内在系/超越系、または信仰と論理について

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 演奏会が終わって帰ってきて、半日ぐらいずっとYoutubeで昔のテレビ映像など観ている。なかでもかなり面白かったのがこの昔の『朝まで生テレビ』の編集版映像。この回は「宗教」がテーマになっていて、オウム真理教の麻原彰晃とか栗本慎一郎(『今世紀最大の宗教はマルクス主義だ』とかつまんないことを言ってる)とかが出演していて、全部で5本の動画はなかなか見ごたえがある。抜粋されているのは主に「宗教はなぜ必要なのか」について語られている部分だろうか。


 冒頭にあげたのは4本目の動画で、ここでは池田晶子と景山民夫(どちらも故人だ)のかなりエキサイティングな議論を観ることができる。全編に渡り、池田は「どうして神の存在が必要なのか」という疑問を周囲の宗教家・信者に向ける。ものすごく素朴な態度をもって。


 「自分の存在であるとか、宇宙の存在であるとか、そういった規定をしようとする。それは全て自分の頭のなかでおこなわれる。そしてそれらの規定しようとする問題は『根源的に規定が不可能』、解決不能な問題である。神はそういった根源的未規定性に対して、外部からあたかも『私の存在』といったもの規定してくれるような処方箋のようなものでしかない。


 しかし、『神』を規定するのも自分である。だから、神の存在を自分の外部へと設定し、それによって私/宇宙を規定することはできない。神は問題の根本的な解決を図る特効薬ではない。なぜなら神もまた自分の内部に存在するからだ。


 神は徹底して私の内部に規定される。そこでの神は絶対的なものでは決して無く、実はとても揺らぎやすいものだ。あくまで『外部で私を規定している存在』として私の内部へと神を置かなければならない。というか、現にそのようにおかれている。


 だとしたら、神は何も特別視される必要性はない。むしろ、神の存在はいらない。私がいればそれで良い。『私がなぜ存在するのか』。これは解決できない。しかし、それを考える私が存在している。それで良いのではないか?むしろ、どうしてそのようにできないのか?」


 池田の発言を主旨をまとめてみるとこんな感じになるだろう。このような態度は宮台真司的な語彙でいえば「内在系」という分類できる。根源的未規定性に対して、外部的なものからの規定を求めなくても済ませる。


 しかし一方で「幸福の科学」の熱烈な信者であった景山はそうではない。「私は神によって規定されている」――そう信じて疑わない(先ほどと同様な分類をするなら、これは『超越系』の態度だ)。だから「本当は私しか存在していない」という池田の発言をまったく理解できない。


 「私の存在について問い続ける。答えはでない。でも、問い続けることによってどこかで神へとたどりつくのだ」という風に景山は言う。これに対して池田は「どこまでいっても、それ(たどりついた神)は自分ではないでしょうか?」と答える。このときに池田の言葉を理解できなかった景山が「え?」と池田に問い返す表情がとても印象的だ。


 このやりとりを観ていて、強く感じたのは「信仰とは論理を超越したものなのだな」ということだった。極めて論理的に神の存在を切り崩していく池田の言葉は、私にはとても正しいもののように思われる。しかし、信仰を持つもの、景山に対してその論理的な試みは完全に無意味なものとなってしまう。景山には池田の言葉が理解できない。おそらくそれは哲学的/論理的な思考能力の問題ではないだろう――この論理の無化はまさしく、「信仰が論理を超越した行為である性質をもっていることの表れ」であるように思われるのだ。


 また、それは他者に対する根源的未規定性であるとも言えるかもしれない。池田と景山の議論が続いたとしても「なぜ、あなたは絶対的ではない存在である神を信仰するのか」という問いに対して「だって、神は絶対的なんだもん」という答えしか帰ってこないだろう。池田は他者である景山を規定することはできない。景山の世界では、すでに「神は存在していて、私はそれによって規定されている」という公式が既にできあがっている。まさにそれが理由となって「神は存在しない」という切り崩しは不可能なものとなる。



限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学
宮台真司 北田暁大
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ル スコアール管弦楽団第24回演奏会@すみだトリフォニーホール

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バルトーク/中国の不思議な役人(全曲版)


ドヴォルザーク/交響曲第7番ニ短調


指揮: 橘直貴



 ルスコアール管弦楽団の本番を終えました。当日のプログラムは以上のような感じ。私はドヴォルザークの方のみ参加しました。自画自賛するようですが、かなり良い演奏だったと思います。ドヴォルザークもバルトークも素晴らしかった!このオーケストラで演奏をはじめてから、かれこれ5年以上になるけれど、音楽的な充実感で言えば過去最高だったかもしれない……と思いました。ご来場の皆様、当日はお足元が悪いなか、会場に足を向けていただきまことにありがとうございました。


 前プロのドヴォルザークが終わってから、急いで着替えて客席に行き、バルトークを聴きました(当日まで聴いたことがない曲だった)。これ、とんでもない作品ですね……。変拍子バレエ音楽で言えばストラヴィンスキーの《春の祭典》が有名でありますが、《中国の不思議な役人》もそれに負けない奇怪なリズムっぷり。曲の難易度で言えば、バルトークの方が断然難しそう。この曲に参加しなくて正解でした……。小節を数えるだけで精一杯、ひょっとするとそれすら躓いてしまうかもしれない。テンポのめまぐるしい変化や、ところどころに現れるポリリズムがかなり地獄。聴いている分には、最高なんですが。



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 クリストフ・フォン・ドホナーニ/ウィーン・フィルによる組曲版をどうぞ。いやー、素晴らしいですなあ(とナルヨシライクに嘆息)。全曲版の録音はまだ2つしか出ていないそうですが、「鋼鉄のリズムを持つ男」こと、ミヒャエル・ギーレンあたりに取り上げて欲しい。





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矢作俊彦『ロング・グッドバイ』

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ロング・グッドバイ (角川文庫 (や31-5))
矢作 俊彦
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 「ロング・グッドバイ」と言っても、レイモンド・チャンドラーの「The Long Goodbye」ではなくて、矢作俊彦による「The Wrong Goodbye」である。言うまでも無いけれど、素晴らしい小説だった。矢作の作品を読むのは久しぶりだったが、「小説のテクニック」で言えばこの作家ほど上手い人はいないのではないか、と思わせられる。「これはカッコ良い小説だ!」という他につける言葉を寄せ付けないほど強いエンターテイメント性と叙情を兼ね備えた「小説」を書く、ということはこの作家にしかできないことなんじゃないか、って思ったりする。


 とはいえ、そこで感じられる「カッコ良さ」とは、極めて男性的なもの、言ってしまえば、ハードボイルド的なものなのだろう。待つ人が誰もいないアパートに帰り、一人、強い酒を飲みながら思念に耽る……だとか、世界的に有名なヴァイオリン奏者に口説かれながらも決して(あえて)寝ようとしない……だとか、主人公である二村のとる行為ひとつひとつ、セリフのひとつひとつが「このカッコ良さは男性にしか分かりえない、かなり排他的なカッコ良さなのではないか」と思わせる。無論、私はそこにハマってしまうのであるけれど。


 また、そのカッコ良さとはひとつのロマン主義でもあるのだろう。神奈川県警の捜査一課(警視庁ではない)に所属する一人の刑事、二村が国際的な犯罪に巻き込まれていくというあり得なさ、あるいは、二村がとる行動のひとつひとつに「あり得なさ」は紛れ込んでいる(だって、美人の世界的ヴァイオリン奏者から口説かれたら、寝ちゃうでしょ、どんな男でも)。これらの現実的なあり得なさに対して、(男性的な)ロマン主義は発動する。


 しかし、そのあり得なさを描く点こそが、矢作俊彦という作家の特異性であるかもしれない。特に現代においては。凡庸な人間が、特殊な事件/状況へと巻き込まれていく。こういった設定は、かなりよくある現代小説の形式であるように思う。しかし、矢作が描く物語ではそうではない。あり得ない人物があり得ない状況へと関わりあっていく。「あり得る凡庸さ×あり得ない状況」ではなく、「あり得無い特殊性×あり得ない状況」――これは川上弘美が言うところの「ウソ話」というライトさと、近代小説にある「重さ」との違いでもあると思うのだが――を成立させてしまう矢作の手腕は極めて稀有なものであると思う。





