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3月, 2008の投稿を表示しています

衝撃!チャーハンってこんなに美味しいものだったのか!!

  おいしいチャーハンの作り方@ぬけない2ちゃんねる を試してみました。具になるような食べ物が冷蔵庫に残っていなかったので、たまごのみの素チャーハン。でも美味しい!今まで食べていたチャーハンはチャーハンでなく、なにか別のものだったのでは……と思うほど何かが違う。2ちゃんねるって良いこともちゃんと書いてあるんだなぁ(麻生太郎が言ってたのはホントだった!)、と思った瞬間。  冷えたご飯とたまごを混ぜる。  それをコイツで炒める。良い感じの黒光り具合。  このパラパラ感!ごはんの一粒一粒が独立してチャーハンという全体を作り上げる弁証法的関係!  味付けは塩だけでも全然いける。たまご、油、米、塩、これだけでこの美味しさが生まれるケミストリーは、作る過程のどこかでスピリチュアルな何かが乗り移ったとしか考えられません。

マイク・オールドフィールド『天空の音楽』

Music of the Spheres posted with amazlet on 08.03.30 Mike Oldfield Decca (2008/03/25) 売り上げランキング: 1072 Amazon.co.jp で詳細を見る  映画『エクソシスト』のサントラに使用された「チューブラー・ベルズ」で有名なマイク・オールドフィールドの新譜が出ています。邦題は『天空の音楽(原題;Music of the Spheres)』。オールドフィールドの作品では「チューブラー・ベルズ」をオーケストラに編曲したものがありますが、今回の新譜はフルオーケストラを使用した初のオリジナル・アルバムだそう。  Youtubeにはいくつかアルバムの音源を聴ける映像がアップされています。オーケストラのアレンジは、カール・ジェンキンス(元ソフト・マシーン)。この人は現在、BBCやNHKのドキュメンタリ番組の音楽を書いたりしているのですが、仕上がりもなんかそれっぽい感じ。「プロジェクトX」とか「その時歴史は動いた」とかの感動話を彷彿とさせつつ、大河ドラマ的な雰囲気もある。  オールドフィールド&ジェンキンスのインタビューと製作時の映像。映画の予告編みたい。ピアノでラン・ランが参加しているなど、ゲストも豪華。「やりたいことは全部やりつくしてしまったよ!」と語るほどの自信作だそうですが、たぶんこの「予告編」が与える「なんかすごそう!」という感じほど本編は良くないんだろうな、と思って買ってない。  やっぱこういうの聴きたいなぁ。

結局、マナーなんて俺ルールの後ろ盾に過ぎない

色んな楽しみ方があっていいし、誰だって最初は未体験ゾーンな訳ですが、私がこれまで見てきた「クラシック聴きに行ったけれどマナーが厳しすぎる」と愚痴ってる人たちの最大の問題は、「俺ルールを押し通す(家の外でも自分の世界に入ったまま)」人が多いように見受けられました。  先日書いた クラシックの演奏会におけるマナーについてのエントリ に以上のようなコメントをいただいている。これを読んで私は「でも、演奏会では静かにしろ!」というその要求もひとつの「俺ルールを押し通すこと」だよな、と思った。結局のところ、マナーなどとは誰かが俺ルールを押し通す際に、その行為に正当性を与える枠組に過ぎないのではないか、と思う。  もしそのような枠組がない状況においては「騒音なんか気にしない。好き勝手おしゃべりしたいし、パラパラと音を立てながらパンフレットをめくり音楽を聴きたい」という俺ルールと、「音楽は厳粛に聴きたい。騒音なんか聴きたくない」という俺ルールはどちらも並列に置かれてしまい、どちらも正当化されてしまう。あるいはどちらも正当化されない。しかし、実際には後者の俺ルールが優位性をもったものとして扱われる。後者にはマナーという後ろ盾がある。「どうしてマナーを守らなければいけないのか」。こういった問いはあまり意味を持たない。「守らなければいけないマナーがあるから、マナーを守らなければいけないのだ」という同語反復的な返答によって、問いは解消されてしまう。  しかし、そこで自分の俺ルールが正当化されたといっても「俺は正しい!演奏会は厳粛に音楽が聴かれるべきなのだ!」とふんぞりかえるのはあまり好ましいものではないように思われる。むしろ、そのような俺ルールは、マナーに寄りかかることによってでしか正当化することができない、脆弱なルールであることに自覚的である必要があるような気がする。

(桜が咲いたので)お弁当を持って、外へでよう

 先日、ピンクのシャツを着て仕事に行ったら桜が咲いていたので「あ、俺、もしかして春を呼ぶ男?」と思いました。桜っていつの間にか咲きますよね。それで毎年「ああ、また四月か。もう一年経ったんだ……」って思う――そんな季節についての雑感はまったく関係なしに、せっかく桜が咲いたのだし、お弁当を持って外に出ると楽しいよ!っていうことを伝えるべく写真を掲載していきます。  おかずは春の山菜(タラの芽、ふきのとう)とかぼちゃのてんぷらを作りました。  新百合ヶ丘から柿生方面に行く川沿いの道は、桜並木がずっと続いていてすごい(追記;麻生川というらしい)。  からあげとたまご焼きっていうオーソドックスな「お弁当おかず」も持ってくとグッと行楽気分が出ますね。

