グレン・グールド《じゃあ、フーガが書きたいの?》

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 死後25年経った今も絶大な人気を誇るピアニスト、グレン・グールドが「将来的にはピアノも廃業して作曲家になりたい」と語っていたことはファンの間では有名なことかもしれない。しかし、結局彼が作曲家として名を馳せることはなく、現在実際に我々が聴くことが出来るのはファゴット・ソナタと、弦楽四重奏曲、それからこの《じゃあ、フーガが書きたいの?》の3曲のみだ(他にピアノ曲があるらしいが、録音が残されているかどうかは知らない)。


 《じゃあ、フーガが書きたいの?》は1963年にテレビの教育番組用にグールドが書き下ろしたものだが、「教育用」(グールドはこの作品を5分14秒のコマーシャルだ、と言った)と言えどもよく書けたものだと思う。曲中では弦楽四重奏によって、バッハやベートーヴェン、ワーグナーの引用が、原曲とは異なった表情で差し込まれる。その上で4人の歌手は歌う。



言われたことは気にしない/言われたことは守らない/言われたことはいっさい忘れて/本の理論もいっさい忘れて/だってフーガを書くのなら/勢い込んで書くしかない/規則を忘れて書くしかない/やってごらん、そう、フーガを書いてごらん



 そういいながらも楽曲は厳格なフーガに基づいて書かれている。「忘れるしかない」はずの規則がここではしっかり守られている。こういった矛盾こそがグールドらしい点ではある。グールドほどピアニストらしくないピアニストはいなかったわけだし。



Glenn Gould Edition: String Quartet, Op. 1

Glenn Gould Edition: String Quartet, Op. 1







 《じゃあ、フーガが…》はこちらのCDに収録されている。このアルバムには彼の弦楽四重奏曲や、彼の本来のレパートリーとは言えないショスタコーヴィチやプーランクの作品が入っている。珍しい音源が集まっている……といえば貴重な一枚なんだけど、特別良い演奏じゃないのでオススメしません。弦楽四重奏曲も「後期ベートーヴェンのスケッチを、ヒンデミットとリヒャルト・シュトラウスが喧嘩しながらいい加減にロマン派っぽく書き直した」みたいな感じ。35分という長大さだけが本格的にロマン派である。


 





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『紳士は金髪がお好き』(ハワード・ホークス監督作品)

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紳士は金髪がお好き [DVD] FRT-176

紳士は金髪がお好き [DVD] FRT-176







 マリリン・モンロー主演、ハワード・ホークス監督作品。また素晴らしい映画を観てしまった……。とにかく一言目に言っておきたいのはマリリン・モンローが超絶的に可愛い、っていうこと。「蛯原友里に似てないか、このマリリン・モンロー」と映画を観ながら思っていたのだが、たぶんそれは今朝観ていた『めざましテレビ』で、エビちゃんがすっげぇズレた感じで「もし自分が合コンに言ったら」っていう話をしていたのが脳内にフィードバックされていたからだ。

 今朝のエビちゃんはそれはそれはバカまるだしで、頭蓋骨に綿かスポンジでも詰まってるんじゃないか、と思うくらいだったのだが、この映画の多くの部分でマリリン・モンローはそういった白痴感満載の役を演じていて、その可愛らしさがとにかく最高。さらに、ズンと突き出たおっぱいとポッキリ折れそうな腰――まるでルビンの壷のごときスタイルで攻めてくるんだから、こちらとしてはもうお手上げである。たとえ「好きな作家ぁ?バタイユかなぁ?」とか飲み会で言っちゃっても、これはもう惚れるしかない*1

 ミュージカル映画としても秀逸で、アレンジも気が利いている。使われているものの多くは、当時円熟期に達していたであろうスウィング・ジャズ、ビッグ・バンドなのだがその音の豪華さは聴いていて無条件に楽しくなってしまう。また、映画の舞台がフランスに移った後のカフェでのシーンで歌われるフレンチ・ポップ風の楽曲は、映画上で流れている時間との絶妙な同期の仕方(ミュージカル的な『唐突さ』を感じさせない)も相まって痺れてしまう*2。あと全体的に、ミュージカルシーンでの「絵」の組み方がガチガチに構築されていてすごい迫力があって良い。



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 そういう構築の仕方があったからこそ、マドンナのPVに引用される理由ともなったのだろう、とか思う。構築と言えば、伏線の張り方もちゃんとしていて(観ていてすぐ『あぁ、こいつの正体はアレだな』と分かってしまうのだけれども、そういう分かりやすさも含めてちゃんとしている)、絶妙。以上、決してシネフィらない映画批評でした。ファック蓮實重彦!(嘘。ホントはシネフィルって何なのかよく知りません)


 




*1:どうでも良いけど飲み会で「好きな作家は?」って聞いちゃう男ってどうなの?本以外に趣味無いのか!って思う


*2:細かいところだとフランスでマリリン・モンローが歌うシーンでは間奏に《ラ・マルセイエーズ》の動機が用いられているところも上手い





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ヴォコーダーは愛を不能にする

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 私がよく読ませてもらっているブログで、ずいぶん前からPerfumeの名前を頻繁に目にする。「違う人、3人が同じことを言っていたらチェックすべし」を信条としているため、最近になって私もYoutubeで調べて聴いてみたのだが何曲か聴いて「ダメだ、これは俺には《愛せない》!」と思ってしまった。楽曲は耳に優しく、よく練られている。歌詞もまったく中身がなくてポピュラー・ソングとして最高の出来である。しかし、問題はヴォコーダーである。そこを突っ込んだら元も子も無いんじゃないの?と思われるかもしれない(ヴォコーダーによって変調されたヴォーカルの「未来っぽい演出」がウリのひとつなんだから)。しかし、このヴォコーダーこそがPerfumeがアイドルとして愛されるための必要なものを決定的に損なっているように思う。もっと単純に言ってしまうと、このエフェクトは、Perfumeから固有性を奪い取ってしまう。



