私はこんな楽器を演奏しています

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D


 最近、適当に録音した音源などをネットに公開して恥を晒している私ですが、本気で演奏しているのはファゴットという木管楽器です。と言っても異常に知名度が低いこの楽器。「のだめブーム」が来ているはずなのに世間的にはまだまだ名が知れているとは全く言えない状況。「楽器をやっている」というと必ず「へぇー、何やってるの」と訊ねられるのですが、「ファゴット」というと訊ねてきた相手の顔が曇り「ごめん、知らない……」と言われ「い、いや、こちらこそ、なんかごめん」と気まずい感じになってしまいます。そのような状況をそろそろ打破しなくてはいけないような気がするので、ここで一つYoutubeでファゴットの映像を集めてみました。上にあげたのは、どっかの大学生が演奏するファゴット4重奏での「スーパーマリオ」。結構上手な演奏。





D


 こちらは日本のファゴット・アンサンブル・グループ「Bassoonable」による「Walter Melon Man」(ハービー・ハンコック)。こちらも上手いですが、「ヴィジュアル的にベーシスト」が多くて「ファゴット界におけるDな人口の多さ」を物語るかのよう。左から二番目の人なんか、安田大サーカスの人みたい。ちなみに、体が大きいからと言って楽器が上手いわけではないので注意が必要(上手そうに見えるけれど)。



D


 演奏者、演奏団体ともに不明によるモーツァルトのファゴット協奏曲(ファゴットの独奏がはじまる直前から)。フルートやクラリネット、オーボエといった木管楽器のために書かれた協奏曲は多くあるけれども、ファゴットのために書かれた作品は圧倒的に数が少なく、モーツァルトのこの曲はその少ない作品数のなかで最もメジャーになるもの。楽器屋に行くと、音大生がこれ見よがしにこの曲の一部分を吹いているのを見かけます。



D



D


 あとヴィヴァルディが30曲以上の協奏曲を書いているのだった。上にあげた二つはどちらもヴィヴァルディによって書かれた協奏曲。二番目にあげたハ長調のほうの独奏者の方がパワフルな音色を響かせていて上手いなぁ、と思ってしまうのだけれど曲としては一番目のホ短調のほうがカッコ良い。ファゴットは暗い音色をもつ楽器なので短調の曲がよく似合う、と思います。



D


 漸く見つかった明らかに「プロ!」というレベルでの演奏。リムスキー=コルサコフの《熊蜂の飛行》をファゴット五重奏に編曲して演奏しています(リハーサル)。一番左の白髪のオッサンが、ザールブリュッケン国立歌劇場管弦楽団の首席奏者、シュテファン・シュヴァイゲルトさん。黒光りする楽器がエロい。一番右にいるのはコントラ・ファゴットという通常のファゴットよりも1オクターヴ低い楽器です。爆音で吹いていてカッコ良い。





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音楽の儚さについて

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D


 今年のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンでミシェル・コルボがフォーレの《レクイエム》を演奏すると聞いてから、よくこの曲を聴いている。私がこの曲で最も好んでいる部分は第4曲の「ピエ・イエスズ」(コルボが指揮したものではないけれども、上に揚げた動画がそれ)。オルガンと小規模のオーケストラのシンプルな伴奏の上で歌われるボーイ・ソプラノが美しすぎ、この部分を何度も繰り返して聴きたくなる。


 一つの濁りもない澄み切った音楽だ、という感動と同時に考えてしまうのは「ああ、なんて音楽というのは儚いのだろう」ということ。「ピエ・イエスズ」は全曲中で最も短い部分であり、たった3分程度で終わってしまう。贅沢な話かもしれないけれど、オルガンと弦楽器によって最後の和音が閉じられるたびに「この清浄な音楽のなかにもっとどっぷりと浸かっていたかった」と思う(他の部分も素晴らしい曲なんだけど)。


 そのように儚い思いに駆られるのは、ボーイ・ソプラノという存在自体がすごく儚いものだからかもしれない――「声変わり」という生理的な現象によって、この美しい声は失われてしまうものだから。1972年に記録されたアラン・クレマンの美しい声は、「いまやどこにも存在しない」という事実が余計に儚さをかきたてるのである。アラン・クレマン少年(当時)の声変わりはこの録音が行われた10日後に始まった、というのはなんともドラマティックな話だ。



フォーレ:レクイエム
フォーレ:レクイエム
posted with amazlet on 07.02.27
クレマン(アラン) サン=ピエール=オ=リアン・ドゥ・ビュール聖歌隊 フッテンロッハー(フィリップ) ベルン交響楽団 コルボ(フィリップ) フォーレ コルボ(ミシェル) コルボ(アンドレ)
ワーナーミュージック・ジャパン (2000/06/21)
売り上げランキング: 348



 どうでも良いんだけど、第1曲「イントロイトゥスとキリエ」の一番最初の和音がブラームスのピアノ協奏曲第1番の和音と全く同じなので、勝手に頭の中で2つの作品が同時再生されるのが困る。





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リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』

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アメリカの鱒釣り
アメリカの鱒釣り
posted with amazlet on 07.02.26
リチャード・ブローティガン Richard Brautigan 藤本 和子
新潮社 (2005/07)
売り上げランキング: 75430



 ブローティガンはやっぱり苦手だな、と思った。





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EN0の新曲

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EN0(イーエヌゼロ)


 プノンペン・レコード所属アーティスト、EN0の新曲をアップしました。「Vorwort」という曲。いつものようにインチキなアンビエント志向を醸しだしています。久しぶりにメトロノームを使用してギター・トラックを作成したため、編集役であるid:mochilonさんに「適当にビートを被せといてー、BPMは100だからー。スケッチショウみたいなチリチリしてる感じのでよろしく」と注文することで完成されました。





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カッコ良い特撮主題歌・番外編

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D


 「ワンダバ」の通称でお馴染みの冬木透作曲による『帰ってきたウルトラマン』の劇中挿入歌。「ワンダバダバワンダバダバ……」とミニマル・ミュージック(あるいはバリ・ガムラン)ばりに繰り返される男性コーラスとともに演奏される金管楽器群とスネアドラムによって音楽は徐々に盛り上がっていく。途中でマリンバが加えられ雰囲気がさらに昂揚する箇所が効果的だ。ショスタコーヴィチの交響曲第7番第1楽章の循環主題部分を髣髴とさせる名曲である。



ワンダバ!~ウルトラ防衛チーム テーマ・コレクション~
テレビ主題歌 TVサントラ 宮内国郎 冬木透 ザ・エコーズ 東京一 冨田勲 玉木宏樹
コロムビアミュージックエンタテインメント (2003/11/19)
売り上げランキング: 24966



 これ、欲しいなぁ。





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深夜3時の発見

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PAP_0000


 タカノフーズの納豆のたれは、切り口にガイドがついているため「あ、切り口小さくしすぎた!」といって、しっかり狙いを定めてるにも関らずなんかピューッと納豆容器の外にたれを溢したり、白いシャツに染みを作るリスクが少ない。また、この配慮によってアメリカ社会などで消費者が起こすとんでもない訴訟――「切り口の適正な大きさについて説明がなかったため、3万ドルのペルシャ絨毯に染みがついてしまった。新しい絨毯の購入代金と被った精神的苦痛についての慰謝料(25万ドル)を原告は要求する」など――が起こるリスクをも軽減している。


PAP_0002


 司法試験制度が新しくなったことによって、日本にも今後アメリカ型の訴訟社会が到来する未来を見通したタカノフーズの慧眼には正直驚きの色を隠せない。





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細川俊夫『うつろひ』

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うつろひ-音宇宙I
うつろひ-音宇宙I
posted with amazlet on 07.02.24
細川俊夫
フォンテック (1997/01/25)
売り上げランキング: 14291


