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6月, 2007の投稿を表示しています

私は何故「前衛していて良い」に苦笑するか

 先日、紹介した宮下誠 *1 の『「クラシック」の終焉?――未完の20世紀音楽ガイドブック』を読んでいる。今のところ、前作に相当する『20世紀音楽』よりも「簡潔な辞書」的性格が強く、また、いたるところに転載不可だったネット上の文章への言及が見られる奇書、という印象を受けている(『続きはWEBで!』戦略を取るCMのごとし、である)。  書店に並ぶのは7月10日らしいので「現代音楽に興味がある」という奇特な方々はチェックすれば良いと思う。  ただ、私の文章とそれに対する宮下のコメントを読み、「私が言いたいことが上手く伝わっていないのではないか」という風に思ってしまった。「上手く伝わらない」のは伝える側の問題だと考えるので、ここで補足させていただく。以下は、まだこの本を手に入れられていない方、あるいは今後もこの本を手に取ることのない方にとってはどうでも良い文章。けれども、もし本を読んで当ブログへ「批判」を言いに飛んできた方には読んで欲しい(かな)。 「前衛している」は「良い」のか? 語彙の貧困さ、「前衛している」の多出についてはmk氏の指摘どおりだろう。より言葉を磨かなければならない。そのように思う。  本のなかで、宮下はこのように反省と今後の努力の意思を示している。まず、この点に関し、私が問題としているところと宮下が問題とするところがズレているように感じている(私の書き方が悪かったのだと思う)。宮下は「語彙の貧困さ」を反省する。しかし、私が大きな問題だと感じていたのは、むしろそっちではなく「前衛していてよい」という言葉から受け取られる価値観についてだったのだ。  もう少し、噛み砕いて説明すると、「前衛していてよい」という言葉を用いるとき、言葉の使用者は価値判断をおこなっている、しかし、その価値判断はどうよ?――と私は問いかけたいのである。だから「前衛している」という幾分奇妙な日本語についてはどうでも良い。現代的な日本語でそのように言葉を用いることは一般的になっている、と考えているから。「ロックしている」、「ジャズしている」とかそういう「名詞 *2 +する」言葉にはもう慣れてしまっている。  前衛的な手法(例えば、12音技法、微分音、電子楽器)によって前衛的な響きが音楽のなかに生まれる。「前衛していてよい」という言葉は、私には「そのような手法を用いている“から”良

宮下誠氏より献本をいただきました

 法律文化社より出版される『「クラシック」の終焉?――未完の20世紀音楽ガイドブック』という本を献本いただだきました。きっかけは私が書いた「 アドルノは静かに眠れない。 - 「石版!」 」というエントリだったんだけれども、このエントリを著者の宮下誠氏が全文引用され、さらにそれに対する反論(レスポンス)がおこなわれています。  私事ですが、長年、自分の文章が「活字(PCの画面を通じて表現されるフォント、ではなく、紙の上にインクで印刷された文字としての)」となる、ということは大きな夢のひとつであったので、思わぬところでその夢を叶えてくれた著者の宮下氏には感謝したい。  とりあえず、本の感想については読み終えてから書こうと思いますが、ちょうどヒンデミットの新古典主義(あるいはヒンデミット“と”新古典主義)について「書こうかな(誰も読まないだろうけどさ!)」と思っていたところだったので、近々、本書で加えられた私への「挑発」に対する返答は書くつもりでいます。当方、売られた“ケンカ”は買う主義ですし、結局のところ、その買い方こそ、私が出来る最も真摯な態度であるから。  ついでに言えば、ここで引用されている私の文章は、いささかマズいものである、ということは今になって思う。本書の冒頭「はじめに」の部分では「許光俊はいかにバカであるか(音楽評論家として、またはテキストの読み手として)」ということがほんのり暴かれているのだが、同じように自分で自分の文章を読み直してみると「ブログを書いているmkという男はどのようにテキストを読めていないか(どのようにバカか)」ということが暴かれてしまうようで怖い。しかし、少なくともそれは許より暴力的ではない、という点でお許しいただきたい。  どのように私はバカであったのか、それについては本書にある「欠落」を認めていただければ、分かる。「この本には○○が足りない……」という批判は批判として成立しない、それでも尚、そのような批判をする者はバカである。

アドルノ『社会学講義』を読む(4)

社会学講義 作者: アドルノ , Theodor W. Adorno , 河原理 , 高安啓介 , 太寿堂真 , 細見和之 出版社/メーカー: 作品社 発売日: 2001/07 メディア: 単行本 この商品を含むブログ (5件) を見る  社会の物象化から「社会学の物象化(社会学への物神崇拝)」へとアドルノの語りは移っていく。ここでアドルノは、なんらかの目的を達成するために独立したはずの社会学という学問が、当初あったはずの目的をすっかり見失ってしまい、学問すること自体を目的としてしまっている部分が少なからず見受けられることを指摘している。 学問の物神崇拝ということで私が理解しているのは、学問の取り組むべき事柄とは無関係に、学問がその根拠連関や内在的な方法ともども自己目的と化する、ということです。(p.220)  補足だが、ここでアドルノが使用する「物神崇拝(フェティシズム)」とはマルクスから借用された概念である(マルクスにおいては、単なる商品交換のメディアである貨幣が、いつのまにかそれ自体として価値があるものとして認識される事象などを指す)。  ■  第二回の講義でアドルノはこのように述べている。 人々にできたのは支配を生き延びることでした。そして、このような社会学の性格、ほとんど生き延びるための科学とでも言いたいような性格が、そもそも昔から社会学には備わっていました。(p.33)  ここには「より良く生き延びるための手段」としての社会学の性格が見て取れる。アドルノが念頭においていた社会学の「目的」とはこのようなところから察することが出来るだろう。芸術が「自律的な形成物(それ自体に価値があるもの)」として一般的に考えられているのと違って、学問は他律的な形成物、外部へと開かれ影響を与えていくものでなくてはならない。そのような「目的」を果たさなければ、学問は「空虚な思考の遊戯」になってしまう。 (疲れてきたので、中途半端ですが終了します)

