結局は若い男の子に女の子は惹かれてしまい、金持ち紳士は自分のために女房を育てたのではなく、ホントに単なる学校になってしまう……というオチで、ダメな源氏物語みたいでもあるのだが、女性が男性を裏切って他のところにいく点などが問題となったみたいだ。また、金持ち紳士が女の子に「良き妻となるためのご誓文」みたいな文章を読み上げさせるのだが(その内容は、妻は夫のために尽くせ!的なもの)、これについても女の子側から否定が行われる。これも当時の男性の間で問題視されていそうだ。





 モリエールは同業者からも批判されるのだが、これに対しての彼の反論は『女房学校是非』と『ヴェルサイユ即興』という2作品にておこなわれている。前者は晩餐に集まった市民が『女房学校』について語り合う内容で、後者はルイ14世のための劇を即興でやることになってしまったモリエール一座が舞台となっている。どちらもメタフィクション的なのだが、フィクションの世界が外部の社会と繋がっているところがなんとも面白い。





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庄司紗矢香ヴァイオリン・リサイタル@鎌倉芸術館

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曲目


シューベルト/ヴァイオリン・ソナティナ第3番ト短調


ブロッホ/ヴァイオリン・ソナタ


ドルマン/ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第2番


ベートーヴェン/ヴァイオリン・ソナタ第7番ハ短調



 新年一発目のコンサートは、庄司紗矢香のリサイタルを聴きにいく。会場の鎌倉芸術館は初めてだったが、非常に音響が良いホールとの評判を聞いていたので期待していったのだが「まぁ、普通かな……」といった感じ。ただ、外装・内装ともに気合の入った設計で(中庭に竹などが植えてある)とても面白い。武家社会的な(?)イメージをかきたてられるストイックな感じの建物である。演奏ももちろん素晴らしく大変満足して会場を後にした。





 なかでも感銘を受けたのは、最初に演奏されたシューベルトのソナティナ第3番である。執拗なまでの繰り返しと、展開しきることのない構造は聴いていてとても眠たくなるのだが、退屈とはまた違った感覚を味あわせてくれる好演で、とくに主題の魅力を余すところなく歌い切るようなアコーギクを堪能できたところが良かった。この演奏家は、やはりガチガチに固められた音楽というよりも、少し隙間のある(遊びのある)音楽を演奏するときに発揮される自由度の高さが素晴らしい。


 


 しかし、メインで演奏されたベートーヴェンのソナタ第7番は期待していたよりもあまり楽しめなかった。テクニック的には最高水準のものを見せ付けられた感じがしたが「これぐらいの演奏ならば、彼女のものを聴かなくても良いかな」と思うぐらい、言ってしまえば「普通の演奏」だったと思う。疲れがあったのかもしれないが、どこかやや散漫にも聴こえてしまった。





 それからピアノ伴奏者のイタマール・ゴランがすごかった。彼の演奏には一切、伴奏するような(ヴァイオリンに沿うような)ところがほとんど見当たらず、終始自分の音楽を展開していたような印象を受ける。とくにベートーヴェンの演奏はすさまじく、ほとんど彼がメインのように聴こえたほどだ。ダイナミクスやルバートのレンジが広く個性的な彼の演奏は、シューベルトではうまく噛みあっていたような気がしたが、ベートーヴェンでは庄司紗矢香の力不足があったかもしれない。





 彼女について「まだまだこれからの演奏家なのだろうな」という気がしたし、次回の来日時にも必ず聴きに行きたいなぁ、と思う。舞台上の彼女は、テレビで観るよりずっと小柄で可愛かったです。



チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲
庄司紗矢香
ユニバーサル ミュージック クラシック (2007-09-05)
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モリエール『病は気から』