現代日本ピアノ音楽の諸相(1973-83)というCD*1に収録されている細川俊夫の作品を聴いてから彼の他の作品が気になっていたのだが、漸く聴くことができた。フォンテックから既に10枚もの作品集を出しており、最近その10枚目が発売されているのだが、私は結構律儀な性格なのでまずは一枚目から。アルバムには1989年に尾高賞(日本の権威ある?作曲賞)を受賞する以前、1984年から1986年に書かれた作品が収録されている。

 アルバムの表題作ともなっている《うつろひ》という作品から意識が遠いところに運ばれるような作品ですごい。「笙は天体を、ハープはその天体の光をうける人を象徴する。笙奏者は、ハープ奏者を中心に半円を描くように移動しながら、演奏する。この半円を一日の夜明けから夕暮れまでとも、一年の春から冬の移りゆきとも、とらえることができる(作曲家自身によるプログラム・ノートより)」。そこには古代から想像されてきた「天体の音楽」を、東洋的に音化しきったような見事な音風景が存在する。笙の通奏的に鳴らされる音色と、イメージされた時間の進行(朝→夕暮れ)に沿って動くハープの絡み合いがとても美しい。

 収められた作品は、フルートの独奏のために書かれた《線》I以外は全て複数の楽器のために書かれている。そこで意識されているのは各楽器のアンサンブルの「ずれ」だ、と作曲家自身は語る。ヴァイオリン、チェロ、ピアノのために書かれた《断層》では、演奏者が縦一列に並べられ、お互いを見ることができない。つまり、目やボディアクションによる非音的なアンサンブル行為が強制的に不可能なものになっている。書かれている音もプツリプツリととぎれがちで協和する瞬間がなかなかやってこない。しかし、その「ズレ」や「断片」によって細川はモアレのように音楽を描いていく。そこにはメロディによっては生み出すことの出来ない幻覚のような協和性を感じる。こういった試みがおこなわれた20年後の現在、大友良英の音楽とリンクして考えることができるのは興味深い。



*1:このCDについてはこちらでとりあげた




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ルイジ・ノーノの再発ディスクなどについて

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Nono: La lontanaza; Hay que caminar
Luigi Nono Gidon Kremer Tatjana Grindenko
Deutsche Grammophon (2003/11/11)
売り上げランキング: 41294



 長らく廃盤だったルイジ・ノーノ作品の音源がパッケージなどを変更して再び市場に出回っているようである。上にあげたものはノーノの絶筆となった《ノスタルジー的ユートピア的未来の遠景》の再発盤(デジパック使用)。「ノスタルジー的」な「ユートピア的未来の遠景」。タイトルに冠される文字をそのまま読めば、そこにはかつて革命闘士としてイタリア共産党員として強い政治的メッセージを含む作品を世に送り出してきた作曲家がたどり着いた位置が分かるというものではなかろうか(そのような意味があるからこそ、私はこの作品こそ最も聴いて欲しいとおもう)。


 この作品は強烈なテキストを持って、我々に訴えかけてきた70年代の作品とは全く異なる。そこから我々の耳に響いてくるものは鼓膜に突き刺さるような激しいシュプレッヒシュティンメやぶつかり合うように咆哮する金管楽器ではなく、ぼそぼそと聴き取ることの出来ないような声で亡霊的に囁く人声(これには『旅人』の役割が与えられている)と独奏ヴァイオリン、それから位相が揺れ動く磁気テープというモノクロームの音響だけだ。彷徨うようにして鳴り響き、そして沈黙との間に置かれるつぶやきには祈るような敬虔さと、それからその祈りを捧げる人物に感じる悲痛さのようなものがある。淡く描かれた水墨画のような作品だけれども、迫ってくるものは実に強く、美しい。



Nono: Como una ola de fuerza y luz; Manzoni: Masse
Giacomo Manzoni Luigi Nono Claudio Abbado Giuseppe Sinopoli Bavarian Radio Symphony Orchestra Berliner Philharmoniker Sinfonie-Orchester des Bayersichen Rundfunks Maurizio Pollini
Deutsche Grammophon (2003/01/14)
売り上げランキング: 21315


 70年代の「強烈にメッセージを言い放つノーノ」の主要作品《力と光の波のように》と《……苦悩に満ちながらも晴朗な波……》をクラウディオ・アバド、マウリツィオ・ポリーニという「同志」が録音したものは収録曲とジャケット写真を変更して↑のアルバムで再発されている*1。《力と光の波のように》は「イタリアではなく東ドイツで共産主義に信奉し、そして東ドイツ崩壊と共にピストル自殺をしてしまったヘルベルト・ケーゲルの演奏と比べると、まとまっている印象。それゆえに衝撃力は弱まってしまうのだが、ソプラノ歌手が素晴らしくてガツンと来てしまう。のだが、晩年の作品を聴いてしまうとここにあるメッセージにははるかに「無駄の多さ」を感じてしまう。



Luigi Nono: Fragmente; Hay que caminar
Luigi Nono David Alberman Irvine Arditti
Montaigne Naive (2003/11/18)
売り上げランキング: 10772


 それからアルディッティ弦楽四重奏団による晩年の弦楽作品集。1979年から1980年に書かれた《フラグメンテ》*2を聴くと実に内容に抑制されたものを感じる(とにかく音数が少ない)。「年をとるにつれて、口数を少なくしていきながら、伝わるメッセージを多くしていく」という矛盾がある行為をここまで見事に成し遂げることのできた作曲家はノーノ以外に存在しないのではないか、と思う。




*1Contrappuntoが元々のディスク。ユーズドで500円で出ているので今が買いです。カットされている《Contrappunto dialettico alla mente》は珍しいので


*2:カップリングの《hay que caminar》sognandoは先にあげた《ノスタルジー的ユートピア的未来の遠景》のディスクにも収録されている





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イアン・ウォーレス、死去

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Earthbound
Earthbound
posted with amazlet on 07.02.23
King Crimson
Japanese Import (2006/05/23)
売り上げランキング: 99756



 キング・クリムゾンの元メンバーだったドラマー、イアン・ウォーレスが亡くなったそうです。死因は食道癌。バンドが崩壊寸前だった頃の激しい(そして音質劣悪の)ライヴ音源『アースバウンド』でドラムを叩いていたのもイアン・ウォーレス。こちらではその同時期のライヴ音源がフリーでダウンロードできるようになっていました。ご冥福をお祈りいたします。





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世代論から人種論へ

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「仁丹」或いは世代の条件 - Living, Loving, Thinking


 メディア技術の変化によって「○○世代」というようにコーホートを語ることの意味がもはや失効していることを示した、簡潔でとても勉強になるエントリ。「世代論が無意味」というのは以前にもどこかで目にした言葉だったけれども、このエントリですごく納得ができてしまった。一回性の「出来事」が、いつでも参照できるようなデータベース的にされることによって生まれるのは「教養の格差」である、と(エントリ内で何故か私が事例として挙げられてるんだけど『師匠!』などと呼ばれたことは一度もありません)。最近雑誌に目を通していると「団塊の世代向けの商品特集」記事がよく組まれているけれども、もう少ししたらきっと「世代」によるマーケティングのセグメンテーションなんていうのも全然意味なくなっているんだろうなぁ、などと思う(自分にはあんまり関係ないけども)。