エクササイズとクラシック

 『ビリーズ・ブート・キャンプ』が大ヒット商品として話題に上がる……一方ではメタボリック・シンドロームが国を動かすほどの「心配の種」となる……現在の日本社会において健康や美容のためのエクササイズへの関心は高まる一方です。福利厚生の一環として、スポーツジムの利用料が割引に……なんて会社にお勤めの方もいらっしゃるのではないでしょうか?  そんななか、エクササイズを盛り上げるアイテムとして「音楽」が運動とセットになっていることは常識です。例の『ビリーズ・ブート・キャンプ』を観ても分かるように、屈強な黒人が発するシャウトのバックには常にスクエアプッシャーを8倍安くした感じの音楽が流れてますね。また、スポーツ用品においてはナイキとアップルが提携し、iPod nanoと連動させて運動量を管理するスニーカーなども発売されており、iTunes Storeにおいてエクササイズ中に聴くための音楽が配信されています。  しかし、どうしてこれらのエクササイズ・ミュージックのなかに、クラシックが含まれていないのでしょうか?ビリー・ブランクスの背後に、iPodののなかに存在するのは不思議とテクノやヒップホップなどの電子的なダンス・ミュージックに限られているように思います。ダンスとエクササイズの親近性によって、それが選択されている――そのような要因が浮かびます。しかし、クラシックもまたダンス・ミュージックであったはずなのです(しかも、テクノの10倍の長さの歴史がある!)。  今回はその問題について考えていきたいと思います。 プッシュアップ(腕立て伏せ)  プッシュアップが自分の体重を負荷にして筋肉を鍛える、いわゆる「自重トレーニング」の“王様”とされている所以は、バリエーションが豊富であるために、さまざまな部位に効く、という点でしょう。腕の開き方や姿勢を変えるだけで、逞しい腕だけではなく、美しい背中や、しっかりとした体幹を作り上げることができます。このことからプッシュアップさえできれば「無人島に行ってもムキムキでいられる」とさえ言われているほどです。 ベートーヴェン:交響曲第5&7番 アーティスト: クライバー(カルロス) , ベートーヴェン , ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック 発売日: 2002/09/25 メディア

スティーヴ・エリクソン『Xのアーチ』

Xのアーチ 作者: スティーヴ・エリクソン , 柴田元幸 出版社/メーカー: 集英社 発売日: 1996/12/13 メディア: 単行本 購入 : 1人 クリック : 10回 この商品を含むブログ (22件) を見る  スティーヴ・エリクソンの小説を読むのは3冊目だけれど、これは怪物級の作品だと思う。えげつないくらい飛びまくる小説のラインが、頭のなかを掻き回され、読みながら何度も「解説」を開いてこの先の道筋を知っておきたい……という欲望に駆られてしまった(でも、じっと我慢。そのほうがきっと楽しい、と思った)。この作品を書き終えて、作者が「もしかしたらもう小説なんて書かないかも」と漏らしたそうだけれど、そこまで想像力(あるいは幻視力、妄想力)を出し尽くしたというのもうなずける。「ピンチョンとフォークナーとガルシア=マルケスがいっぺんにやってきた!」みたいな大騒ぎである。  小説の舞台は、18世紀の奴隷制が敷かれたアメリカと革命期のフランス、そして『北斗の拳』か『AKIRA』を思わせるような荒廃に覆われた20世紀末の「永劫都市」とドイツ。『Xのアーチ』というひとつの物語の塊は、途中で大きく4つへとコナゴナにくだかれてしまうのだけれど、クライマックスに進むにつれてその断片が見事に塊として修復される。4つの破片が運動し、描くラインがタイトルと呼応し(『X』という文字を解体すれば、4つの『始点』を見出せるだろう)、ひとつの交わった点へと結び付けられるキチガイじみた構造も素晴らしすぎる(ピンチョンのデビュー作『V.』を二重にしたような感じにも受け取れた)。  その接点となっているのが、一人の美しい黒人女性であり、その彼女を巡る巨大な愛の物語(それもグロテスクなほどに強烈で、運命的な愛である)だというのも泣けるし、まるで使命感を背負ったみたいにそういう物語を一貫して書き続けているエリクソンは偉いです。こうなったら全部読みますよ……、もう大好き。

