衝撃!チャーハンってこんなに美味しいものだったのか!!

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 おいしいチャーハンの作り方@ぬけない2ちゃんねるを試してみました。具になるような食べ物が冷蔵庫に残っていなかったので、たまごのみの素チャーハン。でも美味しい!今まで食べていたチャーハンはチャーハンでなく、なにか別のものだったのでは……と思うほど何かが違う。2ちゃんねるって良いこともちゃんと書いてあるんだなぁ(麻生太郎が言ってたのはホントだった!)、と思った瞬間。


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 冷えたご飯とたまごを混ぜる。


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 それをコイツで炒める。良い感じの黒光り具合。


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 このパラパラ感!ごはんの一粒一粒が独立してチャーハンという全体を作り上げる弁証法的関係!


 味付けは塩だけでも全然いける。たまご、油、米、塩、これだけでこの美味しさが生まれるケミストリーは、作る過程のどこかでスピリチュアルな何かが乗り移ったとしか考えられません。





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マイク・オールドフィールド『天空の音楽』

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Music of the Spheres
Music of the Spheres
posted with amazlet on 08.03.30
Mike Oldfield
Decca (2008/03/25)
売り上げランキング: 1072



 映画『エクソシスト』のサントラに使用された「チューブラー・ベルズ」で有名なマイク・オールドフィールドの新譜が出ています。邦題は『天空の音楽(原題;Music of the Spheres)』。オールドフィールドの作品では「チューブラー・ベルズ」をオーケストラに編曲したものがありますが、今回の新譜はフルオーケストラを使用した初のオリジナル・アルバムだそう。



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 Youtubeにはいくつかアルバムの音源を聴ける映像がアップされています。オーケストラのアレンジは、カール・ジェンキンス(元ソフト・マシーン)。この人は現在、BBCやNHKのドキュメンタリ番組の音楽を書いたりしているのですが、仕上がりもなんかそれっぽい感じ。「プロジェクトX」とか「その時歴史は動いた」とかの感動話を彷彿とさせつつ、大河ドラマ的な雰囲気もある。



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 オールドフィールド&ジェンキンスのインタビューと製作時の映像。映画の予告編みたい。ピアノでラン・ランが参加しているなど、ゲストも豪華。「やりたいことは全部やりつくしてしまったよ!」と語るほどの自信作だそうですが、たぶんこの「予告編」が与える「なんかすごそう!」という感じほど本編は良くないんだろうな、と思って買ってない。



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 やっぱこういうの聴きたいなぁ。





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結局、マナーなんて俺ルールの後ろ盾に過ぎない

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色んな楽しみ方があっていいし、誰だって最初は未体験ゾーンな訳ですが、私がこれまで見てきた「クラシック聴きに行ったけれどマナーが厳しすぎる」と愚痴ってる人たちの最大の問題は、「俺ルールを押し通す(家の外でも自分の世界に入ったまま)」人が多いように見受けられました。



 先日書いたクラシックの演奏会におけるマナーについてのエントリに以上のようなコメントをいただいている。これを読んで私は「でも、演奏会では静かにしろ!」というその要求もひとつの「俺ルールを押し通すこと」だよな、と思った。結局のところ、マナーなどとは誰かが俺ルールを押し通す際に、その行為に正当性を与える枠組に過ぎないのではないか、と思う。


 もしそのような枠組がない状況においては「騒音なんか気にしない。好き勝手おしゃべりしたいし、パラパラと音を立てながらパンフレットをめくり音楽を聴きたい」という俺ルールと、「音楽は厳粛に聴きたい。騒音なんか聴きたくない」という俺ルールはどちらも並列に置かれてしまい、どちらも正当化されてしまう。あるいはどちらも正当化されない。しかし、実際には後者の俺ルールが優位性をもったものとして扱われる。後者にはマナーという後ろ盾がある。「どうしてマナーを守らなければいけないのか」。こういった問いはあまり意味を持たない。「守らなければいけないマナーがあるから、マナーを守らなければいけないのだ」という同語反復的な返答によって、問いは解消されてしまう。


 しかし、そこで自分の俺ルールが正当化されたといっても「俺は正しい!演奏会は厳粛に音楽が聴かれるべきなのだ!」とふんぞりかえるのはあまり好ましいものではないように思われる。むしろ、そのような俺ルールは、マナーに寄りかかることによってでしか正当化することができない、脆弱なルールであることに自覚的である必要があるような気がする。





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(桜が咲いたので)お弁当を持って、外へでよう

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 先日、ピンクのシャツを着て仕事に行ったら桜が咲いていたので「あ、俺、もしかして春を呼ぶ男?」と思いました。桜っていつの間にか咲きますよね。それで毎年「ああ、また四月か。もう一年経ったんだ……」って思う――そんな季節についての雑感はまったく関係なしに、せっかく桜が咲いたのだし、お弁当を持って外に出ると楽しいよ!っていうことを伝えるべく写真を掲載していきます。


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 おかずは春の山菜(タラの芽、ふきのとう)とかぼちゃのてんぷらを作りました。


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 新百合ヶ丘から柿生方面に行く川沿いの道は、桜並木がずっと続いていてすごい(追記;麻生川というらしい)。


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 からあげとたまご焼きっていうオーソドックスな「お弁当おかず」も持ってくとグッと行楽気分が出ますね。





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Youtubeで聴く!20世紀のヴァイオリン協奏曲2

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 20世紀におけるロマンティックな音楽といえば、イギリスの作曲家たちも忘れてはいけません。近代に入ってエドワード・エルガーが現れるまでイギリスには目だった作曲家が存在しなかったのですが(バロック期以前には良い曲を書いている人が結構いる)、その後、エルガーの影響を受けた作曲家たちが活躍をしています。ウィリアム・ウォルトンもエルガー以降の作曲家の一人。こちらは彼のヴァイオリン協奏曲(第3楽章)。ダイナミックかつドラマティックな展開がカッコ良い。



シベリウス & ウォルトン: ヴァイオリン協奏曲
諏訪内晶子 ウォルトン シベリウス オラモ(サカリ) バーミンガム市交響楽団
ユニバーサルミュージック (2002/09/21)
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 録音はチャイコフスキー・コンクールの覇者、諏訪内晶子のものが好演。美しい音色で、端正に音楽を作り上げるのがこの演奏家の特徴ですが、ここでも彼女の持ち味が生きているように思います。劇的な音楽のうねりが綺麗にまとまってしまっていることに物足りなさを感じるかもしれません。紹介した映像で弾いているチョン・キョンファとはまるで正反対のように思います。



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 さて、次はイーゴリ・ストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲(第1楽章)です。ストラヴィンスキーといえば、バレエ音楽《春の祭典》で従来の西洋音楽におけるリズム語法を解体するというスキャンダルを巻き起こしたことが有名ですが、その後、新古典主義と呼ばれる作風になってからの作品も素晴らしい。この協奏曲もその時代のものですが、全楽章が同じフレーズで始まるという「悪ふざけ感」がとても楽しいです。



Stravinsky, Prokofiev: Violin Concertos
Sergey Prokofiev Igor Stravinsky Daniel Barenboim Chicago Symphony Orchestra Itzhak Perlman
Teldec (1997/03/21)
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 これはイツァーク・パールマンの演奏がとても面白い。この時期のストラヴィンスキー作品はほとんど「音楽の冗談」みたいな曲が多く、深刻さはまったくない。その一方で、音楽はとても巧妙に作られていて、まるでモーツァルトが20世紀に甦ったかのような遊戯性を感じます。ここにパールマンの天才的な音楽性(まったく重みがない!)が絶妙にマッチしている。ヒラリー・ハーンの演奏も素晴らしいのですが、これはちょっとシリアスに捉えすぎのような気もします。紹介した動画(チャイコフスキー・コンクールでのシン・ヒョンスの演奏)もかなり良いですね。



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 次は、ポーランドのクシシェトフ・ペンデレツキのヴァイオリン協奏曲第2番(第1楽章)。ペンデレツキは1960年代にトーン・クラスター(音程が微妙にずれあって高密度な不協和音の集合を、音の塊として操作する技法)によって一躍前衛音楽の寵児となった作曲家ですが、その後、転向。それまでの前衛的な技法と、ネオ・ロマン的な音楽の融和点を探るような作風へと変わっていきます。アンネ=ゾフィー・ムターのために書かれたこの作品もその時期のもの。残念ながら、これが亜流のショスタコーヴィチみたいにしか聴こえないのが悲しい。前衛の迷走を示すものとして、この作品は聴かれてしかるべきかもしれません(ちゃんとムターはこの作品を録音しているのが偉い)。



