G.W.F.ヘーゲル『精神現象学』(上)

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精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200))

精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200))







 2週間以上かかって半分読み終える。「まったくすごく大変な本を読み始めてしまったな……」というのが今のところの感想で、何一つ内容がつかめないという自信だけがある。世間で言われている「難解な本」、例えば、ルーマンとかアドルノとかを読んできたけれど、これはそれらとは難しさの質が違う。ルーマンやアドルノが含む「難解さ」は独特の言い回しや他領域から借用してきた概念に起因しているように感じるけれど、ヘーゲルにはそういうのはない。むしろ、一文一文はそんなに長くないし、文章も簡潔で、素朴に書いてある。だから、「とりあえず」読めてしまう。


 けれども、読めるからと言って内容が汲み取れるわけではない。不思議と、さっき読んだはずの文章の断片的な意味が、つぎの文章にいくとサッと消えてしまっている。なんっつーか、あまりに素朴過ぎて留まっていかない……というか。サーッと流れていく。そして、ものすごく眠くなる(自分史上最強の催眠効果を持った本でもあった)。


 アドルノはヘーゲルの思想に対してベートーヴェンの音楽を布置していたけれども、ちっともベートーヴェンにならなかった。アドルノが「ヘーゲルは難解」と書いているのを読んで「アンタだって充分難解だよ!」と思ったけれど、この質の違った難しさを前にして「これがベートーヴェンになるには10年ぐらいかかりそうだ……」と思った。今のところ、アルバート・アイラーみたいに響いている。素朴な感じに始まって、いつの間にか訳が分からなくなっているところとか。



Spiritual Unity

Spiritual Unity







 というわけで、アイラーを聴きながら読んでみたのだけれど「このベース、ゲイリー・ピーコックだったのか!!」という全然関係のない驚きがあった。ヘーゲルを、アイラーからヴェーベルンを挟んで、ベートーヴェンへ……と導けたら良いのだけれども、何かヒントになる本があったら教えてください。





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ディレクション

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D


 飲み屋でサラリーマンがえらそうに語る口調でブログを書いていることにいい加減飽きてきたので、音楽の話をします(かなり興奮気味に)。また、Youtubeにやっばい映像があがってましたよ……。ジョー・ザヴィヌルとウェイン・ショーター率いるウェザー・リポートによる「Direction」


 ジョー・ザヴィヌルの作曲によるこの曲は、マイルス・デイヴィスが1970年代によく取り上げていたことで有名ですが、この演奏はマイルス・バンドの演奏よりもソリッドでかなり良い(この崩壊の無さがイギリスのジャズ・ロックにも通ずる)。1971年、ちょうどウェザー・リポートが結成された直後、っつーことで気合が入ってたんでしょうか。ウェザーと言ったらジャコパス……と思っていたけれど、ミロスラフ・ビトウスのウッドベースもすげぇや!!





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そういうお前ら、ホントに「選挙」に行ったのか?

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 どうも私、ココロ社さんの選挙に行かない宣言*1を読んで、その尻馬に乗ろうと企むブロガーです。狂ったように面白い、と称されるブロガーが政治的な発言を行った、ということで賞賛や批判が入り混じったブクマコメントがついているようですが、今回もココロ社さんは絶対的に正しい。複雑な世の中ですから、政治に関しては思考停止、その代わりに別なことを考えて生活を充実させる、という選択は合理的であると思います。選挙速報も見たいし、HDレコーダーで取りためていたアニメもみたいなんってーのはよくばりです(この欲張りモノ!)。


 そもそも、選挙権は文字通り「権利」なわけですから行使するのは自由。義務と履き違えているバカがゴチャゴチャ言っているようですが、ココロ社さんが言うように「自分が応援している政党に票が入って欲しい」というだけで、ご立派そうに言えるようなことではありません。「まあこういう人は投票しないでくれるとありがたいよ」なんて皮肉られる言われはまったくありません。「投票するのが当たり前」と主張を押し付けるのはファシズムです。


 本当に日本の将来を考える人間であれば、今回投票に行った人、それも世の中の雰囲気に流されてなんとなく民主党に入れちゃったような人を非難すべきです。今回、テレビが「選挙に関心が高まっている」と煽るものだから、予言の自己成就的に余計「高まっちゃってる」気がしますが、選挙に行って(というか)自らの支持する政党・立候補者に投票した(つまり選択を行った)人はどれだけいるのでしょうか。大部分は「自民はダメだから、とりあえず民主」という感じで選挙権を行使しただけなんじゃないか、と。


 私は、「アナタの周りに小沢一郎に期待している人いますか?」と問いたいですね。本当は誰も小沢になんか期待していないのに「自民がダメだから」という消極的な理由(と雰囲気)で、民主党に投票した人ばかりなんじゃないのかなぁ、と思うわけです。しかし、それは「選択」というよりも「逃避」に近い気もします。まぁ、前回の都知事選なんか、選択肢すらなく石原に決まってしまったから、今回はまだマシかもしれません。都知事選なんか、ホントはみんな石原なんか支持してないのに、対立候補がしっかりしないわけだから、消極的に現職へ投票……という「選択のできなさ」がすごくノー・フゥーチャー感を演出してましたし(少なくとも私はそう思ったんだよ!)。


 また、前回の衆議院選で、自民が「郵政選挙」と銘打って、焦点をしぼったPRを行ったのが大当たりさせたのにリベンジを試みるように、今回の選挙戦は各野党ともに「年金」「アンチ安部」に焦点をしぼってきました(そんななか唯一共産党は『ストップ貧困!守れ、9条!』と謳っており、そのズレっぷりが最高だと思いました)。逆に今回そこにフォーカスが当てられているのに、自民は自ら「年金」を語ってしまった。そのために、火に油を注ぐ結果になってしまったことも考えられます。これは丸川珠代が熱心に語れば語るほど、薄幸強度が増大し「当選しないオーラ」が出てしまうのと構造が一緒です(何故か当選しっちゃったけど)。ここまで劇場型選挙戦の成功如何が直接的に結果に響いてくるなら、当然次の選挙も劇場型戦略がとられることでしょう。


 でも、これって投票する人のことを完璧にナメてますよね。「こういう分かりやすいポイントを提示したら、民衆ってバカだから食いついてくるだろう」という感じで、まったく具体性のないマニフェストとワイドショーのネタで選挙戦を行っている、そういう態度を批判すべきなんじゃないのか!!あと、そういうネタにまんまと食いついているバカ野郎をもっと激しく非難すべきだろ、このバカ!!


 今後、衆議院解散とかになって政権交代がおこったとする。でも、たぶん小沢が総理大臣になったって、嫌な世の中は変わんない。でも、世の中が嫌な感じだったのは、今も昔もあんまり変わんない。一番怖いのは「ああ、自民もダメだったけど、民主党もやっぱりダメじゃん……」っていう落胆が来たとき、このままの感じだと再び日本がホンモノの全体主義に突っ走っちゃってもおかしくないってことだろう。絶対ヤバいだろ。小沢VS都政から国政にカムバックした石原とかさー。勝っちゃうよ、石原。第二回東京オリンピックがベルリンオリンピックみたいになっちゃったりしてさー。だから、雰囲気で流されてる人を今から強烈に批判しておけ、というわけです。「流れるのは、ロックだけで良い……。ロックよ、静かに流れよ……」って遠い親戚のおじさんも言ってたし。






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「空気嫁」の傲慢さについて

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 最近のブクマ動向を見ていると「空気を読むこと」に関するエントリに人気が集まっているように思います。それだけ他人との人間関係を上手くやっていくことに関心が高まっていることでしょうか。あるいは、にちゃんねるなどで強く規範化されている「空気嫁」という同調圧力は、いまや広く一般社会でも共通して存在している、ということなのかもしれません。


 本来ならここで私も「空気が読めるようになる方法」を披露し、人気ブロガーへの道を一歩進めるべきなのでしょう(エントリのタイトルは『死ぬまでに実践したい10の空気の読み方』とかで)。しかし、ちょっと待ってください。


