プラトン『国家』、と管理社会

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国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)








国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)







 プラトンの師であったソクラテスの哲学問答を記した『国家』はとてもシンプルな本である。内容は、といえば、ソクラテスのもとに集まる者が彼に対して自らの疑問をぶつけ、そして彼が回答する。また逆に、ソクラテスが彼に語りかけるものに対して疑問をぶつける場合もある。ひとつの回答からは、また新たな疑問が生まれ、それに対しての回答があり……というやりとりが上下巻に渡って繰り広げられるのである。対話はらせんのような軌跡を描いて運動していく。人によっては「この議論はいったいどこに向かっているのだろう……」という内容を退屈に思われるかもしれない。


 社会学者の北田暁大はこの本について「根源的な質問(例えば、『何故、人を殺してはいけないのか』など)に対してはこのような方法で考えなければ、答える方法がない」というようなことを言っていた。北田の言葉をまるごと借りてしまうようになるけれども、私もそのように感じる。しかし、そのような方法を用いて、丁寧に丁寧に議論を重ねたとしても、答えることのできない議論の終着点があること(それは世界の根源的な未規定性、と言い換えることができる)も改めて感じた。


 議論の主題はタイトルにもあるように“国家”である。が、私はその副主題ともいえる「正義とは何か?どうあるべきか?」という問題について惹かれながら読んだ(ちなみに『正義』は前1世紀に編纂されたプラトン全集で、この本の副題として添えられている)。


 信念のようにソクラテスは「正義は必ず、不正よりも“善いもの”である」と繰り返し語る。しかし、「何が“善いもの”で、何が“悪しきもの”か」と言った問いに対しては上手く答えられていない。「滅ぼしたり損なったりするものはすべて悪いものであり、保全し益するものは善いもの」というだけである――この“答え”が便宜的なものであることは、すぐに露見してしまう、と思う。誰かを滅ぼしたり損なったりするものが、時には保全し益するものに変わってしまうことは日常的にある、そんな例を考えてもらうだけでここでは充分だろう。そのようにしてソクラテスは「議論の終着点」に辿り着く。


 「結局、答えられてないじゃないか!」という不納得の声をあげるつもりはない。ソクラテス自身が最初からそのような位置から対話を行っている。「『正義とは○○というものである』と最終的な答えを出すことはできないけれど、ここでは××ということにして話をし、(便宜的なものだけれど)『どうしたら良い国家が作れるか』について話し合いましょうよ」という態度が敷かれている。これはとても合理的だ、と私は思う(少なくとも、すべての議論を投げ出すよりも前向きである)。繰り返しになってしまうけれど、そのような態度をもってしか、我々はより良い世界へと向かうことはできない。




  • 管理社会について


 「善い国家を作る方法」のひとつとしてソクラテスは、教育の重要性について説いている。この部分でミメーシス(模倣)という概念についての言及がある*1。ソクラテスは「(とくにこどもの)学習はミメーシスによって行われる」という。環境のなかに放り込まれるこどもは、周囲の環境を模倣しながら学習を行っていくのだ。だから、我々大人は慎重にならなくてはいけない――こどもが悪しきものを魂のなかに取り込まないように、と。


 そこでは物語、詩、音楽……といったあらゆるものが気配りの対象とされている。国家の守護者となるべき人間を育てるためには、美しい作品、美しい言葉だけから影響を受けるような環境を作らなくてはならない。しかし、これはどこかの教育委員会、どこかのPTA、あるいは、どこかのテレビコメンテーターが言いそうな話である。ソクラテスの目指す理想の国家には、管理社会的な厳格な規律が敷かれている、という風に思う。


 最近になって「管理社会化」という現象についての批判が目立っているが、その「静かな恐ろしさ」についてはさておき、人が生きる環境を厳しく管理していくことを進めていけば「望まれる人間を育てること」は“ある程度”可能である、と思う。しかし、やはりそれは“ある程度”である。どのような管理を敷いたとしても、社会から「悪しきもの」が生まれえる可能性をゼロにすることは不可能だろう――例えば、こどもから暴力描写があるマンガやマリリン・マンソンのCDを取り上げたとしても、いつかどこかでまた母親の首を切り落とすようなこどもが生まれてくる可能性が無くなることはない。可能性は、環境のどこかで必ず生まれてくる。その偶発性を社会は管理することができないのである。