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 最後はアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲です。前衛もまたひとつのロマン主義であったことを告げる名曲。





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Youtubeで聴く!20世紀のヴァイオリン協奏曲

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 全世界の日本語が読めるインターネット・ユーザーかつクラシック音楽ファンの皆様、こんばんは。また、そうでない皆様もこんばんは。当ブログでは、これまで幾度となくYoutubeで鑑賞することのできるクラシック音楽作品の映像を紹介してまいりましたが、本日は「20世紀のヴァイオリン協奏曲」に焦点をしぼり、さらに、その作品で最も美味しい部分を厳選してご紹介してまいります。


 まず初めはソ連の作曲家、ドミトリ・ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番。これは私が最も好きなクラシック作品のひとつでもあり、CDも20枚ぐらい持ってるのですが、この映像で演奏しているのはその20枚近い(数えてないので正確な枚数は不明)コレクションのなかでもベスト3に入ってくる演奏者、ヒラリー・ハーンによるものです(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演の映像。会場はサントリー・ホールですね)。抜粋しましたのは、第3楽章カデンツァ(協奏曲におけるソリストの独奏部分)から第4楽章。静謐な音楽がじょじょに熱を帯びていく感じが堪らない……!



メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
ハーン(ヒラリー) メンデルスゾーン ショスタコーヴィチ ウルフ(ヒュー) ヤノフスキ(マレク) オスロ・フィルハーモニー管弦楽団
ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル (2003/01/22)
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 (CDのジャケットはゴスっぽい)ハーンの演奏はこれでも抑え目、というか超高度な技巧を持ってこの作品の暴力的な部分をコントロールしきった怪演です。他の演奏家による録音では献呈者であるダヴィド・オイストラフのものは文句なしに素晴らしい。また、少しマニアックなものになるとオレグ・カガンのものは、ハーンの真逆を行く濃厚さ(現在入手困難なのでしょうか、見つけたら即ゲッドをオススメいたします。カップリングのチャイコフスキーも素晴らしい)。



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 続いては、ショスタコーヴィチと同じソ連の作曲家、セルゲイ・プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番(第1楽章)。ショスタコーヴィチもプロコフィエフもソ連の特殊な文化的環境において一時は弾圧を受けた受難の人ですが、空気を読んで体制が求めるような作品を書いていたショスタコーヴィチと違い、プロコフィエフは自分が好きなような作品ばかり書いていました。もちろん、それでプロコフィエフは余計自分の首を絞めることになるわけですが、このような空気読めなさは彼があまりに天才過ぎたことに起因しているような感じもします。この作品にも、新しい技法を模索する姿と美しいメロディを大量生産するメロディストとしての姿*1という彼の多面性が現れているのですが、結果としてよくわからない作品になっている(だが、それがいい)。これはある意味で、シェーンベルクよりも難解な作品と呼べるものでしょう。



Prokofiev: Violin Concerto No. 1; Miaskovsky: Violin Concerto, Op. 44
Nikolay Myaskovsky Sergey Prokofiev A. Gauk Kiril Kondrashin USSR Symphony Orchestra David Oistrakh
Classica d'Oro (2001/10/30)
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 録音はやはりダヴィド・オイストラフのものでしょうか。オイストラフの豊穣な音色と歌い方によって、この難解さがうまい具合に解体されて提示されるような趣があります。動画のほうで演奏しているのは、ワディム・レーピンでしたが彼はオイストラフの直系にあたる演奏家。名教師、ザハール・ブロン門下生のレーピンですが、ブロンの先生にあたるのがイーゴリ・オイストラフで、これはもちろんダヴィド・オイストラフの息子です。やはりレーピンにはダヴィド・オイストラフから受け継いでいるものを感じる。



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 さてソ連モノが続きましたので、次はアメリカに参りましょう。こちらは、エーリヒ・ウォルフガング・コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲(第3楽章)。19世紀末のオーストリアに生まれたコルンゴルトは、10代にして天才的な作曲家デビューを果たし、その後もリヒャルト・シュトラウスを激しく嫉妬させるほどの活躍を続けるのですが、ナチによるユダヤ人迫害から逃れるために(彼はユダヤ系でした)アメリカに亡命します。古い映画に詳しい方ならご存知かもしれませんが、そこでは彼はハリウッド映画音楽をたくさん書き、受難から人生二度目の春を迎えるわけです(アカデミー賞も2回取っている)。彼の影響力は絶大なもので、ジョン・ウィリアムズのスコアにも、コルンゴルトの足跡が認められる――もし亡命がなかったら『スターウォーズ』のあの雄弁さはなかったかもしれない、と考えると歴史とは複雑なものだ、と思います。



Tchaikovsky, Korngold: Violin Concertos
Erich Wolfgang Korngold Pyotr Il'yich Tchaikovsky Andre' Previn London Symphony Orchestra Vienna Philharmonic Orchestra Anne-Sophie Mutter
Deutsche Grammophon (2004/11/09)
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 新しい録音ではアンネ=ゾフィー・ムターのものが素晴らしいです(紹介した『スライドショー+音源』映像で弾いているのも彼女)。輝くようなムターの音色は、コルンゴルトのゴージャスなメロディにとてもよく映えます。古い録音ではハイフェッツのものが有名。でもこれはあまり録音がよろしくないので、ゴージャス感を味わうにはムターを取るべきでしょう。こんな素晴らしい作品が発表当時(第二次世界大戦後)に酷評されたというのは信じられません。



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 続いてアメリカからは《弦楽のためのアダージョ》が有名なサミュエル・バーバーのヴァイオリン協奏曲(第2楽章)を。20世紀には「行き過ぎた前衛」への反発から「ネオ・ロマン派音楽」というムーヴメントが勃興しているのですが、そのムーヴメントに参加した作曲家のほとんどが原点である19世紀のロマン派時代の作曲家と同様に扱われていません――バーバーもネオ・ロマンティストのひとりですが、彼は一番の成功者だったかもしれません。この協奏曲には第3楽章に超絶技巧の独奏パートがあり、そこもカッコ良いのですが、バーバーの実力が最高に発揮されているのはやはり緩叙楽章でしょう。この咽び泣くようなメロディの美しさ!ロマンティックが止まらない!!



Barber: Concerto for violin Op14; Korngold: Much Ado about Nothing Op11
Samuel Barber Erich Wolfgang Korngold Andre' Previn London Symphony Orchestra Gil Shaham
Deutsche Grammophon (1994/08/16)
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 録音はギル・シャハムのものがオススメ。サッパリとした解釈と明るい音色で作り出す清潔感のある音楽で定評があるシャハムの演奏は、紹介した映像で弾いているジオラ・シュミットのように咽び泣き系の演奏ではありませんが、巧くて素敵。あとオーケストラが良いです(指揮はアンドレ・プレヴィン。彼がコンチェルトの伴奏をやったときの土台作りは誰よりも素晴らしい)。


(続きます)




*1:彼が書いた美しいメロディはピアノ協奏曲第3番でも堪能できます。こちらに彼自身の演奏がありますので是非ご覧ください





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アルノルト・シェーンベルク《ワルシャワの生き残り》

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 Youtubeよりアルノルト・シェーンベルクの《ワルシャワの生き残り》。指揮はホルスト・シュタイン(いつみても天然モンスター顔だ……)。この作品は1947年、晩年のシェーンベルクが書いた「第二次世界大戦化のワルシャワを生き延びた一人のユダヤ人の証言」を題材とするカンタータである。全編に12音技法が用いれているのだが、シェーンベルクの全作品のなかでこのように「恐怖」や「暴力」の表象として12音技法を用いているのはこれが唯一のものであろう。この試みは大いに成功し、《ワルシャワの生き残り》はシェーンベルクの代表作のひとつに数え上げられている。しかし、ここに問題が生ずる――12音技法には「恐怖」や「暴力」しか表現できないのか?