ペンギン・カフェ・オーケストラへのトリビュート

PENGUIN CAFE ORCHESTRA-tribute- アーティスト: オムニバス , KAMA AINA , 高木正勝 , 三品輝起 , 蓮実重臣 , The Other Four , 嶺川貴子 , 高橋幸宏 , 坂本龍一+高田蓮 , anonymass , MOOSE HILL 出版社/メーカー: エイベックス・エンタテインメント 発売日: 2007/08/08 メディア: CD 購入 : 1人 クリック : 56回 この商品を含むブログ (45件) を見る Penguin Cafe Orchestra | ニュース  坂本龍一らを中心とした日本のアーティストによるペンギン・カフェ・オーケストラへのトリビュート・アルバムの発売が決定しているそうです(8月8日発売)。今年はグループの主宰者だったサイモン・ジェフズの没後10年にあたるらしい。参加アーティストは以下。 1.Penguin Cafe Single (蓮実重臣) 2.Air A Danser (The Order4) 3.Telephone And Rubber Band (嶺川貴子) 4.Pythagoras's Trousers (高橋幸宏) 5.Paul's Dance (坂本龍一) 6.Simon's Dream (anonymass) 7.Music For A Found Harmonium (MOOSE HILL) 8.Isle Of View (Steve Jansen) 9.Southern Jukebox Music (HAAS-a.k.a 高野寛) 10.Sketch (KAMAAINA) 11.Perpetuum Mobile (高木正勝) 12.Vega (三品輝起)  anonymassの名前があがっているのがちょっと嬉しい。発売がかなり楽しみです。これをきっかけにしてリバイバルが来ると良いのになぁ、と思います。この少し風変わりな音楽集団の緩やかさと涼しさを再確認できる一枚となるでしょう。

JAZZ THE BESTで聴くエリック・ドルフィー

 今年の春よりユニバーサルが展開している「JAZZ THE BEST」というキャンペーンでは、ジャズの名盤が一律1100円という超低価格で聴くことができます。全150タイトルのラインナップにはビル・エヴァンス、マイルス・デイヴィス、ソニー・ロリンズ、セロニアス・モンク……といったジャズ界の超有名人はもちろん、エリック・ドルフィーなどがちゃんと押さえられているのも嬉しい。 アット・ザ・ファイヴ・スポット VOL.1 アーティスト: エリック・ドルフィー 出版社/メーカー: ユニバーサルミュージック 発売日: 2010/06/16 メディア: CD この商品を含むブログ (12件) を見る アット・ザ・ファイヴ・スポット VOL.2 アーティスト: エリック・ドルフィー 出版社/メーカー: ユニバーサルミュージック 発売日: 2010/06/16 メディア: CD この商品を含むブログ (7件) を見る  ドルフィーとブッカー・リトルとが熱くやりあってる名演奏を収めた『At The Five Spot』も1100円。これはもう是非、聴いていただくしかないです。二人のフロントマンがワンコーラスに極限まで音を詰め込んでいる様子は、“ハードバップの極北”を感じさせます。緊張感のあるセメントマッチをみせられるよう(ですが、このライヴの後すぐに、ブッカー・リトルは23歳で亡くなってしまう)。 イン・ヨーロッパ VOL.1 アーティスト: エリック・ドルフィー 出版社/メーカー: ユニバーサルミュージック 発売日: 2010/06/16 メディア: CD この商品を含むブログ (3件) を見る イン・ヨーロッパ VOL.2 アーティスト: エリック・ドルフィー , ベント・アクセン , エリック・モーズホルム , ヨルン・エルニフ 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック 発売日: 2007/04/11 メディア: CD この商品を含むブログ (1件) を見る イン・ヨーロッパ VOL.3 アーティスト: エリック・ドルフィー , ベント・アクセン , エリック・モーズホルム , ヨルン・エルニフ 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック 発売日: 2007/04/11 メディア: CD この商品を含むブロ

イヤフォンを買い換える。

Victor インナーイヤー・ステレオヘッドホン(ホワイト) HP-FX77-W 出版社/メーカー: ビクター 発売日: 2006/02/01 メディア: エレクトロニクス この商品を含むブログ (8件) を見る  iPodで使っていたゼンハイザーのイヤフォンが壊れたので新しいものを購入しました。VICTORのFX-77という製品。耳にシリコンピースを直接挿入するタイプの製品に特徴的な「鼓膜にガッツリ音が注ぎ込まれる感」が他メーカーのものよりもシャープな気がします。低音と高音の分離も良い。全体的な印象としては、ドラムがガツガツ鳴ってる音楽(This Heatとか……)を聴きたくなるような感じの音を鳴らしてくれます。3000円代で手に入るので「断線しても買い換えれば良いか!」と思えるのも素晴らしい。抜群のコストパフォーマンス。オススメ。  ちなみにこれまで使用していたのはゼンハイザーのMX500。これもそこそこ良い音がし、またコードの途中に音量調節コントローラーがついているのが便利で、しかも安い(2000円ぐらい)という素晴らしい製品でしたが、現在輸入代理店が取り扱いを止めてしまったらしく量販店で見かけなくなってしまいました *1 。あと、このイヤフォン、安いのにすごく丈夫でなかなか断線しません。これもオススメ。 SONY MDR-EX51LP/L 密閉型インナーイヤーレシーバー ブルー 出版社/メーカー: ソニー 発売日: 2003/02/10 メディア: エレクトロニクス この商品を含むブログ (4件) を見る  逆に全くオススメしないのがソニーのMDR-EX51LP/L。コードが変な材質のゴムでできており、使用開始一ヶ月程度で「ケシゴムのカスのような状態」に変化して内部の金属部分がはだけてしまい非常に断線しやすくなります。 *1 : 通販では買えます

アドルノ『社会学講義』を読む(3)