 社会が環境から考えられる「影響因子」を取り除いたにも関わらず、社会の中から「悪しきもの」が生まれたとき、おそらく社会は2つの反応を返すのではないだろうか――ひとつは「これだけ管理しているのに、どうしてこんな事件が起こってしまったのだろうか?」という素朴で、前向きな疑問である。もうひとつの反応は、その疑問から生まれた至極“真っ当な”ものである。その反応とは「これはきっと管理の仕方が拙かったのだ。二度と事件を繰り返さないように、もっと管理を強くしていかなくてはいけない!」というものだ。


 例えば、現在、コンビニには「成人向け雑誌コーナー」が作られ、(一応)“青少年”を有害な出版物から遠ざける、という管理がなされている。その管理が至らなくなった場合、そもそも販売経路を経ってしまえば良いのではないか、コンビニから“悪しき影響”を根絶しなくてはいけないのではないか、というような声があがるだろう――もし、それでもダメなら……田舎道にあるエロ本自販機を撤廃する、とか。「悪しき環境に人間をおくと、必ず人間は悪いことをする」という不信ベースでは、そのようなイタチごっこが生まれるのが目に見えている。また、管理する権力がどんどん増大していったとき、本来“善きもの”を育てるはずの「管理」が自由を奪う“悪しき権力”の側へと向かってしまうことも忘れてはならない。このとき、悪しき影響を取り去るはずの権力自身が、悪しき影響になってしまう。これは管理社会の致命的な欠陥であろう(私としては、既に我々の社会がそのような限界地点に辿り着いてしまっているようにも思う)。


 対話の鬼のようだったソクラテスが、何故、厳格な管理を求めたのか(具体的に彼は悪い神話を語るような詩人を監督すべきだ、とまで言っている)、私にはうまく納得することができない。ソクラテスであれば、悪しき影響(というよりも悪しき方向に向かう可能性もあり得る選択肢)を環境に残した上で、他者を主体化することによって「悪い選択」を抑止する、という方法も考えられたのではないだろうか、と思うのである。対話とは、そのようなものを目指したものともなるはずだ。そのとき目指される理想の国家とは偶発性を認めつつ、そして他者への信頼ベースで稼動するものとも言えるだろう。




*1:アドルノのミメーシスとは若干違った意味合いになる





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ザッパはゲンダイオンガクか

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Yellow Shark

Yellow Shark







 最近、フランク・ザッパのラストアルバムである『The Yellow Shark』を聴き直して「ザッパは現代音楽との関連が云々……と言われるけれど、オーケストラを使っているだけでどこが“現代音楽”だったんだろう……」と思いました。「オーケストラを用いる=前衛的・革新的」という語りはロックとクラシックのヒエラルキーを感じさせる現象であると思います。ザッパとは逆の例になってしまいますが、芸術的なコードによって取り扱われるような「交響音楽」のなかに通俗的な要素が含まれることは、何もマーラーの19世紀末まで待つことなく、ブラームスやショパン、ドヴォルザークなどによっても行われたことでした(ハンガリー舞曲、ポーランドの民俗舞踏を基にしたピアノ曲、スラヴ舞曲)。ジャンルを乗り越える、という試み自体にはなんの新しさもない……ように思われるのです。


 よって、オーケストラを用いたロックによって「(ザッパの試みが)クラシックという領域を乗り越える」というような言葉は、むしろ語れば語るほど「クラシック(高級な芸術)とはロックにとって永遠に乗り越えるべき対象」として刻み付けられてしまうような言葉のように感じます。未だに「オーケストラと競演」で大騒ぎしているのは一部のハイテクメタルぐらいでしょうから、はっきり言ってどうでも言いのですが。


 しかし、ザッパの遺作を聴いてひとつ思うことは「あと20年早く管弦楽法と対位法を学んでいたらジョン・アダムズを超えるぐらいの作曲家になっていたであろう」ということ。作品を聴いていると、あまりに旋律的な要素に頼りすぎ、音が薄く(生音が大きいこと以外は)ほとんどオーケストラを使用する意味がなくなっているように思います。ただし、アルバムの前半で組曲的に演奏される部分は、音の厚みが練られていて素晴らしい。パーカッションの音によって厚みのある音に聴こえさせているだけかもしれませんが、少なくとも「これ、ジョン・アダムズの曲だよ」と言って聴かせたら信じてもらえそうな感じはします。あと、このアルバムにホルン奏者としてシュテファン・ドール(現・ベルリンフィル首席奏者、つまりほぼ世界一上手いホルン奏者ということ)が参加していることは驚きでした。