Youtubeで聴く!20世紀のヴァイオリン協奏曲2

 20世紀におけるロマンティックな音楽といえば、イギリスの作曲家たちも忘れてはいけません。近代に入ってエドワード・エルガーが現れるまでイギリスには目だった作曲家が存在しなかったのですが(バロック期以前には良い曲を書いている人が結構いる)、その後、エルガーの影響を受けた作曲家たちが活躍をしています。ウィリアム・ウォルトンもエルガー以降の作曲家の一人。こちらは彼のヴァイオリン協奏曲(第3楽章)。ダイナミックかつドラマティックな展開がカッコ良い。 シベリウス & ウォルトン: ヴァイオリン協奏曲 posted with amazlet on 08.03.29 諏訪内晶子 ウォルトン シベリウス オラモ(サカリ) バーミンガム市交響楽団 ユニバーサルミュージック (2002/09/21) 売り上げランキング: 2506 Amazon.co.jp で詳細を見る  録音はチャイコフスキー・コンクールの覇者、諏訪内晶子のものが好演。美しい音色で、端正に音楽を作り上げるのがこの演奏家の特徴ですが、ここでも彼女の持ち味が生きているように思います。劇的な音楽のうねりが綺麗にまとまってしまっていることに物足りなさを感じるかもしれません。紹介した映像で弾いているチョン・キョンファとはまるで正反対のように思います。  さて、次はイーゴリ・ストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲(第1楽章)です。ストラヴィンスキーといえば、バレエ音楽《春の祭典》で従来の西洋音楽におけるリズム語法を解体するというスキャンダルを巻き起こしたことが有名ですが、その後、新古典主義と呼ばれる作風になってからの作品も素晴らしい。この協奏曲もその時代のものですが、全楽章が同じフレーズで始まるという「悪ふざけ感」がとても楽しいです。 Stravinsky, Prokofiev: Violin Concertos posted with amazlet on 08.03.29 Sergey Prokofiev Igor Stravinsky Daniel Barenboim Chicago Symphony Orchestra Itzhak Perlman Teldec (1997/03/21) 売り上げランキング: 20000 Amazon.co.jp で詳細を見る  これはイツァーク・パールマンの演奏がとても面白

Youtubeで聴く!20世紀のヴァイオリン協奏曲

 全世界の日本語が読めるインターネット・ユーザーかつクラシック音楽ファンの皆様、こんばんは。また、そうでない皆様もこんばんは。当ブログでは、これまで幾度となくYoutubeで鑑賞することのできるクラシック音楽作品の映像を紹介してまいりましたが、本日は「20世紀のヴァイオリン協奏曲」に焦点をしぼり、さらに、その作品で最も美味しい部分を厳選してご紹介してまいります。  まず初めはソ連の作曲家、ドミトリ・ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番。これは私が最も好きなクラシック作品のひとつでもあり、CDも20枚ぐらい持ってるのですが、この映像で演奏しているのはその20枚近い(数えてないので正確な枚数は不明)コレクションのなかでもベスト3に入ってくる演奏者、ヒラリー・ハーンによるものです(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演の映像。会場はサントリー・ホールですね)。抜粋しましたのは、第3楽章カデンツァ(協奏曲におけるソリストの独奏部分)から第4楽章。静謐な音楽がじょじょに熱を帯びていく感じが堪らない……! メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 posted with amazlet on 08.03.26 ハーン(ヒラリー) メンデルスゾーン ショスタコーヴィチ ウルフ(ヒュー) ヤノフスキ(マレク) オスロ・フィルハーモニー管弦楽団 ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル (2003/01/22) 売り上げランキング: 1211 Amazon.co.jp で詳細を見る  (CDのジャケットはゴスっぽい)ハーンの演奏はこれでも抑え目、というか超高度な技巧を持ってこの作品の暴力的な部分をコントロールしきった怪演です。他の演奏家による録音では献呈者である ダヴィド・オイストラフのものは 文句なしに素晴らしい。また、少しマニアックなものになると オレグ・カガンのもの は、ハーンの真逆を行く濃厚さ(現在入手困難なのでしょうか、見つけたら即ゲッドをオススメいたします。カップリングのチャイコフスキーも素晴らしい)。  続いては、ショスタコーヴィチと同じソ連の作曲家、セルゲイ・プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番(第1楽章)。ショスタコーヴィチもプロコフィエフもソ連の特殊な文化的環境において一時は弾圧を受けた受難の人ですが、空気を読んで体制が求めるような作