社会学講義 作者: アドルノ , Theodor W. Adorno , 河原理 , 高安啓介 , 太寿堂真 , 細見和之 出版社/メーカー: 作品社 発売日: 2001/07 メディア: 単行本 この商品を含むブログ (5件) を見る  しかし、アドルノの立場とは必ずしも「実証主義」的な方法論を切り離したものではない。また、自らが批判されるところの「理念的/概念的な社会学」に絶大な自信を持っているわけでもない(そもそもアドルノ自身が、実証/理念という風に二分できるような研究方法を取っていたわけではないのだから)。 社会全体と関わる実践、したがって構造と関わる実践がそもそも有意味で可能なのは、その理念が、たんに部分的な問題設定の枠内にとどまることなく、構造的な諸関係を、したがって現存の社会の内部での構造的な諸関係、傾向、権力状況を原理的に分析する場合のみのことである。(p.54)  社会の細部を描く実証的データと社会の全体を描く理念/概念。この二つの社会学を弁証法的に用いることで初めて「社会全体と関わる実践」(彼の言葉を用いて言い換えるならば、これは「社会の本質的なものと関わりを持つこと」と同義であろう)を行うことが可能になる、とアドルノは言う。  本書では、アドルノはこれまでに自分が行ってきた仕事の内容を学生たちに繰り返し語っている。主にそこで触れられているものは『権威主義的パーソナリティ』、『啓蒙の弁証法』との二つがあるが、前者は実証主義的研究、後者が概念的研究と呼ぶことができるだろう――アドルノ自身、自らが語る「弁証法的な/社会全体と関わる実践的な立ち位置」を取っていたのである。  ちなみに、ここで言われる弁証法とは、あるテーゼとアンチテーゼを綜合させることにより、ジンテーゼへと導くことではない。アドルノがヘーゲルから学ぶ弁証法とは、図式的に描くことが可能なそれではなく、命題Aと命題Bが、永久的な緊張関係を結ぶことであろう。AとBは反発しあう。しかし、それらは相手を相互的に補いながら、どちらに帰結することもなく「本質」を描きあうことになる(どちらか一方によって『全体』を描くことはできない)。 「ほら、ここにきみたちの社会があるよ」と語れるような個々の感覚与件などないにもかかわらず、やはり社会という概念なしですますわけにはいかない(p.68)  また、そ

アドルノ『社会学講義』を読む(2)

社会学講義 作者: アドルノ , Theodor W. Adorno , 河原理 , 高安啓介 , 太寿堂真 , 細見和之 出版社/メーカー: 作品社 発売日: 2001/07 メディア: 単行本 この商品を含むブログ (5件) を見る  1955年、30人。1959年、163人。1962年、331人。1963年、383人。そして1968年、626人――この数字は、フランクフルト大学における社会学主専攻者の数の推移を示したものである。たった13年間で21倍弱という急激な“人口増加”に、アドルノは素朴な驚きを示している。しかし、「喜び」と同時に感じられていたわけではない。大講義室に集まった社会学を学ぼうとする学生たちに、彼は「社会学専攻者は就職難にある」という一つの事実を突きつける(厳しい事実を告げるその言葉は、とても温和で優しく口調である)。  社会学を学ぶ学生とは、(文字通り)社会について学ぶ人間である。しかし、学生が社会について学べば学ぶほど、その対象としてきた社会へと再編入することが難しくなってしまっている事情が現に存在している。「社会について知れば知るほど私は社会に入り込めなくなるという矛盾」。この矛盾の真相はなんなのだろう?そもそも、そのような矛盾を生み出す社会学とは一体どのような学問なのだろう?  アドルノの講義は、このようにシンプルで深刻な問題提起からはじめられている。しかし、ここで彼は問題の核心へと急ぐことをしない。まずは、社会学がその研究の対象とする「社会」について語りだす。同時にそこでは社会学が取り組むべき対象の領域についても語られることになる。  ■  社会は弁証法的なイメージをもって考察されなければならない、とアドルノは繰り返し述べる。この思考の方法において、「抽象的な理念」と「具体的な細部」とが対立関係におかれている。ここで、その対立関係は、講義と同時期に起こっていた「実証主義」とアドルノやハーバーマスらの「理念的な社会学」との論争と布置されている、と言ってよい。アドルノらに対する実証主義からの批判はこのようなものである。 お前たちの中心概念、社会という概念は、所与のものではない。社会という概念に指を押しあてて確かめることなどできない。(p.65)  この批判を言い換えるならば「社会はどこにあるのか。そのような不確かなものを研究する

アドルノ『社会学講義』を読む(1)

社会学講義 作者: アドルノ , Theodor W. Adorno , 河原理 , 高安啓介 , 太寿堂真 , 細見和之 出版社/メーカー: 作品社 発売日: 2001/07 メディア: 単行本 この商品を含むブログ (5件) を見る  音楽・社会学・哲学・心理学……と様々な領域で活躍したテオドール・W・アドルノが死の一年前にフランクフルト大学でおこなった社会学入門講義録を読んでいる。学生時代、院生にアドルノの研究をされている方がいて、その方から薦められていたのだが *1 、最近になってやっと手をつけることができた。  難解で知られるアドルノだけれども、学生に語りかける口調はとても柔らかで「これが同じ人間か!?」と疑いを持ちたくなるほど。様々な対象に毒物のように辛辣な言葉をもって批判をおこなったアドルノの姿はこの本のなかで見られることが無い。時折、ジョークも飛ばし、学生もそれに対して笑いをもって反応する。一方的な講義を展開するのではなく、アドルノ-学生の間には対話のような関係が生まれているのが興味深い。講義の内容を録音したテープを厳密に文章化したという本の性格から来るものかもしれないけれど、かなり「生っぽい講義録」になっている。講義録はアドルノの死後、30年以上経ってから発表されたもの。厳密に言ってそれはアドルノの作品ではないのだが、こういう本の作り方もまた“アドルノらしさ”に則ったものであると言えると思う。  アドルノが講義を始めようとするとき、よく教室のマイクの調子が悪くなる。すると当然、学生たちにはアドルノの声が聴こえにくくなる。その瞬間、学生たちから「シュー」というヤジが飛ぶ。またあるとき、アドルノが学生たちにとって奇妙に思われることをポロッと言ってしまう。するとまた学生から「シュー」というヤジが起こる。当時のアドルノといえば、フランクフルト大学社会学研究所の所長でもあり、かなり影響力を持った思想界の大御所である。その彼に対して容赦なくヤジを飛ばし、嘲笑さえしてみせる学生たちの態度には「1960年代」という時代が表れているように感じた。学生の嘲笑を軽く受け流してみせるアドルノもやはり相当なものだけれど。  肝心な講義内容も涙が出るほど面白いので、簡単に読み飛ばしてしまわないようにメモ的な感じで読書過程を書き記してみようと思います。今回は導入として。