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 上に挙げたのは、フランク・ザッパの「ジャズ・ロック期(と呼ばれる)」の全盛期を伝える映像。エイドリアン・ブリューの姿も見られますが、現在とほとんど芸風が変わらないのがおかしい。けど、なんと言っても、ここで大活躍しているのはドラムのテリー・ボジオ。古きよきストロングスタイルレスラーを髣髴とさせる黒パン一丁でペダルを踏みまくっております(ほとんどキチガイ沙汰)。これのどこがジャズなのか……完全にハードロックじゃないか……と思うところですが、ザッパの求心力とはあまりに多彩な音楽性ゆえに、そのような“誤解”を生みがちなところに源泉があるのかもしれません。


 ザッパ大先生に言わせれば「黙ってギターを聴いてくれ」と言ったところかもしれませんが……。





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相対化される音楽

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 相変わらずWILCOの『Sky Blue Sky』の新譜を聴いているところで、聴けば聴くほど素晴らしいアルバムだなぁ、と染み渡るようだ。シカゴっぽい音を指向していた前二作から、ポップなものへと回帰していた感じは、日本で言うとくるりも似た道を辿ってきてるようにも思う(っていうか今くるりの『アンテナ』を聴くとかなりWILCOっぽく聴こえる、ってだけでそんな風に考えてるんだけど)。


 聴き続けていて気がつくことは、今回のアルバム製作時に加わった新メンバーがバンドの音楽に極めて不思議な効果を与えている、ということ。とくにギターで入ったネルス・クラインがすごい。私はこの人のことを全然知らなかったんだけど、調べてみるとフリー・ジャズ出身の人だそう。「どうりで……」と思うのは、この人のギタープレイがバンドの持っているタイムと全然違う感じで異物感満載に響いているところである。

 バンドがロックらしいスクエアなビートを刻んでいるところで、ネルス・クラインの浮遊感のあるタイム感でソロをとる時(テクニックがありすぎて自由にやりすぎてる、みたいに聴こえる)、「バンド対ネルス・クライン」というような相対的関係が生まれているのがとても興味深い。くるりに渡辺香津美*1が加入したらこんな感じになるんじゃなかろうか……そんなの誰が喜ぶかわかんないけど、見てみたい(見た目的にも面白いから)。



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 渡辺香津美の映像を探していたら出てきたとんでもない映像。タンザニアのバンドと日本のジャズメン、あと林英哲のセッションの模様だそう。ジャズ陣営のメンツが山下洋輔、渡辺香津美、バカボン鈴木、そして今をときめく菊地成孔(1992年の!髪もフサフサ!!)だというのだから驚いてしまう。山下洋輔のピアノがアフリカンなリズムと異常に馴染んで響いてくるのに、渡辺香津美がソロをとる時の違和感はなんだろう、と思う。黒人の国に、一人日本のセールスマンが迷い込んできたような、そんな図。


 話が大幅にそれてしまったけれど、WILCOの新譜には「こういう新メンバー加入のさせ方もあるのだなぁ」と感心させられている、ということが言いたかった。




*1:ところでこのギタリスト、ジャズ界隈では今一番扱いが微妙な人になってる気がする





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ジョージ・マーティン・プロダクションズ

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 先月の『ストレンジ・デイズ』を読んでずっと「買わなきゃ……」と思っていたシロモノ。THE BEATLESのプロデューサーとして有名なジョージ・マーティンのプロデューサー生活50周年を記念した6枚組のアルバムを、日本向けに1枚に編集しなおしたコンピレーションアルバムである。


 BEATLES関連の曲が多くて、彼らのアルバムを全部持ってたら半分以上は「持ってるよ」という内容なのだけれども、なんか音が太くなってて新鮮に聴こえる。特にジョージ・マーティン・オーケストラ名義での作品(『Yellow Submarine』に収録)の音はまるっきり生まれ変わっていて、新録音かと思ったよ……と思ったら98年に製作された引退記念盤からの収録らしい。いや、でもこれはちょっと聴く価値あり(ラロ・シフリンに匹敵するカッコ良さ)。


