阿部和重『アメリカの夜』

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アメリカの夜 (講談社文庫)
阿部 和重
講談社 (2001/01)
売り上げランキング: 93662


 愉快な気持ちになりたかったので、阿部和重を読んだ。前回読んだのは『グランド・フィナーレ*1』で、2冊目である。「処女作には、その作家のすべてが表れる」と言われているが、それを無言で頷かせるような良い作品だ、と思った――何が良いかって、全体が陳腐さの塊のような小説であるところなのだが。


 ミシェル・フーコーが『言葉と物』のなかでセルバンテスの『ドン・キホーテ』を取り上げて論じたようなテキストと主体との関係性、武道における「型」と「動作」との弁証法的な身体論、または作品と批評が入り組むような構造――この作品中で指摘できる事柄の多くが異常なまでにニューアカ的なものを感じさせる。このあたりから(既に下火になった感があるけれども、つい最近まで雑誌などで見受けられた)「80年代総括」が、1994年に発表されたこの作品において、完璧なまでに成し遂げられているようにも思われる。


 しかし、そこでは「80年代的なもの」が陳腐に/戯画化されるようにして描かれ(例えば、ニューアカ的なものも、ごく簡潔に伝えられることによってその矮小さ――『なんだ、こんなことかよ』というガッカリ感――が剥き出しになっているように思われる)るところには、否定的なまなざしが透けて見える。ただし、総括している現在地点を肯定的に見ているわけではない。はやくもここに「90年代的な鬱」が見え隠れしている……ということで、阿部和重という人はとても敏感な人なのかもしれないなぁ、などと思いながら読んだ。


 びっくりするほど空虚で何もない(そこが良いんだけど)。これもまた「時代の小説だなぁ」と思ったり。






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The Rutlesの不思議さ

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 id:mochilonくんがラトルズ――気合の入ったビートルズ・フリークであれば誰でも知っているであろう、モンティパイソン生まれのビートルズのパロディ・バンド――に触れていたので、私も取り上げることにする。ビートルズが好きすぎると、奥田民生(パフィーも含めて)とかXTCとかジェリーフィッシュとかジェフ・リン……etcがやっている「ビートルズのパロディの方がなんか好きになってくる」……というベンヤミンやボードリヤールもビックリな現象が起こりがちだが、そのなかでもラトルズは別格の誘発性を秘めているように思う。パロディがオリジナルを凌ぐ、というと言いすぎだが、オリジナルの下部にあるはずのパロディが、オリジナルと並んでしまうような魅力、というか。

 ラトルズの中心メンバーであったニール・イネス(ex. ボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンド)はインタビューでラトルズのアルバム製作過程について尋ねられ、こんなことを言っている*1



一番注意した点は、作曲している時にはビートルズのレコードを聴かないようにすることだった。ビートルズを聴いてしまうと、あまりのすごさに驚愕してしまって、自分の曲が書けなくなってしまうからね。言うなれば、ビートルズの音楽の記憶をたどるような形で作曲していた。



 ラトルズのオリジナルに隷属しないパロディとしての不思議な魅力とは、こういうところに秘密があったのかもしれないな、と思う。ニール・イネスが曲作りを行うときにたどる「ビートルズの音楽の記憶」とは、ビートルズについては「漠然としたイメージ」と言い換えられるだろう。そのイメージは、正確なものではないかもしれない。その曖昧な、記憶の隙間から、ニール・イネスという人の癖が染み出してくることが、ラトルズの魅力を形作っているのではないだろうか(逆に、正確なパロディを試みていたのは奥田民生やジェフ・リンだっただろう)。



四人もアイドル(紙ジャケ仕様)
ザ・ラトルズ
ミュージック・シーン (2007/01/25)
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Archaeology
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The Rutles
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 ラトルズには2枚の「オリジナル・アルバム」がある。ちょっと前だとすごく手に入りにくかったんだけれど(特に1枚目の『4人もアイドル』はすごいプレミアがついていた)、今は普通に買える様になっている。2枚目の『アーキオロジー』は、再発時にボートラが追加されていて「持っている人も欲しくなる」仕様。



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*1:『ストレンジ・デイズ』2000年5月号に掲載





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ハワード・ホークス『三つ数えろ』

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三つ数えろ
三つ数えろ
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ファーストトレーディング (2006/12/14)
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 「作品が完成したとき、製作者でさえもストーリーを理解できなかった……」と伝説的に語られる作品である。この映画を観るのは2回目か3回目で、初めて観たとき「わっかんねぇ……けど、ドライヴ感だけはすげぇ……」と思ったのが印象に強い(そういう感想が私の貧しい映画リテラシーを露呈している)。しかし、「この映画で進行する、絡みまくったストーリーの線を一本一本辿ることで、それが映画を理解したことになるのだろうか?」などとも思う――今回観てみて、『三つ数えろ』ってすごく音楽的な映画なんじゃないのか、と思ったので。


 といっても、これはミュージカル映画とはもちろん違う。たしかにマックス・スタイナー(リヒャルト・シュトラウスによって名付けられ、ブラームスにピアノを習い、マーラーから作曲を学んだ、という後期ロマン派の秘蔵子的な経歴を持つ映画音楽家であるらしい)が書いたスコアは実に洗練されていて、観るものの画面への注意力を何倍にも高めてくれ、音楽性も高いのだけれども、私が音楽的だな、と思う点はまた別である。


 やはりこの映画のストーリーの難解さ、というか、ストーリーの追えなさの部分が音楽的であると感じる。特に、フランツ・リストが書いた交響詩を思い起こさせるんだよな。交響詩という形式では、テキストが用意されているのだが、テキストは作品上に現れず、抽象的な「流れ/運動」として聴衆の耳に届く――『三つ数えろ』も「流れ/運動」で鑑賞できるもんな。


 いよいよ、グダグダな文章になってきたけれども、ラストのハンフリー・ボガードのまくし立てるようなセリフはカッコ良いよなぁ。





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エドガー・ヴァレーズ《ポエム・エレクトロニーク》

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 またすごい映像があがっているよ……。こちらはフランス生まれの作曲家、エドガー・ヴァレーズの電子音楽作品《ポエム・エレクトロニーク》。1958年のブリュッセル万国博覧会において、電子機器メーカーであるフィリップスのコーナー(設計はル・コルビジュエ!)で400台以上のスピーカーを使用して初演された作品である。万博で電子音楽……といえば、1970年の大阪万博においてもカールハインツ・シュトックハウゼンが作品を提供していたが、未来的志向が電子音楽に繋がっているのはあまりに安易のようにも思う――っていうか、よくやるなぁ……こんなの子どもが泣いちゃうよ……。YOSHIKIよりはマシかもしれないけど。



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 ヴァレーズ関連では《イオニザシオン》も。様々な打楽器によって演奏されるこの作品が展開する、非楽音的な音の集合はノイズ・ミュージックのはしりとか言われている。



Varèse: The Complete Works
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Kevin Deas Edgard Varese Riccardo Chailly ASKO Ensemble Jacques Zoon Royal Concertgebouw Orchestra François Kerdoncuff Mireille Delunsch Sarah Leonard
London (1998/09/15)
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 ヴァレーズに関しては、ザッパ絡みや、電子音楽、ノイズなどの方向から語られることが多く、オーケストラ作品などはいまいち注目されていないように思う。アメリカ移住以前の作品のほとんどが破棄・消失しているため、現存している作品の数は多くない(全集がCD2枚に収まる)。リッカルド・シャイーによる全集の出来が素晴らしく、ヨーロッパ時代の唯一の作品である《暗く深い眠り》は異教的な美しさが際立つ名曲である。





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アーネスト・ヘミングウェイ『海流のなかの島々』(下)

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海流のなかの島々 (下巻)
ヘミングウェイ 沼沢 洽治
新潮社 (2000/00)
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 上巻で描かれていた幸福の後に、主人公であるトマス・ハドソンの元に訪れる喪失はあまりにも悲しい。そのハドソンの幸福は、ページを捲るにつれて奪われていく。このあたたりの進行を読んでいると「ヘミングウェイという人は、《ロスト・ジェネレーション》の作家だったのだな」と思う。その失われ方は、フィッツジェラルドよりシンプルだが深刻だ。思えば、『海流のなかの島々』だけでなく、『武器よさらば』でも『日はまた昇る』でも『老人と海』でもヘミグウェイは、同じテーマで物語をつづっていたのかもしれない――そう考えると、私はこの作家について大きな勘違いをしてきたように思えてくる。ヘミングウェイは決して「マッチョな作家」ではなかったのだろう。むしろ、その贅肉のない、研ぎ澄まされた筋肉質な文体の裏側にある、鍛えることのできないナイーヴさこそがヘミングウェイの描く小説で共感を呼び起こす部分である。


 ええと、今泥酔中なので、適当な感想しか書けないんだけど、すごく魅力的なでありながら後半はかなり荒削り。たぶん、ちゃんと完成までもっていけたならこれは全三巻ぐらいのヴォリュームにならざるをえなかったろう、という重さである。この状態で死後に出版されたのは、残念な感じもする。





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カラヤンの信頼性とアルバン・ベルク弦楽四重奏団

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 カラヤン/ベルリン・フィルが発表した録音は「どの演奏を聴くか迷ったら、とりあえず一枚目にカラヤン/ベルリン・フィル盤を買っておけ」と言われるほどの絶対的な信頼性を持っていた(カラヤンが亡くなってから20年近く経っているけれど、そういう評価のされ方は未だに残っている、と思う)。