 「世代論に代わるものは何か」と問うた時、ポッと思い浮かんだのは「人種論」。というかもうこれはそのように語られているように思う。「オタク」とか「サブカル」とか、そういうの。たぶんインターネット以前の社会なら、そういう「人種」分けをしてもある程度の地域差は生じていたと思う(全然、別な話かもしれないけど宮城県には『(ごく狭義での)渋谷系』はいなかったわけだし)。しかし、「直接現場にいなくても、同時的に共有することができる」ことが可能になった今だからこそ、そういった「人種」が手に入れることができるアイテムは地域差がなく均等に割り振られることとなる。言い換えると、それまで地域差が存在していたはずの「人種」が均質化されてしまっている、ということになる(たぶん。これもグローバル化なんでしょうか。ギデンズ!)。「オタク」とか「サブカル」とか人種によってわけられたセグメントはそれぞれ小さいんだけど、範囲として広く捉えることができる気がする。





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レイモンド・カーヴァー『水と水とが出会うところ』

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水と水とが出会うところ
レイモンド・カーヴァー 村上春樹
中央公論新社
売り上げランキング: 10192



 中公新書から出ているレイモンド・カーヴァー全集は全て図書館で読んだ「つもり」だったのだが、詩集のほうにはほとんど目を通していなかった。カーヴァーの詩集で文庫化されたものはこの『水と水とが出会うところ』が初で、全集版で同時収録されていた『ウルトラマリン』は秋に刊行予定だそう。翻訳者である村上春樹の「改題」(これはサブテキストというよりも作者の雑感を表したエッセイだと思う)は『ウルトラマリン』のほうに収録される。


 カーヴァーの遺した多くの、奇妙で、そして美しく、謎めいたタイトルが冠された短編小説は素晴らしい、と私は嘘偽りない心を持って言うことができるけれども、詩集には少し戸惑ってしまった。というのも、この詩集に収録された作品の多くが、非常にカーヴァーの生活と密接したパーソナルなものであったからだ。読んでいる感覚としては「カーヴァーの詩を読む」というよりも「カーヴァー(彼自身)を読んでいる」というようなものに近い。「作家の書くテキストは作家から独立して読まれなければいけない」。プルーストやアドルノがそのように言うような(これはもちろん既に出された解釈を参考にしながら読んだ私個人の《誤読》を含んだ解釈である)立場からすれば、このような作品は「飛び道具だ。反則だ」と言わなくてはいけない気がする。


 しかし「こういうのもアリだな」というのが本を読み終えた今の正直な感想である。っていうか、素晴らしい。そういう掌を返したような言葉が恥ずかしげもなく言えるのも、そこに書かれていたカーヴァーの言葉にひたすら心を打たれてしまったからかもしれない。小説を書くときの端整なで強い描写ではなく、詩的な余白を残した柔らかいくシンプルな言葉がごく自然に胸の中に波紋を広げていく。それは私がカーヴァーという作家がどのような人生を送ってきたか、ということについて知識をそれなりに用意していたからなされたことかもしれないけれど、だからこそ共感とは全く別な次元ですごく揺さぶられる読後感がある。


 これは文壇に華々しくスター的に登場したわけではなく、つらい肉体労働やアル中といった辛苦をなめつくした作家が書いているからこそ、伝わるショックだ。作家を知っている/知らないということで変わってくる読後感についてはなんとも言えないところがあるけれど、この詩集は作家と不可分なところで読まなければ全く面白く思えないようにも思う。もうちょっと言うと、これは作家を知らなければコミュニケーション可能な作品にならない(カーヴァーという人が《コード》として作用するわけだ)。


 だからこそ、人にはうかつに薦められない本だな、と思う。これまでにカーヴァーの作品に触れ、結構ガツンときちゃってる人になら「読んだら絶対面白い!」と熱烈推奨したくなるにちがいないけど。良い本です。





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空き巣防止のためのミュージック・コンクレート

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YO LA TENGO@渋谷O-East

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I Am Not Afraid of You and I Will Beat Your Ass
Yo La Tengo
Matador (2006/09/12)
売り上げランキング: 1389



 久しぶりにO-East行ったら、500円で飲める飲み物のなかに発泡酒じゃなくてちゃんとしたビールがあったので「さすがに発泡酒じゃ苦情があったのかな」とどうでも良いことを考えました。キャリア20年以上とあってさすがに安定したパフォーマンス。楽しかったです。ノイズ・ギター最高。アンコールで三回も出てきてくれて『Fakebook』の曲を演奏してくれたのも嬉しかった。


 あと会場で中日ドラゴンズのユニフォーム(背番号1福留)を来た人を見かけたんだけど、どこのケーキさん(id:xavi6)かと思いました。生霊か。





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再創造……?

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アメリカで開発されたコンピュータ・ソフト「ZENPH(ゼンフ)」は、オーディオデータを読み込み、それがピアノであればキータッチや音量、ペダルの踏み込み加減まで、完全にデータ化出来るというソフトです。このソフトがあれば、古い時代のSPやLPの音源をデータ化し、MIDI対応のグランドピアノなどで再生することが出来るわけです。往年の巨匠達の演奏が、リマスタリングやリエディットではなく、“最新の録音”で楽しめるのです。


”Re-performance” 再創造されるグールドの『ゴールドベルク変奏曲』1955年盤 - HODGE’S PARROT



 もしもこの技術が普及することになったら、私はすぐさま灯油をもってHMV、タワーレコードへと駆け込み、「ZENPH」によって演奏されたアルバムの全てに火をつけなくてはならないだろう。レコード会社もこんなものにプロモーションの資金を投げ込むならば、現代の生きているピアニストへとスポットライトを当てるべきだ。この技術は、グレン・グールドというピアニストのゾンビを墓場から暴きたてるようなものでしかないように思う。


 楽譜を読み、そしてただ一つの解釈を生み出すという通常の演奏行為を拒否し、スタジオにこもって何バージョンかの録音を録って「良いもの」を選び出す作業に徹していたグールドにとって演奏行為とは「差異の戯れ」だったはずだ(だからこそ、グールドは真にピアノをplayしていたのだ)。そのグールドの演奏が「再演」されるようなものになるとはとんだお笑い草である。


 早々とこんな技術は粗大ゴミにでも出してしまった方が良い。ゾンビが弾いているバッハやベートーヴェンなんて誰が好んで聴くだろうか。





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ハロー!プノンペン

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phnonpem!!phnonpem!!phnonpem!!


 あざけり先生、アーカンソー・アニメーション・スクール、EN0などが所属するインディーズ・レーベルプノンペン・レコードの公式ブログが始まったようです。連載マンガ「プノンペン」が掲載されています。とても可愛らしい。「かえってきた小鳥」と並び、ブログ界の二大連載漫画誕生の予感。





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カルロス・フエンテス『遠い家族』

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遠い家族
遠い家族
posted with amazlet on 07.02.19
カルロス・フエンテス Carlos Fuentes 堀内研二
現代企画室
売り上げランキング: 603881


昨年がホルヘ・ルイス・ボルヘスの死後20周年であったり、新潮社からガブリエル・ガルシア=マルケスの全小説が刊行される予定が発表されたりとラテンアメリカ文学についての話題をよく目にするようになった(錯覚かもしれないけど)。現在、フランス現代思想の大著がバンバン文庫化されているように(その流れには急速な“90年代の総括”を感じる)、本当はこの辺の小説もバンバン文庫化されて欲しいものだなぁ、と思いながらメキシコのカルロス・フエンテスの『遠い家族』を読む。フエンテスは二冊目*1だが、今回もすごく面白かった。