アルノルト・シェーンベルク《ワルシャワの生き残り》

 Youtubeよりアルノルト・シェーンベルクの《ワルシャワの生き残り》。指揮はホルスト・シュタイン(いつみても天然モンスター顔だ……)。この作品は1947年、晩年のシェーンベルクが書いた「第二次世界大戦化のワルシャワを生き延びた一人のユダヤ人の証言」を題材とするカンタータである。全編に12音技法が用いれているのだが、シェーンベルクの全作品のなかでこのように「恐怖」や「暴力」の表象として12音技法を用いているのはこれが唯一のものであろう。この試みは大いに成功し、《ワルシャワの生き残り》はシェーンベルクの代表作のひとつに数え上げられている。しかし、ここに問題が生ずる――12音技法には「恐怖」や「暴力」しか表現できないのか?  「シェーンベルクは、抽象化を目指すことによってではなく、むしろ音楽の具体的形態そのものを精神化する……」 *1 。ここでのシェーンベルクは、12音技法を悲痛な叫びの効果音として利用したシェーンベルクは、自ら定めたこの綱領を守ろうとはしていない。アドルノは意外にもこれを好意的に評価している。「……恐怖が知れわたることによって、音楽はふたたび否定の力による、その救済力を見出すのである。《ワルシャワの生き残り》はユダヤの聖歌で終わるが、その歌は神話に対する人類の講義としての音楽である」 *2 。  しかし、このアドルノの評価は一定の留保がついたものだっただろう――「シェーンベルクは自分から、芸術とは完全にかけ離れた経験の回想によって、美的領域を一時中断する」 *3 。この中断は、他でもない、《標題音楽》と《絶対音楽》というふたつのロマン派音楽が目指す目標のうち、後者への諦めを意味する。アドルノの「中断」という指摘は「12音技法による絶対音楽の達成」というシェーンベルクの当初の目標が頓挫したことを明らかにしているのではないだろうか。  美的領域を中断した《ワルシャワの生き残り》は標題音楽的なものを目指している。これは音楽のプロパガンダ化と言えなくもない。かつてソ連におけるプロパガンダ音楽を厳しく批難したアドルノが、これを評価したのは何故なのだろうか、とも思う。 *1 :テオドール・アドルノ『 プリズメン―文化批判と社会 (ちくま学芸文庫) 』P.222 *2 :同書。P.263 *3 :同書。P.262-263

フランソワ・ラブレー『ガルガンチュア』(ガルガンチュアとパンタグリュエル)

ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫) posted with amazlet on 08.03.23 フランソワ ラブレー Francois Rabeleis 宮下 志朗 筑摩書房 (2005/01) 売り上げランキング: 70201 Amazon.co.jp で詳細を見る  フランソワ・ラブレーによるフランス・ルネサンスを代表する小説『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の『ガルガンチュア』を読みました(一応、第一巻なんだけれど、書かれたのは“第二の書”である『パンタグリュエル』のほうが先)。面白かった!  「ルネサンス」というと高校世界史にも出てくるキーワードだし、なんか堅苦しいイメージがあるけど、ラブレーの小説に出てくる下ネタの嵐にはそのような小難しさは一切感じません。主人公である巨人、ガルガンチュアの出生も「脱肛を起こして下腹部のあたりがつまっちゃったおかげで、通常赤子が生まれてくる場所からでなく、耳から生まれてきました!」という乱痴気ぶり。あと、おしっこで洪水がおきてたくさん人が溺れ死んだり、ウンコチンコがやたら出てくるなど、レベル的にはほぼ小2。読みながら「うーん、これが人文主義ってやつなのか……たしかに人間性が大らかに発露してるよなぁ」と思いながらゲラゲラ笑いました。  恐ろしいのは、小2レベルの下ネタとギリシャ哲学や同時代の哲学の教養がごく普通に並置されているところ。ホメロス、プラトン、アリストテレス、エラスムス……などなどの引用が間にたくさん挟まれているんですが、これは的を射た引用である場合もあり、荒唐無稽な解釈がされている場合もある。この高度な遊戯性に書き手のすごさが垣間見れます。ものすごい二面性。  こういった古典作品を読むにあたって、当時の文脈を考えながら読む(当時の社会状況や風刺的な意味を汲み取ったりする)か、または、完全に現代の文脈の上で読むか、というふたつの読み方があるように思います。この本に関しては、そのどちらの読み方でも楽しめるところが良い。例えば、翻訳者がうざったいぐらいにつけてくれる注釈によって「実はこの下ネタは、当時の教会に対する強烈な風刺で、かなりヤバい発言だった」などということを知ることができる(当時の文脈で読める)一方で、訳文はとても読みやすい形になっており、訳しにくそうなユニークな言葉

カプースチンは上原ひろみを作曲する

 気が重くなるような長文エントリが続いたので口直しに、Youtubeから音楽映像をご紹介。冒頭にあげたのは、ロシアのジャズ・ピアニスト兼作曲家であるニコライ・カプースチンの《ジャズ・エチュード》第3番。「3倍速チック・コリア」みたいな作品である。まるで、上原ひろみのインプロヴィゼーションを書き起こしたかのような音の密度。  続けて《ジャズ・エチュード》第1番。この作曲家の作品集は近年日本でも楽譜が出版されていて一時期、アマチュアのピアノ奏者の間で話題になっていたそうだけれど、こんなの弾ける人いるの?って思う。この演奏者がすごいだけ?  作曲家ご本人による《前奏曲》。これはまだ普通な感じで、前のふたつの映像で弾いている人に比べるととても「ジャズらしく」聴こえる。「ジャズっぽく聴こえる演奏には、和音だけでなく、タッチやタイム感が大きな要素として絡んでくるのだなぁ」と思った。  ピアノ・ソナタ第2番と楽譜(第4楽章)。楽譜が黒い……。

