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G.W.F.ヘーゲル『精神現象学』(上)

精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200)) 作者: G.W.F.ヘーゲル , 樫山欽四郎 出版社/メーカー: 平凡社 発売日: 1997/06 メディア: 新書 購入 : 4人 クリック : 26回 この商品を含むブログ (40件) を見る  2週間以上かかって半分読み終える。「まったくすごく大変な本を読み始めてしまったな……」というのが今のところの感想で、何一つ内容がつかめないという自信だけがある。世間で言われている「難解な本」、例えば、ルーマンとかアドルノとかを読んできたけれど、これはそれらとは難しさの質が違う。ルーマンやアドルノが含む「難解さ」は独特の言い回しや他領域から借用してきた概念に起因しているように感じるけれど、ヘーゲルにはそういうのはない。むしろ、一文一文はそんなに長くないし、文章も簡潔で、素朴に書いてある。だから、「とりあえず」読めてしまう。  けれども、読めるからと言って内容が汲み取れるわけではない。不思議と、さっき読んだはずの文章の断片的な意味が、つぎの文章にいくとサッと消えてしまっている。なんっつーか、あまりに素朴過ぎて留まっていかない……というか。サーッと流れていく。そして、ものすごく眠くなる(自分史上最強の催眠効果を持った本でもあった)。  アドルノはヘーゲルの思想に対してベートーヴェンの音楽を布置していたけれども、ちっともベートーヴェンにならなかった。アドルノが「ヘーゲルは難解」と書いているのを読んで「アンタだって充分難解だよ!」と思ったけれど、この質の違った難しさを前にして「これがベートーヴェンになるには10年ぐらいかかりそうだ……」と思った。今のところ、アルバート・アイラーみたいに響いている。素朴な感じに始まって、いつの間にか訳が分からなくなっているところとか。 Spiritual Unity アーティスト: Albert Ayler 出版社/メーカー: Esp Disk Ltd. 発売日: 2005/03/15 メディア: CD 購入 : 1人 クリック : 7回 この商品を含むブログ (18件) を見る  というわけで、アイラーを聴きながら読んでみたのだけれど「このベース、ゲイリー・ピーコックだったのか!!」という全然関係のない驚きがあった。ヘーゲルを、アイラーからヴェーベルンを挟んで、ベートーヴェン

ディレクション

 飲み屋でサラリーマンがえらそうに語る口調でブログを書いていることにいい加減飽きてきたので、音楽の話をします(かなり興奮気味に)。また、Youtubeにやっばい映像があがってましたよ……。ジョー・ザヴィヌルとウェイン・ショーター率いる ウェザー・リポートによる「Direction」 。  ジョー・ザヴィヌルの作曲によるこの曲は、マイルス・デイヴィスが1970年代によく取り上げていたことで有名ですが、この演奏はマイルス・バンドの演奏よりもソリッドでかなり良い(この崩壊の無さがイギリスのジャズ・ロックにも通ずる)。1971年、ちょうどウェザー・リポートが結成された直後、っつーことで気合が入ってたんでしょうか。ウェザーと言ったらジャコパス……と思っていたけれど、ミロスラフ・ビトウスのウッドベースもすげぇや!!

そういうお前ら、ホントに「選挙」に行ったのか?

 どうも私、ココロ社さんの選挙に行かない宣言 *1 を読んで、その尻馬に乗ろうと企むブロガーです。狂ったように面白い、と称されるブロガーが政治的な発言を行った、ということで賞賛や批判が入り混じったブクマコメントがついているようですが、今回もココロ社さんは絶対的に正しい。複雑な世の中ですから、政治に関しては思考停止、その代わりに別なことを考えて生活を充実させる、という選択は合理的であると思います。選挙速報も見たいし、HDレコーダーで取りためていたアニメもみたいなんってーのはよくばりです(この欲張りモノ!)。  そもそも、選挙権は文字通り「権利」なわけですから行使するのは自由。義務と履き違えているバカがゴチャゴチャ言っているようですが、ココロ社さんが言うように「自分が応援している政党に票が入って欲しい」というだけで、ご立派そうに言えるようなことではありません。「まあこういう人は投票しないでくれるとありがたいよ」なんて皮肉られる言われはまったくありません。「投票するのが当たり前」と主張を押し付けるのはファシズムです。  本当に日本の将来を考える人間であれば、今回投票に行った人、それも世の中の雰囲気に流されてなんとなく民主党に入れちゃったような人を非難すべきです。今回、テレビが「選挙に関心が高まっている」と煽るものだから、予言の自己成就的に余計「高まっちゃってる」気がしますが、選挙に行って(というか)自らの支持する政党・立候補者に投票した(つまり選択を行った)人はどれだけいるのでしょうか。大部分は「自民はダメだから、とりあえず民主」という感じで選挙権を行使しただけなんじゃないか、と。  私は、「アナタの周りに小沢一郎に期待している人いますか?」と問いたいですね。本当は誰も小沢になんか期待していないのに「自民がダメだから」という消極的な理由(と雰囲気)で、民主党に投票した人ばかりなんじゃないのかなぁ、と思うわけです。しかし、それは「選択」というよりも「逃避」に近い気もします。まぁ、前回の都知事選なんか、選択肢すらなく石原に決まってしまったから、今回はまだマシかもしれません。都知事選なんか、ホントはみんな石原なんか支持してないのに、対立候補がしっかりしないわけだから、消極的に現職へ投票……という「選択のできなさ」がすごくノー・フゥーチャー感を演出してましたし(少なくとも私はそう