 あとはBEATLESの初期にレノン=マッカートニーが他アーティストに提供した楽曲なんかが聴けるのは良いです。曲がすごい良くて、改めて「ジョン・レノンとポール・マッカートニーって天才だなぁ!」と思った。特にビリー・J・クレイマー&ダコタス(BEATLESの弟分みたいな扱いのバンドだったらしい)に提供された「Bad To Me」、「I'll Keep You Satisfied」という2曲はほんとに素晴らしい。あとはビリー・プレストンによる「Get Back」のカヴァーが、ものすごいファンク色にアレンジされててこれもなかなかです。でも、ホントに欲しかったのは怪優ピーター・セラーズが「A Hard Days Night」を朗読する、という意図がよく分からない音源だったのだけど。


 BEATLES関連以外ではジョージ・マーティンが関わった映画音楽の主題歌(『007』など)やBBCの「放送開始と放送終了の音楽」などが収録されている(BBCの音楽はYESもびっくりなシンフォニック・プログレ)。アレンジがカッコ良すぎてオシッコ漏れそうになる。









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WILCO『Sky Blue Sky』

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Sky Blue Sky

Sky Blue Sky







 いかにも神経質で繊細そうなNYのオルタナの雰囲気と、骨太感モリモリの(ややイモっぽい)アメリカン・ロックが奇跡的な融和を果たしているのがWILCOというバンドなのだと思う。新譜の『Sky Blue Sky』も素晴らしかった(オリジナルアルバムとしては3年ぶりで、日本盤の発売が待ちきれず輸入盤を購入)。豊かなメロディがザラッとした渋い質感の音でもって波のように押し寄せてくる感じが堪らなく良い。これは泣けちゃうな。なんかTHE BANDと同じぐらい泣きのツボを押さえてる、と思った。「男が泣けちゃうロックバンド」って今、WILCOぐらいしかいないんじゃないの?



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 映像はアルバム発売に先立って公開された新曲「What Light」のライヴ。「実験的であるか」、「新しいサウンドに向かっているか」といった評価基準があると思うんだけれども、WILCOを聴いていると結構そういうのってどうでも良いよなぁ、なんてことを思う。WILCOは古いけど、実に新しい。これには「ロックの王道」を突き進んでる感じさえある。音楽から瑞々しさが欠けずに伝わってくる瞬間が味わえる(なんたってWILCOはリアルタイムで活動しているバンドだから)のもとても喜ばしい。





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ピーガブ化するビョーク

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 ビョークの新譜『Volta』を試聴したっす。



Volta

Volta








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 アルバムを買ってないワスみたいな分際で、こんなこというのもなんだケド、これって完全にピーター・ガブリエルじゃんなぁ!最近80年代音楽の再評価の高まりは感じていたケド、まさかピーガブまで引き合いに出されてくるとは思ってもみなかったよ。そのうち、ビョークが髪型を逆モヒカンにして、ユッスー・ンドゥールとデュオをやりはじめるのではと気が気じゃなかったのはワスだけじゃないはず。



D


 そんなことがあってまたピーガブを聴きなおしたり、PVを観なおしたりしたんだケド、何をやってもピーガブってすごい際どくて、そこがまた良いんだよねぇ…。大ヒットした「Sledgehammer」もこんな感じ…。



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 いきなり精子の映像から始まっちゃうんだから、正気かぁ!!?って疑いたくなるっすよ。この気持ち悪さはクリス・カニンガムにも匹敵すると思うんだよね…。



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 ワスがなんとなく嫌なのは「向かっているところは一緒なのに、言い方の違いだけでなんとなくオシャレな感じになる」ってところでねぇ…。聴いた感じはピーガブの『IV』なのに、「最先端」風に売り出されてるところが納得いかないっす。ワスはこう見えても古典とか古いモノが好きなんだケド、こういうやり方を見ていると単純に「先人にもっと敬意を払え!」って言いたくなるですよ。


 ジャケットの写真はデイヴィッド・リー・ロスみたいだしさぁ…。



Eat 'em & Smile

Eat 'em & Smile







 ワスは敬意を払ってるよ(id:throwSさんに)。





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最もザッハリッヒなジャズ

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Miles Smiles (Reis)

Miles Smiles (Reis)








Esp (Reis)

Esp (Reis)








Nefertiti (Reis)

Nefertiti (Reis)