 このようなことを言うとアンチ・カラヤン派の方がお怒りになるかもしれない。が、私は「とりあえずカラヤン」という選択も間違っていないように思う。何故なら、カラヤンの残した録音には、退屈なものが(結構たくさん)あるけれど、美しくない演奏は一枚もないからだ。クラシック・ファンのなかには「強烈なアンチ・カラヤン」派と「指揮者と言えばカラヤンぐらいしかし知らない」派がいるけれど、「熱烈なカラヤン信奉者」というのは少ない――にもかかわらず、カラヤンの演奏が信頼されているのには、彼の演奏の手堅い美しさが起因しているようにも思う。


 室内楽の分野では、アルバン・ベルク弦楽四重奏団が「カラヤン/ベルリン・フィル」のような信頼のされ方をしている。1970年に結成され、30年以上も「世界最高峰の弦楽四重奏団」のひとつとして活躍してきた彼らの演奏は、実に技術が高く、そしてどれも美しい――しかし、その美しさの種類はカラヤンとは間逆で「虚飾が全くないことによって構築された美しさ」である。こういう美しさは、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲において相性良く発揮されている。



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 そのなかでもこの《大フーガ》が、素晴らしい。1989年のこの映像は彼らの「黄金時代」を捉えている。


 ここで演奏しているヴィオラ奏者のトーマス・カクシュカが一昨年亡くなってから、その後に彼の弟子であったイザベル・カリシウスという女性が加入。そしてつい先日、彼らは2008年に解散することを突然に発表した。解散の理由は明らかにされていないのだが、大変残念なことである。


 こういう風に「解散」というのも珍しいようにも思う。オリジナルのメンバーがひとりしか残っていないのに、ボロディン弦楽四重奏団は活動を続けているし、オリジナルメンバーが誰も残っていない弦楽四重奏団も結構あるはずだ。しかし、解散によって「アルバン・ベルク弦楽四重奏団」というブランドは、封印されてしまう。解散の理由には「かつてのような水準の演奏ができなくなった」というものが考えられるけれど、もしそうだとすれば、このブランドの名前がそれだけ特別だったんだろうな、という風にも思う。



ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番
アルバン・ベルク四重奏団 ベートーヴェン
EMIミュージック・ジャパン (2006/09/20)
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私家版世界十大20世紀音楽

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はてなダイアリー


2007-10-23 - In the furthest place from divinity


 ryotoさんは「バトンを思い出した」とおっしゃっていましたが、やっていることはまったく同じ。しかし、バトン制度が「人から頼まれる」という性格上「俺は好きでこんな自分語りをしているんじゃないんだよ(嫌々やってんだぜ)」的言い逃れを可能にしていたのに対して、今回は皆自発的に行われている(一部を除いて)。もしかしたらこれはブログにおける「自分語りウザイ(あまりするべきではない)」という傾向が一周して、肯定的に評価されるようになったことのあらわれなのかもしれない。それでもやはり「自分語りウザイ」という人はいるけれども、でもそんなの関係ないので、idiotapeさんにはブログを続けてほしいと思います。話は少しズレるけれども「2万字インタビュー受けたい欲」みたいな欲求(ねじれた自己顕示欲?わからないけれど)を持っている人は結構いると思う。


 で、私も音楽で、10曲、それもひどく共感を呼び起こさないであろう「20世紀の音楽」に絞って選んでみる(ちなみにidiotapeさんの『表』と『表』から90年代のモノを抜いたものがほとんど私にとっての十大ロック、っつーかプログレ/メタルである)。



アントン・ヴェーベルン 《弦楽四重奏のための6つのバガテル》


イゴール・ストラヴィンスキー バレエ音楽《春の祭典》


ベラ・バルトーク 弦楽四重奏曲第4番


パウル・ヒンデミット 交響曲《画家マチス》


ドミトリ・ショスタコーヴィチ 交響曲第8番


オリヴィエ・メシアン 《トゥーランガリラ交響曲》


カールハインツ・シュトックハウゼン 《少年の歌》


モートン・フェルドマン 《コプトの光》


レナード・バーンスタイン 《シンフォニック・ダンス》


ピエール・ブーレーズ 《二重の影の対話》



 選んでみてから気がついたけれども、演奏したことのあるもの/生で聴いたもの/学生時代にチャリ漕ぎながら毎日聴いていたものを選んでいる。かなりパーソナルなものなので、あまり参考にならない、と思うのだけれども、ほかの人も結構音楽に限ってはパーソナルな選び方をしているような気がするのでまぁ、良いか、とも思う。しかし、何故、小説では「世界的な物差しをまじえながら」選ぼうとするのに、音楽になると極端に個人史的に重要なものを選ぶ傾向にあるのだろうか。


 前に書き忘れていたけれど、本を薦められたり、紹介されたりすると「あ!読まなきゃ」と思う。本を読むことは義務ではないにもかかわらず、ごく自然にどこからか「読まなきゃいけない」という義務感が生じる。少なくとも私はそういうことを「私家版世界十大小説」から感じた(セルバンテス読まなきゃな……とか)。でも、音楽ではそうは思わない。「へー、ジザメリかぁ」という単純な感想で終わってしまう。この違いってなんだろうなぁ。





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アーネスト・ヘミングウェイ『海流のなかの島々』(上)

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海流のなかの島々 上 (1) (新潮文庫 ヘ 2-8)
アーネスト・ヘミングウェイ 沼澤洽治
新潮社 (2000/00)
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 ヘミングウェイの作品を読むのは久しぶりだ――以前に文庫の『武器よさらば』(大久保康雄訳)を読み終えた次の週ぐらいに新訳(高見浩訳)が文庫化されて、なんだか悔しいような損したような気分になったので「これは新訳に入れ替わる時期なのかもしれない」と買い控えていたのである。『海流のなかの島々』の沼澤洽治による邦訳が発表されたのは1977年、ちょうど30年前なので、新しいものとはとても言えない。しかし、本屋でパラパラとめくっていて「ああ、これは大丈夫だ(少なくとも私には)」と思ったので読み始めたら、これがすごかった。まだ、上巻しか読み終えていないのだが、上巻だけとっても「なぜ、このような作品をヘミングウェイは生前に発表しなかったのだろうか」と強く疑問に思うほど傑作。小説を読んでいて、そこに描かれている人物や物事に共感したり、憧れたりという読み方を特にしないのだけれども、ヘミングウェイの作品にだけは心底共感したり、憧れたりする。特に、この小説の主人公の画家、トム・ハドソンのビミニ島における生活には強く心が惹かれてしまう。


 若いころにはさんざん悪さをしてきたハドソンだが、2度の離婚を経験して落ち着いてからは、穏やかなカリブ海の小さな島で、自分の定めた規律に従いながらひたすら仕事に打ち込んでいる。その生活は、穏やかな修道生活、と言ってもよい――といってもハドソンの生活には身を捧げるべき神は存在しない。すべては自らの定める規律、それまでの人生によって培われてきた本能的な戒律によって生活をしている。自分の考えが及ばない、答えがでないものについて、ハドソンは悩まない(そのようなことを考えようとした瞬間に、自分から思考をシャットアウトする)。これを幸福といわないでなんと言えばいいのか、と私は思う。自分が今やれることだけをおこなう、周囲には気の置けない愉快な島の住人がいて、良い絵が描ける、酒もうまいし、気候も良い、島の外ではいろいろあるらしいけどそんなの関係ないな――というような超然とした生活は私の理想の生活のひとつである。ヘミングウェイのほかの作品では、かつて花形闘牛士として人気を博した落ち目の闘牛士や、アホな少年が闘牛士ごっこをしている間に死んじゃう、みたいな話にグッと来てしまうんだけれども。


 自律的な幸福を謳歌しているハドソンのもとに、前々妻、前妻の間に生まれた3人の息子たちが夏休みで遊びに来る。上巻はハドソンと3人の息子との交流が主に描かれているのだが、そこでの幸福具合は全開でひたすら心温まるものである。「(ひどく暴力的に要約して)父と子の交流モノ」の短編を多く発表しているヘミングウェイだが、それらが束になっても適わない父と息子たちとの幸福な時間が描かれている。特に、息子たちと船にのって釣りに出かけるシーンなどはホントにすごい。「小説の世界観に読者をを引き込む筆致」……などと言うけれど、ヘミングウェイほどそういうテクニックに長けていた人はいなかった、さすがノーベル賞をもらっているだけあって、立派な作家だなぁ、と彼の作品に触れるたびに思うのだが、その筆力がその釣りのシーンに現れているように思う。


 ただ、その多幸感が過剰であるあまり「ああ、きっと別な方向に物語は転がっていくのだろうな」という不吉な予感がする(そして、それは的中する)。これから小説がどうなるか、私自身とても楽しみなのだけれど、あまりに面白かったので、思わず上巻読了時点で感想を書いてみた次第。あと、上巻は島の住人の無垢さ(なんというか、近代化されていない人々の姿)が実に良くてそこだけでも面白い。





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「私家版世界十大小説」を眺めて

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 夜が明けたら資格試験なんですが*1眠れないので「私家版世界十大小説」について書いておく。id:idiotapeさんも書いておられましたが、ホントにこういうの古式ゆかしい感じがしますよね。悪意のないネット上での盛り上がり、というのも珍しいような気さえする今日この頃ですから(バトン・ブーム以来じゃないの?)。まぁ、こういうのも「クネクネ」とか言って気持ち悪がる人もいるのかもしれない。


 「私家版」を選んだ他の方々のものを読んでいて「ああ、『トリストラムシャンディ』は面白いよなぁ……面白すぎて何だかよくわかんないから選べないけど」とか「フエンテスの名前は結構出てこないなぁ」とか「意外にピンチョン人気ないな……バースもクーヴァーもバーセルミも出てこないし……やっぱポストモダンはダメなのか!?」とか「中上が出てこないのは、ローカルだからかなぁ」とか思ったんですが、一番強く感じるのは「まだ読んでいない面白い小説ってたくさんあるって素晴らしいなぁ」ということ。


