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クリント・イーストウッド監督作品『許されざる者』




許されざる者
許されざる者
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 今年の正月に一晩延々とイーストウッド関連作品を放送しているのを実家のテレビで観ていたのだが「DVDが安かった(HMVで1000円ぐらいだった)」という理由だけで再見。この後味の悪さこそ、イーストウッドの作家性なのではなかろうか……と思われるほどダークなラスト・シーンはどんよりとした気分にさせられるのだが、もはやこのどんより感に中毒気味なのかもしれない。


 下に書いたエントリの続きみたいになってしまうけれど、とにかくイーストウッドほど映画の中で論理性を欠いた強さを発揮できる役者はいないように思われる。「ブルース・リーは強い(リアル格闘家だから)」、「シュワルツェネッガーは強い(ムキムキだから)」、「セガールは強い(合気道使えるし)」……という具合に、映画のなかのヒーローの強さには少なからず観る者を納得させる理由がある。が、イーストウッドにはそういうものは存在していない。特にこの映画では、馬にも満足に乗れないかなりヨロヨロのオッサンを演じているから尚更である。


 にも関わらず、イーストウッドは強い。大体、至近距離で敵が拳銃をぶっ放しても一発も弾が当たらないし、取り囲んだ敵を瞬く間に撃ち殺しちゃったりする。ほとんどありえない、マンガのような強さである。でも、イーストウッドなので、観ている間にはそのありえなさに気がつかない。後になってからふと「いや、ちょっと強すぎるだろ……」と突っ込んでしまう。考えてみると、かなり不思議な俳優だなぁ、とか思う。


 この論理性の欠いた強さがすんなり納得されてしまう現象の要因に、イーストウッドの持つ威光ではなく、「拳銃」という暴力の象徴を考えてみてもいいかもしれない。それをコントロールする「凄腕のガンマン」という設定は、役者を一種の超法規的な存在へと祭り上げる……とかそういう。





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