 「空気嫁」言説においては、読まれるべき空気が存在するかのように扱われています。空気が存在すること、それは自明のことになってします。例えば、すごくお喋りな人が一人いて、終わりがないんじゃないか……っていうぐらい話を続けている(しかも話がつまらない)、なんて状況を考えてください。その場にいたお喋りなAさん以外の全員が内心「空気読めよ……」と思っているかもしれません。


 彼が喋れば喋るほど、「空気」はどんどん重苦しくなっていく(もちろんこれは暗喩です)。このとき、読まれるべき空気は場全体に広がって存在するものとして、また各主体の外部に存在するものとして考えられているように思います。しかし、我々の社会において、本当に読まれるべき空気など存在しているのでしょうか?本当は、Aさんの喋りを聞かされている各々が勝手に考えていることが「似ている」だけであって、その場にある空気を読んでいるわけではない。そして、そもそも空気なんて存在しないのだとしたら……。


 もう少し噛み砕いて説明しましょう。言語学の術語を用いるならば、このようなコミュニケーションの場において我々は「コード」を利用しながらやりとりをしています。例えば、ある主体が行為Aを行った場合、その被行為者は意味Aを受け取る、このとき「行為A」を「意味A」に変換しているのが「コード」と呼ばれているものです。しかし、このコードも暗喩です。


 しかも、このとき言われているコードはコンピュータが意味解析を行うとき使用しているコードのように、ある社会にいる全員が共有している、というものでもありません。コンピュータであれば、どのコンピュータも「文章A」を同じように解析するでしょう。しかし、人間だったら「文章A」を読む人が2人いたら、そこで各読み手が得る「意味」は「同じA」ではありません。読み手Aと読み手Bとはそれぞれ違う「意味A」を受け取っているのです。


 具体的な例を出せば、丸川珠代の顔を見た瞬間に「薄幸だ!」と思う人もいれば、「美人だなぁ」と思う人も(いないかもしれないけど)いる、ということです。同じように「薄幸」と受け取った人のなかでも、「薄幸」の濃淡には違いがあります。だから厳密に「同じ意味を受け取っている」ということはできないのです。コミュニケーションにおいては「似たような意味」がたくさん存在しているだけであり、それらが集合的に取り扱われることによって慣例的に共有され(ているように見え)る「意味」があるように思われている――とこんな風に言い換えることができると思います。付け加えるならば、「コード」も事後的に確認されうるだけで、どこかにハッキリと存在しているわけではありません。


 話を「空気」に戻します。すると「空気」もまたハッキリと存在しているわけではない「意味」と同じように考えることができるのではないでしょうか。つまんない話をベラベラと話し続けるAさんの行為が「空気を悪くしている」という意味を生んでいる。このとき生じた意味(空気)は、Aさん以外の全員が共有しているわけではありません。Aさんの行為を「うんざりするな……」という風に受け取っているBさんが「CさんもDさんも同じように考えているだろう」という具合に考え、「悪い空気」を錯覚しているだけなのです。空気は外部に存在するのではなく、むしろ内部で錯覚されているだけだ、と言っても良いでしょう。


 このように考えれば「空気読め」と言うことは、リスクを伴った行為だということが分かります――Aさんがやっと長い長い話を終えて、その場が解散になった後で、BさんがCさんとDさんに話しかけます。「アイツ、マジ話なげぇよ。しかもつまんないしさぁ……空気読めって感じだよな」。しかし、そう言われた二人はBさんと違ってAさんの話を結構面白く聞いていたとしたら……。途端にBさんが「読めていたはずの空気」は、「読み間違え」になってしまい、同時にBさんこそが「空気を読めない人」へと転落してしまいます。


 このときのBさんは「まわりも自分と同じように考えているはずだろう」という確固たる自信があったからこそ、「Aは空気を読め」とCさんにグチったのでしょう。しかし、この確固たる自信こそが、独我論的である、と批判されうることになるのです。まわりも同じように考えている、と信じ込んでいるとき、Bさんは他者を無視している。Bさんのなかには他者を想像する想像力が欠けていた、ということもできるでしょう。


 また、Aさんだってわざわざ「空気を悪くしよう」と長々お喋りをしていたわけではありません。だからこそ、Aさんに「お前空気読めよ」と言うのも無意味な行為です。そもそも、Aさんが行った「お喋り」という行為には「悪い空気を作る」という意味が意図されていないのですから、Aさんは「空気読め」と言われても理解できません。「お前、そんなに一人で喋ってんじゃねーよ!」と言うのなら理解されるかもしれませんが、もしかしたら「なんで自分が楽しくしゃべっているのに、そんな風に怒られるのだろう」と思うかもしれません。こういう場合、Aさんにもまた先ほどのBさんの「転落の例」と同様、他者への想像力が欠けている、と言えるでしょう。「自分の話はみんな楽しく聞いてくれるはずだ」という自信がAさんにはあったのでしょう。


 結局のところ私は、「『空気読め』という人」も「空気が読めない(と思われている)人」も、「傲慢さ」というリスクを背負うことになる、と思うのです。まぁ、読んでも読まなくても「傲慢」なら、読まないほうが楽だと思ったりします。





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続・「農業=のんびり」を強烈に批判する

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金太郎


『サラリーマンは対人関係が非常に多くそのストレスが尋常じゃないから、自給自足の他人との衝突が少ないであろう農業がのんびりに思えるってだけですね。自分もその1人です。農業でやってる事は物凄い大変だと思います。


大変さの意味合いが違うので、「サラリーマンの大変さを耐えられない人が、農家の大変さに耐え切れるわけがない」てのは間違ってると言いたいだけです。サラリーマンの大変さも理解して頂きたいです。』


 先日書いた農業についてのエントリ*1にこんなコメントがつきました。金太郎さん(サラリーマンだから金太郎なんでしょうか。なんてユーモラスなんでしょう。愉快な人だなぁ!)、コメントありがとうございます。人間関係とか大変ですよね、サラリーマンって。「自分は酒が飲めないのに無理して酒の席にいかなくちゃいけない(本当は観たいアニメのDVDとかあるっていうのに……!!)」とか「自分はこんな風に働きたいのに周りのおかげで上手くできない」とか「自分より偏差値が低い大学を出てるバカな上司が俺より給料貰ってるのがムカつく」とか、色々ありますもんね。私もサラリーマンなのでそういう気持ちはなんとなく分かる気がします。まぁ、会社に入って日が浅いので幸いそういった苦労は今のところ味わっていませんが。


 しかし、金太郎さんは「自給自足の他人との衝突が少ないであろう農業がのんびりに思える」とも仰っています。たしかに、農業というのは家族経営の自営業みたいなものですからバカな上司もいませんからその分は楽かもしれません。ただ「他人との衝突が少ない」なんてことはありません。もしかして「農業は自営業みたいなものだから、自分の好きなように仕事ができる」なんて思ってませんか?あるいは「田舎の人は心が温かい」なんて思ってたりするんじゃないでしょうか?