 セルバンテスも、ディドロの『運命論者ジャックとその主人』も(スターンとディドロの小説は、ニクラス・ルーマンが『社会の芸術』でとりあげていて知った)読んでないし、中国なんか「暗黒大陸」同然だし、あとアフリカの作家も禍々しいほどに魔術っぽくてすごいらしーんだよなぁ……とか考えてると余計に眠れなくなりました。興奮してしまう。


 先日、会社の人と飲んでて「若いって良いよねぇ!まだ飲んだことない酒だってたくさんあるんでしょ!生きてて楽しいよね!!」と言われたんだけれども、読んだことがない本がある、っていうのもそれと同じだなぁ、とか思う。


 あと、これまでに読んだ本について再び考えを巡らす機会になったのも良かったです。「サリンジャーってまだ生きてるのかなぁ」とか随分久しぶりに考えました。




*1:寝坊して大変なことになりました





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ホセ・エルナンデス・オクムラ《1986年7月13日のバラデロ海岸》

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f:id:Geheimagent:20050322122516j:image:h100:rightキューバの作曲家、ホセ・エルナンデス・オクムラは、ブラジル国内において軍事独裁政権が樹立し国を負われた日系人の左翼活動家の両親の元に生まれている。1992年に来日を果たしたときの音楽批評誌『ポリフォーン』誌には、彼のインタビューが掲載されている。



現在でも状況は変わらないのですが、キューバにおいて日系人という存在はとても珍しく思われていました。近所に住んでいる同じ年代の友達と遊んでいても、私はいつも彼らと私との肌の色の違いを不思議に思っていました。きっと、彼らもそのように考えていたでしょう。


また、キューバでは通常、スペイン語が話されていますが、私の両親はポルトガル語しか話せませんでした。私の両親が所属していた亡命者のコミュニティでは、両親と同じくブラジルから亡命してきた人もいたので父と母は特別不便な思いはしなかったようです。しかし、私は違いました。同じポルトガル語を話しているけれど、私の家族と他のポルトガル語を話す人の外見は全く違いますからね(笑)


ですから、私にとってアイデンティティというのは非常に重要な問題だったのです。テレビでアジア、特に日本の人たちの姿が映るたびに私は安心しました。「ああ、私と同じような人が外国にいるのだ」と。



 複雑な出生から自らのアイデンティティを問い続けることとなった少年時代のオクムラはふさぎがちな子どもだったという。「学校が休みの日は自分の部屋で一日中ラジオを聴いて過ごしたのです。そうすれば、誰の肌も気にせずにすみますからね」と彼は述懐する。少年時代のオクムラにとって、ラジオだけが寡黙で親密な友人だったのである――しかし、そのラジオがアメリカの短波放送を受信できる日本製のトランジスタ・ラジオだったことがその後の彼の運命を決定付けたのかもしれない。そのラジオから聴こえてきたジョン・ケージの作品が、彼を現代音楽の世界に導いたのだから。



まず、私はプリペアド・ピアノの音色に惹かれました。あれはとても、なんというか“奇妙な音色”がしますでしょう?最初、私はそれがなんの音か分かりませんでした。奇妙な音の正体を知ることができたのは、音楽大学に入ってからのことです――私はそこでひどい劣等生だったのですが、当時のキューバの音楽教育は非常にレベルが高くニューヨークやパリやケルンで行われているような最前衛について詳しい先生たちが何人かいたのです。


ピアノの弦に、ゴムやネジを挟んであのような音色を作っていたことを知って、私はとても驚きました。そしてより一層、プリペアド・ピアノという楽器に愛着、というよりもむしろ共感を抱いたのです。ご存知の通り、ピアノという楽器は西洋の音楽において絶対的な位置を持っていた楽器です。それに異物を挟み込むという行為は、何か私の出生の複雑さに似たものを感じました。


私は今でも特殊な、変わった作曲家だと見なされることが多いのですが、おそらくプリペアド・ピアノとの出会いが深くそこに影響しているでしょう。私はそのときから自分の異質性を肯定するようになったのです。



 音楽大学を卒業後、キューバの観光用サーフィンショップで働きながら作曲活動を続け、1986年にキューバの新人作曲賞を受賞する。キューバの音楽界では極めて異例な、国外の最前衛への高い関心とやはり作品の異質性が高く評価されたようだ。受賞作である《1986年7月13日のバラデロ海岸》では、既にエレクトロニクスが使用されており、極端に変則的なチューニングが施されたギターによる作品である。












Download


 スペクトル楽派が音色をコンピューターで分析したのに対して、この作品ではバラデロ海岸に打ち付ける波のリズムが分析の対象となっている(このような試みは、むしろメシアンの鳥の鳴き声の採取に近い)。リバーブ/ディレイ処理がかけられ、増幅されたギターのフレットノイズは波の音を模したものだろうか。緊張と弛緩の反復が、独特なドローンを生んでいるところが素晴らしい。音の数は極めて抑制されており、演奏時間には大幅な差はあれどモートン・フェルドマンの作品を思い起こさせる。





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私家版世界十大小説

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 id:idiotapeさんが「是非皆さんも」とおっしゃるので、私も私家版十大小説を選んでみます。id:ryotoさんが紹介している篠田一士は私も今日初めて知って、たしかにバランスが取れている(といっても半分ぐらいしか読んだこと無いけど。あとは噂に聴いただけだ)。けれども、今となっては死んでる作家ばっかりじゃないか!と思った――まぁ、人が何を選ぼうが関係ないので私なりのリストを以下に掲載。



ピンチョン『重力の虹』


ガルシア=マルケス『百年の孤独』


セリーヌ『夜の果てへの旅』


ドストエフスキー『悪霊』


エリクソン『Xのアーチ』


ヘミングウェイ『敗れざる者』


夏目漱石『行人』


武田泰淳『富士』


ブレンターノ『ゴッケル物語』


奥崎謙三『ヤマザキ、天皇を撃て!』



 なんか散漫なものになってしまった(しかも、最後の一冊は小説ですらない。けど奥崎謙三って戦後の日本で最もフィクショナルな人物だと思うんだよね……世界級で)。ryotoさんとidiotapeさんが挙げているフォークナー、私は結構ダメです。ガチで攻められるとちょっとひいてしまうところがある……というか。次はid:ayakomiyamoto先生に十冊選んでいただきたいです。





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ガブリエル・ガルシア=マルケス『エレンディラ』

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エレンディラ (ちくま文庫)
ガブリエル ガルシア・マルケス 鼓直 木村栄一 G. ガルシア・マルケス
筑摩書房 (1988/12)
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 作家には短編向きの人と長編向きの人がいて、そのどちらにおいても類まれな才能を持っているタイプの作家というのはそんなに多くない。パッと思いつくのはヘミングウェイぐらいだろうか――これまで、ガルシア=マルケスの作品を幾つか読んでいて、そんな風に考えていて「この作家は、長くないと良さがでないのかなぁ(ピンチョンみたいに)」と思っていた。『百年の孤独』が飛びぬけて面白く、短編集『青い犬の目』や『予告された殺人の記憶』などは面白いけどそこまで……という感じだった。しかし、この『エレンディラ』という短編集を読んでから印象はガラリと変わってしまった。ガルシア=マルケスの短編、面白い!


 もともと私は神話性や幻想性といった小奇麗にまとまって評価される点においてガルシア=マルケスに惹かれていたわけではなく、むしろその逆で、描写から想像される汚さや人々の体臭のキツそうな感じに惹かれていたのであるが、『エレンディラ』に収録されている短編はどれもその「噎せ返るような汗臭さ」が濃厚であると思った。昔、大槻ケンヂがエッセイか何かでエミール・クストリッツァの『黒猫・白猫』という映画を「最近みた面白くなかった映画」に挙げていたんだけれども、大槻がつまらないと思ったポイントに「登場人物が全員、歯が汚い」というのを指摘していて、その「歯が汚い感じ」みたいなものを想像する。音楽を文章で表現するとき「グルーヴ感が……」とか言うけど、ガルシア=マルケスのこの短編集には「歯が汚い感」が力強く書かれている。たぶん、着てるシャツの襟の部分なんかベットリと茶色い変色しているに違いない。


 最初に収められた「大きな翼のある、ひどく年取った男」という作品からして最高だ。この作品は「ある日ベラーヨという男が海辺にいったら、なんか汚い格好をしたジジイがいて、なんか知んないけどそのジジイにデカイ羽がついていて……」みたいな奇妙な昔話みたいに始まるのだが、その後の物語の転がり方がホントに面白い――「この羽ついてるジジイ、何ものだろう」と思ったベラーヨは、近所に住んでる長老的ババアを呼んできて「これは天使に違いない!」とか言われちゃうところは、落語みたいである。あったよね、川で洗濯してたらヤカンが流れ着いて「これはなんだべ?」――「兜だ、兜」みたいな話。


 その後は実際に読んだほうが面白いと思うので、説明を省くけれども(面白いから全部書きたくなっちゃうので自粛)「ノーベル文学賞」という立派な賞をもらった作家がこんな最高に笑える話を書いて良いのか、などと思ってしまう。こんなに笑えて、しかも美しく、テンションが高い短編集は他に無い。予断だけれど、中原昌也の短編も同じぐらい面白いと思うので彼にもノーベル文学賞をあげれば良いと思った。