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エマールの新譜はメシアン

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8つの前奏曲、『鳥のカタログ』より、4つのリズムの練習曲より エマール【CD】-メシアン、オリヴィエ(1908-1992) 発売国:Europe|クラシック|音楽|HMV ONLINE CD、DVDの通販-ゲーム、書籍、 タレントの写真集も


 7月に来日が決定しているフランス人ピアニスト、ピエール=ロラン・エマールの新譜が発売するそう(かれがドイチェ・グラモフォンから出した録音は今年に入ってもう2枚目)。今回はメシアンの初期作品《8つの前奏曲》を中心に《鳥のカタログ》から2曲、《4つのエチュード》から2曲をセレクトした内容。メシアンでは既に《嬰児イエスに注ぐ20のまなざし》で名演を残していることから、ものすごく期待が持てる。メシアンの代表曲《鳥のカタログ》の演奏はもちろん、ドビュッシーをさらに色っぽく、さらに麻薬的に進化させたような初期のピアノ作品も楽しみすぎて、即予約した。





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グループ音楽

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404 - Not Found

 「UbuWeb」より。グループ音楽は1960年代に活動していた、小杉武久、刀根康尚、武田明倫、塩見允枝子、水野修孝による日本初の即興音楽集団。当時、世界同時多発的にこういった形での即興音楽集団が結成されていて(イタリアのGruppo Di Improvvisazione Nuova Consonanzaもそれにあたる。これはエンニオ・モリコーネも参加していたグループだ)、武満徹がそういった音楽の動向について書いていたのを読んだことがあり、グループ音楽というのも名前だけは知っていた。しかし、実際聴くのは初めてである。演奏は今聴くと洗練されていない感じがするのだが、逆にその荒々しさが魅力のようにも思う。手探りな感じが、伝わってきてすごく刺激的だ。しかし、リンク先にされてる音源は、60-61年のもの。時期的に考えるとここまでヌケてるのはすごいな、とも思う。また、この荒々しさに「反-作曲的態度」という意味づけも行うことも可能だろう。何が起こるかわからない――この予測不可能なスリルも素晴らしい。進むべき道を絶ったところで、記録されたグループ音楽の演奏は記念碑的なものにもなっている気がする。

 「UbuWeb」にアップされている音源は、1996年に発売された500枚限定のCDからの音源のよう。当然のように今では流通していない。




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電脳世界の前衛音楽ライブラリ

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 この前お風呂でシャンプーしているときに、ふと「やっぱ、いざっていうときのために、ユリ・ゲラーのアルバムと、マーシャル・マクルーハンのアルバムは持っておくべきかなぁ……」と思ったんだけど、調べてみたらこういうのモンドだかなんだかよくわかんない珍盤ってめっちゃくちゃ高いのなー!



ユリ・ゲラー
ユリ・ゲラー
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ユリ・ゲラー
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 ユリ・ゲラー(ミッキー・カーチスがプロデュースしてんの)は再発が出てるから良いとして……問題はこれだよ!



ザ・メディア・イズ・ザ・マッサージ
マーシャル・マクルーハン
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 予想はしてたけど、飲み会で2次会ぐらいまで余裕でいけちゃう値段なんて恐ろしい!でも、ジャケット最高!!欲しい!!!でも、この値段はホントに悩みどころ……――とか思っているところ、親切な人がネットにアップしてくれてるのを発見したんだよ!これはもう神の思し召しだね。最近、募金とか仕送りとかちょくちょくして徳を積んでたおかげかなー。


UbuWeb Sound - Marshall McLuhan


 問題のマクルーハンの音源はこれね。噂にはきいてたけど、この「UBUWEB」ってサイト、すごいなー、と思いました。音楽コーナーなんか、かつて「前衛」って呼ばれていたものから現在進行形の音楽まで広汎にカバーされすぎ。ベイリー、ルッソロ、カーデュー、グループ音楽……と、珍妙な音楽をおこなってきた人たちの名前がずらりと並んでてめまいがするよ。毎日ちょっとずつチェックしたくなる。


UbuWeb Sound - Allen Ginsberg


 本日のツボは、アレン・ギンズバーグの朗読。





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ジェルジ・ルカーチ『小説の理論』

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小説の理論 (ちくま学芸文庫)
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 以前アドルノを集中的に読んでいたときに、訳注などで「この箇所はルカーチの『小説の理論』を参照していて……」という記述が多く見受けられたので、この本は長らく気になっていた本だった。しかし、最近になって重版されたので読んでみたものの「さぞ面白いんだろうなあ」という期待は見事に裏切られてしまう。とにかく読みにくい。この驚異的な読みにくさは長谷川宏訳ではないヘーゲルの翻訳にも通ずるものがあり、長谷川宏がちょうどこの訳文を断罪するような形で文庫版解説を書いていたりする(原文もかなりひどそうだけれども)。小説家の固有名は出てくるけれど、作品の具体的な引用などはほとんど見られず、延々と抽象的な話が続くので久しぶりに途中で読むのをやめたくなるような本だった。こんな風に書く人がいたら今では誰にも相手にされなそうな、そんな気さえする。


 ともあれ、読みにくいからといって理解しがたいような難しいことが書かれているか、というとそうではない。理論的な基盤は、ヘーゲルの美学・歴史哲学にほぼ準拠していると言っても良く、ものすごく単純に言ってしまえば「ギリシャは良かった。もうなんか、全体性っていうんですか?精神と世界の統一感っていうんですか?そういうのがあってさあ、ものすごい豊かな時代だったわけですよ。でも、段々と自我が目覚めていくとさ、精神と世界が分裂しちゃうのね。そこで小説家たちが再度統一を目指して頑張るんだけど、やっぱり無理で、その不可能性のなかからイロニーが生まれてきて……」みたいな話だと思う。


 こういう風に要約してしまうと、ますます読む価値が感じられなくなってきてしまう。こんなこと言っている人、いまたくさんいるだろうし。今、復刊された意図もよくわかんないし。もしこのタイトルで「小説の書き方が書いてある本」だと勘違いした人が買ったらどうするんだ、とどうでもいいこと心配してしまう。これなら福田和也の『奇妙な廃墟』を復刊してくれた方がありがたかった。





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荒木飛呂彦『スティール・ボール・ラン』(15)

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 またなんかえらいことになっている……。最初、すごく強いキャラだったジャイロ・ツェペリはもはや第1部のスピートワゴンぐらいの立ち位置にいてかなり可哀想な感じ。物語の主軸は完全に「ジョニィ・ジョースターの成長」へと移っているように思う。どんどん強くなるジョニィ。でも、基本的には「回転する爪」を飛ばすだけで「時が止められる」とか「終わりが無いのが終わり」みたいな感じにはならない(ときどき出てきて「チュミミーン」とか鳴くヤツが謎。ジョニィのスタンド『ダガー』なのだと思うんだけれど、そのスタンドによって爪を飛ばしている、という描写はない。むしろ『ダガー』はスタンド名ではなく、スタンドの『能力名』なのか?)。今気がついたけど「超能力を具象化した表現」として生み出されたスタンドの姿かたちが、あまり意味をなさなくなっている気がする。スタンドで殴ったり、っていう敵が全然いない。



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 今回の敵スタンド使いの造詣は、これ(↑)がモチーフなのか?あと大統領がどんどんカッコ良くなってきている……。





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中上健次『奇蹟』

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奇蹟―中上健次選集〈7〉 (小学館文庫)
中上 健次
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 中上健次っていう作家は、私の中で「無茶苦茶好きなんだけれど、なかなか読めない作家」っていう位置づけであって、そういう感覚は「美味しいけど、強すぎるお酒」みたいな感覚に似ている。読もう(飲もう)と思う、しかし、独特の匂いが強すぎて「まあ、今日は良いかな」って思ってしまってなかなか手が出せない。でも、一旦、手を出してしまうとグ、グググとその魅力に引き込まれてしまって「ああ。これだよ。こういうのを読むため(飲むため)に、私は生きてるんじゃなかろか」って思ってしまう。最近読み終えた『奇蹟』もまったくそういう小説だった。