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病は気から (岩波文庫 赤 512-9)
モリエール
岩波書店
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 「モリエール一気読みプロジェクト」、続いては『病は気から』を。こちらはモリエールの最後の作品だそうで、なんでもこの作品の主役を演じてもいた彼は4度目の公演の終幕と同時に倒れ、そのまま帰らぬ人となったという。まるでジョニー・ギター・ワトソンみたいだが、とくに絶筆というほどの鬼気迫るものはなく、通常通りのモリエール節である。台本を書いているとき既に彼の健康状態は最悪だったそうだが、その状況でこれだけおかしな話が書けてしまうのは逆に壮絶か。得意の医者ネタも満載でとにかく笑えた。





 この劇のなかでは、いくつか伝統を頑なに守ろうとする人に対しても皮肉めいた描写が見られる。この点が心に留まった。例えば、当時フランスでは信じられていなかった血液の循環論を否定するのに躍起になる若い医者や、慣習法を遵守させようとする公証人といった人物をモリエールはとてもこっけいな存在として描こうとする。彼らは皆「伝統は伝統だから正しく、そして守らなければならない」という具合にトートロジーめいた論理を振り回すのだが、それは以下の言葉によって打ち消されることになる。



古人は古人で、わたくしたちは現代の人間ですわ。



 このセリフには近代の萌芽を感じてしまわなくもない。





 この岩波文庫シリーズは解説もとても充実していて、ルイ14世治下のフランスにおける文化状況なども把握できて面白い。『病は気から』の解説には、モリエールが才能を見出してタッグを組んでいた作曲家、リュリとの軋轢なども書かれていて大変興味深かった。リュリと離れてしまったために、モリエールはシャルパンティエにこの劇のための音楽を依頼したそうである。リュリ、シャルパンティエといえば、大バッハ以前に存在した人気作曲家として(ごく一部で)有名であるが、彼らがモリエールと繋がっていたとは初めて知った。彼らの作品は、栗コーダーカルテットの演奏でしかしらないため、いずれ聴いてみたいと思う。





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モリエール『ドン・ジュアン』

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ドン・ジュアン (岩波文庫)
モリエール 鈴木 力衛
岩波書店
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 昨年末、岩波文庫からモリエールの翻訳9作品が一括で重版されたのを受け、この機会に一気に読んでみようと思った。題して「モリエール一気読みプロジェクト」である(そのままだ……)。これまでに『孤客(ミザントロオプ、人間嫌い)』と『いやいやながら医者にされ(このタイトル最高)』は読んでいるので、残り7冊購入してまずどれから読もうか迷ったが、手始めに『ドン・ジュアン』を。こちらはスペインに伝わる伝説の性豪ドン・ファンを題材にした喜劇なのだが、やはりモリエールはどれもとことんくだらなく笑えた。





 無神論者で女たらし(かつ、一度ヤッたらヤリにげ、ヤリ捨て)のドン・ファンのもとへと、決闘で殺した騎士が石像の姿でやってきて、懺悔と回心を求めるが、ドン・ファンはそれを拒否、そして地獄へ落とされる……話の大筋はこのようなものなのだが、私はこの話が大変に好きである。最後まで悪を貫き通し、そして地獄へ落ちる、という痛快さが素晴らしい。



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 もちろん、モーツァルトの歌劇《ドン・ジョヴァンニ》も最高に好きだ(動画は映画『アマデウス』より。劇中では《ドン・ジョヴァンニ》の最終場面が挿入される。この壁をブチ破って石像が登場する演出も最高だ……)。なので《ドン・ジョヴァンニ》と『ドン・ジュアン』を比較しながら読んでしまった。


 


 2つは、筋書きや登場人物に違いがあり、人物の性格設定も微妙に異なっている。例えば、ドン・ファンの従者はモーツァルトのレポレッロにが徹底した腰ぎんちゃくで道化的ですらあるのに対して、モリエールなスガナレルではやや良心的で時に主人に対して物申すときもある。どちらも主人公が極悪人であることに大差ないのだが、他の登場人物の人間味の面ではモリエールのほうが豊かであるように思われた。