 『老いぼれグリンゴ』のときは「ヘミングウェイのような力強い精緻な描写をする人だなぁ」と思っていたのだが『遠い家族』でのフエンテスは随分と印象が違う。無駄がない感じではなく、めちゃくちゃにテクニカルな小説作法が試みられているのである。

 小説は物語の語り手である「私」が、ブランリー公爵という友人を訪ね、。そこで「私」(のちにこの人物はフエンテス自身であることが明らかにされるのだが)はブランリーが経験したとても奇妙な体験を聞く……というところから小説がはじまる。よって、この小説の主要流れ(ブランリーの奇妙な体験)は「ブランリーが『私』に語ったことを『私』が語りなおしている」という視点から語られるのだが、その途中でブランリーから「私」がその奇妙な体験を聞いている瞬間の描写が差し込まれたり、または完全に語りが「私」の手を離れて一人称語りに入れ替わったりと、視点がとにかく慌しい。視点の移り変わりとともに時間軸も変化しており、そのあたりは対位法的のように読める。

 そういう複雑さを持っているだけあって、少し読みにくいところがあるかもしれないけれど、逆に「ああ、これは一行たりとも流して読めないな」という緊張を生みグイグイ引っ張られてしまった。それだけではなく、この技法はこの小説にとってバツグンに効いてくる「必要な技法」だったのだな、と読み終わってから思った。

 「思い出したものだけが記憶である」という言葉が何度か小説内には登場することからも分かるように、小説の重要なテーマのひとつとして「記憶」が扱われている。ブランリーが「私」に語る奇妙な体験もその記憶の1つであって、記憶を完璧な状態まで構築するまで聞き手でもある「私」までが苦心するのだけれど、何かがいつも取り残され、語りえないものとして残ってしまっている。それは最後まで物語の謎として取り扱われ、また最後に「私」へと取り付く亡霊の存在はそのような語り得なさの象徴として読むこともできるように思う。複視的な視点をもって「私=フエンテス」が記憶を完成させようとしても、それは不可能である。「語りえないもの」を取り残したまま、物語はふっと消失するようにして閉じられる――しかし同時に我々読者の前に小説が開かれるのだが。「小説はすべて未完であると同時に他の小説に隣接している」という文学論が小説内で語られているのだが、この小説自体がそのような存在であることを示したものであることも納得できるだろう。

 ルイス・ブニュエルへの言葉が小説が始まる前に書かれ、小説内でもブニュエルの映画への言及があるのだけれども、私はそんなに映画をみないのでこの辺のことはよく分からなかった。機会があったら観てみようかな、と思う。



*1老いぼれグリンゴを既に読んだ。感想はこちら




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コンロン・ナンカロウ

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ナンカロウ:コンティニューム・ポートレイト第5集
コンティニューム
アイヴィー (2005/08/01)



 今年、2007年はコンロン・ナンカロウの没後10周年にあたる年だそうな。
 ナンカロウという人はアメリカ生まれでスペイン内戦時に共産党へ入党、以降はアメリカへの帰国が認められなかったためにメキシコに移住した、という経歴を持った作曲家。上に挙げたアルバムは彼の室内楽作品を集めたものなのだが、そのような変わった経歴から想像されうるアウトサイダーな空気を如実に感じ取れる音楽が多く収録されている(顔もヤバめ)。アルバムのなかには「元ジャズ・トランペッター」という作曲家の経歴を物語るような作品もあるのだが、やはり面白いのは「自動ピアノ」のための作品である*1
 「自動ピアノ」という楽器は、ロール紙に穴をあけ、それにポンプで送り出した空気を通すことでピアノのハンマーを動かすという自動楽器の一つ。プルーストの『失われた時を求めて』にも「ピアノラ(自動ピアノで最も人気があった商品)」、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』にも重要な小道具として自動ピアノは描かれているのだけれども、これが「有名なピアニストの生演奏をあなたの自宅へ!」というような謳い文句で売り出され、欧米の上流階級の間で20世紀初頭に評判を呼んだそうである。ピアニストの演奏を記録したロール紙は交換可能となっており、言ってみればレコードが普及する以前に流行した最高級の「音楽複製技術」ということになるだろう*2

 ただし、ナンカロウの自動ピアノの用い方はそういった「複製」というところを飛び越えて「創造的な使用」に至っている。ロール紙に直接パンチ穴を打ち込むことによって、人間には演奏不可能な複雑なフレーズを「演奏可能」にしてしまう、という試みはなんというか「音楽のサイボーグ」を作っているようだ。このアルバムでは《ヴァイオリンと自動ピアノのためのトッカータ》以外の自動ピアノ作品は全て2人のピアニストの連弾用に編曲されていて本来「機械的に超スピードで演奏されるフレーズ」の数々に人間的なフレーズ感が加わっており、それが良かったり悪かったりだけれども、暴れまわるピアノの音は大変狂っていて面白い。最も作曲時期が早いものでは1935年のものがあるけれど「1935年のエイフェックス・ツイン」みたいな形容がよく似合う。

 「より高密度のフレーズを、より複雑な音楽を……」とナンカロウの自動ピアノ作品が進化していくところには強くモダンの宿命を感じるけれども、後期の作品はあまりにも複雑になりすぎて自動ピアノですらも書かれた楽譜を再現できなくなっていたそうな。それに対するナンカロウの態度は「まぁ、良いんじゃねーのか?」という投げやりな感じ。「人間には演奏不可能なエクリチュールを現実の音として鳴らす」という当初の目論見がここでグダグダになっているけれども、そのようなユルさもまたアウトサイダー・ミュージックな感じがして良い。



*1:「ジャズ的」な作品もそれはそれで面白い。《小オーケストラのための小品》第1番などはフランスの6人組がジャズをやったら……というイメージをかきたてる

*2:このあたりの話は『聴衆の誕生 ポスト・モダン時代の音楽文化』に詳しい




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今年のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン

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 一昨年から開催されている大規模クラシック音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ」。公式サイトで今年のテーマが発表されています。




 今年のテーマは「民族のハーモニー」。国民楽派を中心としたプログラムが組まれるようです。ベートーヴェン、モーツァルトと来て次は……と想像をめぐらしていたところに「国民楽派」と意表を突かれた感じ。作曲家リストを眺めてみますとドイツ・イタリアの作曲家の名前が皆無。共に第二次世界大戦の敗戦国ですが、これは連合国による陰謀が仕組まれていると考えて良いですか?(よくない)。


 聞いたこともない名前が気になる。「アリャビエフ(ロシア)」、「ミレティッチ(クロアチア)」、「クーラ(フィンランド)」、「ヴィカンデル」、「ヒルボリ」(共にスウェーデン)、「ゲーゼ(デンマーク)」、「グリディ」、「トゥリーナ」(共にスペイン)とかはCDも見たことがないぞ。


 参加アーティストは今年も豪華。日本人演奏家は一流が、海外からの演奏家は主に中堅・若手の注目株がぞろり。で、ミシェル・コルボの名前が異様に大物感を醸し出しているのですが、なんと得意のフォーレ《レクイエム》を披露してくれるそう。この公演チケットS席が3000円(初日のトリだそうです)。安すぎて一瞬涙出そうになった。



フォーレ:レクイエム
フォーレ:レクイエム
posted with amazlet on 07.02.16
クレマン(アラン) サン=ピエール=オ=リアン・ドゥ・ビュール聖歌隊 フッテンロッハー(フィリップ) ベルン交響楽団 コルボ(フィリップ) フォーレ コルボ(ミシェル) コルボ(アンドレ)
ワーナーミュージック・ジャパン (2000/06/21)
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 CD持ってったらサインしてくれないかな……。