 良い小説、というのは割りとたくさんある。最近の読んだ最近の作家では川上弘美は面白かった。良い小説だ、と思える話を書いている。しかし、良い小説がちらほら目に付く一方で「良い物語」、もっと言ってしまえば「すごい物語」っていうのは圧倒的に少ない。というか、全然ない。中上が描く、濃ゆい物語は圧倒的である。もうなんか、95年ぐらいのヤクルトスワローズで阪神から移籍してきたオマリーがバンバンとホームランを打っていたような、そういう凄みがある。「こいつには適わない」。そういう感覚だ。文章が上手い、とか、そんなんじゃなくて、そういうのを超越して「なんか、すげえよ」と打ちのめされるような感覚。


 こういう感覚を読み手に抱かせる言葉/小説に対して、批評が持つ力とはいかにも貧弱である。「中上がこの小説でおこなおうとした多声性は……云々」、「『大鏡』との関連性は……云々」。そういったものは皆一様に価値を失ってしまう。そこまで圧倒的な物語を描く中上の豪腕に、私は「ま、参った!」という他はない。


 『千年の愉楽』と「秋幸サーガ」(『岬』、『枯木灘』、『地の果て至上の時』の三部作)という二つの「路地の物語」にあったミッシング・リンクを繋いでしまう、という作家が描き続けた物語を「ひとつのものにしてしまった」という重要性はもとより、小説単体を見たときの洗練された幻想的な風景も素晴らしい。短命に宿命付けられた者どもが、花火のよううに輝き散りゆく姿の美しさ/哀しさ。そういったものが怒涛の音楽のように押し寄せてくる。素晴らしい……という他はない。日本語で、これが読めること、それだけでさえも素晴らしいと思える。





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ジャチント・シェルシ《やぎ座の歌》

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 今年で死後20年になるイタリアの作曲家、ジャチント・シェルシの声楽作品《やぎ座の歌》を聴いた。これは彼の夫人でもあった平山美智子(この方、植木等に歌のレッスンをしたこともあるらしい)のために書かれた全20曲におよぶ連作歌曲。録音は2006年に行われ、ソプラノは当時82歳の献呈者本人による。本当ならばとっくに引退してもおかしくない年齢であり、声質には確実に年齢が現れてしまっているのだが、彼女の絶唱は衝撃的なほど良かった。ここまで「凄み」がある歌にはなかなか出会えないだろう。


 作品もとても興味深い。シェルシの作品の特徴である、同じ音の繰り返し/持続によって、倍音を聴かせる(こういうのもひとつのゲシュタルト崩壊なのだろうか。例えばドの音をずっと聴き続けていると、次第にそれはドに聴こえなくなってくる)という手法がここでも採用されている。これが平山の歌と相まって、かなり呪術的な雰囲気を醸し出している。トランス・ミュージック的である、といっても良いかもしれない。聴き手の聴覚と時間感覚を狂わせるような恐ろしい音楽にも聴こえる。


 作曲されたのは1962年~1972年の間だが、《やぎ座の歌》は時代の流れとはまったく関係なく生まれてきた音楽だと思う。ライヴエレクトロニクスが使用されている曲もあれど、うまく20世紀の音楽史のなかに落ち着けるような座標が見当たらない。それは貴族の末裔に生まれ、まったく社会に関与しなくとも生活ができた、という環境のせいもあったのかもしれない――社会に関与しない作曲家も現代では稀だと思う。なにせ精神の病にかかってからは、家にこもってひたすら即興演奏を行いそれをアシスタントに楽譜に起こさせた、というアウトサイダーっぷりである。


 アルノルト・シェーンベルクやピエール・ブーレーズ、こういった作曲家には何か歴史の必然のようなものを感じる(ジョン・ケージにさえも)。だから、彼らの音楽が評価されるのは当然のように思う。しかし、シェルシはそのような論理的な枠組みでは捕らえることのできないところから生まれてきている気がする。おそらく、70年代に入って「発見」がおこなわれ、「スペクトル楽派の先駆け」と称されるようになるまで、彼はほとんど評価の対象外の人物だったのではなかろうか。


 それが今では、こうしてちゃんとCDで聴くことができる。考えてみれば、奇跡みたいな話だ。





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ブライアン・ファーニホウを聴く

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 ヘルムート・ラッヘンマンのCDに引き続き、「ポスト・セリエル」のイギリス人作曲家、ブライアン・ファーニホウ(1943-)の作品集を聴いた。これは80年代から90年代の初めに書かれた室内楽作品を集めたCD。《第4弦楽四重奏曲》、《Kurze Schatten II》(独奏ギターのための作品)、《Trittico per G. S.》(独奏コントラバスのための作品)、《Terrain》(ヴァイオリンと室内楽アンサンブルのための作品)という4曲を収録している。


 《第4弦楽四重奏曲》は、ソプラノ独唱つきの弦楽四重奏曲(かなり謎のタイトルである。なぜ、連番にする必要があったのか)で、テキストはジャクソン・マッカロウというフルクサス関連の詩人が書いた「エズラ・パウンドの《カント第72》という詩を解体/再構築した」もの。《Kurze Schatten II》のタイトルはヴァルター・ベンヤミンのエッセイから。《Trittico per G. S.》はガートルード・スタインに捧げられた作品


 と言う感じで(ベンヤミン以外に知っている固有名詞が出てこなかったが、調べてみると)「とにかくこの作曲家は嫌らしいぐらいインテリで、現代思想/音楽以外の芸術にも造詣が深い」ということが分かる。ベンヤミンの生涯を書いたオペラも書いているのだとか。


 録音を聴いていて、どの曲も「楽譜を見なくとも、ものすごい細かい音量や音色の指示が書いてあるに違いない」と容易に想像できるのが面白い。特にヴァイオリン独奏は、喩えるなら「顕微鏡レベルで情報が詰まっている」ような凄まじさだ(ヴァイオリン独奏はアーヴィン・アルディッティ。さすが……)。また《第4弦楽四重奏曲》のソプラノ独唱は、ベルカント唱法とシュプレッヒシュテンメを高速で交互に繰返すところが最高にスリリングだ。


 すごい。でも、これは結構すんなり聴けてしまうのだった。アナリーゼなど到底できない身分でこういうことを言うのはなんだが「『ポスト・セリエル』と謳われながら、ファーニホウの音楽は忠実にブーレーズらのセリエル路線を踏襲しているのでは……?」という風に感じてしまう。とくに《第4弦楽四重奏曲》のポリフォニックな響き。これらを聴いていると「正確に言うと、ファーニホウは『ポスト・セリエル』というより『後期セリエル』――これはアンソニー・ギデンズ式の区分だが――なのでは?」と思ってしまう。ファーニホウとラッヘンマンを単純にひとつの言葉で括ることができるのかという点も疑問だ。


 とはいえ彼をラッヘンマンと対比したときに見えてくる両者のハッキリした違いはとても興味深い。ブーレーズとファーニホウの間には、大きな断絶は感じられない。しかし、ブーレーズとラッヘンマンの間には、大きな隔たりがある。その代わりに、ラッヘンマンはルイジ・ノーノと接近する(師弟関係にあるんだから、当たり前かもしれないが)。これは「音響による物語」と「音響による詩」という全く異なった音楽の捉え方が、同時代のアカデミックな音楽のなかに存在していることを示すような気もする。


ferneyhough-koernersuzukiyoshimatu


 大変どうでも良いがファーニホウの顔は吉松隆と鈴木雅明にそっくりだ(左から、ファーニホウ、鈴木、吉松)。





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カール・マルクス『資本論』(三)

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資本論 3 (3) (岩波文庫 白 125-3)
マルクス
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 巻を進めるごとに、読み飛ばしていくページが多くなっている気がする「マルクス資本論マラソン」だが、漸くここで全体の3分の一にたどり着く。ヘーゲルを読み……マルクスを読み……って「今何時代?お前、何共闘?」という感じだが、これはこれで面白い。しかし、なにひとつ賢くなった気がしない。数式が出てくるとついクセで読み飛ばしてしまう。なのに「マルクスを読んだ」とか言っちゃって「やーねー」という感じである。「インテリぶりやがって」とどこかからお叱りの声がかからないのが不思議でならない。2ちゃんねるのヲチ板の皆さーん!ここに乙女なんかより叩きがいがあるインテリぶった勘違いサラリーマンがいますよー!!と声を大にして言いたい。


