スキップしてメイン コンテンツに移動

マルセル・モース『贈与論』




贈与論 (ちくま学芸文庫)
マルセル モース
筑摩書房
売り上げランキング: 30206



 社会学の古典的な名著をかなりいい加減に読む(かなり大量の注釈がついていたが全部飛ばした……)。新訳のせいかとても読みやすかったが、あまりに読み易すぎていい加減に読んでいたら、さくっと読めてしまった。クロード・レヴィ=ストロースやジョルジュ・バタイユ、さらにはジャン・ボードリヤールにも影響を与え……云々というということもあり、『贈与論』に言及した文章はこれまでにいくつも目にしてきたが、割とあっさりした著作で拍子抜け(そういった影響の強い本とは、大概ものすごく難しいものだと思っていたので)。それからこの本を読むまでマルセル・モースがエミール・デュルケムの甥っ子だという事実を知らなかった。彼は幼少の頃からデュルケムの教えをうけていた、とか。なんだかすごい幼少時代である。羨ましいかどうかは別として、おじさんがものすごく偉い先生ってどういう気持ちなのだろうか。





 有名なので今更説明することもないかもしれないが、『贈与論』で記述されているのは、主に“未開社会”における「ポトラッチ」という慣習についてである。これはある人が贈り物をしたときに、その贈り物を破壊する、という行為である。第1章から第2章までは、この奇妙な慣習についてミクロネシアやポリネシア、インディアンなどの事例をつぶさにみていくことによって「ポトラッチは特殊な習慣ではなく、広く認められる習慣である」という分析をおこなう。この際、モースはこのような贈与行為によって社会関係が生まれていることも主張する。ポトラッチは単なる無意味な奇習ではなく、部族間や部族内の連帯を高めるために(社会の紐帯を強めるために)有用な行為である、と説く。





 その後、第3章から第4章で展開されるのは「実はこの習慣、ヨーロッパにもあるんじゃないの?もちろん今もその名残があるんじゃないの?」という分析である。経済活動はそれまで人間の合理的理性が発達し生まれたものだと言われてきた――だから、ポトラッチなんか野蛮なことやっている“未開社会”では経済活動なんか生まれないのだ、みたい考えへの反証がまたそこではおこなわれる。ポトラッチにしても、他の贈与関係にしても原理的な部分は現代の“合理的な社会”と変わりがない。「こうした道徳は永遠である。それは最も進化した社会にも、未来の社会にも、創造しうるいっそう未発達の社会にも共通である」。





 解説でも触れられているが、以上の過程はものすごく美しい。「うむ!」とムダに唸りたくなるほど、バシッとキマりまくっている。面白かったので、ほかのモースの著作にも手を出したくなった。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か