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古澤健『ドッペルゲンガー』




ドッペルゲンガー (竹書房文庫)
古澤 健
竹書房
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 縁あって*1黒沢清監督作品の映画『ドッペルゲンガー』のノベライズを読む。映画のほうは観ていないのだが、これは面白く読んだ。野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』みたいな文体で、セルバンテスもかくや! と思わせる脱線と脱臼の連続があるところがツボにハマる。とくにドッペルゲンガーが本体*2のために、ガテン系のバイトをしてお金を作る、というところが素晴らしい、と思った。そんな優しいドッペルゲンガーがいたら……なんかハートフルな気持ちになってしまうではないか……。





 とはいえ、これはかなり正統派の精神分析学的小説とも思われるのだが、興味深いのは、欲望に対して率直に行動するドッペルゲンガーに対して(大変貧しいフロイト理解のもとに定義付けるとエス)、本体がそれに超自我として働きかけ、どこにも中心が存在していない、という点であろう。逆に言えば、エスと超自我という二項対立によって、中心のなさは浮き彫りになり、作品のなかにもある「本当の自分なんてくそ食らえだ」というセリフへと繋がっていく。物語上、対立していた一方の極が死ぬことによって、分裂していた自己が統一されていくのだが、最終部で主人公、早崎が見せるある種の偏りとは、「本当の自分」とかいう回答のようなものを回避しながら、放浪する自我を描いているようにも思う。





 このような「本当の自分」の回避は、ほかの登場人物からの扱われ方からも明らかなのかもしれない。たとえば、ヒロインである永井にしても、早崎と不倫関係にある教子にしても、不可解な、「中身のない人物」として描かれるし、また、最終部で早崎と敵対する君島にしても、当初自我のかけらもない無気力人間として描かれながら、途中で早崎からの承認を得ることによって突如生き生きとするのだが、途端にとっちめられてしまう。とにかく確固たる自我、というか、俺は俺! と主張している人物がいない――一番主張しているのが、ドッペルゲンガーと本体とで二人存在する早崎なのだが、もはや二人の早崎(俺)が存在している時点で、その主張は無効化されてしまうだろう。





 徹底してコメディ・タッチで描かれているにも関わらず、そのような自我論的な問いにおいてはかなり野心的な作品、というか「よくここまで好き勝手やれたなぁ……すごいなぁ……」と思ってしまうのだが、まぁ、とにかく面白かった。




*1id:Dirk_Digglerさん、ありがとうございました


*2:? 最初からドッペルゲンガーと本体のどちらがホンモノであるのかが、かなりわかりにくくなっているので、『?』という留保をしておく





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