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 “「愛する」という行為は、固有性(固有名)を愛することである”と立川健二は言っている*1。例えば、松田聖子には愛されるべき固有性がキチンと存在していた。歌い方ひとつとっても彼女の歌い方には、他の人にはない特徴が備わっている(歌が盛り上がる箇所で、言葉の後に鼻から抜けるような小さな『ン』を入れるクセを聴き取ることができる)。しかし、人は「そういった特徴があるから」彼女を愛していたわけではないだろう。顔であったり、髪型であったり、数々のスキャンダルであったり、そういったものが「松田聖子」という固有名のなかには含まれている。その固有名は何かにとって替えることができない。



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 「まねだ聖子の愛せなさ」は、その固有名の代替不可能性を証明している。たとえ、まねだ聖子がいかに松田聖子と同じような属性を持っていたとしても、松田聖子を愛するものが同じようにまねだ聖子を愛することはできない。どのような努力を払っても、まねだ聖子は松田聖子を愛するものにとって「松田聖子的な何か」でしかない。そして、それは松田聖子という固有名とは決定的に異なったものである。また極めて「松田聖子的な何か」に、嫌悪感や不気味さを感じることもあるだろう*2



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 Perfumeを聴いていて「エフェクトをかけちゃったら誰が歌っても一緒なんじゃないの?」と私は率直に思ってしまう。だから、私はそこに固有性の無さを感じてしまうのだ。同時に、彼女たちの代替可能性も強く感じている――「メンバーが変わってたりしても、全然気がつかないんじゃなかろうか?第一今の3人のメンバーの声も聞き分けられない!」。私の耳が悪いだけかもしれないが、これは愛されるべきアイドルとして致命的なのではないだろうか?「ここにはアイドル・グループは存在しない。あるのは中田ヤスタカの楽曲だけだ」なんて言ってしまってもいいかもしれない。



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 Perfumeの大ファンだと言う方には「アナタは彼女たちの何を愛しているのですか?」と問いたい。このように一般名詞化されたアイドルを愛する、ということはオタクの要素萌え(猫耳だから-萌える!)と同様にコンビニエンスな快楽しかもたらさないように思うのだが……。同じ女の子3人組ならPerfumeよりもShaggsを選ぶよ、私は。




*1誘惑論―言語と(しての)主体 (ノマド叢書)


*2:「松田聖子を愛するか、それともまねだ聖子を愛するか」、そういった問題は証明不可能な問題でもあるのだが





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吉幾三

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 青森は津軽出身、「俺ら東京さ行ぐだ」で知られる吉幾三*1が歌う『ゲゲゲの鬼太郎』。久しぶりに聴いたら結構スゴかったので貼り付けます。標準語で書かれた歌詞のテロップとはかけ離れた訛り。しかも絶対津軽弁ってこんなんじゃないと思う。このインチキ東北訛りにはなんか神話的な東北の姿が宿っている……(嘘だけど)。



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 80年代の鬼太郎はEDも吉幾三(作詞・作曲もつとめている)。可愛らしい鬼太郎と猫娘のバックに描かれている妖怪の絵がマッドすぎです。私と同世代の人なら、これが結構トラウマになっている人も多いはず。特につるべ落としが怖すぎる……。



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 訛りナレーションから美しいメロディに流れ込む「と・も・子」。冒頭で友川かずきを思い出してしまうのですが、歌の部分に入ると訛りがとれるってひどいよなぁ……。でも、このアレンジはかなり良い。




*1:ただの歌手ではなくシンガーソングライターだった事実を最近知って驚いた





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本日より入隊いたします

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 遅ればせながら本日よりビリーズ・ブートキャンプをはじめます。飽きたら速攻で辞めますが、辞めないように毎日の記録をつけたいとおもいます(こちらで)。なにやらこのエクササイズを立派にやり遂げ、立派な革命闘士になった暁には、腹筋が8つに割れるだけではなくビリー・ブランクスプロデュースによるアイドル・グループ「ビリーズ工房」*1のメンバーとして迎えられるそうです。ますますやる気がでますよね。ミンストレル・ショーばりに顔を黒く塗りたくる覚悟はできている。


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*1:『ビリーズ工房』はid:Dirk_Digglerの商標登録です





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HEAVY SICK ZERO 5th Anniversary~Break a powerful Dance Beat~@中野heavysickZERO

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LIVE:RIOW ARAI(Libyus Music) feat.dj Ryo-ta/イルリメ/DE DE MOUSE(EXT RECORDINGS)/GingerDoes'mAll


DJ:吉沢dynamite.jp/Crystal(Traks Boys/SLEEZY)


[B2 FLOOR]


LIVE:Cherryboy aka Cherryboy Function(EXT RECORDINGS/100yen LABel)


DJ:真保★タイディスコ/KAN TAKAHIKO/TETSUYA SUZUKI(TOP GUN)/座禅 BEAT(薔薇潤庶囃c)/NOBUSHI ROCK(IN THE 家!)