「空気嫁」の傲慢さについて

 最近のブクマ動向を見ていると「空気を読むこと」に関するエントリに人気が集まっているように思います。それだけ他人との人間関係を上手くやっていくことに関心が高まっていることでしょうか。あるいは、にちゃんねるなどで強く規範化されている「空気嫁」という同調圧力は、いまや広く一般社会でも共通して存在している、ということなのかもしれません。  本来ならここで私も「空気が読めるようになる方法」を披露し、人気ブロガーへの道を一歩進めるべきなのでしょう(エントリのタイトルは『死ぬまでに実践したい10の空気の読み方』とかで)。しかし、ちょっと待ってください。  「空気嫁」言説においては、読まれるべき空気が存在するかのように扱われています。空気が存在すること、それは自明のことになってします。例えば、すごくお喋りな人が一人いて、終わりがないんじゃないか……っていうぐらい話を続けている(しかも話がつまらない)、なんて状況を考えてください。その場にいたお喋りなAさん以外の全員が内心「空気読めよ……」と思っているかもしれません。  彼が喋れば喋るほど、「空気」はどんどん重苦しくなっていく(もちろんこれは暗喩です)。このとき、読まれるべき空気は場全体に広がって存在するものとして、また各主体の外部に存在するものとして考えられているように思います。しかし、我々の社会において、本当に読まれるべき空気など存在しているのでしょうか?本当は、Aさんの喋りを聞かされている各々が勝手に考えていることが「似ている」だけであって、その場にある空気を読んでいるわけではない。そして、そもそも空気なんて存在しないのだとしたら……。  もう少し噛み砕いて説明しましょう。言語学の術語を用いるならば、このようなコミュニケーションの場において我々は「コード」を利用しながらやりとりをしています。例えば、ある主体が行為Aを行った場合、その被行為者は意味Aを受け取る、このとき「行為A」を「意味A」に変換しているのが「コード」と呼ばれているものです。しかし、このコードも暗喩です。  しかも、このとき言われているコードはコンピュータが意味解析を行うとき使用しているコードのように、ある社会にいる全員が共有している、というものでもありません。コンピュータであれば、どのコンピュータも「文章A」を同じように解析するでしょう。しかし、人間だったら「

続・「農業=のんびり」を強烈に批判する

金太郎 『サラリーマンは対人関係が非常に多くそのストレスが尋常じゃないから、自給自足の他人との衝突が少ないであろう農業がのんびりに思えるってだけですね。自分もその1人です。農業でやってる事は物凄い大変だと思います。 大変さの意味合いが違うので、「サラリーマンの大変さを耐えられない人が、農家の大変さに耐え切れるわけがない」てのは間違ってると言いたいだけです。サラリーマンの大変さも理解して頂きたいです。』  先日書いた農業についてのエントリ *1 にこんなコメントがつきました。金太郎さん(サラリーマンだから金太郎なんでしょうか。なんてユーモラスなんでしょう。愉快な人だなぁ!)、コメントありがとうございます。人間関係とか大変ですよね、サラリーマンって。「自分は酒が飲めないのに無理して酒の席にいかなくちゃいけない(本当は観たいアニメのDVDとかあるっていうのに……!!)」とか「自分はこんな風に働きたいのに周りのおかげで上手くできない」とか「自分より偏差値が低い大学を出てるバカな上司が俺より給料貰ってるのがムカつく」とか、色々ありますもんね。私もサラリーマンなのでそういう気持ちはなんとなく分かる気がします。まぁ、会社に入って日が浅いので幸いそういった苦労は今のところ味わっていませんが。  しかし、金太郎さんは「自給自足の他人との衝突が少ないであろう農業がのんびりに思える」とも仰っています。たしかに、農業というのは家族経営の自営業みたいなものですからバカな上司もいませんからその分は楽かもしれません。ただ「他人との衝突が少ない」なんてことはありません。もしかして「農業は自営業みたいなものだから、自分の好きなように仕事ができる」なんて思ってませんか?あるいは「田舎の人は心が温かい」なんて思ってたりするんじゃないでしょうか?  もし、そんな風に思ってたりなんかしたら、私は両手を挙げて金太郎さんの想像力を賞賛せざるを得ないでしょう。まったく、想像力が活発すぎです!(もしくは日曜の昼ぐらいに再放送している『田舎暮らし番組』の観すぎです!!サラリーマンならちゃんとNHKの放送料金を払って『クローズアップ現代』を観るべきです)  たしかに、農家の人には上司なんていません。だからと言って自分が好き勝手に仕事が出来る……なんてことは全く無いのです。まぁ、朝早く起きて桃の収穫に行くのが無理