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 しかし、胸が空くのは断然モーツァルトのドン・ジョヴァンニだ(この最終場面が好きすぎるので、もうひとつ別な演奏を。これも石像感が素晴らしい……あと亡霊たちの姿がマイケル・ジャクソンの「スリラー」みたい)。音楽が付随していて、よりドラマティックに話に接せられることもあるけれど、挿入される場面にしても《ドン・ジョヴァンニ》のほうが起伏に富んでいる気がする。この台本はロレンツォ・ダ・ポンテという人の筆によるものだそうだ。私はこの人物についてよく知らないが、この人が「レポレッロがドン・ジョヴァンニの女性遍歴(どこそこの国で何人の女と寝た……云々のメモ)を歌う」という、妙に嫌な場面を台本に書き入れたのは慧眼であると思う。



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 話がモリエールから大幅にそれたので、この際、いろんな石像のバリエーションを集めて無理矢理締めくくることにした(あなたはどの石像が好き?)。





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Kenmochi Hidefumi/Falliccia

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Kenmochi Hidefumi
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 昨年の11月にリリースされたKenmochi Hidefumiのファースト・フル・アルバムを友人の薦めにより聴く。これはまた良い宅録アーティストが出てきたなぁ、という感想を抱かせる良いアルバムだった。密室のなかで練り上げられた狂気ではなく、不思議と開放的な楽曲が収録されているところに惹かれる。そういうところは(音楽のタイプはまったく違うけれども)fishing with johnと近いアーティストなんじゃないだろうか。丁寧に曲を作っていそうなところも好感が持てる。まったくの想像だが、きっと良い人なんだろう……。



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 Youtubeにはミニアルバム『TIGER LILY』からの楽曲がアップされていた。フル・アルバムにはもっと叙情感のある楽曲が多いのだが、それにしても気になるのは彼の曲タイトルのつけかたである。フル・アルバムには「Bush of Ghosts(ブライアン・イーノが参加したアルバムのタイトル)」や「Ash-ra(マニュエル・ゲッチング!)」といった曲があるし、ディスコグラフィを見てみると「ATOM HEART」という曲もあるようで、思わず「あれ、もしかしてプログレちゃっている方ですか?」と訊ねたくなる。ものすごくどうでも良いのだが――プログレた曲名の曲の内容と元ネタの間にもとくに関連性がなさそうだし。





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ミゲル・デ・セルバンテス『セルバンテス短編集』

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セルバンテス短篇集 (岩波文庫)

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 『ドン・キホーテ』の作者、ミゲル・デ・セルバンテスの残した短編小説を4つ(短編集『模範小説集』から3つ、『ドン・キホーテ』内の挿話から1つ)を収録した本。セルバンテスの状況を描く、というよりかは、ある人物の個人史を説明するような語り口には、時折退屈を感じないでもないのだが、面白く読めた。ドン・キホーテのように、理性と狂気が1人の人物のなかで破綻なく共存しているような主人公たちが登場し、その誰もが幸福な結末にたどり着かないのだが、全体的に愉快な感じなので妙にソフトな悲劇として読めてしまう。このなんともいえない読後感は、ちょっと他にないかもしれない。





 セルバンテスの作品を読んでいて、不思議だなぁ、と思うのは「こんな変な作品ばかり書いているのに、なぜこんなにもリスペクトされているのか」ということである。たしかに小説構造はえらいことになっていて読んでいて、うわー……すごい、前衛の手法なんて400年以上前に既に考案されてるんじゃん……とか思わされるのだが、中身は下ネタや狂気のオンパレードだったりするわけで、実際読んでみるととても世界史の教科書に名前が出てくるような「立派な作家」という感じがしないところに、強い違和感を感じる。これはおそらく(読んだことないけど)メルヴィルにも、ラブレーにも言えることなんじゃなかろうか。


 





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カエターノ・ヴェローゾはやっぱりスゴかった……

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 60年代から活躍するブラジルの大物ミュージシャン、カエターノ・ヴェローゾについて調べていたら見つけたすごい映像。時期は不明だがマイケル・ジャクソンの「Billie Jean」をボッサでカヴァー。リズムは完璧に組みかえられちゃっているし、歌詞はポルトガル語だしで(よく聴いたらそのまま英語だ……訛りがすごすぎてまったく英語に聴こえなかったというオチ)、サビ部分にくるまでまったく原曲がわからないのがスゴい!カヴァーじゃないと思って聴いたほうが、良いな、と思える謎の演奏だ。