 こういうイベントに行ってきました。フロアに爆音がガン鳴らされたオール・イベントで一晩中踊り狂ってるのは久しぶりで、現在首が痛いですが、すごく楽しかったです(不思議なことに3日前から悩まされていた腰痛は消えた!)。

 自分の曲と他人の曲をごちゃ混ぜにして、根っ子になるリズム・トラックへ高速で乗せていくスタイル(ひとつのネタを30秒も使用しない『寸止めブレイクビーツ』)に変わってからのGingerDoes'mAllのライヴを観るのは初めてでしたがすごく良かったです。ビートじゃなくて音楽の細部に集中を払わせられるダンス・ミュージックはないんじゃないか、と思う特殊な感覚。マイケル・ジャクソン、AC/DC、Perfume、Daft Punk、カニエ・ウェスト、アフリカ・バンバータ……などなどわかりにくいネタやら大ネタやらが雑多に盛り込まれているんだけれど、どんなネタも繋がりのなかで並列化されて扱われてしまい、大ネタであっても注意していないとあっという間に過ぎ去ってしまう。ガツンガツン打ち鳴らされるスネアの中に紛れ込んだ暗号を、踊りながら解読していくようなそういう楽しみを感じました。ある意味でそういう楽しみとは、RIOW ARAIの魂抜かれちゃうぐらいのカッコ良さ(=何にも考えず踊れるリズムの強度、音の気持ちよさ。ホントに一瞬腰が抜けるかと思うぐらいカッコ良い瞬間があった)とは微妙にズレたところにいる気がします。あと彼が作ってきてくれたパウンドケーキがすごく美味しかったです*1


 他には、イルリメとDE DE MOUSEを聴き/踊っていましたが、こちらはすごく居心地が悪くて……それはもちろん私の趣向の問題だからアーティストが悪いんじゃないけど(実際音楽は良いと思うし)、とにかく知らない村の祭に迷い込んじゃったときの寂しさ、というか、人が盛り上がってるのを遠くで見てる感じ(実際には目の前で大騒ぎが起きてるのに)がしてました。どうもそういうローカルな祭感覚をかき立てるところは苦手みたいです。




*1:当日の音源が、アーティスト本人のブログにて公開されています





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新感覚、歴史観なし、大革命――ジンについて

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 最近ずっと気になっている日本のバンドは、ジンというグループ。エモいギターに、ぶっといベース、カツカツと入るドラム、そして歌詞が全然聞き取れない絶叫系の女性ヴォーカル……と説明しちゃうと「アリがちだなぁ」という感じなんだけど、妙な、独特なグルーヴ感がクセになる。特にギターが良いですね。テレキャスにエフェクターを一杯噛ませてカッティングを入れるときのザラッとした音が好きだ。あとステージ・アクションもすごい。故ダイムバッグ・ダレルを髣髴とさせるヘッドバンギング。太ももの裏を見つめるように危険な角度で楽器をかき鳴らしている姿がよくわからない(それはカッコ良いのだろうか?と問いたくなる)。



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 これなんかエモいプログレである。どうやったらこういう音楽ができあがるのかあんまり読めない。メンバーの日記とか読んでみてもそういうのが浮かび上がってこない。ギターの人の日記には「中2の時から浜田省吾とブルース・スプリングスティーンが大好きです」とか書いてあったりして、むしろ読もうとすれば読もうとするほど、分からなくなってくる(ハマショーとボス好きの中2って渋すぎるだろう……そしてどちらもあんなギタープレイはしない)。しかし、だんだんとそういう得体の知れなさに惹かれていってしまう。


 最年長のメンバーが1985年生まれ、という「若さ」も驚きだけれど、この「得体の知れなさ」は世代的なものなのかもしれない。正確に言うと「世代論という語り口が無効になっていること」の象徴みたいなものを感じる。





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はてなキーワード「メロリンQ」が異様に詳しい件について

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 ジューダス・プリースト(このバスドラムのブラストがカッコ良すぎ)を聴いてたら、山本太郎デビュー時(16歳)の「メロリンQ」が記憶が突如甦ってきた。「番組を見てたときは意味がわからなかったけど、結局あれはどういう意味だったんだろう」と思ったけど、やっぱり意味はなかったんだな……。


メロリンQとは - はてなキーワード





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残暑のイタリアン・ロック祭

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 誰も興味がわかなそうな雑感めいた文章をアップしたついでに、70年代のイタリアで活躍した(かどうかは定かではない)ロック・バンドの動画をたくさん貼り付けようと思います。まず手始めに、ニュー・トロルズ。重苦しいオルガンのソロからヴォーカルの絶叫、上半身裸のドラム。みんなまとめて南極に行ってもらいたいほど暑苦しい。



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 オザンナ。もはやこの衣装はカルト教団の幹部にしか見えません。このバンドにもフルートのメンバーがいますが、当時のイタリアには「インチキなディープパープルっぽいギター+フルート」みたいなバンドが多いです。食えない音大生がみんなこのテのバンドに入ったんじゃないか。



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 ゴブリン。ダリオ・アルジェント監督作品の音楽を支えたジャズ・ロック・バンド。キワモノ感たっぷりのバンドが多いなかで、ここまで「ちゃんと(笑わずに)聴ける音楽」を演奏していたゴブリンは貴重な存在と言えましょう。



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 ゴブリンのキーボード奏者だったクラウディオ・シモネッティがバンドを脱退してソロになったときの映像。このサイケな映像と激しいリズムトラックが、荒れた音質・画質と相重なってさらに狂気を感じさせます。正直「キース・エマーソンの映像だよ」って言われても見分ける自信はないけど。イタロ・ディスコってよくしらないんですが、こういうのも入ってくるんでしょうか?