Sorcerer

Sorcerer







 パソコンが壊れていてiPodの中身を入れ替えることができなかった間、6マイルス・デイヴィスが60年代に録音した4枚のアルバム(壊れる直前にパiPodに入れていた)を繰り返し繰り返し聴いていた。これはとても実りが多い経験だったと思う。聴けば聴くほど「これはすごい音楽だ……」と思わされるようなアルバムってそんなにない。


 これらはいわゆる「第二期黄金クインテット」と呼ばれる時期のもので、マイルスが集めてきた若いミュージシャンの演奏もすごいのだが、マイルス自身もバリバリである。ウェイン・ショーターが空間を切り裂くような速いパッセージで常にエンジン全開で攻め込んでくるのに対して、マイルスは緩急をつけて「ここぞ!」というときにビシバシとカッコ良いフレーズをキメてくる。この音楽の運び方が絶妙すぎる。

 もうひとつすごいと思うのは、マイルスのアルバムなのにほとんど彼自身によって書かれた曲がないこと(4枚の合計26曲中、マイルスは2曲しか書いてない)。想像すると、大部分をテオ・マセロと組んで二重プロデュース状態で製作を進めていたんだろうけれど*1、音楽のまとめ方が素晴らしすぎて感動してしまうばかりだ。


 「マイルスって指揮者とか向いてたんじゃないかなぁ」などと思う。この頃のバンドってベルリンフィルみたいだし、ビジネスの上手さとかの面でも、20世紀音楽におけるもう一人の“帝王”ヘルベルト・フォン・カラヤンと重なる部分は多い。他に似たような点としては女人禁制のベルリン・フィルにザビーネ・マイヤーを入団させたことや、バンドにビル・エヴァンスを迎え入れたことなども挙げられる。


 話が薀蓄語りへと捩れてきたので、音楽から与えられる印象に戻そう。


 「何故、こんなにこの4枚のアルバムは“カッコ良い”のか」と問うたとき、私が考えるのは「これは一切“感情が入り込む隙間がない音楽”だからだろう」ということだ。4枚のなかで、ほとんどマイルスは感傷的なバラードを取り上げない。すすり泣く様なミュート・プレイも聴くことができない。そこには高度な即興演奏技術と、ミステリアスな作曲技法(そしてミステリアスな曲タイトル)があるだけである。


 このような音楽に対して、我々は通常するような方法で理解しようとすることを断念しなくてはならない。「演奏者(作曲家)がどのような気持ちで音楽を作っているのか」とか「音楽に込められたメッセージ」などを想像して(もともとそれらは勝手な想像に過ぎないのだが)、この4枚のアルバムを「分かったような気になること」はできないのだ。よって、これらの音楽は感情的なアプローチによる批評をも遠ざけている。こういう音楽の在り方は、20世紀に生まれた「新音楽(例えば、シェーンベルクに代表される新ウィーン楽派など)」の在り方と非常によく似ているとも思う。


 マイルスの音楽は“わからない”。それでも、すごくカッコ良くてシビれてしまう。


 どこがカッコ良いのか、その魅力を説明しきることは不可能だ。演奏能力の高さが素晴らしい、という事は辛うじてできる。しかし、それでは全然「この音楽を説明すること」にはなっていない。


 でも私は「この音楽は素晴らしい。カッコ良すぎる」と犬に誓って言うことができる。ミステリアスな雰囲気に好奇心が掻き立てられる、という気持ちもあれば、表現できないのは単に文章力・表現力がないせいでもあるけれど、理解できないものなのにこんなにもカッコ良く聴こえてしまうこと自体が奇跡に近いものとして感じられる。



D


 あとは「四の五の言わず、聴いてください」としか他には言えない。というか最初から、そう言えば良かったのだ、と今これを書いていて思った。『Miles Smiles』、『Nefertiti』の2枚を特にオススメしておきます。ハービー・ハンコックはこの頃が一番「アーティストらしいプレイ」をしていると思う。




*1:『E.S.P』のプロデュースはアーヴィング・タウンゼンド。そのせいか他の3枚とは幾分雰囲気が異なる





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レイモンド・カーヴァー『ファイアズ(炎)』

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その夜の十一時、私はまたカウチに寝支度をした。こんどはスチュアートは何も言わなかった。私をじっと見て、唇の裏で舌を丸め、それから廊下を歩いてベッドルームに消える。(『足もとに流れる深い川』より)