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新カテゴリ「墓標」について

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ここに書かれているタイトルは墓標なのです。いつか誰か、墓地へさまよいこんだ人がなんの拍子にか墓標に刻まれた文字を判読しようとする、そのときのために刻んでおかなければいけない、そんな自己暗示的使命感。そしてここに書かれた墓標に興味を持ってしまった宿命の人は、きっとその墓を掘り起こす作業に取り憑かれることになるだろうと期待しているのです、わたしと同じように。そうでなければ数多の邦画の傑作が、墓地の闇へと消え去ってしまうのです。


2006-08-28 - 真魚八重子 アヌトパンナ・アニルッダ



 以前に大変感銘を受けたエントリ。再び読み直しました。今後、時事性が全くない音楽や読書のエントリには「墓標」カテゴリに入れていきたいと思います。





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ルイジ・ダッラピッコラ

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ダッラピッコラ:とらわれ人
サロネン(エサ=ペッカ) ボリン(ペル) スウェーデン放送交響楽団 エリック・エリクソン室内合唱団 ブリン=ジェルソン(フィリス) ハスキン(ハワード) スウェーデン放送合唱団 ハイニネン(ヨルマ) アレクサンダーソン(スベン=エリク) ウェイディン(ラーゲ)
ソニーミュージックエンタテインメント (1998/03/21)
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 20世紀イタリアの作曲家、ルイジ・ダッラピッコラというとイタリアで初めて12音音楽を用いて作曲をおこない、それから歌劇《囚われ人の歌》によってムッソリーニに対する反ファシズム的な声をあげたことが知られております。生没年は1904年から1975年、ドミトリ・ショスタコーヴィチとほぼ同時代人。ショスタコーヴィチもまた、イデオロギーに対しての反抗を作品のなかに「隠した」ことで知られており、両者を並べてみると20世紀の音楽史に名を刻むということにおいてどれだけイデオロギーが重要な点であるのか、ということを私は考えます。もっともこの両者は、シェーンベルクやブーレーズのように音楽自体に「新しい音楽秩序の確立」というイデオロギーが含まれているわけではなく、ショスタコーヴィチと《囚われ人の歌》には「反-イデオロギー」という点で共通点をある、と言えるのですが。

 さて、ここまでダッラピッコラという作曲家をまるで「イタリアの現代音楽界の最も重要な人物である」かのように語ってまいりましたが、音楽をめぐる様々な批評的文章を顧みますと「現代イタリア音楽の盲点」の一つというのが実際のところではないでしょうか。1950年のダルムシュタット夏季現代音楽講習会において、カールハインツ・シュトックハウゼン、ピエール・ブーレーズらと共に第二次世界大戦以降の楽壇のスター的存在に躍り出たルイジ・ノーノや、多彩な音楽語法と斬新な視点によってトータル・セリエリスムとは一風違った位置を確立したルチアーノ・ベリオと比べてしまうと、2人の一世代前に生まれたダッラピッコラはいかんせん地味な存在です。同時代人であるジャチント・シェルシでさえもスペクトル楽派の先駆者として語られることが多いというのに!



ダッラピッコラ:パガニーニ奇想曲によるソナティナ・カノニカ
ブロッセダ
アイヴィー (2005/11/01)
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 反ムッソリーニの「問題作」である歌劇《囚われ人の歌》が素晴らしい作品であることは私も感じるところです(それとその後に書かれた《囚われ人》という作品も素晴らしい。12音音楽とグレゴリオ聖歌の融合が試みられています)。しかし、誤解して欲しくないのは、彼が生涯を通じてそのように「スキャンダラスな作品」を書いていたわけではない、ということ――この点がダッラピッコラの「地味さ」の要因でもあるのです。

 ナクソスから発売されている彼の「ヴァイオリンとピアノ&ピアノのための作品全集」を聴いてみると、ダッラピッコラが実に「美しい作品を書く実直な作曲家」であったということがわかります(それが地味に捉えられてしまうのは、モダニティの宿命、といったところでしょうか)。特に聴いて欲しいのは《アンナリベラの音楽帳》(1952年)という作品。B♭-A-C-B(B-A-C-H)というバッハのイニシャルをモチーフとして使用した「シンボル」から始まるこの作品は、厳格な書法をもって様々に変奏されてゆきます。一つ一つは短く、音数もそれほど多くないところに抑制された美しさがあり、生まれる響きは非常に独特である。そこにはヴェーベルンの影響を感じさせながらも、《フーガの技法》の20世紀的変奏という代名詞が浮かんでくる名作だと思います。バッハへのオマージュを含む作品は数あれど、そのなかでも素晴らしい部類に入る。

 また《インニ》(1935年)というピアノ作品も興味深い。ベースラインの動きや厳格な対位法も素晴らしいのですが、やはりここにもヴェーベルンの影を非常に強く感じます。《インニ》は3楽章構成の作品ですが、この曲の第3楽章で聴くことの出来る「小さなモチーフ」の変奏と対位法には「樹の枝状の発展形式」がみえる。響きは協和的で、坂本龍一がパクっててもおかしくない感じ。

 「ダッラピッコラは、もっと聴かれるべき!」と大声で言いたいがためにエントリーを書きました。




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シャイーと(マーラーの)シューマン

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シューマン(マーラー編):交響曲第2番&第4番
シャイー
ユニバーサルクラシック (2007/03/21)



 リッカルド・シャイーとゲヴァントハウス管弦楽団のシューマンの交響曲第2番と第4番。「シューマンを演奏することにおいて、指揮者はそれぞれのエディションを持たなくてはいけない」という言葉を残したのはフルトヴェングラーでしたが、これは彼が「シューマンのオーケストレーションのヘタさ」を指揮者が上手いこと解決しなくてはいけない、ということを指示したもの。その言葉が影響しているかどうかは分からないけれど、以前にもコンセルトヘボウ管でシューマンの交響曲全集を完成させているシャイーが今回選んだのはマーラーの編曲版です。原点版での演奏では近年、ダニエル・バレンボイムの全集が素晴らしい出来でしたが、それと比較すると細部の音形などに違いが見られる模様(でも響きの違いとかは私にはよくわからない)。


 さて、版の問題というオタクだけが喜びそうな薀蓄ではなく演奏の話に移ろうかと思うのですが、これが素晴らしい。普段は過去の名盤なんかを適当に買い集めているけれども、このように年に何枚かは食指が動く「新譜」が出てきてくれることはとても嬉しいことです。シャイーの選択するテンポは速めですが、それがすっきりとした音楽の見通しの良さを生み出しており(また、各楽器のヴォリューム・バランスもすごく『適度』)、金管楽器のフォルテッシモも音色が透き通っていて美しく好印象。


 今後、マーラーの編曲版での全集をシャイーが完成させるとするならば、期待が持てると思います。楽しみです。どうでも良いんですけど、シューマンのCDっていつのまにか増えてるんだよな……(特に好きなわけでもないのに)。





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あらゆるところに戦争が……

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グラモフォン・フィルム・タイプライター〈下〉
フリードリヒ キットラー Friedrich Kittler 石光 泰夫 石光 輝子
筑摩書房
売り上げランキング: 27636



 「なんだかわかんねー……、けど刺激的だし、面白い……(とにかく読ませる力だけは異常にある)」という感じが変わらないまま下巻も読み終えてしまった。ラカンの入門書を一冊読んでみようかなと思ったりもするのだけれど、この本の中で用いられているラカンの用語に関してはしっかりフォローがされているため、読むに当たって特別な支障はなかったように思われる。