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 アレアのデメトリオ・ストラトスがアントナン・アルトーの戯曲(?)を一人で上演している様子を収めたニュース映像。特殊効果いらずの超絶パフォーマンス。



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 もう一個、デメトリオ・ストラトス(後半はアレアの演奏)。おそらく70年代のイタリアでホーミーができたのは、この人だけでしょう……。ちなみにこの人はエジプト生まれのギリシャ系イタリア人。ワールド・ミュージックに注目が集まるより遥か前に、アラブ系の音階と変拍子をフリージャズで演奏してしまったアレアはやっぱりスゴい。



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 レ・オルメ。フルートが在籍するバンドも多いけど、キーボードが主体となっているバンドも多いような気がします。「なんかイギリスじゃプログレっちゅーもんが流行っとるらしいぞ」、「なんだそれ食えんのか?」、「どうやらクラシックとかロックとかジャズとか混ぜちまった音楽らしい」、「イギリス人が好きっていうなら俺らもやるべ!おめぇ、昔ジャズでドラム叩いてだべ?」とかそんな感じの飲み会ノリで結成されてそう。元々は場末のクラブでインチキなビートルズのカバーとかやってたバンドが母体とかで。



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 バンコ。こちらは1984年の映像でプログレからディスコ路線に逝ってしまった頃の映像。ヴォーカルのヒゲで巨漢のオッサンは「年を取ってこうなった」わけではなく、このデビュー当初からこういうヴィジュアルです。声は綺麗だけれど、それ以外はフロントマンとして活躍できる要素を一切持たない稀有な存在。微妙にマイクの持つ部分が長く見えるのも良い感じです。



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 フンカ・ムンカ、というバンドがプログレ・フェスに出演して他人の曲(プロコル・ハルムの『青い影』……)を熱唱する映像。全然面白くないけど、折角フェスに出演しているのに他人の曲を歌っている姿が可哀想すぎるのであげておきます。



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 プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ。彼らがおそらく最も広く知られていたイタリアのバンドだったはず(イエスのツアーで前座をやったり、EL&Pが作ったレーベルからレコードを出している)。これでも他と比べるとすごく垢抜けたサウンド。



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 最後はアルティ・エ・メスティエリのドラム、フリオ・キリコ。総合格闘技の世界でも充分食っていけそうな肉体から生み出される超絶テクニック。大きく隆起した大胸筋のなかにこれまで紹介したイタリアの暑苦しさが凝縮されているとも言えましょう。以上、嫌がらせのようなエントリおしまい。





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東浩紀『存在論的、郵便的』

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存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて







 「アナタの抱いている問題関心とこの本には通じるものがあると思う」という薦めからこの本を読み始めたのだが、その予想は大当たりで「東がデリダから読み取ったもの」と「私がアドルノから読み取ったもの」にはすごく近いものがあったと思う。しかし「デリダとアドルノの近さ」なら誰にだって指摘できる。例えばこの本で紹介されている、ジェイムズ・ジョイスの「He War」の解釈不能性(解釈してしまったことによって、失われてしまう多様性)の議論は、音楽を直接的に語ろうとすることで音楽から「たゆたうような流れ」や「浮動的なもの」が失われてしまう、というアドルノの議論と大きく重なって読める。また、後期のデリダが書いた暗号のようなテキスト、「思考不可能なものを考える」ための方法論も、「思考不可能なものを考える」ために生み出された(と私は解釈している)アドルノ(がベンヤミンから借りてきた)の「布置連関」と通ずるものがあると思う――だから、すごくこの本が言おうとしていることは読めてしまった。東がデリダから読んだものの大半は、私はアドルノから読んでいる、そんな風に言い切っても良いかもしれない(もちろん、東の正確かつハードな仕事と私のあまりにもちっぽけな仕事との間には比べ物にならないほどの差があるわけだが。しかし、これはすごい仕事である)。アドルノとデリダには「近いものがある」。だからこそ私は、この二人の距離を埋めずにそのままにして、顕微鏡で見るようにして拡大していかなくてはならないのだと思った。そうすることで、もっと言葉を明確にすることができる。ちょうど今そういう作業をちょこちょこと行っているところだったので、これはとても勉強になった。こんなに精密な仕事だし、良い本なのになんで全然グッとこなかった不思議なぐらい良い本です。





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音楽の混ざり物

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 「プログレ歌謡」、「テクノ歌謡」、「AOR歌謡」……歌謡に色々あるけれど、そもそも「歌謡曲」というジャンルははじまりから「混ざり物」的要素があるのだから、そこにプログレが入ろうが、テクノが入ろうが、AORが入ろうが、実のところ取り立てて騒ぐ必要など無かったのかもしれません。舶来モノの音楽への日本的な要素の混合によって「歌謡曲」が生まれたのだとしたら(実証性がない印象論ですが、特にシャンソンの影響は濃いように聞こえます)、むしろプログレやテクノやAORを取り入れていくのはごく自然な流れだったのではないでしょうか。むしろ、我々は現代に何故「ポストロック歌謡」や「エレクトロニ歌謡」、あるいは「ヒップホップ歌YO」が存在しないのかを問わなければならない気さえします。