 これまでそれなりに本を読んできたけれど「唇の裏で舌を丸め」という描写に出会ったのは初めてだったと思う。これが登場人物の苛立ちとかモヤモヤした感じとかがグッと迫ってくるような描写であったから、とてもびっくりしてしまった。レイモンド・カーヴァーという人の細やかで現実的な想像力はものすごいものがあるなぁ、と感じる部分である。言われれば「あぁ、わかる。そういうクセがある人っているよな」と思うけれど、言われない限り人が「唇の裏で舌を丸め」ているしぐさを頭のなかで思い浮かべることなんてないもんな。


 この本に収録されているエッセイのなかで、カーヴァーが自分の、というか短編小説家の“小説作法”について書いているところがある。曰く、短編小説家の仕事とは日常のなかで「『ちらっと捉えたもの』に自分の有する力の一切を注ぎ込む」ことなのだそうな。それは明確な文章を以ってして描かれなければならない。そのことが細部に生命を与える。あまりに正確な文章は「時には素っ気なく響くかもしれない。しかし案ずることはない。正しく使用されていれば、それらの言葉はあらゆる音を奏でることができるのだ」――とカーヴァーは言う。何故、彼が「唇の裏で舌を丸め」と書けたのか、これらのエッセイは充分に納得できる答えを提供してくれている。


 ところで、こういうカーヴァーの想像力は、トマス・ピンチョンのような作家が持つ想像力とまったく正反対の位置にいるのでは、などと思うのだがどうだろうか。書いている作品の内容もまったく異なるけれど、そこにはミクロへと収斂されていくまなざしと、マクロへと拡大していくまなざしがあるように思われる。もちろん、ピンチョン(あとスティーヴ・エリクソンとか)は後者のほうだ。


 ピンチョンの短編小説が「あんまり……」というのを考えると二つのまなざしを持つことは不可能に近いことなのかもしれない、とも思う。これは話の長さの問題ではない。ヘミングウェイは長編も短編も面白くて「やっぱ、ノーベル賞とってる人はすげぇなぁ!」と興奮してしまうけれど、長編も短編も描写をするものを捉える想像のまなざしは同じものだったように感じられる。短編のつもりで長編を書いている、というか。





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ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』

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意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

意味の論理学〈上〉 (河出文庫)








意味の論理学 下

意味の論理学 下







 「僕らって言葉の意味とかを確定的なものとして、ひとつに定めようとしてしまいがちだけど、実際それって本当は不可能なんだよね~」という感じの話を、ルイス・キャロルとかジェイムズ・ジョイスとかから導き出そう、というような感じの本なのだと思う(ホントか)。頑張って読んだけれど、ここ何年かで最も「はぁ~、なるほどなぁ……。おもしれ~」という感想を抱けなかった本でもある。どうしたものか。


 その感動の無さは「なんだこれ!わかんねぇ!!」という苛立ちとは異なったものだ、と思う。これは、教養高くてとても難しい本だ。特にラカンや言語学の術語が頻発するところとか特に。それらに関して私は門外漢も甚だしいところなのだが、しかし“なんとなく”で言いたいことが分かる(分かんない具合で入ったら最近ではキルケゴールのほうが分からなかった……)。でも、そこで私が“理解するもの”は、ドゥルーズの言いたいこと、というよりも「あれ?これってアドルノもこんな風に言ってるんじゃないか??」という感じなのだ。だから、私にとって、ドゥルーズの言っていることは既にアドルノから学んでいたもの、として感じられてしまった。


 もちろん、ドゥルーズとアドルノでは違う。けれども、前者がカバン語を語るとき導き出そうとするものと、後者がヘーゲルの弁証法(あるいはベートーヴェンの《英雄》)から導き出そうとするものにはすごく重なるものを感じる。誠実で勤勉な人間であれば、似てる、けど違う、じゃあどこが異なっているのか、についてテキストをもっと熱心に読むべきだろう。っていうか、私もするべきなのだ、たぶん。アドルノ、という差異に留まり続ける思想家に魅せられた者ならば「ドゥルーズとアドルノは似ている」と語ることさえも許されないことかもしんないし。


 まぁとにかくドゥルーズを媒介としてアドルノを読むことは可能である、という直感は得たし、またアドルノを読みたいなぁ、という気持ちにはさせられた。





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フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『罪と罰』

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罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)








罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)