 第3巻は2巻に引き続き「資本家はどうやって剰余価値を生み出しているのか」についてのお話から。これを端的にまとめてしまうと「どんなことがあっても資本家がまるもうけする構造ができちゃってるんだよー」という話になると思う。例えば、ある工場で時間労働制を採用したとする。「働いた分だけお金をあげよう」。これはとても納得がいくもののように感じられる。しかし、そこでの時給は納得がいかない額に設定されている。すると、普通に8時間ぐらい労働したぐらいでは、とてもじゃないが労働者たちは生活することができない。必然的に労働時間は長くなる――資本家が設定した時給のなかには既に「不払労働」が埋め込まれているのだ、という具合にマルクスは告発を行う。


 次にマルクスは、労働者から不当に労働力を搾取し、資本を蓄積した資本家がどのようにその資本を再生産していくのかを見ていく。ここでも図式は一緒である。勝ち続けるのは常に資本家なのであって、労働者は常に負け続ける。たとえ、労働賃金があがって労働者の生活水準が向上したとしても、その賃金が消費されることで儲けるのは資本家なのだ――石炭工が買うパン。これも資本家が労働者に作らせたものなのだから、一旦労働者に手渡された資本はすぐさま別な資本家へと吸い上げられてしまう。あたかも資本が資本家たちの間で循環するかのように。


 この記述は、かなり面白く読めた。マルクス主義は死んじゃったかもしれないけど、マルクスはまだ生きていて、読む価値があるかもなぁ、と強く感じてしまうようなところである。マルクス・イズ・ノット・デッド。19世紀のイギリスの工場労働者の労働環境と、私個人の労働環境には違いがありすぎるけれども「大きな資本の間で大きなお金が動いている」とか「見えないお金がどっかで動いている」とかいう感じは具体的にイメージできる。それを不当だ、とか怒るわけではないけれども、これを読んでてより詳しくイメージができるようになったような、そんな感じがする。だからと言って、別に得するわけではないのだが。


 資本の蓄積過程において、権力は囲い込みや暴力的な行為によって土地を奪い、そして経済活動の領域を広げ、土地を追われた牧童や農民が都市の労働者となった――という説明の箇所――これは世界史の教科書にも載っているような説明だった気がする――も面白かった。当然、土地を追われた牧童や農民が皆、新興工業へと吸収されるわけがなく、受け皿がなかった人もいて、こういう人たちは浮浪者とか乞食になってしまったそうである。彼らのように経済活動に参画しない人びとを、時の権力はどのように扱ったか――マルクスはこれを16世紀イギリスの法律を見ながら明らかにしていく。



ヘンリー8世、1530年。老齢で労働能力のない乞食には、乞食鑑札を与えられる。これに反して、強健な浮浪人には、鞭打ちと拘禁が与えられる。彼らは荷車のうしろに繋がれて、身体から血の出るまで鞭打たれ、その後に、その出生地または最近3年間の居住地に帰って「労働につく」ことを誓約せねばならない。なんという残酷な皮肉!ヘンリー8世の第27年の法律には、前の法規が繰り返されるが、新たな補足によってさらにきびしくされる。再度浮浪罪で逮捕されれば、鞭打ちが繰返されて、耳が半分切取られるが、累犯3回目には、当人は重罪犯人で公共の敵であるとして、死刑に処せられることになる。



 職がなく、街をぶらぶらしているところを3回見つかったら死刑!ほとんど鼻とアゴがやたらと尖った顔の人が出てくるマンガの世界だ。しかし、このような法律は16世紀のヨーロッパ諸国に普通に見られていたという。マルクスはこれを非難する。しかし、中央集権的な王権によるこれらの暴力によって、近代が爆発的に成長する礎は築かれた、ということが言えるのであって全否定することはできないものだろう。つくづく「近代って因果なものよねぇ」と感じてしまう。





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Hair Stylistics『Pop Bottakuri』

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POP BOTTAKURI [Monthly Hair Stylistics Vol.1]
Hair Stylistics
boid (2008-04-28)
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 遅ればせながら、Hair Stylistics(中原昌也)の「12ヶ月連続アルバムリリース企画」第一弾『Pop Bottakuri』を聴く。中原昌也の音楽には、暴力温泉芸者名義でのアルバム一枚と、北欧から来日した爆音ノイズバンドとの共演ライヴでしか触れたことがなく自分でも「これが好きなのかどうなのかよくわからない」という感じだったのだが、このアルバムで「あ、これ大好き」と確信した。素晴らしい――なにが素晴らしい、ってこのアルバムに収録されているノイズが「衝動」や「情念」的なものと全く関わらずに響いてくるところである。


 ノイズなんだけど、とにかく日本的なノイズ・バンド(っていうか灰野敬二とか非常階段とかのイメージが強すぎるんだろうけれど)とは別な次元/別世界で作られている感じをこのアルバムから強く受け取ってしまう。まるで日常の中から生まれてきた音楽。ポール・マッカートニーやブライアン・ウィルソンが自然と良いメロディ/曲を書いてしまうのと同様に、呼吸や食事や排泄と同じぐらいの自然さがある。「前衛」や「ウケ狙い」といった気取りは一切感じられない。すごくピュアな音楽だと思った。


 また、電子音楽/ミュージック・コンクレートといった60年代~70年代の前衛音楽のイメージ(具体的に言うとシュトックハウゼンの《コンタクテ》ってなんか、こんなだよな?みたいな)がものすごく記号化された形で用いられているところなどはやはり感心せざるを得ない。ニール・イネスがラトルズでビートルズをパロディを作り上げたような上手さである。ホンモノとは全然違うのに「それっぽさ」を強引に納得させてしまうこのセンス。やはり天才だ……。もはや「ノイズ/インダストリアル界のトッド・ラングレン」的な趣さえある。言ってみただけだけど。


 徹底して反ポップスでありながら、(本来の『ポップ』の意味が消失したところで)抜群にポップなところが恐ろしい。





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松本祐一《アンケート・アート》

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enquete-art


 こちらは今年度、スティーヴ・ライヒによって武満徹作曲賞第一位を授けられた(受賞作品は《広島・長崎の原爆投下についてどう思いますか?》)松本祐一のサイト。「アンケート・アート」という「日本語の文章を品詞ごとに分解して、音楽作品に変換する」、それをポッドキャストで配信する……というとても21世紀的な試みがなされている。《広島・長崎の原爆投下についてどう思いますか?》も、そのアンケート・アート作品だそうな。



アンケート・アートは、世の中の事象について、多くの人民よりアンケートを用いて意見を集め、その回答の文章をメロディに変換し、音楽作品を発表しています。


アンケート・アートが行っているテキストをメロディに変換する仕組みは簡単です。まず、日本語の文章を品詞分解します。分解された名詞や動詞、助詞、句読点等の品詞に音を割り振ります。例えば、動詞なら「レ」、名詞なら「ソ」のようになります。そして分解された単語の長さが音符の長さになって、リズムを作ります。



 これに一位をあげるのはライヒらしい感じがする。





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ヘルムート・ラッヘンマンを聴く

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Kontrakadenz: Gielen / Swr.rso【CD】-ラッヘンマン(1935-) 発売国:Holland|クラシック|音楽|HMV ONLINE CD、DVDの通販-ゲーム、書籍、 タレントの写真集も


 ドイツの作曲家、ヘルムート・ラッヘンマン(1935~)の作品集を聴いた。今回購入したCDは、彼が70年代に書いた作品を収録したもの(一部改訂版を含む)。《Kontrakadenz》、《Klangshatten - mein Saitenspiel》、《Fassade》という3曲をこのCDで聴くことが出来る。曲目の翻訳が見つからないので直訳してみると《矛盾するカデンツァ》、《音の保持―私的な弦楽演奏》、《ファサード(門構え。建物を正面から見た姿を意味する言葉。関係はないが、アドルノが好んで用いたメタファーでもある)》となる――なんだか訳してしまうことで、ガッカリ感が出てしまうけれど、これらの作品群は本当に素晴らしかった。「なんでも良いから『本当に聴いたことがない音楽』が聴きたい」――そんな風に思っている方には是非とも聴いて欲しいようなそんな音楽である。