PRINCE/『Planet Earth』

Planet Earth アーティスト: Prince 出版社/メーカー: Sony 発売日: 2007/07/23 メディア: CD クリック : 9回 この商品を含むブログ (43件) を見る  殿下の1年ぶりの新作。この天才アーティストに関して言えば「最新作がいつも最高傑作」だと思うことにしているのだが、今回も最高だ。昔の機材を引っ張り出して録られた前作『3121』は、その妙な懐古感のおかげで「最高……でも、昔を振り返るなんて……引退宣言とかしちゃうのでは」と心配になったけれど、まったくの杞憂であった。  しかも、今回のアルバムは宅録の世界から飛び出して「現代的なスタジオの音」になっている。鼓膜を深く振動させるソリッドなドラムや厚みのあるベースのサウンドがカッコ良い。こんなストレートで骨太なカッコ良さは、これまでのプリンスにあったか、とも思う。ジャケット写真に写った、絶妙にトリミングされた殿下の胸毛が、その骨太加減を象徴するかのようである。  言うまでも無く、胸毛は男性性を力強く強調する。このことはプリンスについて真剣に考えてたとき、驚くべきことなんじゃなかろうか。昔はハイヒールに女性用の下着を装備して激しくダンスしていたプリンスが、今は胸毛を露わにして骨太な音楽をやっている。以前のような倒錯やネジれた要素の色が薄まっていることは明らかだ。この転回はなんなのだろうか……と深く考えざるを得ない。プリンスがこんなにマトモになるだなんて……。  殿下も今年で49歳(49歳でこの音かよ!すげぇな!!)。この変化は単なる「落ち着き」なのかもしれない。また、「抑圧と倒錯」というアメリカの裏側を描きだしていたプリンスが、今度は「表側」を描き出そうとしているのでは……とインチキな精神分析を試みてもしっくり来てしまいそう(これと対照的なのはマイケル・ジャクソンである。彼は一貫して『正しさ』を体現しようとする表側の人間だったけれど、その『正しさ』への志向が過剰なあまりに結果として倒錯してしまった感がある。これもまたアメリカ的なのだが)。

桃の70%は汗でできている。

町人『本来の農業は、自給自足の生活です。お金持ちにはなれなくても、のんびり暮せる。ただし、農業のすべてが自給自足になってしまうと、これまた困ることになります。』 *1  良い感じのブログには、必ずと言っていいほど「嫌な後味を残していくコメントをつける人」という人がいるけれど、久しぶりに読んでいて「イラッ!イラッ!!」ときてしまったものがこちら。名前が「町人」となっているけれど、ほんと名前どおり農業のことを何もしらない馬鹿まる出しの発言である。  「農業の自給自足の生活がのんびり暮らせる」だって!一体誰がこんな現実離れした風説を流布したのか。私の地元(福島県)でそんなことを言ったら確実にトラクターで町内引き回しの刑、あるいは脱穀機の中に突っ込まれて体をズタズタにされるの刑に処されるぐらい、農業従事者の怒りを買う発言だ。  こんなにもイラッときてしまったのは、たぶん私の実家で農業をやってたっつーせいもある。正確に言えば、私の祖父母(同居)が農業をやっており、父母は働きながら祖父母の仕事を手伝っていた。  そういえば、もうすぐ桃の収穫シーズンが始まる時期。口の中で崩れていくような瑞々しい桃を作るのにどれだけ大変か……きっと町人さんは分かっていないんだろうな……と思う。桃の収穫が朝の何時から始まるか、とか、シルバーシート(地面に敷いて太陽の光を反射させるヤツ)敷きの過酷さ、とか……。  ちなみに収穫は5時起きが普通だし、シルバーシート敷きは梅雨が明けたぐらいの非常に蒸し暑い時期に、さらに蒸し暑い畑のなかで腰を曲げながらやらなくちゃいけない(これはやってみなくちゃ絶対分からないことだけれど、畑のなかっていうのはとにかく蒸し暑いのだ)。  収穫作業も軽トラックが一杯になるまでには3時間半はかかる(枝についた桃を取る人、2人。桃を箱に詰める人、2人がかりで)。畑に着いた時点では、まだセミも鳴いていない。それが、セミがやかましく鳴き始めたころから桃畑のなかは湿度と温度の地獄と化す。しかも、桃の枝は結構低く生えているから、普通に歩くようには畑のなかを歩き回れない。これが予想以上に体力を削っていく……。  大変なのは夏ばかりじゃない。夏に桃を収穫するためには寒いうちから剪定作業や「桃すぐり(正確な作業名称は不明。枝からムダな花を取っていく作業のこと。ちなみに祖父母の正確な発音は