 一般に物語を前に進ませるために、人物は読者に理解されうるものとして造型される。例えば、そこで描かれる冷酷な人物は雨の日に仔犬を拾ったりしないし、温厚な人物が老婆を斧で叩き殺したり、といったことは小説中に起こらない。汚れた仔犬を胸に抱いて帰るのは温厚な人物であるし、斧の刃についた血を布でふき取るのは冷酷な人物のやることである。たとえ、仔犬を拾った人物が次の日老婆を惨殺したとしても、そのような相反する、統合されえぬ二面性は描かれた瞬間にすぐさま「二面性のある人物」として統合され、理解されてしまう(何かの小説新人賞の総評で、その容易さについて批判的に、また挑戦的な意見を出していたのは町田康だったと思う)。そのとき登場人物から“生き生きとしたもの”が失われるのは、それがはっきりと「フィクション上のもの」として理解されてしまうせいにちがいない。


 しかし、ドストエフスキーの登場人物はすごく“生き生き”している(だから、やっぱりこの作家は偉いし、とんでもない、と改めて感じてしまった)。そこでは一人の人間が立体的に描かれる。主人公の友人、ラズミーヒンは「温厚な、真面目な人物」として登場するのだが、決して一面的に捉えきれる「堅物」ではなく、酔っ払って大騒ぎした次の日に自分の醜態を大いに羞じもするし、激情的になることもある。しかし、かもし出される“生き生き感”は、その面数の問題ではない。それは「固まった面」ではなく、今にも溶けてドロドロと流れ出てしまうゼリー状の立体(自分でもそんなものが存在するかどうか分からないけど)みたいに描かれてる感じというか……。


 「人の性格ってよくわかんねぇ!けど、大概、人間ってこんなものだよな」とも思いました。





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PC故障のため

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しばらく更新を停止します。





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暴力について、または非暴力的に暴力を批判することは可能か

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 村上春樹の取材によって書かれた2冊の“オウム本”を読んで思ったのは、世の中には二種類の暴力がある……ように見せかけて一種類の暴力しかない、ということだ。

 ひとつに我々の目には悪意によってなされる暴力がある、ように見える。これは至極簡単な話だ。『アンダーグラウンド』でインタヴューを受けている地下鉄サリン事件の被害者は、そのような悪意によって行使される暴力によって、生活をメタメタに破壊された――ように世間的には思われている。なんだかよくわからないカルト宗教の指導者、麻原彰晃はとっても悪いヤツで、何人もの命を無碍に奪った人間は許しがたい、というのが事件以降の「ごく一般的な意見」を占めるものなんじゃなかろうか。

 我々の前にこのような「すごく分かりやすい暴力」が振りかかったとき、我々がそれを「許しがたい」と思うこと――これはとても正常な反応のように思われる。また、「事件を起こしたアイツらは、悪いヤツだ」と評価することは、裏を返せば「私はアイツらとは異なった人間である」と表明することでもある。このとき、社会には「正義感」が生まれている(この正義感の作動によって“正常な社会”と“悪”は線引きがなされ、正常な社会の正常さは防衛されることになる)。

 繰り返しになるけれど、これはとても自然な反応だ、が、個人的には現実に「アイツらは悪いヤツだ」と言い切ってしまう人を目の前にすると、ムッと来てしまわないこともない。テレビで古舘伊知郎(久米宏でも良い)が「何故このような事件が起こってしまったのか、私には理解できません」とコメントしているのをみると私はムッと来るタイプの人間なのだが、このときのムッという感じと「アイツらは悪いヤツだ」と言ってる人を見たときの感じはとても似ている気がする。しかし、それは「ケッ!こんなときばっかり善人ぶりやがって!!(お前らだって悪いことたくらんだことぐらいあるだろ!!)」という反感ではない――一言で言うとこれは、偽善への敏感な拒否感だ。

 私がムッとくるのは、正義感を行使する人間の単純な無神経さである。「アイツらは悪いヤツだ!」と思うこと、それ自体はとても自然なものとして捉えられるのだけれども、その正義感が一つ間違えば暴力に転向することを意識しているのだろうか。そして、そのとき生まれる暴力が、先に示していた「悪意によってなされる(ように見える)暴力」と全く論理的には一緒で、新たに生まれた暴力のほうがそれを生み出した暴力よりもよっぽど性質が悪いことに気がついているんだろうか、と私は思ってしまう。