栗コーダーカルテット『笛社会』

笛社会 アーティスト: 栗コーダーカルテット 出版社/メーカー: GENEON ENTERTAINMENT,INC(PLC)(M) 発売日: 2007/06/06 メディア: CD 購入 : 2人 クリック : 69回 この商品を含むブログ (36件) を見る  やる気の無い「帝国のマーチ(スター・ウォーズ)」が注目されたことで、栗原正己(元DCPRG)、川口義之(渋さ知らズ)、近藤研二(元ハイポジ)、関島岳郎(元DCPRG、シカラムータ)というメンバーのすごい肩書きがいらなくなった感もある栗コーダーカルテットの新譜。いつの間にか出たけど、今回もすごく良い曲がたくさん詰まっていて本当に素晴らしいポップアルバムに仕上がっています。難しい意味など何もなく、ただ良い曲だけがある。  アルバムを出すたびにメンバーのリコーダー演奏能力が高まっているので、出すたびに「最高傑作」というのが確定したようなものだと思うのですが、今回の充実っぷりはすごい。「リコーダーカルテット」から「いろんな楽器とリコーダー」へのシフトはさらに進んでいますが、そのぶん音色の幅が広がって面白いです。元たまの知久寿焼が描いた笛のキャラクター(名称不明)がアルバムジャケットから姿を消したのはさびしいけれど……。  アルバムに収録されている「おじいさんの11ヶ月」はビデオクリップも作られています。製作は『ピタゴラスイッチ』のユーフラテス。このクリップ、メンバーが出演してるんだけれど、栗原さんってテレビとかに出るとき、いつも赤いジャージ着ている気がする。

斎藤信哉『ピアノはなぜ黒いのか』

ピアノはなぜ黒いのか (幻冬舎新書) 作者: 斎藤信哉 出版社/メーカー: 幻冬舎 発売日: 2007/05 メディア: 新書 購入 : 1人 クリック : 3回 この商品を含むブログ (20件) を見る  日本のピアノ教育(あるいは音楽教育)、そしてピアノ製造業の不思議さを浮き彫りにするような良書。31年間、ピアノの販売員/調律師として活躍なさっていた斎藤信哉さんという方が書いているのだけれど、現代の作曲家や音楽学者によって書かれた文章とは異なった「現場力」によって書かれているように思う。筆者は、音楽の“本場”ヨーロッパと比べて「日本のピアノは奇妙だ」と指摘する。こういう物言いは神経質な人からすれば「ケッ、未だに文明開化当初と感覚が変わんねーのな!日本にコンプレックスを持ってる人間はいつまでも欧米礼賛してろよ!!」とか思われるかもしれない。正直言って、それは少し私も感じてしまうところである。ここで言われているヨーロッパのピアノの価値観は、微妙に相対化されていないのだ。  でも、現実にヨーロッパはずっと“本場”である。日本という国も優秀な演奏家を輩出してはいる。けれども、その一流演奏家のほとんどが教育の場をヨーロッパに求めてしまう(余談だが、ウィーン国立音楽大学にいる外国人の学生では日本人が最も多い)。純粋に日本の教育的土壌から世界に通用する演奏家が生まれたことは今まで一度もない、と言ってもいい気がする。なにより悲しいのは、世界に誇れる才能が一端日本の外に出てしまうと二度と戻ってきてはくれないことである。内田光子(彼女の場合ほとんど海外で教育を受けていたため、厳密には日本の演奏家とは呼べないが)、庄司紗矢香といった演奏家が日本におらず、その素晴らしい演奏を聴くためには「来日の機会」を待たなくてはいけない――そんなバカらしいことってあるか!?と思う。  世界で最も在来オケが多い首都を持つ国、日本がこうしていつまで経っても“本場”になれない。その「なれなさ」が著者の「ヨーロッパが微妙に相対化できていないところ」につながっているように思った。こういう語り方は、生真面目な作曲家や音楽学者には書けない。  本の中で触れられているトピックはかなり多岐に渡っている。後半は筆者が仕事をしてきたなかで生まれた人情話みたいで結構ダレるのだが、ところどころに素晴らしい発想がある。