 厳密に言えば「J-POP」という大きなくくりで呼ばれる音楽には、そういった混ざりモノ感が色濃く残っています。例えば、エイベックス・トラックスを筆頭にしたダンス・ミュージック系の音楽は「トランス歌謡」と呼ぶことができるかもしれません。あるいは湘南乃風は「レゲエ歌謡」とも呼べるでしょう。しかし、そこには「ホンモノ」と呼ぶための大切な何かが欠けているような気がします。逆にJ-POPにあって歌謡曲にないもの、と言えば「使い捨て感」でしょうか――「AOR歌謡」の金字塔とも言える寺尾聰の「ルビーの指輪」を聴いていて、そんなことを考えました。



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 それではドラムがヴィニー・カリウタ(あのフランク・ザッパ門下生の!)で演奏される「ルビーの指輪」をどうぞ。スティーリー・ダンもドゥービー・ブラザーズも裸足で逃げ出すほどの、ホンモノ感。混ざり物が昇華された瞬間。





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小田急線ユーザーのジャズ・ファンに朗報です

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 新百合ヶ丘にある昭和音楽大学のホールで、チック・コリアがソロをやるそうです。ブルーノート東京なら一晩で1万円(プラスお料理代!)は取られるであろうプログラムがS席でも6000円、というすごく良心的なチケット代。また「仕事が終わってライヴ・ハウスに行くのはダルいけど、新百合ヶ丘なら“帰り道に”が聴ける!」ということで、小田急線ユーザー(多摩・町田方面在住)には嬉しい企画。


 マイルス・デイヴィスのグループで、一際ブチ切れたエレクトリック・ピアノのプレイをかまして聴衆を圧倒していた彼が、アコースティックのピアノでどんな音楽を聴かせてくれるのか、今から楽しみです。ハービー・ハンコックもキース・ジャレットもキレた音楽をやらなくなっちゃったけど、ジョー・ザヴィヌルとチック・コリアだけは別!


 上にあげた映像はチック・コリアと上原ひろみのデュオ(予定されたプログラムには、もちろんこの『Spain』もあげられています)。話はズレますがこうして聴いてみると上原ひろみって、チック・コリアより全然指は回ってるのに、音楽の重みがスカスカだなぁ、と思いました。音色やグルーヴ感も軽すぎて、聴いてる感じがしない……。





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ノット・エフェクター・パワー!

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 オダギリジョーが出演する車のCMに楽曲が使用されていることで、再び注目が集まっている(?)キング・クリムゾン(TOYOTAがクリムゾンの曲をCMに使うのは、2回目だ)。久しぶりにYoutubeでクリムゾン動画を探していたら、新しいライヴ映像が増えていました。


 最初にあげたのは1984年の来日ライヴでの「Discipline」。アフロ・ミュージックをここまで白っぽく解釈しなおしたロック・バンドでは、クリムゾンの右に出るものはいないでしょう。ペイント・イット・ホワイト!ベースとドラムが変拍子の軸を作り出し、そこにエイドリアン・ブリューとロバート・フリップのギターが異なるリズムを重ね合わせていく。そのテクスチュアは、リゲティとも通じているように思えます。素晴らしい。特にロバート・フリップの髪型なんか最高ですね。



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 さらにこちらは1996年の来日ライヴでの「Frame By Frame」。90年代にダブル・トリオ編成で再結成されたときのパワフルなメンツ。何が素晴らしいかって、ここには昨今のポストロックで聴かれるような「エフェクター・パワー」が存在しないって言うこと。Line6の緑色のディレイも、カオス・パッドも、iBookも、ここでは使用されていない。偶発的に面白い響きを生み出すツールは一切使用せず、ガチガチにリズムをコントロールしていく能力はリスペクトに値します。足腰が弱ったプログレオタクのオッサンのオモチャにしておくには、ホントに勿体無い。



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 これも2003年の来日ライヴ(なんでこんなに来日ライヴばっかり……)。曲は「The ConstruKction Of Light」という曲。この曲は2000年に発表されたアルバム『The ConstruKction Of Light』のタイトル・ナンバーになっています。このアルバム、90年代の再結成時のアルバム『Thrak』の次に発表されたんだけど、若干地味なのと「メンバーが2人減った*1だけで、あんまり変化なくね……?焼き直し?」という感じなので無視されまくっていた一枚。この暗さと重さが良いのに……。何よりこの映像、エイドリアン・ブリューが醸し出す「グンゼ感」が素晴らしすぎるだろー。髪型もなんかお茶の水博士みたいだし。





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 あと素晴らしかったのがこの「Heroes」のカヴァー(オリジナルはデヴィッド・ボウイ)。はっきり言ってボウイがライヴで歌ってるのより断然良い。こんなにポップな曲を弾きながら、ニコリともしないロバート・フリップも素敵です。




*1:トニー・レヴィンとビル・ブラフォードが脱退





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ティホン・フレンニコフ/ヴァイオリン協奏曲第2番

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 ブリリアント・クラシックスからリリースされたレオニード・コーガンの10枚組ボックスに先日亡くなったティホン・フレンニコフの作品が収録されていたことを思い出して聴きなおしてみた。曲はヴァイオリン協奏曲第2番。


 3楽章構成とオーソドックスな作りのこの作品は、総演奏時間15分強と非常に短く仕上げられている。このあたりのライトな作りが「ソヴィエトの芸術家は労働者のために作品を作らないとダメなのであーる!」という社会主義リアリズムの象徴なのかもしれない(長いと飽きちゃうしね……という配慮!)。調もハ長調。シャープもフラットもついていない、まっさらなものが選ばれている。


 作品の内容はどうかと言えば、冒頭から独奏ヴァイオリンが速いパッセージを弾きまくり、その後もずっと弾きまくり、結局1楽章は超絶技巧のフレーズをヴァイオリンが弾き散らかして終わってしまう。アレグロ・コン・フォーコ。「火のような情熱をもったアレグロで」と支持されるその楽章は、ケツに火がついたような忙しさである。第2楽章は一転して、哀愁を帯びたモデラート。お涙頂戴。で、本当にバカみたいなんだけど、3楽章は再び「アレグロ・モデラート・コン・フォーコ」。独奏ヴァイオリンが再び弓の毛が擦り切れるほどの忙しさのなかに放り込まれてしまう。はっきり言って、聴き所はヴァイオリン独奏者のテクニックのみ!