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 ヴェローゾのカヴァーでスゴいのはこれだけではない。彼は2004年にアメリカのポップ・ミュージック/スタンダードをカヴァーしたアルバムを発表しているんだけれども、そこではなんとニルヴァーナに取り組んでいる。曲は「Come As You Are」で、こちらは一応原曲が分るアレンジになっているが、62歳(当時)のカート・コバーン……というのがなんとも言えない凄味を放っている。



Os Mutantes
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 なぜ、ニルヴァーナを取り上げるに至ったのかを少し考えたのだが、カート・コバーンが生前、大好きなバンドに名前を挙げていたムタンチス(トロピカリズモの代表的バンド。「サージェント・ペッパーへのブラジルからの回答」!)の絡みなのだろうか。ムタンチスの初期には、ヴェローゾが楽曲の提供を行っている。



Ce
Ce
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カエターノ・ヴェローゾ
ユニバーサル ミュージック クラシック (2006-10-18)
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 ヴェローゾの現時点での最新アルバムは、2006年の『Cê』。以前、このアルバムに収録された曲を中心に取り上げたライヴ・アルバムは紹介したけれど、これもホントにスゴい。芸能生活40周年記念アルバムで、バリバリのロックに取り組む姿勢がもう感動的。しかも、最後の曲は変な奇声で終わるという謎仕様。



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 以前も貼り付けた映像だけれど、アルバム収録曲「Rocks」のスタジオ・ライヴ映像。ヴェローゾの変な動きがツボ。





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Wayne Shorter/Juju

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JuJu
JuJu
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Wayne Shorter
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 ウェイン・ショーターの1964年のアルバム『Juju』を聴く。こちらはアート・ブレイキーのバンドをやめて、マイルス・デイヴィスのバンドに加入したのと同時期のもの。この時期の彼のリーダー・アルバムは他に『Speak No Evil』を持っているのだが、この年、彼は他に『Night Dreamer』というアルバムを含めて3枚もアルバムをリリースしており、しかも全部ジャケットの色合いが似ているものだから色々と混乱してしまう。こんな具合である。



Night Dreamer
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Wayne Shorter
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Speak No Evil
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Wayne Shorter
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 演奏の密度はとにかく濃く、カッコ良い。しかし、マイルスのリーダー・アルバムと比べると断然マイルスのほうが好きである。曲も良い曲ばかりなのにも関わらず、なにかに欠けるような気がしてくる。


 タイトル曲である「Juju」は、西アフリカ民族に伝わる呪術をテーマにした、とあるのだが、どうもそういったコンセプトの徹底がなされていないような感じもする。ウェイン・ショーターという人は、優れた演奏家/作曲家であったかもしれないが、全体を導くプロデュース能力は天才的と言えるほどではなかったということなのかもしれない。





 あと、バックの演奏がそのまんまコルトレーンのバンドなせいか『至上の愛』を聴いているような錯覚に陥るところがある。当時、ウェイン・ショーターはポスト・コルトレーンとして新進気鋭の演奏家だったのだが、その一方で「コルトウェイン(アイツはコルトレーンをパクり過ぎ)」などと揶揄されることもあったと言う。でも、これってウェイン・ショーターのせいではなくて、バックに要因があったのではなかろうか……。エルヴィン・ジョーンズにもマッコイ・タイナーにもものすごくクセがあるし。





 なんだかあまりポジティヴなことを書いていないのだが、私はこの人の書く曲がとても好きである。とくに「Footprints」みたいにモーダルで、リズム隊が力強いフレーズを反復する曲が良い。『Juju』に収録されている曲ならば「Mahjong」という曲がそれにあたる。どこがどう麻雀なのかはよくわからないが……。