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら

チベットと「美しい国」の心性、それから他者

 チベットであれこれ起きて、結構死んだ人が出たっつー事件があった。私としては、基本的にノンポリだし、っつーかチベットと中国の政治事情についてよく知らんので「大変だなぁ」と思うぐらいなのだけれど、いくつかのブログやmixiの日記などに書かれた事件について文章は興味深かった。具体的にここで「この記事」とあげることはしないけれど、事件について書いた人の多くが「中国政府はひどい。チベットは抑圧されていて可哀想(チベット独立賛成!)」みたいなスタンスだったように思う。  たしかにデモで集まってる人にバンバン鉄砲撃っちゃうのはひどい。ここは素直に納得できる。でも「チベット独立賛成!」みたいな発言はよくわかんない。これはあまりに無責任で現実が見えてない発言だと思う――独立してどうするのか?やっていけるのか?そこまで見据えた人でなければ、こういう発言はしてはいけない気がする。そうでなければビョークとかジョン・レノン(現実見てない人!)とまとめて一緒に叩かれても仕方ない。  思うに、こういう発言をおこなう人には「独立即ち良いことである」と考えられるような思考回路が備わっているのではないか――これは言い換えれば、現実的な利益ではなく、民族の独立と自決という「メンツ」の問題のほうが国民のためになる、という非常に美的な国家の捉え方である。ここで、こういう美的なナショナリズムについての宮台真司の発言をひいておこう *1 。 日本で国益という場合、世代によってふたつの異なった受け取り方があります。ひとつは国民益という考え方で、これは計算可能なものです。 ようするに、国民にとって利益になるかどうかを徹底的に分析する。コスト分析やリスク評価をして、どういう選択がどういう利益または不利益をもたらすのかを考え、利益を増大させ、不利益を減らそうとする立場です。 その一方で、魂のふるさととしての国体に殉ずることを国益とする立場もある。国体に殉ずる精神的な営みから見た場合、計算可能な国民益が低下するような選択であっても、あえて国益だと見なすわけです。 典型的には「一億総玉砕」という発想ですね。国民の全員が死に絶えても、国家の尊厳が維持されるとします。  美的なナショナリズムは、もちろん「一億総玉砕」のほうに位置する。宮台は「(こういう考えは)若い人には理解しがたいかもしれない」としているのだが、「チ

コンサートで聞いた赤の他人の雑談より

 ベレゾフスキーのコンサート、さすがにチケット2000円でしかも郊外にある会場というだけあって、普段足を踏み入れるようなコンサートでは見かけないようなお客さんがたくさん見受けられました。例えば、ロビーで「明日カラオケのレッスンがあってよぉ!」と仲間に話しかける、明らかについさっきカップ酒を飲んできたであろう……と推測できるような臭いを放つオッサンとか。  強烈だったのは私の真後ろに座っていたオバサン3人組で、この素敵な淑女たちは開演前から「誰それの息子さんは○○につとめててね……」だの「ウチの息子も大学に入ってね……」だの、ローカルなゴシップ会話で大盛り上がり。そういう下劣極まりない会話をしつつも、言葉遣いはマンガにでてくるみたいな「○○ですわよ」というバカ丁寧な口調だったので、どんだけ上品な淑女なのだろうと後ろを振り向いたら、全員“太陽王”ことルイ14世の肖像画みたいな髪型してた。もっと現代的な喩えをすれば、まるっきりイングヴェイ(結論として、どうやら多摩市の行政は絶対王政で、しかも速弾きが流行ってるらしい)。  この淑女3人のルックスも衝撃的でしたが、もっと驚いたのが彼女らの一人が休憩後に戻ってきて「そうそう、ウチにあった《熱情》のレコードは、ヴァン・クライバーンだったわ。もしかしたら、ホロヴィッツかもしれないけれど」という言葉を放ったことでした。「クラシック=教養」として音楽を消費し、まるでコンサートのチケットへ払う出費がリヴィングに並べ置かれる百科事典と同等である……という風に見て取れてしまうようなルイ14世レディの口から、まさかクライバーンの名前が出てくるとは思いませんでしたし、また、彼女らの口からホロヴィッツの名前が出てくるということは、それだけこのピアニストに人気が集まっていたという事実を証明するものでしょう。  どちらにせよ「あら、今知ったけど今日は《熱情》をやるのね。ウチの息子が練習してたけど、どんな曲か忘れちゃったわ」「聴けば思い出すわよ、きっと」→終演後「やっぱりウチの息子の演奏とは違うわー」という感想を交換するような、言ってみれば音楽に対してその程度の思い入れしか持たないオバサン連中がクライバーンやホロヴィッツの名前を記憶している、ということは、かつて彼らがそれだけの人にも記憶されるようなポピュラリティを得ていたことを伝えるものでした。  果