 他の作品を聴いていないからなんとも言えないけれど、こんな曲芸みたいな曲ばかり書いていたら「そりゃあ、知名度が低いまま死んじゃうよなぁ、フレンニコフ」と思ってしまう(逆に気になってきたりもするけど)。ソ連時代に○○連盟の偉い人とかになると「半分政治家」みたいな扱いを受けたそうだから、そっちの仕事が優秀だったのかもしれない*1




*1:Wikipediaには「いかさまの選挙によって、ソ連崩壊までその書記長職に居座った」とある





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宇多田ヒカル「Passion」

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 Youtubeを観てて、すごくビックリした曲。2005年に発表された宇多田ヒカルのシングル曲「Passion」のPV。ゲームの主題歌になっていたそうだけれど、私は全然ゲームをやらないし、2005年ごろはテレビもラジオも聴いてなかったから今日初めて聴いた。こんな曲出してたんだなぁ。宇多田ヒカルが天才であることは、プリンスやモーツァルトが天才であるのと同様に自明なことかもしれないけれど、これは斬新過ぎ、天才。ピンク・フロイドとエニグマが融合したみたいな曲で、とてもヒットチャートを意識して作ってるとは思えない。


 また先の展開が予想できなさもすごい。以前友人が「宇多田ってピアノを適当に弾いて、自分が気持ち良いのを見つけて、適当に曲作っていそうだよね」と言ってたけれども、この「読めなさ」はその言葉を納得するものに変えてくれるように思う。「Aメロがあって……サビがあって……繰り返しがあって」という構造が把握しにくい。特に3:00ぐらいの展開は、シューマンの交響曲みたいな唐突さである。異常だよ、これ。



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 有線で流れてた「Keep Tryin'」を耳にして、メロディラインの不思議さにもびっくりしたけれど「Passion」はその驚きをはるかに上回る。あと歌詞のセンスもすげー。





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マックス・ローチ死去、あとフレンニコフも。

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bounce - マガジン
。っていうか、まだ生きてたんだ!ついこないだまで「生きる伝説」だったんじゃん!というほうが驚き。しかし、今年はホントに大物ミュージシャンが死にまくる年だなぁ、と思ってしまう。ロストロポーヴィチが亡くなったのはまだ記憶に新しい。ソ連つながりで言えば、最近フレンニコフも亡くなった。この人はソ連時代に「作曲家同盟」の書記長を長く務めていた作曲家。しかし、作曲家としてよりもそういう「体制側の人間」で、ソ連の前衛作曲家を激しく糾弾し、社会主義リアリズムを推進した人としての姿が知られている。



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 こんな曲を書いていたらしい(この映像、最後にちらっとだけフレンニコフ自身の姿も映る)。指揮はウラディミール・フェドセーエフだろうか。名曲だ!とは思わないが、ユニークで妙に繰り返して聴きたくなるような感じである。





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Th.W.アドルノ『新音楽の哲学』

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新音楽の哲学

新音楽の哲学







 読み終えたので、改めて本の紹介から。1949年に発表されたこの『新音楽の哲学』は、アーノルト・シェーンベルクとイーゴリ・ストラヴィンスキーという20世紀を代表する二人の作曲家を鮮やかに対比し、二人の音楽を媒介とすることによって、社会学・哲学・心理学……etcを語ろうという音楽論である。タイトルに用いられている「新音楽」という言葉、こちらはドイツ語では「neuen Musik」となっており「現代音楽」という風にも訳せる(そして、日本語の音楽的なタームとしての「現代音楽」と「neuen Musik」とでは意味的にも一致する。またその意味の曖昧さにおいても)。


 日本語訳が出るのは龍村あや子の訳で2回目。以前の訳は永らく絶版状態にあったから、私も今回初めて読んだ。細見和之が紹介するところによれば「シェーンベルクを擁護し、ストラヴィンスキーを批判する本」と聞いていたので、私もそのようなつもりで読みはじめたのだが、実際読んでみるとそんな単純な二項対立は展開されていなかった(というか、そんな単純な話をアドルノが書くわけないのだけれども)。

 さて、ここからは私が読んだこの本の要点。これは「12音音楽、万歳!新古典主義、最低!」という本ではなく、むしろそのような技法の概念などかなりどうでも良くて「現代の作曲家は、どうやったら主体的に、かつ暴力的にならずに作曲ができるんでしょうね?」とか「どうやったら自律的な音楽が書けるようになるんでしょうね?」という問いを巡って言葉が書き連ねてあるもの、だと思う。ストラヴィンスキーの過去の音楽的な「素材」を異化し、空虚な響きしか生み出さない音楽(アドルノは彼の音楽を“幼稚主義”――子ども時代の遊びへの退行だ、とする)がそこで批判されるのは当然予想される。けれども「12音音楽という新しい手法を発明したシェーンベルクも、結局主体的な作曲なんかできてなかったんじゃねーの?」と、特に12音音楽の「規則」*1へと厳密に則しようとした時期のシェーンベルクへと疑いのまなざしを向けるのである。