 ずっとアドルノのことばかり書いているとホントにこのブログを読む人がいなくなってしまいそうな気がするので、最近買ったCDのことなどもいつもどおり書いていこうと思う。





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アドルノ『楽興の時』全解説(2) シューベルト

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ベートーヴェンの没年とシューベルトの没年のあいだに横たわる境界線を踏み越えた者が見舞われる戦慄は、冷却しつつ鳴動する擂鉢状の噴火口から、いたいほど明るく白々した光のなかに一歩踏み出した人間の覚えるそれに似ているかもしれない。



 1929年、シューベルト没後百年を記念して書かれたシューベルト論。この文章は『楽興の時』に収録されたもののなかでも最長の部類に入るもので「著者が音楽の解釈のために書いた最初の大がかりな仕事」(P.8)とある。アドルノは後に自ら「多くの点が、抽象的な域にとどまっている」(同)と反省をおこなっているように、読解にはかなりの労力を要する作品だが、ヘーゲルに根ざした彼の歴史意識と音楽作品との関係性なども読み取れ、大変重要な作品だと思われる。

 ここでのアドルノの主旨は大きく2つに分けられる。ひとつは 「ベートーヴェンの晩年様式」でも書かれたような「心理的な解釈」への批判である――「彼がベートーヴェンのように人格の自発的な統一から理解されえないからといって、彼の人柄なるものをでっち上げ、その理念がいわば目に見えぬ中心となって相反する様相をまとめ上げているのだと考えることほど、彼の音楽の内容を徹底的に損なうことはないであろう」(P.23)とあるように、アドルノは徹底して楽曲分析からの解釈を主張する*1。もうひとつの主旨とは楽曲分析から批評の実践である。以降では、このシューベルト論について見ていこう。





ベートーヴェンやモーツァルトの形式が無言の不壊の持久力を示しているかたわらで、シューベルトのそれの持つ生命が尽きるようなことがあっても――もちろんこの点も、彼の形式について本格的な究明がなされないかぎり、決定的なことを言うわけにはいかない――乱雑で、月並みで、倒錯した、社会的に既成秩序にきわめて不都合な接続曲(ポプリ*2)の世界が、彼の主題にたいして第2の生命を保証してくれるのだ。(P.27-28)



 アドルノはまず、シューベルトの形式における構成の弱さ、不明瞭さについて着目した。ベートーヴェンやモーツァルトに比べると、シューベルトの形式は不朽の名作と呼べるほどの強度に欠けることを彼は指摘する――ベートーヴェンやモーツァルトは、主題を有機的に発展させ、目的論的に構成する。しかし、シューベルトはそのようにしなかった(できなかった)、と。だが、シューベルトは作品を「主題と主題をつなぎ合わせながら、1つの主題から他に影響するような帰結を引き出す必要のない接続曲」(P.28)とすることで、その価値を延命させようとしたのだ、とアドルノは述べている。だから、シューベルトの音楽は必然的に断片的な性格を持つことになる。





 興味深いのは、アドルノが主題の扱いに対して、歴史を布置している点である。アドルノは、ベートーヴェンやモーツァルトの主題の発展形式に、弁証法的な歴史のダイナミズムをそのまま見出しているのかのようだ。しかし、シューベルトの作品にそのようなものは存在しない。接続曲における各個の主題は、すべて完全に交換可能であり、そこには一本の線で繋げるような流れは存在しないのだ。この非歴史性、断片的性格がシューベルトの「風土」を際立たせる、とアドルノは言った。そして彼は、この風土について次のように述べている。



それは先ずもって、死の風土なのだ。シューベルトのある主題の出現と、つぎの主題のあいだに歴史が介在していないように。生が彼の音楽のねらいであることはない。(P.30)



 また、アドルノはこの「死の風土」のなかに、シューベルトが「さすらい人」の概念を紛れ込ませていることも指摘する。精神分析が「旅と放浪を、古代から伝わり残る客観的な死の象徴表現と断定している」(P.33)ことを根拠に、彼はこの概念にも死の匂いを嗅ぎ取りながら、この概念によってシューベルトの主題操作と歌詞の選択を結び付けようとする。