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今、NHKで放送しているギル・シャハムが……

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 今、私の部屋には轟音でギル・シャハムがバッハの無伴奏ヴァイオリン作品(何番かはわからない)を演奏しているのが流れている。NHKの音楽/芸術番組『芸術劇場』で、シャハムの演奏会の模様が放送されているのだ。シャハムといえば、先日、バルトークに関するエントリでお伝えしたように、現代のヴァイオリン奏者のなかで最も流麗で軽やかな演奏を聴かせてくれる演奏家のひとりなのであるが、今放送されているバッハは「ちょっとどうしたの?!」というぐらいに危うい。解釈以前の問題で、音程が取れていない。特に、重音や高い音への跳躍のときに腹の中でウゥゥッ!と悶えるような感覚が湧き上がってくるほどに危険な演奏を披露している――本当にどうしたんだろうか……?と心配になるぐらいにヤバい。「そもそものチューニングが狂ってるんじゃないか……演奏を始めてしまったからチューニングしなおせないのか?」と疑いたくなるような気持ちになっている。ちょっと、こんな演奏は録音では聴けないので興奮気味にブログを更新してみた。こういったはらはらとさせられるのも、音楽を聴く楽しみの一つなのかも知れないが――こんなにドキドキしているのは、2年前のフジロックでマイク・ラヴが歌っているのを見て以来だよ――ちょっとこれはすご過ぎる。本当にどうしたんだろう……。





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馬場靖雄『ルーマンの社会理論』

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ルーマンの社会理論
ルーマンの社会理論
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馬場 靖雄
勁草書房 (2001/06)
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 今回の再読(たぶん4回目)でようやくルーマンのホントの面白さが分かってきたような気がする。私は学生のときに社会学部にいて*1「ルーマン流行ってんのかー、読んでみるかー」と思ってニクラス・ルーマンの著作に触れ始めたんだけれど「流行ってるから、やってる人が多い」のではなくて「面白いから、流行ってたんだなぁ」と今更ながらに思ってしまう。


 社会学の分析などはもっともらしいものに見えて実は他者を自己側からしか描けない――「これこれこういう現象があるんだけれども、これって実はこういう原因/理由があるんじゃないか?」という分析は、結局のところ他者への共感によってで成立し得ない。上野千鶴子はそれを「もっともらしくて、楽しいインチキ」として肯定的に評価してるんだけれども(私もインチキ好きなので、その評価には賛同している)、ルーマンという人は「そういうのはインチキだよね。でも、そうでしか描けないんだよね」というところから始まっているようにも思った。超越的な視点によって描かれる分析などあり得ない。ルーマンもまた社会システム理論という一つの観点からしか社会を描けない。そこで、もっともらしい顔をしないで様々な語彙を用いながら(分析ではなく)記述に徹した、っつーのがルーマンだったんじゃなかろーか――などと書くとルーマニ屋の人に怒られるだろうか。


 あと、この本の著者は基本的に「すごく分かり易い、明確な言葉」で文章を書いているんだけれども、少し異常なぐらい註の文章が長くて、それが全部面白いのね。で、そのなかにちょこっとだけアドルノも登場するんだけど、そのアドルノ解釈がすごく鋭いの。「私、アドルノに関する本出してます」って言う人より、ずっと明晰で、アドルノの原理的な部分を突いてる文章を書いてしまっている。こういう人に読まれてるルーマンは、幸福だなぁ、と思ってしまいます(アドルノもこのレベルで語られなくちゃいけないんじゃねーの?)。いわゆる「二次文献」で、ここまで面白い本って無いよ!


 本の内容に何一つ触れてないけど、猛烈にオススメいたします。




*1:などと書くと昔のことみたいだけれど、まだ卒業して一年も経ってない





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なにかとはなにか#2

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 なにかとはなにか - 「石版!」では「『何か』は、何かを言っているようで、実際には何も言っていない」ということを確認した。そして「何か」が背負わなければならないリスクについても説明したつもりである。しかし、我々は「何か」を感じてしまう(そしてそれをついつい『何か』という言葉でその感覚を指示してしまう)という現象に出会う――今回はどうしてそのように「何か」を感じてしまうのか、そしてどうして「何か」で表現してしまうのか、ついて考えてみたい。


 まず、ひとつめの問題に設定した「どうしてそのように『何か』を感じてしまうのか」について。このような感覚の発生は、異なりが契機となっていることを指摘できるのではあるまいか。ゆえに、その「何か」はもともと存在していたものではない。都会で生活していた人が、東北の温泉地に旅行へ出かける。旅行者は、そこで行われている生活が、自分の送っている生活とは異なっていることを認識する。そこで彼は初めて「私が送っている生活には『何か』が失われている」という感覚を抱くのである。つまり、「何か」とはそのような都会-田舎、あるいは現在-過去……という異なりのなかから遡行的にしか見出されない―― 生涯を都会で暮らしている人はそもそも「何か」を失っている感覚を抱かない。また、逆に言えば、田舎に住む人たちが「大切な何かをオラは持ってんだ」と思いながら生活をしているわけではない。「何か」とは都会と田舎を比較したときの、差分を埋め合わせるような意味合いで発生する。


 このように考えると「何か」とは、ヴァルター・ベンヤミンが使用する「アウラ」やテオドール・アドルノが使用する「浮動的なもの」といった言葉と似通った意味で使用されていることがわかる。ベンヤミンが「現代の複製・大量生産時代おける芸術作品からはアウラが消失している」というとき、その比較対象となっている「過去の芸術作品」が元からアウラを持っていた、というような意味を示してはいない。また同じように、アドルノが「直接的に言葉で何かを表現するとき、そこからは『浮動的なもの』が失われている」というとき、言葉で表現される以前の対象が浮動的なものを持っていた、というような意味を示していない。浮動的なものとは、言葉に置き換えたときに初めて「既に失われたもの」として見出しうるものである。そして、それは「何か」と同様、具体的なものを指示した言葉ではない。


 ここで冒頭で示したふたつめの問題「どうして『何か』で表現してしまうのか」に入っていきたい――また、この問いは、アドルノがどうして何も指示していない言葉である「浮動的なもの」という言葉(マジックワード)を使用しなくてはならなかったのか、と問題を共有しているように思われる。しかし、まずは「何か」について見ていこう。


 手始めに、都会と田舎を比較したときに見出される「何か」に該当しそうなものを幾つか想像してみると良いかもしれない――すると「美味しい空気」、「温かい人間性」、「豊かな自然」……etcというようなリストができあがるだろう。書き手は、何も示さない言葉である「何か」を読み手に提示することによって、以上のような意味を汲み取ってもらえることを期待している。書き手の側では、以上のようなことの総体を「何か」で捉えようとしているのである。おそらく、書き手の側で総体としての「何か」を、個々に分割することはある程度可能であろう――「田舎には、美味しい空気とか温かい人間性とか豊かな自然があって良いよね!」というように。しかし、そのように具体的に示した場合、常に書き手は書ききることの出来ない残余に出会うことがある。さきほど出した例に従うならば、「……etc」の部分は「美しい空気」、「温かい人間性」、「豊かな自然」という具体例に含まれていない。このような残余に書き手が出会ってしまうことが、書き手が「何か」で表現してしまう理由となっているように思われる。


 ここでアドルノに戻ってみよう。アドルノは「直接的に言葉で何かを表現するとき、そこからは『浮動的なもの』が失われている」というような主張を行っている。しかし、その「浮動的なもの」は具体的に何かを指示する言葉ではない。だが、どうしてアドルノはそのような何も意味しない言葉を使用したのだろうか ――ここまでくれば、おそらくその理由は明白であろう。それは、言葉で何かを表現したときに失われるものもまた直接的に表現することは不可能だったからだ。どのような工夫を凝らしても、書き手は残余に出会うことになる。むしろ、具体的なものをあげればあげるほど、書き手によって書かれる対象は「廃墟と化してしまう」と言ったほうが良いだろうか。ここから、無内容な言葉を持ってでしか指示することができないものが存在する、という逆説が生まれてくるように思われる。


 冒頭で示した2つの問題を追いながら、ここまでで「『何か』でしか表現できないものがある」ということを我々は確認できたように思う。そしてこれは前回で確認したこととは全く逆である。ふたつの正反対の「なにかとはなにか」を書いたところで、私個人の感想を書いておくと「やっぱり『何か』じゃ脱力しちゃうよな」というところである。似たような脱力感は「アドルノはさぁ!浮動的なものを大事にしてたんだよね!繊細だよね!!アドルノってさぁ!!!」とバカのように繰り返す幾つかのアドルノ解釈からも感じる。


 結局、またアドルノの話になってしまった……。





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ベラ・バルトークの協奏曲

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 このところ、音楽関係のブログを読んでいてバルトークの名前をよく目にする。何故かと言えば、現・総理大臣である福田康夫がバルトーク好きを公言しているからである。有名な人が(意外にも)自分と同じ対象に趣味を持っているといった事柄に、オタクとかマニアとか言う人が過剰に反応するのは、普段は日陰にいる自分にもスポットライトが当たったような気分になるからだろうか……などと考えてしまうのだが、私も便乗してYoutubeでバルトーク関連の動画を貼らせていただこうと思う。


 それにしても(第二の康夫ちゃんであるところの)福田総理がバルトーク好きで脚光を浴びているのに(やっぱり、バルトークが好き、と言えるぐらいだからバルトーク・ベッラとか発音すんのかな?)、日本共産党の委員長である志位和夫がショスタコーヴィチ好きであるのは黙殺されている。あまりにも、そのまま過ぎるからか?――しかし、共産党員でショスタコーヴィチが好きであると公言するというところには、共産党に所属するという複雑な何かがあるように思われるよ……。


 冒頭に配したのは、ピアノ協奏曲第3番の第1楽章から第2楽章の途中まで(アンドラーシュ・シフのピアノ独奏、サイモン・ラトル/バーミンガム市交響楽団)。この作品はバルトークの遺作のひとつ。冒頭部はフランク・ザッパが『Make a Jazz Noise Here』でカバーしていたので、耳馴染みがある方がいらっしゃるかも知れません。バルトークらしくないと言えばらしくない極めて軽快な曲調だけれども、主旋律の裏で動く対旋律の動きが面白い。



