スキップしてメイン コンテンツに移動

黒澤明監督作品『七人の侍』




七人の侍(2枚組)<普及版> [DVD]
東宝 (2007-11-09)
売り上げランキング: 497



 祖父の四十九日があるので帰省しているところに、BSで黒澤明の『七人の侍』が放送されていたので家族と一緒に観た。祖父が好きだった映画である。この作品を観たのはこれでたぶん3度目だが、初めて観たのは祖父がレンタルで借りて来たときだったはずだ。


 


 序盤の侍集めのシーンで薪割りをする侍が登場したとき、母が「あんな綺麗な薪なら誰だって割れる」と言った。曰わく、“本当の”薪というのは節くれだち、形も不均等だから難しいのだそうだ。まったくどうでも良い一言だが、この一言で映画には色んな見方があるものだ、と関心してしまった……と同時に、これは隣で一緒に映画を観ている“家族”が他者として表れる強烈な瞬間でもある。同じ映画を観ていても、昭和中期(ちょうど『七人の侍』が公開された頃)に東北の貧乏農家に生まれた母と、それから約30年後に生まれた私とでは、まるで見えているものが違うのだ。





 こう改めて書いてしまうと、まぁ、当たり前と言えば当たり前の話である。しかし、母と私という共有しえない体験を常にし続ける他者同士が、家族という社会的な関係性を築いている、というこの事実、これは驚異的なことなんじゃないだろうか、とも思う。この素朴な事実に驚異を感じられれば、少し他者に対して寛容さを持つことができそうだ。





 それはさておき『七人の侍』について、今回思ったことを書いておく。





 村の20軒の家を守るためには村外れにある3軒を犠牲にしなくてはならない、戦とはそういうものだ、と劇中で志村喬は厳しく言い放つ。戦とはそういうものだ。この一言によって全体主義が承認される。このギリギリの状況では全体の勝利を、全体の力を総動員することによって(マイノリティの犠牲を払うことによって)でしか得られない。『七人の侍』における状況とは、太平洋戦争下の(国家総動員法施行下の)日本の状況とうまく布置できよう。





 この例外状態の終わりが侍と農民の娘との恋愛関係の終焉によって明示されるのが良い。しかし、例外状態において払われた犠牲についてはほとんど問題にされていないのではないだろうか。ラストに映し出される戦死者の埋葬跡の遠景には、おそらく追悼のまなざしがある。だが、そのまなざしはあまりにも弱々しく、勝利の喜びのなかで霧散してしまう。だからこの勝利が全体主義によってもたらせたものであることを観客は忘れてしまうのだ。この名画が孕む大きな問題とはここにあるだろう。





 映画が終わったとき、父が「こんな映画はもう撮れないよ」と感嘆したように言った。父の言葉はたぶん「黒澤明のような才能を持つ監督はもういないから……云々」という意味だろう。しかし、私はまったく別な意味で「このような映画はもう撮れない」と考える。犠牲を忘却するかのように、勝利を素朴に喜ぶ農民たちがラストに登場するけれど、この素朴さがもはや許されていないのだ。アウシュビッツの後に詩を書くことは野蛮である(アドルノ)。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か