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武満徹はなぜ特別なのか?#1(音楽編)




武満徹―その音楽地図 PHP新書 (339)
小沼 純一
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 「日本の作曲家」と言われて、多くの人の頭に持ち上がってくる人物の名は「武満徹」という名前だと思う。これはたぶん世界的に考えても「日本の作曲家=タケミツ」という図式は定着してしまっている。西洋音楽が日本でも試みられたのは明治に入ってから……という歴史の浅さもあるけれど、このように「国を代表する作曲家」がバリバリの現代音楽の人だというのは他にあまり例がないような気がする(他に韓国のユン・イサンがいるか)。昨年はこの作曲家の死後10年だったため様々な本が刊行されたり、イベントが催されていたけれど、今年が黛敏郎の死後10年なのに全くそういう話を聞かないままもう終わりにさしかかっている……というのもやはり武満の特別さを物語っている。そういえば、タケミツメモリアルというコンサートホールはあるのに、マユズミメモリアル、ダンメモリアル、ヤマダメモリアル、イフクベメモリアル、マツダイラメモリアル……は存在しない(代わりにカラヤン広場やカザルスホールはある)。


 しかし、なぜこのように武満徹は特別なのだろうか――というかなぜ武満「だけが」特別なのか?ちょっとこのことについて考えてみたい。まず、彼の特別さの謎を解くキーワードとして「音楽」と「言葉」という2つのものがあげられるように思う。


 ひとつめの「音楽」について(作曲家なのでこれを取り上げなければ、そもそもお話にならないのだが)。ここまでに書いたことと少し矛盾するけれども、1930年生まれの武満は現代音楽の人でありながら「ゲンダイオンガク」の枠組みからは少しズレた作品を書いていた。厳格な調性音楽ではないにせよ、ほとんどドビュッシーやメシアンと聴き間違えそうな和声や旋律の用い方(はっきりとメロディが分かる)は、ブーレーズやシュトックハウゼンに代表される「ゲンダイオンガク」においては見られない。

 また、手法や書法へのこだわりの無さも異例のように思われる。トータル・セリエリスム、トーン・クラスター、微分音、スペクトル解析……20世紀の音楽ではこのように「新しい手法」の開発が相次いだわけであるが、武満の音楽にはこれといってそのような「手法の名前」が見られない(新しい独自の手法を開拓したわけでもない)。これは逆に言えば、武満は常にそのような手法に縛られない自由な書き方で作曲をしていたことになる。もしかしたらこれは彼が専門的な音楽教育を受けていなかった*1ということも関係しているのかもしれない。



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 ストラヴィンスキーに発見され、武満が脚光を浴びるきっかけとなった《弦楽のためのレイクエム》(1957年)より*2。実質的なデビュー作であるこの曲で聴くことの出来る官能的な美しさは、ほとんど後期ロマン派の音楽と通じている。ここには「美しさへの固執」さえ感じられる。



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 初期の作品からもう一曲。ヴァイオリンとピアノのための《妖精の距離》(1951年)という作品(タイトルは瀧口修造の詩からとられている)。色彩的で解決にいたらないピアノの和音に、メシアンの影響を強く感じる(というかこれはほとんど剽窃だ!)。こういうフランス風の美しさを武満は引き継いでいるのだが、それがなぜか「日本的な情緒」へと解釈されたのは幸運だったと思う。



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 最後に、後期のギター曲《すべては薄明のなかで》(1987年)。《弦楽のためのレクイエム》とこの作品の間には、30年のへだたりが存在している。この間に武満は作風を進化させていった、と言われているが根幹にある「美しさへの固執」はゆるぎない。手法にとらわれない/こだわらない自由な書き方(ある意味、素人的な)のなかで唯一武満がこだわっていた点は「美」だったように思われてならない。また、この美しさが武満の特別な人気の要因のひとつであったように思う。



武満徹 : ノヴェンバー・ステップス / ア・ストリング・アラウンド・オータム / 弦楽のためのレクエイム 他
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*1:このような不遇のエピソードが武満伝説を形成している


*2:この映像で指揮を振ってる人、知り合いの指揮者そっくりでびっくりした





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