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 しかし、この作品で最も素晴らしいのはなんと言っても第2楽章のこの部分。第2楽章は冒頭から、複雑に声部が分割された弦楽器が繊細なテクスチュアを織り成しており、そのざわめきのような流れがピアノの独奏によって中断され、整理されて再び音楽が始まる――この瞬間の緊張感にドキッとさせられる。この第2楽章は間違いなく、20世紀に書かれたピアノ協奏曲のなかで最も美しい楽章に数えられる、と思う。これが終わると、パーカッシヴなピアノが喚く民俗舞踏的なバルトークに戻るので、激しいバルトークが好き、という方も安心。


ヴァイオリン協奏曲第2番


 こちらはギル・シャハムの独奏によるヴァイオリン協奏曲第2番(ミシェル・プラッソン指揮イタリア国立放送交響楽団。動画が埋め込み無効となっているため、リンクのみの紹介とする)。先ほどのシフによる解釈がやり過ぎて安っぽくなるほどロマン過剰な演奏だったのに対して、こちらの演奏は洒脱である。シャハムの音色もそのような印象に起因しているように思われるが、このようなバルトークも悪くない。勝手な想像だが、福田総理はこんなバルトーク嫌いだろう。





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なにかとはなにか

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 「現代人は昔の人が持っていた大切な何かを忘れてしまっているのかもしれない」、「田舎の生活には都会のそれとは違った充実した何かがある」、「俺たちはあの頃持っていた何かをどこかで無くしてきてしまったんだ……」――このような文章を、多くはその文章のしめくくりにおいて、我々は日常的に読んでいる、と思う。このようなしめくくりが読み手に対してどのような感想を与えるかには、3つのものがある。1つはそのしめくくりを受け入れる反応である。読み手はその結末部分に納得する。これを文章への承認と呼んでも良いだろう。おそらく、多くの読み手が「何か」によって文章を結論付ける文章に対して、承認を与えている。だから、このような書き方は色々なところで目にするようになったのだろう。


 2つ目の反応は承認の反対に位置した拒絶である。


 3つ目の反応は承認と拒絶のような単純な反対項でも、その中間でもない、微妙な反応である。その2つ目の反応を言葉に置き換えるとするならば「ここで言われている『何か』とは何であるのか?」というものになろう。前述したように、これは拒絶――「現代人は大切な何かを忘れてなどいない!」――とも承認 ――「そうだ、確かに現代人は大切な何かを忘れている!」――とも異なったものである。受け入れるのでもなく、反対するわけでもない、このような反応を困惑と呼んでも良いかもしれない。


 私もまた困惑する側の人間である。それまでうなづきつつ、読み進めていた文章が「何か」で終わるのを見る度に、激しい脱力感に襲われてしまう。それと同時に「『一種の』や『ある種の』といった言葉を使いたがる人がいるが、それは何も言っていないのと一緒だ」というニクラス・ルーマンの言葉を思い出す(ちなみにこれは正確な引用ではない。大意として)。ルーマンの言葉を噛み砕けば、「一種の○○」、「ある種の○○」というぼやけた表現は具体的に何を指し示しているのか、そのような伝わらない文章は何か言っているようで何も言っていないのだ、という批判になるだろう。あるいは、そこで行われている「他者を考慮していないコミュニケーションの試み」に批判の矛先が向かっている。


 しかし、正直に言ってしまえば私も、「一種の」とか「ある種の」とか「何か」といった表現はとても便利な言葉である、と思っている――何故、何かは便利なのか。その理由はルーマンの批判の論理と間逆なものとなるだろう。「何か」は実際には何も言っていないのにも関わらず、何かを言っている気がしてしまうからである。そして、それは実際には何も言っていないにも関わらず、「何か」は伝わってしまう(承認されてしまう)のだ。「現代人は……」という結論部分に出会った読み手は「たしかに、江戸時代の長屋暮らしには温かみとか助け合いの精神とかがあったよねー」などと、それまでの文脈から書き手が伝えようとする意味を想像することができる。また、拒絶の場合でも承認の場合とも同じ伝わり方をしている――「いや、現代人は温かみなど失っていない!」という受け入れがたいものが伝わっているからこそ可能になるのだ。

 困惑するものが抱く「『何か』とは何か?」という書き手に向けられた問いは、「私にはその『何か』が伝わらなかった」という疎外感から生まれているようにも思う。困惑とは「何か」かによるコミュニケーションが徹底的に失敗した事例なのである*1。しかし、このような失敗は書き手にとってさほど危険なものではないだろう。書き手にとって本当に危険なのは、「想定されていない他者によって承認されること」なのだろう。「江戸時代って良いよね!ムカムカしてたらその辺にいる商人とか日本刀で惨殺してもOKなんだもんね!」とか「田舎って本当に充実してるよなー。近所で子どもをブッ殺したりする主婦が住んでるんだぜ!近所に殺人犯がいるなんて最高だよ!!」――極端な喩えだが、「何か」はこのように伝わり得るものなのだ。


 このような想定していなかった他者からの承認を受けたとき、書き手は困惑してしまうだろう。しかし、それはそのように「何か」を受け取った他者が悪いのではなく、そのような他者を考慮していなかった書き手に責任があるように思う――正確な言葉でもって文章を綴ろうと考える書き手であっても、そのような困惑に出会う可能性に常に付きまとわれている(あらゆる理解は誤解である。あらゆるコミュニケーションは自己言及である、といった過剰に有名な言葉を思い出されたい)。だからこそ、正確な言葉はより必要とされるのだろう――正確な言葉は予め、そのようなリスクを軽減する機能を持っているように思われる。逆に「何か」とはリスク増やすものとして考えられるだろう。自ら増やしたリスクによって、困惑する書き手には読み手を非難する権限はないのかもしれない。


 ――と以上のようなことを会社で考えていたのだが、「『何か』でしか伝えられないものがあるのでは?そもそも『何か』ってホントになんなの?」と帰り道で考えたので、このエントリ続くかも。




*1:しかし、突き詰めればこれも「『何か』が伝わらなかった」という意味を伝達している





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The Power Of Salad And Milkshakes

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 アメリカのハードコア・デュオ、ライトニング・ボルトのツアーDVDからの映像。元々の音がデカ過ぎる/ひずみ過ぎているせいか、音から迫力が抜けてしまっているが素晴らしい。無窮動に激しくたたき続けるドラムと、音の原型を留めないほど加工されたベースによる高速のリフレインが脊髄レベルで興奮を伝える。


 テクニカルだが音楽の構造は驚くほどシンプルである。ストイシズムさえ感じるこの突き抜けたシンプルさが突き抜けて、音の暴力的な洪水にまで達している――ライトニング・ボルトを聴いているとそういう印象を受ける。


 ストイシズムと暴力性は必ずしも反対項の関係にあるとは言えないが、こういう二極性がひとつのラインで繋がっているところはいかにもアメリカ的だ。体育会系……というか。キリヒトもあふりらんぽもRUINSも、同じデュオという形態をとっているけれど全く別種のモノにも思える。





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時間旅行楽団

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時間旅行楽団は有志によって大学の壁を越え結成され、2005年に山口情報芸術センター(YCAM)でデビューを果たした若手楽団です。音楽表現が多様化している現代においては、絶対的な”アーティスト” ”音楽”という存在・概念が揺らいでいます。私たちは、そのような現代における新たな音楽の可能性を模索しています。

 私たちは、定められた規則に従い演奏者がその場で判断を下し、自らの身体を使って音を生成していく音楽を提案してきました。これらは、従来の”作曲”のように1人の作曲者が譜面や楽器と向き合い音を構成していくのではなく、複数人により様々な作曲のアイデアを出し合い、コラボレーションしていくことで生み出されています。私たちの作品には、数列に単純に音を当てはめていくだけではなく、音を生み出すための行為としての、身体の動きも同時に付随しているという特徴があります。それは、ダンス等のように身体を動かす事自体が目的ではなく、あくまでも音楽のための時間的な流れを生み出す手段の一つであり、機械的な洗練されたシンプルな動きとして存在します。さらに、その演奏には特殊な音楽テクニックを一切必要としません。実際、メンバーには特別な音楽教育を受けていない者も含まれています。しかし、誰でも実践できる単純で機械的な動きだからこそ、そこには人間らしさが露呈します。ネットワークテクノロジーの爆発的な一般への普及などにより、あらゆるものが画一化し、テクノロジーに操られているかのような社会が生み出されつつあります。そのなかで、私たちの試みは人間が「個」を失っていくという現在の状況に対しての問いかけになるとも考えています*1



 このグループには、以前からこのブログを(というか私のネット上にアップしている文章を)読んでくださっている方が参加している。映像は彼らによるパフォーマンス「回転少女」より。音楽のシステムの揺らぎから新しいものに若い人たちが取り組んでいるということは注目に値するように思う。こういうものは率先して取り上げていきたい。


 「回転少女」を観ていて脳裏に浮かんだものに、佐藤雅彦と、足立智美の作品がある。ひとつめのものは、ここで試みられているアルゴリズム性に関して。「アルゴリズム体操」を観たときの印象を誘発させられた。しかし、「回転少女」内でおこなわれているアルゴリズムは佐藤雅彦のものよりも複雑である。後者が、順次と反復しか使用していないのに対して、前者は順次・選択・反復という三つの要素を持っている。時間旅行楽団は構造化プログラミングの基本構造を押さえているのである。


 ふたつめのものは、演奏者が発する肉声がベルカントではないという点に関して。これは足立智美ロイヤル合唱団の作品を思い起こさせる。両者の間にある相違点をあげるなら、まずどちらも「ハモっていない」という点に共通項を見出せるし、足立智美がするような言葉の意味を発声することによって解体/構築する試みは時間旅行団においてはおこなわれていない。その代わり、意味を伴わない音声は、不気味なほど肉感的である(肉声!という感じがする)。