スティーヴ・エリクソン『ルビコン・ビーチ』

ルビコン・ビーチ 作者: スティーヴエリクソン , Steve Erickson , 島田雅彦 出版社/メーカー: 筑摩書房 発売日: 1992/01 メディア: 単行本 クリック : 7回 この商品を含むブログ (11件) を見る  現代アメリカの作家、スティーヴ・エリクソンが二作目に書いた長編小説(1986年)。ドキドキするぐらい面白く、読めば読むほど物語の全体をつかむことの不可能性に直面するしかないような読後感を味わう。こういうタイプの小説からは「物語を物語によって解体する」という試みを感じ、グッと来てしまう。構成も見事で、三部で分かれた章が部分で影響しあい、一つに繋がろうとしているに痺れた。第一章のラジオや音楽や冗談が禁じられた“華氏451”的なアメリカ、第二章のジャングルからアメリカへの旅、第三章で描かれる20世紀前半のアメリカとその国への帰還。それらの部分はそれぞれほとんど独立しているようにえる。しかし、どれもが(第二章ではキャサリンと呼ばれる)“謎の女”を鍵にしながら、「幾つかのアメリカの姿」を描こうとしている点では共通している。けれども、「全体」を把握するのは困難だ。このスリリングな読書体験を味わうだけでも価値がある……ような気もする。  幻想的な/悪夢的な小説世界に読み手はひきこまれていく。鮮やかに、というよりもじわじわと。気がつくと、読み手は「現実の世界」が奇妙にねじれた「フィクションの世界」で意味を探ってしまっている。このとき、なにより重要に思われるのはそこで手にすることができる、あるいは手にすることをあきらめなくてはならない「フィクションの意味」が現実的であるか、どうか、という点である。言い直せば、作品が世界の媒介(メディア)になっているかどうか、について私は考えさせられてしまう。エリクソンを読んでいるときの「じわじわ感」とは、現実に運動している世界と、フィクションの紙の上で展開される世界との緊張関係に読み手が関係付けられる、という証ではないかな、と思う。そういうフィクションで得られる意味は、ジャーナリスティックな作品におけるものよりもジャナーナリスティックで、ノンフィクションよりもリアルだったりするんじゃなかろうか。  とにかく面白いですよ、これは。   追記; 書き忘れていたけれど、今エリクソンの古本がかなり安い。アマゾンのマー

「ヴァイオリンなんて誰がやっても同じじゃね」と思う人のための動画集

 続いてヴァイオリンの映像も集めてみました。曲目はヨハン・セバスチャン・バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第二番より《シャコンヌ》。まずはナタン・ミルシテインの演奏。  とても端正な演奏でした。ちなみにこの人の録音が、ヘンリク・シェリングの演奏と並び、この曲の「定盤」となっています *1 。次はヤッシャ・ハイフェッツの演奏。  冒頭の重音(二つ以上の音を同時に出す奏法)を連発する部分が過ぎてからの歌い込み、上擦るようなヴィブラートがエロい。この映像は割とこれでも落ち着いた演奏ですが、他の録音 *2 ではこの1.2倍ぐらいのテンポで切れ味の鋭い演奏を聴かせてくれます。最後に現代の演奏家、ヴィクトリア・ムローヴァの演奏。  「違うけど…なんか……この人下手じゃね?」と思われたかもしれません。実はこちらは作曲家が生きていた時代のスタイルで演奏するという所謂「ピリオド奏法」を取り入れたものなのです。ハイフェッツの演奏と比べれば分かりやすいですが、ヴィブラートを極力抑えているところなどに特徴があります。またチューニングも低めにしてあるので必然的に音色も柔らかくなります。あと、この人、すごく美人ですよね。 鏡の国のアリス アーティスト: ムローヴァ(ヴィクトリア) , ジョセフ(ジュリアン) , スミス(スティーヴ) , クラーヴィス(ポール) , バーレイ(マシュー) , カリー(コリン) , ウォルトン(サム) 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック 発売日: 2000/10/25 メディア: CD クリック : 2回 この商品を含むブログ (2件) を見る  ちなみにこの人、ピリオド奏法を取り入れる一方でジャズ系のミュージシャンと一緒にマイルス・デイヴィスなどの曲にも取り組んでいる、というよく分からない人でもあります(でも美人だから好き)。元々は正統派バリバリのテクニシャンだったんですけど。 *1 :シェリングの演奏は こちら(音声のみ) *2 : バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ&パルティータ(全曲)

「ピアノなんて誰がやっても同じじゃね」と思う人のための動画集

 ニコニコ動画が重過ぎて見れなくて悔しいので、自分で集めた動画を並べます。曲目はフレデリック・ショパンのエチュード第四番作品10番。まずはアマチュアのピアニストさんが頑張っている動画をご覧ください。  最初の勢いは良いけれど途中で失速します。次は、若手ピアニストの俊英、フレディ・ケンプ。  ここでアマチュアとプロの間にある《超えられない壁》を確認してもらえたでしょうか。最後に「伝説クラス」の演奏家のすごさを体験していただきましょう。登場するのは、ソ連を代表する怪物ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテル。  速すぎ。この恐ろしいピアニストについては「 リヒテル――間違いだらけの天才 - 「石版!」 」や「 クレイジー・リヒテル(続き) - 「石版!」 」で詳しく紹介しています。

橘直貴、バルトークコンクール優勝

札幌市厚別区出身で現在は首都圏などで活動する指揮者、橘直貴さん(38)が8日、ルーマニアで行われた「第2回バルトーク国際オペラ指揮者コンクール」で1位を獲得した。同市在住の家族に入った連絡で分かった。 3歳からピアノを始めた橘さんは指揮者の道を志し、札幌開成高から桐朋学園大(東京都調布市)に進学。01年に若手の登竜門として知られる「第47回ブザンソン国際指揮者コンクール」(フランス)で決勝に進出し、2位に入賞した。現在は、札幌や関東を中心に指揮活動を行っている。 表示できません - Yahoo!ニュース  学生時代から何度かご縁がある橘先生からの吉報。最終ラウンドはバルトークの《青髭公の城》だった模様です。ここ何年かは留学先のウィーンと日本とを行ったり来たりでお忙しい様子でしたが、勉強の成果を見事に出されていて「すげぇー」と思いました。日本で数少ない「ヴィジュアルも良い指揮者」としてますますのご活躍を願っております。ちょうど良いので宣伝。 ル スコアール管弦楽団第22回演奏会 日時 2007年7月16日(月・祝) 13:30開演予定 場所 すみだトリフォニーホール(大ホール) 曲目 ヒンデミット/交響曲「画家マティス」 ミヨー/プロヴァンス組曲 R.シュトラウス/「薔薇の騎士」組曲 指揮 橘直貴 入場料 全席自由 1,000円 お問い合わせ先 webmaster@lesquare.org  今度私が出演する演奏会も橘先生の指揮です。入場料が1000円となっておりますが、メールでお問い合わせいただければ無料でチケットを用意することが可能です。演奏会のチラシを持っていっても無料になります。あと、私に連絡してもらっても大丈夫です。

