スキップしてメイン コンテンツに移動

ゲオルク・ジンメル『ジンメル・コレクション』




ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)
ゲオルク ジンメル
筑摩書房
売り上げランキング: 169248


 ゲオルク・ジンメルという社会学者については「ちょっとマイナーな人」ということができると思う。私は社会学部出身で学生時代は一応体系的に社会学を学んできた人間であるけれども、その講義のなかでジンメルが引かれることはおそらく一度もなかった、と記憶している。世代的にはマックス・ヴェーバーやエミール・デュルケムといったメジャーどころ(彼らの業績については、講義で習った)と同時代人ということもあり、名前は知っていたのだけれども、今日まで読む機会を得なかった。きっかけとなったのはやはり、最近になって私のゼミの先生がジンメルに関する論文を書いていたことである*1





 この『ジンメル・コレクション』には、ジンメルが遺した短いエッセー形式論考を19本収録している。全体は4部に分けられていて、それぞれ「恋愛」、「美術」、「美学」、そして「社会」とテーマが決められているのだが、冒頭の「愛の哲学断章」は以下の文章からはじまる。



エロスの憧れや夢をもう経験してしまった女の子が恋に落ちたときには、男がいつもいいところだけを見せるのは比較的簡単です。



 なんだそれは!という感じで、いきなり名著決定の判を押したくもなる。これ以降ジンメルは男女間におけるパワー・バランスを、経済的な交換と置き換えることで読み替えることで説明していくのだが(「どんな恋愛関係でも、有利なのはそれほど惚れていないほうです。あまり惚れていなければ、自分で条件を示すことができますが、惚れているほうは、それにふりまわされるのです」)、興味深いのは恋愛において惚れている方(弱者)と惚れられている方(強者)のどちらが幸福であるか、と問うた時、実は「より深く愛している方」と明示していることだ。条件を飲み続け、一見虐げられるように見える弱者のほうが実は幸福である。ここにはたやすくマゾヒズム的な性質を見出すことができよう。だが、そのマゾヒズムをジンメルは非難しようとはしない。ただ、そのようなものとして描き出すだけだ。ごく当たり前のもの、自然なものとして認識される恋愛関係から、奇妙なもの(ここでの例で言えば、マゾヒズム)を抽出するジンメルのまなざしはとても面白い。





 ただ、「恋愛」のパートに収録されているほかのエッセーについては、この時代の男女の性に関するジェンダー論的な土台がよくわからないこともあり、よくわからない、で終わってしまったが。とくに売春という「社会問題」を扱った「現代と将来における売春についての覚え書き」というエッセーでは、貧乏な娼婦は「問題」として扱われるのに、高級娼婦はもてはやされるこの状況はおかしいだろ!というジンメルの憤りは理解できるのだが、それが結婚制度を打破することによって解決しえる、というような論旨は到底受け入れることができない。ここでジンメルは「結婚システムから疎外された人々が、売春がおぞましいものであるというイメージを生産している」というような分析をおこなっているのだが、結婚システム(恋愛のシステムといってもいいのかもしれないが)を排除することによって、誰しもが自由に性愛を享受できる社会が訪れるなんてことはないだろう。性的に自由な社会(たとえば現代のように)であっても、自ずと疎外される人々は生まれるであろうし、ほとんど太陽寺院かヴィルヘルム・ライヒのようにしか読めない。ただ、こういった突拍子もない夢想レベルの話も面白いのだが。





 次に続く「美術」パートも、我々が美術作品を鑑賞する、その鑑賞するときの態度が浮かび上がるようなエッセーがあって面白い。それらは「取っ手」や「額縁――ひとつの美学的試み」といったエッセーにおいて説かれているのだが、ジンメルによれば美術作品とは、我々の目的意識とは隔絶したところで


それがそれ自体を目的としながら「統一性」を保って存在している、という。いわば美術作品は何らかのために存在しているのではなく、自らが美術作品であるために存在している、という自己言及的なものである、と(以上と同じ論旨をカントも語っていたかもしれない。どこで読んだかは覚えてないが)。この論旨自体はとくに目新しくないことかもしれないが、ジンメルはその「外部の目的との隔絶」を作り出すものとして、額縁という存在に注目し、あるいは美術的な水入れの取っ手が「隔絶」と「外部の目的」の両者へ働きかけることに注目する。ここでのジンメルがものすごく一生懸命に「どのような額縁が適切であるのか」や「どのような取っ手が適切であるのか」を吟味しているのがとても面白い。





 また「社会」のパートでは、貨幣が社会に及ぼした影響について、昨今のいわゆるグローバリズム社会への予言ようなところがある。ジンメルには『貨幣の哲学』という著作があるのようなので、こちらをチェックしてみたくなった(ただし、無茶苦茶高い)。



貨幣の哲学
貨幣の哲学
posted with amazlet at 09.05.24
ジンメル
白水社
売り上げランキング: 567071







コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か