 特殊奏法によって、通常オーケストラで使用される楽器が普段とは違った表情を見せる。このことがとてもユニークに感じられるし、「これはなんの音なんだろう?」と素朴な疑問がある。《Kontrakadenz》では、テーブルの上をコインが転がるような音や、ピンポン玉が跳ねるような音が聴こえるが、それが本当は何の音なのか、CDを聴いているだけでは分からない。しかし、その分からなさが逆に強い魅力になっている気もする。一体これは何なのか?――得体の知れない音に触れたときのシンプルな驚きを覚える。面白い。やはり、ブーレーズ・シュトックハウゼン・ノーノ以降、所謂「ポスト・セリエル」と呼ばれる作曲家の音楽をこれからもガンガン聴いていくべきだろう、と思ってしまう。


 沈黙と言う真っ白な空間の中に、不思議な音が点描に並べられている。この旋律、というか、作品が物語を紡がずに進行していく感じは《Klangshatten-mein Saitenspiel》でとても顕著である。三台のピアノと、48の弦楽器のために書かれたこの作品では、通常それらの楽器が使用されるとき発するような長く持続する音はほぼ使用されない。鋭く短い音が、パラパラと鳴る。ピアノの鍵盤がひとつポンと響く。続いて、それとは別な位相から、弦楽器がピッチカートで音をひとつ鳴らす――その後、それを追うようにして、いくつもの弦楽器のピッチカートが聞こえる。「一斉に」という瞬間はほとんどやってこない。それらは「合奏」という概念に反するかのように設計されている。このズレが、詩的な演出にもなっている気がする。少ない音の中に、やたらと情報量が詰め込んである感じも異様だ。


 3曲の中で最もポップと言えるのは《Fasssade》だろうか。電子的に変調された声や、ホワイトノイズがカットアップのように、短い音響のなかに織り込まれていて、音の動きはダイナミックである。運動量の多さで言えば、間違いなく3曲中最も激しい。ただ、その分、凡庸、というか凄みにかけるような気がしないでもない。いや、でもすげぇ、か。


 面白かったんで、これからもラッヘンマンのCDは定期的に買い続けようと思います。買ったら/聴いたら報告するのでお付き合いくださいませ。ちなみに、ラッヘンマンさんは来年度の武満徹作曲賞の審査員だそう。今年が、スティーヴ・ライヒだったらしいので、なんか、すごい人選ですよね。





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続・「考える」というライフデバッグ

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「考える」というライフデバッグ - 「石版!」


 id:hachi_gzkさん、コメントありがとうございます。コメント欄に返信を書こうかと思いましたが、考えているうちにとても長くなりそうな気がしましたので、新たにエントリを書くことで返信に代えさせていただきます。無作法かもしれませんが、ここにまずhachi_gzkさんのコメントを引用させてください。



バグに対して自らを一方的に「守る」のではなくて、原因を追及して「攻める」というのは大事な事だと思います。ノアのジュニアヘビー級の様な目まぐるしい投げ技の応酬には、お互いの「攻める」と「守る」のバランスがとても大事ですし。……まあ、それは置いといて。


実の所、その「考える」という点が何かネックになっていて、誰しも「考える」事によって正しいデバッグが行われるのか(『正しい』という事は、実際には無いけれど)という部分なのです。


例えばの話として、「考える」事によって「秋葉原を歩いていても刺されることがある」が「どこを歩いていても刺されることがある」や「(俺はどんな状況でも)秋葉原を歩いていても刺される事がない」、ひいては「秋葉原を歩けば、あの様なハプニングも見られる」のような都合の良い方向に変わってしまうのではないか。


確かにこれは「秋葉原を歩いていても刺されるわけがない」という信頼は復旧されているけれども、それで何か「刺されない」以上の大事な物を上書きしてしまっているのではないかとも思うのです。


こういうデバッグは、実は無意識に自らが行っているのかも知れません。だとしたら、どのように自らがデバックを行っているのかを知ることが出来るのか……。と考えるときりがなくなってしまうので、それ以上は考えない様にしています。上手く考える知識と整理術が欲しい。


ただ、やはり明確な例を挙げられないので、これは間違っているかもしれません。



 私が考えていたのはそのように上書きを行う――「秋葉原を歩いていても刺されることがある」から「刺されるはずはない」――という方法とは少し異なったものでした。これについては、後述させていただきます。


 少し話は遠回りしますがお付き合いください。まず、私が検討しておきたいのは、どのような上書きがあり得るのか、ということです。まず、「秋葉原を歩いていても刺されることがある」が「どこを歩いていても刺されることがある」という書き換え。これは充分あり得る、というよりも、既に行われつつあることだろうと思います。「どこを歩いていても刺されることがある」という可能性が、今回の事件では事後的に発見されてしまいました(正確に言えば、これは『再発見』だったと言えるでしょう)。


 一方で「秋葉原を歩いていても刺されることがある」が「刺されるはずはない」という書き換えの可能性。これは現実的に不可能のように思われます。そのような可能性が現に存在してしまっているからです。少し奇妙に思われる説明かもしれませんが、そのような可能性が可能性として現れている以上「刺される可能性はない」と断言することはできません――しかし、だからと言って我々は街を歩けなくなってしまった、というわけではない。依然として「刺されるかもしれない」という問題が目の前にあるというのに、です。


 「そんなに気にしている人はいないからだ」と言ってしまうのは簡単です。が、しかし、なぜ多くの人は気にしないのだろうか――これは端的に言って「経験」がなせる業だ、ということが言えるでしょう。「昨日、ニュースで通り魔があったからと言って、すぐさま自分が通り魔に会うわけではない」という、これまでの経験が問題を解消してしまうのです。


 ただし、ここには「考える」という余地は存在していません。「それでは、そもそもバグが起こっていないのではないか」と思われるかもしれません。とはいえ、「刺されるかもしれない」という可能性が現れたことによって、現に何かが起こりつつあります。


 例えば、ナイフの流通の規制や、ネット上の殺人予告を通知するシステムの構想(このシステムに関してはまったくバカげた構想だと思いますが……第一、年金データベースのヨレさえも何年も気がつかないお役所の人たちに、そんな立派なものが使いこなせるのでしょうか?)、あるいはマンガやアニメや映画、ポルノに対する規制。このような動揺が社会の大きな部分で見られます。おそらく、目に入らない社会のミクロな局面でも同様に動きがあるのではないでしょうか。オタクやニートや派遣社員に対する蔑視が深まったりしているのかもしれません。セキュリティへの不安は高まっているように感じられます(その動きの問題点は、前の前のエントリで示しました)。


 ここで、ひとつ指摘できるとしたら、経験によって問題を解消する態度には、可能性に対しての「閉じ」が感じられます。つまり、そもそも現れてきた可能性を無視してしまう、または認めようとしないという態度が見受けられる、と――ただ、その閉じたところの隙間のようなところから可能性が漏れ出してしまう。これがセキュリティへの不安へと繋がっているようにも思われます。


 私はこれに対して可能性への「開かれ」を逆に考えてみたい。可能性を無視するのではなく、可能性を書き換えてしまうのではなく、むしろ、可能性をそのまま保持していくこと。これが私が前のエントリで言わんとしていたことです。「刺されるかもしれない」という可能性はある――と受け入れることによって、セキュリティへの不安ではない、別な指針を打ち出すことができるのではないだろうか、と。


 考えることによって結論を出す(『刺されない』と不安を書き換える)ことはここでは求められません。もちろん「不安を克服しろ」というわけでもありません。「刺されるかもしれない」ことが怖いのは当たり前のことです。しかし、その可能性について考え続け、怖いと感じられるからこそ(例えばですが)「怨念が暴発する可能性を下げる方策」へと向かうことができるのではないだろうか、と思うのです。



限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学
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 最後に、私が以上のようなことを考えた元ネタになっているであろう本を紹介しておきます。hachi_gzkさんがこの返信を面白く読んでいただけたら光栄です。