コルンゴルトの弦楽四重奏曲全集

コルンゴルド:弦楽四重奏曲 全集(2枚組) アーティスト: コルンゴルド , フレッシュ四重奏団 出版社/メーカー: Brilliant Classics 発売日: 2007/01/01 メディア: CD クリック : 1回 この商品を含むブログ (1件) を見る  「CD1枚あたりの価格500円切れは当たり前」という爆安レーベル、ブリリアント・クラシックスがまたやってくれた……、とグスタフ・クリムトの絵が描かれたジャケットを見つけた瞬間に驚いてしまった。エーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトの弦楽四重奏全集である(5月に発売されていた模様)。全集といっても曲数が少ないので、2枚組。でも値段は1092円( HMV価格 )。面白そうなので迷わず購入してしまった。今年2007年はコルンゴルトの生誕110周年、死後50周年の記念年だし。  コルンゴルトと言っても、名前を知っている人は限られているだろう。もしかしたら古い映画が好きな人なら知っているかもしれない。彼はユダヤ系の家庭に生まれ、ナチスの台頭とともにアメリカに亡命以降、ハリウッドの映画音楽製作に携わりアカデミー賞を二度も受賞した作曲家である。現在のハリウッド映画音楽の礎を築いた人、ジョン・ウィリアムズの遠い祖先、と言っても過言ではない人物なのだが、しかし、彼の経歴を辿るとそれ以上にスゴい事実がたくさんある。  例えば、作曲家デビューの歳。なんと9歳。このときマーラーを脱帽させ、リヒャルト・シュトラウスを震撼させた、というだからモーツァルトに匹敵するほどの神童ぶりである。今回の全集には18歳(1915年)の頃に書かれた弦楽六重奏曲も収録されており、その恐るべき才能に触れることができる。1915年のヨーロッパといえば第一次世界大戦の真っ最中なのだが、そういう世の中の暗さを全く感じさせない澄み切って爽やかな内容が素晴らしい。特に1楽章の「モデラート-アレグロ」と2楽章の「アダージョ」の対比は、昼間の賑やかな街が夜になって静けさを取り戻したような趣があってうっとりしてしまう(メロディの豊かさは、イギリスの近代音楽に通ずるものがある)。  「神童」としてデビューした後、コルンゴルトはリヒャルト・シュトラウスのようにオペラ作曲家としての栄光の道を歩むことになる。リヒャルトのオペラといえば「官能と退廃」という19世紀

演るを考える

ユリイカ2007年7月臨時増刊号 総特集=大友良英 出版社/メーカー: 青土社 発売日: 2007/07 メディア: ムック 購入 : 1人 クリック : 12回 この商品を含むブログ (50件) を見る  雑誌『ユリイカ』の大友良英特集をじっくりと読む。特集には対談形式の文章が多く掲載されており、カヒミ・カリィとのデレデレとした会話や、お互いのルーツを明かしあうジム・オルークとの対話、それからSachiko Mが毒を吐きまくる「オフサイトをめぐって」などがとても面白かった。「大友良英論」という章では、吉田アミの文章が飛びぬけている(涙が追いつけないほど、疾走する批評である)。しかし、この特集で最もスゴいのは細馬広通との『「音の海」という体験』というインタビューである。これは大友良英のファンだけではなく、音楽について考える人ならば読んでおいて損はない素晴らしい内容。  このインタビューは2006年3月に大友良英が参加した「知的障害者との音楽ワークショップ」についてのものなのだが、イベントのはじまりからし知的障害者による「即興演奏ライヴ」の実現に至るまでのドキュメンタリーにもなっている。ワークショップで大友が触れ合った個性的な演奏家たちがここでは語られている。ここには皆が大好きな「障害に負けずに頑張っている障害者のひたむきな姿」はない。代わり浮かび上がってくるのは「健常者とは異なった感性を持つ“ミュージシャン”の驚くべき即興演奏の模様」である。そこから大友は「即興演奏」、あるいは「音楽」の在り方みたいなものを問おうとしているように思えた。 最初、音遊びのワークショップを見に行ってみると、子どもたちを自由に遊ばせていたのね。それは結構なことだと思ったんだけど、その自由に遊ばせてて終わったあと、それを離れて聞けば立派な音楽になりますって、当時、指導していた人が言うのを聞いて、ムカッときたんですよ。(中略)だったら、事務所で紙の上に書いて仕事しているところにこっそりお客さんを入れて、紙の音も素敵でしょ、これも音楽ですよというのと変わりないじゃない。  20世紀。ジョン・ケージに代表される音楽家の活動によって、楽音と音楽は極限まで拡大された。今だって、机の前に座って4分33秒の時間を過ごすだけで誰もがケージの音楽作品を演奏したことになってしまう(また、今こうしている間に

ユーリ・バシュメットの映像集

  Youtubeにユーリ・バシュメットの映像がアップされている 。現代のヴィオラ奏者のなかで、最も人気があり、そして最も甘い音を出す人として知られる演奏家の演奏をこのようにして観られるのは大変喜ばしいことである。  現在は自らモスクワ・ソロイスツという弦楽グループを主宰し、そこで指揮活動も行っているバシュメットだが、アップされている映像の多くがモスクワ・ソロイスツとの演奏会の模様。「自分で組織したグループを、自分で指揮をして、自分でソロをとる」……ってまるでマイルス・デイヴィスのようだけれども、演奏はやっぱり素晴らしい。硬質な表面のなかに、艶のある芯を持った太い音色はこの人にしか出せない特別なものだと思う。  特にこの映像。演奏している曲はパウル・ヒンデミットによる《葬送音楽》。イギリスの国王だったジョージ五世の葬儀のために作曲され、ヒンデミットが自ら初演をおこなった曲である(彼はヴィオラ奏者でもあった)。色彩を欠いたモノトーンの瞑想的音楽を、しっとりと歌い上げていく。普段は濃厚な表現を多用するバシュメットがここで見せる抑制は、幅の広さを感じさせる表現である。素晴らしい。また、ここまで『ヴィオラのために書かれた』ということを実感させる曲も珍しい、とも思う。  もうひとつ聴いてもらいたいのはソフィヤ・グバイドゥーリナのヴィオラ協奏曲(こちらはモスクワ・ソロイスツとの共演ではない。指揮はセミョン・ビシュコフだろうか)。グバイドゥーリナは一時期アルフレート・シュニトケや、ギヤ・カンチェーリなどとともに“ポスト・ショスタコーヴィチの作曲家”として紹介されていた旧ソ連出身の女性作曲家。この作品は、その先輩格にあたるドミトリ・ショスタコーヴィチへのオマージュも含んでいる(ところどころに彼のイニシャルから取られた『D-Es(S)-C-H』の音形が用いられている)。  バシュメットの超絶技巧がとにかくすごくて、楽器がブッ壊れそうな感じなのだが、それ以上に感心してしまうのはグバイドゥーリナの音楽を追いかけていくカメラワークの上手さ。ヴィオラの下地に、様々な楽器の音色が重ねられていく様子をとても細やかにカメラが追いかけていく、その解説的な視線が面白い。 関連エントリ 本当はカッコ良いヴィオラについて - 「石版!」 *1 *1 :今回紹介した音楽のCDなどはこちらで取り上げま