ボリス・ベレゾフスキー@パルテノン多摩

 1990年のチャイコフスキー・コンクール優勝者であるピアニスト、ボリス・ベレゾフスキーの演奏会に行ってきた。パルテノン多摩開館20周年記念事業だそうで、チケットが2000円。早めにチケットを確保したら、ピアニストの指がちょうど目の高さで見れるような良い席でちょっと得した気分になった。今夜の曲目は以下。 ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 Op.57《熱情》 メトネル:《おとぎ話》より シューマン:《ダヴィット同盟舞曲集》Op.6  この演奏会のチケットを取るまでベレゾフスキーというピアニストについて「名前は聞いたことがあるけれど、どんな演奏家か知らないなぁ」という感じだったのだが、先日家の「あんまり聴いていないボックスCDコーナー」(たくさんある)を探っていたところ、彼が参加した録音が結構あったので事前に聴いてみた。Youtubeにも彼の演奏がアップされている。  このプロコフィエフを聴いてもらえば少しは伝わるかもしれないけれど、私が彼のピアノを聴いて第一に思ったのは「ずいぶん丁寧にピアノを弾く人だなぁ」ということである。言い方を変えるなら、彼のピアノはすごくマジメなのだ。どちらかといえば落ち着いたテンポを選び、音色は綺麗、勢いよりも正確さを重視する――ちょっとベタベタするぐらい楽譜をマジメに読んでいる、という感じがする。これは私が思う「ロシアのピアニスト像」とは上手く結びつかない演奏だった。  「正当な」ロシア・ピアニズムと言えば、フォルテはフォルテッシモで、アレグロはモルト・アレグロで、アンダンテはアンダンテ・グランツィオーソで……というような「過剰さ」の上に成り立っているように思っていた。リヒテルなんかがその代表格だったし、ギレリスも、もっと古いところで言えばラフマニノフもそうだったかもしれない。  こういう過剰については、ピアニストに限った話ではなく、ヴァイオリンのオイストラフやコーガン、あるいはカガンといった演奏家もピアニストに負けないぐらい過剰な演奏をしていた。要するに「ロシアの音楽家は濃ゆい」のである。しかし、ベレゾフスキーのピアノにはそのような濃さは微塵もない。ちょっと退屈するんじゃないか、と心配になるぐらい素直な音楽を展開している。  プログラムの一曲目であるベートーヴェンの《熱情》が始まってからも、そういった印象は拭えなかった。冒頭

ウィキペディアはスキャンダルを滞留させる

 以前書いた こちらのエントリ に対して、 id:sumita-m さんから 角力についてのメモ - Living, Loving, Thinking というコメント的エントリ&トラックバックをいただいた。このエントリに私は以下のようなコメントを書いている(抜粋)。 バッシングについてはやはりインターネットという存在についても考えさせられます。かつては一過性の熱に過ぎなかった《ネタ》が、インターネット以降においては常に問題への再参入・問題の再加熱されうる状況を指摘できるでしょう。  読み直すととても言葉が足りない感じがするのでこれに少し補足をいれつつ、話を進めていきたい。  インターネット以前においては、スキャンダルやバッシングの火種(ネタ)は一過性のものであり、問題が加熱される祭り的な状況が一旦終わってしまえばなかなか掘り返されることのないものとして置かれていた。しかし、インターネット以降、とくにあらゆるものがデータベース化され、さらに検索によって容易にアクセス可能な状況が成立してからというものスキャンダルは一過性のものでなく、反復可能なものとなっている。  たとえばある人物についてインターネットを使って調べるとしよう。検索サイトでヒットしたものの上位には、その人物のオフィシャルサイトとウィキペディアが表示される。オフィシャルサイトにはもちろんかつてその人物が起こしたスキャンダルについては記載されていないだろう。しかし、ウィキペディアにはしっかりとその事件の記述があるかもしれない。  それを読んだ人物は「へぇ、こいつ、こんなことやっていたのか!」、「逮捕歴あるのか!」などという驚く。それと同時に、その人物が起こしたスキャンダルは、リアルタイムでその祭りを体験していないものであるはずの読み手に記憶されることとなるだろう。このように、インターネット(とウィキペディア)はスキャンダルの忘却不可能性をもたらしているのである。  これはウィキペディアに記録されるものにとってのリスクを増大させていることも指摘できる。スキャンダルから月日が経ったときでも「あいつ、今じゃ平気でテレビに出ているけれど、実は麻薬やってたんだぜ!」という風に語られる可能性に常にさらされ続けているのだ(このような語りを、スキャンダルの再加熱と読んでも良いだろう)。忘れられることのないスキャンダルは、記録

シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲について

シベリウス&シェーンベルク:ヴァイオリン協奏曲 posted with amazlet on 08.03.16 ハーン(ヒラリー) シェーンベルク シベリウス サロネン(エサ=ペッカ) スウェーデン放送交響楽団 ユニバーサル ミュージック クラシック (2008/03/05) 売り上げランキング: 77 Amazon.co.jp で詳細を見る  ヒラリー・ハーンが演奏するシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲を繰り返し聴いていて、私もこの作品についての文章をひとつしたためたくなった。この文章が、この作品に初めて触れた人、あるいはシェーンベルクの作品に初めて触れた人のためになるものになれば、と思いつつ解説的なものを書いてみることにする――まず、この素晴らしいヴァイオリン協奏曲を書いたアルノルト・シェーンベルクという人の経歴について触れておこう。  紹介をごく簡単なものにとどめておくならば、1874年にウィーンに生まれ、1951年にアメリカで没したユダヤ系オーストリア人の作曲家……ということになる。加えて、彼の業績を紹介すると「無調音楽によって調性の破壊をおこない」、「12音音楽という作曲技法を確立した」という二点があげられる。作風の変遷について言えば、後期ロマン派時代(代表作は《浄められた夜》、《グレの歌》、室内交響曲第1番)→無調時代(代表作は《月に憑かれたピエロ》、《期待》)→12音音楽時代という道を辿る。この道は、19世紀末から20世紀前半の西洋芸術音楽の歴史とほとんど同一化されてもよい「進化の歴史」でもある。  12音音楽という技法は、ウィキペディアにも簡潔にまとめられている。 重複しない12音を平等に使って並べた音列を、半音ずつ変えていって12個の基本音列を得る。次にその反行形(音程関係を上下逆にしたもの)を作り同様に 12個の音列を得る。更にそれぞれを逆から読んだ逆行を作り、基本音列の逆行形から12個の音列を、そして反行形の逆行形から12個の音列を得ることで計 48個の音列を作り、それを基にメロディーや伴奏を作るのが12音音楽である。一つの音楽に使われる基本となる音列は一つであり、別の音列が混ざることは原則としてない。したがって、この12音音楽は基本となる音列が、調性に代わるものであり、またテーマとなる。そして音列で作っている限り、音楽としての統一性

ウチにダイソン(偽)が来た日

 私の休日の朝はまず部屋に掃除機をかけるところから始まる……とキレイ好きをアピールすることで、いやらしくモテ系男子であることを主張したいのですが、本題はそこではありません。先日いつものようにお掃除をしていたら何の前触れもなく掃除機がお亡くなりになりました。スイッチが入っているのにうんともすんとも言わない。「参ったな……こんなホコリまみれの部屋じゃ、女の子を連れ込むのも憚れるじゃないか……」と強い危惧を抱いたので早速新しい掃除機の購入をアマゾンにて検討。そこで見つけたのがこの商品。 CyclonicMaxPure サイクロン掃除機 VS-5000 イエロー posted with amazlet on 08.03.20 ベルソス 売り上げランキング: 465 Amazon.co.jp で詳細を見る  「強力パワーが魅力のサイクロン」という謳い文句のよくわからないけどすごそうな迫力にも惹かれたのですが、一番すごいのは価格。定価が40000円弱なのに80%オフで7500円という怪しすぎるバリュープライス。若干の不安がありましたが、予算にまったく余裕がなかったため購入に至りました。  で、そいつが今朝届きました。WEB上での画像を見たときも思いましたが、ダイソンの掃除機を髣髴とさせる偽者感溢れるデザイン。  ホンモノはこんな感じで幽霊も吸引可能であるかのようなイカツイ佇まいなのに対して、偽者はそういったアウラを感じさせないシンプルな作りになっています(プラスティックで出来てます!という感じがビンビンに伝わる感じがいかにも偽者っぽい。『出力1200Wのモンスターマシン』っぽさが微塵もない)。あと、ダストボックスの着脱構造は、特許関係が心配になってきます。  肝心な使用感について。 使用時のノイズがはんぱじゃない  隣の部屋の住人が音に敏感なタイプの人で、ちょっとうるさくしていると郵便ポストに汚物等を投げ込む報復的嫌がらせをしてくる……という環境におすまいの方は要注意かもしれません。しかし、このあたりでやっとモンスター・マシンの本領発揮、という感じがします。 たしかに強力だ!  以前使用していたのが小型のスティックタイプ(アマゾンのレビューに書いている人と似たような買い替えをしている)で、吸引力が弱かったから余計にこの掃除機のパワーに驚く結果となっているかもしれませんが、かな

肉をワインで煮てみよう

 仕事がはやく終わったし、明日休みなのでモゾモゾと料理熱が突沸。脳内に「牛肉の……赤ワイン煮……」という神的なものからくるリフレインがこだましたので、早速スーパーにより牛肉の赤ワイン煮を作ることにした。写真は全然関係ない、この前買った鉄人28号のフィギュアです。  材料。牛肉の硬い部位を400グラム。たまねぎ1個。にんにく1かけ。安い赤ワインのボトル一個。ローリエ2枚ぐらい。あとは基本的に「普通の家にはあるだろー」という食材&調味料。  作り方。牛肉は塩コショウ振って小麦粉(これが最終的に煮汁(?)のトロみをつけてくれる)をまぶして、鍋に油をひいて少し焼く。表面の色が変わったら取り出す。まぶした小麦粉が鍋の底にひっついてると思うので、そこに油を足してたまねぎ&にんにくを炒める。たまねぎの色が良い感じになったら、取り出してた肉をぶち込んで、そこにワインを注ぎ込む(肉が隠れるぐらいまで)。灰汁をとりながら、適当なタイミングでコンソメの固形のヤツ一個、ローリエ、コショウ適量を入れて30分煮込む。 ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫) posted with amazlet on 08.03.19 フランソワ ラブレー Francois Rabeleis 宮下 志朗 筑摩書房 (2005/01) 売り上げランキング: 139565 Amazon.co.jp で詳細を見る  牛肉の赤ワイン煮。こいつはフランスのとある地方の郷土料理(特別な日に食べる)らしい。なんで待ってる間、キッチンに椅子を持ってきて、火にかけた鍋の前でラブレーなんか読むのはどうだろう。食事前に読むのはキツい下ネタ満載だけれど、大体これを作るとき、ボトルの半分ぐらいはワインが残ってるので飲みながら読んだり、読みながら飲んだりすると30分などすぐ過ぎてしまう(面白いよ!)。  で、30分経ったら、そこに大さじ2ぐらいのさとうをいれて(蜂蜜でもいいらしい)、マッシュルームを適当にいれてさらに10分煮込む。写真は調理中の鍋。待っている間に、ローリエの香りがしてきてテンションあがってくる。  「これがオレ本体のハンサム顔だ!」という感じで盛り付けて、できあがり。写真はなんか世紀末の産廃施設から日夜排出されつづける放射能を帯びたゴミみたいになってるけど美味しいよ!!