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「考える」というライフデバッグ

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怨念と個人的テロリズム - 「石版!」


 昨日のエントリを書いてから、また頭がグルグルと言い出したので続きっぽく書いてみることにする――でも今回は具体的な事件から少し離れた話になると思うし、ちょっと込み入った話にもなると思う。以下は“コロッケが自動販売機で売っている国(通称、コロッケの国)”へ留学中の某氏と事件についての意見を交換していて思ったことである。

 昨日のエントリで私は「だれでも良かった」という陳述の恐ろしさについて書いた(この言葉についてはid:sumita-mさんがとても面白い分析をしている*1)。しかし、ここではその言葉がネタであるかどうかについては問わない)。その恐ろしさとは「誰でも良かった」=「私でもありえた」という可能性からもたらされている――「私でもありえた」からこそ、「事件に自分がまるで関係ない」と言い切ることはできない。

 そういう風に考えてしまうのは、おそらく私がアドルノ読みだからかもしれない。アドルノは『否定弁証法』のなかで「アウシュヴィッツで殺されたのは(ユダヤ人であれば)誰でも良かった」、「アウシュヴィッツ以降に生きるものは『偶然生き延びた』だけである。その生き延びたものたちは(のうのうと)生きていて良いのか」というようなことを言っている*2


 しかし、これは「大げさすぎ」あるいは「過敏すぎる」と批判されても仕方がない感覚だろう(アドルノがアレントからそのように批判されたように)。また、こんな批判の仕方もできると思う――そもそも「私でもありえた」ということは事後的にしか観察され得ないものである。「私でもありえた」ということは「私ではなかった」からこそ、考えられるのだ。もし本当に「私だったなら」、既にアナタは死んでいるはずだ。だから、考えても意味はない、と。


「考えない勇気」を持てば、頭がスッキリ! - ココロ社 ♪ほのぼの四次元ブログ♪


連載第九回 予期とは何か? - MIYADAI.com Blog


 「考えても、あまり変わらないのだから、考えずに積極的に行動したほうが良い」。「考えているとリソースを消費してしまうし、そもそもの行動がとれなくなってしまう。だから(根拠のない)信頼をより所にして行動をとったほうが良い」――実際に、こういった意見に現れた「効率の良さ」には頷かざるを得ないところがある。「こういう事件が起こる背景には社会の問題がある」と考えているよりも、迅速に行動をして、問題がある社会で決定権を握れる立場に立ってからトップダウン式に変革をしたほうがよっぽど効率的であるように思える。


 そのためには、やはり国会議員にならなくてはならない。しかし、私の父親は元自動車整備工で自称「先祖が平家の落ち武者」というしがないサラリーマンであって、国会議員になれるような素質は一切見当たらない。有名にプロレスラーにでもなるほか道はないだろう(アントニオ猪木、馳浩、大仁田厚……これほど政界に近い業界はない)。そのためには今から体を鍛えなければならない――しかし、私の伸長は176センチ。これはレスラーにしては小柄だ。ルチャに見られるような華麗な空中殺法でも身につけなくては……メキシコ留学も視野にいれておかないと。よし、今日からスペイン語の勉強もしておこう!


――じっと考えているよりかは、ずっとこちらの方が能動的で効率の良い「社会を変えるための手段」のようにも思える。やはり、ありもしない可能性などに「考える」ことはライフハックにはなりえないのだろう。「殺されるのは私だったかもしれない」という現実には生じ得なかった可能性について考えてばかりでは、恐怖を募らせ、さらにセキュリティへの不安を高めるだけである。


 もちろん「考える」ということ全般に積極的な意味を見出せない、というわけではない。テロリズム的な行為によっては、社会の構成員が行動をとるときの基盤となる信頼に対して傷をつけられてしまう。普段は忘却の彼方にあり、「秋葉原を歩いていても刺されるわけがない」という失われてから初めて気づかれる信頼が壊れてしまう(そしてそこで「秋葉原を歩いていても刺されることがある」という可能性が生まれる)。これは、ライフハックを行うための基盤にバグが発生した状態だ、と言うことができるかもしれない。


 そのようなバグなど、忘れてしまえば自然と解消されるだろう(そして、通常、多くの人がそのような手段を用いて新たな行動をすることができているのだと思う。恐ろしくなるのは、ほんの少しの間なのだ)。しかし、ここで「考える」ことによって、積極的にバグを解消する手段が見つかるのではないか、と私は思う――ライフハックではなく、ライフデバッグという積極的な意味を「考える」という行為に見出せないだろうか、と。具体的なことを何も提示できていないのが恐縮だけれども……。



信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム
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怨念と個人的テロリズム

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 秋葉原で起こった通り魔事件が報道された際に、ここ何年かにあった通り魔事件について紹介されていた。それを見ていて「結局、こういう事件って偶発的に起こってしまって、起こってしまったらどうしようもないことなんだな」と思ってしまった。事件が起こってしまえば、防ぎようがない。いくら暴力描写があるマンガだのゲームだのを取り締まろうが、ナイフ持ち歩いている人を検挙しようが、無惨に殺人が行われてしまう可能性はゼロにはならない。


 「だから、起こらないように一層厳しくしていかなければならない」という理屈は真っ当なものに思える。これからまたより一層にそういった「影響を与えるもの」に対しての風当たりはつらいものとなるだろう。でも、そういった「草の根」的な規制なんかホントはあんまり効果がないんじゃないかな、と思う。規制の網の目は、どこかでかいぐぐられてしまうだろう。もっと根源的なリスクを削減していく、そういったマクロな手段が必要なんじゃなかろうか、とか思うのである。理想を言えば、「暴力描写があっても大丈夫な社会作り」とか「ナイフを持ってても大丈夫な社会作り」とか、そういうの。そうじゃなきゃ、棚橋みたいに刺されても死なないような屈強な肉体作りに励むしかないよ……。



挑発する知―愛国とナショナリズムを問う (ちくま文庫 み 18-4)
姜尚中 宮台真司
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 ふと思い出されたのは姜尚中と宮台真司による対談本『挑発する知』におけるテロリズムに関する議論だった。この本のなかで宮台は、テロリズムの動機について「怨念」という言葉を用いて、こんな風に言い表している。



……怨念が拡散するほど、セキュリティの不安が高まります。他者性を力で抑圧することが先決となります。「ヌルイことをいっていたら怨念をもった奴らがまた何をやるかわからないじゃないか」となる。かくして、何か怪しいというだけで先制的に切りつける。どんどん怨念が溜まる。すると、締め付けられた人びとは、ますますテロの動機を高める。つまり自己強化的な循環(マッチポンプ)があります。(P.41)



 これは9.11以降のアメリカとイスラム諸国の関係について語られたことだけれども、同じことが今回の、というかこういった「誰でも良かった」型の通り魔事件について言えるような気がする。怨念が、何かのきっかけで暴発してしまった。その結果がこういった個人的なテロリズムとして表出してしまったように思われてならないのだ。


 例えば「オタクだのニートだのワーキングプアだの、なんだかよく分からない。ウチじゃとても怖くて働かせられないよ」というセキュリティの不安がある。本当は働きたい。真っ当な暮らしがしたい。しかし、そういった怪しまれる要素を持った人たちは、仕事さえもらうことができない(これは明らかに抑圧的な状況だと言える)。怨念が溜まる。その怨念が限界に達したとき、どこかで事件が起こる。するとまたセキュリティの不安は高まる……という悪循環。結局のところ、セキュリティの不安が新しい怨念を生産するため、まったく解決策になっていない、というパターン。


 「俺がこんなに苦しいのは社会のせいだ」と虐げられた人びと(とここでは便宜的に名づけておく)と思うのは当然なような気もする。「社会」とは、つまり「我々が生きている集団」である。「だれでも良かった」という言葉には、強くこの漠然としたマスへの負の感情を感じてしまう。もっとも恐ろしいのは「だれでも良かった」=「私でもあり得た」というところだけれども――しかし、これは「私には関係のないことだ」という言い逃れが許されないことも意味している。そういうアナタも私も虐げられた人びとに恨まれる社会の一員なのだから。