 もし、そんな風に思ってたりなんかしたら、私は両手を挙げて金太郎さんの想像力を賞賛せざるを得ないでしょう。まったく、想像力が活発すぎです!(もしくは日曜の昼ぐらいに再放送している『田舎暮らし番組』の観すぎです!!サラリーマンならちゃんとNHKの放送料金を払って『クローズアップ現代』を観るべきです)


 たしかに、農家の人には上司なんていません。だからと言って自分が好き勝手に仕事が出来る……なんてことは全く無いのです。まぁ、朝早く起きて桃の収穫に行くのが無理っていうならゆっくり10時ぐらいに起きて、熱帯のジャングルのごとき畑のなかで収穫作業に勤しむのも良いでしょう。そういう部分は自由です。ただし、生命の危険に晒されると思いますが。「今日は疲れたから仕事を休もう」っていうのも自由です。ただ「今、穫らないといけない桃」がボトボトと落ちたり、売り物にならなくなりますけど。でも、自分の家が食えなくなるぐらいで文句を言われることはありません。隣の農家の人が「あの人んちはバカだなぁ」と思われるだけです。


 少し話が脱線しているので、金太郎さんが仰る「人間関係」の方に話を戻していきたいと思います。実際には、農業もまた人間関係を重要にする仕事なのです。自営業的だけれども、非常にそこでは同業者との連携が必要で、むしろ、そういった「横のつながり」を絶対に乱してはいけない仕事なのです。おそらく、調和を乱すことがタブー視される強度は、田舎にいけばいくほど強くなるでしょう。そのへんの恐ろしさは、id:FUKAMACHIさん、id:ayakomiyamotoさん、id:throwSさんのブログを精読し、勉強なさってください。


 例えば、農薬散布。金太郎さんはサラリーマンですから「きっと時期が来たら好き勝手に各農家が撒いてるんだろう」とお考えかもしれません。でも実際は、農協の人が会議を開いてくれて「今年はこの時期に撒きましょう」と言う感じで決定されて各農家が撒き始めるわけです。もし、この輪を乱したらどうなるか――例えば、都会の生活にくたびれて田舎で農家を始めた人が、時期より早く勝手に撒いちゃったらどうなるか……それが害虫対策の農薬だったら。そんなことしたら大変です。その人の家の畑にいる害虫が全部周りの農家の畑にいってしまいます。「オメェ、ウヂの畑を潰す気が!!」と怒鳴りこまれるのがオチです。


 乱してはいけないのは仕事の和ばかりではありません。誰かの息子・娘が自殺した、変な宗教に入った、カツラを被っている、会社の上司と不倫した上に妊娠しちゃって、その上生まれてきた子どもが知的障害者だ、なんてことが起こった場合、確実に村八分です(ちなみに以上で挙げたものは全て私の実家の近所で起こった実話)。「あの家を村八分にする」と寄り合いで決定されるわけではありませんが、自然と疎遠になっていき、その家の人たちはそれからずっと日陰者として生きていくことになります。


 田舎では「ウチの親父が病気して、今年は働けない」となれば、誰か他の家が手伝ってくれる(このあたりが『田舎=温かい神話』の源流かもしれません)ことがありますが、当然村八分にされたらそんな援助が受けられません。また、高価な機械(トラクターとかそういうの)を共同購入して使う、という輪の中からも追い出されてしまいます。そのあたりのリスクはサラリーマンと一緒です。大体、最初から私は「農業はサラリーマンより大変だ」なんてことが言いたかったわけではなく、「農業=のんびり」っつー幻想にイラッときただけなので、このあたりは金太郎さんの勝手な誤読です。っつーか、世の中にユートピアなんかねぇんだよ!馬鹿!!農業だってサラリーマンと同じぐらい大変なんだから、サラリーマンができないヤツに農業なんかできねぇよ!と言いたかっただけです。


 でもやっぱり、サラリーマンはまだ良いかもしれません。もし、サラリーマンであるところの金太郎さんが私と同い年の新入社員の女の子と不倫してバレて会社にいられなくなったとしても、最悪、転職すれば良いじゃないですか。人間関係で問題が起きたら、自分から身をひいて自分が生き生きと仕事ができる場所を探せば良いのです。現実として、過酷な道かとは思いますけど「会社の上司がすげぇバカでさぁ……」とかグチを聞いたら「じゃあ、自分から状況を変えていく努力をすれば良いんじゃないの?」と正直私は思いますよ(飲み屋でグチってるエネルギーがあるなら、自分で状況を変えるほうにまわせば良いのに……)。面接で「これまで培った業務知識を新しい場所でもっと有効に生かしてみたくて……」とか言えば良いじゃんか。


 農家の人はそんな風に「ダメなら別の場所にいく」なんてことはできないんだよ。






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PRINCE/『Planet Earth』

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Planet Earth

Planet Earth







 殿下の1年ぶりの新作。この天才アーティストに関して言えば「最新作がいつも最高傑作」だと思うことにしているのだが、今回も最高だ。昔の機材を引っ張り出して録られた前作『3121』は、その妙な懐古感のおかげで「最高……でも、昔を振り返るなんて……引退宣言とかしちゃうのでは」と心配になったけれど、まったくの杞憂であった。


 しかも、今回のアルバムは宅録の世界から飛び出して「現代的なスタジオの音」になっている。鼓膜を深く振動させるソリッドなドラムや厚みのあるベースのサウンドがカッコ良い。こんなストレートで骨太なカッコ良さは、これまでのプリンスにあったか、とも思う。ジャケット写真に写った、絶妙にトリミングされた殿下の胸毛が、その骨太加減を象徴するかのようである。


 言うまでも無く、胸毛は男性性を力強く強調する。このことはプリンスについて真剣に考えてたとき、驚くべきことなんじゃなかろうか。昔はハイヒールに女性用の下着を装備して激しくダンスしていたプリンスが、今は胸毛を露わにして骨太な音楽をやっている。以前のような倒錯やネジれた要素の色が薄まっていることは明らかだ。この転回はなんなのだろうか……と深く考えざるを得ない。プリンスがこんなにマトモになるだなんて……。


 殿下も今年で49歳(49歳でこの音かよ!すげぇな!!)。この変化は単なる「落ち着き」なのかもしれない。また、「抑圧と倒錯」というアメリカの裏側を描きだしていたプリンスが、今度は「表側」を描き出そうとしているのでは……とインチキな精神分析を試みてもしっくり来てしまいそう(これと対照的なのはマイケル・ジャクソンである。彼は一貫して『正しさ』を体現しようとする表側の人間だったけれど、その『正しさ』への志向が過剰なあまりに結果として倒錯してしまった感がある。これもまたアメリカ的なのだが)。



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桃の70%は汗でできている。

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町人『本来の農業は、自給自足の生活です。お金持ちにはなれなくても、のんびり暮せる。ただし、農業のすべてが自給自足になってしまうと、これまた困ることになります。』*1



 良い感じのブログには、必ずと言っていいほど「嫌な後味を残していくコメントをつける人」という人がいるけれど、久しぶりに読んでいて「イラッ!イラッ!!」ときてしまったものがこちら。名前が「町人」となっているけれど、ほんと名前どおり農業のことを何もしらない馬鹿まる出しの発言である。


 「農業の自給自足の生活がのんびり暮らせる」だって!一体誰がこんな現実離れした風説を流布したのか。私の地元(福島県)でそんなことを言ったら確実にトラクターで町内引き回しの刑、あるいは脱穀機の中に突っ込まれて体をズタズタにされるの刑に処されるぐらい、農業従事者の怒りを買う発言だ。


 こんなにもイラッときてしまったのは、たぶん私の実家で農業をやってたっつーせいもある。正確に言えば、私の祖父母(同居)が農業をやっており、父母は働きながら祖父母の仕事を手伝っていた。


 そういえば、もうすぐ桃の収穫シーズンが始まる時期。口の中で崩れていくような瑞々しい桃を作るのにどれだけ大変か……きっと町人さんは分かっていないんだろうな……と思う。桃の収穫が朝の何時から始まるか、とか、シルバーシート(地面に敷いて太陽の光を反射させるヤツ)敷きの過酷さ、とか……。


 ちなみに収穫は5時起きが普通だし、シルバーシート敷きは梅雨が明けたぐらいの非常に蒸し暑い時期に、さらに蒸し暑い畑のなかで腰を曲げながらやらなくちゃいけない(これはやってみなくちゃ絶対分からないことだけれど、畑のなかっていうのはとにかく蒸し暑いのだ)。


 収穫作業も軽トラックが一杯になるまでには3時間半はかかる(枝についた桃を取る人、2人。桃を箱に詰める人、2人がかりで)。畑に着いた時点では、まだセミも鳴いていない。それが、セミがやかましく鳴き始めたころから桃畑のなかは湿度と温度の地獄と化す。しかも、桃の枝は結構低く生えているから、普通に歩くようには畑のなかを歩き回れない。これが予想以上に体力を削っていく……。