 正義感溢れる人物は、ときどきこんな発言をするだろう――「あんなことをやる犯人は、早々と死刑にされたほうが良い。生きていても世の中のためにはならないし」。その一方で過去にこんな風に考えていた人物がいる――「あんなことをやる弁護士は、早々とポアされたほうが良い。生きていても教団のためにならないし」。果たして、両者の考えが「異なったものだ」と言えるだろうか。私には、そう思えない。というか「考えていることが一緒じゃん」と思ってしまう。

 だから、暴力には一種類しかない、と私は思う。何故なら、弁護士を殺した犯人の動機も教団を守るという“彼らなりの正義感”によって基礎付けられている。悪意によって行使される(ように見える)暴力も、その後に過剰な正義感によってなされる暴力も、実は正義感によって正当化された同種の暴力なのだ。しかし、後者は“あまりに自然な反応”であるせいか、気づかれず、何のお咎めもなく行使されることが多い。違いと言えば、それぐらいである(そういえば、ナチス・ドイツでも合法的にユダヤ人を虐殺してたんだよな)。

 オウム信者・元信者に対するインタヴュー記事を掲載した『約束された場所で』には、端的に言ってそのような「合法的に行使される、無神経な暴力」の被害報告が多く寄せられている。なかでも、信者が事件後「生活のために」苦労して準備したパン屋が「オウム信者の店!」とマスコミで報道されたことが発端で嫌がらせを受け、開店のための努力が水の泡になってしまった、というものが一番私の心に堪えた。これは正直に「うわぁ…気の毒だなぁ……」と思ってしまう。だって、その信者の人だってなんとか生活を立て直そうとしてパン屋を始めたわけでしょう?そこには明確に“生きようとする意志”があるわけで、それに対して嫌がらせをしてる、って完全なる人権無視じゃないか!

 このような一見暴力に見えないまま行使される暴力は、ヴァージニア工科大学での銃撃事件に関する誤報(犯人は銃マニアの中国人留学生、というもの)によって引き起こされたブログ炎上事件にも感じる(こういった暴力の構造は、何もオウム事件に限ったものではないのだ)。そこに書き込まれた誹謗中傷には、ネット市民による過剰な正義感の発露が見受けられるだろう。しかし、それは誤報であったために見事に空転し、怒りと正義感によって書き込まれた言葉の数々は一瞬にして「暴力が行使された傷跡」へと転落した。この空虚さから我々は何か学べないのだろうか。

 ――こんな風に考える一方で、私はこのようにも思う。

 「暴力を行使する者に対してそれは『暴力的である』と批難することも暴力的なのではないだろうか」。

 『アンダーグラウンド』から私が読み取ったもののもう一つに「世の中は案外善意によって回っている」というものがある。事件直後のサリンが充満する地下鉄駅構内で、自分の体もボロボロなのに何人かの人が必死で人命救助に参加する、そこには善意が感じられる(しかし、その善意のために自分の命を落とした人もいる)。『アンダーグラウンド』を読みながら、私は何度か泣いてしまったんだけれど、その理由は、暴力があまりにも残酷にそのような善意を摘み取っていった事実がそこに書かれていたからだ。自分がそのように立派な人物ではない(し、『世界なんて消えてなくなってしまえば良い!』と常日頃願うようなタイプの十代を過ごしていた)から、余計に「あぁ、世の中って結構良い人たちがいるんだな」ということで、すごく純粋に感動してしまった。

 しかし、だからこそ複雑である。何故なら、過剰な正義感で暴力を行使する人が、きっと「結構良い人」だから。彼らは純粋に自分の正義感を信じて暴力を行使する(自分は痛くも痒くもないのに、銃で撃たれて亡くなった大学生の死について悲しみ、そしてブログを炎上させた)。その人たちに対して「あんたらのやっていることは暴力的だよ」と批難することは、私自身が古館伊知郎的な無神経さをもっているといえないだろうか、またそれは暴力の行使ではないだろうか、と私は思う。このような点で、メタ的な視点で暴力を批判することは不可能であるように感じる(それ自身が暴力性を帯びてしまうから)。神経質な話かもしれない(また、どうでも良い話かもしれない。すべてが。この長いエントリを読んでくださった貴方に敬意と感謝の意を表したい)。しかし、暴力と対峙するためには出来る限り非暴力的に暴力と立ち向かわなくてはいけないのだ。もしかしたら、暴力-非暴力という軸で捉えるのでは全く有効でなく、もっと別な問題との向き合い方があるかもしれないけれども。




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