 「シェーンベルクは、抽象化を目指すことによってではなく、むしろ音楽の具体的形態そのものを精神化する……」*1。ここでのシェーンベルクは、12音技法を悲痛な叫びの効果音として利用したシェーンベルクは、自ら定めたこの綱領を守ろうとはしていない。アドルノは意外にもこれを好意的に評価している。「……恐怖が知れわたることによって、音楽はふたたび否定の力による、その救済力を見出すのである。《ワルシャワの生き残り》はユダヤの聖歌で終わるが、その歌は神話に対する人類の講義としての音楽である」*2

 しかし、このアドルノの評価は一定の留保がついたものだっただろう――「シェーンベルクは自分から、芸術とは完全にかけ離れた経験の回想によって、美的領域を一時中断する」*3。この中断は、他でもない、《標題音楽》と《絶対音楽》というふたつのロマン派音楽が目指す目標のうち、後者への諦めを意味する。アドルノの「中断」という指摘は「12音技法による絶対音楽の達成」というシェーンベルクの当初の目標が頓挫したことを明らかにしているのではないだろうか。


 美的領域を中断した《ワルシャワの生き残り》は標題音楽的なものを目指している。これは音楽のプロパガンダ化と言えなくもない。かつてソ連におけるプロパガンダ音楽を厳しく批難したアドルノが、これを評価したのは何故なのだろうか、とも思う。




*1:テオドール・アドルノ『プリズメン―文化批判と社会 (ちくま学芸文庫)』P.222


*2:同書。P.263


*3:同書。P.262-263





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フランソワ・ラブレー『ガルガンチュア』(ガルガンチュアとパンタグリュエル)

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ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)
フランソワ ラブレー Francois Rabeleis 宮下 志朗
筑摩書房 (2005/01)
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 フランソワ・ラブレーによるフランス・ルネサンスを代表する小説『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の『ガルガンチュア』を読みました(一応、第一巻なんだけれど、書かれたのは“第二の書”である『パンタグリュエル』のほうが先)。面白かった!


 「ルネサンス」というと高校世界史にも出てくるキーワードだし、なんか堅苦しいイメージがあるけど、ラブレーの小説に出てくる下ネタの嵐にはそのような小難しさは一切感じません。主人公である巨人、ガルガンチュアの出生も「脱肛を起こして下腹部のあたりがつまっちゃったおかげで、通常赤子が生まれてくる場所からでなく、耳から生まれてきました!」という乱痴気ぶり。あと、おしっこで洪水がおきてたくさん人が溺れ死んだり、ウンコチンコがやたら出てくるなど、レベル的にはほぼ小2。読みながら「うーん、これが人文主義ってやつなのか……たしかに人間性が大らかに発露してるよなぁ」と思いながらゲラゲラ笑いました。


 恐ろしいのは、小2レベルの下ネタとギリシャ哲学や同時代の哲学の教養がごく普通に並置されているところ。ホメロス、プラトン、アリストテレス、エラスムス……などなどの引用が間にたくさん挟まれているんですが、これは的を射た引用である場合もあり、荒唐無稽な解釈がされている場合もある。この高度な遊戯性に書き手のすごさが垣間見れます。ものすごい二面性。


 こういった古典作品を読むにあたって、当時の文脈を考えながら読む(当時の社会状況や風刺的な意味を汲み取ったりする)か、または、完全に現代の文脈の上で読むか、というふたつの読み方があるように思います。この本に関しては、そのどちらの読み方でも楽しめるところが良い。例えば、翻訳者がうざったいぐらいにつけてくれる注釈によって「実はこの下ネタは、当時の教会に対する強烈な風刺で、かなりヤバい発言だった」などということを知ることができる(当時の文脈で読める)一方で、訳文はとても読みやすい形になっており、訳しにくそうなユニークな言葉も上手い具合に日本語化されている(個人的に、この巻でベストヒットだったフレーズは『はめはめ遊び』。声に出して読みたい日本語!)。これはとんでもない良い仕事だと思いました。


 しかし、あまりに風刺がキツすぎたせいで当時は禁書扱い、しかもラブレーも結構ヤバい状況におかれて迫害を受けた……という史実を知ってしまうと「なんでそこまでしてこの本を書かなきゃいけなかったんだろう……下ネタばっかりなのに……」と思わざるを得ません。ケンドーコバヤシのコントに「下ネタ禁止法制定後の近未来を舞台としたコント」がありましたが、それを彷彿とさせなくもない。





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カプースチンは上原ひろみを作曲する

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 気が重くなるような長文エントリが続いたので口直しに、Youtubeから音楽映像をご紹介。冒頭にあげたのは、ロシアのジャズ・ピアニスト兼作曲家であるニコライ・カプースチンの《ジャズ・エチュード》第3番。「3倍速チック・コリア」みたいな作品である。まるで、上原ひろみのインプロヴィゼーションを書き起こしたかのような音の密度。



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 続けて《ジャズ・エチュード》第1番。この作曲家の作品集は近年日本でも楽譜が出版されていて一時期、アマチュアのピアノ奏者の間で話題になっていたそうだけれど、こんなの弾ける人いるの?って思う。この演奏者がすごいだけ?



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 作曲家ご本人による《前奏曲》。これはまだ普通な感じで、前のふたつの映像で弾いている人に比べるととても「ジャズらしく」聴こえる。「ジャズっぽく聴こえる演奏には、和音だけでなく、タッチやタイム感が大きな要素として絡んでくるのだなぁ」と思った。



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 ピアノ・ソナタ第2番と楽譜(第4楽章)。楽譜が黒い……。





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なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

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 昨日書いたエントリに「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。


 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。


 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。


 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。


 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげられるのは文化、というか儀礼的なものがあるかもしれない。音楽学者、岡田暁生による『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 』にはこんな記述がある――「この時代(19世紀末~20世紀初頭)にあって『交響曲を演奏する/聴く』とは、ほとんど一つの宗教体験だった」(P.192)。19世紀末~20世紀初頭といえば、現代においてクラシックと呼ばれる西洋音楽が最もさかんに演奏され、円熟に達した時代である。そこで設定された崇高な体験の場としてのコンサートという場はいまだに意味を失っていないのかもしれない(『パルテノン多摩』というネーミングからもそれは察することができよう)。


 こうなると私のようなタイプの人は、みんな「クラシック教(狂)信者」ということになる。もし「クラシック好きな人ってなんでそこまで厳しくするの?」と不思議に思う方は、その怒りを「俺らがマジメに神さまにお祈りしてるのに、ガサゴソやりやがって!」的に解釈していただければ良い。それを「バカみたい」と嘲笑されても構わないのだけれど、やはり少しは気を使って欲しいというのが本音である。同じチケット代金を払って、一方は気楽に楽しみ、一方は不快な気持ちになりながら音楽を聴かなきゃいけない、っていうのはなんだか「マジメな人ほど損をする」みたいで悔しい。





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チベットと「美しい国」の心性、それから他者

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 チベットであれこれ起きて、結構死んだ人が出たっつー事件があった。私としては、基本的にノンポリだし、っつーかチベットと中国の政治事情についてよく知らんので「大変だなぁ」と思うぐらいなのだけれど、いくつかのブログやmixiの日記などに書かれた事件について文章は興味深かった。具体的にここで「この記事」とあげることはしないけれど、事件について書いた人の多くが「中国政府はひどい。チベットは抑圧されていて可哀想(チベット独立賛成!)」みたいなスタンスだったように思う。


 たしかにデモで集まってる人にバンバン鉄砲撃っちゃうのはひどい。ここは素直に納得できる。でも「チベット独立賛成!」みたいな発言はよくわかんない。これはあまりに無責任で現実が見えてない発言だと思う――独立してどうするのか?やっていけるのか?そこまで見据えた人でなければ、こういう発言はしてはいけない気がする。そうでなければビョークとかジョン・レノン(現実見てない人!)とまとめて一緒に叩かれても仕方ない。

 思うに、こういう発言をおこなう人には「独立即ち良いことである」と考えられるような思考回路が備わっているのではないか――これは言い換えれば、現実的な利益ではなく、民族の独立と自決という「メンツ」の問題のほうが国民のためになる、という非常に美的な国家の捉え方である。ここで、こういう美的なナショナリズムについての宮台真司の発言をひいておこう*1



日本で国益という場合、世代によってふたつの異なった受け取り方があります。ひとつは国民益という考え方で、これは計算可能なものです。


ようするに、国民にとって利益になるかどうかを徹底的に分析する。コスト分析やリスク評価をして、どういう選択がどういう利益または不利益をもたらすのかを考え、利益を増大させ、不利益を減らそうとする立場です。


その一方で、魂のふるさととしての国体に殉ずることを国益とする立場もある。国体に殉ずる精神的な営みから見た場合、計算可能な国民益が低下するような選択であっても、あえて国益だと見なすわけです。