カール・マルクス『資本論』(一)

資本論 1 (1) (岩波文庫 白 125-1) posted with amazlet on 08.03.17 マルクス エンゲルス 向坂 逸郎 岩波書店 (1969/01) 売り上げランキング: 3938 Amazon.co.jp で詳細を見る  資本論マラソン、1/9を通過。読みながら「これでまたアドルノを少し整理できるかな」などと思ったりしたが、それについてはここでは触れない(時間がかかりそうなので)。とりあえず、雑感めいた感想を記しておく。   資本論マラソン宣言のエントリ でも書いているけど、とにかくこれは面白い。本の端々にマルクスの教養高さが感じられること(ものすごい知識量である)も面白さの要因のひとつなんだろうけど「なるほどねー、ヘーゲルの用語はこういう風に使うのねー」とか勉強になったり、いちいち頷きたくなるような鋭い分析が良い。これはとても今後が楽しみになった。  それから良い本だなぁ、と思ったのはこういう文章が書かれているところである。 自分の生産物で自身の欲望を充足させる者は、使用価値はつくるが、商品はつくらない。(P.77) これまでまだ、一人の化学者として、真珠またはダイヤモンドの中に、交換価値を発見したものはない。(P.150)  引用した文章はなんだかカッコ良い感じで書かれているけれど、とても当たり前のことが言われている。前者は「自分で作ったものを自分で消費してるだけじゃ、商売じゃないよねー(そこには交換がないじゃんかー)」ということだろうし、後者は「真珠とかダイヤとかすごく大事なものとして扱われてるけど、それ自体のなかに元々価値が備わってるわけじゃないよねー」というようなことだと思う。たぶん。  えー、そんな当たり前のことが書いてあんの?そんなんつまんないじゃん、読む必要なくね?――って思うかもしんないけど、こういう当たり前の描写は社会学の本的としてとても大事なことだと思う。そもそも『資本論』などの分析があったからこそ、今ここに書かれていることが「当たり前」のように読めるのだろうし。  で、不思議なのはなんでこういう真っ当な本が、政治的なものと強く関連付けられたりしちゃうわけ?ということである。 宮崎哲弥さんが10代で読破した「資本論」って本今も売ってますか?同じような... - Yahoo!知恵袋 マルクス「資本論」のわかりやすい

BBCフィルハーモニック管弦楽団日本公演@横浜みなとみらいホール

 BBCフィルハーモニック管弦楽団の日本公演を聴きに行った。お目当てはもちろんヒラリー・ハーンの独奏によるシベリウスのヴァイオリン協奏曲である。ブラームスやメンデルスゾーンの協奏曲と並ぶ人気を誇るこのヴァイオリンの名曲を彼女の演奏で聴くのは私の永年の夢だったので、それが実現したことに感動もひとしお。本日のプログラムは以下。 グリンカ:歌劇《ルスランとリュドミラ》序曲 シベリウス:ヴァイオリン協奏曲ニ短調(独奏:ヒラリー・ハーン) ストラヴィンスキー:バレエ音楽《妖精の口づけ》よりディヴェルティメント チャイコフスキー:幻想的序曲《ロメオとジュリエット》 指揮:ジャナンドレア・ノセダ  シベリウスのヴァイオリン協奏曲はとても難しい作品だな、と思う。この曲には、作品の構成や管弦楽法に「シベリウスの独特の筆致」がやはり認められる――後期の交響曲のように霞のような、どこか掴み所のないような印象を受ける。だからこそ、独奏者には鋭い分析力が要求される(もちろん同時に超絶技巧も)。  個人的に「この難曲をどんな風に響かせるんだろう」というのはかなり楽しみな点だった。ハイフェッツに近いものだろうか?ムターみたいな演奏だろうか?あるいはチョン・キョンファ風だろうか?みたいにして想像は膨らんでいった。  実際の演奏は私の想像よりも遥かに上を行く素晴らしいものだった。デビュー時から「現代最高のテクニシャン」として知られた彼女の技巧の確かさを充分に堪能できたのはもちろんのこと、音楽の運びはこれまでに出てきた「名演」のどれとも違い、新鮮で自由だ。  また何年か前に録音したショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲(これも名演だ)のときよりも、歌い方の豊かさが増しているように思われた。おそらく、このシベリウスは彼女のキャリアにおけるひとつの成長のランドマーク的なものになるだろうと思う。  ハイポジへの派手な跳躍や重音の部分で何箇所か細かいミスがあったけれど、全然そんなことは関係ない。圧巻の弾きぶりで、第一楽章の長いカデンツァでは思わず目が潤んでしまったほどである。アンコールのバッハ(無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番のラルゴ)もかなり神がかっていて、ハーンが曲の最後の音を弾き終わっても誰も拍手ができないぐらいだった。聴いていて息が苦しくなるような演奏は久しぶりである。  他のプログラムも良い演

19世紀のブルジョワはシュトラウス2世で踊ったのか?