 大変なのは夏ばかりじゃない。夏に桃を収穫するためには寒いうちから剪定作業や「桃すぐり(正確な作業名称は不明。枝からムダな花を取っていく作業のこと。ちなみに祖父母の正確な発音は『もんもすぐり』)」などをやらなくてはいけない。農薬だって撒かなきゃいけない。肥料だってやらなきゃいけない。基本的に農家にオフシーズンなんてない。サラリーマンと同じように年中働いてるのだ。


 以上が大学に入って東京に来るまで私が見てきた18年間の間に見た「農家の大変さ」である。

 これだけ大変な労力をかけて育てた桃がいくらのお金になるかというと……200万ぐらいにしかならない。もっともこれは規模の問題もあって、私の家の規模、桃の木が50本ぐらい(たぶん)ではそんなものだ(地元の有名な農家にはひと夏に桃だけで1000万円ぐらい稼ぐ農家もいるけれど、ほとんど完全に企業化している)。もしかしたら、これは言っちゃいけないことかもしれないけれど、私の家では知り合いからの注文を受けて桃を全国発送とかやっていた。もし、全部農協におろしてたりなんかしたら収入は半分ぐらいになっていたかもしれない*2


 もちろん、これでは食えないから祖父は土木作業員として働いていた。そういう苦労を考えると、はっきり言って「サラリーマンが大変だから、農業やってのんびり暮らしたい」なんてのは到底不可能だ、ってことが私にはすごく理解できる。サラリーマンの大変さを耐えられない人が、農家の大変さに耐え切れるわけがないのだ。桃をひとつやるのだって大変なのに、自給自足を目指すならもっと大変になるに決まっている。米だって、すげぇ大変なんだぜ。稲刈りで30kgの米袋を持って運ぶのとかさ……(稲の繊維がチクチクしてそれがまた辛いんだ……)。


 さて、町民さん。アナタは年収200万円で生活ができますか?200万円で過酷な農作業に耐えられますか?もし耐えられるなら、是非、私に相続権がくるはずの実家の農地を継いでいただきたい。私は耐えられません。農業って超シビアよ。ネクターってみんな一度ぐらいは飲んだことがあると思うんだけど、あれ、傷がついたりした桃が原料なんだよ。あの原料の仕入れ値、いくらだと思う?5kg箱一個で200円ぐらいだったよ、たしか。




*1http://d.hatena.ne.jp/hitit/20070724#seemore、コメント欄より抜粋


*2:ちなみに私の家での桃一箱価格は2000円。果実の大きさなどにもよるが、市場価格は4000円とかだと思う。それが農協に降ろすと1000円とかになる





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コルンゴルトの弦楽四重奏曲全集

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 「CD1枚あたりの価格500円切れは当たり前」という爆安レーベル、ブリリアント・クラシックスがまたやってくれた……、とグスタフ・クリムトの絵が描かれたジャケットを見つけた瞬間に驚いてしまった。エーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトの弦楽四重奏全集である(5月に発売されていた模様)。全集といっても曲数が少ないので、2枚組。でも値段は1092円(HMV価格)。面白そうなので迷わず購入してしまった。今年2007年はコルンゴルトの生誕110周年、死後50周年の記念年だし。


 コルンゴルトと言っても、名前を知っている人は限られているだろう。もしかしたら古い映画が好きな人なら知っているかもしれない。彼はユダヤ系の家庭に生まれ、ナチスの台頭とともにアメリカに亡命以降、ハリウッドの映画音楽製作に携わりアカデミー賞を二度も受賞した作曲家である。現在のハリウッド映画音楽の礎を築いた人、ジョン・ウィリアムズの遠い祖先、と言っても過言ではない人物なのだが、しかし、彼の経歴を辿るとそれ以上にスゴい事実がたくさんある。


 例えば、作曲家デビューの歳。なんと9歳。このときマーラーを脱帽させ、リヒャルト・シュトラウスを震撼させた、というだからモーツァルトに匹敵するほどの神童ぶりである。今回の全集には18歳(1915年)の頃に書かれた弦楽六重奏曲も収録されており、その恐るべき才能に触れることができる。1915年のヨーロッパといえば第一次世界大戦の真っ最中なのだが、そういう世の中の暗さを全く感じさせない澄み切って爽やかな内容が素晴らしい。特に1楽章の「モデラート-アレグロ」と2楽章の「アダージョ」の対比は、昼間の賑やかな街が夜になって静けさを取り戻したような趣があってうっとりしてしまう(メロディの豊かさは、イギリスの近代音楽に通ずるものがある)。


 「神童」としてデビューした後、コルンゴルトはリヒャルト・シュトラウスのようにオペラ作曲家としての栄光の道を歩むことになる。リヒャルトのオペラといえば「官能と退廃」という19世紀末の雰囲気を20世紀にまで持ってきてしまったような感じがあるけれども、コルンゴルトもそれに負けていない。オペラ作曲家時代の作品である弦楽四重奏曲第1番は、27歳の頃の作品だが“腐臭を放つ寸前の熟しすぎた果実感(後期ロマン派の特色)”が満載で「さぞかし、夜の生活も盛んだったんだろうなぁ……」と余計なことを想像せずにはいられない。でも「俺が、俺が!」と主張しまくるリヒャルトは違った、落ち着いたエロス。


 続く弦楽四重奏曲第2番は、アメリカに渡ってからの作品。これまでの官能的な雰囲気が薄まり、極端にキャッチーで簡明な曲に仕上がっている。「俺らの国みたいに歴史があるわけじゃないし、このぐらいで止めておいた方がアメ公にはぴったりじゃねーの?」とコルンゴルトが言ったかどうかは知らないが、絵に描いたようなロマン派音楽。これはそのまま甘いロマンスを描いた映画の劇中に流れていそうな感じだ。


 戦後、コルンゴルトは後期ロマン派の官能のなかへと作風を回帰させていくのだが(弦楽四重奏曲第3番はその頃の作品)「さーて、ヒトラーもいなくなったし、ヨーロッパに帰って昔みたいにブイブイ言わせてやろうか」とヨーロッパに戻ると、もはや自分のような曲を書いている人は誰も残っておらず、失意のなかで再びハリウッドに赴く……という運命を辿ることとなる。


 その後、彼の作品は物好きな演奏家がヴァイオリン協奏曲を度々取り上げるぐらいで、ほとんど忘れられた存在として扱われるのだけれども、ここに来てコルンゴルトへの関心が高まっているようである。知人が運営に関わっているオーケストラでも今度、作品を取り上げるのだとか。



オーケストラ・ディマンシュ第26回演奏会


2007年9月16日(日)北とぴあ さくらホール


13:30 開場 / 14:00 開演


指揮:金山 隆夫


J.シベリウス  交響曲第7番 ハ長調Op.105


E.W.コルンゴルト  シンフォニエッタ Op.5


全席自由 ¥1000-



 その演奏会の詳細がこちら。なんとコルンゴルトの《シンフォニエッタ》は日本初演だそう。プログラムは同じ1957年に亡くなっているシベリウスの交響曲(《シンフォニエッタ》の初演に接していたらしい)とカップリングという気合の入れようである。「初演時の1913年から、94年の時を経て日本初演……ってどれだけ忘れられてたんだよ」と思ってしまうけれど、みんな薄幸が好きってことなのだろうか……。



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 映像はコルンゴルトの代表作、歌劇《死の都市》より「マリエッタの歌」。良い曲だ……。





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演るを考える

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ユリイカ2007年7月臨時増刊号 総特集=大友良英

ユリイカ2007年7月臨時増刊号 総特集=大友良英







 雑誌『ユリイカ』の大友良英特集をじっくりと読む。特集には対談形式の文章が多く掲載されており、カヒミ・カリィとのデレデレとした会話や、お互いのルーツを明かしあうジム・オルークとの対話、それからSachiko Mが毒を吐きまくる「オフサイトをめぐって」などがとても面白かった。「大友良英論」という章では、吉田アミの文章が飛びぬけている(涙が追いつけないほど、疾走する批評である)。しかし、この特集で最もスゴいのは細馬広通との『「音の海」という体験』というインタビューである。これは大友良英のファンだけではなく、音楽について考える人ならば読んでおいて損はない素晴らしい内容。