典型的には「一億総玉砕」という発想ですね。国民の全員が死に絶えても、国家の尊厳が維持されるとします。



 美的なナショナリズムは、もちろん「一億総玉砕」のほうに位置する。宮台は「(こういう考えは)若い人には理解しがたいかもしれない」としているのだが、「チベット独立賛成!」という意見をいくつも見ていると、実は隠れたところで戦中と同様の心性は受け継がれているのかもしれないな、と思ってしまう。こうなると安倍晋三が一時人気だった理由も明白である。美的ナショナリズムの人にとっては、中身が全くなくて、キレイごとばっかり言ってるほうがウケるんだろうから。


 中国政府に対する非難、これについても少し引っかかるところがある。デモを起こす人を抑圧する。ここには少なからず、国益の問題が絡んでいるだろう(チベットが独立したりすると、中国政府がどういう風に困るのか、全然知らないけど)。困るから、抑圧する。これはまた、国家のなかに得たいの知れない他者が現れるという問題への対応でもある。暴力によって他者を黙らせる。


 デメリットが生じることへの対策としてこれらを行うことは当然なことではないのか、と私は思う。というか、現にそのような他者への不寛容さを発揮する人が日本にもいるにもかかわらず、中国政府を非難することは果たして正当なものなのだろうか、と思うのである。


 サリン事件後にオウム信者が受けた差別や反対運動、あるいは「学会員は気持ち悪い」というような発言。在日問題でも良い。近くにある不寛容さを適当に放置して、遠くにある不寛容さばかり攻め立てるのは「なんか違うなぁ……」と感じたりする。「全く別問題でしょ!(似たような問題だと考えてるのはアンタだけだよ!)」と言われたら、それでおしまいなんだけど。






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コンサートで聞いた赤の他人の雑談より

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 ベレゾフスキーのコンサート、さすがにチケット2000円でしかも郊外にある会場というだけあって、普段足を踏み入れるようなコンサートでは見かけないようなお客さんがたくさん見受けられました。例えば、ロビーで「明日カラオケのレッスンがあってよぉ!」と仲間に話しかける、明らかについさっきカップ酒を飲んできたであろう……と推測できるような臭いを放つオッサンとか。


 強烈だったのは私の真後ろに座っていたオバサン3人組で、この素敵な淑女たちは開演前から「誰それの息子さんは○○につとめててね……」だの「ウチの息子も大学に入ってね……」だの、ローカルなゴシップ会話で大盛り上がり。そういう下劣極まりない会話をしつつも、言葉遣いはマンガにでてくるみたいな「○○ですわよ」というバカ丁寧な口調だったので、どんだけ上品な淑女なのだろうと後ろを振り向いたら、全員“太陽王”ことルイ14世の肖像画みたいな髪型してた。もっと現代的な喩えをすれば、まるっきりイングヴェイ(結論として、どうやら多摩市の行政は絶対王政で、しかも速弾きが流行ってるらしい)。


 この淑女3人のルックスも衝撃的でしたが、もっと驚いたのが彼女らの一人が休憩後に戻ってきて「そうそう、ウチにあった《熱情》のレコードは、ヴァン・クライバーンだったわ。もしかしたら、ホロヴィッツかもしれないけれど」という言葉を放ったことでした。「クラシック=教養」として音楽を消費し、まるでコンサートのチケットへ払う出費がリヴィングに並べ置かれる百科事典と同等である……という風に見て取れてしまうようなルイ14世レディの口から、まさかクライバーンの名前が出てくるとは思いませんでしたし、また、彼女らの口からホロヴィッツの名前が出てくるということは、それだけこのピアニストに人気が集まっていたという事実を証明するものでしょう。


 どちらにせよ「あら、今知ったけど今日は《熱情》をやるのね。ウチの息子が練習してたけど、どんな曲か忘れちゃったわ」「聴けば思い出すわよ、きっと」→終演後「やっぱりウチの息子の演奏とは違うわー」という感想を交換するような、言ってみれば音楽に対してその程度の思い入れしか持たないオバサン連中がクライバーンやホロヴィッツの名前を記憶している、ということは、かつて彼らがそれだけの人にも記憶されるようなポピュラリティを得ていたことを伝えるものでした。


 果たして、そこまでのポピュラリティを得ている演奏家が現代においても尚存在するか?――これは少し問題になる点かもしれません。ポリーニ?アバド?ロストロはもう死んだし、小澤征爾は日本人ってだけで「うーん……」って感じだし……という感じで思い当たりません。巨匠っぽさで言えば、スクロヴァチェフスキなんかかなり良い線いってますが、いかんせんマニアックだ。


 正直、ホロヴィッツなんかが特別な存在だったのかもしれませんが、逆にそういう存在がいないことによって、ルイ14世みたいなおばちゃんがコンサートホールにやってくる(上品ぶっていてもコンサートマナーはすこぶる悪い)という状態が回避されるわけで、それは逆に私にとっては幸福なのかな、とも思いますけれど。別にクラシックじゃなくても素晴らしい音楽はたくさんあるわけで、みんながみんなクラシック好きじゃなきゃいけないとか、そんな風に思わないしなぁ。


 完全にグチ口調になってきたんで書いてしまうけれど、月一ぐらいのペースで演奏会にいくようになってまず思うのは「どうして音楽だけを聴けないのか」というのがあります。演奏が始まって5分ぐらい経つと、あちらこちらでパンフレットなどをペラペラとめくる音がする。めくってるほうは「平気平気」と思っているかもしれないけれど、実はこの音結構ホールに響いています(響いてなくても、楽器の音と紙をめくる音の倍音構成が全然違うせいで、かなりはっきりと聴こえる状態にある、と思う)。これはかなりウザい。はっきり言って迷惑です。そんなにすぐ飽きるなら、家でCD聴きながら本でも読めば良い、それで充分だろ、って思う。


 音に飽きて紙をペラペラやるぐらいなら、会場の外でCD買って帰って、家でそれ聴きながら思う存分ペラペラやってください(余ったチケットは、音楽に餓えてる学生にあげてやれば良いと思う)……ものすごく極論だけれど、同じお金払って隣でペラペラやられると溜まったものではないです。今回は2000円だったし、とか思えるからまだマシだけど、10000円以上払った席の隣とかだと1ペラ音の度に1呪詛のまなざしぐらいになります。





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ボリス・ベレゾフスキー@パルテノン多摩

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 1990年のチャイコフスキー・コンクール優勝者であるピアニスト、ボリス・ベレゾフスキーの演奏会に行ってきた。パルテノン多摩開館20周年記念事業だそうで、チケットが2000円。早めにチケットを確保したら、ピアニストの指がちょうど目の高さで見れるような良い席でちょっと得した気分になった。今夜の曲目は以下。



ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 Op.57《熱情》


メトネル:《おとぎ話》より


シューマン:《ダヴィット同盟舞曲集》Op.6



 この演奏会のチケットを取るまでベレゾフスキーというピアニストについて「名前は聞いたことがあるけれど、どんな演奏家か知らないなぁ」という感じだったのだが、先日家の「あんまり聴いていないボックスCDコーナー」(たくさんある)を探っていたところ、彼が参加した録音が結構あったので事前に聴いてみた。Youtubeにも彼の演奏がアップされている。



D


 このプロコフィエフを聴いてもらえば少しは伝わるかもしれないけれど、私が彼のピアノを聴いて第一に思ったのは「ずいぶん丁寧にピアノを弾く人だなぁ」ということである。言い方を変えるなら、彼のピアノはすごくマジメなのだ。どちらかといえば落ち着いたテンポを選び、音色は綺麗、勢いよりも正確さを重視する――ちょっとベタベタするぐらい楽譜をマジメに読んでいる、という感じがする。これは私が思う「ロシアのピアニスト像」とは上手く結びつかない演奏だった。


 「正当な」ロシア・ピアニズムと言えば、フォルテはフォルテッシモで、アレグロはモルト・アレグロで、アンダンテはアンダンテ・グランツィオーソで……というような「過剰さ」の上に成り立っているように思っていた。リヒテルなんかがその代表格だったし、ギレリスも、もっと古いところで言えばラフマニノフもそうだったかもしれない。


 こういう過剰については、ピアニストに限った話ではなく、ヴァイオリンのオイストラフやコーガン、あるいはカガンといった演奏家もピアニストに負けないぐらい過剰な演奏をしていた。要するに「ロシアの音楽家は濃ゆい」のである。しかし、ベレゾフスキーのピアノにはそのような濃さは微塵もない。ちょっと退屈するんじゃないか、と心配になるぐらい素直な音楽を展開している。


