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『メタリカ――真実の瞬間』




メタリカ 真実の瞬間
メタリカ 真実の瞬間
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パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン (2006/09/08)
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 メタリカのドキュメンタリをとても面白く観る。“メタル・オブ・ゴッド”の異名をロブ・ハルフォードと分け合っていることで有名な音楽評論家、伊藤政則も2回ぐらいカメラに映っているあたりもポイントが高いのだが、メタルという音楽のイメージとその実際との間にある深い溝を目にすることができる点が素晴らしい。『メタル稼業はつらいよ』という邦題がピンと来そうな内容である。


 おどろおどろしいイラストが描かれているような黒いTシャツに、長髪のダサい格好の男たちが激しいパフォーマンスをおこなう――こういうところから、メタル系のミュージシャンに与えられるイメージとは「男くささ」というか「マッチョイズム」と強いつながりを持っている(勝手な予測だけれど、南米で未だにメタルやハードロックが大きな人気を保っているというのも、アルゼンチンにおける“ガウチョ”のような男の理想像がメタル・ミュージシャンに投影されている結果ではないだろうか)。


 しかし、このドキュメンタリで映し出されるメタリカの姿は、リスナーから求められる“男臭さ”や“力強さ”とは真逆な方向に突っ走っている。ロックの殿堂入りを果たしたモンスター級のメタル・バンドのこの弱さとは、リスナーからの要求と無関係に存在しているものではないだろう。


 特にバンドのフロント・マンであるジェイムス・ヘットフィールドはひどい。不安から逃避するためにアルコールに逃げ、まんまとアル中になり、そして厚生施設へ入るため1年近くバンドを離れるところがこのドキュメンタリでも大きく取り上げられているのだが、他にもヴォイス・トレーニングをやってたりするところなんかも映されている。ステージの上では攻撃的な言葉を吐き出し続ける男が、テープにあわせてマジメに発声練習をしているところは思わず苦笑したくなってしまう。


 ただ私がこの映画を見ていて少し感動してしまったのは、彼らのそういう生真面目さにある。街で見かけたら思わず距離をとってしまいそうな厳しい風貌の男たちが、極めてストイックに音楽に打ち込んでいる、という裏表の様子の違いにはおかしみがあるけれど、そこで感動してしまうのは真夏の高校球児の姿に感動してしまうのと同じ理由だろう。「あれだけ速くギターを弾くには、相当練習してるんだろうなぁ」というのはよく考えたら分かる。しかし、彼らはその努力を表面上に見せない。このプロフェッショナリズムは、もっとずっと評価されて良いように思う。


 率直に今の気持ちを言ってしまうと「メタルが一番偉い!」ということである。「メタル?あんなの中2が聴く音楽だろ」と馬鹿にする輩は、レスポールでぶん殴られて頭蓋骨を割られても仕方がない(高校球児は好きだけど、メタルは嫌い、という論理は通用しないのである)。でも、イングヴェイはちょっと……っていうのは、OK(なんとなく)。


 他に興味深かった点は、過去にメタリカをクビになったデイヴ・ムステイン(メガデス)と、ジェイムス・ヘットフィールド以外のメタリカのメンバーが対面するシーンだった。ここで典型的なメタル/ハードロックの人っぽい髪型をしているムステインと、短髪で小ぎれいな格好をしたラーズ・ウトリッヒとセレブリティ風の格好のカーク・ハメットの対比が画面上に現れる。これに私は「メタリカはちゃんと時代に合わせたやり方をしているのだなぁ」ということを感じた。メタリカがロックの殿堂入りを果たせた理由もこういうところの上手さにあるんだろうな、とも思う。





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