 このインタビューは2006年3月に大友良英が参加した「知的障害者との音楽ワークショップ」についてのものなのだが、イベントのはじまりからし知的障害者による「即興演奏ライヴ」の実現に至るまでのドキュメンタリーにもなっている。ワークショップで大友が触れ合った個性的な演奏家たちがここでは語られている。ここには皆が大好きな「障害に負けずに頑張っている障害者のひたむきな姿」はない。代わり浮かび上がってくるのは「健常者とは異なった感性を持つ“ミュージシャン”の驚くべき即興演奏の模様」である。そこから大友は「即興演奏」、あるいは「音楽」の在り方みたいなものを問おうとしているように思えた。



最初、音遊びのワークショップを見に行ってみると、子どもたちを自由に遊ばせていたのね。それは結構なことだと思ったんだけど、その自由に遊ばせてて終わったあと、それを離れて聞けば立派な音楽になりますって、当時、指導していた人が言うのを聞いて、ムカッときたんですよ。(中略)だったら、事務所で紙の上に書いて仕事しているところにこっそりお客さんを入れて、紙の音も素敵でしょ、これも音楽ですよというのと変わりないじゃない。



 20世紀。ジョン・ケージに代表される音楽家の活動によって、楽音と音楽は極限まで拡大された。今だって、机の前に座って4分33秒の時間を過ごすだけで誰もがケージの音楽作品を演奏したことになってしまう(また、今こうしている間にケージの『0分00秒』が演奏されている)。そのような状況では、当然「音楽とは一体何か?演奏行為とは一体何か?」という問いが生じるだろう(真っ当な人間であれば。ケージの熱烈な信奉者はそんな疑問すら覚えないのかもしれないけど)。引用した大友の「ワークショップでの苛立ち」はそのような問いにも対峙するものとなっているように思った。またこれは、あまりに「音楽を演ること」が安易になりすぎている現在への警鐘とも読める。読む人に「音楽を聴くもの」、「音楽を演るもの」としての自覚を呼び起こすような名文である。



LIVE Vol.1 series circuit

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 大友良英の音楽、文章に触れていると「この人はやっぱりすごく真面目で、真剣な人なのだなぁ」と思う。今日新宿のタワレコに行ったら新譜がジャズ・コーナーのランキングで3位。これに触れた人がみんな音楽に対して、もう少し真面目な気持ちになったら良いのにな、と思う。いい加減な気持ちで聴けない音楽もあるのだ。





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ユーリ・バシュメットの映像集

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 Youtubeにユーリ・バシュメットの映像がアップされている。現代のヴィオラ奏者のなかで、最も人気があり、そして最も甘い音を出す人として知られる演奏家の演奏をこのようにして観られるのは大変喜ばしいことである。


 現在は自らモスクワ・ソロイスツという弦楽グループを主宰し、そこで指揮活動も行っているバシュメットだが、アップされている映像の多くがモスクワ・ソロイスツとの演奏会の模様。「自分で組織したグループを、自分で指揮をして、自分でソロをとる」……ってまるでマイルス・デイヴィスのようだけれども、演奏はやっぱり素晴らしい。硬質な表面のなかに、艶のある芯を持った太い音色はこの人にしか出せない特別なものだと思う。



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 特にこの映像。演奏している曲はパウル・ヒンデミットによる《葬送音楽》。イギリスの国王だったジョージ五世の葬儀のために作曲され、ヒンデミットが自ら初演をおこなった曲である(彼はヴィオラ奏者でもあった)。色彩を欠いたモノトーンの瞑想的音楽を、しっとりと歌い上げていく。普段は濃厚な表現を多用するバシュメットがここで見せる抑制は、幅の広さを感じさせる表現である。素晴らしい。また、ここまで『ヴィオラのために書かれた』ということを実感させる曲も珍しい、とも思う。



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 もうひとつ聴いてもらいたいのはソフィヤ・グバイドゥーリナのヴィオラ協奏曲(こちらはモスクワ・ソロイスツとの共演ではない。指揮はセミョン・ビシュコフだろうか)。グバイドゥーリナは一時期アルフレート・シュニトケや、ギヤ・カンチェーリなどとともに“ポスト・ショスタコーヴィチの作曲家”として紹介されていた旧ソ連出身の女性作曲家。この作品は、その先輩格にあたるドミトリ・ショスタコーヴィチへのオマージュも含んでいる(ところどころに彼のイニシャルから取られた『D-Es(S)-C-H』の音形が用いられている)。


 バシュメットの超絶技巧がとにかくすごくて、楽器がブッ壊れそうな感じなのだが、それ以上に感心してしまうのはグバイドゥーリナの音楽を追いかけていくカメラワークの上手さ。ヴィオラの下地に、様々な楽器の音色が重ねられていく様子をとても細やかにカメラが追いかけていく、その解説的な視線が面白い。


関連エントリ

本当はカッコ良いヴィオラについて - 「石版!」*1




*1:今回紹介した音楽のCDなどはこちらで取り上げました





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武満徹の映画音楽

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 本日は日本の音楽関連でもう一本。先日、Youtubeで見つけた武満徹の映画音楽に関する映像を紹介しておく。詳細はよくわからないのだが、どうやら海外で製作されたドキュメンタリの模様。武満の映画音楽作品は小学館から発売されている全集に全て収録されているのだが、おそろしく高価なため、このような形で触れられるのは貴重。涎が洪水のように流れ出る。


 ここで改めて映像の抜粋とともに武満の映画音楽を聴いてみると、その仕事ぶりは他の映画音楽家と比べて極めて異質なものとして感じられる。音楽が常に映像と寄り添っていて、独立して存在する瞬間がない。黒澤明作品なら早坂文雄が、また海外ではエンニオ・モリコーネやジョン・ウィリアムズといった作曲家が印象的な映画音楽を書いているけれども、彼らの音楽が独立して存在しえるのに対して、武満の映画音楽はたぶんそのように独立したものとして演奏され得ないような感じもする。今回紹介した映像のパート4で、小林正樹監督が語る武満の映画音楽はそういう『特別さ』を伝えているので、要チェック。


 どうでも良いけれど、映画にまつわる武満のエピソードで「ジム・ジャームッシュと一緒に『プリンスって良いよね!』と語り合った」というものが個人的にすごく気に入っています。





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宮城道雄『春の海――宮城道雄随筆集』

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 音楽家の書いた文章には結構面白いものがあって、好きでよく読んでいるのだけれども、そのなかでも宮城道雄の随筆は時として風変わりなぐらいユーモラスで楽しく読めた。邦楽(J-POPのことではない)……というと今やヴァイオリンやピアノよりも敷居が高いような感じがし、さぞ宮城も雅で厳かな文章を書くのだろう……と想像していたのだけれども、良い意味で期待を裏切る内容である。


 読んでいて日曜の朝に、横着して布団に包まりながら朝食を食べてるような、そういう安らかな読書感がやってくる。そういうユルさが内田百閒の随筆とも似ているな、と思っていたら、それもそのはず宮城の口述筆記にあたったのが百閒先生のお弟子さんであり、最終的に百閒先生が原稿をチェックしていたそうである。そういえば『百鬼園随筆』に「宮城道雄は布団のなかから手を出さずに点字で本が読めるからうらやましいな」というような文章があった気がする。


 正月になれば嫌というほどテレビから流れてくる《春の海》、その作曲家のことを私はこれまで何も知らなかったのだけれど、この本がとても面白かったので彼の音楽を少し探ってみようかな、という気になった。文明開化以降に日本に入ってきた西洋音楽と出会い、そのなかで西洋音楽の形式を巧みに箏曲などに取り入れていた……などはドビュッシーの逆を行くようである。また、何度かストラヴィンスキーの名前が出てくるのだけれども、邦楽家の書く文章から彼の名前が出てくる意外さも面白い。