アタリのゲームの操縦桿は子供たちを文盲にするだけなのに、そんなことはお構いなしに、レーガン大統領はこのゲームを推奨する。なぜならそれは未来の爆撃パイロットの練習場になるからだ。



 無理矢理アドルノを読むようにこの本を読んでしまおうとするなら、このような一発で痺れてしまう言葉が収められた本書は「メディア・テクノロジー」と「戦争」を布置することによって「技術に支配される人間の歴史」を描こうとしたものだったのではないだろうか。その辺の感じはまるでホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法―哲学的断想』と通ずるところがあるかもしれない。ただ、本書の中でアドルノとホルクハイマーの名前が出てくるのは僅かに一箇所だけなので、別にキットラーがそのように意識して書いた、っつーわけではないのだが(ベンヤミンは頻出する)。


 グラモフォン、フィルム、タイプライター。キットラーに言わせればあらゆるメディア・テクノロジーが戦争(状況、あるいは戦争で用いられる技術もそこには含まれる)との密接な関連を持って進化を遂げてきた。しかし、あえて強調しておきたいのはそれらの「歴史」がキットラーの手によって構成される虚構であることである。


 歴史を記録すること、その機能をも我々は現在テクノロジーの多大な恩恵に負っている。しかし、その記録から(膨大なデータ)を掘り起こして語り出すのは我々の仕事である。そこにつきまとう「虚構性」を、キットラーの天才的な(難解な)テキストがあえて纏うことによって、我々は歴史をそのようにしてしか語ることはできないことも同時に暴き立てているように思う。



私が社会史家的な挙措で行っているのは、虚構を社会現実のなかへと移植して、教養のない大学生たちでも誰にでも、事情が呑み込めるようにすることなのです。しかしまた、それで私はエリートたちを廃棄して、彼らの代わりに社会的なものからなる日常性といったものを導入しようとしているのでもない。むしろ第一に肝腎なのは、<虚構>という概念の心地よさを掻き乱すことなのです。



 「こんなものは妄言だ」とキットラーのテキストを笑い飛ばすことは簡単だけれども、その行為はまるで「虚構の心地良さ」にどっぷり浸かっていることを示しているような気がする。キットラーが描く「ぞっとするような歴史」を読んで「ぞっとしてしまう」、そういうリアルな感覚は正しい。




 私個人の関心領域の話をすると、本書を読みながらますます「アドルノの愚直さ」のようなものに触れた気がする。アドルノがその音楽評論において達成しようとしたものは、おそらく文章によって(本書に登場するラカンの表現を用いるならば)「リアルなもの」を表現しきってしまうことだった、と私は解釈している。もちろん、言語化不可能な存在をアドルノは「浮動的なもの」と表現しているんだけれど、それはどうやったって文章化した際にサンボリックなもの(これもラカン。物質性を帯び、かつ技術的に処理されうる言語記号)に置き換わってしまうからそれを表現し切ることは不可能なことなんだけれど(それはアドルノ自身にも重々理解できていたはずである)、あえてアドルノという人物は取り組んでいる。私はそこに感じる愚直さ、というかロマン主義に惹かれるわけだけれども。



何枚も複製されるときにはじめて紙と身体が分断されるのではなく、すでに最初からしてその分断が起きてしまう書字。



 とキットラーはタイプライターの誕生による「書く行為」と我々の「身体性」(人の声のような固有性)の分割を指摘しているんだけれども、これは活字の印刷物が「固有名を欠いた無名性」のなかに落とし込まれる、というだけではなくそれによってアドルノが尊重しようとした「浮動的なもの」の存在も必然的に切り落としてしまうようにもなんとなく感じられるのだ。


 そもそもテクノロジーの発展(ラジオやレコードの普及)によって、批評を通過しなくとも音楽が我々の生活へと送り届けられることが可能になっていることが本書で指摘されてしまうと、20世紀にアドルノが行っていた「書く」という行為の無意味さのようなものが浮かび上がるような気がした。


 ちなみにアドルノ自身は手書きにこだわっていた訳ではなく、奥さんに口述筆記をしてもらって原稿を書いていたそうだが(それとは他に膨大な手書きのノートが存在している)。





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カラヤンのベートーヴェンを一挙にどうぞ

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 Youtube眺めてたらカラヤン/ベルリン・フィルのベートーヴェンが全部挙がっていたのを見つけたので、消されないうちに保存するなり、鑑賞するなりしたら良いと思います。



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 第9番《合唱付》の1楽章、冒頭からのアクセル全開感がカッコ良すぎて鳥肌が立ちました。いきなりフルで弦楽器が頭蓋骨まで鳴りまくっている感じに度肝を抜かれる。侮っていたよ、全盛期のベルリン・フィルの実力とカラヤンを……。最初のインパクトだけで全部聴かせちゃうような反則技だ。いきなり危険な角度でバックドロップ入れられた気分。





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何故か第4番しばり

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のだめカンタービレ #17 (17)
二ノ宮 知子
講談社
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 今回は冒頭からカール・ニールセンの交響曲第4番《不滅》とちょっとマニアックな曲から。ティンパニを2セット用いてクライマックスでは2人のティンパニ奏者がドカスカ叩きまくる非常にカッコ良い曲です。このデンマークの作曲家は他にも交響曲第5番などで延々とスネアドラムがアドリブ・ソロを繰り広げるミルフォード・グレイブスもビックリな曲を書いていて大変面白い人であります。今調べて知ったけれど、フィンランドのジャン・シベリウスと同じ年に生まれているそうな。千秋とマルレオケが何故このようなプログラムを組んだかは謎。予算が無いオケが大体、常時ティンパニ2セットなんて所有しているんでしょうか。



ニールセン:交響曲全集
サンフランシスコ交響楽団 ニールセン ブロムシュテット(ヘルベルト)
ユニバーサルクラシック (1996/03/01)
売り上げランキング: 501



 演奏はヘルベルト・ブロムシュテット/サンフランシスコ交響楽団の演奏がよく出来ています(↑は交響曲全集)。たしか第3番も冒頭からパーカッションガン鳴らしのアホみたいな爆音から始まった気がするんですが、ニールセンって相当パーカッションに愛着があったんでしょうか。ただ、派手なところと地味なところの寒暖の差が非常に激しく「よくわからないなー」と思っているうちに「なんか派手なのきたー!」と盛り上がって終わるのが、なんともつかみ所がない。その辺はシベリウスも似ている気がするけれども。


 第17巻で千秋が指揮するもう一つの交響曲がベートーヴェンの第4番。何故か第4番にこだわった選曲。重くるしいアダージョから、疾走するようなアレグロ・ヴィヴァーチェへと繋がる第1楽章でなんと千秋の頭からスコアがすっぽり抜けてしまう……というアクシデントが発生するんですが、作品を聴いてみれば「そういう事故も起こりかねないな……」ということが分かるはず。



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 演奏はカルロス・クライバーのもの(再掲)。千秋のイメージとは全く正反対のところにカルロス・クライバーがいるような気がするのに両方とも「父親が偉大な演奏家である」という共通点があることに経った今気がつきました。いやー、しかしほんとにクライバーは良いなぁ。何度観ても素晴らしい指揮姿。



ベートーヴェン:交響曲第2番&第4番
クレンペラー(オットー) フィルハーモニア管弦楽団 ベートーヴェン
東芝EMI (2004/12/08)
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 とか言いつつも私が個人的にオススメしたいのは、オットー・クレンペラーの重くてネットリした演奏です。千秋のような指揮者は本当にこういう演奏をしそう。