 シューベルトの主題は、さまよう。その姿は、時に同じ主題が、違った作品のなかで用いられることによっても現前される。だが、その反復は「歴史ではなく遠近法的な巡回」(同)であり、主題がさまよう姿は常に「時を超越し、たがいに結びつくこともなく」(P.34)、死の形象を表すのだ。「そこに生ずる変化も、すべて光の変化でしかない」(P.33)。





 ここから再度、アドルノはシューベルトの形式について触れ、この概念を形式についても当てはめていく。



シューベルトの変奏作品はベートーヴェンのそれのように主題の組成には手をつけないで、主題のまわりを包んだり遠巻きにしたりするだけだが、とくにこうした変奏作品において、巡回する旅がシューベルトの形式になっていると言ってよい。そこでは形式に手っ取り早くそれとわかる中心があらかじめ与えられていなくて、立ち現われるすべてのものを引き寄せる力のなかに、始めて中心が名のり出るのである。(P.34)



 アドルノは、この「中心」に、19世紀の芸術、そのなかでも風景画のなかに切取られたような「気分」を見た。発展のない主題の反復(しかし、その反復は和声上の移行などによって「露出を変えるようなぐあい」(P.35)に姿を変える。しかし、そこで主題の本質的な変化は生じず、あくまで仮象の変化であることに注意)は、あたかも気分の移り変わりのようであり、この点においてシューベルトの気分は純正なのだ、と。


 また、シューベルトのソナタ形式をアドルノは「おしきせのソナタ」と評する。この形式のなかでシューベルトの主題は、「いやでも制御しなければならぬという内在的な強制」(P.36)を受ける。だが、この強制力によって、シューベルトの主題を生み出す着想の力は強くなり、同時に主題はより強いものとなる。アドルノがシューベルトに弁証法を見出すのは、この逆説的関係性においてである。





 これ以降、アドルノはシューベルトの具体的な作品を引き合いに出しながら、検証に入っていく(P.38以降)。ここではシューベルトの作品がどのような気分を表象しているのかについて述べられているのだが、おそらくこの箇所がもっとも難解な箇所であろう。あたかも、その気分を詩的言語によって置換しようとするかのような調子を帯びており、かなり意味を読み取りづらい。しかし、アドルノによる悲哀、希望、歓喜……といった様々な気分の解説に対して、更なる解説を加えることにはあまり意味がないように思われる(ここは実際に本文に触れなければならない箇所であろう)。ただ、この部分の最後については少し触れておきたい。アドルノはシューベルトの「気分」の描かれ方についてこのようなことを述べている。


シューベルトが試みたのは、失われた近隣を行きつくことのできない遠方によって補正することではなかった。彼にとっては、超越的な遠方が、すぐ身近で手の届くものとなるのである。それはハンガリーのように*3門のすぐ前にありながら、そこの不可解なことばのように遠いのだ。そこに謎めいたところが生じ(中略)つい手づかみにできるほど近くにありながら、幻のようにとらえどころがないのである。(P.44)


 シューベルトは気分を純正に描く。しかし、そのような純正な気分というものは、本来であれば我々のずっと遠方に存在しており、触れることができない(純正な悲哀、純正な歓喜とは果たしていかなるものであろうか?我々の感情とは、通常もっと不純なものであろう*4)。だが、シューベルトはそれを身近なものとして、我々が触れられるものとして音楽の中で描いている。ただし、それは純正であるあまり「幻のようにとらえどころがない」――アドルノが言わんとするのは、このようなものであろう。「わたしたちはこの音楽を解読することができない」(P.45)とまで彼は言う。しかし、「シューベルトの音楽を前に、涙はこころに相談もなく、目に溢れ出る」(同)。この涙こそが「究極の和解の符丁」なのだ。


 ここに、シューベルトの気分が、すでに過ぎ去ったものであり(「現世のそれではなく、追憶のうちのふるさと」(同))、彼の音楽がその過ぎ去ったものを非論理的に理解するための契機である、というアドルノの主張を見てよいと思われる。