武満徹の映画音楽

 本日は日本の音楽関連でもう一本。先日、Youtubeで見つけた武満徹の映画音楽に関する映像を紹介しておく。詳細はよくわからないのだが、どうやら海外で製作されたドキュメンタリの模様。武満の映画音楽作品は小学館から発売されている全集に全て収録されているのだが、おそろしく高価なため、このような形で触れられるのは貴重。涎が洪水のように流れ出る。  ここで改めて映像の抜粋とともに武満の映画音楽を聴いてみると、その仕事ぶりは他の映画音楽家と比べて極めて異質なものとして感じられる。音楽が常に映像と寄り添っていて、独立して存在する瞬間がない。黒澤明作品なら早坂文雄が、また海外ではエンニオ・モリコーネやジョン・ウィリアムズといった作曲家が印象的な映画音楽を書いているけれども、彼らの音楽が独立して存在しえるのに対して、武満の映画音楽はたぶんそのように独立したものとして演奏され得ないような感じもする。今回紹介した映像のパート4で、小林正樹監督が語る武満の映画音楽はそういう『特別さ』を伝えているので、要チェック。  どうでも良いけれど、映画にまつわる武満のエピソードで「ジム・ジャームッシュと一緒に『プリンスって良いよね!』と語り合った」というものが個人的にすごく気に入っています。

宮城道雄『春の海――宮城道雄随筆集』

新編 春の海―宮城道雄随筆集 (岩波文庫) 作者: 宮城道雄 , 千葉潤之介 出版社/メーカー: 岩波書店 発売日: 2002/11/15 メディア: 文庫 この商品を含むブログ (7件) を見る  音楽家の書いた文章には結構面白いものがあって、好きでよく読んでいるのだけれども、そのなかでも宮城道雄の随筆は時として風変わりなぐらいユーモラスで楽しく読めた。邦楽(J-POPのことではない)……というと今やヴァイオリンやピアノよりも敷居が高いような感じがし、さぞ宮城も雅で厳かな文章を書くのだろう……と想像していたのだけれども、良い意味で期待を裏切る内容である。  読んでいて日曜の朝に、横着して布団に包まりながら朝食を食べてるような、そういう安らかな読書感がやってくる。そういうユルさが内田百閒の随筆とも似ているな、と思っていたら、それもそのはず宮城の口述筆記にあたったのが百閒先生のお弟子さんであり、最終的に百閒先生が原稿をチェックしていたそうである。そういえば『百鬼園随筆』に「宮城道雄は布団のなかから手を出さずに点字で本が読めるからうらやましいな」というような文章があった気がする。  正月になれば嫌というほどテレビから流れてくる《春の海》、その作曲家のことを私はこれまで何も知らなかったのだけれど、この本がとても面白かったので彼の音楽を少し探ってみようかな、という気になった。文明開化以降に日本に入ってきた西洋音楽と出会い、そのなかで西洋音楽の形式を巧みに箏曲などに取り入れていた……などはドビュッシーの逆を行くようである。また、何度かストラヴィンスキーの名前が出てくるのだけれども、邦楽家の書く文章から彼の名前が出てくる意外さも面白い。  また、盲目の、音で捉えた世界が随筆の中で瑞々しく描かれている。「盲人の随筆」ということで、それが特異な雰囲気を持っているのは当たり前なのかもしれないが、宮城の鋭敏な耳が捉えた「季節」や「風景」の情景が素晴らしいのである。宮城の文章は「晴眼者のアナタには聞こえないかもしれないが、世の中にはこんな音も存在しているんですよ」と教えてくれたようにも思う。マリー・シェファーではないけれども「耳を啓く」というか。