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 カラヤンの映像も出てきた。笑っちゃうぐらいの先振り(オーケストラの指揮者は通常、演奏されているよりもほんの少し前に振って指示を出しておくわけです。音楽と一体となって踊っている人ではないのです)。指揮者の打点が出てからこんなに遅く音が出てる瞬間の映像は初めて観た。こういうのも素晴らしい名人芸の一つだなぁ。





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本当は怖いiPod

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この前、飯食っていたら、食べる所作が悪かったのはともかくポータブルプレーヤーの大音量を聞きながら食べている男がいて、かなり唖然。その音量が非常に迷惑だから大変でした。あれは何のための行動なのか、未だに理解出来ません。自分だけの世界に浸りたいのか何なのか。


疎外 - Any given sunday


 id:encyclopectorさんの日記を読んでハッとしたのだけれども「iPod*1」っていう商品名自体に、そもそも「公共空間で自分の世界に引きこもるための道具」としての意味が込められてたんじゃなかろうか。あの白いイヤホンコードを耳からぶらさげて街を闊歩する人々は実は社会から疎外されているのである。そのようにしてやってくるのはコミュニケーションの死であり、公共性の廃墟であろう。


 「あらゆる場所で、好きな音楽を聴きまくる」。利便性とオシャレ性を大々的に謳いあげ商品を売りつけようとするスティーヴ・ジョブズは実に功名に孤独な群衆(リースマン)を生産することに成功している。病理のように蔓延する疎外の危険性に――そしてコミュニティを分断することによって、社会的な混乱を招こうとする陰謀の存在に――我々はもっと早く気付くべきだった。



もしかしたら近い将来、ニューヨークでiPodを聞きながら、あるいは携帯電話で話しながら、道を渡ると100ドル(約12000円)の罰金を課せられることになるかもしれない。


404エラー|Ameba(アメーバブログ)



 ニューヨーク州上院議員、カール・クルーガー氏によってなされたこの提案は市民の主体的で幸福な生活をテクノロジーによる侵略から守るものとして評価されて良い。日本も早く白いイヤホンコードぶらさげて歩いてる人間をバンバン逮捕できる法律を作るべき!あるいはAKGのフルオープン式ヘッドフォンを使用すべき!!







*1:podには蚕の繭とかエンドウマメのさやという意味がある





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ピンチョン的世界観に基づくメディア史

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グラモフォン・フィルム・タイプライター〈上〉
フリードリヒ・キットラー Friedrich Kittler 石光泰夫 石光輝子
筑摩書房
売り上げランキング: 16216



 フッサールを投げ出した後に読み始めた本。ドイツのメディア論者、フリードリッヒ・キットラーの代表作。あまりにおもしろくて上巻を一気に読む。


 冒頭からトマス・ピンチョンの引用。もうその次点で「ただものではないな……これ」とビンビンに伝わってくるんだけど、その後に続くのも極めてフィクショナルにメディア・テクノロジー史の流れをまとめあげる強烈な言説。ビートルズ、ジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイドが混入したり、バロウズやよくわからん小説が引用されていたり……ととにかくサイケデリアを感じてしまうほどにぶっ飛んだ語り口で、言っていることがよくわからないのが難点なんだけれど、異様にテンションが上がる変な読書感を味わう。録音・録画テクノロジーの発展が戦争の歴史とシンクロしていくところなどは無茶苦茶カッコ良いです。こんな風に歴史を語ることができたら、ほんとに素晴らしい、と思う。


 ヘタな小説よりずっと面白いので、ピンチョン愛好者の皆様方には自信を持ってオススメします。こんな頭がおかしい本が文庫になって読める、って世の中狂ってきてるよ!


 キットラー読みながら、アドルノについても少し考えをめぐらしたのだけれど、それについては下巻を読み終えたときに書きます。



1923年にはモホリ=ナギが、「再生する楽器であるグラモフォンから再生ではなく創造する楽器をつくること、そしてあらかじめ吹き込むべき音響なしにいきなり必要な溝をそこに掘り込み、そのレコード盤上で音響という現象じたいを発生させるようにすること」を提案している。



 あとこの記述には結構ビックリした。1923年で「現実にはどこにも存在しない音をグラモフォンを使用して発生させてしまえ!」という発想が早すぎる。モホリ=ナギ、すげぇ。ピエール・シェフェールやカールハインツ・シュトックハウゼンより30年以上早く「新しい音」を夢想しているところとか、たぶんそこには未来派的な誇大妄想感があったりしたんだろうな、とかに燃える。





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酔っ払いが楽器を持って公園に集まるとどうなるか

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 ワイン一本、ウォッカ一本空けたのち、楽器を持って公園に繰り出した記録です(録音はテレコによるもの)。ヴォーカルを担当している人物は、-W-(ワイキキチャンピオンズ)というとてもカッコ良いバンドをやっています。メルツバウの仙台公演のオープニングアクトをつとめるほど結構スゴい人なので、このようなセッションの機会を得られたことを名誉に思います。


 何度か聴き直してみて思うのは、自分がやりたい音楽ってこういうすごくメチャクチャでかつ肉体的な音楽なんだろーな、ということ。別にミュージシャンを目指しているわけではないんだけども。ろくでもないけど、すごく良いな、これ(自画自賛だ)。





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なんとなく現象学の挫折

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デカルト的省察
デカルト的省察
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フッサール 浜渦 辰二
岩波書店
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 「なんとなく現象学」とフッサールを読み始めたのだが、頑張っても全然読めなくて、というかさっぱり言っていることがわからなくて、それはデカルトをそもそも読んでいないせいなのかもしれないし、寝床の中やビール片手に……というだらしない感じで読んでいたせいかもしれないんだけれど、とにかく嫌になったので放棄!誰か、フッサールがよく分かる本があったら教えてください。あと、この本の冒頭でも「哲学が厳密なる学問になるために我々は現象学的な方法で哲学しなくてはいけないのであーる」みたいなこといってた(と思うん)けど、そんな風に考えなくちゃいけなかった時代背景ってなんだったのかなー、とか思った。なんらかの学問的危機とかあったんすか?


 こういう本が面白く感じなくなっている、っていうのは、むしろ自分にとってこういう哲学が必要なくなってんじゃねーか、とすら思う。あとやっぱり「なんとなく」じゃダメだ!





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東北から21世紀の神話が生まれる……かもしれない

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 古川日出男の公式サイトが公開されていた。



二〇〇五年の夏から巨大な作品に取り組んでいます。この年の秋に半月をかけての東北六県ループ状取材を敢行、十二月より起筆。すでにさまざまな挿話が集英社の複数の媒体に発表ずみです。ただし、挿話はそれぞれ単独の小説として機能・成立するように操作されています。


すべての挿話がまとまり、一冊の書籍として刊行されるのは、二〇〇八年の晩夏あるいは初秋です。


書名は『聖家族』となります。


これは僕のデビューからの十年間のビブリオグラフィ(著書目録)において、確実に最大規模の作品として登場するはずです。最大、とは、枚数の面でもそうだし、内容でもそうです。いったい小説において“スケール”とは何か――ということを、正面から己れに問いかけてもいます。



 日記より引用。『聖家族』に収められる予定の『狗塚らいてうによる「おばあちゃんの歴史」』だけは読んでいたけれど、これがとんでもなく面白かったので(私は東北出身なので、東北が舞台となる物語に付加価値を感じていたせいもあるけれど)、2008年に本ができあがるのがとても楽しみ。出たら一気に読んでしまうだろう、たぶん。ガルシア・マルケス、中上健次に匹敵する巨大な「物語性」を持ったものになるんじゃなかろーか。ローカルかつグローバル、リニアかつノンリニアみたいな両義性を持ちつつような。久々にすげぇ興奮したっす。