 また、盲目の、音で捉えた世界が随筆の中で瑞々しく描かれている。「盲人の随筆」ということで、それが特異な雰囲気を持っているのは当たり前なのかもしれないが、宮城の鋭敏な耳が捉えた「季節」や「風景」の情景が素晴らしいのである。宮城の文章は「晴眼者のアナタには聞こえないかもしれないが、世の中にはこんな音も存在しているんですよ」と教えてくれたようにも思う。マリー・シェファーではないけれども「耳を啓く」というか。





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カルロス・フエンテス『脱皮』

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脱皮 (ラテンアメリカの文学 (14))

脱皮 (ラテンアメリカの文学 (14))






 最近はずっと20世紀の海外文学を集中的に読んでいるのだけれども、毎回「こんな風にも小説が書けるのか!」という驚きがあって楽しい。カルロス・フエンテスというメキシコの作家が書いた長篇『脱皮』もそういう類の本で、ページをめくるたびにアドレナリンが分泌されてしまう。この作家の作品は、これまでに2冊*1読んできたけれど、今回のが一番すごかった。400ページ、というと「まぁ普通に長い小説かな」という感じがするけれども、“ジョイスとプルーストがツェッペリンを爆音で聴きながら黒魔術の儀式を行っているような”とんでもない400ページである。ちなみに発表されたのは1967年。これはガルシア=マルケスの『百年の孤独』が発表された年でもある。


 神話的な、あるいは歴史的なモチーフと、泉のように湧き出る過去の記憶、そして繰り出される文学論・音楽論がカットアップのように繋ぎ合わされて展開されるという構造の複雑さに舌を巻くばかりではなく、描かれている内容もすごく濃厚。生命を失った肉体を瞬く間に腐敗させるメキシコの熱気とその腐敗臭で感覚がおかしくなるような壮絶な世界にひきこまれてしまう。

 しかしフエンテスが読者を引き込む世界は、リアリティを失った仮想の現実ではない。人を切っても血が出ない生易しい幻想ではない、刺されたら激痛が走る悪夢的幻想だ。このリアリティと幻想のバランス感覚(というか弁証法的綜合?)、そしてそこでなされる「現実のメキシコ」という国家への批判はいわゆる「マジック・リアリズム小説」のなかで、この小説が最良の一冊であることを感じさせる。そういう批判的なまなざしは小説家かつ外交官でもあるフエンテスならでは、というところかもしれない*2。小説の現実的虚構性が、国家の現実的虚構性を映し出す鏡になっている(こういうテーマにはすごく60年代を感じるけれども)のも「コルテスのメキシコ征服ルートを逆に辿る」という一応のあらすじから滲み出るかのよう。


 翻訳も良い感じである。様々なものが語れる、その対象ごとに文体が切り替えられているようなのだけれども(原文を見たわけではないからこれは想像だ)、その違いを上手く訳し分けている感じがする(途中で中上健次のように押し寄せてくる箇所があったりして興奮してしまった。しかも濡れ場)。超オススメ。あと集英社には「ラテンアメリカの文学」シリーズを復刊して欲しいです!




*1:その感想はこちら。『遠い家族』『老いぼれグリンゴ』


*2:フエンテスはまだバリバリの現役のようで、ネットで検索をかけてみるとモハメド・エルバラダイとのツーショットなんかを見ることができた





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自分だけの音を!――様々な自作楽器について

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 「“自分だけのスタイル”を確立すること。それがあれば少なくとも10年は食べていける」ということを書いていたのは、村上春樹だったと思います。小説の世界を眺めてみれば、たしかに有名な作家というのはちゃんと「自分のスタイル」を確立してモノを書いていることが確認できます(もちろん毎回手を変え品を変え……というタイプの作家もいるわけですが)。もし、誰かが小説家になりたいと思ったら、ストーリーを考えることよりも、むしろ「自分だけの言葉」、「自分だけのイディオム」を見つけることがデビューへの近道なのかもしれません。


 これは小説というジャンルに限らず、音楽でも同じようなことが言えるでしょう。しかし、音楽において「自分のイディオム」を身に付けることは、小説の世界よりも難しいことのように思われます。音楽を音楽たらしめるための規約には、和声法、対位法、器楽法……といった様々なものがあり、単純に数的なものから考えても小説より多いのです。そのルールのなかで「自分のイディオム」を考えようとすれば、自ずから「先人とかぶってしまう」という現象が生まれてきます。音楽家たちの努力というのは正に「君の音楽はまるで○○のようだね」という批評的な言葉からの逃走(あるいは闘争)なのかもしれません。


 どうすれば簡単に「自分だけのイディオム」を作ることができるのか。ここで発想を変えてみましょう。何も既存の規約に縛られる必要はないのです。そもそもの「規約」から自分で作れば、それはそれだけで「自分だけの音楽」、しかも「新しい音楽が生まれる可能性」を作ることになります。12音技法(シェーンベルク)、移調の限られた旋法(メシアン)、コブラ(ジョン・ゾーン)……20世紀になってから生まれた新しいイディオムあるいはルールにはこのようなものがあります(イヴァン・ヴィシネグラツキーが考案した4分音階も含まれるでしょうか。オクターヴをさらに4分割、48個の音階に)。


 前置きが長くなってきました。そろそろ、本題に入りましょう。「自分だけのイディオム」を作ること、それは「自分だけの音」を作ることと近い意味を持っています。しかし、シェーンベルクもメシアンもジョン・ゾーンも最も単純な意味で「自分だけの音」を作り出したわけではありません。何故なら彼らは既存の楽器を使って「自分が考えた規約」を施行した音楽家だからです。本当に「自分だけの音」を作ろうとするならば、自分だけの楽器を作ることから始めなくてはならないでしょう。


 世界に存在する珍楽器愛好家の皆様、こんにちは。申し遅れましたが私、珍楽器妄想博物館の館長を務めております、mkと申します。先ほど申し上げたとおり「自分だけの楽器を作ることから始めなくてはならない」などとお聞きになられて、「そんなヤツがいるのか?」と思った方もいらっしゃると思います――しかし、それが確かに存在しているのです。今回はそのような自作楽器を使った音楽家に焦点を当ててみようと思います。



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 まずは、バラエティなどにも出演しお茶の間の人気者となっている明和電機。彼らの活動は、音楽という領域に限られたものではありませんが、全て自作楽器で音楽をやってしまうところはまさに「オリジナルな音楽家」と呼ぶことができるでしょう。100ボルトの電流を利用して、打ち鳴らされる金属類の音響はイタリア未来派とも共鳴するように思えます。



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 サックスを模して作られたヤンキークラクション楽器、武田丸が咆哮する「ツクババリバリ伝説」も名曲。激しい打撃音がブラストしているのも素晴らしいですね。工業製品をそのまま楽器として用いてしまった、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンを思い出してしまう。



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 彼らの活動を追った映画『半分人間』からの映像。若かりし頃のブリクサ・バーゲルト(バンドのフロントマン)のが非常にカッコ良いですね。パンクとグラムが混合して、腐敗してしまったような独特な歌声。ここ何年かで急激に太ってしまった彼ですが、体重と比例するように粘性を増していてるのが素晴らしい。


 さて、日本、ドイツのメジャーなアーティストを紹介してきました。次はアメリカの音楽家に参りましょう。アメリカではジョン・ケージという大物がプリペアード・ピアノという楽器を発明したことが有名ですが、ハーリー・パーチはもっとすごかった、ということは余り知られておりません。



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 こちらはハーリー・パーチの活動を追ったドキュメンタリの映像。パーチは独学で音楽を学び、生涯自作楽器を作り続け(現在にも200以上の楽器が現存しているそうです)、しかもほとんど誰にも影響を与えていない……という偉大な音楽家です。明和電機やノイバウテンとは全く規模が違い(映像で紹介される楽器の外見の奇怪さも群を抜いている……)、尊敬の念を抱かざるをえません。珍楽器愛好家の方々には、こちらにあがっている彼の関連映像を全てチェックすることをオススメいたします。「ハーリー・パーチは、20世紀の音楽史で最もオリジナルな存在だ」ということを立証するような感動に値する映像群。


