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仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』




今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)
仲正 昌樹
講談社
売り上げランキング: 692


 風邪をひいていたので会社を休んで一日中ベッドのなかにいるあいだ、この本を読んでいた*1。これは大変面白い本だった。近年、各所で「生き生き思想」*2を批判しておられる仲正昌樹のアーレントに関する著作。



「分かりやすい」ことを売りにする「政治思想」(あるいは「政治思想研究」)は、勇ましく威勢がいいので、「政治」をスポーツやゲームのように敵/味方の勝ち負けの問題と考えているような人たちにはウケがいい。(中略)「社会的・経済的格差を是正し、各人の社会的生存権を実質的に保証する公正な社会システムを構築するための理論」とか、「グローバリゼーションに対抗し、国民国家としての伝統を保持する戦略に繋がる理論」というような感じで。



 のっけから、ここでも「生き生き」批判をされているのだが(名前はあがっていないものの、ここで誰が批判されているのかは容易に想像がついてしまう)、この批判も至極まっとうなものとして受け取られた。なぜ生き生きがいけないのか、これを私なりにもっと噛み砕いて説明しておくと、生き生き思想に熱をあげると、次第にその人は生き生きとしなくなってしまう、という風になるだろう。そもそも、その生き生き思想自体、党派性を含むものであるから、そのようなものに組すれば、他者を受容する複数性/多様性をもった視点は失われていく(だろう)、と。生き生きと格差社会を敵と考えているうちに「何だかわからない「格差社会」なるものと闘わねばならないという論調が広がり」「思考停止状態」に陥る。





 アーレントは『全体主義の起源』や『イェルサレムのアイヒマン』といった著作で、そのような個人が党派や思想といったものに取り込まれる形で、強大な暴力を生んでしまう事象をつぶさに分析している。そこではポグロムやホロコーストといったおぞましい暴力が、歴史上の誤りではなく、当然の結果として扱われる。もちろん、それを肯定するわけではなく「こういう風に動いたら、必然的にそうなってもおかしくないよね」という意味での当然の結果、であるが。





 一方で、アーレントが理想とする政治の姿とは、古代ギリシャの都市国家における政治のありようである。そこの政治は党派的におこなわれるのではなく、市民ひとりひとりが責任をもって「自由な」発言をすることが許され、議論が重ねられてきた。個人が、他者の視点を受け入れる複数性を保ちながら、働きかける「活動」をおこなってきたのである。アーレントは『人間の条件』のなかで、このような「活動」こそを人間の条件として重要視した。





 しかし、そのような政治のありようはあまりにも理想的過ぎる、ということは誰の目にも明らかだ。そのような政治のありようはすでに失われてしまったのだし、逆に古代ギリシャのごとき人間性の復興を高らかに謳うこともまた、思考停止の危険を孕んだ党派性をもつ政治に他ならなくなるだろう。仲正のアーレント評価も「「思考の均質化」だけは何とか防ぐというミニマルな目標を追求した控え目な政治哲学者」と控え目なものとなっている。





 この本を読んで「えー……アーレントってそんなところに落ち着いちゃうの……」と拍子抜けしてしまう人がいてもおかしくはない。私自身「えー……アーレントってその程度で落ち着いちゃうのか! それじゃあ、アドルノとあんまり変わらないじゃん! 」と思ってしまったクチである。ここで暴力的な要約によってアーレントとアドルノとの共通点を探っておくと「ともに問い続けること、考え続けること」を重要視した思想家である、ということが言えるだろうか。仲正の非常に整理されたアーレント論を読みながら、うっすら考えてきたことは、アーレントはここまで似たものを持つアドルノをどうしてあのように毛嫌いしていたのだろうか、ということであった。





 アーレントがアドルノを嫌った理由のヒントがこの本のなかにもなくはない。アーレントは『革命について』という本の中で、フランス革命とアメリカ革命(アメリカ独立戦争)というふたつの革命を大きく取り上げているが、そのうちフランス革命のほうにはかなり批判的な態度を示している――それは、フランス革命が「不幸な人々を解放するためにおこなわれたもの」だったからだ。そこには不幸な人々に対する共感がある。



アーレントに言わせれば、そうした共感の“政治”は、討論を活性化してパースペクティヴを複数化することには繋がらない。むしろ、「不幸な人々」に共感することを、人間としての正しいあり方として押し付ける排他的な価値観に繋がりやすい。場合によっては、苦しんでいる人たちに共感しない者たちを、最初から人非人として排除しようとする傾向を生み出す。


 その排除しようとする傾向こそが、ロベスピエール時代の恐怖政治であった。弱きものへの共感は、そのような危険性を孕むものだ、とアーレントは指摘する。共感することが危険なものなのであれば、おそらく、共感を求めること(例えば、自分が弱いものである、ということを主張すること)もまたアーレントにとっては受け入れられないものだっただろう。そして、その点がアーレントがアドルノに対して「家に入れることすら厭うほどの嫌悪感を抱いていた*3」理由だったのではなかろうか。





 アドルノを取り扱った文章を読んでいると、アドルノに対して共感する文章に出会う機会は少なくない。そこでアドルノは「ナチズムによって傷つけられた人」として扱われている。もちろん、アドルノ自身が「私は傷つけられた人である」という主張をあげていたわけではなかったが、少なくとも「傷つけられた人である」ことを隠そうとはしていなかったようにも思えるし、アドルノを傷つけたであろう事件(=ファシズム)に対して(アーレント流にいえば)大げさに、過剰に反応していた。だから、アーレントはアドルノを嫌っていた、と考えることはできるだろう。アーレントにとって、アドルノのファシズムに対する反応は、弱者が共感を求める行為としてしか思えなかったのかもしれない。







  • 関連


ハンナ・アーレント『人間の条件』 - 「石版!」


ハンナ・アーレント『革命について』 - 「石版!」




*1:などとブログに書いてしまえば「もう会社にこなくて良い」と言われてしまいかねない昨今であるが、それはさておき


*2:わかりやすくて、若者ウケしやすく、やや扇情的な言説


*3ハンナ・アーレント - Wikipedia





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