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理想の消滅

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失われた時を求めて 11 第六篇 完訳版 (11)
マルセル・プルースト 鈴木道彦
集英社
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 以下、ものすごくネタバレします。




 「囚われの女」から「逃げ去る女」へ。11巻は、10巻の最後で物語の語り手である「私」の下からアルベルチーヌ(『私』のフィアンセ)が出奔してしまうところの続きから。アルベルチーヌに取り残された私の苦悩、というのがこの巻の主要部分となっているんだけれど、とにかく「私」の粘着っぷりと優柔不断っぷりと本心の出さなさが煮え切らない。いなくなって初めて「私」は「うっわ、俺、アルベルチーヌのこと愛してたじゃんか!」とうろたえるんだけど(ありがち)、アルベルチーヌに直接そんなメッセージを出しても煙に巻かれるだろうから、とすごく遠まわしな手紙を送ったり、交渉役を間に立ててみたり……ととにかくダメな感じで、読んでて「しゃんとしろ!」と言いたくなる感じだ。


 結局、最後には直接的に「戻ってきてください」と手紙を出すんだけど、返事が来なくて代りにアルベルチーヌが馬から落ちて死にました、という電報が来るあたりの悲劇的な感じ(しかもその後に彼女からも『戻ってもいいですか』と手紙が遅れて届くんだよ!)、そこがなんとも普通なら涙を誘うんだけど「私」がダメ男過ぎて全然グッと来ない。むしろ、その後発揮される「私」のさらに強烈な粘着っぷりが面白かったです。フィアンセの死後に「離れていた間、彼女は何をしていたか。他の人間と肉体関係を持ったか」を調べてみたりと尋常じゃない。で、出てくる結果は全部すごくショッキングなものばっかりだったりして……ね(でも、『私』は追求を止めないのである)。こういうのも、ある種の「喪の儀式」なんだろうなとか思ったりした。


 「行ったことがない街」や「会ったことがない女性」に対して勝手に妄想を膨らまして、実際街に行ったり、会ってみたりすると幻滅……という行為を何度も繰り返している「私」なんだけれど、アルベルチーヌが永久に「私」のところへと戻ってこない、という事実を突きつけられた後の葛藤は「理想とする対象の消滅とその後……」みたいな感じで捉えることができるんじゃなかろーか。





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「システムは存在する!」とか言う

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コンピュータシステムの基礎
アイテック情報技術教育研究所
アイテック情報処理技術者教育センター
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 3ヶ月かかって一周目読み終わる。4月から社会システム理論も齧ったことがあるシステム・エンジニア見習いとして働くことになるので、社会システムと情報システムの構造的カップリングを目指そうと思います。嘘だけど。





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カッコ良い特撮主題歌

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Plays Standards
Plays Standards
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Ground Zero
Rer (2002/04/08)
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 id:Dirk_Digglerさんのカッコ良いアニメ主題歌というエントリからインスパイヤを受けて、特撮のカッコ良い主題歌を集めてみました。超メジャーどころでウルトラシリーズ(ウルトラQからウルトラマン80まで)。並べるとちょっと面白いことが分かります。





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 ウルトラQ。サスペンス風サーフ・ミュージック(?)+ジャズ。裏で入るブラスやときどき効果音的に使用されるミュージック・ソー、奇怪にゆらめくフラッター・タンギングのピッコロなどがとてもカッコ良いですね。大友良英のGround Zeroもカヴァーしてます。



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 ウルトラマン。ウルトラQの動画ではカットされていますが、ウルトラQにもオープニングのデカルコマニー風の模様から「ウルトラQ」という文字変化するところがついてきます。この部分、西洋の前衛音楽にもフリー・ジャズにも似ていないようでとてもカッコ良い。そこからブラスのブラストでシンフォニック・ジャズ風になだれ込むのが完璧。ここまでが昨年亡くなった宮内国郎によるものだそうです。



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 ウルトラマンセブン。ここからは音楽の担当が冬木透という人に変わっています。「カーン!」という打楽器*1から始まるところは前作踏襲しつつ、その後はリムスキー=コルサコフの《シェヘラザード》を想起させるシンフォニックな感じになります。まるで交響詩のようだ。ちなみにセブンまでが「第一期ウルトラシリーズ」だそうです。



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 帰ってきたウルトラマン(再放送で見ていた記憶があるんだけど、こんなあっさりはじまるんだっけなぁ……)。劇中歌はセブンに引き続き冬木透ですが、主題歌はすぎやまこういちです。東大卒らしく、非常にシンプルなつくりになっている。イントロ終わりでリズムが裏に入れ替わるところなどは模範的ですね。



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 ウルトラマンA。ミステリアスなタイトル表示がカムバック。チェレスタの音が不穏な空気を呼び込みながらメジャーの金管で解決……しかしその後は劇的に歌謡曲っぽくなります。ハニー・ナイツのハーモニーは素晴らしいのですが……。



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 ウルトラマンタロウ。ウルトラ7兄弟(血縁関係なし)で6番目に出てきたので「ウルトラマンNo.6」ってシャウトされてますが、これ「プリズナーNo.6」と関係があったりするんでしょうか。もうこの辺から主題歌は○○+なんとか少年合唱団という流れがでてきちゃってますが、シンセ使いが斬新。未来って感じで良いですね。



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 ウルトラマンレオ。ここまでが「第二期ウルトラシリーズ」と呼ばれているそうですが、「第二期」の主題歌では一番好き。タロウからシンセ使いが進化しており、キース・エマーソンも真っ青。合いの手までシンセ・サウンドです。



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 ウルトラマン80。この前にアニメ作品があって、80と二つで「第三期ウルトラシリーズ」だそうです。いきなりモダーンな感じになって面白みがありません。最後の最後でいきなり入るコーラス(アーっていうやつ)がイエスっぽいけど。タイアップとか関係あるんですかね。


 で、少しまとめておくとウルトラシリーズのオープニングはほぼ全ての作品が「ミステリアスなタイトル表示→金管による主題歌のテーマ部分の演奏→主題歌」という一連の流れでできている、ということがわかります。ウルトラマンタロウには金管がありませんが、テーマ部分がわざわざ二度提示されていることから、一度目の演奏がテーマの提示部であり(一瞬ではあるのですが)、二度目からは展開部ですよ、ということを示しているのかもしれません。どこが再現部か全く分かりませんが、擬似的なソナタ形式としてオープニングが構成されているのです――すげぇ適当に言ってるけど(これエンディングに再現部があったらすごいな)。




*1:詳細不明。北島三郎「与作」で使用されているビブラスラップに聴こえなくもない





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追記

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 よく考えてたら「ブログなどを見ておりますと,女性は普通にセックスネタを書くことが多いと思うのです.でも,男でセックスネタを日常的な感じで書いている人ってほとんどいないと思うのですよね」というそもそもの印象が、正しいものなのかを立証するための統計的な調査が必要だと思った。んだけど、統計学的な手法は全部忘れてしまったのでそういうのはパオロ・マッツァリーノ先生あたりがやってくれると助かります(こんなブログ読んでないと思うけど)。




 読み直したらなんか大学のレポートみたいなエントリですね。ひさしぶりに社会学っぽい。



インターネットの心理学
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NTT出版
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自己への物語論的接近―家族療法から社会学へ
浅野 智彦
勁草書房
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 あと関連書籍の紹介。『インターネットの心理学』は結構前に売っちゃったから手元にない。ジェンダー関連はほとんど本を読んだことないのでわかりません(そんな状態で迂闊にジェンダーとか言ってるとなんかぶっ殺されそうな気がする)。





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