 彼のCDは「現代音楽」の棚に置かれていますが、「ハーリー・パーチ」のコーナーを作って欲しいぐらいに独特。和声法、平均律とはまったく違った音の組織はもちろんのこと、彼の音楽はコンサート・ホールで演奏されるために作られていない……というところも含めて、良い意味で孤立しきった音楽家でした。


 ちなみにケージもパーチもカリフォルニア出身なのですが、こういう人物が生まれてきやすい風土なのでしょうか……。



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 今回は大友良英の自作7弦ギターの演奏で、お別れ。またのご来場をお待ちしております。





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クラシックとモータースポーツ

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 会社員として働き始めてあっという間に三ヶ月が経ち、ボーナスでテレビを買ったので、休日は家でホッピーを飲みながら『N響アワー』と『芸術劇場』をぼんやりと見て過ごす、というヌルい暮らしを送るようになった。大学に通っていた頃はテレビを持っていなかったので、ほとんど4年ぶりに池辺晋一郎先生のダジャレを耳にしたのだけれど、まぁ、お変わりのないこと。アシスタントの女性も、N響の団員も入れ替わってるのに、この人だけはずっと変わっていないのがすごい。ヌルさを通り越して、優美な感さえある。また、先々週の『芸術劇場』は音楽評論家、吉田秀和の特集でこれもまた感動的であった。


 私が見るテレビ番組って(皆藤愛子を観るためだけにつける)『めざましテレビ』と前述の二つの音楽番組ぐらいなのだけれども、先々週は偶然F-1の中継を観た。モータースポーツには全然詳しくないんだけど、車メーカーが持てる技術力を一心に注いで作った車が爆音でサーキットを走り回る、レーサーは命がけでハンドルを握っている、という感じは良い。レーサーだけではなく、チーム全体で勝負を作り上げていく、っていう感じはオーケストラにも似ているような気がする。


 オーケストラの指揮者にも、F-1レーサーみたいな人たちがいる。「ドライヴ感を持っている指揮者」と呼ばれる彼らが作り出す音楽は、聴いていて手に汗をかいてしまうぐらいの興奮に満ちていて、退屈という言葉を知らない。そういうタイプの指揮者の代表格と言えるのがカルロス・クライバーで、彼が振るリヒャルト・シュトラウスの《薔薇の騎士》の疾走感はサーキットを駆け巡るF-1カーそのもので、鋭く、美しかった。ただ、テンポが速い指揮者ならいくらでもいるけれども、クライバーの持っている音楽のうねりや自在さは特別だ、と未だに感じる。耳にぴったりと喰らいついて、スキを見せたら鮮やかに追い抜かれてしまうような。


 オーケストラとF-1が似ている、と感じるのは、(私でも知っているドライバーの)ミヒャエル・シューマッハと(音楽に詳しくないアナタでも知っている)ヘルベルト・フォン・カラヤンが同じように“帝王”と呼ばれていたからかもしれない。そういえば、どちらも“名門チーム”を代表する立場に座っていた。フェラーリとベルリン・フィルハーモニック・オーケストラ。どちらも世界最高峰の「誰もが憧れるブランド」である。もっとも、“帝王カラヤン”が作る音楽は、クライバーのようにオケをドライヴさせるタイプのものではなく、嫌味なぐらいに外観を磨け上げたスポーツカーで「一番速く走れるコースを、ごく普通の法定速度で走る」みたいなものだったけれど。これは貶しているわけではなく、“カラヤンの運転”もそれはそれとして素晴らしい。「車には絶対キズやヨゴレをつけないぞ!」という潔癖症的なところがあるけれど、それが徹底されたときの異常な音楽の高級感は立派だとさえ感じる。

 連想ゲームを続けてしまうと、ベルリン・フィルと双璧を成す名門、ウィーン・フィルはクラシック・カー・レースでならこれからもずっと一位を取り続けるだろうし、「ドイツの放送局が持っているオケ」なんかはマツダとかスバルとか、そういう車メーカーに似ている(どちらもポピュラリティで言ったら『名門』に負けるけど、特定の部分に強そう。そして、ハードコアなファンがいる)、とか思い浮かんできてなかなか楽しい。そう思ってしまうと、「南西ドイツ放送響*1が……」とか言ってる人は絶対ロードスターにしか乗らなそうな気もしてくる。


 現在、ベルリン・フィルの芸術監督のポストに座っているのがサイモン・ラトルという人なのだけれど、この人がまた変わった人。ヨーロッパの指揮者で現在最も有名なのがこの人とワーレリー・ゲルギエフというロシアの指揮者なんだけれども、ゲルギエフが分かりやすくロシアの作曲家の曲をリリースし続けているのに対して、ラトルは全然進んでいるコースが見えない。ベートーヴェンの交響曲全集やマーラーの録音を出してドイツ音楽の「王道」を走るかと思いきや、メシアンやドビュッシーなどフランスの近現代の作品を取り上げてみたり、出身国であるイギリスの作曲家のCDを出したり……という感じで「一体、何がやりたいんだろうな」と正直思ってしまうところがある。録音の内容も「結構斬新で面白いのだけれど、少しネジれてるというか……いや、これ、良いのか?」と不安になることが多い。音楽の技術は高いんだけれど、直球で「感動した!」というところに持っていかない変わった指揮者である(この人の録音ではベルリン・フィル芸術監督着任以前のモノの方が好きなものが多い)。


 聴衆が戸惑うほど好き勝手やってるラトルの姿は「他に誰もいないサーキットで、フェラーリを乗り回している大富豪のおぼっちゃん」みたいに見えなくもない。世界最高峰のオケに自分の好きな曲を好きなように演奏させているラトルの笑顔を見てると「これもこれで幸福な音楽なのかなぁ」と思う。交通ルールがない場所で好きなだけアクセルと急ブレーキがかけられる自由を想像するとうらやましい。




*1:現代音楽で有名なオケ





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宮下誠『「クラシック」の終焉?――未完の20世紀音楽ガイドブック』

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 アマゾンで予約可能になっていました*1。皆さんがこの本を買うことによって、私のふところにお金が入ってくるわけではありませんが、著者の奥様やご子息の幸福のために……と思って購入されると「良いことをした気分になるのでは」と思います。長々とこの本に関して書いてきたけれども、ちゃんとした感想は書いてなかったので少し。


 わけられた4つの章は大きく「(前作である)『20世紀音楽』へのブロガーたちの反応」を載せている部分と、「『20世紀音楽』を補うような辞典」部分の2つにわけられる。で、個人的に面白いのは前者の部分。辞典部分については「かなり詳しい」としか言えない。そもそも辞典の良し悪しってなんだろうか、と思う。既に知っていることだったら載っていなくても不便ではないのに「あの事柄が載っていない!」と文句をつけるのはどういう意味があるのか、と。載っていたら載っていたで「この記述は間違ってる!」とか文句をつけられるわけで、もしかしたら「辞典編纂者」っていうのは褒められることのない職業なのかもしれない(苦労が報われない……)。


 話を元に戻す。「ブロガーたちの反応」が掲載されている部分にはクラシック・ファン、というか所謂「クラヲタ」のメンタリティがいかに粘着質か、というのが表れている(私も例に漏れず)。「あの作曲家の扱いが酷い」、「あの作曲家の名前がない」とブーブー文句を言う人が多く「だったら自分で自分なりの『20世紀音楽ガイド』を作れば良いじゃないか!」とか思う。

 「クラシック」というと高尚な感じがするけれど、それをハードコアに愛好する人たちは(バカにされがちな)アニヲタとなんら変わらない。「富野の最高傑作はガンダムじゃなくてイデオンだろ!」とか「なんでバイファムはスパロボに出ないんだ!」とか言っているのと同じ(クラヲタだと『ショスタコ*2の最高傑作は(交響曲第)5番じゃなくて10番だろ!』とか言うようになる)。むしろ、経済効果とか大したことないからアニヲタよりもヒドい悪いかもしれない。