 プログラムの一曲目であるベートーヴェンの《熱情》が始まってからも、そういった印象は拭えなかった。冒頭から正確で安定したタッチ、ルバートも控えめなテンポの運び。ここから、ベレゾフスキーが高度なテクニックを持っていることは、充分に感じることができた。しかし、やはりそれだけ聴かされても聴き手としては退屈してしまう(そんな退屈なベートーヴェンを聴くぐらいなら家でアシュケナージでも聴いていたほうがマシだ)。ただ、不思議と私は退屈しなかった。むしろ逆に彼のピアノにグイグイ引っ張られていった。


 それは彼のピアノの「思慮深さ」に惹かれたのだろうと思う。楽譜への素直さだけではなく、彼の音楽には楽譜を丹念に読みつくしたところから生まれた解釈がある――嵐のような第1楽章から一転した、第2楽章の穏やかな主題の変奏において、彼は主題をわざとぎこちない感じで演奏した。それまで、流麗に難しいパッセージを引き続けていたにも関わらず、である。こんな音楽の作り方は、リヒテルやギレリスならしなかったろう。彼らの演奏には聴衆をねじ伏せるような圧倒的な雰囲気があった。それに対して、ベレゾフスキーには徐々に聴き手の惹きつけていく自然な力があるように思う。


 ふと思ったのは彼のピアノが、リヒテルやギレリスのような「正統派」ロシア・ピアニズムに対しての批評になっているのではないか、ということだ。おそらく、ベレゾフスキーには、リヒテルやギレリスのような演奏ができたはずだ(彼のような体格を充分に駆使したら、先人よりももっと凄みのある演奏ができたかもしれない)。しかし、彼はその道を選ばず、全く逆のベクトルへと向かう自然な音楽に向かって行っている。この真逆の歩みによって、リヒテルやギレリスは相対化され、同時にベレゾフスキーは彼らとは別なロシア・ピアニズムを作り上げることに成功しているのではないか、とも思う。


 それにしても柔軟なピアニストだ。《熱情》の第2楽章で童心に帰らされるような牧歌的な音楽を見せるかと思えば、第3楽章では第1楽章よりも激しい嵐を持ってくる(しかし、一切汚い音は出さない)。こういう上手さが発揮されていたのは、シューマンの曲だった。《ダヴィッド同盟舞曲集》、この全18曲の短い舞曲の連なり(ここでは、それぞれ性格も違えば、一曲のなかで極端に異なる性質の音楽が繰り広げられることもある)を、見事に弾き分けてしまう。


 シューマンの作品における統一感の無さ、筋の通らなさ。この性質を力技によって強引に一つの音楽にしてしまう、という方法(アルゲリッチのシューマンなどはその代表例だろう)を取らず、シューマンを聴かせるというのはかなり驚異的だ。ベレゾフスキーの素直で美しいピアノから響いてくるシューマンの「狂い」は、鬼気迫る狂気らしい狂気よりもよっぽど恐ろしい。


 近年、徐々に演奏の機会が増えているメトネルの作品については、私は結構ついていけない部分があった。充実した《熱情》の後に「(ショパンの右手+シューマンの左手)×ラフマニノフの超絶技巧」みたいな曲を聴かされるのは、つらい、というか勿体無い……。





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ウィキペディアはスキャンダルを滞留させる

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 以前書いたこちらのエントリに対して、id:sumita-mさんから角力についてのメモ - Living, Loving, Thinkingというコメント的エントリ&トラックバックをいただいた。このエントリに私は以下のようなコメントを書いている(抜粋)。



バッシングについてはやはりインターネットという存在についても考えさせられます。かつては一過性の熱に過ぎなかった《ネタ》が、インターネット以降においては常に問題への再参入・問題の再加熱されうる状況を指摘できるでしょう。



 読み直すととても言葉が足りない感じがするのでこれに少し補足をいれつつ、話を進めていきたい。


 インターネット以前においては、スキャンダルやバッシングの火種(ネタ)は一過性のものであり、問題が加熱される祭り的な状況が一旦終わってしまえばなかなか掘り返されることのないものとして置かれていた。しかし、インターネット以降、とくにあらゆるものがデータベース化され、さらに検索によって容易にアクセス可能な状況が成立してからというものスキャンダルは一過性のものでなく、反復可能なものとなっている。


 たとえばある人物についてインターネットを使って調べるとしよう。検索サイトでヒットしたものの上位には、その人物のオフィシャルサイトとウィキペディアが表示される。オフィシャルサイトにはもちろんかつてその人物が起こしたスキャンダルについては記載されていないだろう。しかし、ウィキペディアにはしっかりとその事件の記述があるかもしれない。


 それを読んだ人物は「へぇ、こいつ、こんなことやっていたのか!」、「逮捕歴あるのか!」などという驚く。それと同時に、その人物が起こしたスキャンダルは、リアルタイムでその祭りを体験していないものであるはずの読み手に記憶されることとなるだろう。このように、インターネット(とウィキペディア)はスキャンダルの忘却不可能性をもたらしているのである。


 これはウィキペディアに記録されるものにとってのリスクを増大させていることも指摘できる。スキャンダルから月日が経ったときでも「あいつ、今じゃ平気でテレビに出ているけれど、実は麻薬やってたんだぜ!」という風に語られる可能性に常にさらされ続けているのだ(このような語りを、スキャンダルの再加熱と読んでも良いだろう)。忘れられることのないスキャンダルは、記録されるものに忌まわしい影のようにまとわりつく。


 これは同時に「イメージの浄化」が困難になっていることも意味しているように思う。そこではほんの些細なことでも記録され、記憶される(一度忘却されても、記録へとアクセスすることによって再度記憶される)。さらに「語り」によって、その記憶は次々に伝播していく。かつては、忘却されることで解消されたはずの問題は、記録と記憶と語りのあいだを滞留し続けている。


 そこで「何が問題とされるのか」。これもまた興味深い論点なのだが今回はひとまずここでは横に置いておこう(あまりにどうでも良いことが問題とされ語られるのは何故だろう?沢尻エリカに対して激怒する人があんなにたくさんいたのはどうしてだろう?――これらについては後々なにか書くかもしれない)。


 突然以上のようなことを長々と書きたくなったのはさっき「アッー!」という言葉について調べていたら(最近、この言葉をよく見かける気がしたのだが、意味をまったく知らなかったのだ)、多田野数人という野球選手のウィキペディアにたどり着いたからである。まったくの偶然だけれども、私と多田野という選手は同じ大学出身だった(私は彼と入れ替わりの時期に入学している)。


 私が大学にいるあいだ、何かの拍子に彼のスキャンダルについて聞いたことがあったけれども、大学の野球部の話で話題になったのはむしろ「今、和田毅の弟が野球部にいるらしいよ」という話だったと思う。それから今日まで「アッー!」を調べるまで多田野のことなどすっかり忘れていた。


 昨年のオフシーズンに多田野は日本ハムに入団した(これも知らなかった)。気の毒なのは、プロ入り後すぐにケガをしてしまったことばかりではない。今後も多田野は何かある度に「アッー!の人」として語られることとなるのだろう。もちろん、メジャーなマスメディアはそのような報道はおこなわない(やるとしたら下品な週刊誌か、あるいはニュース23あたりが『更正したプロ野球選手の感動秘話』的にいやらしく伝えるぐらいだろう)。しかし、ブログなどの空間において「アッー!」が直接的に多田野と結び付けられて語られることは充分に想像できる。このあたりに、ブログのおぞましさみたいなものを感じてしまった。



D


 Youtubeより、多田野のEephus pitch(超遅球。これ『ドカベン』で犬飼知三郎が投げてたな)の映像。他にもこの球でアレックス・ロドリゲスを凡打に打ち取る映像があった。こういう特殊な球を持っているピッチャーが大好きなので(小宮山のシェイクとか……)頑張って欲しい。





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シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲について

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シベリウス&シェーンベルク:ヴァイオリン協奏曲
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 ヒラリー・ハーンが演奏するシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲を繰り返し聴いていて、私もこの作品についての文章をひとつしたためたくなった。この文章が、この作品に初めて触れた人、あるいはシェーンベルクの作品に初めて触れた人のためになるものになれば、と思いつつ解説的なものを書いてみることにする――まず、この素晴らしいヴァイオリン協奏曲を書いたアルノルト・シェーンベルクという人の経歴について触れておこう。