カルロス・フエンテス『脱皮』

脱皮 (ラテンアメリカの文学 (14)) 作者: フエンテス , 内田吉彦 出版社/メーカー: 集英社 発売日: 1984/04 メディア: 単行本 クリック : 1回 この商品を含むブログ (3件) を見る  最近はずっと20世紀の海外文学を集中的に読んでいるのだけれども、毎回「こんな風にも小説が書けるのか!」という驚きがあって楽しい。カルロス・フエンテスというメキシコの作家が書いた長篇『脱皮』もそういう類の本で、ページをめくるたびにアドレナリンが分泌されてしまう。この作家の作品は、これまでに2冊 *1 読んできたけれど、今回のが一番すごかった。400ページ、というと「まぁ普通に長い小説かな」という感じがするけれども、“ジョイスとプルーストがツェッペリンを爆音で聴きながら黒魔術の儀式を行っているような”とんでもない400ページである。ちなみに発表されたのは1967年。これはガルシア=マルケスの『百年の孤独』が発表された年でもある。  神話的な、あるいは歴史的なモチーフと、泉のように湧き出る過去の記憶、そして繰り出される文学論・音楽論がカットアップのように繋ぎ合わされて展開されるという構造の複雑さに舌を巻くばかりではなく、描かれている内容もすごく濃厚。生命を失った肉体を瞬く間に腐敗させるメキシコの熱気とその腐敗臭で感覚がおかしくなるような壮絶な世界にひきこまれてしまう。  しかしフエンテスが読者を引き込む世界は、リアリティを失った仮想の現実ではない。人を切っても血が出ない生易しい幻想ではない、刺されたら激痛が走る悪夢的幻想だ。このリアリティと幻想のバランス感覚(というか弁証法的綜合?)、そしてそこでなされる「現実のメキシコ」という国家への批判はいわゆる「マジック・リアリズム小説」のなかで、この小説が最良の一冊であることを感じさせる。そういう批判的なまなざしは小説家かつ外交官でもあるフエンテスならでは、というところかもしれない *2 。小説の現実的虚構性が、国家の現実的虚構性を映し出す鏡になっている(こういうテーマにはすごく60年代を感じるけれども)のも「コルテスのメキシコ征服ルートを逆に辿る」という一応のあらすじから滲み出るかのよう。  翻訳も良い感じである。様々なものが語れる、その対象ごとに文体が切り替えられているようなのだけれども(原文を見たわ

自分だけの音を!――様々な自作楽器について

 「“自分だけのスタイル”を確立すること。それがあれば少なくとも10年は食べていける」ということを書いていたのは、村上春樹だったと思います。小説の世界を眺めてみれば、たしかに有名な作家というのはちゃんと「自分のスタイル」を確立してモノを書いていることが確認できます(もちろん毎回手を変え品を変え……というタイプの作家もいるわけですが)。もし、誰かが小説家になりたいと思ったら、ストーリーを考えることよりも、むしろ「自分だけの言葉」、「自分だけのイディオム」を見つけることがデビューへの近道なのかもしれません。  これは小説というジャンルに限らず、音楽でも同じようなことが言えるでしょう。しかし、音楽において「自分のイディオム」を身に付けることは、小説の世界よりも難しいことのように思われます。音楽を音楽たらしめるための規約には、和声法、対位法、器楽法……といった様々なものがあり、単純に数的なものから考えても小説より多いのです。そのルールのなかで「自分のイディオム」を考えようとすれば、自ずから「先人とかぶってしまう」という現象が生まれてきます。音楽家たちの努力というのは正に「君の音楽はまるで○○のようだね」という批評的な言葉からの逃走(あるいは闘争)なのかもしれません。  どうすれば簡単に「自分だけのイディオム」を作ることができるのか。ここで発想を変えてみましょう。何も既存の規約に縛られる必要はないのです。そもそもの「規約」から自分で作れば、それはそれだけで「自分だけの音楽」、しかも「新しい音楽が生まれる可能性」を作ることになります。12音技法(シェーンベルク)、移調の限られた旋法(メシアン)、コブラ(ジョン・ゾーン)……20世紀になってから生まれた新しいイディオムあるいはルールにはこのようなものがあります(イヴァン・ヴィシネグラツキーが考案した4分音階も含まれるでしょうか。オクターヴをさらに4分割、48個の音階に)。  前置きが長くなってきました。そろそろ、本題に入りましょう。「自分だけのイディオム」を作ること、それは「自分だけの音」を作ることと近い意味を持っています。しかし、シェーンベルクもメシアンもジョン・ゾーンも最も単純な意味で「自分だけの音」を作り出したわけではありません。何故なら彼らは既存の楽器を使って「自分が考えた規約」を施行した音楽家だからです。本当に「自分だけ

クラシックとモータースポーツ

 会社員として働き始めてあっという間に三ヶ月が経ち、ボーナスでテレビを買ったので、休日は家でホッピーを飲みながら『N響アワー』と『芸術劇場』をぼんやりと見て過ごす、というヌルい暮らしを送るようになった。大学に通っていた頃はテレビを持っていなかったので、ほとんど4年ぶりに池辺晋一郎先生のダジャレを耳にしたのだけれど、まぁ、お変わりのないこと。アシスタントの女性も、N響の団員も入れ替わってるのに、この人だけはずっと変わっていないのがすごい。ヌルさを通り越して、優美な感さえある。また、先々週の『芸術劇場』は音楽評論家、吉田秀和の特集でこれもまた感動的であった。  私が見るテレビ番組って(皆藤愛子を観るためだけにつける)『めざましテレビ』と前述の二つの音楽番組ぐらいなのだけれども、先々週は偶然F-1の中継を観た。モータースポーツには全然詳しくないんだけど、車メーカーが持てる技術力を一心に注いで作った車が爆音でサーキットを走り回る、レーサーは命がけでハンドルを握っている、という感じは良い。レーサーだけではなく、チーム全体で勝負を作り上げていく、っていう感じはオーケストラにも似ているような気がする。  オーケストラの指揮者にも、F-1レーサーみたいな人たちがいる。「ドライヴ感を持っている指揮者」と呼ばれる彼らが作り出す音楽は、聴いていて手に汗をかいてしまうぐらいの興奮に満ちていて、退屈という言葉を知らない。そういうタイプの指揮者の代表格と言えるのがカルロス・クライバーで、彼が振るリヒャルト・シュトラウスの《薔薇の騎士》の疾走感はサーキットを駆け巡るF-1カーそのもので、鋭く、美しかった。ただ、テンポが速い指揮者ならいくらでもいるけれども、クライバーの持っている音楽のうねりや自在さは特別だ、と未だに感じる。耳にぴったりと喰らいついて、スキを見せたら鮮やかに追い抜かれてしまうような。  オーケストラとF-1が似ている、と感じるのは、(私でも知っているドライバーの)ミヒャエル・シューマッハと(音楽に詳しくないアナタでも知っている)ヘルベルト・フォン・カラヤンが同じように“帝王”と呼ばれていたからかもしれない。そういえば、どちらも“名門チーム”を代表する立場に座っていた。フェラーリとベルリン・フィルハーモニック・オーケストラ。どちらも世界最高峰の「誰もが憧れるブランド」である。もっとも