 こじつけも甚だしいのだが、以上のような感想を持った。しかし、このパフォーマンスを観察していると、そこでどのようなコードが書かれているのか想像することが出来る点が面白い。どのような過程で作品が生まれているか、それは想像に過ぎないのだが、ここで演奏者に与えられている動作の指示は記譜することが可能なもののように思える――そうすると非常に非西洋的で斬新なように見える試みが、西洋的な作曲概念上で行われているようにも考えられる。


 しかし、このパフォーマンスのアルゴリズムは組み替え可能であることも忘れてはならない重要な点であろう。映像を見ていると、演奏者が肩を叩かれるときになって回転を始める規則を見出せる。もちろん、他にもさまざまな指示がプログラムされているのだが、その指示の連なりによってパフォーマンスは進行し、この映像における「回転少女」は出来上がっている。


 だが、おそらくこの「回転少女」はひとつの形態に過ぎないのではないだろうか――と私は想像してしまう。「回転少女」プログラムは、初めに回転しはじめる人の人数を変えるだけで、全く別の「回転少女」になり得る(しかし、プログラムそのものに変更は加えられていない)。この可能性をもたらすアイデアが痺れるほど素晴らしい――プログラムは作曲者たちによって厳密に規定されている。しかし、その結果はあるときには作曲者たちにすら予測のつかないものとなる。これは「管理された偶然性」という言葉が最も相応しいものであるように思う。


 時間旅行楽団を前にすれば、ケージは天国でその無責任さを反省し、ブーレーズは自分の中途半端さを悔いることになるのではないだろうか。






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時間が消失する涅槃サウンド

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 渚音楽祭2日目。今日は「NUMB x SAIDRUM x 吉見征樹 x 井上憲司」を観る。2人のラップトップ(上に挙げた動画参照のこと)にタブラとシタールというすごい組み合わせのライヴアクトだったのだけれども、音が気持ち良すぎたせいで1時間ほどの時間を消し飛ばされたような感覚を味わう――キング・クリムゾンのスタンド能力かと思うほど、鮮やかに意識が飛んで行ってしまったのである。音に違法薬物が練りこんであるんじゃないか、タブラとシタールって。


 あと誰だか知らないけど、ディジュリドゥをブンブン言わせてるバンドがあって、私はそこで初めてこのアボリジニによって製作された原始的な管楽器の音を聴いたんだけれども「こんな楽器、ヤバすぎるから門外不出とかにしておけよ!」と言いたくなったよ。自然にトランス状態まで意識を持っていく、恐ろしい重低音。脳が揺れる。


 昨日と客層ががらりと変わって(っていうかギャル/ギャル男が3倍ぐらいになった)、ギャル男の格好を見ながらゲラゲラ笑っているうちにスティーヴ・ヒレッジが終わっちゃったんだけども、楽しいイベントでした。





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マーティン・ジェイ『アドルノ』

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アドルノ (岩波現代文庫 学術 178)
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 電車のなかで読み終える。文句を言いたい箇所はこちらのエントリで既に書いているのだけれども「え?結局アドルノって何が言いたかったの?」と激しくつっこみたくなる、驚くほどあっけない結びに肩透かしを食らった気分になった。もやもやしすぎ。





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7拍子の愉悦/ドラびでお

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 渚音楽祭の1日目に行ってきた。このイベントはチケットが安いので(2日券が4000円)会場内でダラダラしていても損した気分にならないことから、全然アーティストを観ないで酒飲んでダベったりしがちなのだが今日は観たい人たちがいたので、珍しく本気になって音楽を聴いてしまった。で、その本気で観たアーティスト/バンドが、山本精一のPARAと、ドラびでおのふたつ。



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PARA
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 PARAは山本精一のなかに眠るプログレの遺伝子が、21世紀のダンサブルな文脈のなかで爆発してしまったおそろしいバンドであった。7拍子のフレーズがミニマルに反復され徐々に発展していくのだが、カンタベリー・ミュージックを踊れるバージョンへと変異させるような音にメロメロになってしまう。


 「円を描く3拍子」+「上下に運動する4拍子」=「7拍子」――と考えると、7拍子も変拍子に聴こえないのだが、円と上下が高速で交互に来たときのギクシャクした動きは気持ちよい。音楽好きなら誰もが「ああ、こういうバンド/音楽があったら良いのにな」と妄想することがあると思うんだけれども、PARAは「私の妄想」が現実化されてしまった、ひとつの形でもある。こういうとき「ありがとう!山本精一!!」とか叫びたくなっちゃいますね。


 あと最後にやった曲は少しテンポが遅い曲だったんだけれども、これがもう動けなくなるぐらいホントに綺麗で良かったです。山本精一のギターにものすごいディレイがかかっていて、空間のなかに音が広がっていく感じが素晴らしい。ブライアン・イーノがプロデュースしたU2のアルバムのイントロだけがずーっとその場に残っているみたいな――そんなの嫌いなわけないじゃないですか……。「最後まで聴いてくれてありがとう」と山本精一がステージを去る際に言ってたけれど、こういう音楽なら一晩中演奏して欲しいぐらいだよ。



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 ドラびでおは圧巻の一言。笑い死ぬかと思うほど壮絶なパフォーマンスでした。天皇陛下の世界陸上開会宣言の映像で始まり、冒頭からボルテージが最高潮に達し、その後も女子十二尺棒やらガンダムやら亀田やら……使ってる映像が最低で最高。ザクザクにカットアップされた映像の黒さも予想以上で、安倍晋三の「美しい国発言」に様々なポルノ映像(全部男優が中年サラリーマン)が繋げられている曲(?)の突き刺さるようなパンク具合といったら、ファッション・パンクを一掃する熱さである。あと「マツケンがサンバでNew Orderの『Blue Monday』を歌う」とか「大山倍達が氷柱だのビール瓶だのを叩き割りながら『ジンギスカン』を歌う」とか、思い出しただけでも笑える。


 明日はスティーヴ・ヒレッジが観るのが楽しみです。





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ジョージ・マーティン関連映像集

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 ポール・マッカートニーがてがけた映画『007 死ぬのは奴らだ』のテーマ。3分間のロックンロール組曲。プロデュースはジョージ・マーティン。ちなみに、ジョージ・マーティンがビートルズ解散後にメンバーのソロ活動に加わったのはこれが初めての仕事だったそう。この怒涛の展開がスゴいよなぁ……ポールって天才なんだなぁ……と聴くたびに思う。



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 ジョージ・マーティンのプロデュースつながりでビリー・J・クレイマー&ダコタス。このバンド、ブライアン・エプスタインが「第二、第三のビートルズ」を狙ってデビューさせてるんだけど、ヒット曲が全部レノン=マッカートニー。それってそのままビートルズじゃんなぁ……(でも、超良い曲)。



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 こちらのフォアモストもジョージ・マーティンがプロデュース、レノン=マッカートニーが作曲、マネージャーがブライアン・エプスタイン。これもなかなか味わい深い曲だなぁ。



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 ジョージ・マーティンがらみではマーク・ノップラーと一緒にイギリスの子ども番組に出演している映像も面白かった。



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このアドルノは虚弱すぎるし、耽美すぎる

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アドルノ (岩波現代文庫 学術 178)
マーティン・ジェイ 木田 元 村岡 晋一
岩波書店 (2007/08)
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 まだ読み終えていないのだが、すぐに書いておかないと何かと忘れてしまいそうな、少し慌しい日常を送っているのでメモ書き程度にマーティン・ジェイの『アドルノ』について書いておく(仕事に時間をとられたり、肉じゃが作ったり、腕立て伏せしたり、やることがたくさんあるのだ)。


 まず、本の出来具合についてであるが、私がここまで読んできた(限られた数の)アドルノの思想を紹介する本のなかで最良のものであると言って良いと思う。アドルノだけでなく、アドルノと同時代のフランクフルト学派の思想家、あるいはその後の世代のフランクフルト学派についてまで広く細かいめくばりが効いている。また、アドルノが巻き起こした数々の論争(最も有名なものはカール・ポパーを相手にしたものか)についての記述が詳しく、これはとても勉強になった。アドルノに興味がおありで、実際にはまだ彼の著作に触れたことがないという人には「まずこの本から読まれよ」とオススメできる内容であると思う。


 しかし、だ。これはこの本に限らず、あまねく「アドルノ本」に関して言えることなのだが、いかんせん退屈な本であるというのが問題だ。アドルノの魅力を2倍にも3倍にも萎縮させてしまう。勉強になる反面、その丁寧な記述によってアドルノは実に「何言っているかわからないくせに、言っていることは結構平凡だなぁ」という2流の人として描かれてしまっているような気がする。ますます「たしかに『脱構築の先駆者』かもしれないけれど、今はデリダとかいるから、アドルノなんかいらないんじゃないの?」というのは至極真っ当な評価であろう。


 さらなる問題は「この本で描かれているアドルノは、弱すぎる」という点にある。これは細見和之も指摘しているところであるが、マーティン・ジェイは一貫して「(アウシュヴィッツによって)傷つけられた人」としてアドルノを描こうとしている(細見によるアドルノはこれ以上に耽美なのだが……)。ジェイによるアドルノは実に優しい。近代的理性によって失われた人間性を退行ではない別な方法で取り戻そうとしているし、いつか実現されるであろうユートピアを複雑に夢想しさせする。それもこれも「アウシュヴィッツという悲劇があったからだ。もしくはアドルノがユダヤ人だったからだ。それと、もしかしたらアドルノは芸術が大好きな人だったからかもしれない」というように分析してみせる。