 紹介をごく簡単なものにとどめておくならば、1874年にウィーンに生まれ、1951年にアメリカで没したユダヤ系オーストリア人の作曲家……ということになる。加えて、彼の業績を紹介すると「無調音楽によって調性の破壊をおこない」、「12音音楽という作曲技法を確立した」という二点があげられる。作風の変遷について言えば、後期ロマン派時代(代表作は《浄められた夜》、《グレの歌》、室内交響曲第1番)→無調時代(代表作は《月に憑かれたピエロ》、《期待》)→12音音楽時代という道を辿る。この道は、19世紀末から20世紀前半の西洋芸術音楽の歴史とほとんど同一化されてもよい「進化の歴史」でもある。


 12音音楽という技法は、ウィキペディアにも簡潔にまとめられている。



重複しない12音を平等に使って並べた音列を、半音ずつ変えていって12個の基本音列を得る。次にその反行形(音程関係を上下逆にしたもの)を作り同様に 12個の音列を得る。更にそれぞれを逆から読んだ逆行を作り、基本音列の逆行形から12個の音列を、そして反行形の逆行形から12個の音列を得ることで計 48個の音列を作り、それを基にメロディーや伴奏を作るのが12音音楽である。一つの音楽に使われる基本となる音列は一つであり、別の音列が混ざることは原則としてない。したがって、この12音音楽は基本となる音列が、調性に代わるものであり、またテーマとなる。そして音列で作っている限り、音楽としての統一性を自然と得られる仕組みとなっている。(Wikipedia-アルノルト・シェーンベルクより



 この技法を「発明」したことで、シェーンベルクは20世紀音楽の創始者としても考えられている。しかし、シェーンベルクがこのような12音技法のルールにこだわりつづけていたか、といえばそうではない。そのように厳格な作曲技法を守り続けたのは、むしろシェーンベルクの弟子であったアントン・ヴェーベルンだった。


 シェーンベルクの場合、「完全なる12音技法」で書かれた作品はごく一時期にとどまり、実のところ「12音音楽時代」においても無調の作品を書いているし、調性を保持した作品も書いている。また、12音技法が用いられていた場合でも、そのルールが守られていないこともある。よって、先に示した「シェーンベルクの作風の変遷」などというものは、実は全くあてにならないものである。


 ヴァイオリン協奏曲が完成したのは1936年。これは「変遷」の図式にあてはめれば12音音楽時代に属する。しかし、この作品においても12音技法のルールは完全に守られているわけではない。とくに第3楽章のアレグロなどは、音列の操作が明確に現れる部分はごくわずかで、ほとんど無調時代の「アナーキーな音響の設計」という段階まで回帰しているようにも聴こえる。また、後期ロマン派時代における作品の物語性を感じてしまう。


 このあたりをどう捉えるかが作品をどう評価するかにもつながってくるのだろう。12音技法を確立し、これを「今後100年のドイツ音楽の優位が保証される」ものと謳った後にも関わらず、12音技法以前の状態で音楽を書くのは一種の反動だ、ということもできる。しかし逆にこれに、技法上の問題にとらわれることなく書かれた自由な作品という好意的な評価を与えることも可能だろう。このヴァイオリン協奏曲にはシェーンベルクが用いた音楽技法のすべてが詰まっているといっても過言ではない。20世紀の新しい音楽を切り開いた作曲家が出した「総括」として聴かれても良いだろう(作品が完成したとき、シェーンベルクは62歳。これはもう晩年の作品だ)。


 ここで、ある批評家によって出された評価を引用しておこう。



……《ヴァイオリン協奏曲》の行進曲の終楽章とには、過剰なまでに明白な表現がある。誰もその力から逃れることはできないであろう。その表現の力は私的な主体を背後へと押しやるのである。しかしながら、こうした力でさえ、あの裂け目を閉じることはできない。そもそもそれはいかにして成しえようか。したがて、これらは見事な不成功の作品なのである。作曲家が作品において拒否されるのではなく、歴史がその作品を拒否している。


 テオドール・アドルノによるこの文章は「反動」か「自由」か、という問題を見事に捉えたものに思える*1。アドルノは(ヴァイオリン協奏曲を含む)シェーンベルクの後期作品を、いかにして「新しい音楽語法によって、古典的音楽作品が持つ《物語性》や《力動性》を構成することができるのか」という問題に取り組んだものとしている。そして、ヴァイオリン協奏曲はそういったダイナミックな作品の構成に成功したものだ、とアドルノは評価した。そこにはまた、ロマン派的な作曲家の主張や訴えという主体的なものの提示ではない、新しい作曲家の《声》が存在する。


 しかし、そのダイナミックな構成のためにシェーンベルクは、12音技法のルールを遵守することを諦めなければならなかった。歴史は不可逆なものであり、一旦「12音音楽」という新しい音楽へと進んでしまえば、それは後戻りさせることができない。だからこそ、12音技法の厳格さに従わないシェーンベルクは歴史によって否定されてしまう(『反動』の烙印を押されてしまう)。


 このようなアドルノの評価には、前衛であることの難しさや、近代の忌まわしい宿命のようなものも含まれている。ただ、これが現代においても有効な評価であるかはわからない。なぜなら作品の評価に「前衛であるか」あるいは「歴史上の位置づけ」といった尺度を持ち出す行為はすでに意味を失ったものだからだ。逆に、そのような尺度が意味を失った現在になってやっと、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲に込められた《声》は真っ当に聴き入れられるようになったのかもしれない。






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ウチにダイソン(偽)が来た日

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 私の休日の朝はまず部屋に掃除機をかけるところから始まる……とキレイ好きをアピールすることで、いやらしくモテ系男子であることを主張したいのですが、本題はそこではありません。先日いつものようにお掃除をしていたら何の前触れもなく掃除機がお亡くなりになりました。スイッチが入っているのにうんともすんとも言わない。「参ったな……こんなホコリまみれの部屋じゃ、女の子を連れ込むのも憚れるじゃないか……」と強い危惧を抱いたので早速新しい掃除機の購入をアマゾンにて検討。そこで見つけたのがこの商品。



CyclonicMaxPure サイクロン掃除機 VS-5000 イエロー
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 「強力パワーが魅力のサイクロン」という謳い文句のよくわからないけどすごそうな迫力にも惹かれたのですが、一番すごいのは価格。定価が40000円弱なのに80%オフで7500円という怪しすぎるバリュープライス。若干の不安がありましたが、予算にまったく余裕がなかったため購入に至りました。


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 で、そいつが今朝届きました。WEB上での画像を見たときも思いましたが、ダイソンの掃除機を髣髴とさせる偽者感溢れるデザイン。


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 ホンモノはこんな感じで幽霊も吸引可能であるかのようなイカツイ佇まいなのに対して、偽者はそういったアウラを感じさせないシンプルな作りになっています(プラスティックで出来てます!という感じがビンビンに伝わる感じがいかにも偽者っぽい。『出力1200Wのモンスターマシン』っぽさが微塵もない)。あと、ダストボックスの着脱構造は、特許関係が心配になってきます。


 肝心な使用感について。




  • 使用時のノイズがはんぱじゃない


 隣の部屋の住人が音に敏感なタイプの人で、ちょっとうるさくしていると郵便ポストに汚物等を投げ込む報復的嫌がらせをしてくる……という環境におすまいの方は要注意かもしれません。しかし、このあたりでやっとモンスター・マシンの本領発揮、という感じがします。




  • たしかに強力だ!


 以前使用していたのが小型のスティックタイプ(アマゾンのレビューに書いている人と似たような買い替えをしている)で、吸引力が弱かったから余計にこの掃除機のパワーに驚く結果となっているかもしれませんが、かなりすごい。カーペットの上を掃除するとカーペットがくっついちゃって少し苦労するけど、ダストボックスのなかにはみるみるうちに得体の知れないゴミがたまっていきました。見えてないけど、ホコリってすごい一杯あるんだなぁ、と思いました。


 以下はこまごまとした点。電源スイッチやパワーコントロール系がすべて本体についている、という点はやはり少し不便かもしれません(が、基本的に『最強モード』にしておくのであんまり関係ない)。あと、オプションでついてくるノズルを収納する場所が本体にないのもちょっと嫌(無くしそう)。でも、ホースに接続する延長パイプの伸縮が簡単にできるのは結構良い感じでした。ゴミ捨ても楽!