Let’s get physical(日曜日の朝から憂鬱な僕は人生の七分の一を損している)  こちらのエントリを読んで、「ウィンナワルツで踊る、という社交空間は実在したのだろうか」ということをふと思った。「ウィンナワルツの王」として知られるヨハン・シュトラウス2世の例をとって、少し考えてみたい。  シュトラウス2世の生きた時代は1825年~1899年。ベートーヴェンの晩年(彼は1827年没)には既にロマン派が始まっていた、とするならばシュトラウスは生涯をロマン派とともに過ごしたことになる(彼が時代が20世紀に突入する直前に亡くなったのはなんだか暗示的である)。  古典派とロマン派の時代で音楽家をとりまく環境は大きく変化する。まず、音楽家を経済的に支えていた基盤の部分。これが貴族(あるいは教会)から市民(ブルジョワ)へと変化する。ちょうどベートーヴェンはそういった変化の境目にいて、彼が若い頃は映画『アマデウス』に登場するモーツァルトのように見世物的/旅芸人的に貴族の耳を楽しませる「即興演奏家」として有名だったそうだが、後にブルジョワに組合を作らせて生活を補助してもらいブルジョワに作品を捧ぐという形で作曲を続ける商売をほとんど始めて確立した作曲家と言われているのは興味深い *1 。  音楽家の経済基盤が変化したことに伴い、音楽が演奏される空間にも変化が生じている。貴族によって支えられた音楽家の音楽は、あくまで貴族による私的な空間(貴族の館であったり、お城であったり)だったのに対して、市民社会成立後の音楽家の音楽はもっとオープンな公共空間にて奏されることとなる――その公共空間というのがコンサート・ホールというわけである *2 。  シュトラウス2世の音楽は、時代区分的に考えればコンサート・ホールで演奏されていたはずである。そうなればもう「ウィンナワルツで踊る」という図式は成立しない。あくまでシュトラウス2世の音楽は「ダンス・ミュージックの形式をとった芸術音楽」として演奏されており、ホントは踊りのための音楽じゃなかったんじゃなかろうか。  今、全く資料をみないでこのエントリを殴り書いているのですごく適当な思いつきを書いてるだけだけど、自分で書いてて「あれ?結構ホントっぽくない?」とか思う。ウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートの中継では、『美しき青きド

フィリップ・コーラン&ザ・アーティスティック・ヘリテージ・アンサンブル

On the Beach posted with amazlet on 08.03.15 Philip Cohran & the Artistic Heritage Ensemble Katalyst Ent. (2007/11/20) 売り上げランキング: 165515 Amazon.co.jp で詳細を見る  サン・ラ・アーケストラの初期メンバーであったフィリップ・コーランが結成したザ・アーティスティック・ヘリテージ・アンサンブルがすごい。なにがすごいってその黒さが。彼らの音楽は「畸形的なカウント・ベイシー楽団」みたいな表現がぴったりきます。ビッグバンドがリフを何度も何度も繰り返すことによって音楽がどんどん回転していくんですが、リズムの訛り方がえらいことになっていて、それがかなり体幹にくるグルーヴを生み出しているような感じ。曲はかなりポップなんだけど、呪術的な雰囲気があって最高です。  67年の『On The Beach』は彼らが自主レーベル「Zulu」に残した唯一のアルバムだそう。後にマイルス・デイヴィスのバンドで大活躍するピート・コージーもバンドに参加しています。 The Malcolm X Memorial (A Tribute in Music) posted with amazlet on 08.03.15 Philip Cohran and the Artistic Heritage Ensemble Katalyst (2007/03/20) 売り上げランキング: 67216 Amazon.co.jp で詳細を見る  レーベル名からも推測がつくかと思われますが(ズールーとは南アフリカの95%を占める民族の名)、思想的にもかなり真っ黒。マルコムXへのトリビュート盤なんかも出しています(このジャケット、最高!)。あと女性ヴォーカルが「アフリカンの見た目は美しい」と高らかに歌う曲があったり、シカゴのスラム街のどまんなかに「アフリカン・アート・シアター」なる劇場を作ったり(これはキング牧師暗殺とともに閉鎖)と、フィリップ・コーランの活動には黒いエピソードも満載。  なんでも彼はカリンバ(親指ピアノ)をアメリカに初めて紹介したミュージシャンだそうで、このバンドでも彼は自作のエレクトリック・カリンバを弾いている。彼が「フランキフォン」と命名したこの