 その一方でマーティン・ジェイはこんな風にも言っている。



アドルノは歴史と哲学との弁証法的な関係を強調したが、彼自身の思想はその壮年期を通じて意外なほど変わっていない。したがって、アドルノ学にはマルクス学やヘーゲル学、ルカーチ学、ベンヤミン学にとってほど重要な「初期-後期」問題なるものは存在しない



 これは的を射た指摘だろう。確かにアドルノの思想の根本的態度というのは意外なほど変化が無い。1931年、アドルノが28歳のときにおこなった講演『哲学のアクチュアリティー』(出版されたのは彼の死後)の根底に流れる彼の原理は、『否定的弁証法』(1966年)に至ってもほとんど変わっていない。しかし、だからこそ、この変わらなさがマーティン・ジェイの描くアドルノの「弱さ」を無効にしてしまっているように思うのだ――戦前/戦後を通じて、アドルノはアドルノだった(ストラヴィンスキーやラジオに対しての評価を幾分柔和にしていたとしても)。そうであるならば、アドルノを語るときにアウシュヴィッツを強調することはあまり意味がないのでは?と思ってしまう。「変わらなさ」を指摘できるのに、何故マーティン・ジェイはアウシュヴィッツを強調するのか、理解に苦しむところである。


 しかし、アドルノを深く読もうとするものほど、そういった「傷つけられた人」としてアドルノを描く病に陥りがちであるように思う(私もかつてそのような読み方をしていた)。誰もがアドルノを前にすると「アウシュヴィッツが……云々」とか言い出してしまう。そして、決まりきったように「アドルノを平易に語ることは、アドルノを裏切ることになるのではないか……云々」と言うのである。こういう方々は『異化された大作《荘厳ミサ》』から読み直した方が良い(それにしても、今日作った肉じゃがが旨い)。





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文化的焼畑農業の遠さについて

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やがて哀しき外国語 (講談社文庫)
村上春樹
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 ひいひい言いながら辞書を引いてアドルノを読んでいると肩が凝ってきて「ああ、もうダメだ。しんどい。英語なんてやってられっか!」という気分になってくる。ので、気分転換にどうでも良いような日本語を読むことにしている――こういうときにぴったりくるのが村上春樹のエッセイである。含蓄も教訓もなく、ただ自分のなかを通過していくような文章なのだけれど、不慣れな英語を読んでいるときに味わっている足場の不安定さみたいなものがなくて、ものすごく安心する。逆に言えば、この足場の安定感とは何なのだろうか、日本語が読める、ということは一体どういうことなのだろうか、とか考えてしまうのだけれども。


 ところでさきほどこんな文章に出会った。



でも「これはコレクト、これはインコレクト」という風に考えて暮らしている生活も、考えようによってはなかなか悪くないものである。とくに日本みたいな「何でもあり」という仁義なき流動社会から来ると、かえってほっとする部分もなきにしもあらずである。余計なことを考えずにとにかく細かい部分をコレクトに揃えておけば、それですんでしまうわけだから。



 ここで「なかなか悪くないもの」とされているのは、アメリカの大学に所属している人間の間では「コレクト(正しいもの)」とそうでないものがはっきりと分かれている、という生活である。そういうコレクトネスから外れていくとアメリカでは結構冷や飯を食わされるような思いをするそうだ。例えば、大学の先生などというインテリな職業に付く人はバドワイザーなんか飲んでちゃいけなくて、ギネスとかを飲まなきゃ変人扱いされるのだとか、音楽は知的なもの(クラシックとかジャズとか)を聴いているのが好ましいだとか。


 たしかにそういうのは日本だとないような気がする。「コレクトな人間の姿」みたいなモデルはあるにはあるけれど(浪人するのはせめて一浪までで、大学卒業したら就職してて、32歳ぐらいになったら結婚ぐらいしてる、みたいな)、別にそれを守らなくても文句は言われない。そういう寛容さは大学においても同じである。私の大学の先生も「子ども(未就学児)と一緒にブンブンサテライツを聴いて踊っている」というちょっと面白い方だったけれど、別にそれで文句など言われていなかった。


 しかし、「何でもあり」かというとそうではなく、それはこのエッセイの筆者も指摘しているように「何でもあり」なものが流動していく社会なのである。そこには、固定化されたコレクトなもの(インテリはバドワイザーのんじゃダメ的な)はない代わりに、時流にのって生きようとすればその時々に流行っているものに敏感に対応していかなくてはならない、というしんどさがある。どちらが良い悪いという訳じゃないけれど、忙しさで言えば断然後者の方が大きい。後者では「バドワイザーさえ飲まなきゃ良いからギネスを飲む」は通用しない。もしかしたら「ギネスなんか飲んでるヤツはもうダメだ。これからは同じ黒でもシメイだよ」と言われる日が来るかもしれないのだから、「時流にのる人」は不断のまなざしを時代に注いでおかなくてはならない。


 「もうギネスはダメだ。次はシメイだ」みたいな動きを、筆者は「文化的焼畑農業」と呼んでいる。今どこが新しい焼畑になっているのか、次に焼く畑はどこか、もしかしたら今いる畑はもう土地がダメになってるんじゃないか――「流行を追う/作る/乗る」っていうことには確かにそういう風に喩えられなくもない……と思うのだが、これは実体験に基づく感想ではなく、私はそういう流行に乗ってる人を傍目で見ながら「楽しいのかなぁ?いや、でも楽しそうだなぁ。良いなぁ」と感じていたタイプの人間なので、少なくともそういう風に見える、というだけの話である。


 思えば、全然流行に乗った、という記憶がない。気にしなかったわけではないんだけれども、「へー、今こんなのが騒がれてるんだぁ。今度買って/聴いて/食べてみるかぁ」みたいなことがホントにない。『STUDIO VOICE』をちょっと買って辞めた、っつーのも自分のそういう性格にあるんじゃないか、と思う。『STUDIO VOICE』的なものって今ホントに自分の遠くにあるような気がするもんなぁ(取り上げられているものに、自分が好きなものが載っている、という近さはあってもなんかすごく遠い感じがする)。



ちょっと気の早い話ではあると思うけれど、00年代カルチャーのまとめが始まってもいいと思う。というか今までに何があったのか気になる。でじこ様以降顕在化した「萌え」や「アキバ系」、それらが電車男によって爆発的に一般に認知されて…もう電車男が何年なのか把握できん。VIPまとめとかYouTubeとかニコニコ動画とかいつ頃だ。


そんなことは良いんだ。ゼロ年代洋ロック史が気掛かりなんだ。OasisもNirvanaもRadiohead登場しちゃいないじゃないか。The Strokesが頑張ると思ったらさほどでもない。Franz FerdinandやMaroon 5はNirvanaやRadioheadほど大きなセンセーションを巻き起こしたのか?最近洋ロックでそういうデカいのあった?ゼロ年代はそれで終わりに向かっているの?



 以上のようなことを漠然と考えていたら、mochilonくんのこのエントリを思い出して「こういうのは実はどうでも良いことなんじゃないかなぁ」とか思ったりした。流行とか、今自分がいる周りの風景を確認するのは、それはそれで大切なことかもしれないけれど、結局のところ「でも、そんなの関係ねぇ!俺はこれが好きなんだよ!!古かろうが新しかろうが俺はこれが好きなんだよ!!」という開き直りが、最も確かな足場になるんじゃないのかなぁ、と思う。





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情報化社会で求められるのは、インターネット自販機だと思います

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性差を超えたエンタメ人気 社会モラル崩壊の象徴?



メディアの変遷などに詳しい東海大学文学部広報メディア学科の時野谷浩(ときのや・ひろし)教授は「テレビの登場以前は社会のモラルが明確だった。男は男らしく、女は女らしかった。そのけじめを壊したのがテレビ文化。社会秩序を破壊している」と批判的に見ている。



 知人のmixi日記より。あまりにもバカな「社会学者」がいたので便乗して晒し上げ。ゲーム脳レベルのお粗末さ。こういう人にコメントを求めてしまった産経は本当に素晴らしい新聞社であると思う。


自動販売機が持つメディア性


 「自動販売機の業界紙」に掲載された時野谷浩大先生のインタビュー。「社会の様々な局面においてインターネット化が進んでいる。自動販売機もインターネット化されるべきである」というようなことを力説しています。このインタビュー、相当内容が濃いです。名言満載。



自販機も工業化社会では売るだけでしたが、情報化社会で求められるのは、インターネット自販機だと思います。




政治も経済も文化も情報革命なんです。だから、メディアとして自販機もインターネット化しなくてはならない。



 最高です。





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陳其綱

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 中国出身の作曲家、陳其綱(Chen Qigang)の作品の映像(一部)。映画に詳しくないからよくわからないのだけれど、『紅夢』というタイトルで公開された中国映画のバレエ版らしい。この作曲家は、フランスに留学してメシアンの元で学んでいたというだけあって(現在もフランス在住)、20世紀のフランス前衛音楽の語法を中国の文化的なもののなかで消化してみせる巧みな作風を持っているのだけれど、この作品もそういう印象を受ける。20世紀の前衛音楽の源流のひとつでもあるストラヴィンスキーの三大バレエを露骨に中国化してしまった、というか。



陳其鋼:五行 Wu Xing(the five Elements) (CCCD)
ヴィーシャ(ウー) ヨーヨー・マ 陳其鋼 タン(マーハイ) デュトワ(シャルル) ベネッティ(ディディエ) フランス国立管弦楽団
EMIミュージック・ジャパン (2003/02/19)
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 CDはこちらが発売されたとき、割と話題になった記憶がある。《ヴェールを取られたイリス》、《失われた時の反映》、《五行》という作品を収録しているのだが、こちらも露骨に「中国 meets メシアン」という感じ。特に《ヴェールを取られたイリス》では京劇風の女性歌手や中国の楽器を使用しており、それを支えるのがメシアン風の和音が展開される……という日本で言うと矢代秋雄と武満徹の試みを足して2で割ったような作品である。