小笠原信夫『日本刀――日本の技と美と魂』

日本刀―日本の技と美と魂 (文春新書) 作者: 小笠原信夫 出版社/メーカー: 文藝春秋 発売日: 2007/05 メディア: 新書 クリック : 4回 この商品を含むブログ (8件) を見る  国が右に傾きだしたり、戦争の機運が到来する頃になると、不思議にも日本刀への関心が高まるらしい。革新ではなく、伝統を保守しようとするヘタレな右翼の心性が、武士の魂であった日本刀へと向けられるのは当然のことに思われる。副題からはそのような傾向を感じさせるけれども、逆に著者は「ちょっと待ってくれ。軍国主義の象徴みたいに日本刀を扱うのは止めて、近代以前の価値観から日本刀を見直してみようじゃないか」という立場で日本刀を語っているように思われた。鑑賞のための専門用語が多く少し読むのがしんどいけれど、とても面白い本である。  言わずもがな、日本刀は武器である。が、室町時代ごろから既に「美術品」あるいは「贈答品」としての価値が成立しており、折角の切れる刀という機能的価値が眠ったまま通用していた。こういうのはなんだか屈折しているように思うのだけれど「目利」という刀の価値を決定する鑑定人が専門の職業として成立し、朝廷や幕府から認定された権威によって価値が決定されるシステムが構築されている感じは面白い。そういう折紙付の商品を身につけることが武士の間で「立派なこと」とされていたのは、現代で言うならサラリーマンが雑誌なんかで紹介されているブランド時計を身に着ける感覚と全く同じなんじゃないだろうか。  武器が装飾品を兼ねる、というのがこの本で「日本独自のもの」とされているけれど、そんなことはなく西洋でもみられる事柄である。例えば、甲冑なんかがその代表例として挙げられる。ベルセルクとかに出てくる、妖しい洋館に置いてありそうなヤツ *1 。ただ、西洋の甲冑においては、装飾が豪奢になるあまり、騎乗時に馬が潰れてしまうぐらい重くなってしまったものもあったらしい。そういう「やりすぎちゃってる感」も面白いんだけど。それに比べて日本刀は「装飾品(美術品)」として取り扱われるようになっても尚、機能が価値の中に取り残されていたのが特色だと言えそう。 *1 : こんなの とか こんなの

エド・マクベイン『ノクターン』

ノクターン 87分署シリーズ (ハヤカワ・ミステリ文庫) 作者: エド・マクベイン , 井上一夫 出版社/メーカー: 早川書房 発売日: 2004/07/22 メディア: 文庫 この商品を含むブログ (3件) を見る  かつて絶大な人気を誇るピアニストとして活躍した老女が銃殺される事件を主軸に、殺人事件がバンバンと頻発するミステリ。「87分署シリーズ」の舞台、アイソラ市に立ち込める雰囲気がものすごい狂気じみて、すごい。  例えば、あるシーン。そこではひとりのオッサンが「近所を走っている車のクラクションがうるさい」と役所に苦情の電話をかけるところから始まる。でも、なかなか苦情を聞いてくれる相手は見つからない。「回線が大変込み合っております……」という自動メッセージと「その件は部署が違います」という盥回しにオッサンの苛立ちは募るばかり。  そのうちにオッサンは諦めて電話をかけるの止める。しかし、問題は解決していない――窓の外では依然としてクラクションが鳴り響いている。オッサンは外に出て、クラクションを鳴らしていたタクシー運転手に向かって銃の引き金を引く。  また、あるシーンでは、まぁそこそこ良いとこの高校に通ってるおぼっちゃん3人(いわゆるプレッピーな)が、ほとんどなんの悪気もなく次々と殺人事件を起こしていく(これが本作品の対旋律となっている事件である)。これが本当に怖い。ほとんどその場のノリと流れだけでまず娼婦1人、黒人2人を惨殺する。とくに娼婦の殺され方が無残である。クスリでハイになりながら、3人で姦している間に「悪ふざけ」で膣内にパン切りナイフを挿入する、という鬼畜っぷり。  読んでいて、寒々しい気持ちで一杯になるのだけれど、その感覚を増長するのが「どの狂気も妙に現実味を帯びている」ということ。「カッとなってやった。今では反省している」型の事件や、想像力が欠如したバカな高校生や大学生によるとんでもない事件は我々の周りにもゴロゴロしている。  さらに陰鬱感を醸し出しているのは、白人と黒人との間にある不信感だったりする(その象徴としてOJシンプソンの名前が登場する)。ちなみに作品が発表されたのは1997年。2005年に亡くなったエド・マクベインはこのとき71歳なんだけど、その年齢でここまで「時代感」を持つ作品が書けるのが驚愕である(また、現代はここにある時代感