 12音音楽を“主体的に”書こうとすればするほど、シェーンベルクは逆に12音音楽へと支配されていく(ここでヘーゲルの『精神現象学』より「主と僕」の喩えが差し込まれる)。作曲しようとすればするほど、シェーンベルクは12音音楽という素材に囚われ、主体性は奪われてしまう。しかし、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンのように「着想」を元に音楽を書くことは今や不可能である(自らの内から自然と生み出されてくるような音楽の素材は、今や枯渇してしまった!)。書けば書くほど、音楽から(あるいは社会から)疎外されていくシェーンベルクの姿を、アドルノは悲劇的に描こうとしているようにさえ思える。そして、12音音楽という技法の限界もここで明らかにされる。


 晩年のシェーンベルクは調性へと回帰することもあった。アドルノはそのようなシェーンベルクの歩みを「退行」と見なさない。「後期シェーンベルクの偉大な要素は、12音技法によるものでもあり、同時に12音技法に抵抗して得られたものでもある」とアドルノは言い、シェーンベルクの晩年は、支配を受けない自由な作曲家としてベートーヴェンやバッハと同じような地点に辿りついたのだ、と高い評価を与える。ここまで来ると「ストラヴィンスキーは最初から自由だったのに……」という疑問は浮かぶし、また「結局“シェーンベルク万歳、ストラヴィンスキー最低”じゃんか」と思われる方がいらっしゃるかもしれない。


 しかし、アドルノが抱いた思想の主軸をなしているものは「近代において人間はどのように人間的でありうるのか?」である。それを考えると、最初から最後まで素材との遊戯に耽り、人間的なものを傷つけ続けるストラヴィンスキーと、自ら生み出した技法にさえ批判的なまなざしを向け葛藤し続け(そして死んだ)たシェーンベルクのどちらを持ち上げるか、は自ずと想像がつくというものだ。しかし、そこでアドルノが軍配をあげた方が「勝者」になるわけではない。主体的に音楽を書くことは「漂流する瓶に詰められた便り」を海に流す行為なのだ。それは聴衆を無視して、ひたすらわけの分からない音楽を書き続けるのとは違う――誰かが拾ってくれることを祈って、真摯に書かれる音楽である。その音楽には、作曲家と聴衆との間に、偶然と言っても良い出会いによってミメーシスが行われることへの希望が込められている。


 ここまで一気に要約と解釈を書き連ねてきたので(長すぎて、もはやほとんどの人が読んでいないことを予想しつつ)、「この本で一番カッコ良いポイント」だと思った「まえがき」から痺れるポイントを引用を行なって文章を締めておきたい。



この本は、音楽について語っているだけにすぎない。しかしながら、対位法的な問いかけがもはや和解しがたい葛藤を証言しているような世界とは、一体いかなる状態にあるのだろうか。生の震撼や硬直が、経験的苦境がその中にまでおよばないこの場所、不気味な規範の抑圧からの避難を許すと人々が信じているこの領域においてさえも、反照しているならば、生とは今日、なんと根本的に混乱したものであることか。人々への約束が果たされるのは、彼らが期待するものを拒否することによってのみなのである。





*1:これについては十二音技法 - Wikipediaを参考にされたい





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村上春樹『遠い太鼓』

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遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)







 アドルノの箸休めのつもりで読み始めて、一気に読み終えてしまう。500ページを超すヴォリュームのある旅行記(あるいは旅行スケッチ)で、適度な退屈感と適度な面白さがつまった本である。感動や含蓄、教養といった「読書することで得られる滋養」みたいなものは何一つないんだけれど、とにかく文章は「読める文章」だから読めてしまう――こういうとき「自分は結構“本を読むこと”が好きなんだなぁ」とか思う。読むこと自体が目的となっている、というか。そこで得られるものは何もなくても「とりあえず読めれば楽しくなってしまう」。得した性格かもしれない。


 そうは言っても「滋養が無く“読める文章”」を書ける人はなかなかいなくて、特に偉い人になればなるほど説教臭かったり、無理やり滋養を詰め込んだような文章になってしまう。その点で、村上春樹のエッセイはどれも無理が無くて好きだ。しょうもないことがとても丁寧に語られている。食べても全然栄養にならない料理を作る職人みたいである。


 本の内容は筆者の3年間に渡るヨーロッパ生活の模様をまとめたもの(この生活の間に『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』が書かれている)。本のページが進めば進むほど、書かれている文章は「ちゃんとしたエッセイ」のような形式で書かれるようになるのだが、日本を飛び出してきてからヨーロッパの生活に慣れてくるまでが書かれた前半のほうが面白かった。


 前半の文章はとても疲労している。読んでいてクスクスと笑いがこみ上げて来るような話はほとんど無い感じがする。文章もすごく硬くて、村上春樹的な形容句も控えめだ。しかし、そこから伝わってくる「疲労感」がレイモンド・カーヴァーの詩(もちろん村上春樹によって翻訳された)と通ずるものがある。





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プログレッシヴ・アルバム・オリエンテッド・ジャズ・ロック