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シュトックハウゼン・インタビュー

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 カールハインツ・シュトックハウゼンへのインタビュー映像。彼の有名な(バカ)作品である《ヘリコプター弦楽四重奏》の映像も紹介されており、話の内容がわからなくても楽しめます(私もあんまりわかんないけど、そこまで大したことを話していない感じがする……)。個人的にびっくりしたのは、最初のほうでシュトックハウゼンのこれまでの経歴を簡単に紹介している部分で流れている《光》(彼が77年から2005年まで書き続けた長大なオペラ。上演時間は29時間)の演出。このオペラの最後の部分の日本初演を観たことがあるのですが(演奏会形式で。舞台装置などは一切なし)、こんなにヤバいものだったとは……。『続・猿の惑星』にでてくるミュータントみたいな格好しているよ……。演奏者がヘッドフォンをしているのが見受けられますが、これでキュー出しとかテンポとったりとかしているらしいです。どうでも良いけど、最近のシュトックハウゼンの姿を見ると絶対同じ服を着ている。



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 シュトックハウゼン関連では、彼の電子音楽作品で最も有名な《コンタクテ》がYoutubeにありました。ただし、音源がモノラルになっているため、ピンク・フロイドがおそらくパクったであろう音の定位の激しい動きなどは味わうことが出来ません。





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ハービー・ハンコック『River』

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River: The Joni Letters
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 ハービー・ハンコックの新譜が発売されている。今回のアルバムの内容はジョニ・ミッチェルへのトリビュート(アルバムのタイトルになっているのもジョニ・ミッチェルの『Blue』に収録されている曲名)。ハービー・ハンコックとジョニ・ミッチェルはかつてお互いのアルバムに参加しあっていて交流があった間柄である。アルバムを捧げられたご本人も今回のアルバムに参加している。他のメンバーも豪華で、参加しているヴォーカリストはノラ・ジョーンズ、ティナ・ターナー、レナード・コーエンなど。それを支えるのが、ウェイン・ショーター、デイヴ・ホランド、ヴィニー・カリウタ、リオーネル・ルエケ(ベニン出身のギタリスト)というのだから興味を惹かないはずがない――のだが、あまり感心する内容ではなかったのが本当に残念だ。


 曲はもちろん素晴らしいし、アレンジや演奏の質も高い。しかし、この演奏には何度も聴き返したくなるような求心力みたいなものが欠けている。オリジナルのアルバムの方がずっと良い。非常に感覚的な話になってしまうけれども、ハービー・ハンコックの新譜が演奏されている場所は、今私が聴いている場所よりずっと遠くにあるような感じがする。コンサートホールに喩えるなら、私が座っている席から演奏者たちの姿は豆粒ほどの大きさでしか見えないようなそんな感じがする。当然、この音楽には「聴衆に寄り添うような親密さ」みたいなものを感じない――私は、ジャズって本来そういう「親密な音楽」なんじゃないかな、と思う(ビッグバンドが衰退してから、あまり大きな音量で演奏される音楽ではなくなったわけだし)。


 しかし、ハービー・ハンコックってこれまでにそういう親密な音楽をやる音楽家になったことがあっただろうか、とも思う。私が好きだったハービー・ハンコックのアルバムをいくつか思い返してみる――『処女航海』、『ヘッド・ハンターズ』、『ニューポートの追憶』……どれも素晴らしいけれど、『処女航海』は高級なジャズクラブで演奏されているような感じがするし、『ヘッド・ハンターズ』はもっと大きなコンサート・ホールで演奏されている感じがする、『ニューポートの追憶』は、ジャズがフェスティヴァルという祝祭空間のなかでロック的に消費されるようになった頃の記録である。やっぱり「親密さ」みたいなものに欠ける。暗くて、秘密めいていて、トイレがあまり綺麗じゃなさそうなジャズクラブで演奏された雰囲気はない。


 10代の頃から天才少年として注目を浴び、マイルス・デイヴィスのグループに迎えられ、最初からこれまで「最前線」のスタープレイヤーであり続けたハービー・ハンコックがそういう空気を持っていないのは、もしかしたら当然なのかもしれない――それにそういうのはハービー・ハンコックだけの問題ではないわけだし。もしかしたら、ジャズっていう音楽は60年代頃を最後に「親密であること」を辞めてしまったのかもしれないなぁ、とも思う。



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 そこにはジャズのモダンな前進とそれに伴う聴衆との関係性の変化みたいなものを感じる。具体的な例をあげるなら、ジャズ界においてもっともモダンな男であったマイルス・デイヴィスなんかは完全に「聴かれる音楽」だろう。彼の音楽にも親密さはない(特に60年代以降)。どちらかといえば、むしろ聴衆を突き放すような、圧倒するような力強さが存在する。実際それは「トニー・ウィリアムズヤバスwww」とか「ジョン・マクラフリン、自重www」言って楽しまれてきているわけだし。まぁ、それはそれですごく楽しいんだけれども、なんか違うんだよなぁ……と思ってセロニアス・モンクなんかを聴くわけです(彼は『ミントンズ・プレイハウス』というクラブの専属ピアニストだった)。日本だと渋谷毅とか。





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ラウンド・ミッドナイト

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 夜更かししていたらテンション高くなってきたので色んな「'Round Midnight」を集めてみます。まずはマイルス・デイヴィス。60年代の黄金クインテットの演奏なので、50年代のギル・エヴァンスによるエレガントなアレンジよりは抽象化されていますが演奏の質は最高。特にウェイン・ショーターが長いソロを取っている間に、トニー・ウィリアムスがそれに応答していくところがすごく良い。



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 バップも良いけどビッグバンドもね、ということでメイナード・ファーガソン。昨年亡くなったハイトーンを当てまくるトランペッター。バックのオケは全然スイングしないけれど、ファーガソンのソロが素晴らしすぎる。スタン・ケントン楽団の出身者ってホントに素晴らしい人が多いなぁ。



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 ウェス・モンゴメリー。ああ、この演奏、伴奏がオルガンなら良かったのに……けど良い演奏です。すごい良い温度を持ってるギタリストだよなぁ、と思う。いつまでだって聴いていられるような、そういう心地よさがある。



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 これもすごいなぁ。ジョン・パティトゥッチ、ランディ・ブレッカー、アルトゥーロ・サンドヴァル、トム・スコット、ゲイリー・バートン……みんなどっかで聴いたことがあるミュージシャンによるビッグバンド。アレンジはまぁアレだけれど……。



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 エルメート・パスコアール!!!これは途中でなんか全然違う曲になるけど、この人の芸風です。一人ネイキッド・シティ(ジョン・ゾーン)みたいになっているカットアップ感。さすが一日一作曲の人は違う……。



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 最後は作曲者本人による演奏。ここまで様々な「'Round Midnight」を聴いてきましたが、やっぱりセロニアス・モンクによる自作自演が一番変。他の演奏は「あ、モンクの曲か……」とすぐ分かるのに、モンクの本人が一番何が始まったのかよくわからない。「ジャズと自由は手をつないで行進する」って自由すぎます。



Thelonious Himself
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 Youtubeから引っ張ってた演奏なんか結構まだ分かりやすくて、『Thelonious Himself』というピアノソロのアルバムに収録されている演奏なんかもっとすごい。原曲の形が無いぐらい解体されちゃってて(自分で指定したはずのコードとは全然違うコードをあててる)、実は私が初めて買ったジャズのアルバムってこれなんだけど、未だに複雑な気持ちになります(これ、『'Round Midnight』なのか?と)。「ダマされた……これがジャズの名盤なんだ……」って思った15の夜。





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パーカッシヴなピアノ曲

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 散漫なエントリを連投しておりますが、続けます。パーカッシヴなピアノ曲で思いついた曲をYoutubeで探してみました。一曲目はジョン・ケージの《プリペアド・ピアノのためのバッカナール》。プリペアド・ピアノとは、ピアノの弦にゴムやネジなどを挟み込んで、音色が準備されている――というケージによる大発明ですが、この曲はその楽器を使用した作品のなかでも傑作に数えられるものでしょう。思いっきりガムランを模写してますが、かなりダンサブル。



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 続いてバルトークのピアノ・ソナタ第1番。演奏するのはゾルターン・コチシュ。うわー、すげぇ老けたなぁ、この人。同じハンガリー出身のアンドラーシュ・シフと芸風が被ってて、見分けつかなかったんだけど、これなら分かる。



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 続いてヒナステラ(アルゼンチンの作曲家)のピアノ・ソナタ第1番より第4楽章。「アルゼンチンのバルトーク」と呼ばれているだけあって、本家に迫る異常なリズム感。



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 そしてプロコフィエフ。演奏はエミール・ギレリス!リヒテルと肩を並べるソ連の代表的ピアニストですが、彼の持ち味もやはりバリバリと弾きまくる鋼鉄のピアニズム。曲も面白くて、華々しく始まるのに突如メランコリックなところにたどり着くところなどがプロコフィエフっぽくて良いです。この脈絡のなさが天才っぽい。


 適当に集めてみてから「どういうピアノが“パーカッシヴ”と呼ばれるのか」ということについて考えてみましたが、“パーカッシヴなピアノ”の多くは「音が密集した(つまり似たような倍音が集合して塊になっている)不協和音を強いタッチで弾いているもの」だと思いました。よく考えたらジャズのピアノなんか大体そんな感じな気もします。特にセロニアス・モンク。



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 66年のセロニアス・モンク・カルテット。チャーリー・ラウズ(サックス)と組んでいるときのモンクはなんか結構ユルくて好きです。でも、このサックスが「普通っぽい」から、ユルくてもすごく変に聴こえる――ああ、この映像、やばいなぁ、中盤のモンクのソロ……明らかにガンギマりじゃないか……。



At the Blackhawk
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