ハネケン、死去

テレビの音楽番組などで親しまれた作曲家でピアニストの羽田健太郎さんが2日午後11時53分、肝細胞がんのため東京都内の病院で亡くなった。58歳だった。  羽田健太郎は80年代以降の日本で最も「スタイリッシュかつドラマティックな劇伴音楽」が書ける作曲家だったと思います。特に『超時空要塞マクロス』の主題歌の編曲は、アニメ作品とは思えないほどのクオリティの高さ。マクロスって全長1200メートルの巨大宇宙戦艦(しかも人型に変形する)らしいんだけど、イントロだけでその巨大感が伝わってくる感じ。それと、これ以前にいた「劇伴作曲家の大物」にはない、新感覚なところがあるように思います。バリバリのクラシック出身でありながら、ある種の分かりやすさを含んだ“ライトな重厚感”が出せたるのは異質。ハネケン作品では『渡る世間は鬼ばかり』が最も有名なところですが、あの曲も近代イギリスを思わせる劇場感あるし。  あとはこれ。爆発音に負けないインパクトがすごい――ご冥福をお祈りいたします。

近藤譲『音楽という謎』

“音楽”という謎 作者: 近藤譲 出版社/メーカー: 春秋社 発売日: 2004/07/01 メディア: 単行本 購入 : 1人 クリック : 2回 この商品を含むブログ (3件) を見る  現代音楽の生の声を聞くことができる名著『 現代音楽のポリティックス 』 *1 の著者である、作曲家・近藤譲のエッセイ集。ここで読むことができる文章はエッセイといっても単なる随筆の類ではなく、アドルノが書いたような「哲学的(音楽学的)エッセイ」といった性格に近いものである。  「音楽とは何かという問いには答えがない」。しかし、《答えのない質問》(チャールズ・アイヴズ)を問うこと自体は無意味な行為ではない。むしろ、作曲家とは常にそのような問いを自らに問い続けなければならないのではないか。いわゆる「現代音楽」の《聴衆》がいない今、その必要性はますます増大しているのではないか――そのようにシリアスな危機感から著者は始めている。  本の中では音楽の「価値」、「形式」、「表現・内容」といったものが問われている。そこではいつも「音楽の常識」が覆されている(同時に、まるで自明でありすぎるせいで、我々の目、あるいは耳に届かない《常識》が浮かび上がっている)。その点に関して「音楽学」というよりは「音楽社会学」的な性質も含んでいるように思える。  特に興味を掻きたてられるのは「表現・内容」の章で語られるプッチーニの歌劇《蝶々婦人》の例――プッチーニはこの日本を舞台にした作品を書く際に、日本の音楽を幾つか採集し、作品の中に混ぜ込んでいる。彼が取り入れた日本の旋律には《さくらさくら》といった有名なものもあれば、既に日本でも忘れられたものも存在している。その一つが「蝶々さんの死のテーマ」で用いられている《推量節》である。この曲は明治に寄席から流行った歌らしいのだが、我々はこのメロディをもうプッチーニの作品のなかでしか聞くことができない。しかも、本来、明るい歌詞が付随した旋律であったはずなのに、プッチーニのもとに届いたときに「悲劇の旋律」として誤解されて使用され、現代の我々は本来「明るい旋律」として奏されていたものをそのまま「悲劇の旋律」として捉えている……というもの。この例には音楽が表現する“もの”の不確かさが端的に現れていると思うし、さらに旋律が伝えられていく中で意味内容がどんどん変質していく様

世界の珍しい楽器たち――オンド・マルトノ編

オンド・マルトノのための作品集 アーティスト: トマ・ブロシュ , フェルナンド・クアトロッキ , トマ・ブロシュ・ウェイヴス管弦楽団 , ベルナール・ウィッソン , マレク・スワトフスキ , オリヴィエ・トゥシャール 出版社/メーカー: Naxos 発売日: 2004/10/01 メディア: CD クリック : 1回 この商品を含むブログ (2件) を見る  西洋音楽史は作曲技法の発展の歴史であると同時に、作品を演奏するための「楽器」の進化の歴史でもありました。ですから作曲家や演奏家といった「音楽家」だけではなく、彼らの要望に答えるため技術者や職人たちが試行錯誤を繰り返していた、という事実は忘れられてはなりません。  20世紀に入ってもそのような「楽器の進化」は留まることを知りません。むしろ伝統の確立によって楽器の精密さは向上し、また科学の発展と技術の進歩はそれまでにない楽器の誕生を可能にしました。フランスの技術者であったモーリス・マルトノによって開発された「オンド・マルトノ」もそのような流れのなかで製作されたものと言えましょう。  世界に存在する珍楽器愛好家の皆様、こんにちは。申し遅れましたが私、珍楽器妄想博物館の館長を務めております、mkと申します。本日はこの世にも不思議な電子楽器の紹介をさせていただきたいと思います。  まず、冒頭に挙げましたのはナクソスから発売されている『オンド・マルトノのための作品集』というアルバム。最初から最後までオンド・マルトノ一色で染め上げられた素敵な一品です。20世紀フランスの大作曲家であるオリヴィエ・メシアンの未刊作品のほか、イギリスの前衛ロックバンド“ヘンリー・カウ”のメンバーであったリンゼイ・クーパーの作品も収録し、資料的な価値も高いと思われます(他の作曲家も名前すら聞いたことがない人ばかり!)。  こちらの映像では、オンド・マルトノによってどのような音楽が可能になるか、という説明が行われております。ピアノやオルガンと同様に鍵盤を装備しているため、同時に複数の音を発振することができそうですが、実は単音楽器。もちろん鍵盤による操作も可能ですが、通常は「リボン」と呼ばれるワイヤーを操作することで演奏されます。これによって、鍵盤楽器では不可能となっている自由な音高の操作が可能となっています。ポルタメンやヴィブラートといっ