*1:また、ここでは作者の感情と作品の関係性について反ロマン主義的な主張もおこなわれる。「抒情詩人は作品のうちに直接みずからの感情をうつし出すわけではなく、むしろ彼の感情は、無類に小さな結晶体における真理を、作品のなかに引き入れるための手段なのだ」(P.25)


*2:メドレー


*3:シューベルトはオーストリアの作曲家であることを思い起こされたい


*4:さらに言えば、我々の気分は、不純なものへと変容したのである





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アドルノ『楽興の時』全解説(1) ベートーヴェンの晩年様式

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大芸術家の晩年の作品に見られる成熟は、果実のそれには似ていない。(中略)そこには古典主義の美学がつねづね芸術作品に要求している調和がすべて欠けており、成長のそれより、歴史の痕跡がより多くそこににじみ出ている。(P.15)



 タイトルのとおり、ベートーヴェンの晩年作品について書かれた文章(1937年)。ここでアドルノは、ベートーヴェンのみならず、さまざまな芸術家の「晩年の作品は破局(P.21)」に向う理由について分析をおこなっている。





 はじめに、アドルノはこれらの晩年作品に関する世上の見解についての批判から述べる。彼が批判する世上の見解とは、伝記や運命について言及しながら、晩年の作品における破局を、死を前にして個人性が暴発した結果だ、と意味づけるようなものである。このような解釈をアドルノは「心理的な解釈」(P.18)と呼び、不十分な見方だとした。


 アドルノはベートーヴェンを、主観性が働いている作曲家だと評価している(P.16)。しかし、晩年のベートーヴェンにある謎についてもアドルノは着目する。



晩年のベートーヴェンは、きわめて《無表情》な、突き放したようなかたちのものを残している。(同)



 ベートーヴェンの晩年作品には、多声的・客観的な、(これまでのベートーヴェン作品のなかでは登場しなかった)新しい構成が見られる。これらは、彼の主観的な一面とは相反し、時に支離滅裂なほどである――とアドルノは言う。だから「彼の態度に、《主観主義》という紋切り型がぴったりというわけにはいかない」(同)。これがアドルノが指摘する謎である。





 アドルノは楽曲分析から、その謎をつぶさに見ていく。この分析において、彼は慣用(コンヴェンション)の役割を手がかりとした。


 主観主義的な芸術家にとって、過去に作られた慣用は甘受せず、もしも避けがたい慣用ならば表現の衝動にしたがって作り直すことは掟である(P.17)。アドルノはベートーヴェンの中期作品に、慣用からの脱却をいくつも認める。しかし、晩年の作品はこの点がまったくちがっているのだ。


最後の5つのピアノ・ソナタにおけるような独特の文章法を用いている場合でさえ、いたるところ慣用の書式や語法がちりばめてあるのだ。そこには、飾りもののトリルの連鎖や、カデンツや、フィオリトゥーラ*1などが盛りだくさんに見られるのだが、ときに慣用が地金のままでむき出しにされている場合も多い。(同)



 晩年作品では、主観主義に反して慣用がシンプルに用いられている。これらの分析結果によって、アドルノは心理的な解釈を退ける。彼の言い分はこのようなものだ――主観主義に反する現象が楽譜のなかに存在しているのにも関わらず、どうして晩年の破局を個人性に理由付けることができようか。





この個人性なるものは、死すべきものとして、また死の名において、実際には芸術作品のなかから姿を消しているのである。晩年の芸術作品に見られる個人性の威力は、それが芸術作品のあとに、この世に訣別しようとして見せる身ぶりにほかならない。それが作品を爆破するのは、自己を表現するためでなく、表現をころし、芸術の見かけ(シャイン*2)をかなぐり捨てるためだ。(P.19)