 ワスも自分のことを粘着質だって自認してたケド、もっとすごい人がたくさんいると思ったっす――とか言えば言うほど「自分は他のクラヲタとは違う」と示すかのような無限の差異化ゲームへと陥ってしまうよね……。




*1:ところでアドルノの『新音楽の哲学』はまだなのか


*2:ショスタコーヴィチ





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『ベンヤミン・コレクション(1)――近代の意味』

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 家に読みたい本がなかったので再読してみる。アドルノは読めるけど、ベンヤミンはなかなか読めないなぁ……。アドルノとは全く別種の“教養”を要する。





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「アドルノ――モダニズムの往還」『現代思想』1987年11月号

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 先日髪を切るため前に住んでいたところまで出向いた際に、ふらっと入った「本の価値があんまり分かっていない古本屋」で偶然見つけた雑誌『現代思想』のバックナンバー――特集はアドルノ。もちろん迷わず購入した。たった400円で鼻血が出るほど勉強になる買い物をしてしまい、ここ何日か気分が良かった。雑誌が出てから20年余り経った今、これを読むのはすごく「アドルノが人気のある時代っていうのが、かつてはあったのだなぁ」という羨ましいような気持ちにさせられる、と同時に「今こそ、アドルノを読む時代なのだ」という気持ちを強めた。


 「今なお、哲学を問うことはどういうことなのか」とアドルノが問うたように、ここに文章を寄せている人たちは皆「今なお、アドルノを読むことはどういうことなのか」を問いかけている。そこでは「ポスト・モダン思想の先駆けとしてのアドルノ(デリダよりも遥かにアクチュアルな問題を抱えた)」、「音楽学者としてのアドルノ」といった様々なアドルノの姿がプリズムのように描かれる。それぞれのアドルノの姿がそれぞれに興味深い。共通するのは、彼の言説がいつも「鈍い破壊力」を持っている、ということだろうか。「神は死んだ」と語るニーチェなどと比べると、やはり“人気”がないのも分かる気がする。


 アドルノが浮かび上がらせる「世界の恐ろしさ」は、だからこそ本当に恐ろしい。彼が与える衝撃は、じわじわとやってくる――多くの執筆者のなかでそれを正確に、魅力的に伝えているのは、三島憲一でろう(『否定弁証法』の翻訳者のひとり)。


 「例えばマルクスは、理想の世界を机の上描くのはイデオロギーでしかなく、哲学はまさに自己自身を今いちど転倒させて、そうしたイデオロギーを額面通り受け取り、世界を変革し、現実とならなければならないと説いた」。理想の世界を現実の世界とするために生まれた国家が、ソヴィエト連邦であったことは言うまでもないだろう。しかし、その試みは「理想の現実化どころか、スターリニズムを招来した」。アウシュヴィッツが生まれたのも、「理想を現実化する」という普通なら褒められるべき行動から発している――アドルノが説いた「理性の自己崩壊と野蛮さの召還」を三島はこんな例を挙げて簡潔に説明する。


 さて、現実(自然)を支配し、理想へと同一化させていくことが、暴力を生み、理想どころか地獄を生み出す「恐ろしさ」が伝わっただろうか。スターリニズムやアウシュヴィッツといった遠くにある、大きな地獄にピンと来ないのであれば、連合赤軍リンチ事件やオウム真理教などの例を考えてみて欲しい(それらの凶行も全て理想からはじまっている)。過去にあったことを忘れてしまったなら、『美しい国日本』というスローガンを思い浮かべるだけでも充分だろう。アドルノの言葉は、その「おぞましさ」を浮かび上がらせる力を持っているはずだ。


 まだアウシュヴィッツは終わっていないし、アドルノはまだ死んでいないのだ。





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くるり『ワルツを踊れ』

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ワルツを踊れ Tanz Walzer

ワルツを踊れ Tanz Walzer







 先行シングルを聴いて「ちょっとXTCすぎないか……?(カップリングが特に)」と勝手に思ってしまったため、大した期待をしていなかったのだが、これはすごく面白いアルバムである(よくよく考えたら、XTC大好きなんで嫌いなはずが無い)。月並みな感想だけれども、いつも良い意味で期待を裏切ってくれるバンドであるなぁ、くるりは。


 クラシックのクリシェや、ロマたちが奏でるメロディ(エミール・クストリッツァの映画に流れているような)、歌謡曲の暗さ、カントリーの朗らかさ……etc。掬っても掬っても掬いきれないほど多くの音楽的要素がこのアルバムから響いてくる。なんだか「ポップの源流」をみるような思いで聴いてしまう。


 めざましテレビのランキングでアルバム売り上げランキングでこれが3位になっているのを見たんだけれども、こういう極めてノマド的なバンドによるとても奇妙な「ポップス」が、認知され、人気があるってとてもすごい状況だと思う。10CC(ゴドレイ&クレームがいたころの)やXTCがテレビのスピーカーから聞こえてくる……という現実がやってきてもおかしくない。誰も喜ばないかもしれないが。


 何度も聴いてしまうとひねくれ方に慣れてしまって、だんだん普通になってしまうけれど、最初はすごく和声とメロディの進行にびっくりしてしまった。ここまで和声の緊張と解決を意識させてくれる音楽を耳にするのは、宇多田ヒカル以来。





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宮下さんへの私信

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 偽装的な素朴さについて、少なくとも私にはおっしゃるとおりのように感じています。しかし、その戦略性(“あえて感”というか)が実を結ぶのか、どうか、というところは少し考えてみる必要があると思うのです。必ずそれが戦略の受け手と共犯関係を結ぶことに成功する、とは言えません。




 「とりあえず聴いてみて!ホントに面白いんだから!」という素朴さをベタに受け取った人が現代音楽のCDを一枚買ってみる(何でも良いのですが、ヒンデミットにでもしておきましょう)。宮下さんが音楽に関する本を書かれた目的がここでひとつ達成されます。その購入者がヒンデミットを面白く聴くことができたら、宮下さんの目的がまたひとつ達成されます。


 しかし、宮下さんの素朴な態度を素朴に受け取ってしまう人がヒンデミットを素朴に拒否してしまう可能性もあると思うのです。「ヒンデミットを面白いと言っていたが、私には面白くなかった!騙された!」――筆者である宮下さんの元にそのようなお手紙が届いていませんか?


 仮の話を尚も続けさせていただくと、そこには現代音楽が「素朴に良いもの(上手い例が思い浮かびませんが、ハイドンの音楽の素朴さ、悪意の無さを想像していただけるとよろしいかと思います)」と勘違いされている、という状況が生まれていると思います。


 現代音楽は「素朴な良さ」を持っている音楽ではない(残念ながら、と言うべきでしょうか?)。宮下さんの目的が果たされる状況とは、その「《難しくてわからない》音楽」を「素朴に聴く」ことから、まず現代音楽の良さを感じてもらうことのはずです。素朴な耳を持ってもらえないことには、そこへ到達する道は見つかりません。


 また、勘違いから生まれる「素朴な拒否」とは、「素朴な耳」を持つ可能性をも食いつぶしてしまうようにも思います(『騙された!』という記憶が、そのような耳を持てなくしてしまう、というか)。「やっぱり現代音楽はわからない」ということを理解されることは避けなければならない。


 私と宮下さんの出発点がそう遠くはない、というのは私もそんな風に思います。私も同じように素朴な耳からはじめようとしているつもりです(だからこそ、激しく噛み付きたくなるのかもしれません)。そして私もまた小沼純一へのリスペクトを捧げる(というか単なるファンですが)者の一人ですし。もしかしたら、宮下さんを小沼ハト派、私を小沼タカ派、という風に分けることができるかもしれません。これは冗談ですけど。


 自分の態度について語るのは恥ずかしいので止めておきます。ひとつだけ。私は「瓶に入れて海に流された通信」(これはアドルノがシェーンベルクの音楽を評した言葉でもあります)のように音楽を語りたい、などと思っています。


 コメント、どうもありがとうございました。





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