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 英国ジャズ・ロックの動画を紹介するシリーズも今日でおしまい。最後はビル・ブラフォード&アース・ワークスです。これはイエス、キング・クリムゾン、その他様々なプログレバンドを渡り歩いてきたドラマー、ビル・ブラフォードが結成したジャズ・グループ。狭義の「ジャズ・ロック」から外れてしまうように思いますが、ブラフォードの長いキャリアのなかで最も良質な「リーダー作」を生み出しているのがこのバンドだと思います。



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 変拍子で演奏されるAOR風ジャズみたいに聴こえ、とてもカッコ良い。ブラフォードとは2回り以上離れた年齢の若いミュージシャンが、クラブ・ミュージックっぽい要素を運んできているような感じもします。ある意味、現代性を持ったフュージョン、というか(この曲はスティーヴ・ライヒみたい)。



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 ブラフォードのドラム・ソロ。そもそも彼がこのバンドが結成した理由が「クリムゾンでエレドラばっかり叩かされて飽きた」からだったそう。キンキンに皮を張った特徴的なドラム・セットを「プログレ時代」よりもずっとシンプルにまとめ、衰えることをしらないパワフルなプレイを聴かせてくれます。



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 こちらはアースワークスの前身とも言えるジャズ・プロジェクト、“ブラフォード”時代に書かれた「Hell's Bells」という曲。このブラフォードというバンドもメンツがすごくて、アラン・ホールズワース(ソフト・マシーン)、デイヴ・ステュアート(ハットフィールド&ザ・ノース)に、ゲストでエディ・ジョブソン(キング・クリムゾン)、ジョン・グッドソール(ブランドX)なんかが参加して当時のプログレ/ジャズ・ロック系のバカテク・ミュージシャンが勢ぞろいしていました。曲は今聴くと、やっぱりかなりダサいんだけど。



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 こちらが「ブラフォード」による演奏。ムーグ・シンセ二刀流でコードを弾かれると、ますますジョー・ザヴィヌル感が出てしまって「ウェザー・リポートじゃんこれ!」とツッコみをいれたくなってしまいます。が!、アラン・ホールズワースのギター・ソロは聴きどころ。弾き方が綺麗過ぎて、本当にゆっくりに見える……(スロウハンド!)。



Part & Yet Apart

Part & Yet Apart







 ちなみにアースワークスは90年代後半にブラフォード以外のメンバーを総入れ替えしています。本日紹介したのは、その新生アースワークスの方(旧アースワークスよりずっとアコースティック寄りのサウンド)。そしてこちら↑が新生アースワークスの第一弾となったアルバム。オサレかつダンサブルかつ変態っぽい、さらにバカテクという点で名盤と言っても過言ではないと思います。





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英国ジャズ・ロックの深い森

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 ソフト・マシーンに続きまして、同じくイギリスの70年代ジャズ・ロックを代表するバンド、ニュークレウスの映像。といっても、70年代の映像ではなく最近になって再結成されたときのライヴ模様らしい。中央でトランペットを吹いているのが“イギリスの白いエレクトリック・マイルス(俺命名)”ことバンドの中心人物、イアン・カー。



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 これだけだと、やたらバカテクだけどあんまり魅力の無いフュージョン・バンドみたいに聴こえてしまうのがすごく残念です……。



ELASTIC ROCK / WE'LL TALK ABOUT IT LATER

ELASTIC ROCK / WE'LL TALK ABOUT IT LATER







 が、70年代のアルバムは本当に良くてですね、「プログレの脇道」みたいな扱いにしかなっていない過小評価具合は大変勿体無いように思っています。ソフト・マシーンのときにも同じことを書きましたが『In A Silent Way』でマイルス・デイヴィスの時間が止まった、みたいなアルバムの作り。



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 さて、今度はブランドX。こちらもイギリスの、フィル・コリンズが在籍していたことでしられるハイテク・フュージョン・バンド。1997年来日時ライヴの模様(このとき来日したときのインタビュー記事とか持ってるなぁ)。ちなみに、かのスターレス高嶋もブランドXをフェイバリットにあげていました。



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 さて、ウェザー・リポートをぐっとスポーティにしたようなテクニックの披露合戦、変拍子につぐ変拍子にお疲れかもしれません。が、もう少し我慢して観ていただきたいのは、このバンドを率いる張本人、パーシー・ジョーンズのベース・ソロ。この人のフレットレス・ベースの音が特徴的で、フレージングとかも気持ち悪くて素敵なんですよね、ブランドX。ブライアン・イーノのソロなどにも参加している人なのですが、ロバート・フリップなどと同様に「これは誰のアルバムなのだ!」と疑問を抱かせる個性的なプレイをする。



Moroccan Roll

Moroccan Roll







 ちなみにスターレス高嶋が推薦のアルバムはこちら。オサレなファッション雑誌かなんかの音楽特集で、他の著名人がこぞってオサレな音楽(ボッサとかエレクトロニカとかな!)をレコメンドするなか、ブランドXを推す高嶋政宏は偉い。さすが日本のジョン・ウェットンだ!



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 まだ続きます。こちらはコロシアムというバンド。この辺になってくると相当ハードコアにプログレた人生(月一ユニオン新宿プログレ館通い)になってこないと聴いてないような感じがします。実際、私も今Youtubeで初めて聴いた……。キーボードのデイヴ・グリーンスレイドさんが確かグリーンスレイドっていうバンドを組んでたよな……ということがかすかに思い出されます。映像は1994年の再結成ライヴ。



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 「ジャズっていうかヴォーカルがサックスと交替になったエマーソン・レイク&パーマー」という感じがします。すごくダサい。





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