 アドルノは、ベートーヴェンの晩年作品に心理的な解釈とは真逆の意味を与える。ここからがアドルノの本領発揮、アドルノによる批評のはじまりの部分になるのだが(これまでの批判は前奏に過ぎない)、彼が本領発揮すればするだけ、文章次第に難解な調子を帯びてくる。少し整理が必要だろう。



晩年のベートーヴェンにおける慣用は、むき出しに露呈されつつ、表現となる。多くの人びとによって着目された彼の様式の縮小が、そのためにものを言っている。その狙いは、音楽語から常套句をしめだすことよりも、主観に制御されているという見かけから、常套句を救い出すことにあるのだ。力学から解き放たれた常套句が、自在に自ら語り出ることになるわけだ。しかし、それはまた、立ち退いていく主観性がこれら常套句のうちを駆け抜け、その志向によって一瞬それらを照らしだす束の間のことである。(P.20)



 ベートーヴェンの晩年作品からは「彼の様式」――慣用を拒絶し、主観性を帯びた表現様式――が退く。代わりに現れるのは、慣用である。そこでの慣用は、主観によって支配された状態ではない。「常套句(慣用)」は自然の状態を回復し、そして自ら語り出す。だが、主観性は作品のなかから完全に撤退するわけではない。むしろ、作品中に彼の様式と慣用が同時的に存在している。しかし、それは調和的な共存ではなく、むしろ2つがぶつかり合う不協和的関係を示すものである。


 アドルノはベートーヴェンの晩年作品のなかに「単音性、ユニゾン、顕著な常套句などを片手に配しながら、突如としてポリフォニーがその上にそそり立つ」(P.20)といった状況を指摘する。そして、このように様式と慣用のせめぎあい、あるいは、ぶつかりあったときに放たれる「火」/「燃焼」が作品の内容となっている、と彼は言う。





 アドルノが見出した「火」、そしてその意味について、彼はこのような言葉を付している。



秘密はふたつの断片の合間にひそんでいるのであり、両者が相ともに形づくっている形象のうちにしか、それを封じ込めるすべはないのである。(P.21)



 この言葉は非常に重要なものだと思われる。なぜなら、このような、2つの異なるものがお互いを否定しあう関係において、1つの意味を生み出すことが、そのままアドルノの中心的思考方法である否定弁証法と連結して考えることが出来るからだ。火は、様式と慣用のどちらか一方に所属するものではなく、あくまで、その2つがぶつかったときに発生する。よって、通常はどこにも存在しないものである。それはつまり、瞬間的にしか現れず、うつろいゆく、浮動的なものとして考えられる。


 アドルノは言う、晩年作品の破局には「分裂する力」がある。そして、そこでは、引き裂かれ、不協和な状態におかれた様式と慣用が作品を「永遠の記念として保存」するのだ、と。





 注意されたいのは、晩年作品はあくまで「永遠の記念」として保存されるのであり、「永遠」として保存されるわけではないことだろう。「永遠の記念」と「永遠」との間には、大きな意味の隔たりがあるように思われるのだ。


 作品は永遠(≒無限、浮動的なもの)を内包するものとして読むことができるが、しかしそれが作品であるという理由で、これをまた禁じるのである。作品は作品である以上、すでに規定されたものとして我々の前に現れている。浮動的なものは、規定された作品から事後的に見出されるものであり、この順序を変更することは不可能である。

 よって「永遠の記念」という言葉には、直接的に作品の浮動的なもの(多義性)を捉えることへの断念が含まれているように思う*3





 しかし、こうなるとアドルノが楽曲分析から導き出した「火」もまた、一種の「誤読」に過ぎなくなってしまう。同じ誤読であるならば、この方法は彼が手厳しく批判した「心理的な解釈」とレベルは変わらないだろう。ここでは試みられていない布置連関という方法が、アドルノにとってこれらの問題を解決するものだったのではないか、と私は推測する。




*1:旋律に装飾を施すこと。装飾音符のこと?


*2:仮象


*3:これらの問題意識は東浩紀『存在論的、郵便的』で指摘された、デリダの「ジョイス産業」への問題意識と多く共有されるものだろう





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