 「虐げられるのは、自分が頑張らないせいじゃないの?」とか言う人もいるだろうけれど、そういう成果主義/自由主義っぽい考えがまかり通っているような社会の構造も、怨念という負のリソースの増加に影響を与えているような気もする――そういうの、ある程度正しいけど、やりすぎると怨念生んじゃうよね。このあたりは自称「勝ち組」の人が、再分配とかそういう高貴な優しさを(嫌々ながらも)身に付けて、なんとかやっていただきたく思う。そういう手段を上手くやりくりしないと、ホントどうしようもない。


 あと「死にたかったら、一人で樹海行って死ね。迷惑かけるな」って言う意見は、もしかしたら最低かもしれない。潔く、一人で、決然と死ぬ。こういう主体性すら奪われてしまうしんどい社会なのかもしれないのだし。「拳銃を向けられたから、ナイフを地面に置いて捕まってしまう」――このロマンもなんもない感じが、ねぇ……。


 なんかひどく散漫なエントリになってしまったけれど、以上が昨日からぼんやり考えていたこと。なんか、やんなきゃいけないんじゃねーのか、って思った。





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フランソワ・ラブレー『第三の書』(ガルガンチュアとパンタグリュエル)

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ガルガンチュアとパンタグリュエル 3 (3) (ちくま文庫 ら 5-3)
フランソワ・ラブレー
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 ラブレーの大作『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の第三巻『第三の書』を読みました。オシッコとオナラで戦争に勝ったりする勇ましい冒険譚は『パンタグリュエル』までで終わりで、この巻からはパンタグリュエルが“のどカラカラ人”の国を征服して、ユートピアを治めるところから始まる。のだけれども、いつものように話は脱線、脱線の連続で、ユートピアの素晴らしい暮らしはほとんど描かれることなく、500ページを超える本の大半が、パニュルジュ(パンタグリュエルの部下)は結婚すべきか/しないべきか、という話をめぐって浪費されます。素晴らしい。もう、ホントにどうでも良い話ばかり。


 パンタグリュエルはパニュルジュに「結婚したら、寝取られ亭主になってひどい目に会うぞ」と言い、パニュルジュはそれを受け入れない。終わりのないこの論争をめぐって、数十種類の占いがおこなわれ、また裁判官だの魔術師だの哲学者だのが召還されます――でも、結局、論争に終わりはない。このミニマルな展開のなかに、ギリシャ哲学や神学的問題をめぐってのラブレーの主張が隠されている……と読める人は、すごいなぁ、と思ってしまうけれど、個人的にはそんなの分からなくても、なんか固有名詞が羅列されて「小説っぽい雰囲気が出ている」という不思議な感じも楽しく読めました。ところどころに、当時の社会通念などが現れるところも良いです。16世紀のフランスと21世紀の日本の遠さが面白い。


 読んでいるうちにだんだんとラブレー周辺の人文主義者や、ラブレーも影響を与えていると言われる「百科全書派」あたりに興味が出てきました。ちょうど既刊はこの巻までなので、次の『第四の書』が出るまでに、そういった本を読んでみようかな、と思います。




  • 関連エントリ


フランソワ・ラブレー『パンタグリュエル』(ガルガンチュアとパンタグリュエル) - 「石版!」


フランソワ・ラブレー『ガルガンチュア』(ガルガンチュアとパンタグリュエル) - 「石版!」





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ブライアン・ファーニホウ《創意の牢獄 IIb》

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 「ブーレーズ・シュトックハウゼン・ノーノ以降の作曲家を聴こう」キャンペーン第2弾。こちらはイギリスのブライアン・ファーニホウの《創意の牢獄 IIb》という作品だそう。Wikipediaによれば、これがファーニホウの名声を確立するきっかけになった作品のひとつらしい。「もうなんかえらいことになってんな……」としか言えないけど、怒涛のように押し寄せる密度の高い音がとてもカッコ良い。他の作品も聴いてみたい、と思わせる。


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 楽譜はこんな感じになっているみたい。この小さな画像ではもはや何分音符か確認できないくらい細かい音符が並んでいるんだけれど、五線の下に書かれた強度の指示もすごいことになっている。


 映像に寄せられたコメントによれば「悪くないけど……精度に欠ける演奏だよね」とかある。そういう判別ができる耳ってすごいなぁ、とか思うけど「ホントに分かって言ってるのかよ?」と怪しい感じがしなくもない。





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G.W.F.ヘーゲル『歴史哲学講義』(下)

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歴史哲学講義〈下〉 (岩波文庫)
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 中国・インド・ペルシャの歴史を中心として語られた上巻*1と比べて、ギリシャから始まる西洋の歴史を語った下巻はヘーゲルの本領発揮、という感じでより面白く読めた。



ギリシャにやってくると、ただちに故郷にいるような気分になる。そこに精神の土台がしっかりとあるからです。(中略)ギリシャに見られるのは、青年期の精神生活の新鮮にして明朗な情景です。ギリシャにいたってはじめて、精神はみずからを意思と知の内容とするまでに成熟し、しかも、国家、家族、法、宗教が同時に個人の目的となり、個人はそれらにかかわることで個人としてみとめられる、という関係が成立しています。



 冒頭から、ヘーゲルはこのようにしてギリシャ世界への憧憬をあらわしていた。彼のギリシャ国家への評価はすこぶる高く、ことあるごとにギリシャの精神を褒め称え、素晴らしい、と評する。このあたりは、もうほとんど「昔は良かった」論として読めてしまうのだが、このギリシャ世界論にはとても興味深い。


 ヘーゲルはギリシャの共同体精神を「思考が自分を反省するという無限の形式を欠」いたものだと分析する。ギリシャにおける個人の意識は、国家や法、宗教に縛られていない。それらは主体の「個人の目的」とされており、外部にあって主体を規定するものとしてではなく、むしろ主体の精神の中に内包されているものとして現れている。


 だから、主体は「反省」という行為を経由しなくても、存在が許されてしまう――主体は、国家や法や宗教を参照して、自らの正統性/妥当性を確認する必要がない。いわば「国家=私」、「法=私」、「宗教=私」という統一が生まれており、私の存在ははじめから承認されたものになっている。「個」は即ち「全体」であり、「全体」は即ち「個」なのである。


 しかし、この個と全体の統一は、国家の規模が大きくなるにつれて、保持することができなくなってしまう、とヘーゲルは言う――統一は、ギリシャの都市国家のようにとても小さなコミュニティでしか存続することができないのである。徐々に、国家や法や宗教は、主体の内部から外部へと切り離され、次第に個人の上に立って「個人に徹底した従属を強いるもの」になりはじめる。


 この変化は、ギリシャの没落にはじまり、ローマにおいて完成される。国家や法や宗教が、主体の外部におかれ、「従属を強いるもの」となったとき、初めて主体には反省が生まれる。ヘーゲルはこれを「世界史の新しい局面」だと言う。



啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫 青 692-1)
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 これらのダイナミックな記述は、ホルクハイマー/アドルノによる『啓蒙の弁証法』と重ねて読むことができるように思える。主体の内部にあった主観的理性が、合理的理性となって外部へと切り離され、その外部にあるものを利用することによって、近代は爆発的な進歩を生み出すことに成功した、とホルクハイマーとアドルノは分析する(しかし、それは同時に野蛮な時代の幕開けでもあった)。ヘーゲルの分析も、これと似ている――ギリシャ的な共同精神が喪失されることによって、弁証法的な歴史の動きは推進されたのである。






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アルバン・ベルク四重奏団解散公演@サントリーホール

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ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第15番&第16番
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 解散が決まっているアルバン・ベルク四重奏団のフェアウェル・ツアー、日本公演の最終日を聴きに行ってきた。曲目は、ハイドンの弦楽四重奏曲第77番、ベルクの弦楽四重奏曲、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番、という3曲。


 解散の理由は、メンバーが語るように「技術的な衰え」に所以しているように思われる。しかし、これは「メンバー全体」のというよりも、本当のところ、第一ヴァイオリン奏者のギュンター・ピヒラーに大きく要因があったのではないだろうか。今日の演奏だけで判断するのは大きな間違いかもしれない。しかし、速いパッセージでの発音がやや曖昧になりすぎているところが目立ったように思う。付け加えて、音程がやや低めで四重奏のなかで一人だけ、ピリオド奏法のようなピッチになっているのが気になった――高齢になると、音程が高く聞こえることがあるという。ピヒラーにもその症状が出ていたのだろうか?