宮下誠『「クラシック」の終焉?――未完の20世紀音楽ガイドブック』

「クラシック」の終焉?―未完の20世紀音楽ガイドブック 作者: 宮下誠 出版社/メーカー: 法律文化社 発売日: 2007/07 メディア: 単行本 購入 : 1人 この商品を含むブログ (6件) を見る  アマゾンで予約可能になっていました *1 。皆さんがこの本を買うことによって、私のふところにお金が入ってくるわけではありませんが、著者の奥様やご子息の幸福のために……と思って購入されると「良いことをした気分になるのでは」と思います。長々とこの本に関して書いてきたけれども、ちゃんとした感想は書いてなかったので少し。  わけられた4つの章は大きく「(前作である)『20世紀音楽』へのブロガーたちの反応」を載せている部分と、「『20世紀音楽』を補うような辞典」部分の2つにわけられる。で、個人的に面白いのは前者の部分。辞典部分については「かなり詳しい」としか言えない。そもそも辞典の良し悪しってなんだろうか、と思う。既に知っていることだったら載っていなくても不便ではないのに「あの事柄が載っていない!」と文句をつけるのはどういう意味があるのか、と。載っていたら載っていたで「この記述は間違ってる!」とか文句をつけられるわけで、もしかしたら「辞典編纂者」っていうのは褒められることのない職業なのかもしれない(苦労が報われない……)。  話を元に戻す。「ブロガーたちの反応」が掲載されている部分にはクラシック・ファン、というか所謂「クラヲタ」のメンタリティがいかに粘着質か、というのが表れている(私も例に漏れず)。「あの作曲家の扱いが酷い」、「あの作曲家の名前がない」とブーブー文句を言う人が多く「だったら自分で自分なりの『20世紀音楽ガイド』を作れば良いじゃないか!」とか思う。  「クラシック」というと高尚な感じがするけれど、それをハードコアに愛好する人たちは(バカにされがちな)アニヲタとなんら変わらない。「富野の最高傑作はガンダムじゃなくてイデオンだろ!」とか「なんでバイファムはスパロボに出ないんだ!」とか言っているのと同じ(クラヲタだと『ショスタコ *2 の最高傑作は(交響曲第)5番じゃなくて10番だろ!』とか言うようになる)。むしろ、経済効果とか大したことないからアニヲタよりもヒドい悪いかもしれない。  ワスも自分のことを粘着質だって自認してたケド、もっとすごい人が

『ベンヤミン・コレクション(1)――近代の意味』

ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫) 作者: ヴァルターベンヤミン , Walter Benjamin , 浅井健二郎 , 久保哲司 出版社/メーカー: 筑摩書房 発売日: 1995/06 メディア: 文庫 購入 : 4人 クリック : 67回 この商品を含むブログ (72件) を見る  家に読みたい本がなかったので再読してみる。アドルノは読めるけど、ベンヤミンはなかなか読めないなぁ……。アドルノとは全く別種の“教養”を要する。

「アドルノ――モダニズムの往還」『現代思想』1987年11月号

 先日髪を切るため前に住んでいたところまで出向いた際に、ふらっと入った「本の価値があんまり分かっていない古本屋」で偶然見つけた雑誌『現代思想』のバックナンバー――特集はアドルノ。もちろん迷わず購入した。たった400円で鼻血が出るほど勉強になる買い物をしてしまい、ここ何日か気分が良かった。雑誌が出てから20年余り経った今、これを読むのはすごく「アドルノが人気のある時代っていうのが、かつてはあったのだなぁ」という羨ましいような気持ちにさせられる、と同時に「今こそ、アドルノを読む時代なのだ」という気持ちを強めた。  「今なお、哲学を問うことはどういうことなのか」とアドルノが問うたように、ここに文章を寄せている人たちは皆「今なお、アドルノを読むことはどういうことなのか」を問いかけている。そこでは「ポスト・モダン思想の先駆けとしてのアドルノ(デリダよりも遥かにアクチュアルな問題を抱えた)」、「音楽学者としてのアドルノ」といった様々なアドルノの姿がプリズムのように描かれる。それぞれのアドルノの姿がそれぞれに興味深い。共通するのは、彼の言説がいつも「鈍い破壊力」を持っている、ということだろうか。「神は死んだ」と語るニーチェなどと比べると、やはり“人気”がないのも分かる気がする。  アドルノが浮かび上がらせる「世界の恐ろしさ」は、だからこそ本当に恐ろしい。彼が与える衝撃は、じわじわとやってくる――多くの執筆者のなかでそれを正確に、魅力的に伝えているのは、三島憲一でろう(『否定弁証法』の翻訳者のひとり)。  「例えばマルクスは、理想の世界を机の上描くのはイデオロギーでしかなく、哲学はまさに自己自身を今いちど転倒させて、そうしたイデオロギーを額面通り受け取り、世界を変革し、現実とならなければならないと説いた」。理想の世界を現実の世界とするために生まれた国家が、ソヴィエト連邦であったことは言うまでもないだろう。しかし、その試みは「理想の現実化どころか、スターリニズムを招来した」。アウシュヴィッツが生まれたのも、「理想を現実化する」という普通なら褒められるべき行動から発している――アドルノが説いた「理性の自己崩壊と野蛮さの召還」を三島はこんな例を挙げて簡潔に説明する。  さて、現実(自然)を支配し、理想へと同一化させていくことが、暴力を生み、理想どころか地獄を生み出す「恐ろしさ」が伝わった