 という感じで7500円にしてはかなり満足度が高い買い物が出来たと思います。





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肉をワインで煮てみよう

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家に鉄人が来た日


 仕事がはやく終わったし、明日休みなのでモゾモゾと料理熱が突沸。脳内に「牛肉の……赤ワイン煮……」という神的なものからくるリフレインがこだましたので、早速スーパーにより牛肉の赤ワイン煮を作ることにした。写真は全然関係ない、この前買った鉄人28号のフィギュアです。


 材料。牛肉の硬い部位を400グラム。たまねぎ1個。にんにく1かけ。安い赤ワインのボトル一個。ローリエ2枚ぐらい。あとは基本的に「普通の家にはあるだろー」という食材&調味料。


 作り方。牛肉は塩コショウ振って小麦粉(これが最終的に煮汁(?)のトロみをつけてくれる)をまぶして、鍋に油をひいて少し焼く。表面の色が変わったら取り出す。まぶした小麦粉が鍋の底にひっついてると思うので、そこに油を足してたまねぎ&にんにくを炒める。たまねぎの色が良い感じになったら、取り出してた肉をぶち込んで、そこにワインを注ぎ込む(肉が隠れるぐらいまで)。灰汁をとりながら、適当なタイミングでコンソメの固形のヤツ一個、ローリエ、コショウ適量を入れて30分煮込む。



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 牛肉の赤ワイン煮。こいつはフランスのとある地方の郷土料理(特別な日に食べる)らしい。なんで待ってる間、キッチンに椅子を持ってきて、火にかけた鍋の前でラブレーなんか読むのはどうだろう。食事前に読むのはキツい下ネタ満載だけれど、大体これを作るとき、ボトルの半分ぐらいはワインが残ってるので飲みながら読んだり、読みながら飲んだりすると30分などすぐ過ぎてしまう(面白いよ!)。


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 で、30分経ったら、そこに大さじ2ぐらいのさとうをいれて(蜂蜜でもいいらしい)、マッシュルームを適当にいれてさらに10分煮込む。写真は調理中の鍋。待っている間に、ローリエの香りがしてきてテンションあがってくる。


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 「これがオレ本体のハンサム顔だ!」という感じで盛り付けて、できあがり。写真はなんか世紀末の産廃施設から日夜排出されつづける放射能を帯びたゴミみたいになってるけど美味しいよ!!





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カール・マルクス『資本論』(一)

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資本論 1 (1) (岩波文庫 白 125-1)
マルクス エンゲルス 向坂 逸郎
岩波書店 (1969/01)
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 資本論マラソン、1/9を通過。読みながら「これでまたアドルノを少し整理できるかな」などと思ったりしたが、それについてはここでは触れない(時間がかかりそうなので)。とりあえず、雑感めいた感想を記しておく。


 資本論マラソン宣言のエントリでも書いているけど、とにかくこれは面白い。本の端々にマルクスの教養高さが感じられること(ものすごい知識量である)も面白さの要因のひとつなんだろうけど「なるほどねー、ヘーゲルの用語はこういう風に使うのねー」とか勉強になったり、いちいち頷きたくなるような鋭い分析が良い。これはとても今後が楽しみになった。


 それから良い本だなぁ、と思ったのはこういう文章が書かれているところである。



自分の生産物で自身の欲望を充足させる者は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。(P.77)




これまでまだ、一人の化学者として、真珠またはダイヤモンドの中に、交換価値を発見したものはない。(P.150)



 引用した文章はなんだかカッコ良い感じで書かれているけれど、とても当たり前のことが言われている。前者は「自分で作ったものを自分で消費してるだけじゃ、商売じゃないよねー(そこには交換がないじゃんかー)」ということだろうし、後者は「真珠とかダイヤとかすごく大事なものとして扱われてるけど、それ自体のなかに元々価値が備わってるわけじゃないよねー」というようなことだと思う。たぶん。


 えー、そんな当たり前のことが書いてあんの?そんなんつまんないじゃん、読む必要なくね?――って思うかもしんないけど、こういう当たり前の描写は社会学の本的としてとても大事なことだと思う。そもそも『資本論』などの分析があったからこそ、今ここに書かれていることが「当たり前」のように読めるのだろうし。


 で、不思議なのはなんでこういう真っ当な本が、政治的なものと強く関連付けられたりしちゃうわけ?ということである。


宮崎哲弥さんが10代で読破した「資本論」って本今も売ってますか?同じような... - Yahoo!知恵袋


マルクス「資本論」のわかりやすい翻訳本を教えてください - 経済学 - 教えて!goo


 以上のふたつのリンクはid:duke377さんから『資本論』の翻訳について突っ込まれて、自分でも興味を持って調べて出てきたもの。どちらも「『資本論』の翻訳は、政治的な党派性のなかで色々と揉まれてる」っつーことが書いてある(よっぐわがんねっすけど、色々大変らしい)。こういうゴチャゴチャした話もそうだけれど、『資本論』読んでて揉め事の発信源になるような本だとは思えないんだよね。まだ1巻しか読んでないからわかんないけど(この後、『お前らケンカしろ!』とガチンコファイトクラブ的な展開になったりするんですか?)。





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BBCフィルハーモニック管弦楽団日本公演@横浜みなとみらいホール

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 BBCフィルハーモニック管弦楽団の日本公演を聴きに行った。お目当てはもちろんヒラリー・ハーンの独奏によるシベリウスのヴァイオリン協奏曲である。ブラームスやメンデルスゾーンの協奏曲と並ぶ人気を誇るこのヴァイオリンの名曲を彼女の演奏で聴くのは私の永年の夢だったので、それが実現したことに感動もひとしお。本日のプログラムは以下。



グリンカ:歌劇《ルスランとリュドミラ》序曲


シベリウス:ヴァイオリン協奏曲ニ短調(独奏:ヒラリー・ハーン)


ストラヴィンスキー:バレエ音楽《妖精の口づけ》よりディヴェルティメント


チャイコフスキー:幻想的序曲《ロメオとジュリエット》


指揮:ジャナンドレア・ノセダ



 シベリウスのヴァイオリン協奏曲はとても難しい作品だな、と思う。この曲には、作品の構成や管弦楽法に「シベリウスの独特の筆致」がやはり認められる――後期の交響曲のように霞のような、どこか掴み所のないような印象を受ける。だからこそ、独奏者には鋭い分析力が要求される(もちろん同時に超絶技巧も)。


 個人的に「この難曲をどんな風に響かせるんだろう」というのはかなり楽しみな点だった。ハイフェッツに近いものだろうか?ムターみたいな演奏だろうか?あるいはチョン・キョンファ風だろうか?みたいにして想像は膨らんでいった。


 実際の演奏は私の想像よりも遥かに上を行く素晴らしいものだった。デビュー時から「現代最高のテクニシャン」として知られた彼女の技巧の確かさを充分に堪能できたのはもちろんのこと、音楽の運びはこれまでに出てきた「名演」のどれとも違い、新鮮で自由だ。


 また何年か前に録音したショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲(これも名演だ)のときよりも、歌い方の豊かさが増しているように思われた。おそらく、このシベリウスは彼女のキャリアにおけるひとつの成長のランドマーク的なものになるだろうと思う。


 ハイポジへの派手な跳躍や重音の部分で何箇所か細かいミスがあったけれど、全然そんなことは関係ない。圧巻の弾きぶりで、第一楽章の長いカデンツァでは思わず目が潤んでしまったほどである。アンコールのバッハ(無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番のラルゴ)もかなり神がかっていて、ハーンが曲の最後の音を弾き終わっても誰も拍手ができないぐらいだった。聴いていて息が苦しくなるような演奏は久しぶりである。


 他のプログラムも良い演奏だった。指揮のジャナンドレア・ノセダの演奏は、まだ福島で高校生だった頃にマリインスキー歌劇場フィルを振ったのを聴いている。そのときのチャイコフスキーの交響曲第6番(今回の来日公演のプログラムにも組み込まれている)は、私の記憶上の最高の演奏だったので「邂逅」という感じだった。そういえば前に聴いたときも前プロが《ルスランとリュドミラ》序曲だったと思う。


 ノセダについてはよく「ワーレリー・ゲルギエフの薫陶を受けた情熱的な演奏をする指揮者」という紹介がされる――速いテンポと幅の広いダイナミクス、そして派手なアクション(指揮台の上でピョンピョン飛び跳ね、第一ヴァイオリンへの大きな要求をするときは、トップ奏者の譜面台近くまで顔を近づける……など)はたしかに「ゲルギエフの弟子」というのが納得なポイントだろう。


 しかし、彼の音楽をただ単に「情熱的(あるいは爆演系)指揮者」と言ってしまうのは少し本質を欠いているように思われた――なぜなら「ノセダの音楽は金管が大音量で鳴っているような派手な部分でなく、もっと穏やかなどちらかといえば弱音が続く部分が素晴らしい」と思うところがあったからだ。