 とはいえ、音楽の組み方、流れの作り方は素晴らしかった。これはもう絶品としか言いようがない。書かれた楽譜をどのように解釈するか、これについては演奏家の自由であって、本当のところ「正しい解釈」、「正解」といったものは存在しない。しかしながら、アルバン・ベルク四重奏団の演奏には常に「限りなく正解に近い理想形の“ひとつ”」といった姿があるように思われてならない。


 しっかりとした長さと作りがあるにも関わらず、どこか小品めいた音楽に聞こえてしまうハイドンの可愛らしさや、ほとんど理解を阻むように書かれたベートーヴェンの構造をエレガントに聴かせてしまうところは素晴らしかった。なにより、ベルクの弦楽四重奏曲は圧巻だった。ベルクの無調作品をロマン派の系譜へとガッチリはめてしまうような見事な演奏だったように思う。


 とても感慨深く、また、複雑な気持ちになった演奏会だった。素晴らしい演奏だったのは言うまでもない。しかし、アンコールで演奏されたベートーヴェンの第13番の5楽章が終わり、満員に近い観客の誰もが拍手できず、誰かを追悼するかのような長い沈黙がホールに訪れたとき、ひどく寂しくなった。客席になにか大切なものを置き忘れてきたみたいな、そういう気持ちにさせられながら会場を後にした。



ベルク:弦楽四重奏曲
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ウリチパン郡『ジャイアント・クラブ』

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ジャイアント・クラブ
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 ウリチパン郡のセカンド・アルバムを聴く。驚くほどの大傑作アルバムである。大体、このユニットが4人編成のバンドに変貌していたことも知らなかったので、その事実だけでもびっくりだったのだが(しかもドラムが BOREDOMS!)、バンドになってからの「変態な音楽性がねじれすぎて、360度回転。結果、ポップなところに着地した」みたいな楽曲の変化がすさまじすぎる。しかし、しっかり根っこがねじれているところが面白い。とても新鮮。これはXTCを初めて聴いたときの「おー!なんだこれ!!変態なのに、むちゃくちゃにポップだ!!!」という驚きに似ているかもしれない。こんなに手垢がついてない感じで楽しく聴けるポップ・ミュージックは、ちょっと最近じゃ思い当たらない……。っていうか、もう「良い」としか言えないよ……。というわけで、彼らのMySpaceへのリンクを(聴いて驚いた方が良いですよね)。


 ウリチパン郡(MySpace)


 このアルバムのすごさは根幹にあるねじれによって、「エレクトロニカ」や「音響派」といった、名づけられたジャンルへとたどり着かないところにあると思ったりした。





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非日経読者のための金融経済3級対策

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銀行業務検定試験問題解説集金融経済3級 (2008年6月受験用)
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 本日銀行業務検定協会主催の「金融経済3級」という資格試験を受けてきた。せっかくなので、ここでちょっと今回の試験と勉強法などについて総括をおこなってみたい。この試験、日経新聞を日ごろから熟読された方であれば、ほとんど勉強しなくてもたぶん受かる。でも、当然私はそういったマジメなビジネスメーンではない――この総括エントリは、そういう方々のために、それから今回ダメだったら来年また受けなくちゃいけないハメになる自分のために書く。




 まず、試験を受けるにあたって私は協会が出している試験対策用のテキストを一通り解いてみた。この試験は、最近の金融市場や経済の状況がもろに試験問題へと反映されているため、過去問を解いていくことはあまり効果的な勉強法とは言えない……のだが、経済理論の用語説明や経済についての基本的な考え方・仕組みを補強するためには良いと思う(『日銀って何やってるところなの?』レベルの人は必須)。大体、どういう問題が出るか、という傾向もつかめてくる。


 以下に、どんな問題が出るのか(出たのか)を箇条書きにしてみる。



・マーシャルのK、貨幣の流通速度、信用乗数の計算


・前年の資金循環について


・デリバティヴについて


・各種市場(公社債・株式・短期金融)について


・前年の国際収支の動向について


・今年の税制改正について



 これらの問題は2003年からほぼ毎年必ず出題される(今回も出題された)。「マーシャルのK……」、「デリバティヴ」についてはテキストを解いておけば問題ない。ただし、統計結果や税制改正の内容などは調べないとわからない。このあたりの知識を調べるのには、以下のリンク先が今回役立った。



決定!2008年度「税制改正」はこうなる [ビジネススキル・仕事術] All About


日本銀行:ページを表示することができませんでした Bank of Japan:Page cannot be displayed.


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 ちなみに「税制改正」「国際収支」はリンク先に掲載された内容がそのまま出題されていた。試験の3日ぐらい前に調べても遅くはないと思うので、忘れっぽい人は試験前一週間にたくさんこのあたりのキーワードをググればよろしい。


 これらの必須問題のほかは、やはり最近の経済状況・動向が反映された出題内容となっていたように思う。投資への意識の高まりやグローバル化などの影響を受けているように感じられた(この傾向は2006年ぐらいからある)。


 投資がらみの分野は、「集団投資スキーム(いわゆるファンド)」、「投資信託」、「金融証券取引法の詳細」などについてがテキストでも押さえられるようになっている。しかし「日本/世界の証券取引所の動向」は調べないと分からない(けど、面倒だったら捨てても良いと思う)。金融証券取引法については来年も出そうな感じ。


 グローバル化がらみの分野は、アメリカについてだけではなく、EUやアジアなどの幅広い視野が必要になってくる。この辺もすぐには分からないと思うので、なんとなく勘で。今年はサブプライム問題から出題があったので、ちょっと助かったかもしれない。来年は、中国経済についてとか出るんじゃなかろうか。


 こまごまとしたところではコンプライアンスやリスク管理、地方財政についても出題される。不良債権問題とかはもうたぶん出題されない。格差社会関連ではジニ係数についての問題が、昨年に引き続き出題されている。郵政民営化もまだまだ出題されると思う。


 大体、これだけ押さえておけば日経を読んでいなくても一ヶ月でバッチリな感じに仕上がるはず(まだ、解答が来ていないため確証が持てないけど……)。取れない試験ではない。勉強すれば、石原慎太郎でも橋下徹でも合格できる試験だと思う。


 無難に言ってしまうと、日経を読んでおいたほうが良い。私もこれを期に日経を購読しようかと思った(受からなかったときのためにも……)。


追記:自己採点結果は合格点でした。





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Mouvement ( -- vor der Erstarrung)

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 ブーレーズ・シュトックハウゼン・ノーノ以降の作曲家を聴こう、という意識が高まりつつある(自分の中で)ので、いろいろと調べたり、CDを注文したりしつつある。そこでYoutubeで検索をかけてみたらヘルムート・ラッヘンマン(1935-)が自作について語る映像が見つかった。


 アップされたのは2008年2月18日とある。おそらく、このドイツ出身の作曲家の姿を拝むことができる最新の映像に違いない。ちなみに、これは2008年4月18日にロサンゼルスで行われた演奏会(オール・ラッヘンマン・プログラム)の宣伝とある。


 もともと英語のリスニングに自信がない上に、ラッヘンマンの英語が訛りでえらいことになっているため、聴き取った内容はかなりあやふや。「この作品には、音楽的行為には見えないような動作がたくさん含まれています」……とか冒頭で言っていて、その演奏行為にみえない特殊技法の説明が入ってるんだけど、この部分摩擦がどうしたとかいう大事な部分が全然わからない。


 ラッヘンマンのあとに出てくる、指揮者のマイケル・ギャランテがその分からない部分を大きく補完してくれた――「音の全体、動きの全体、それらが小さな宇宙を形作っています」「このコンサートはきっと、夕食後のかなりの驚きになると思いますよ」――その驚きが肯定的な驚きとして捉えられるのかは、私にはちょっと分からないけれど、アメリカ西海岸に住んでいたらきっとこの演奏会に足を運んでいたと思う。


 どうでも良いが、映像の途中でミシェル・フーコーそっくりなトランペット奏者が出てくるところも見逃せない。そして、訳は全部超訳だ。





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