くるり『ワルツを踊れ』

ワルツを踊れ Tanz Walzer アーティスト: くるり 出版社/メーカー: Viictor Entertainment,Inc.(V)(M) 発売日: 2007/06/27 メディア: CD 購入 : 2人 クリック : 52回 この商品を含むブログ (614件) を見る  先行シングルを聴いて「ちょっとXTCすぎないか……?(カップリングが特に)」と勝手に思ってしまったため、大した期待をしていなかったのだが、これはすごく面白いアルバムである(よくよく考えたら、XTC大好きなんで嫌いなはずが無い)。月並みな感想だけれども、いつも良い意味で期待を裏切ってくれるバンドであるなぁ、くるりは。  クラシックのクリシェや、ロマたちが奏でるメロディ(エミール・クストリッツァの映画に流れているような)、歌謡曲の暗さ、カントリーの朗らかさ……etc。掬っても掬っても掬いきれないほど多くの音楽的要素がこのアルバムから響いてくる。なんだか「ポップの源流」をみるような思いで聴いてしまう。  めざましテレビのランキングでアルバム売り上げランキングでこれが3位になっているのを見たんだけれども、こういう極めてノマド的なバンドによるとても奇妙な「ポップス」が、認知され、人気があるってとてもすごい状況だと思う。10CC(ゴドレイ&クレームがいたころの)やXTCがテレビのスピーカーから聞こえてくる……という現実がやってきてもおかしくない。誰も喜ばないかもしれないが。  何度も聴いてしまうとひねくれ方に慣れてしまって、だんだん普通になってしまうけれど、最初はすごく和声とメロディの進行にびっくりしてしまった。ここまで和声の緊張と解決を意識させてくれる音楽を耳にするのは、宇多田ヒカル以来。

宮下さんへの私信

 偽装的な素朴さについて、少なくとも私にはおっしゃるとおりのように感じています。しかし、その戦略性(“あえて感”というか)が実を結ぶのか、どうか、というところは少し考えてみる必要があると思うのです。必ずそれが戦略の受け手と共犯関係を結ぶことに成功する、とは言えません。  「とりあえず聴いてみて!ホントに面白いんだから!」という素朴さをベタに受け取った人が現代音楽のCDを一枚買ってみる(何でも良いのですが、ヒンデミットにでもしておきましょう)。宮下さんが音楽に関する本を書かれた目的がここでひとつ達成されます。その購入者がヒンデミットを面白く聴くことができたら、宮下さんの目的がまたひとつ達成されます。  しかし、宮下さんの素朴な態度を素朴に受け取ってしまう人がヒンデミットを素朴に拒否してしまう可能性もあると思うのです。「ヒンデミットを面白いと言っていたが、私には面白くなかった!騙された!」――筆者である宮下さんの元にそのようなお手紙が届いていませんか?  仮の話を尚も続けさせていただくと、そこには現代音楽が「素朴に良いもの(上手い例が思い浮かびませんが、ハイドンの音楽の素朴さ、悪意の無さを想像していただけるとよろしいかと思います)」と勘違いされている、という状況が生まれていると思います。  現代音楽は「素朴な良さ」を持っている音楽ではない(残念ながら、と言うべきでしょうか?)。宮下さんの目的が果たされる状況とは、その「《難しくてわからない》音楽」を「素朴に聴く」ことから、まず現代音楽の良さを感じてもらうことのはずです。素朴な耳を持ってもらえないことには、そこへ到達する道は見つかりません。  また、勘違いから生まれる「素朴な拒否」とは、「素朴な耳」を持つ可能性をも食いつぶしてしまうようにも思います(『騙された!』という記憶が、そのような耳を持てなくしてしまう、というか)。「やっぱり現代音楽はわからない」ということを理解されることは避けなければならない。  私と宮下さんの出発点がそう遠くはない、というのは私もそんな風に思います。私も同じように素朴な耳からはじめようとしているつもりです(だからこそ、激しく噛み付きたくなるのかもしれません)。そして私もまた小沼純一へのリスペクトを捧げる(というか単なるファンですが)者の一人ですし。もしかしたら、宮下さんを小沼ハト派、私を小沼タカ