 そういった緩やかな部分での音楽の作り方は、どちらかといえばクラウディオ・アバドのものを思い起こさせる。アバドほど透明感や天国的な感じはないけれど、実に品がある解釈でとても良かった。すごく歌のツボを押さえた指揮者なのだと思う。とくにアンコールで演奏されたグリーグの《過ぎにし春》という穏やかな作品は絶品だった。


 表情付けも上手い。これはストラヴィンスキーで発揮されていたと思う。新古典主義時代のストラヴィンスキーの「シリアスでアカデミックな楽壇」的なものをまるで嘲り笑うようなところ――例えば、非常に美しい弦楽器のアンサンブルと、単調な金管楽器のマーチをカットアップのように構成する、など――がとてもユニークに表現されていた。フィナーレでとってつけたように爆音で音楽が締めくくられるところなど「最高だなぁ」と思うのだが、そこまでメジャーな作品ではないので観客のウケは結構微妙。



シベリウス&シェーンベルク:ヴァイオリン協奏曲
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 会場で今回のシベリウスを収録したハーンのCDが売っていたので購入(『サイン会に参加できますよ』とのことだったが、終演後のロビーには300人ぐらいの長蛇の列ができていたのでサインは断念。その列を『すげぇな……』という感じで眺める人たちのなかに作曲家の吉松隆の姿もあった)。


 「シベリウスとシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲をアルバムにしたい」と彼女が語っているのを何年か前にインタビュー記事で読んだ(この2曲は、まったく性格が異なる。けれどもどちらも20世紀の名曲で、しかも、どちらの作曲家もイニシャルがSで始まる。このふたつのSの協奏曲をカップリングしたいのです、とか言っていたと思う)。その記事をたまに思い出しては「いつでるんだろうな」と期待を募らせていたのだが、やはり期待を裏切らない名演だと思う。特にシェーンベルク――ここまで精巧な美しさをもつシェーンベルクの演奏はしばらく出てこないだろう。まさに金字塔である。


 初めて彼女の実演に触れて「え?!こんなに小柄な人だったの!?」と驚いてしまったのだが(キャメロン・ディアスみたいにガタイが良い『パワフルなアメリカ人女性』っぽい姿を想像していた)、あの体のどこからこんなに強靭な音楽が生み出されてくるのだろう、というのは大きな謎である。



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(数年前のシベリウスの映像がYoutubeにありました)





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19世紀のブルジョワはシュトラウス2世で踊ったのか?

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Let’s get physical(日曜日の朝から憂鬱な僕は人生の七分の一を損している)


 こちらのエントリを読んで、「ウィンナワルツで踊る、という社交空間は実在したのだろうか」ということをふと思った。「ウィンナワルツの王」として知られるヨハン・シュトラウス2世の例をとって、少し考えてみたい。


 シュトラウス2世の生きた時代は1825年~1899年。ベートーヴェンの晩年(彼は1827年没)には既にロマン派が始まっていた、とするならばシュトラウスは生涯をロマン派とともに過ごしたことになる(彼が時代が20世紀に突入する直前に亡くなったのはなんだか暗示的である)。

 古典派とロマン派の時代で音楽家をとりまく環境は大きく変化する。まず、音楽家を経済的に支えていた基盤の部分。これが貴族(あるいは教会)から市民(ブルジョワ)へと変化する。ちょうどベートーヴェンはそういった変化の境目にいて、彼が若い頃は映画『アマデウス』に登場するモーツァルトのように見世物的/旅芸人的に貴族の耳を楽しませる「即興演奏家」として有名だったそうだが、後にブルジョワに組合を作らせて生活を補助してもらいブルジョワに作品を捧ぐという形で作曲を続ける商売をほとんど始めて確立した作曲家と言われているのは興味深い*1

 音楽家の経済基盤が変化したことに伴い、音楽が演奏される空間にも変化が生じている。貴族によって支えられた音楽家の音楽は、あくまで貴族による私的な空間(貴族の館であったり、お城であったり)だったのに対して、市民社会成立後の音楽家の音楽はもっとオープンな公共空間にて奏されることとなる――その公共空間というのがコンサート・ホールというわけである*2


 シュトラウス2世の音楽は、時代区分的に考えればコンサート・ホールで演奏されていたはずである。そうなればもう「ウィンナワルツで踊る」という図式は成立しない。あくまでシュトラウス2世の音楽は「ダンス・ミュージックの形式をとった芸術音楽」として演奏されており、ホントは踊りのための音楽じゃなかったんじゃなかろうか。


 今、全く資料をみないでこのエントリを殴り書いているのですごく適当な思いつきを書いてるだけだけど、自分で書いてて「あれ?結構ホントっぽくない?」とか思う。ウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートの中継では、『美しき青きドナウ』のイメージ映像的にダンスする人の映像が流れたりするけど、あんなの全部デタラメで後世の我々が勝手にでっちあげた妄想に過ぎない……のかもしれない。


 とはいえ、社交場をかねるダンス空間が無くなったわけではないだろう。しかし、本当のダンス空間においてはもっとポップで踊りに適した音楽が伴奏音楽に用いられていそうな気もする。また、そうであるならばシュトラウス2世の音楽を「踊れないダンス・ミュージック」としてエイフェックス・ツインの先駆的位置に置くこともできよう(できねーよ!)。


 いい加減なことをたくさん書いてしまったけど、すべてシャンパンのせいだから水に流してください。




*1:これはこちらで紹介した本に載っていた話


*2:この辺はこちらで紹介した本に詳しい





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フィリップ・コーラン&ザ・アーティスティック・ヘリテージ・アンサンブル

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 サン・ラ・アーケストラの初期メンバーであったフィリップ・コーランが結成したザ・アーティスティック・ヘリテージ・アンサンブルがすごい。なにがすごいってその黒さが。彼らの音楽は「畸形的なカウント・ベイシー楽団」みたいな表現がぴったりきます。ビッグバンドがリフを何度も何度も繰り返すことによって音楽がどんどん回転していくんですが、リズムの訛り方がえらいことになっていて、それがかなり体幹にくるグルーヴを生み出しているような感じ。曲はかなりポップなんだけど、呪術的な雰囲気があって最高です。


 67年の『On The Beach』は彼らが自主レーベル「Zulu」に残した唯一のアルバムだそう。後にマイルス・デイヴィスのバンドで大活躍するピート・コージーもバンドに参加しています。



The Malcolm X Memorial (A Tribute in Music)
Philip Cohran and the Artistic Heritage Ensemble
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 レーベル名からも推測がつくかと思われますが(ズールーとは南アフリカの95%を占める民族の名)、思想的にもかなり真っ黒。マルコムXへのトリビュート盤なんかも出しています(このジャケット、最高!)。あと女性ヴォーカルが「アフリカンの見た目は美しい」と高らかに歌う曲があったり、シカゴのスラム街のどまんなかに「アフリカン・アート・シアター」なる劇場を作ったり(これはキング牧師暗殺とともに閉鎖)と、フィリップ・コーランの活動には黒いエピソードも満載。


youngerdays


 なんでも彼はカリンバ(親指ピアノ)をアメリカに初めて紹介したミュージシャンだそうで、このバンドでも彼は自作のエレクトリック・カリンバを弾いている。彼が「フランキフォン」と命名したこの楽器の音は、バンドの特徴のひとつともなっているわけですが、「黒人が《白人の考えた楽器》でもって、黒人的な音楽をやる」というジャズの特殊な音楽性のなかにオリジナルな黒人の楽器(=カリンバ)を持ち込む行為にはおそらく政治的な意図もあったことでしょう。


 上記の二枚のアルバムは輸入盤ですが、日本盤には彼らがお金を出し合ってプレスし、ライヴ会場で手売りしていたというシングル盤の音源を収録した編集盤があります。



SINGLES (紙ジャケット仕様・リマスター)
フィリップ・コーラン・アンド・ザ・アーティスティック・ヘリテッジ・アンサンブル
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 これも名ジャケ(暴動か!っていうぐらいの黒い群集の前で演奏しているかなりすごい写真)。日本盤にはフィリップ・コーランの生い立ちから現在まで(1927年でまだご存命)の活動を詳細に記したライナーもついています。


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 最近のフィリップ・コーランの写真。良い味。



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 動画もあった。ちょうどフランキフォンを弾きまくってる*1






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